マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

「天タマ」第10号

2018年11月29日 | カ行
「天タマ」第10号(1998年12月4日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 1996年6月11日の朝日新聞に66歳の無職氏の投書がある。「職場の不正」というテーマに寄せられたものである。

──最近、私は公立高校の講師を務めましたが、教員の生活に慣れると判断が一方的になり善悪感もマヒするんだ、と思いました。

 ある日、他県から引っ越してきた生徒の編入試験の合否判定会議に出ました。事前の学年会で不合格が決まっていたから追認の会議でしたが、教師の利益に合わないというのが不合格の理由でした。家庭に問題があり、本人も指導歴があるから教育しにくい。こうい
う生徒を受け入れるのは、教員の労働条件の面からも問題、というのです。

 私はパートですから、組織を怖がる理由がなく、一般社会の常識を述べました。(1) 手続き通り受験し、学力に支障なく定員も空きがある、(2) 教員の労働条件は受験生と無関係、(3) 悪い生徒を直すのが教師の仕事~。

どうせ教職経験のない人の言うことと思っていましたが、決をとると、若い女教師の手があがり、賛成が半数を少し超え、合格が決まりました。入学後は遅刻指導などあったらしいが、成績は上の方。あわや私は少女の一生を狂わせ、老いて悔いを残すところでした。(引用終わり)

 これを読んで意見を書いてもらいました。そのレポートを読んで、「授業の成果が出てきたな」と思いました。「校長は何をしていたのだ」という発想があったこと、看護婦と患者の関係で捉え直してみる発想があったこと、この2点がその理由です。代表的なものを拾います。

──看護婦の仕事も利益に合わないくらい大変な仕事だと思うが、それを行っている看護婦は、人の死と直面しているから、手を抜くことができないというか、無責任なことができないのではないかと思う。教師も生徒の人生を今回の事だけでなく、左右することがあるので、無責任な事だけはしないでほしいと思う。

──このことを言ったことについては「えらいなあ」と思うけど、パートだから言えたというあたりが、今の現状を見た気がする。こういうのを見ると、この前の授業で考えた「トップで決まる」っていうのに通じていると思う。本当なら校長とかが言うことじゃないのかな。それなのに、パートの人しか言えないなんて、何か間違っていると思う。

──私が看護婦になって、もし同じような事があったら、病気以外で問題を抱えた患者が入院してきたら、快く受け入れられるのかは、今はまだ自分に自信もないし、分からないが、自分が嫌だと思った事は他人にしてはいけないと思うので、その場限りの感情に流さ
れないで、一度立ち止まって考えてから結論を出したいと思う。

──違う意味かもしれないが、看護婦になると「人の死に慣れる」というのと同じなのかなあと思ってしまいました。(もちろん学生だから、人の死についてもまだ理解できないけど)。「教員の生活に慣れると善悪感がマヒする」。職業病なのでしょうか。

 ★ 「教師の労働条件は生徒と無関係」などというのは「一般社会の常識」ではないと思います。反対です。1人の看護婦が夜勤をして、50人の患者を受け持つのと、60人の患者を受け持つのとでは、患者にとって無関係でしょうか。

 私も「天タマ」とレポートへの感想との両立が難しいと分かりましたが、1クラスの人数が今のように32~33人でなく、国際標準の20人だったならば、もっと感想を沢山書けると思います。

 この無職氏は、労働条件は生徒と関係があるという一般論ないし総論と、この個別的な事例で専任教師たちの挙げた理由が不合格の理由として正しいかという各論とを区別することができなかったために、間違ってしまったのだと思います。

      「悪い生徒は直すのが教師の仕事」?

