マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

新型コロナウイルスの引き起こす肺炎と闘う

2020年02月23日 | サ行
     新型コロナウイルスの引き起こす肺炎と闘う

 大袈裟な題を付けて済みません。しかし、もう既に一ヶ月以上、世界中が大騒ぎをしているのに、やれマスクだ、やれ手洗いだと、管見によればあまり効果の無い、で悪ければ、根本的でない対策ばかりで、本当の対策が出てこないようですので、素人の蛮勇を振るって、対案を提示する次第です。

 何のことはない、既に私は「健康法(改訂版)」(2019年08月22日)を発表して、その中に書いてあります。これは、私にとっては、実証済みの有効な方法です。

 そもそも病気は本人の生命力(抵抗力、免疫力)と病原菌の強さとの力関係で起きます。後者は常に我々の周りに存在しています。もちろん季節とかその他の条件によって、どれくらいの濃度でその病原菌がウロツイテいるかは変わるでしょう。他方、本人の生命力も、過労で疲れている時は下がるでしょうし、適切な生活をし、まともな食事を取っていれば、その人の最高の状態であるでしょう。

 自分で左右できるのは後者だけです。従って、自分の体の持っている生命力を最高の状態に高める努力をするのが賢明な態度だと思います。その方法や如何に。
 答え──1に温冷浴(交代浴)、2に乾布摩擦、だと思います。私はこれしかしていません。

 温冷浴については、上記のブログに書きましたので、お読みください。

 今回は、乾布摩擦について、その具体的なやり方を書きます。私のしているやり方です。「これが正しいやり方だ」などと言うつもりはありません。ただ、ネットで調べてみた所、あまり親切ではないな、と思いましたので、私のやり方を、恥ずかしながら、お知らせする次第です。

 いつするか──寝床に入る直前と起床する直前、1日2回です。毎日です。

 格好と姿勢──冬は裸でするのは寒いので、下半身をパジャマ姿の時に、つまりパジャマ姿の下半身を布団の中に入れた状態で、上半身だけを起こして摩擦します。(春でも夏でも秋でも同じです)

 道具──長めのタオルだけです。日本手拭いはたたんだ時の容量(体積)が頼りない感じがします。

 する事と順序──タオルを2回折り畳んで両手で持ちます。

 ➀ 先ず胸を円を描くように摩擦します。⒑回です。
 ② 左腕を上の方から手先まで摩擦します。腕は円筒形ですから、半円ずつ5回ずつ、こすります。
 ③ 同じ事を右腕について行います。
 ④ タオルの1つの隅をつかんで、残りを大きく振りますと、タオルが開きます。反対の手で、もう1つの対角線上の反対にある隅をつかみます。当のタオルを最も長く使うためです。
 このようにして、タオルを背中に回して、背中を摩擦します。首から腰までです。タオルをたすき掛けにしたり、真横にしたり、あるいは垂直にして背中のへこんだ部分を縦にこすったりします(この時は背中を少し丸めます)。1つの動作は3回くらいにします。
 ⑤ 最後に又胸を少しこすってから終わりにします。

 どうですか? 大した事ないでしょう。でもこれと温冷浴で風邪もインフルもほぼ防いでいます。大した事ないからこそ、続くのだと思います。摩擦する強さとか、手を動かす速さとかは、毎日やっている中で自分に合った答えを出してください。
 大切な事は、とにかく、「毎日やること」です。みなさんの成功を祈ります。

 付記1・アマゾンで見たら、「乾布摩擦用のタオル」なんて物も売っているようです。でも、自宅にある「長めのタオル」で十分だと思います。

 付記2・子供さんに乾布摩擦をしてあげるのは、親子の会話にもなって、効果バツグンです。胸と背中だけでいいと思います。それぞれ20回ほどすれば十分です。風邪を引く頻度が下がる事、保障してもいいです。

