マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

学校教育はどう考えるべきか

2011年02月28日 | カ行
 授業がつまらないと先生を責める意見は好く聞きます。それを誰かが投書などすると、生徒にも問題があるという反論と、好い先生もいるという反論の為されることが多い、と思います。

 スクラップを整理していたら、かなり典型的なやりとりがありましたので、それを引きながら、私見を述べてみたい。

 01、本当の授業を見せてほしい(横浜市の18歳の高校生Mさんの投書)

 私は、高校の授業の質の低さに不満を抱いている。学校の授業は本当につまらないものが多い。私たちは、与えられたプリントの空欄をただ埋めていったり、先生が英語の訳を言うのを必死になって書き取ったりする。このような授業では自分の頭で考えないから、当然興味がわかない。

 そもそも知識を得るために勉強するのではなくて、興味あることを知るための道具こそが知識なのだ。だから先生の一番大事な役目というのは、学生の興味を引き出すことであって、知識そのものを説明するのはその次の話だ。

 教科書を使わないで授業をする社会科の先生がいる。その先生の授業ではデイベートをしたり、調べものをしたり、先生の話を聞いたり、とにかく楽しい。みんなの顔が輝く。私も自然と知識で頭が満たされている。本当の授業ってこういうものをいうのだと思う。

 生徒があいさつをしても無視する。授業の声は小さくて聞こえない。教師の質の悪化はすさまじい。学生本位の教育について、大人はもっとちゃんと考えてほしい。高校生の私にこんなふうに言われる先生たち大人は、恥ずかしいと思わないんですか。(朝日、2003年01月25日)

 感想

 典型的な意見でしょう。「本当の授業」をしている先生もいるが、そうでない先生の方が圧倒的に多い。そういう先生は恥を知れ、ということでしょう。

 これはおおむね事実と言って好いと思います(特に高校ではそうだと思います)。これを否定するような人は現実を知らなすぎると思います。

 さて、この事実を確認したとして、次にどうするか。Mさんは新聞に投書して、「そういう先生は恥を知れ」と叫びました。なぜそうしたのでしょうか。先生本人が悪いからだと思ったからでしょう。これで事態は改善するでしょうか。否。なぜでしょうか。先生本人が悪いという認識が間違っているからです。

 学校教育を考える時のほとんどすべての意見の根本的間違いは、「学校教育は個々の先生が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」ということを知らない事です。多くの学校で校長がいかに堕落しているか。そして、更に、教育長がいかに堕落しているか。国民は無知すぎます。

 Mさんは社会科の先生を褒めていますが、その社会科の先生もこれを教えていないようです。これでは困ります。社会に出たら、多くの事は組織を単位として行われることに直面します。従って、組織というものをどう考えるか、社会科の先生はしっかり教えなくてはいけません。私見によれば、「組織はトップで8割決まる」ということと、なぜそうなのかということと、規律とは何かということが一番大切でしょう。

 Mさんも「堕落教師を好くするのは誰の仕事だろうか」と考えて見ると、面白かったでしょう。それは校長の仕事です。従って、Mさんは、本当は、まず校長に訴えて見るべきだったのです。もしそうしたとしたら、多分、答えに成らない答えが返ってきたでしょう。すると、今度は「こうい『生ける屍』みたいな校長を指導するのは誰の仕事だろう」と考えます。それは教育長の仕事です。そこで、教育長に訴えてみます。すると、教育長は校長をかばうでしょう。今度は、「こういう教育長は誰が選んだのか」と考えます。それは首長が任命したのです。そして、そういうことをした首長を選んだのは市民だということに思い至ります。

 しかし、首長の選挙の時、教育長をどうするかが話題になる事はほとんどありません。ではどうしたら好いでしょうか。統一地方選挙も間近です。

 少し先走りすぎました。「校長に言うべきだ」と進言しても、誰も実行しないでしょう。なぜか。日本の学校では校長を天皇視する雰囲気のあることが原因でしょう。個々の教師を批判する生徒や保護者はいても校長を批判する人はほとんどいません。校長もそれをいいことにして、「自分の学校運営や先生に疑問を感じたら、私に言ってください」とは言いません。つまり、市民の臣民根性が問題なのです。

 私は、大学の授業の中で、「学生の第1の義務は、学長の大学運営を批判的に検討することである」と言い、「大学は学問の府である。しかるに、学問の大前提は、『全てを疑う』ことである。学長の大学運営を疑わなかったら、『全てを疑』ったことにならないではないか」と説明します。誰も実行してくれません。一部の学生は、「学長批判をする先生は嫌いだ」と、出なくなります。やれやれ。

 02、山形市の高校生のSさんの意見

 高校生の「本当の授業を見せてほしい」を読んでから、ずっと考えた。私も「授業ってもう少し面白くなんないのかな」と思っていた。しかし、センター試験を受けてみて、面白いだけでは、限界があったのではないかと思う。

 義務教育で覚えた基礎しか入っていない私たちの頭に、大学受験に対応できる学力をたたき込むのは容易なことではないだろう。とにかく時間がないのだ。しかも学校5日制の導入でますます授業時間が短縮された。先生も長年授業や受験と向き合ってきてこその授業をしているはずだ。

 もっと興味がわく授業にしたいなら、生徒自身が意見を言い合えばいい。もっと知識を深めたいなら、待っているだけではなく、自分から先生に会いにいくべきだ。もっと知りたい、という生徒に教えてくれない先生はいないのだから。

 今、高校で手をあげる生徒はほとんどいない。授業をつまらなくしているのは「つまらない」と嘆いている私たち自身ではないだろうか。もう授業がない今になって本気でそう思う。(朝日、2003年02月03日)

 感想

 これも典型的な反論です。先生も悪いが生徒も悪い、というものです。この考えは正しい面もありますが、根本的には間違っていると思います。なぜか。授業の質を決める事で先生と生徒の責任の度合いは決して半々ではないことを見逃しているからです。ではその度合いは本当はどうでしょうか。

 先に述べた通り、「組織はトップで8割決まる」のです。つまり、この場合では「授業は先生の実力と情熱で8割決まる」のです。断っておきますが、この場合、校長がしっかり教師集団をまとめていることは前提されています。

 もうひとつ、教師と生徒の責任の度合いを考える際に忘れてならない事は、「サーブ権は先生にある」ということです。あくまでも、まず先生が好い授業をすることが先です。その場合にのみ初めて、生徒のレシーブが適当かが問題になります。サーブがコートの中に入っていないのでは、レシーブのしようがありません。生徒が質問しないのも、手を挙げないのも、先生のサーブが悪いからです。

 03、神奈川県の高校教員Wさんの意見

 「本当の授業を見せてほしい」を読み、胸をえぐられる思いがした。教員となって30年以上になるが、正直言って「うまくいった」と思える授業は年に数えるほどしかない。これも、生徒たちが「本当の授業」と受けとめたかどうかはわからない。