 まあ、労働条件の問題は考えやすいと思います。それ以上の根本的な大問題が「教師の仕事は何かという問題」です。これは、毎年、講師と生徒の皆さんとの間でもっとも鋭く対立する問題ですので、冷静に細かく考えたいと思います。

 Eさんは皆さんの反発を代表して次のように言っています。

──先生は何の為にいるのか。それはただ生徒に授業を教えるだけのためにいるのではないと思う。この子は問題児だから嫌だ、ではなく、この子は良い生徒・悪い生徒と区別することなく、人間対人間として対等に接していくことが必要になってくる。自分の利益に
合わないから不合格にする、この子は問題ないから合格にする、そのような事で合否をつけるなら、自分からこういう学校は願い下げである。

 自分の学校に傷が付く、変なうわさをたてられると困る、という考えではなく、「よし、この子を良い生徒に更生させよう」という気持ちで、生徒と関わっていく事も大事であると思う。まだ十代である少年少女の一生を狂わす事をしてはいけないのである。暖かく見守ることが大人・先生の義務であると思う。(引用終わり)

 匿名希望の方からはこういう抗議もありました。

──問題のある生徒だから入学させたくないと言っているが、誰でも問題は抱えている。私だって友だちだって、教師には言わなかったが、家庭に問題のあった一人です。(引用終わり)

 不合格も必ずしも不当とは言えない、という意見はFさん一人です。

──転入生でも何でも、何か行う時、この学校では2段階に分けて会議がなされているのか。それはともかく2回行うというのは良いと思った。より多くの人の意見を取り入れられるし、違った見方ができることで充実すると思う。裁判でもそうなっている。

 でも、学年会で「不合格」と決めた事の理由は間違っていないと思う。この場合は転入生だったから個人のみの会議になってしまっているけれど、ふつうの高校入試の時は皆が同じような会議にかけられているはず。入試の時、中学での素行とかもチェックされてい
る。

 全体をふるいにかける時はそういう「不合格」者が出てもよくて、個人を判定する時はダメなのだろうか? あやうく不合格になりそうだったこの少女が、その後問題を起こさなかったからといって、〔この考え方で〕よかったということにはならないと思う。(引用終わり)

 現実的な対案を出しているのはGさんさんです。

──私も無職氏の考えに賛成である。試験で一定のレベルに達していれば、合格は当然だろう。そして、彼女の過去に問題があるなら,入学してから、退学をさせても良いと思う(高校なのだから)。不合格で彼女の可能性を無にする権利は誰にもないのではなかろうか。

 実際に彼女と接し、教育をした上でだめであったなら、それはそれで仕方ないと思う。教員は生徒を教育する職種なのだから、最初から彼女を不合格で投げ出したら、教員とは言えないだろう。彼女の過去で不合格にするのは公正とは言えない。

 ★ 今回は、私の意見は直ぐには言わないようにします。まず、私として、この問題を考えるにはこういったことを考慮する必要があるのではないかという観点を出したいと思います。

 (1) 未成年者の教育機関には家庭、地域社会、学校の3つがあるが、その役割分担は、今の日本ではどうなっているか。これからはどうあるべきか(最近言われている「学校のスリム化」とは何か。それをどう考えるか)。

  参考

 Eさんは「教師はただ勉強を教えるだけではない」と言うけれど、その「勉強だけ教える」という言葉で皆さんはどういう事を考えていますか?

 第1問・学校教師は勉強だけ教えればよい、という考えに賛成か?
 第2問・牧野の哲学の授業は勉強だけ教えている、という判断に賛成か?

 (2) 更生施設(鑑別所、児童自立支援施設、少年院)が存在するという事実があるが、これの存在を認めるか(どんな悪い生徒でも学校と教師が直すべきか)。どういう人はこれらの更生施設に送られるべきか。

   参考

 戻るべき家庭のない児童(非行者ではない)のための「自立ホーム」もある。

 (3) 問題生徒(悪い生徒)と一口に言うけれど、問題の性質を分類する必要がある。

 A・自分の人生を傷つける行為
  A-1 ・法律で禁じられている事 ……飲酒、喫煙、麻薬、援助交際など
  A-2 ・学校(教師)が規制している事 ……服装、頭髪、化粧、ゲームセンタ ーなど
 B・他人の人権を侵害する行為
    いじめ、暴力、盗み、ストーカーなど
 C・成績不良

これらについて考えるべき問題
 ・今の学校ではそれぞれはどう扱われているか。
 ・本当はどう扱ったらよいか。

 (4) 神戸小学生連続殺傷事件で犯人が中学3年生と分かった時、教師がその犯人生徒に「学校に来なくていい」と言ったか否かが、大問題になった。これは何を意味するか。

 これは最後の殺人の前に、同級生を殴り、殴られた生徒は転校した時についてである。

 (5) 文部省は教員養成課程に「問題生徒の指導技術を学ぶこと」を含ませ始めた。これをどう考えるか。


        その他

──私は、昨年一年間地元にあるホテルでフロントのアルバイトをしていました。VTR「秘書検定」を見て、アルバイトをしていた時の事が思い出され、とてもなつかしかったです。

