マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

豊岡市はいいな

2020年01月22日 | タ行
     豊岡市はいいな

 1、朝日新聞、2019年1月22日夕刊

 志賀直哉をはじめ、文人にゆかりの深い城崎(きのさき)温泉。兵庫県北部の豊岡市にあり、冬場はカニ料理が人気のこの地がいま、舞台芸術の世界で国内外の視線を集めている。

 JRの駅から、外湯めぐりの観光客が行き交う川沿いの風情ある道を15分ほど歩くと、「城崎国際アートセンター(KIAC)」が現れる。元は利用者が少なく「お荷物」になっていた県の大会議館。.譲り受けた豊岡市が劇作・演出家の平田オリザ(56)の助言を受け、泊まり込みで演劇やダンスなどの創作に打ち込めるアーティスト・イン・レジデンス施設に改築、2014年に開場した。

 滞在できるのは年間20組ほど。選ばれると500席のホールと6つのスタジオ、22人まで暮らせる宿泊施設を24時間、最長3カ月まで無料で使える。ほぼ唯一の義務は、試演や稽古公開、ワークショップなどで市民や観光客らと交流すること。温泉に地元の人と同じ100円で入れる「楽しみ」もある。この好条件が世界に伝わり、18年度は25カ国から94件の応募があった。

 昨年(2018年)11月は重点の劇作・演出家タニノクロウ(42)がスタッフ・俳優とともに3週間滞在し、舞台「笑顔の砦(とりで)」に取り組んだ。ホールの中に、本物とみまがうリアルな長屋の装置をつくり、その中で稽古を重ねた。最後の2日間で城崎の観客に披露。その後、大阪で公演した。

 交通費は自己負担でも、東京で稽古場を借りるより経費が安くすむといった経済的な利点もあるが、タニノは「何より素晴らしいのは自然も含めた環境」と力を込める。「ストレスなく創作に集中でき、城崎での3週間は東京の1カ月半くらいの感覚です。街の人も気軽に声を掛けてくれ、受け入れてもらっている実感が持てます」。タニノがここで16年に手掛けた舞台は昨年フランスでも上演され、大きな反響をよんだ。

 館長の田口幹也(49)は、11年に家族で東京からUターンした。故郷の良さを改めて感じ、「城崎温泉でしか買えない本」を出版してヒットさせるなど、地元と外を結ぶ発想で街の魅力を広く発信してきた。そうした手腕も期待され、15年館長に就いた。

 豊岡市大交流課の課長、谷口雄彦(たけひこ)(51)は「子供の頃から国際的なアートに触れることで『豊岡はおもしろい』と感じ、進学でいったん市外に出た若者が戻りたくなる。芸術家やクリエーターは移住したくなる。そういう市を目指しています。KIACはその象徴」と説明する。数年のうちに平田が主宰する劇団「青年団」が本拠を東京から市内の別の場所に移す。国際演劇祭も企画されている。観光とアートが柱の県立の専門職大学の計画も進んでいる。

 兵庫県の舞台芸術というと、国内有数の劇場である県立芸術文化センター(西宮市)や、1978年開館で、全国初の県立劇団を持つピッコロシアター(尼崎市)など、阪神間の大都市にある施設がよく知られている。それがここにきて、人口約8万の豊岡市がステージ中央に躍り出た。=敬称略(朝日、2019年1月22日夕刊。山口宏子)

 2,牧野の感想

  ① この記事の前だったと思いますが、この動きの中心人物であるらしい平田オリザさんが、NHKの「ラジオ深夜便」の「明日へのことば」でインタビューを受けていたのを聞いていました。これは毎夜午前四時台に放送される番組で、睡眠の不規則な私はたまたま目が覚めていて、寝床で聞いたのです。

 その時に特に印象に残った内容は、平田さんたち、劇団の人たちが、豊岡市の学校で国語の授業の一部に参加して、ユニークなレッスンをして、大きな成果を上げているらしい、という事でした。

 私は前から疑問に思っているのですが、学校教師で本当に、その教科の一部分でもいいですから、プロと言える実力を持っている人が何人いるだろうか、ということです。大学の4年間の勉強で「プロ級の能力を身につけろ」と言っても、言う方が無理でしょう。私自身を振り返ってみても、30歳で大学の教壇に立ちましたが、ドイツ語についても哲学についても、今から振り返ってみて、とてもとても、そんなことは無理でした。

