マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

大学は自分で勉強する所か

2020年07月29日 | abc ...




 | カ行
 学校が小学校から中学校、さらに高校から大学へと進むにつれて、よく、「中学校は(小学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「高校は(中学校と違って)自分で勉強する所だ」とか、「大学は(高校と違って)自分で勉強する所だ」といった言い方がなされると思います。

 「中学校は~」という言い方は余りないかも知れませんが、「高校は~」という言い方と「大学は~」という言い方はたいていの人が聞いているのではないでしょうか。

 今回はこれらの言い方を「大学は自分で勉強する所だ」という言葉で代表させて考えてみたいと思います。最近読んだ立花隆氏の『脳を鍛える』(東大講義)(新潮社刊)の中でも氏はそのような事を言っていました。

 私も半分無意識的にではありますが、生徒であった時にも教師になってからも、事実上そのような考え方をしていました。しかし、大学で教師をしていたある時、これは決定的に間違っているのではないかと思うようになりました。

 たしかに勉強における主体的契機、つまりいわゆる「やる気」とか努力というものを強調するだけならこの言葉も正しいと思います。しかし、実際にはこの言葉はそれ以上に、教師の指導の決定的重要性を見逃させる役割を果たしていると思います。これが問題なのです。

 もし本当に「大学は自分で勉強する所だ」とするならば、教師は何のためにいるのでしょうか。それなら教師は必要がないのではないでしょうか。こう考えただけでもこの考えの間違いは自明だと思います。ではどこが間違っているのでしょうか。

 人間を勉強への取り組みに関して分類すると次の3種類に分けられると思います。

 A・自分でどんどん勉強する人(変人)
 B・宿題(先生の適切な指導)があれば勉強する人(凡人)
 C・宿題(先生の適切な指導)があっても勉強しない人(ろくでなし)

 次にこのABCの割合はどうかと考えてみますと、ほとんどの人はBだと思います。つまり、一部の変人とろくでなし(もっとも気の毒な事情のある場合もある)を除くと、大部分の人間は「先生の指導がある限りで勉強する」という種類の人間なのです。

 人間の心の中には誰の心の中にも「勉強したい」「成長したい」という気持ちがあるのです。しかし、人間はそれだけでは勉強しないのです。勉強したいという気持ちに先生の指導という「外からの強制」があって初めて勉強するのです。

 人間は神様でもなければ獣(けだもの)でもないのです。その中間なのです。だからこそ、「先生に引っ張ってもらおう」「宿題を出してもらおう」と思って学校に来ているのです。だから、勉強では先生の指導力が決定的なのです。

 ここまで言うと聞こえてくるのが、「我々の頃は自分で勉強したものだ」という教授たちの声です。立花氏の本からもそのような声が聞こえてきます。

 「今の若い者は~」といった言葉は老人の口癖ですから聞き流しておけば好いのかもしれませんが、私がこの「大学は自分で勉強する所だ」という考えを決定的に否定する気持ちになったのは、この教授たちの考えの間違いに気づいたからです。

 ドイツ流に言うと私の主専攻は哲学で副専攻はドイツ語ですが、私はこの2つの学問で見てみますと、その「自分で勉強した方々」の「学問」がとてもお粗末だと思うのです。そして、その最大の原因が、先生から正しい指導が受けられなくて「自分で勉強した」結果だと思うのです。

 哲学については説明が大変ですからドイツ語学について言いますと、40年以上前に出版された橋本文夫氏の『詳解ドイツ大文法』(三修社)はお世辞にも「詳しい」と言える代物ではありませんが、それにも拘らずそれ以上の文法書が出ないのはどうした事でしょうか。

 初等文法が終わると読本の読解に進みますが、その読本には巻末に注解が付いています。これは英語の読本の場合と同じです。しかるに、その注解はあまりにもお粗末ではないでしょうか。間違いも散見されますし、必要な説明の落ちている事も多いです。それ以上にひどいのは、「ここは説明しなければならない」と気づきながら説明が出来ないために素通りしている所のあることです。