 どうすれば良い授業を作れるか、同僚の教員と何回も議論しながら、教材研究に取り組んだこともあった。今でも「わかって楽しい授業」を目指し様々な工夫を試みているつもりだが、空回りすることが多い。生徒から酷評されることもある。授業中に漫画を読んだり携帯電話とにらめっこしたりしている生徒もいる。授業から「逃走」してしまうのかもしれない。

 「高校生の私にこんなふうに言われる先生たち大人は、恥ずかしいとは思わないんですか」と鋭い問いかけを発しているが、恥ずかしいけれど、すぐには答えを出せないでいる。このように書くと、「指導力不足」のレッテルを張られてしまいそうだが、多くの教員仲間との実践交流や研究活動を重ねながら、本当の授業、本当の教育とは何かを追求していきたい。(朝日、2003年02月04日)

 感想

 これも典型的な意見です。教師全体がどうかを見ないで、「私はこうしている」という意見だからです。これでは何も解決しません。先生がこれでは希望がありません。


 牧野紀之の浜松市長選への仮立候補宣言
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信心、die Erbauung

2011年02月27日 | サ行
  参考

 01、原語は Erbauungであるが、この語のニュアンスは新約聖書に由来している。パウロに「我らは活ける神の宮なり」(コリ ント後書6の16)、「汝らの身は……聖霊の官にして」(コリント前書6の19)という語があるが、ここからしてクリスチャ ンとしての徳を養うことは己れを神ないし聖霊の住む宮として建てることと考えられた。したがってエルバウウングとは元来は建徳のことである。

 しかしロマンティカーの「宗教」を罵倒するヘーゲル、個々人の心情や徳性を本質的なこととは見ないヘーゲルではエルバクウングは単なる信心、単なるお説教というほどの意味のものであり、また「お説教」は有難 いものであるところからしては erbaulichは「有難い」を意味する。

 アフォリスメンの66にも「宗教がなくなったからと言って、ひとは哲学に対して Erbauenに身をいれ、牧師の代理をすることを要求している」(ドタメンテ371頁)とある のは、やはりロマンティカーを罵倒したものであろう。

 なお宗教哲学講義(15巻22頁)を参照。こういうヘーゲルに反対したのがキュルケゴールの Erbauliche Redenの立場である。(金子武蔵訳「精神現象学」上巻463頁)
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議員に通信簿を付ける会

2011年02月26日 | カ行
 市民が地方議会を傍聴して議員の働きぶりを採点する動きが全国に広がっている。低評価の議員からは批判や抗議の声があがるが、私語や居眠りが減るといった具体的な効果も出ている。統一地方選を前に、議会のあり方の議論につながる可能性もある。

 02月19日、仙台市の市民団体が市議(定数60)の4年間の「通信簿」を初めて発表した。

 作ったのは市内の主婦や元会社員ら約20人でつくる市民団体「議会ウォッチャー・仙台」。本会議での質問の「質」を評価するため、

①事前に調査したか
②他都市と比戟したか
③改善策を示したか

 を採点した。結果は100点満点で平均がわずか7.92点。調査対象とした昨年6月議会までに1度も質問しなかった議員が8人もおり、全員「失格」。いずれも5期以上のベテランだった。

 議場での離席や居眠り、私語も複数のメンバーで数えて公表した。最も居眠りの多かった議員(6期)は、計65回にのぼった。

 事務局の庫山(くらやま)恒輔さんは「議場が議論の場になっていない。ベテラン議員ほど議論せず、素行も悪い傾向がある」と話す。一方、失格になった別の議員(6期)は「委員会では質問し、地域のために働いている」と反論する。

 議員の通信簿づくりは東京都国立市、千葉県佐倉市、兵庫県尼崎市などに広がり、活動の積み重ねとともに効果も上がっている。

 1999年発足の「相模原市議会をよくする会」も1月末、3回目の通信簿を公表した。選挙で掲げた公約を質問に盛り込んだか、といった観点から議場での私語や居眠りまで25項目を評価している。

 赤倉昭男代表は「居眠りは半減した」と言うが、100点満点で51点以上の「合格者」は52人中38人。「残り14人の存在意義は薄い。定数を減らしていいのでは」と手厳しい。

 当初は低評価の議員から「落選したらどうするんだ」と抗議も受けたが、8人の合議で採点し、評価の公平性を保とうと努力してきた。今回、抗議は一件もないという。

 1998年から議会傍聴を続ける東京都の「多摩市議会ウォッチングの会」も、3月下旬に通信簿を発表する予定だ。神津幸夫代表は「議場から居眠りや私語、やじがほとんどなくなった」といい、今回から「態度」の項目は、発言内容そのものを採点するという。

 ただ、2007年の前回統一選では最高評価をつけた議員が落選した。神津さんは、「図表を付けるなどの工夫で、若い人が手に取って議会や選挙に広く関心を持ってもらえるようにしたい」と話す。

(朝日、2011年02月20日。高橋昌宏、関根光夫、米沢信義)

  感想

 こういう会は「全国に広がっている」そうですが、我が静岡県にも浜松市にもないと思います。

 公務員を市民が自主的に評価することは、市民の権利でもあれば、義務ですらあると思います。議員で自己満足することなく、ぜひ学校ホームページ(校長)の評価をする会が出て来てほしいものだと思います。学校を好くする最後の保障がこれだと思います。

   関連項目

議員の通信簿

小学校のホームページの必要項目

中学校のホームページの必要項目
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政治献金の扱い方

2011年02月24日 | サ行
 「受け取った政治献金が供託金の240万円に達せず、立候補出来なかった場合は、その金はどうするのか」という質問を受け取りました。

 01、私の現在の健康と体力ならば、2015年にも再び「仮立候補」出来るでしょうし、そうするつもりですから、取っておきます。

 02、供託金が払えて、立候補した場合。

 法定得票数に達しない場合は、没収されます。

 達したが敗れた場合は、返却されます。この場合も、次回のために取っておきます。

 03、当選した場合も返却されます。この場合は、公楽研の政治活動のために使います。

 04、政治活動を止める時には、公楽研を解散しますが、その時には、残金は公益的な団体(例えばあしなが育英会)に寄付して終えるつもりです。

 05、一般的に言って、

 第1に、政治献金は供託金のためだけではありません。

 第2に、政治献金から給料をもらって生活し、政治活動をすることは悪いことではないどころか、本来はそうあるべき事ですらあります。しかし、日本では政治献金(一般的に言って、公益活動をする団体に対する寄付)が少ないので、そういう形で生活できる人が少ないだけでしょう。

 第3に、政治団体の会計は選挙管理委員会に年に1度、報告しなければならず、それは閲覧に供されます。

 第4に、金の問題では、入よりも出の方がその人を好く表すと思います。鳩山前首相の母親からの金も「何に使ったか」は結局、発表されていません。小沢さんの4億円も何に使ったか、発表されていません。