 私はウェイトレスを希望して面接に向かいましたが、面接の際に「君はフロントに向いているから、フロントへ行って下さい。君なら大丈夫だよ」と言われてフロントへ~。フロントの仕事はとても楽しかった。自分に向いていると思いました。私が笑顔で応対し、お客様も笑顔で接していると、嬉しくなりました。

 毎月1度は会議で見えるお客様に「君の笑顔があるとホッとするね」と言われ、その日一日きげんが最高潮だったこともしばしばありました。本当に勉強になりました。



ヘーゲル語録

2018年11月27日 | ハ行
           ヘーゲル語録

 ヘーゲルの語録みたいなもの及び他の似たものを集めてみました。検索するのにはどういう順序にしたら好いかは、未だに分かりません。提案がありましたら、お申し越しください。
 最近は、独英仏の3カ国語を併記する必要を感じています。日本語で親しんでいる言葉をドイツ語の原文で知ったり、まして英訳やフランス語訳で知ると、何か別の感じがしたりして、楽しいものです。
 まだまだお粗末なものですが、あるいは使ってくださる方もいるかな、と思いましたので、一応発表します。もちろん徐々に充実させて行くつもりです。
2018年11月27日 牧野紀之




1-01、哲学を妨げるものは、一に日々の利害に埋没することであり、二に感覚的印象で自己満足することです。(聴講生への挨拶)
 独・Was der Philosophie entgegen steht, ist einerseits das Versenktsein in die Interessen der Not und des Tages, andererseits die Eitelkeit der Meinungen. (Anrede an seine Zuhörer)
 仏G・Ce qui d'une part, s'opose à la philosophie, c'est l'attitude de l'esprit qui se plonge dans les intérêts et la nécessité de la journée et d'autre part, la vanité des opinions.
 感想・der Not undとet la nécessitéとが逆転しています。どっちかが間違っているのでしょう。Meinenは「精神現象学」の冒頭の「感性的確信」に出てくる言葉です。金子武蔵は「私念」と訳しています。私は「つもり」としました。ここでは「『知覚』も含めての『感想』みたいなもので慢心すること」ではないでしょうか。

1-02、人生の真理性と偉大さと神的性格とはひとえに理念に起因するものでして、哲学の目的はただ一つ、その理念をそれに相応しい普遍的な形で認識することなのです。(聴講生への挨拶)
 独・Was im Leben wahr, groß und göttlich ist, ist es durch die Idee; das Ziel der Philosophie ist, sie in ihrer wahrhaften Gestalt und Allgemeinheit zu ergreifen. (Anrede an seine Zuhörer)
 仏G・Ce qui dans la vie est vrai, grand, divin, ne l'est que par l'Idee; la fin de la philosophie consiste à la saisir sous sa vrai forme et en son universalité.