 そして、決定的に困ることは、注解全体を通して「言葉を科学するとはどういうことか」を教える姿勢が感じられないことです。例えば、ドイツ語の話法の助動詞の説明では、形と一般的な用法とその箇所の意味の3つを書かなければならないのに、その内のどれかを恣意的に書いているのが普通です。

 私の調べたのは学界で「大家」として名を馳せている方々のものですが、それがこの通りなのです。これが「自分で勉強された方」の学問です。

 ではどうしてこのようなお粗末なことになっているのでしょうか。私は、それは、「自分で勉強した」ために、先人の成果を十分に受け継がなかったからであり、そのために学問が蓄積されていかず、発展していないからだと思います。

 高校も大学も「自分で勉強する所」ではありません。先生の指導を受けて勉強する所です。それによって過去の成果を速やかに吸収して、学問を更に発展させる所です。

(初出「教育の広場」2000年12月06日。再掲「第2マキペディア」に2011年09月27日)

     関連項目

教師と生徒の役割

言論の自由を考える(その2、民主集中制)

2020年07月19日 | カ行
  言論の自由を考える(その2、民主集中制)

 6月11日に発表しました文章「言論の自由を考える」では、主として、「言論の自由とは間違った意見でも罰せられない事だ」という点を論じました。今回は、同じ問題を、民主主義と民主集中制の異同を考える中で論じてみたいと思います。

 私見によれば、1960年までは毛沢東の言う「東風が西風を圧倒する」で、社会主義が資本主義を追い越さんばかりの勢いで発展していたと思います。しかし、50年代末から顕在化した中ソ論争もあって、その後は東西の力関係は 西側の優勢となっていったと思います。二〇世紀末の社会主義の崩壊はその必然的結果だと思いますが、その後の歴史を見ますと、必ずしも自由経済と民主制社会が広がっているとも言えません。
 その中で世界の共産党を見てみますと、旧社会主義国の共産党はどんどん独裁政権化し、資本主義国の共産党はほとんどが解党ないしそれに近い状態だと思います。「いわゆる共産党」、つまり「マルクスとエンゲルスの考えていた革命党とは大分違うが、レーニンの考えていたそれにはかなり近い政党」は日本の共産党だけではないでしょうか。従って、日本共産党を取り上げて考えます。

 私見では、その共産党を支えている理論上の三大根本原則は「理論と実践の統一」と「民主集中制」と「批判と自己批判」の三つです。

 第一原則の「理論と実践の統一」については、繰返し指摘してきましたが、その意味は事実上、「マルクス主義を口にする者は共産党に入って革命運動をしなければならない」と曲解されています。そして、共産党に入ることを強要したり、特定の運動に参加することを迫ったりする事の理論的根拠に使われています。これは完全な間違いです。

 そもそも「理論と実践の統一」とは「両者を統一しなければならない」という当為命題ではありません。そんな事なら、「言行の一致」として、昔から言われています。弁証法で言う「理論と実践の統一」とは、「両者は対立しているが、同時に一致もしている」という事実命題です。弁証法でいう「対立物の統一」というのがそういう事実命題で、これはそれの一例ですから。

 第二原則を論ずるのが今回の目的ですから、その前に第三原則の「批判と自己批判」を片付けておきますと、これはこういう定式化自体が間違っています。弁証法の基本が「対立物の統一」なら、「批判(他者批判)と自己批判の統一」と定式化しなければならないのに、「批判と自己批判」で終わっているからです。これ以上の事は、拙稿「批判と自己批判」(拙著『ヘーゲルからレーニンへ』に所収)を読んでください。

 さて、第二原則の「民主集中制」ですが、これの理解も不正確です。まず、共産党の規約をみてみます。すると、その第1章の第3条に次のように書いてあります。

 第三条 党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織原則とする。その基本は、次の通りである。
 ⑴ 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
 ⑵ 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。(以下略)
 ⑶ すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
 ⑷ 党内に派閥・分派はつくらない。
 ⑸ 意見が違うことによって、組織的な排除を行ってはならない。
以上です。