 第5に、供託金が高すぎると思います。政令市の市長は240万円、政令市の市議は50万円です。どうしてそんなに供託しなければならないのでしょうか。10分の1でいいと思います。

   関連項目

浜松市長選への仮立候補関係の記事
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お知らせ

2011年02月23日 | 読者へ
 02月20日、出版社から「関口ドイツ文法」の三校のゲラを受け取りました。
 再校で少し増えて約1550頁くらいになったようです。
 いつもの通り、ノルマを決めず、休みを入れながら、着実に仕事をするつもりです。
 よろしくお願いします。

2011年02月23日、牧野 紀之
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映画「マイ・フェア・レディ」考

2011年02月22日 | マ行
  岩井克人 東京大数授

 つい最近テレビで「マイ・フェア・レディ」を見る機会がありました。オードリー・ヘプバーンとレックス・ハリソンが主演したあのミュージカル映画です。前に何度か見ていますが、いつも同じように感ずるところがあり、今回、取り上げることにしました。

 「マイ・フェア・レディ」には原作があります。ジョージ・バーナード・ショーが1913年に発表した「ピグマリオン」という題名の戯曲です。それを下敷きに1956年にミュージカルが制作され、その大ヒットを受けて1964年に映画化がなされたのです。

 「ピグマリオン」とは、自分が制作した女性の彫像のあまりの美しさに恋をしてしまったギリシャ神話の登場人物です。その恋の苦しみを女神アブロディテが憐れみ、ある日ピグマリオンが彫像の口に接吻(キス)すると、冷たい大理石にたちまち血潮が満ちあふれ、生きた女性となったという物語です。創造者が創造物に恋をしてしまう──このギリシャ神話を、20世紀初頭のイギリス社会に移植したのが、戯曲の「ピグマリオン」であり、映画の「マイ・フェア・レディ」であるのです。

 周知のように、バーナード・ショーは風刺家として有名です。彼はまた社会主義の活動家でもありました。「マイ・フェア・レディ」が当時のイギリスの階級社会の風刺となっていることは言うまでもありません。だがショーは、イギリスの階級社会がもっとも明白に現れる「言葉」という問題を取り上げることによって、たんなる風刺を超えた作品──言葉と人間という問題を考察する作品を書くにいたったのです。

 「この英語ではこの娘も一生貧民窟暮らし。だが私なら半年で大使館の舞踏会に公爵夫人として出してやる」。

 「マイ・フェア・レディ」の冒頭の場面です。大声でコクニー(下町訛(なまり))英語をしゃべり散らす花売り娘のイライザを指して、言語学者のヒギンズ教授がインド方言研究者のピカリング大佐に向かって言うセリフです。

 次の日、淑女になるための英語を教えて欲しいと自宅に押し掛けてきたイライザに、ヒギンズは自分の音声教育法を実験する絶好の材料を見出します。ピグマリオンが大理石の原石を手に入れたのです。そして、ピカリングと賭をします。半年でこの薄汚い花売り娘を公爵夫人に仕立て上げてみせるという賭です。ヒギンズはイライザを引き取り、言葉の特訓を始めます。

 いく度かの挫折を経て半年後、ヒギンズとピカリングに連れられて大使館の大舞踏会に乗り込んだイライザは、まさに大成功を収めます。その晩、自宅でヒギンズは、舞踏会の間中イライザの素性を嗅ぎ回っていたハンガリー人が「イギリス人にはあんなに完璧な英語は話せない。彼女は専門の教師から英語を学んだハンガリーの王女に違いない」と招待客に吹聴し回っていたことを、得意げに披露するのです。

 ヒギンズは賭に勝ちました。花売り娘に淑女の言葉を教えれば、公爵夫人、いや王女にすら仕立て上げられることを実証したのです。淑女と花売り娘との違いは、淑女は淑女として振る舞い、花売り娘は花売り娘として振る舞うだけであるというわけです。

 だが、物語はまだ終わりません。舞踏会でのイライザの笑いは作られた笑いでした。淑女の言葉を身に纏った花売り娘は、大理石の原石ではありませんが、まだ冷たい彫像に過ぎないのです。本当の物語は、この彫像にいかに命が通い始めるかにあるのです。

 その日の深夜、イライザはヒギンズと口論をして家を出、ヒギンズの母親のもとに庇護を求めます。そして次の朝、母親の家にやってきたヒギンズの前で、次のような言葉を発します。

 「淑女と花売り娘の違いは、彼女自身がどう振る舞うかではなく、彼女がどう扱われるかです。私を花売り娘としてしか扱ってくれないヒギンズ教授の前では私はいつも花売り娘。でも、淑女として扱ってくれるピカリング大佐の前ではいつも淑女なのです」。

 確かにヒギンズは社会的な意味では、自分を淑女に仕立て上げてくれた。だが、日々の人間と人間との関係においては、自分を一個の人間として扱っていないと、訴えているのです。

 これに対してヒギンズは反論します。「私は公爵夫人も花売り娘のように扱っている。君を粗末に扱うと言うが、他の女と区別していない。私はすべての人間を同等に扱っているのだ」。

 だが、ヒギンズがこう言い放った時、この言葉はヒギンズの心を裏切っていたはずです。なぜならば、ヒギンズにとってイライザは、もはや他の女と同等の存在ではなくなっているからです。

 いまヒギンズの目の前にいるのは、コクニーをしゃべり散らす花売り娘ではありません。淑女として振る舞うために淑女の言葉を話す花売り娘でもありません。それは、ヒギンズから学んだ言葉を駆使して、そのヒギンズに挑戦するイライザです。外部の言葉が内部の言葉になっているのです。淑女となるための道具として与えられた言葉が、いつの間にか自分自身の言葉となっているのです。すなわち、イライザは一個の独立した人間としての存在を持ち始めているのです。冷たい大理石の彫刻が、その口に言葉を吹き込まれることによって、熱い血潮に満ちあふれるようになったというわけです。

 ここにイライザとヒギンズがはじめて対等な人間として対時することになったのです。そして、それは本当の意味でのロマンスの開始を告げます。ヒギンズの目は、強がりを言うその言葉とは裏腹に、イライザに恋しています。後は、イライザがヒギンズに恋を返すかどうかだけが問題であるのです。

 じつは、原作の「ピグマリオン」では、このロマンスは成就しません。イライザは貧乏な青年紳士のフレデイーと結婚してしまうのです。バーナード・ショーの劇作家としての自負がハピー・エンドの安易さを許さなかったのでしょう。だが私は、バーナード・ショーの権威に敬意を払いつつも、大団円としてはミュージカル版のほうが正しいと思っています。そして、そのほうがずっと楽しい。

 そうです。イライザは1度はヒギンズに別れを告げますが、結局は彼のもとに戻ってくるのです。2人が結ばれることが暗示されて、「マイ・フェア・レディ」はめでたく幕を閉じます。

 (朝日、2003年11月04日)