 付記3・温冷浴と乾布摩擦に次ぐ第3の方法としては、座禅があります。座禅は本当に好い方法だと思います。手先が冷たくなったとき、座禅をしたら、指先まで血が巡ってきて寒く感じなくなった経験もしています。
 しかし、座禅は続けにくいです。時間も取ります。私のような意思薄弱な者には向きません。刑務所に入ったらこれしかする事がないかな。
 もっとも、クルーズ船に客を閉じ込めたような場合には、禅僧の方でも頼んで、あるいは少し経験のある参加者をリーダーにして、こういう「行事」を企画してあげるのが主催者の義務だと思います。

 

 

『マオ』を読む

2020年02月20日 | マ行
 「マオ」を読む

 ユン・チアンさんとその連れ合いらしいジョン・ハリディさんの共著『マオ』(土屋京子訳、講談社、上下)が出て、大きな反響を呼び起こしているようです。

 私もかつて毛沢東を信奉していた時期のある者として、これについて何も言わないわけにはいかないと思います。

 もちろん、毛沢東の宣伝のうまさとそれによる神話の虚偽性を指摘するならば、逆に本書の信憑性についても少しは疑ってかかる必要はあるでしょう。実際、たんなるプロハガンダだと言っている人もいるようです。しかし、私にはそうは思えません。

 本書を読んでの第1の感想は、一体何を信じたらいいのか、という絶望に近い気持ちです。「実践によって証明された」などという言い方も考え方も正しくないことは、既に私も指摘していることです。

 最近も『99パーセントは仮説』と言った本も出ているようです。

 しかし、生きている以上、何らかの情報を真として何らかの考えに基づいて行動していかなければならないのです。どうしたらいいのか、それが問題です。

 そこで第2に考えた事は、やはり、説明責任を果たしていない人なり事柄は、している事自体がどんなに正しいように見えても、まず信用してはならない、ということです。公生活では「有言実行」しか認められないと思います。

 日本では伝統的に「不言実行」の徳が認められてきましたが、政治家でも大学教員でも、その他のいかなる公人でも、今後はそのような態度は「徳」とは認められないと思います。まして何でも発表できるインターネット時代です。

 漱石の『三四郎』には「偉大な暗闇」とあだなされる広田先生が出てきます。これにはモデルがいるという説もありますし、高橋秀夫さんは『偉大な暗闇』(講談社文芸文庫)という立派な評論を書いています。

 そこで「偉大な暗闇」とは、何も著作を著(あらわ)していないから頭の中に何が詰まっているか分からない(暗闇)が、素晴らしい学問が詰まっているはず(偉大な暗闇)だという意味のようです。

 しかし、これはカントの物自体に対するヘーゲルの批判を知っていれば間違いだと分かります。カントは「現象していない物自体とはどんな物か分からない」としましたが、ヘーゲルは「現象の総体の中に物自体が出ているのだ」としました。出てこなかったものは無かったのです。つまり、暗闇は偉大ではありえないのです。

 分かりやすい譬えを挙げるならば、試合で負けたスポーツ選手について、「彼は本当は実力があるのだ」と言ってみても、何の意味もないのと同じです。

 私もこの歳まで生きてきて、自分についても知人についても人生の総決算というものを考えます。そして、実績が全てということを考えます。「本当は~だったんだ」といった言い訳は成り立たないのです。

 随分長く論じましたが、最近、大学教員の発言を検討する際、大学のホームページでのその人の頁を確かめるようにしています。研究業績、授業実績、社会活動等についてどれだけ十分な説明をしているかを見るのです。すると、ほとんどの方が説明責任を十分には果たしていないことが分かります。

 第2に、それは又、反対意見を認めず弾圧する人や運動は認められないということでもあると思います。私はかつてキューバに期待する気持ちを表明しましたが、そしてその気持ちは今でも変わりませんが、キューバなりカストロのやり方でどうしても理解できない点、納得できない点は、政治犯がいるということであり、キューバには言論の自由がない(らしい)ということです。

 自分のしている事が正しいと思っているならば、どうして自由な批判を認めないのでしょうか。

 第3に、これと関連して、批判に対して答えないのも「原則として」間違っていると思います。批判には答えるに値しないものもありますが、学問的な批判には答えるべきだと思います。それが本人の成長につながりもします。

