マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

「巨大な歴史的感覚」その3

2021年05月18日 | abc ...
第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏

 この方についてはウイキペディアに詳しく書かれています。要するに、昆虫学者として多くの業績をあげた方のようです。しかし、同時に、人類の起源についても深い関心を持っていて、自分でアフリカなどに行って類人猿の社会や行動を観察するようなことはなかったようですが、その方面の報告をよく追いかけて、唯物弁証法を知らない著者達の解釈を批判していました。そのために、そういう報告を自分では読めない我々唯物弁証法の立場に立って考えたいという学生は伊藤氏の夲や解説を熱心に読んだものです。
 氏のその方面での見解の集大成が、一九六六年に紀伊國屋書店から出版された『人間の起源』です。そして、それをベースにして、マルクス主義の立場で勉強したいという人のために書いたものが『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、一九六七年)です。
 この二冊の夲が出てから五五年が経過しており、伊藤氏は亡くなっていますが、私はその後の研究の発展を知りませんので、この夲で考えます。第二の伊藤嘉昭が出てほしいです。

 さて、この本の中で伊藤氏は人間を「道具を作る動物」とする定義と合わない事実の報告を紹介してこう書いています。

「最近〔一九六七年から振り返って最近〕、イギリスの女流学者グッドールは、森林と草原の境界線ふきんに進出した野生のチンパンジーで大変興味あることを発見しました。チンパンジーはアリの幼虫やシロアリを食べるのが好きですが、そのさい、手近な草の茎をとって、それをアリ塚にさしこみ、そのさきにくっついた幼虫をなめるのです(グッドールはこれを「アリ釣り」とよびました)。手近なところにちょうどよい草がない時は、アリ塚から離れた所で草の茎を取り、じゃまになる葉を取り去って使いよいようにしました。この観察は、別の所でチンパンジーをしらべていた日本の研究者によっても確認されました」。(原典解説、五八頁)

 さあ大変です。チンパンジーでも「道具を作る」ことが分かったのです。伊藤氏はこれを次のように解決しようとしました。

「人間は石器を作る前にも、木の枝を加工したり、そのほか種々の道具を作ったかもしれません。オーストラロピテクスを発見したダートは、石器時代よりまえに、殺した動物の骨や角をいくらか加工して使う、歯角(しかく)文化の時代があったと想像しています。しかし、こういう石以外の道具は、かりにあったとしても、残りにくいので、確実なものが発見されていません。いずれにしても、人間への「決定的な一歩」は、素晴らしい威力を持った石の道具がつくられたに踏み出されたと言うべきでしょう」。(同上書五九頁)

 『原典解説』を出すのは「読者がエンゲルスの論文を読んで、弁証法的唯物論の正しい適用を学べるようにするためだ」(四頁)と書いているのですから、自分自身はその十分な適用能力があると、確信しているのでしょう。
 では、「人類への決定的な一歩」を「素晴らしい威力」の中に見る伊藤説は本当に正しいでしょうか。私牧野紀之は反対です。なぜかと言いますと、そもそもこういう根本的な判断の基準を「素晴らしい威力」といった「量」ないし「程度」の中に求める事自体が、根本的に間違っていると思うからです。こういう考え方は弁証法ではないと思います。
 あえて言うならば、「決定的な一歩」で作られたものは、その「威力」に関しては、「偶然拾ってきたのだが格好が合理的な石」より劣るものでも好いと思います。その「作られた道具」は、しかし、「作られた」という点に「これから無限に改良できる」という可能性があるからです。ですから、大切な点は、耐久性のある素材で作られているということです。

第五節 母語とは何か(→次稿)


「巨大な歴史的感覚」その2

2021年05月13日 | 読者へ
第三節 第二の問題提起、思考とは何か

 許萬言のこの論文のその後の展開は次の小目次で分かります。
一、思考の一般的性格
二、特殊性における思考(悟性)の性格
 (a) 悟性的分析の悪無限的性格
 (b) 悟性的反省の歴史的性格
 (c) 対象分析の主体的限界
三、一般性に帰った思考(概念的具体的思考)
 (a) 概念の論理的本性
 (b) 形成過程の反省的把握
 (c) 反省過程の形成的把握


 要するに「思考の本性によって思考は必然的に概念的把握をめざす」という事を証明したいのです。
 では、その思考論はどうはじまるのでしょうか。以下のとおりです。

 「ある活動というものは、それが遂行するところのもの、その所産、それの対象からのみ認識されるだけである。活動の遂行するところのもの、それが活動なのである」というフォイエルバッハの言葉引いて、「もしこれが正しいならば、思考もまた、それが一つのの働きであるかぎり、思考自身の所産、即ち『思想(Gedanke)からのみ認識されるべきもの』となろう」ともってくるのです。
 Gedannkeを「思想」と訳す松村一人の悪訳〔最低でも「観念」とすべし〕を無断で使う非常識はここでは問わずに先に進みますと、許萬元は、「次のへ-ゲルの分析は全くあざやかである」と結論するのです。
 「思考の産物、即ち思想〔観念〕の規定性または形式は一般に『普遍的なもの』〔という事〕であり、抽象的なもの〔という事〕である。『働きとしての思考』は従って『働く普遍者(das taetige Allgemeiine)』であって、しかも自己を実現する普遍者である」。

 この考え方〔第一の方法〕は、いわば「結果論的」と言えるものですが、これは既に聖書の中にあるものです。即ち、マタイ伝十二の三三には「実(み)を見れば、どんな木かが分かる」と、あります。これくらいのことで「鮮やかだ」などと感心しているのは、キリスト教を勉強していない許萬元くらいでしょう。

 事物の本質を知る第二の方法はその事物の原初形態を知ることです。これは許萬元も原論文の二の(b)「悟性的反省の歴史的性格」の中で見田石介の言葉を引いています。
 人は何かの仕事などで行き詰まった時、「初心に返ろう」と言いますが、それは初心の中に自分達の仕事の本質が純粋な形で出ていると本能的に知っているからです。かつてルソーが「自然に帰れ」と叫んだのも同じです。では思考の始まりはどうか。サルが「前原語」と言ってよい音声を使って仲間と連絡を取り合い、「前思考」を行っていた段階から、それを乗り越えて、言語を使って意思疎通をし、考えるようになった時、一体何が起きたのか。これこそ、多分、いまだに意識的な問題として建てられたことのない問題なのではあるまいか。

 この問題を考える前に、物事の本質を捉える第三と第四の方法を確認しておきましょう。
 第三の方法は、その物事の固有の対象から規定する方法です。これもフォイエルバッハが言っているのですが、魚(Fisch)をとる人を「漁師(Fischer)」と言うような事です。
 第四の方法は「同類の物を較べて共通点を探る」という方法です。この方法には共通点が二つ以上あったらどうするのかといった難点もありますが、実際に役立ってもいる方法ではあるでしょう。
 これらの事を検討しないで、自分に都合の良い第一の方法を採用したのはご都合主義者・許萬元らしいですが、我々は科学的に正しい第二の方法で、対案を出したいと思います。
 我々は、多分誰も否定しないであろうエンゲルスの「人間の言語は労働の中で生まれた」という考えを受け継ぎます。しかるに、その人間的労働は「道具の製作と共に始まる」とされ、人間の定義は「道具を作る動物である」というフランクリンの定義となっているのだとおもいます。従って、我々の検討はこの定義の批判から始まります。

第四節 伊藤嘉昭(よしあき)氏 (→その3