   感想

 多くの映画批評と違ってこの岩井さんのは映画の思想内容を論じているので関心を持ちました。同時に、読み終わった後も考え続けました。

 この文章には、多分、編集部によって、「外部から内部の言葉へ、独立した人間の条件」という題がつけられています。文中の言葉から取った適切な題だと思いますが、では、この事はもう一段一般化して、「それは我々の生活にとってどういう意味があるのか」と問い直すとどうなるのでしょうか。

 私の達した結論は、「頭で理解した知識から身に付いた知識へ」ということではないかというものです。

 こう捉えると、東大教授としての岩井さんの結論は不十分ではないかとなります。なぜなら、教師の仕事というものは、まずは「知識を頭で理解させる」ことですが、更に進んで、生徒がその知識を「身に付ける」あるいは「体で覚える」ように導くものであるからです。それなのに、氏にはこの自己反省が欠けている、で悪ければ、書かれていないからです。

 「そういう事は卒業後、社会人になってから、あるいは職に就いてから徐々に努力してやって行くものだ」という反論もあるかもしれません。しかし、その前に、こういう一般化が必要だったでしょう。私も教師をしていましたから、反省しています。いや、教師として以前に、個人として自分自身がこの区別を十分に自覚していなかったために多くの不要な失敗をしました。

    関連項目

アメリカ映画「追憶」を見て

中国映画「芙蓉鎮」を評す

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NPOリーダーの養成

2011年02月21日 | ア行
                市民バンク代表・片岡 勝

 不況のために日本中が暗い。けれども、私の周りには笑顔で仕事を楽しんでいる人たちがいる。地域の問題に目を向け、地域で必要とされている様々なサービスを事業化し、仕事にしていくコミュニティービジネスの担い手たちだ。彼らは、現状を逆にチャンスと考えて張り切っている。

 私たちが2000年から各地で開催している「女性のためのビジネススクール」の卒業生は約5000人。そこから誕生したコミュニティービジネスの担い手は1000人を超えた。親を介護した経験から作ったグループホーム、アトピーの子育てをきっかけに始めた天然酵母のパン屋など、いずれも自分の問題意識から始めた事業だ。

 目標は地域の問題を解決すること。トントン経営でいいので無理な投資はしない。自分の夢を実現し、地域の人に感謝される。だから、元気だし、強い。事業形態はNPO(非営利組織)や株式会社など様々だが、不況も閲係ない。1989年に始めた「市民バンク」は
109件5億6000万円余を融資してきたが、貸し倒れは1件もない。

 地域に目を向け起業する動きは女性だけでなく、若者の間にも広がっている。私が教えてきた福岡大、山口大、法政大の学生からも、この3年で17人の起業家とNPOリ」ダーが生まれた。彼らは自治体が抱える赤字施設の運営や、第三セクターが運営する再開発地の活性化など、行き詰まりを見せている公共部門の経営を行政に代わって担おうと意気込んでいる。

 ある若者は山口県豊浦町で町のペンションの建て直しに挑んだ。補助金を出しても赤字が続き、町が困っていた施設だ。東京から移り住み、外注していたクリーニングや掃除はすべて自分でやる。客室が埋まれば自分の泊まる部屋を空けて食堂で寝る。彼はこうして町の補助金はもらわずに前年比4倍以上の売り上げを達成した。コミュニティービジネスに必要なのは新たな発想と手法なのだ。

 私の仕事は、地域にこうした経営者を育て、行政との協力と競争を演出することだ。最近では、行政からひとつのビルの再生、数十万平方㍍の土地の活用、第三セクターを立て直す人材の育成などの相談が舞い込んでいる。ベンチャー講座でこのような地域貢献型の経営者を育ててほしいという大学は六つになった。アメリカの経済学者ドラッカーが十数年前に指摘していたことが今、日本で現実になろうとしている。

 不況から抜け出せない、先が見えないと嘆いているだけでは何も変わらない。
バブル後の空白から抜け出せないのは、コスト意識の薄い行政セクター、自発性を生かせない企業セクターに任せきりにしているからだ。今、求められているのは、国や自治体や他人に依存するのではなく、地域に目を向け、自分の身近な問題を自分のリスクで解決していく一人一人の力だ。

 地域の問題を解決するコミュニティービジネスが各地に広く根をはり巡らせ、新たな発想と手法で仕事を楽しむ人たちが増えたとき、新しい社会のかたちがつくられることだろう。産業構造の転換も、内需の拡大も、分権型の社会も、新しいライフスタイルも、地域の豊かさも、すべては、そこから生まれる。

 (朝日、2003年01月22日)

  感想

 片岡さんの活動は本当に立派だと思います。私は、彼の出発点である第3世界ショップの客として、長年、彼の活動を見てきました。それの動機となったタイでの経験も有名です。

 しかし、これで全てが解決するとか、ましてこういう活動が世直しの中心だと思うとすると、違うと思います。世の中は、大きく分けると、官と民に大別されます。両者は住み分けているのではありません。官が世の中の大きな枠組みを作り、民はその枠組みの中で創意を発揮して生きて行くのです。その枠組みの在り方によって、生きやすくもなれば生きにくくもなります。

 この枠組みがどうなっているか、それをどう変えて行くか、この根本問題から逃げては本当の世直しは出来ないと思います。

 行政トップへの批判に必要性、またNPOなどの活動家の中から政治家を志す人が出てくる必要性のある所以です。
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調査捕鯨、岐路に立つ

2011年02月20日 | ハ行
 南極海で実施されていた今季の日本の調査捕鯨の打ち切りが02月18日、決まった。直接のきっかけは反掃鯨団体「シー・シェパード」(SS)による妨害活動だが、鯨肉の国内消費が激減している事情も背景にあるようだ。来季以降の見通しも不透明で、80年近い歴史を持つ南極海での捕鯨が岐路に立たされている。

 鹿野道彦農林水産相は18日の会見で、来季以降の南極海での調査捕鯨について「なかなか困難な状況とみている」と述べた。「困難」には二つの理由がある。一つはSSが妨害活動の継続を表明していること、もう一つは財政的な問題だ。

 日本の南極海での捕鯨は1934年に始まった。世界的に捕鯨反対の機運が高まったため、1988年に商業捕鯨から撤退。その前年から、商業捕鯨をするのに十分な鯨が生息しているというデータを得るためとして調査捕鯨を始めた。

 捕獲された鯨の肉は「副産物」として、国内市場で流通している。その売り上げが来季の調査捕鯨の経費に充てられる仕組みだ。事業主体の財団法人・日本鯨類研究所(東京)の2009年度予算では、調査事業費60億円に対し、売り上げは57億8000円だった。しかし、今季は途中で打ち切りとなるため、捕獲量は国際捕鯨委員会(IWC)に認められた枠の約5分の1にとどまった。水産庁は想定した売り上げから約20億円減ると試算する。来季も調査捕鯨を実施する場合、この不足分の補充が課題となる。