 ですから、最初は情熱だけでいいのです。と言うより、そうでしかありえないのです。そして、教師をして行く間に勉強して、徐々に本当の教師になって行けば好いのだと思います。しかし、実際には、多くの教師は、忙しさを理由にして、又生徒よりは知っている(?)と思い込んで、勉強せず、惰性に任せて、堕落の道を辿るのです。

 こういう背景を知っていれば、世界的な演劇人である平田さんたちが教壇に立って、生徒の実情を踏まえて工夫した授業をすれば、それがどんなに面白く、有意義な物に成るかは、簡単に分かるでしょう。実際、生徒はみな、喜んで参加したし、見学に来たよその教師達はびっくりしたそうです。

 ② 先に引きました新聞記事にはこの方面の事が書かれてなかったので、書きましたが、私はこれはもの凄く大切な事だと思います。と言いますのは、演劇(広義)関係の団体を受け入れたのに、あまり成果が感じられず、その後撤退することになった事例もあるらしいからです。

 それは同じ朝日紙の咋2019年12月15日に報じられてありました。見出しだけ引きますが、──芸術に公金、「有用性」に苦心──市長交代、地域貢献策示してなんとか存続──公立劇場、示しにくい「成果」、あり方模索──といった様子です。

 ここで実例として出されているのは、新潟市のノイズムと言う舞踊団であり、兵庫県立尼崎青少年創造劇場の県立ピッコロ劇団であり、我が静岡県の静岡県舞台芸術センターですが、豊岡市のようなうまくいっている例よりは、こちらの例の方が、多分、多いでしょう。

 成功例と失敗例、どこが違うのでしょうか。多分、トップの考えのスケールの大きさの違いでしょう。そして、その核心が、「教育の現場に入って行くか否か」だと思います。失敗例では、新聞に書かれている限りでは、豊岡市のように授業の一部を担うような事はなく、せいぜい中高生に無料で見せるだけです。新潟市のノイズムでは「今後の改善策」の中に「体を動かす楽しさを体験する小中高校での授業」が入っているだけです。

 演劇というのは「体を動かす事」が中心なのでしょうか。私見では、「言葉と格闘して精神世界を掘り下げる事」が核心だと思うのですが、識者は教えてください。

 ③ 我が浜松市は「音楽の都」を標榜しています。かつては「技術と文化の世界都市」とやらを標榜していたはずですが、いつ、誰が決めたのでしょうか。私は知りませんし、賛成もできません。

 ヨーロッパの都市は、管見によりますと、どこでも、庭園都市をめざすことは言う必要も無い「自明の大前提」で、それを前提した上で、「我が市は学園都市だ」「音楽都市だ」「環境都市だ」と差別化しているだけだと思います。

 慶応大学と松下政経塾を出た人とも思えない程の「気付かない人」であられる我が鈴木康友市長は、大木を平気で切り倒して駐車場にし、区役所が移転したというと、その跡地には木を植えようとは考えずに、マンションにして金を儲けようというのか、移住者を呼び寄せようとしています。周りに人を呼び寄せるなら、公園にした方がいいと思うのですが。

 頑張っている劇団は市内に二つもあるのにそれには補助金を出さず、ピアノ・アカデミーとやらを再開すると聞くと、すぐに1300万円の補助金を出し、違法行為をしているスズキ(自動車会社)には浜松市の条例か何かを踏みにじってでも50億円出すそうです。ブラジル人やペルー人の子供達のための学校(生徒数約50人)、ムンドデアレグリアへの補助金は、年間たったの560万円です。

 市役所の隣と言えば市の中心部と分かりますが、そこにあった元城(もとしろ)小学校が、中学校と一緒になったために、廃校になりました。多分、浜松市の最古の中心的な小学校だったのだと思います。かなり広いその跡地に、浜ホールという音楽ホールを持ってくるそうです。その事自体には反対しませんが、今の浜ホールの3倍くらいの容量のある建物にして、その4割を浜ホールに当て、6割を外国人のための学校の教室に当てるといいと思います。