1-03、このこれから歩もうとする道程において、私は、皆さんが私を信頼して下さることを希望すると同時に、私も皆さんの信頼を裏切らないよう努力する決意であります。さし当って私が皆さんに希望する事は、ただ一つ、学問を信頼し、理性を信じ、自信を持ち、信念をもって聴講していただきたいということだけです。哲学研究の第一の条件は真理の勇気を持つことであり、精神の力を信じることであります。人間は自分自身を尊ばなければなりません。人間は最高のものに価すると思わなければなりません。精神の偉大さと力とはどんなに高く評価しても過大評価するということはありません。宇宙の閉ざされた本質といえども、認識しようという勇気には抗しえないのでありまして、それは〔必ずや〕認識の前に姿を現わし、その豊かさと深さとを認識の目にさらし、享受させるに違いありません。(聴講生への挨拶)
 独・Ich darf wünschen und hoffen, dass es mir gelingen werde, auf dem Wege, den wir betreten, Ihr Vertrauen zu gewinnen und zu verdienen. Zunächst aber darf ich nichts in Anspruch nehmen als dies, dass Sie Vertrauen zu Wissenschaft, Glauben an die Vernunft, Vertrauen und Glauben zu sich selbst mitbringen. Der Mut der Wahrheit, Glauben an die Macht des Geistes ist die erste Bedingung des philosophischen Studiums; der Mensch soll sich selbst ehren und sich des Höchsten würdig achten. Von der Größe und Macht des Geistes kann er nicht groß genug denken. Das verschlossene Wesen des Universums hat keine Kraft in sich, welche dem Muthe des Erkennens Widerstand leisten könnte, es muss sich vor ihm auftun und seinen Reichtum und seine Tiefen ihm vor Augen legen und zum Genusse bringen. (Anrede an seine Zuhörer)
 仏G・J'ose désirer et espérer que je réussirai en cette voie où nous nous engageons, à gagner et à mériter votre confiance. Tout d'abord, je ne vous demande qu'à avoir confiance en la science, foi en la raison, confiance et foi en vous-mêmes. Le courage de la vérité, la foi en la puissance de l'esprit, voilà la première condition des ètudes philosophiques; l'homme doit s'honorer lui-même et s'estimer digne de ce qu'il y a de plus sublime. Il ne pensera jamais assez grandement de la grandeur et de la puissance de l'esprit. L'essence si fermée de l'Univers ne conserve pas de force, capable de résister au courage du connaître; celui-ci l'oblige à se dévoiler, à lui révéler ses richesses et ses profondeurs et à l'en fair jouir.

1-04、私の哲学研究の目標は、昔も今も、真理の学問的認識です。(Enzykl. 第2版への序文)
 独・Worauf ich überhaupt in meinen philosophischen Bemühungen hinge- arbeitet habe und hinarbeite, ist die wissenschaftliche Erkenntnis der Wahrheit.
 英G・The scientific cognition of truth is what I have laboured upon, and still do labour upon allways, in all of my philosophical endeavours.
 仏G・Ce que je me suis proposé et ce que je me propose comme but de mes travaux philosophiques, c'est la connaissance scientifique de la verité.
 仏B・Ce à quoi en general j'ai travaillé et je travaille dans mes efforts philoso- phiques, c'est à la connaissance scientifique de la verité.
 cf. §194 Zus.1(哲学の課題)、

1-05、博識はまだ学問ではない。(Enzykl. 第3版への序文)
 独・Gelehrsamkeit ist noch nicht Wissenschaft.
 英G・Mere erudition is not yet science.
 仏G・L'érudition n'est point encore la science.
 仏B・L'érudition n'est pas encore de la science.

1-06、体系なき哲学的思考は科学ではありえない。(Enzykl.§14 Anm.)
独・Ein Philosophieren ohne System kann nichts Wissenschaftliches sein.
 英W・Unless it is a system, a philosophy is not a scientific production.
 英G・A philosophising without system cannot be scientific at all.
仏G・Une philosophie sans système n'a rien de philosophique.
 仏B・Une démarche philosophique sans système ne peut rien être de scientifique.

1-07、もし論理学が人に証明することを要求し、証明とは何かを教えようと言うならば、論理学は何よりもまず自分自身の内容を証明し、その内容の必然性を洞察することができなければならないはずである。(Enzykl.§42 Anm.)
 独・Wenn die Logik fordern muss, dass Beweise gegeben werden, und dass sie das Beweisen lehren will, so muss sie doch vor allem ihren eigentümlichsten Inhalt zu beweisen, dessen Notwendigkeit einzusehen, fähig sein.
 英W・If thought is to be capable of proving anything at all, if logic must innsist upon the necessity of proofs, and if it proposes to teach the theory of demonstration, its first care should be to give a reason for its own subject-matter, and to see that it is necessary.
 英G・If thinking has to be able to prove anything at all, if logic must require that proofs are given, and if it wants to teach us how to prove something, then it must above all be capable of proving its very own peculiar content, and able to gain insight into the necessity of this content.
 仏G・Si la pensée doit être apte à démontrer quelque chose, si la logique doit exiger que des preuves soient données et si elle tient à enseigner à démontrer, elle doit avant tout pouvoir démontrer son contenu particulier et en apercevoir la nécessité.
 仏B・Si la pensée doit être capable de prouver quoi que ce soit, si la Logique doit exiger que des preuves soient données et si elle veut enseigner l'operation de la preuve, il faut bien qu'ell soit capable avant tout de prouver son contenu le plus propre, de discerner la nécessité de celui-ci.
 感想・こういう風に自己反省を忘れないところがヘーゲルの偉い所であり、哲学者の哲学者たる所以だと思います。