 もともと、国内の鯨肉の消費量は減り続けている。同庁によると、国内消費はピーク時の約40万トン(1962年)に対し、近年は4000トン程度。消費低迷で昨年12月末時点での国内在庫量は5093トンに膨れ、前年同期より847トン増えた。捕鯨問題に詳しい小松正之・政策研究大学院大教授は、「若い世代にとっては鯨は高い金を払う対象ではない。希少価値や高級感に頼らないで売る戦略が欠けてきた」と指摘する。

 捕鯨を論議する場であるIWCの加盟国は88ヵ国。水産庁によると、このうち捕鯨支持国は39、反捕鯨国が49。近年、両派の対立で何も決められない状態に陥っている。

 SSの寄港地や船籍国となっている豪州、ニュージーランド、オランダはいずれも反捕鯨国だ。前原誠司外相は18日の会見で「3ヵ国にはSSの暴力行為を防止する措置を再三申し入れてきた。極めて遺憾だ」と話した。

 南極海での調査捕鯨は、南極の領有権を主張する周辺国が特に強く反対している。豪州とニュージーランド両政府は18日、いずれも日本の決定を歓迎する意向を表明した。豪政府は昨年5月に日本の調査捕鯨廃止を求めて国際司法裁判所(ICJ)に提訴しており、「1シーズンだけでなく、永遠の捕鯨停止を求める」としている。

 日本はIWCで調査捕鯨の継続と商業捕鯨の復活の双方を要求してきた。しかし、反捕鯨国との摩擦もあり、昨年6月の年次総会で「南極海での調査捕鯨枠を大幅に減らす代わりに、日本近海での商業捕鯨を復活させる」方針に転換した。水産庁幹部は「捕鯨は日本の伝統。文化を守るという意味で国際的に主張を続けていく」と語る。

 枝野幸男官房長官は18日の会見で「省庁横断的に対策を練りたい」と述べ、南極海での調査捕鯨の継続に意欲をみせた。しかし、専門家の間では「昨年の方針の流れで、南極海から撤退し、近海の商業捕鯨を求める戦略に専念する可能性が今後、強まるのでは」との見方が強い。

 (朝日、2011年02月19日。大谷聡)


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証明、der Beweis, das Demonstrieren

2011年02月19日 | サ行
  参考

 01、数学的認識の際にも又、証明の本質的な点は結果自身の契機であるという意味と本性を持たず、結果の中で過ぎ去り消え去っている。(精神現象学35頁)

 02、数学的証明の運動は対象の本質に属さず、事柄にとって外的な行為である。(精神現象学35頁)

 03、証明とは一般に、媒介された認識である。(大論理学第2巻102-3頁)

 04、証明(Demonstrieren)は、概念に沿って、即ちただ規定に沿ってしか進行しない限りは、没概念的概念の能力としての悟性に属する。従って、概念に沿ってのそのような進行は有限性と必然性を越えることはない。その最高の点はせいぜい最高存在という抽象であって、その最高存在自身も無規定性という規定性である。(大論理学第2巻249頁)

 05、ユークリッドの体系では後の証明や作図に必要な物は前に証明されている。この事は形式的な合目的性であって、概念と理念の区別には関係しない。(大論理学第2巻467頁)

 06、証明は定理の中で結びついているものと言明されたものの媒介を含んでいる。この媒介によってこの結びつきは初めて必然的な結びつきとして現れることになる。(大論理学第2巻470-1頁)

 07、補助作図がそれだけでは概念の主体性を欠いているように、〔数学上の〕証明は客観性を欠いた主観的な行為である。(大論理学第2巻471頁)

 08、〔幾何学の〕証明は、定理の内容をなしている関係の「生成」ではない。そこでの必然性とは、ただ洞察にとっての必然性にすぎず、全証明は認識の主観的助けのためである。(大論理学第2巻471頁)

 感想・ユークリッドの幾何学を手本にしたスピノザに対する批判です。

 09、〔概念の定義の形式的な方法では〕、定義はいくつかの特殊な場合から取りだされるのだが、その時〔何を取り出し何を捨てるかを考える〕根拠としておかれものは、人人の感情や観念なのである。その時、その定義の正しさとは、その定義と眼の前にある観念とが一致することだとされる。……しかし、哲学的認識にあってはむしろ概念の必然性が主要な事柄であり、〔その概念が〕結果として生成してくる歩みがその概念の証明であり演繹なのである。(法の哲学第2節への付録)

 感想・牧野「弁証法の弁証法的理解」参照

 10、理念の体系的導出──これは普通、人々が「証明」という言葉で理解しているものであって、科学的な哲学には不可欠のものである。(小論理学、第1版への序文)

 11、思想の内容の必然性を示すこと、即ちその対象の存在と諸規定を証明すること。(小論理学第1節)

 12、理性の考える証明というのは悟性の考えるそれとは全く異なったもので、それは良識の考えと一致しています。たしかに理性的な証明の場合でもその出発点は神以外のものですが、その証明が進む中で、この〔出発点とされた〕他者の方は直接的なもの、〔端的に〕存在するものではなく、むしろ媒介されたもの、定立されたものであることが示されます。それによって神は、この媒介を止揚されたものとして自己内に含みもつ真の直接的存在者、根源的なもの、自己に立脚するものと見なさなければならないことも明らかとなるのです。

 〔良識による神の存在証明について見ると〕「自然を見よ、すると自然は君を神へと導き、君は絶対的な究極目的を見出すだろう」と言われていますが、ここで意味されていることは、神が〔自然によって〕媒介されたものであるということではありません。我々人間だけが神以外のものから神へと歩むのであり、その時、その歩みは帰結としての神は同時に前者〔自然〕の絶対的な根拠でもあるということなのです。かくして、立場は逆転され、帰結であるものが根拠でもあり、初め根拠とされたものが帰結に引下げられるのです。そして、これはまた理性的な証明の歩みでもあるのです。(小論理学第36節への付録)

 13、哲学では、証明するとは、対象がいかにして自己自身から自己を自己の本質へと作り上げて行くかを示すことである。(小論理学第83節への付録)

 14、すでに実証され、または論証されている理論との一致不一致を争うのが論争であり、論争にも意義がある。しかし、それが思考の真理性を測る唯一の基準でもなけれは最後の基準でもない。だからといって、「実践による検証」を振り回していいということでもない。これは大きな問題であるが、その基本点はマルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ・第八」に与えられている。(牧野「労働と社会」39頁)
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商品、商品生産社会

2011年02月17日 | サ行
 ①商品生産社会

  参考

 01、商品生産に基づく社会は、どれも、そこでは生産者たちが自分達自身の社会的関係に対する支配力を失っているという固有の性質を持っている。(マルエン全集第20巻253頁)
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浜松茶の未来

2011年02月16日 | ハ行
 静岡市の茶業界の様子が発表されました。ここをクリック

 浜松茶も同じだろうと推測します。我が家の周囲でも茶畑は減っています。これをどうしたらよいのでしょうか。

 多くの人は人口が減っているのだから仕方ないと言っています。本当にそうでしょうか。人口の少ない国でも、輸出によって産業を発展させている場合もあります。現に、今、日本茶は外国で人気が出ています。ここに1つの可能性があると思います。