 上記のようにスペイン語とホルトガル語のための学級は、ポツンと一軒家にですが、ともかく、ありますが、今では、この2つの言語では足りません。中国語、台湾語、韓国語、ベトナム語、タイ語、タガログ語、カンボジャ語、ネパ-ル語、インドネシア語等のためのクラスも既に必要になってきています。もちろん前述のムンド・デ・アレグリアもここに移すべきでしょうし、どこの人でも日本語で互いに話しあえる場も必要でしょう。もちろん地下にはしゃれた食堂を忘れないように。ミュンヘンの市役所を模範にしてください。

 こういう場を市の中心部に作ってこそ「多文化共生」と言えるのだと思いますが、皆さんはどう考えますか。

 参考までに。
 上記の平田オリザさんのインタビューは、元は午前4時でしたが、今回は1月21日の午前1時台に「アーカイブス」として再放送されました。「ラジオ深夜便」のホームページを開いて、「聴き逃し」をクリックすると、1月28日までは聞けるようです。

「民主党政権はなぜ短命だったのか」を読んで

2020年01月07日 | マ行
 「民主党政権はなぜ短命だったのか」を読んで

1,寺本太蔵氏の評論

 野党・民主党が政権後退への流れを確かなものにしたのが、2007年の参院選での勝利だ。

 小泉内閣が推し進めた構造改革で格差が拡大したことへの不満や「消えた年金問題」が追い風となって、自民党に大勝。衆参で多数派が異なるねじれ国会となり、その後の第1次安倍政権の退陣につながった。

 参院の主導権を握った民主党は「実行力」を有権者に実感してもらおうと「数の力」を存分に使った。

 自衛隊によるインド洋での給油活動を一時中断させ、ガソリン税の暫定税率をめぐり、参院で法案を採決しない手法で暫定税率を期限切れに追い込んだ。実際にガソリンの値段もー時的に下がった。

 同じ国会で、日銀総裁の同意人事をはねつけ総裁ポストが一時空席に。福田康夫首相への問責決議も可決した。支持率の低迷に苦しんだ福田氏は1年での退陣を余儀なくされた。

 政権の座にいない野党が国政の課題を左石する力を握る。その強烈な存在感に有権者の期待も集まり、民主党は09年8月の衆院選で単独政党では過去最多の308議席(全議席480)を凄得し、政権交代を果たした。

 だが、満を持して始まったはずの民主党政権は、3年3カ月で終わる。野党時代に政権交代の成果としてマニフェストで約束した政策や、政治主導を強調した政権運営で、実を上げられなかったことが大きな要因だ。

 米軍普天間飛行場の移設問題で迷走し、官僚を遠ざけた政治主導は空回りした。民主党は翌10年の参院選で敗北し、国会はまたもねじれ状態に。今度は野党自民党による徹底抗戦に直面した。

 民主党政権の負の記憶としてその後も尾を引いたのが、相次いだ党内抗争だ。12年夏にはマニュフェストになかった消費増税の是非をめぐって党が分裂し、政権の弱体化に追い打ちをかけた。

 民主党政権の挫折が示すのは、野党が政権交代をめざす上で、政策だけではなく、政党としての意思決定の部分でも政権担当能力を磨く必要があるという教訓だ。下野後、多くの幹部が民主党の意思決定の仕組みの弱さを指摘した。

 野田佳彦政権で副総理を務めた岡田克也・旧民進発代表は「消費増税の時など、党が大事な時にまとまらなかった。覚悟のなさに国民が不信感を持った」と話す。菅直人政権の官房長官だった立憲民主党の枝野幸男代表は当時を振り返り、「大事な政策の柱のところで、内部でゴチャゴチャさせないということを、これからもしっかりと貫いていきたい」と語る。

 期待を集めて誕生した民主党政権の失敗は、二大政党政治への失望を生んだ。その後、旧民主党勢力を中心とする野党は低支持率をさまよい、分裂を繰り返して多弱化した。安倍晋三首相はいま、7年前に終わった民主党政権を「悪夢」と批判し、自民党の安定感を強調しようとする。野党は、その主張を覆すだけの勢いを得られていない。(朝日、2019年10月10日。寺本太蔵)

2、牧野の感想

 ① 好くまとめてくれた事には感謝しますが、自分の立ち位置を表明していないのは、いかにも日本の評論家らしいと思いました。私は今では社会主義者ではなく、福祉国家を目指すべきだと考えている者ですが、その立場から発言します。