1-08、認識能力を吟味するのは認識しながらでなければ出来ない。謂うところの認識という道具では、道具を吟味するとはそれを認識することにほかならない。それなのに、認識する前にその道具を認識しようというのである。これは、かつてスコラ学者が言ったという「水に入る前に泳ぎを習う」という賢明な計画と同じく馬鹿げた事である。(Enzykl.§10 Anm.)
 独・Aber die Untersuchung des Erkennens kann nicht anders als erkennend geschehen; bei diesem sogenannten Werkzeuge heisst dasselbe untersuchen nichts anderes, als es erkennen. Erkennen wollen aber, ehe man erkenne, ist ebenso ungereimt als der weise Vorsatz jenes Scholastikus, schwimmen zu lernen, ehe er sich ins Wasser wage.
 英W・But the examination of knowledge can only be carried out by an act of knowledge. To examine this so-called instrument is the same thing as to know it. But to seek to know before we know is as absurd as the wise resolution of Scholasticus, not to venture into the water until he had learned to swim.
 英G・But the investigation of cognition cannot take place in any other way than cognition; in the case of this so-called tool, the "investigation" of it means nothing but the cognition of it. But to want to have cognition before we have any is as absurd as the wise resolve of Scholasticus to learn to swim before he ventured into the water.
 仏G・Cependant, l'examen du connaître ne peut se faire que par le connître; et examiner ce prétendu instrument n'est autre chose que le connaître. Or, vouloir connaître avant que l'on connaître, est aussi absurde que le sage projet de ce scholastique qui voulait apprendre à nager, avant de se risquer dans l'eau.
 仏B・Mais l'examen de la connaissance ne peut se faire autrement qu'en connaissant; dans le cas de ce prétendu instrument, l'examiner ne signifie rien d'autre que le connaître. Mais vouloir connaître avant de connaître est aussi absurde que le sage projet qu'avait ce scholastique, d'apprendre à nager avant de se risquer dans l'eau.

1-09、理論でも実践でも悟性が無ければ何事も明確にはならない。(Enzykl.§80 Zus.)
 独・Sowohl auf dem theoretischen als auch auf dem praktischen Gebiet kommt es ohne Verstand zu keiner Festigkeit und Bestimmtheit.
 英W・Apart from Understanding there is no fixity or accuracy in the region of theory or of practice.
 英G・Without the understnding there is no fixity or determinacy in the domains either of theory or of practice.

1-10、精神の領域でも事情は同じである。内包量の大きな人は小さい人より影響の及ぶ範囲が広い。(Enzykl.§103 Zus.)
 独・Ebenso verhält es sich dann auch auf dem Gebiet des Geistes; ein intensiver Charakter reicht weiter mit seiner Wirkung als ein minder intensiver. (K.L.§103 Zus.)
 英W・The case is similar in the world of mind: a more intensive character has a wider range with its effects than a less intensive.
 英G・It is the same in the domain of spirit, too; a more intense character exerts influence over a wider range than a less intence one.