 国内を見ると、ペットボトル茶の全盛です。多くの家庭で茶を淹れなくなっています。しかし、ペットボトルのお茶しか飲んだ事のない人でも、正しく淹れたお茶を飲むと、「ペットボトルのお茶と全然違う」と言うそうです。つまり、お茶の本当の味を経験してもらうことが大切だということです。

 又、鹿児島などのように平地で大規模な経営の所が伸びていると言われています。ですから、山の多い静岡県では太刀打ちできないと言う意見があります。しかし、先日は、テレビで「掛川の深蒸し茶が健康に好い」と言われて、掛川茶が品薄になったとかいう話も聞きました。つまり、品質を武器にすることで打開する可能性があると思います。

 思うに、お茶の本当の淹れ方と本当の味を知っている人は少ないのではないでしょうか。かく言う私にも余り自信はありません。これでは話にならないと思います。いくら「好いお茶」を作っても、それを正しく味わう事の出来ない人を相手にしていては、広まるはずがありません。

 ジャパネット高田とかいう通販の会社は「使い方を紹介する」ことで販売を伸ばしたと言われています。浜松茶も「使い方」つまり「飲み方」を教えたらどうでしょうか。これが大前提でしょう。

 静岡駅の南口を出てすぐの所に(スルガ銀行の入っている「水の森ビル」の3階に)O-CHAプラザ(以下、「お茶プラザ」と書く)という県と業界とで作った(?)宣伝の場があります。しかし閑古鳥が鳴いています。どうしてこういう状態を放置しておくのでしょうか。多くの人が来てくれるように工夫をするべきです。

 先日、そこでお茶の淹れ方の指導を受けました。考えた事を書きます。

 第1に、小さな湯呑なのに沢山の茶葉を使っていました。つまり、多くの家庭では茶葉の量が少なすぎるのでは、と考えました。しかし、そう云うと、「沢山使うと、高くつく」という反論が考えられます。しかし、仕方ないのです。ペットボトルのお茶では少量の茶葉を徹底的に絞りつくしている、という話を聞きます。それにそのお茶プラザでは多量の茶葉を使いましたが、3回淹れられました。いずれも美味しかったです。

 紅茶でも、日本人の淹れ方では茶葉が少なすぎると言われています。ですから、本当のお茶(や紅茶)を飲みたいなら、茶葉を必要量使うか、煎茶以外の茶を飲むかしかないと思います。

 実に、日本人の偏見(だと思います)は、「煎茶は高級で、番茶など他のお茶は低級だ」という考えだと思います。煎茶は低い温度で淹れますから、本来「午後のお茶」で、その他の場合は番茶やほうじ茶を飲むことを考えたらどうでしょうか。私は、生産者も勇気を持って、こういう提案を消費者にするべきだと思います。

 もちろん最後は消費者自身が決めることですが、その前提としての正しい経験をする場を増やしたらどうでしょうか。お茶プラザ(「一服亭」というネーミングはどうでしょうか)は1つしかなく、知られてもいません。浜松市内に数ヵ所、作るべきです。駅の「メイワン」の中にも1つ、市役所にも、ショッピングセンターの中にもあっていいと思います。喫茶店の営業妨害になるのではないか、といった議論は違うでしょう。レコードを放送で流したら、レコードが売れなくなるという考えと同じです。

 私見では、我々の作る「一服亭」では、煎茶だけでなく、ほうじ茶も番茶も紅茶もコーヒーも、本当の淹れ方を実習できるようにするべきです。コーヒーでも、生豆を自分で煎って(焙煎して)、自分でミルで粉にして、その場で淹れて見るなどということは、そう体験出来るものではありません。

 第2に、レストラン(特に和食屋さん)のお茶を本物にしてもらうように働きかけるべきだと思います。私は食通と言える程の人間ではありませんが、時々外食をするたびに、「料理は美味しいけれど、お茶とご飯とみそ汁がなあ」という感想を持つことがほとんどです。

 ご飯とみそ汁も大問題ですが、それはいずれ機会があったら論ずることにして、今は「レストランで出るお茶」を問題にしたいと思います。これこそ、「茶葉を沢山使うとコストがかかる」という考えで、ただ薄緑色のお湯を出しているように思える所が沢山あります。これくらいなら、茶色のお茶(これが本来のお茶の色)、つまり番茶かほうじ茶を美味しく淹れて出してくれた方が嬉しいです。

 この現状を変えて、「浜松のレストランではお茶が美味しい」と言われるようにしたいものです。

 この2つをやってから、輸出に本格的に取り組むのが順序だと思います。先にも触れましたように、外国ではお茶が飲まれるようになっています。ぜひ、「本当のお茶」が飲まれるようにするべきです。

 こういう努力を生産者と行政が一緒にやって行く中で、生産者は、これらを考慮して、自分はどの道を選ぶかを決めればいいと思います。

 仮立候補宣言後の第1の話題として、浜松茶の未来を考えてみました。皆さまの多くのコメントを期待しています。ぜひ建設的な意見をお願いします。

    参考

緑茶とは何か

浜松市長選への仮立候補宣言

牧野紀之の公約

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浜松市長選への仮立候補宣言

2011年02月15日 | ハ行
                    牧野 紀之

 浜松市民の皆さん

 民主党は「官僚主導政治から政治主導政治へ」と言いましたが、今では完全に「官僚主導政治」に戻りました。浜松市長は、20年も続いた栗原市政から転換しようと、一部の財界人の主導で北脇市長に変わり、それが官僚に丸投げする市政になると、今度は鈴木康友市長になりました。

 しかし、これで「官僚主導行政」から市長主導行政に変わったでしょうか。否です。ではなぜ変わらなかったのでしょうか。北脇市長や鈴木市長が「悪い」人だったからでしょうか。そうではないと思います。2人とも悪い人ではありません。善意に満ちた人です。それなのに、なぜ市長主導で公正な行政が出来ないのでしょうか。なぜ男女共同参画は進まず、駅周辺の駐車場化は止まらず、過疎化は一層ひどくなり、学校でのイジメや学級崩壊は少なくならないのでしょうか。

 この現実を直視することなしには今回の市長選挙は本当の物にならないだろうと思います。

 では、具体的にはどうしたら好いのでしょうか。どういう心構えで市長選挙に臨んだら好いのでしょうか。一般に、主権者は選挙に対してどういう態度で臨むべきでしょうか。我々が生活して行くに当たっての心構えと本質的な違いはないと思います。なぜなら、選挙はとても重要なものですが、結局は選挙も生活の1部だからです。

 我々は毎日の生活をどのように生きているでしょうか。意識性の違いはあるにしても、誰でも、直面した問題を「これまでの経過と現状」を調べ考えた上で判断していると思います。人が対象となる場合には、その人の「これまでの行動実績に基づいて」判断していると思います。