 最近というよりは少し前からですか、立花隆さんに対しては多くのしっかりした批判があるのに、立花さんは全然答えていないようです。これで支持者を失った面もあるようですが、全体としては、ジャーナリズムで今でも生きています。こういう人を生かしておくジャーナリズムも問題だと思います。

 長谷川宏さんのヘーゲルの翻訳は私も批判していますが、他の多くの研究者も批判しています。それなのに、長谷川さんは答えていません。その訳書のまえがきの中で「注解を書きたい誘惑に駆られたが、訳文そのものだけで説明するのが本当の翻訳だと考えて注解を付けなかった」という趣旨のことを述べています。批判に答えないのは、翻訳そのものが反批判になっているとでも言うのでしょうか。

 NHKのラジオドイツ語講座の講師たちも批判に対して答えない人が多いです。こういうのを見ていると、小泉首相や私の所属する静岡県や浜松市の知事や市長のように、はぐらかし回答でも回答するだけましかな、とさえ思えてきます。

 最後にもう一点。「諸君」の6月号では「マオ」などを題材として座談会をしています。その中で中西輝政京都大学教授の次の言葉が気になりました。

 「理想が論理として間違っていなくても、現実に適用したところでとんでもないことになったら、その理想は間違いだったと烙印を押さなくてはいけない」

 氏にはかつてスノーの「中国の赤い星」にいかれたり、石坂洋次郎の「青い山脈」に共感したりした1時期があったそうですが(私も同じ)、こういった「現実」を知って、その「理想」自身をも疑うようになったのでしょう。

 「理想はそうだが現実はそうはいかない」という「理論」はよく聞きます。私は以前から「この考えは間違っている」と思ってきました。現実と合わない理想がどうして「論理として間違っていない」と言えるのでしょうか。

 私は、現実と合わない理想や理論は「理論として間違っているはずだ」と思います。逆に言うならば、自己を実現する力を持っている理論だけが本当に「正しい理論」なのだと思います。

 中西さんたちは、共産主義憎しの感情ばかりで、それを「理論的に」検討してそれの間違いを明らかにしようとしていないようです。これでは学者失格だと思います。ひどい現実を引き起こした理論の「理論的な間違い」を明らかにすることは学者の大切な仕事だと思います。

 この座談会を読んでいて賛成できない点は、共産主義に不賛成は自由ですが、ではこの人達はどういう社会を目指しているのか、それが分からないことでした。

 対案を示さない主張も、自分はどういう社会のために戦っているかを言わない主張もやはり無意味だと思います。(2006年6月22日)

 注・これはかつてブログ『教育の広場』に載せたものです。「終活」の一環として、このブログの記事で価値のあるものをこちらに移して、そのブログを廃止しようと思っています。






お詫びと御礼

2020年02月17日 | タ行
 2009年12月12日付けの記事「pdf鶏鳴双書」の中にある「ゆうちょ銀行の口座番号」が間違っていました。読者からご指摘をいただき、訂正しました。
間違えていた事についてはお詫びいたします。指摘してくださった事に関しては、心よりお礼を申し上げます。
 今後もよろしく御願いします。
2020年2月17日
 牧野 紀之

浜松日本楽器の大争議

2020年02月01日 | ハ行
    浜松日本楽器の大争議

 ① はじめに

 NHKTVの人気番組「ぶらタモリ」で最近、浜松市が2回取り上げられました。1回目は「ウナギの養殖」で、2回目は「楽器製造」でしたが、実質的にはヤマハ(かつての名前は「日本楽器製造」)だけで、河合楽器やローランドは無視されました。
この事は省きます。

 しかし、ヤマハの歴史となると、「ぶらタモリ」で取り上げるのは無理かと思いますが、ともかく1926年の「浜松日本楽器の大争議」について一言触れておかなければならないでしょう。