 これを考えてみます。⑶をここに入れたのが不自然ですが、その他はまあまあでしょうか。いや、まず、「全ての党員は党の方針や人事について、発言する権利を持つ。但し、まず自分の所属する支部の会議で発言し、その結果によって段々と上級機関に上げて行くのが原則であるが、場合によっては上級機関、更には幹部会や委員長に、直接、意見を言っても好い」、としておくのが、「民主主義」だと思います。こういう権利の確認をまずするべきでしょう。

 ⑴では「民主的な議論」とはどういう議論のことを言うのか、それを保証する方法はどういうものか、の規定がありません。「自由討論」では口がうまくて押しの強い人が勝つだけだ、ということを知らないのでしょうか。共産党の外では、この「自由に意見の言えるための工夫」をしている理論や団体が沢山あります。我々の「ラウンド方式」もそれらから学んだものです(拙訳『フォイエルバッハ論』鶏鳴OD選書に所収の「議論の認識論」を参照)。共産党は遅れています。

 ⑵ の「決定されたことは、みんなでその実行にあたる」を共産党は「民主集中制」の中心と考えているようです。小さなグループなどでは、民主主義の名の下にこれが当たり前の事として、理解されていると思います。しかし、大きな組織では民主主義は、「決まったことを一緒に行動しなくても好いが、それを妨害してはならない」程度に理解されていると思います。ですから、共産党が「民主集中制」として、これを言う必要があるのです。

 ⑷を飛ばして、⑸を検討しましょう。直ちに分かる事は、共産党員の一番恐れている「自己批判を強要されること」について一言も書いていない事です。共産党員と付き合っていると、彼らがいかにこの自己批判という名の土下座を恐れているかが分かります。それなのに、この点について「規約」に規定がないのです。無理論党もここに極まったと言うべきでしょうか。

 実例で説明しましょう。
 その1つは、1964年の事ですが、「労働組合の4・17ストライキを『挑発スト』と決めつけて、それに猛烈に反対し、一部では行動でそのストを妨害した事件」です。その後、共産党員は多くの所で労組の組合員から袋だたきに遭ったようです。その結果、共産党は自己批判することになりました。『日本共産党の八十年』にはこう書かれています。

──六四年春、党は、労働組合が準備していた四・一七ストライキに反対する指導上の誤りを犯しました。この年の一月、中国を訪問して毛沢東と会談し、毛沢東の「反米愛国の統一戦線」の提唱の影響を受けた一部の幹部が中心になって、このストライキをアメリカがたくらむ「挑発スト」と位置づけ、党中央の名で反対の声明を発表したのでした。この誤りは、党への信頼を深く傷つけ、国民運動の発展に深刻な影響をあたえました。四・一七ストライキは経済ストライキであり、政治的課題と正しく結合されず、民主勢力との共闘という点にも欠けていましたが、このような弱点を根拠に、経済闘争を軽視したり、否定することは大きな誤りでした。党は六四年七月の中央委員会総会と十一月の第九回党大会で、これが党の綱領路線に反する誤りであったことを明らかにし、経済闘争の位置づけを明確にしました。──

 こんな「総括」では共産党は前進しません。私の知っている党員は、「最初、上から、『あれは挑発ストだから、反対するように』という指示が下りてきた時、『この官僚め!』と怒ったが、結局、支部として指示に従うと決まった時、自己批判をさせられたが、党が今度は『あれは間違いだった』と言うことになったので、又、自己批判しなければなんないや」と言っていました。少数意見者に自己批判を強要するという「不文律」があるから、こういう悲喜劇が起きるのです。