 これは浜松市長選挙ではどうなるでしょうか。言うまでもなく、「浜松市長選立候補者のこれまでの行動実績」で判断すると思います。では、それはどこで調べられるでしょうか。簡単です。今では、いくらでも詳しく分かりやすく説明出来るインターネットというものがあります。ここに各候補者が必要十分な情報公開をしているか、それが先ず第1の手掛かりです。不十分な情報公開者はそれだけで既に失格です。必要十分な情報公開がなされているならば、後はその内容で判断することになります。

 しかし、判断に際しては対象を調べるだけでは不十分です。判断は対象に「自分の判断基準」を当てて行うものだからです。つまり、その「与えられた情報を自分で判断する時の、その判断基準」を反省し、確認しなければなりません。今回の選挙で考えるならば、「今、浜松市長に求められる条件は何か」です。皆さんはこれをしっかりと考えてほしいと思います。

 ご参考までに、私見を述べます。それを重要な条件から順に3つ挙げて見ます。

 第1の条件は、浜松市政の「全体的真実」を研究する探求力であり、それを分かりやすく市民に知らせる説明能力でしょう。

 第2の条件は、そこで明らかになった「全体的真実」を基に、我が浜松を「公正で楽しい浜松」に変えるアイデアを考え出す構想力だと思います。

 第3の条件は、市民や職員の意見を聞きながら市民や職員を指導して、第1と第2の任務を実行して行く指導力だと思います。

 これらの3条件が欠けていたから官僚主導政治から脱却出来なかったのだと思います。特に、その大前提である「探求力」と「説明能力」に欠けていたからだと思います。これの是正は「浜松行革審」にも期待されたことでしたが、行革審にはその問題意識すらありませんでした。

 その結果、浜松市政の全体像はどこにも発表されていないという状態が続いています。そのもっとも顕著な証拠が混乱を極めたホームページです。

 私はこれに対する対案を出そうと、数年前から「浜松市役所の真ホームページ」というものをネット上に作ってきました。それをしてみて分かったことは、これを求める市民は多いということです。私のブログの閲覧頁数(ページビュー)は市議や副市長のブログのそれをはるかに上回っています。

 しかし、同時に分かった事は、「浜松市政の全体像を示すことは市長にしかできない」、ということです。在野の市民にはもちろん、市議にも無理だということです。重要なことになると、質問してもまともな答えが返ってきません。そもそも、役所の中でこういう「全体的真実」という問題意識で情報が整理されていないようです。

 私が今回、市長選に立とうと考えた最大の理由はこれです。哲学者としての研究で得られた理論に基づいて、「浜松市政の全体的真実を分かりやすくまとめてみよう」と考えたからです。

 従って、私は、「政策の方向」も発表しますが、それはあくまでも2次的なものです。「確約事項」こそ私の公約です。それは、次の通りです。
 ① 市政の全体的真実を明らかにし、発表します。
 ② ダンマリ市政反対。活発な議論が起きるようにします。
 ③ 市民による行政監視を強めるようにお願いします。

 見れば分かる通り、いわゆる政策は入れていません。浜松市の現状はこのような大前提から再出発しなければならない程、行き詰まっています。真相が闇の中なのです。実際には国政でも県政でも同じでしょうが、この問題を浜松市政で実際に解決してみようと考えたのです。

 多分、2年あれば調査は終わるでしょう。一般にも「予算を2回作らないと行政は分からない」と言われています。ですから、私は、4月に当選して5月に市長になりましたら、既に考えてあります計画に沿って、職員や外部の専門家の協力を得て、市政の全体像の調査・研究に取り掛かります。そして、その結果を順次、新しい市役所ホームページに発表して行きます。

 これを終えて2年後にいったん辞職します(これが第4の確約事項です)。その後は、明らかになった全体像を見て、志のある人たちが「本来の政策」(マニフェスト)を掲げて市長職を争えばいいと思います。その時には私も新たに「政策の方向」を「公約」に変えて再度立とうと思っています。しかし、それは先の話です。

 囲碁や将棋をしたことのある人なら、誰でも、「盤面全体を見て最も重要な所から手を付けて行く」ということを知っています。それなのに、行政ではこの当たり前のことが実行されていないのです。全体を見ないまま、あるいは見ようとしないで、あるいは見えないのをいいことにして、自分の部署の事だけ考え、自分達の保身を考え、「適当な事業」を案出しているのです。

 確かに日本の役人は他国の役人より優秀だったのでしょう。これでもかなりの成果がありました。しかし、このやり方は今や完全に行き詰まっています。だから、国政でも県政でも市政でも「官僚行政の克服」がテーマとされているのです。

 しかし、これは実に言うは易く行うは難(かた)い事なのです。それは、その大前提たる「行政の全体的真実の追求」ということがとても難しい事だからなのです。そのため、十分な研究と準備をしないで空論を掲げて当選した首長や首相が、現実の壁にぶち当たって「公約違反」を繰り返すというのが当たり前になっています。

 今こそこの悪習慣に終止符を打たなければなりません。そのためには、主権者も「候補者がどれだけ研究しているか」「どれだけの実績があるか」を基にして判断しなければならないでしょう。

 さて、これを「仮立候補宣言」としたのは、浜松市長選に立候補するには供託金として240万円が必要ですが、市民のご寄付でその額が集まった場合にしか立候補しない(出来ない)からです。2400人以上の方が1000円ずつ出して下さったら立候補できると思います。

 私は選挙運動も、これまでの方々とは違って、ほとんどをインターネットで行います。つまり、ブログと(出来れば)動画を使います。これらを使って、自分の考えを伝え、皆さんと対話をします。

 「出たい人より出したい人を」と言います。「牧野を市長に出したい」と思う方は、まず1人1000円の寄付をお願いします。後援会はありませんから、「公楽研」(公正で楽しい社会研究会の略ですが、この略が正式名称です)に送って下さい。

 そして、もし正式に立候補出来ましたら、自由に「勝手連」を作って活動して下さい。しかし、その場合でも「正直は最良の政策」という言葉を忘れないで下さい。

 正しい目的を達成するには正しい手段でなければなりません。正々堂々と、正論を掲げて、言論だけでやりましょう。(→ 私の「公約」)

 なお、私への意見や問い合わせなどには、すべて、このブログのコメント欄を使って下さい。返事の欲しい場合は、氏名、住所、電話番号を書いて下さい。こちらで判断して、必要ならお電話をさしあげます。私への電話はお断りします。直接、拙宅に見えるような事は絶対にしないで下さい。

 よろしくお願いします。

2011年2月15日、牧野 紀之

   公楽研の口座

金融機関名──ゆうちょ銀行
名前──公楽研(コウラクケン)
口座番号①──(記号)12300──(番号)16179491
口座番号②──(店番・店名)238(ニサンハチ)──(種目)普通預金──(口座番号)1617949