 ② 朝日新聞の記事、その他

 たまたま朝日新聞の静岡県版では、今年の初め以来、長谷川智(さとし)がその大シリーズである「遠州考」の第19章として「ヤマハのDNA]を連載しています。

 その第3回(1月24日)の冒頭はこう書いています。「1926年、日本楽器製造(現ヤマハ〕2代目社長の天野千代丸の下で起きた労働争議は、空前の事態となった。ストライキは105日間、動員警察官延べ2万人、検挙者620人、社内は社長派と反社長派に分裂、浜松財界は後継社長の擁立に動く。白羽に矢の立ったのは川上嘉一である」、として、川上に話を移してしまいます。

 この争議の詳細は回避したようです。『読める年表・日本史』(自由国民社)にはこう書いてあります。「4月26日、浜松の日本楽器で職工の待遇改善を要求する争議が起こり、評議会が全組織をあげて応援し、105日に及ぶ大争議となった」。

 同年に東京の小石川で起きた共同印刷の大争議は、徳永直が小説『太陽のない街』を著したために広く知られていますが、浜松日本楽器の大争議はあまり知られていません。浜松市民でも、今や、知っている人は少なく成ってきているようです。残念。

 ③ 長谷川保の小説

 私の知っている限りでは、聖隷福祉財団の創立者である長谷川保氏の自伝的小説『夜もひるのように輝く』(講談社)しかありません。該当する部分だけを以下に引きます。

──松の木の土手の向こう側の道を、浜松ではまだ珍しいオープンカーが、白鉢巻きに綾だすき、袴の股(もも)立(だ)ちを高く取って腰に日本刀や木刀をさした多勢の壮士を山盛りに乗せて走り去った。壮士は口々に、大声で何かわめいている。美しい声で囀(さえず)っていた頬白(ほおじろ)が、驚いて飛び去った。恵三〔俊介の友達〕は首をすくめた。

 「いやですねえ。天野社長派の暴力団ですねえ。きのうは、争議団本部に抜刀して暴れ込んだんですってねえ。争議団側は逃げて、けが人はなかったそうですが、障子もテーブルもめちゃくちゃに叩きこわされたって、けさ石津さんが言っていましたよ」

「警察も警察だねえ。天野社長が元警察署長だったといっても、あまりに一方的ですねえ。ストの指導者はつぎつぎと拘禁される。市民に訴える演説会を開けばすぐに中止解散です。昨夜も高町(たかまち)で布施辰治や上村進の演説会があったので、ちょっとのぞいてみたのですが、布施さんがひとこと言ったら臨監の警官がサーベルをガチャリとやって、〝弁士中止!″〝解散!″です。日本楽器の争議ももう三カ月でしょう。争議団の労働者も毎日の暮らしに困って、石鹸や歯磨きを軒ごとに売り歩いていますよ。うちのおふくろも気の毒がって買っていました。労働者側の要求は、昼めし休みを一時間にせよとか、洗面所をつくれとか、八時間労働だとか、当然のことばかりなのにねえ。まあ資本家側としては、浜松で初めての労働争議だった鈴木織機の争議で昨年負けたので、権力と金力の総動員をしてこの争議を圧しつぶそうというわけですね。しかし、このままだとけが人や死人が出ますね。会社側も第二組合をつくり出したようですし、労働者側も大変ですねえ」

 日本力行会で東大新人会の青野作造の影響を受けてきた俊介(著者の長谷川保のこと)が、心配そうに言った。

     日本青年共産同盟

教会を去る
                   
 それから数日たったある夜、袋町の日本美普(みふ)教会に、浜松市内の全キリスト教会の牧師と役員信徒が集まっていた。ますます暴力化してきた日本楽器の争議を見かねて、キリスト教会が連合で調停に立とうというので、連合祈祷会が開かれた。五十人ほど集まった人々の中に、俊介も恵三も相原牧師も腰掛けている。もう三時間ばかり労働争議の本質についての分析が話し合われていた。結論として牧師たちは、労働争議は力で資本家と争って労働者の利益を勝ち取ろうとする原理に立つ、キリスト教は愛の原理に立つのだから、ストはキリスト教の原理に反する、このストはやめるべきだ、というのである。俊介の顔が見る見る真っ赤になり、額に青筋が立った。突然彼は立ち上がると、大喝した。