 そもそもあの騒動では、共産党員に、組合の決定に反して、「組合で決まった事の実行を実力で阻止せよ」という指令が出ていた(と、推定せざるをえません)ことが根本の問題なのだと思います。共産党の規約には、たしか、どこかに、「大衆的組織の中で行動する時は、その組織の規約を守って行動せよ」という一句があったと思うのですが。共産党は、このように、大衆組織の中で、民主主義の規律を守らないのです。これこそ反省するべき根本問題です。

 第二の実例は、かなり前から共産党が「これには誰も反対出来ないだろう」と言わんばかりの口調で、得意になって振り回している「統一戦線の原則」とやらです。曰く「一致点で協力し、不一致点は粘り強く話し合う」です。どうです、皆さん、この「定式」のどこが間違っているか、分かりますか。実際この「原則」とやらで、何人の党員が泣きべそをかいたことでしょうか。

 どこが間違っているか分からない人は、「一致点で協力しなかったら、どういう点で協力するのか」と、考えてみてください。「一致点で協力する」という句は無意味な同語反復なのです。統一戦線の原則というものがあるとしたら、それは「どういう性質の一致点なら協力して好いか」を示すものです。しかし、そういうものはありません。レーニンがどこかで、たしか、『左翼小児病』だったと思いますが、「統一戦線の原則なんてものはない。全てはその時の事情次第だ」といった事を言っていたと思うのですが。私はこのレーニンの説に賛成です。
 ここでもう一つ不思議に思う点は、この「一致点で協力」の無意味さを指摘されて泣きべそをかいた党員が、その後、党の会議で、これを持ち出して、「反論できなかったのですが、どうしたらよいですか?」と問題提起しておらず、いつまでもそのままだという事です。規約に、「党の理論や行動に疑問を持ったり、外部からの批判に答えられなかった場合は、すぐに、支部及びそれ以上の機関に報告しなければならない。曖昧にしておくのは共産党員の態度ではない」という項目を⑹として入れるべきでしょう。
 日本共産党には、国会での活動のように立派な面もあり、だからこそそれなりの支持を集めているのですが、理論的には、皆さんが誤解しているような「理論に強い党」ではありません。無理論党と言ってもいいくらい酷いものです。

 思うに、芸術と宗教と哲学(ヘーゲルの『精神哲学』の第三篇「絶対的精神」に分類されるもの)に関しては、政治とは最も深い所では関係しますが、個々の政治行動とは関係しませんから、共産党もその他の政党も、「組織的関係」を断つべきだと思います。つまり、それらの分野の人が、「入党したい」と言ってきたら、「気持ちはありがたいが、その気持ちは自分の活動の中で表現してください」と言って、断るべきだと思います。政党の規約にそう明記しておくべきだと思います。これが常識になれば、政治との関係を利用して出世しようとか、本を売ろうなどと考えるニセモノも少なく成ると思います。

 「査問」については書き残しましたが、もういいでしょう。以上の考えが、皆さんの考えを広げ、深める事に役立てば幸いです。活発な発言を期待しています。

関連項目・言論の自由を考える

ホリグチ フミアキさんへ

2020年07月15日 | ハ行
ホリグチ フミアキさんへ
 あなたから6月19日付けで振り込みがありましたが、その後、どういう用件での振り込みなのかの連絡がありません。
 至急、このブログのコメント欄を使って、以下の事を知らせて下さい。
 1、あれは何の代金なのか。
 2、あなたの氏名を漢字で教えて下さい。
 3、あなたの住所。
 4、できれば、電話番号。
 以上、よろしくお願いします。牧野紀之

西遠女子学園の皆さんへ

2020年07月05日 | サ行
    西遠女子学園の皆さんへ

 1,創設者母校でも募金活動(朝日新聞の記事)