 説明・郵便局から送金する場合は①を、他の金融機関から送金する場合は②を使って下さい。

 1001円以上のご寄付を下さった場合は、このブログの「コメント」欄を私信として使って、「氏名」と「住所」と「職業」と「年月日」と「寄付額」をお知らせ下さい(こういう法律をそのままにしておくから、日本では個人献金が増えないのだと思います)。

 なお、これは公楽研の帳簿に記載するだけで、選管に提出する収支報告書には記載されません。5万0001円以上のご寄付の場合は、収支報告書にも記載しなければなりませんので、その旨ご承知おき下さい。

      関連項目

浜松市役所の真ホームページ
哲学の広場

私の自治会長
行革審はどこが間違っているのか
(2009年の)「静岡県知事選の争点」

議論の認識論
白熱教室は50点
主義を糧とする人々(アメリカ映画「追憶」を見て)

鈴木やすともの公式サイト
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象徴

2011年02月13日 | サ行
 言語(あるいは名詞でもいい)を(事物の)象徴とする考えがありますが、これは拙いのではないかと思います。

 象徴は、日本の象徴が富士山であるとか、女性の象徴が乳房であるとか、平和の象徴が鳩であるとか、象徴されるものとの間に「自然的な」あるいは「歴史的な」根拠があるからです。それに対して対象との関係の恣意性を本質とする言語にはそのような根拠は不必要だからです。

 「誰それは何々の象徴的存在」といった表現になると「代表」に近い感じがします。代表とか典型については拙稿「昭和元禄と哲学」(『生活のなかの哲学』に所収)にまとめました。

  参考

 01、哲学はその概念規定を表すのに数字や象徴などの助けを必要としていない。……概念規定は自分自身を言い表している。これを表示することだけが正しく適当な表示である。象徴などを使うことは概念規定を把握し、決定し、根拠づけることを省くための安易な手段でしかない。(大論理学第1巻334-5頁)

 02、比喩(Vergleichung)は〔それによって説明されるはずの〕考えと完全には一致しない。それはいつもそれ以上のものを含んでいる。(ズ全集第18巻109頁)

 03、象徴の中に観念を隠そうとする人は、観念を持っていないのである。(ズ全集第18巻109頁)

 04、精神哲学の第401節への付録

 05、礼儀上の所作は多分、それ自体として、或る表意を持っている。これは多分、或る象徴なのだ。(ソシュール「言語学序説」山内訳、勁草書房189頁注18)

 06、「シュンボロン」は文字通りには「合わせもの」であり、1つの品を2つに割って、2人の人間がその片方ずつを持ち、証拠の必要な場合に両方を合わせてみるのに使う「割符」が、その具体的なもとの意味である。
 しかし、証拠として使われるのは割符だけではない。「シュンボロン」という語は、この原義をはなれて、たとえば裁判官が裁判官席に入るためのシュンボロンを渡されるというような場合をはじめ、預かり証・領収証・入場券などについても用いられるような、一般に証拠のしるし・約束のしるしという意味をもつようになる。(藤沢令夫、『哲学のすすめ』筑摩書房 126頁)

  07、シュンボロン(シンボル)としての言葉の場合は、言葉と事物とのあいだに想念や観念が介在して、言葉と事物とは直結しない。言葉を聞いてわれわれが理解するのは、直接には事物そのものではなく、お互いの考えである。

 これに対して、セーマ(サイン)としての言葉の場合には、言葉は直接事物や、あるいはその事物への対処・反応としての行動を指示する。

 シュンボロン(シンボル)が、「ことば」──「こころ」──「こと」の三項関係であるのに対して、セーマ(サイン)は、「ことば」──「こと」の二項関係である。(藤沢令夫、『哲学のすすめ』筑摩書房 127-8頁)

08、象徴の用は、之が助を藉りて詩人の感想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必ずしも同一の概念を伝へむと勉むるに非らず。(上田敏「海潮音」序)

  用例

 01、数多くの団体が存在する今の格闘技界。(略)プロボクシング世界王者、モハメド・アリとの異種格闘技戦などで早くから話題を集めた猪木氏は、その象徴として最適の存在。(朝日、2003,01,11)

 02、上海は急成長する中国を象徴する都市です。(NHKTV )

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止揚

2011年02月12日 | サ行
 ① 原語は Aufheben であるが、ヘーゲルは最初はこの語を簡単に否定の意味に用いていた。例えばノールの編纂した『青年時代の神学静文集』の268頁、300頁などがそうである。しかし次第にこの語に肯定の意味をも導入しきたり、遂に大論理学の「成の止揚」という項の註解において、この語に、やめにする、終りにするという否定の意味と共に、保存するという肯定の意味をも与えて、自分の哲学の術語とした。これアウフヘーベンが止揚と訳される所以である。現象学においても、勿論この意味において使用せられることはあるけれども、しかし現象学はまだ過渡的段階で、この語はまだ明確に術語とはなっていない。(金子武蔵氏の説明。同氏訳「精神の現象学」上巻468頁)

  参考

 01、Aufheben(止揚)という語の二義を想起したい。第1に、取り除くこと、否定することである。第2に、保存することである。(小論理学96節への付録)

 02、この「止揚」は観念の活動であるから、それは同時に保存することであり、明らかにすることである。(歴史における理性71頁)

 03、Aufhebung(止揚)、そこではVerneinung(否認すること)とAufbewahrung(保存)つまりBejahung(肯定すること)とが結合されている。(マルエン全集補巻1、581頁)

 04、止揚、外化を自己内に取り戻す対象的な運動としての止揚──対象的な存在を、その疎外状態の止揚によって獲得するということについての洞察が疎外の内部で言い表されたもの。(マルエン全集補巻1、583頁)
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主体性、主観性、die Subjektivitaet

2011年02月11日 | サ行
  参考

 01、1個人の目的にすぎない目的は主観的、事柄を達成していない作品は主観的、恣意的。(法の哲学26節への付録)

 02、主観性とは事柄に対立している悪しき有限な主観性にすぎないものではない。その真の姿での主観性は事柄に内在した無限の主観性であり、事柄そのものの真理である。(小論理学147節への付録)

 03、意識は主体性であり、自己を個別化しようとする欲求を持っている。(歴史における理性178頁)

 04、「真実に色を付けること」、敵を無力なもの、地盤の無いもののように描く出すことは、「総じてつねに余計な事である」。(レーニン「ナロードニキ主義の経済学的内容……」、邦訳全集第1巻363頁)

 05、「人間の幸福への道」を探求する者の第1の義務は、自分自身を欺くことではなくて、あるがままのものを公然と承認する勇気を持つことである。(レーニン「ナロードニキ主義の経済学的内容……」、邦訳全集第1巻420頁)

 感想・要するに、徹底した客観的な態度こそ真に主体的な態度である、ということでしょう。自称すマルクス主義の運動で忘れられ、守られなかったことの1つです。

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