 ② 寺本さんの挙げた「内部での異論の扱いの下手さ」は確かに日本の社会民主主義系の組織や団体の共通の弱さだと思います。共産党はもちろん公明党も自民党も、やり方は違うにしても、それなりの「異論処理方法」を持っています。しかし、社民系の団体はそれを持っていません。そのために少しの異論でいがみ合い、「内部で分裂してしまう」のだと思います。分かりやすく言いますと、日本の社民は「子供」で悪ければ「青二才」なのです。

 ③ なぜこうなったかと考えてみますと、私見では、それは、日本の社民が「資本主義はダメで、共産主義が正しいのだが、そこまでは踏み切れない」と考えているからでしょう。分かりやすく言いますと、共産党に対するコンプレックスが根底にあるのです。ここから社民の「すべてにおいての不徹底」が出てくるのだと思います。従って本当の社民が生まれるためには、このコンプレックスを理論的にか、あるいは最低でも実践的に克服しなければならないと思います。

 ④ 北欧の福祉国家論者たちはこれを実践的に克服しました。今ではドイツの緑の党は先日の党大会で、「社会主義ではダメだ。市場経済の上に立って、人権も環境保全も何でも出来ないことはない」と表明したようです。

 ⑤ 私は、マルクスとエンゲルスとレーニンの理論自体の中に大きな欠点(欠けている点)と大きな間違いを見つけて批判していますが(『マルクスの空想的社会主義』、近刊の『フォイエルバッハ論』など)、ここでは日本の社民のことに絞りましょう。

 ⑥ 民主党の短命は、それまでの準備不足からの必然的結果だと思います。
 その1・権力はどのレベルのものでも、一番大切な事は皆、隠しています。つまり、政権の行動の前提となる「客観的で全面的な現状把握」は野党には「原理的に」不可能なのです。従って、政権を取ったならば、第1にしなければならない事は、「今まで隠されてきた事柄を調査して、はっきりさせる事」です。そのための準備は、「影の内閣」を作り、野にあっても調べうる事は全て調べ、まとめておくことです。
 それなのに、民主党は一時には影の内閣を作りましたが、それも継続せず、実のあるものではありませんでした。その結果でもありますが、選挙に勝利すると、すぐに「事業仕分け」とやらで大騒ぎをしました。これで多くの「ムダ」を指摘したつもりになって有頂天になっている間に、ずる賢い官僚は同じ予算案を名前だけ変えて提出しました。

 その2・これだけならまだしも、おめでたい鳩山首相は「(普天間飛行場の移転先は)最低でも県外」などという選挙用のスローガンを持ち出して、自分の首を締めました。

 これで鳩山に替わった管直人は、これまた、ド素人丸出しで、「消費税増税」という一番言ってはならない言葉を口にしました。
 選挙の直前にイギリスに行って、イギリスの政治と行政の関係を視察してきたそうですが、「優秀な連れ合い」が一緒に行かなかったのか、その視察は何の訳にも立たなかったわけです。行政の意義を正当に評価しない「政治主導」とやらの必然的結果でした。
 その後に東日本大地震が起きて大混乱となり、浜岡原発を止めてくれたのは唯一の功績ですが、野田「消化試合」内閣に引き継ぎました。

 ⑥ 今、安倍政権は数々の大失策を犯しながらも内閣支持率は、落ちてきたとはいえ、「政権交代論」が聞かれる程ではありません。なぜなら、替わる政権像がないからです。内閣支持の理由の一位はつねに「ほかの政権より良さそうだから」です。

 立憲も国民も「合同による強化」を模索しているようです。悪いとは言いませんが、前述した「意見の違いがすぐにいがみ合いに成る」小児病を克服しない限り政権は近づいてこないでしょう。

 ⑦ では、社民勢力はどうしたら好いのでしょうか。私見では、「全ての候補者に世田谷区長の保坂展人を見習うことを義務づける事」です。
 保坂は、主として、「学校教育と合わなくて苦しんできた子供達」に寄り添う活動を続けてきたことが基礎になって、そこから曲折を経て今日の「模範的区長」となったのです。
 ですから、一般化して言いますと、困っている人たちに関わる運動を続けてきていない人は候補者としないことです。逆に言うならば、候補者に成りたい人は、まずそういう運動に関わらせることです。
 こういう迂遠な道を通らずして、日本の社民の再生、どころか「誕生」はないと思います。(2020年1月7日)