 コロナ禍で苦しむ「劇団たんぼぽ」を支援しようと、創設者である小百合葉子さんの母校・西遠女子学園(浜松市中区)の生徒が募金活動を始めた。劇団もクラウドファンディング(CF)を呼びかけ、存続に向けた活動が本格化している。
 「おはようございます。募金に協力をお願いします」。5月10日朝、同学園生徒会メンバーが募金箱を持って正門と西門に立った。登校する生徒だけでなく、教職員も寄付をしていた。
 大庭知世校長は「小百合さんの行動力やあきらめない精神を知って欲しい」とブログで紹介、講話でも話した。
 募金活動を企画した生徒会の会長で中学3年の山下真央さんは「創設者が先輩ということは校長先生の話で初めて知った。素晴らしい人。劇団存続の力になりたい」と話した。
 劇団の公演は8月までキャンセルされ、秋以降も危うい。収入がなくなったため、団員はアルバイトを始め、けいこも中断されたままだ。4月から地元の信用金庫の口座への募金を始め、約300万円集まったが、さらに広く呼びかけようとCFを始めた。目標は300万円で寄付は劇団HPからできる。 (朝日、静岡版、2020年6月16日。長谷川智)

 2、牧野の考えた事

 ウーン、生徒の皆さんの純粋な気持ちは尊いし、その行動力も素晴らしいと思います。しかし、しかし、しかし、です。この行動は本当に正しいでしょうか。真の解決になるでしょうか。無条件に支持できるでしょうか。私は、疑問を持ちます。
 どこに疑問を持つかと言いますと、こういう問題を知って、そこからこういう行動を起こすまでの間にどれだけの調査研究と、仲間内での議論と、親や先生との話し合いがあったのか、それが分からないのです。
 立派な事をしている人たちが金銭的に困っていると分かった場合、「それ!募金だ!」と走り出せばそれで解決するほど世の中は単純ではないのです。そうして走り出してはみたものの、すぐに壁にぶつかって、挫折した例は沢山あります。私のような60年安保世代には、闘争に敗れて自殺した人もいます。多くの学生はその後就職し、政府の「所得倍増政策」の先兵になりました。
 話が大きくなりすぎましたので、今回の劇団たんぽぽの問題に戻りましょう。
 今回のコロナ問題では、多くの人々が経済的に追い詰められています。しかし、その原因は様々です。又、困る程ではない人々もいると思います。増収増益の会社さえあります。
 私は前からこの劇団の事は知っていました。この朝日の記事の執筆者である長谷川智(さとし)の長期連載企画「遠州考」はもう何年にもなり、その一部は本にもなっています(羽衣出版)が、その連載でつい最近、劇団たんぽぽと小百合葉子の事がテーマになり、3回にわたって紹介されたので、ますます興味を持っていた所でした。
 楽ではないその経営は十分に推察できましたから、少し前に市長宛に質問状を送り、ブラジル人とペルー人のための学校であるムンドデアレグリアと二つの劇団への補助金はいくらか、と質問したくらいです(「市長への質問と回答」2019年⒑月11日)。前者は年に560万円、劇団への補助金はゼロ、という回答をもらって、どうしようかな、と考えていたところでした。
 ですから、生徒の皆さんの募金活動と劇団自身のクラウドファンディングを知って、更に考えました。「どうしようかな」と。そして、このブログ論文を発表することにしました。