「なんということを言うか。今回のストライキのきっかけになった労働者の要求に、どんな不当なことがあるのか。あの大きな工場で、昼休みに仕事を終わってほこりだらけの手や顔を洗う洗面所を設けてくれ。そして食堂に来て昼めしを食べて、一服してまた職場まで帰るのに三十分では足りないから、昼休み時間を一時間にしてくれ。また、八時間労働は世界のあらゆる文明国の制度ではないか。さらに、今回の労働者の低賃金はあまりにも低すぎる。このような労働者側の要求は当然であり、これを力をもって弾圧しているのは資本家側ではないか。資本家と、それに結託した警察権力にこそ、キリスト教会は抗議をすべきである。われらの神はエジプトから奴隷を解放した神ではないか。旧約聖書レビ記にあるように、ヨベルの年を制定して五十年目とごとに全奴隷、全人民の自由を回復し、全財産を元の所有者に返還させた神ではないか。また同じく申命記十五章で、七年ごとに貸し金の棒引きを命じ、エゼキエル書においても、〝乏しい者と貧しい者をかすめ、不法に他国人をしたぐる者に憤りの火をもってする″と記している神ではないか。預言者イザヤは言っている。〝わざわいなるかな、不義の判決を下す者、暴虐の宣告を書きしるすもの。彼らは乏しい者の訴えを引き受けず、わが民のうちの貧しい者の権利をはぎ、寡婦(やもめ)の資産を奪い、みなしごのものを掠(かす)める。主の怒りはやまず〃と。また〝働く者に払わざりし値は叫び、その声はわが耳に入れり〃と言い給うた神ではないか。諸君のごとき反動が聖書のどこに書いてあるか。僕は今日限り、このような反動の教会を去る!」

 俊介は足音荒く出て行った。会場は全く白けきってしまった。恵三は青白い顔で、悲しみにうなだれて会場を出た。外は夜霧にかすんで、おぼろ月がにぶい光を投げていた。

共産党員となる

 日本楽器の争議は、労働者側の惨敗に終わった。争議に加わって最後まで第二組合に入らなかったものは、ことごとく馘首(かくしゅ)された。彼らはその日の生活に窮し、夜逃げをする者も出て、悲惨は目も当てられなかった。

 俊介はキリスト教会を去った。まもなく、常盤(ときわ)町にある労働組合評議会の事務所に、彼の顔が見えるようになった。鍋山貞親(なべやまさだちか)や金子堅太が争議後壊滅した浜松地方の労働組合の再建のためにこの事務所に来て努力したが、労働者は再び立ち上がらなかった。

 俊介はこの事務所の中にあった日本青年共産同盟に入って、青年共産党員となった。理論武装をするために、青年党員たちは『共産党宣言』を精読し、レーニンの『帝国主義論』、プハーリンの『唯物史観』、マルクスの『資本論』などの読書会をした。エンゲルスの『キリスト教の起源』は見当違いだと思ったが、ロ-ザ・ルクセンブルグの『獄中記』は婦人共産主義者のしみじみとした人間味で興味深く読ませた。水谷長三郎の『科学的社会主義序論』はわかりやすく、レーニンの『我等何をなすべきか』や福本教授の論文はむずかしかったが精読した。日本楽器の門に立ってビラまきもした。仲間とともに国鉄浜松工場の門に立って、工場に入る労働者にビラを渡して警察官に追われたこともあった。特高警察が絶えず尾行するようになり、高町の青年会誌に書いた文書がひっかかって検挙され、裁判の結果出版法違反で罰金十円に処せられた。

 俊介は日本青年共産同盟の中央常任執行委員として隠れて外出することが多くなった。特高警察は毎日、聖隷社クリーニソグ店を訪問して、彼の行くえを追求した。俊介の母は息子の行動について心配し、青い顔をしておろおろしていたが、俊介にはひとことも言わなかった。俊介はたびたび警察や検事局に拘引されるようになった。
                                               