 私は非常勤とはいえ、教師をしていましたから、西遠女子学園出身の生徒を何人も知っています。皆、しっかりした優秀な生徒でした。ですから、この学校には好い印象を持っています。そこで、「仮に私が今、西遠で教師をしていたら、どうするだろうか」と考えました。
 答え・授業で正式のテーマとして取り上げます。そして「劇団でも必ずしも困っていない所もあるのではなかろうか」と問題を提起します。「なるべく親とか大人の知人とかに聞いてみて下さい。それを手掛かりにして、更にインターネットなどを使って調べて来て下さい」と言うでしょう。
 次回の授業からは、私見を交えて、又考えてもらいます。私見の中心は以下の通りです。
この問題の根本は浜松市と静岡県の文化行政の問題だと思います。今日7月4日、ラジオで聞いた所によると、ウイーン少年合唱団でさえ、公演が出来なくて困っているとの事でしたから、地方公共団体が支えてもいる団体でさえ、今回の被害は大きいようです。
 しかし、浜松市は劇団に対しては補助金をぜんぜん出していないのです。みなさんは、これをどう考えますか。ムンドデアレグリアに対する補助金でさえたったの560万円です。それに対して、ピアノ・アカデミーへの補助金は1300万円のはずです。
 こう考えてみると、静岡県の予算を考えるのは中高生には少し難しいとするならば、この際、一度、浜松市の予算は本当に適正に使われているだろうかと調べてみるのは、必要かつ可能な事であり、社会科教育として大いに意義のある事だと思います。
 一例をあげますと、浜松市議は46人います。その手当は月64万8000円です。ボーナスは年に2回ですが、合計約400万円弱ですから、年俸は約1150万円です。実際にはその他にも得ている人もいますが、それは無視するとしても、政務調査費というのが大きいです。これは会派に対して出るものですが、一人あたり月15万円出ています。つまり、毎月の政務調査費が全体で、月690万円、年間で8280万円も出ているのです。市議で、これで調査した結果を報告している人がいるでしょうか。それより、その月額690万円を半分ずつにして、劇団たんぽぽとムンドデアレグリアに配るべきではないでしょうか。
 このように問題提起して、又考えてもらいます。数人ずつで話し合ってももらいます。その結果を30分くらいかけて、レポートにまとめてもらいます。それを次回の教科通信に発表します。
 あとはこれの繰返しで考えを深めてゆきます。私は、生徒が自分の考えを発展させるのを手伝うのが教師の仕事だと考えていますから、私見を押しつけることはしません。毎回、新しい材料を提供するだけです。
 みなさんは、こういう考えと授業をどう思いますか。意見がいただけたら嬉しいです。

 参照項目・浜松市長への質問と回答
 




「高価な夲」と学生

2020年07月03日 | 読者へ
   「高価な夲」と学生

 1、拙訳『小論理学』に関して、アマゾンの中で、5月2日に、シネマコールという筆名で、次のコメントがありました。まずそれを引きます。

──出版社も商売でやっているのだから、利益を出すことが目的の営利団体であることはわかるけど、利益を出せば税金も払うし、それで社会・国家に貢献するものでもあるけれども、あまりにも本の値段が高い!
 暴利行為とまでは言わないが、ちょっと考えてもらいたい。
 学生はちょっと手が出にくい。ヘーゲルの本を学生の時に読まないと、次読むのは老後だろう。社会人になって忙しい人は、ヘーゲルの難解な体系書を時間をかけてじっくり読む機会はあまりないでしょう。
 廉価版など、ソフトカバーで今の半値以下で出版してもらいたい。学術書は利益よりも、大事な何かがあると思う。夢・希望・未来は次の世代の若者が担っている。それにヘーゲルの思想・考え方がいかに役立つかというよりも、哲学的柔軟性の思考形成こそ大事である。版権を持っている責任を果たしてもらいたい。

 2、牧野のお返事
 この方が学生なのかはっきりしませんが、学生だと仮定してお返事します。
 税込みで16500円という値段は、本の内容と比べて高すぎるかどうかは、難しいと思いますが、常識的に判断すれば、「高い」と言えると思います。学生がおいそれと買える値段ではないのは、その通りだと思います。
 では、その時、これに興味を持った学生はどうしたら好いでしょうか。出版社や訳者に対して「廉価本を出してくれ」と言うのが適当でしょうか。疑問です。
 普通の学生はどうするでしょうか。多分、先ず図書館で借りて読んでみて、その後の態度を決めるでしょう。「買う必要はない」と思ったらそれまででしょう。「これはやはり買っておきたい」と思ったら、毎月1000円ずつ1年半、貯金して買うと思います。まともな学生なら、こうすると思います。
 そのために図書館があるのです。総合大学でこの本を揃えていないなら、要求すれば好いでしょう。都道府県レベルの図書館に対しても同じ事が言えると思います。
我々もこうして勉強したのです。