幹部への疑惑

 このような日が一年ほど続いている間に、俊介の心に疑惑が雲のように拡(ひろ)がっていった。それは共産党の幹部の行動についてである。彼らはときどき鴨江の双葉遊廓に淫売買いに行くのである。革命とは、つまり人間解放ではないか。それなのにこの日本の革命の有力な指導者たち、マルクス=レーニン主義を理論的にも充分に身につけているはずの闘士たちが、婦人の肉体を己が欲情を充たすために金で買う。女性の人格とその肉体の尊厳を守り得ないようなことで、よし暴力革命に成功したとしても、搾取と圧迫のない自由な幸せな理想社会が来るだろうか。社会の組織制度を革命するだけで、人間の利己心の克服ができるだろうか。利己心の克服ができなければ、資本主義の害悪は除いたとしても、また人間を不幸にする新しい罪悪が生じてくるのではないか。マルクス主義の人間観よりも、聖書におけるパウロの二律背反の人間観のほうが深いのではないか。アウグスチヌスやルッター、カルビン、パスカルの人間観のほうが鋭くまた深いのではないか。もし人間観がまちがっていれば、このまちがった認識の上に立ついっさいの理論や行動はまちがうことになる。疑惑はつぎつぎと拡がってゆく。

 十一月のある日、日本青年共産同盟の執行委員たちは、評議会の幹部である共産党員たち三十名ばかりと、佐鳴湖にピクニックに行った。夕方になって、彼らは鹿谷(しかたに)の裏山伝いに腹を減らして歩いていた。柿の実が真っ赤に熟れて、枝もたわわになっている。百姓はいない。一人が柿の実を取って食った。全員がつぎつぎと柿を盗んでは食い、労働服のポケットにねじこんだ者もいる。俊介は呆然として立ちつくした。

 事務所に帰りついて執行委員たちがどやどやと座敷に寝そべったとき、それまで黙りこんでいた俊介が言った。

 「おい、みんな起きてくれ。君たちはさっき何をした。われわれはマルクスの労働価値説に立っている。そして共産主義社会になれば、今日の社会の矛盾はなくなり、階級はなくなり、いっさいの搾取も暗黒もなくなると主張して、革命運動に生命を捨てる決意をしている。その俺たちが農民の労働の生んだ柿を、農民の目をかすめて盗み食ってよいのか。こんなことで理想社会ができてたまるか。唯物史観や科学的社会主義の革命理論は根本において欠けたものがある」。

 かねてから最近の俊介の心の動揺に気がついていた執行委員たちはそれから七日間も、俊介と口角泡を飛ばして理論闘争をしたが、俊介をついに納得させることはできなかった。

運命の不思議

 俊介は脱党を宣言して聖隷社に帰り、クリーニソグの労働の合い間に、再び聖書を読み神学書に読み耽けるようになった。

 年があけて二月の寒い朝、朝食のあとで朝日新聞を開いた俊介の目が、新聞記事に吸いつけられた。熱海で秘密会議をしていた共産党員が一網打尽に逮捕されたのである。鈴木茂三郎、島上善五郎の名もある。それからいくばくもなくして、日本青年共産同盟中央常任執行委員長押間健寿も森平鋭も逮捕された。俊介が共産党に入れた中川村の山崎光雄も逮捕された。俊介のかつての同志はことごとく逮捕されて下獄し、森平鋭その他の者は、ひどい拷問のために獄死した。俊介はわずか二カ月前に脱党していたばかりに逮捕をまぬがれた。彼は運命の不思議さの中に見えざる神の導きを感じて、身のひきしまる思いがした。
(長谷川保著『夜もひるのように輝く』20~26頁)

 注・この本は聖隷福祉事業団の創立者である長谷川保氏の「小説風に書かれた自伝」です。最初は講談社から出て、4万部くらい売れたそうです。その後、聖隷福祉事業団に版権が譲渡されたそうです。

 ④ 大庭伸介氏の『日本楽器争議の研究』という書物が1980年頃に出ているようです。かなりの大著のようです。しかし、これも長谷川の本も浜松市の図書館にはあるようです。