2-01、Die wahre Gestalt, in welcher die Wissenschaft existiert, kann allein das wissenschaftliche System derselben sein. Daran mitzuarbeiten, dass die Philosophie der Form der Wissenschaft näherkomme ── dem Ziele, ihren Name der Liebe zum Wissen ablegen zu können und wirkliches Wissen zu sein ──, ist es, was ich mir vorgesetzt. Die inner Notwendigkeit, dass das Wissen Wissenschaft sei, liegt in seiner Natur, und die befriedigende Erklärung hierüber ist allein die Darstellung der Philosophie selbst. (Vorrede, S.14)
 英B・The systematic developmrnt of truth in scientific form can alone be the true shape in which truth exists. To help to bring philosophy nearer to the forrm of science ── that goal where it can lay aside the name of ‚love‘ of knowledge and be actual knowledge ── that is what I have set before me. The inner necessity that knowledge should be science lies in its very nature; and the adequate and sufficient explanation for this lies simply and solely in the systematic exposition of philosophy itself.
 英M・The true shape in which truth exists can only be the scientific sytem of such truth. To help bring philosophy closer to the form of Science, to the goal where it can lay aside the title ‚love of knowing‘ and be actual knowing ── that is what I have set myself to do. The inner necessity that knowing should be Science lies in its nature, and only the systematic exposition of philosophy itself provides it.
 仏・La vraie figure dans laquelle la vérité existe ne peut être que le system scientifique de cette vérité. Collaboler à cette tâche, rapprocher la philosophie de la forme de la science ── ce but attent elle pourra déposer son nom d’’amour du savoir’ pour être savoir effectivement réel ── c’est là ce que je me suis proposé. La nécessité intérieure que le savoir soit le science réside dans sa nature, et l’explication satisfaisante de ce point ne fait qu’un avec la présentation de la philosophie même.
 説明・der Gedanke, das Wort, der Name等の後に付置される規定が「単なる付置」(例えばdas Wort Kultur)であるか、あるいは2格(das Wort der Kultur)であるかは、意味としては同じであるにせよ、色彩は多少変わってくる。前者は厳密に名称を考えさせる技術的性格のものであろが、後者はむしろ「意味と内容の方を考えさせる」格調高き性格のものである。(定冠詞95頁)

2-02、一般的に言って、或る事柄を知っているからといって、ただ「知っている」というだけでその事柄を認識しているとは言えない。(精神現象学28頁、大論理学第1巻11頁)
 独・Das Bekannte überhaupt ist darum, weil es bekannt ist, nicht erkannt. (Phänomenologie, S.28)
 英B・What is "familialy known" is not properly known, just for the reason that it is "familiar".
 英M・Quite generally, the familiar, just because it is familiar, is not cognitively understood. (p.18)
 仏1・Ce qui est bien-connu en géneral, justement parce qu'il est bien connu, n'est pas reconnu. (p.28)
 仏2・Ce qui est bien connu est justement parce que bien connu non reconnu.

2-03、真理は全体である。全体とは、自己を展開することによってしか完成されない本質存在である。(精神現象学21頁)
独・Das Wahre ist das Ganze. Das Ganze aber ist nur das durch seine Entwicklung sich vollendende Wesen.
 英B・The truth is the whole. The whole is, however, is merely the essencial nature reaching its completeness through the process of its own development.
 英M・The True is the whole. But the whole ist nothing other than the essence consummating itself through its development.
 仏・Le vrai est le tout. Mais le tout est seulement l'essence s'acomplissant et s'achevant moyennant son développement.

13、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。(Rechtsphilo.; Enzykl.§6 Anm.)
 独・Was vernünftig ist, das ist wirklich, / und was wirklich ist, das ist vernünftig.
 英W・What is reasonable is actual / and What is actual is reasonable.
 英G・What is rational is actual / and what is actual is rational.
 仏G・Ce qui est rationnel, est réel / et ce qui est réel est rationnel.
 仏B・Ce qui est rationnel, est effectif, / et ce qui est effectif est rationnel.
★これの説明は§142 Zus.にもBd.8 §6Nam.にもあります。

14、ミネルヴァのフクロウは日暮れてから飛び立つ。(Rechtsphil. Vorrede; Bd.7 S.28)
 独・Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.
 英・The owl of Minerva spreads its wings only with the falling of the dark.
 仏・La chuette de Minerve ne prend son envol qu’au crépuscule qui commence.

15、戸口に立っている者こそ一番役立たない者であるのは稀ではない。(Enzykl.§205 Zus.)
 独・Das so auf der schwelle Stehende ist oft gerade das Ungenügendste.
 英・What stands on the threshold is often precisely what is most unsatisfactpry.

16、有限な事物の否定性はそれら自身の弁証法であって、これを認識するためにはまず有限な事物の肯定的な内容に入り込まなければなりません。(Enzykl.§205 Zus.)
 独・Die Negativität der endlichen Dinge ist ihre eigene Dialektik, und um diese zu erkennen, hat man sich zunächst auf ihren positiven Inhalt einzulassen.
 英・The negativity of finite things is their own dialectic, and in order to ascertain it we must pay attention to their positive content.

17、経験において大切なことは、どのような感覚をもって現実に立向かうかということである。偉大な感覚は偉大な経験をし、現象の多彩な戯れの中にも重要なことを見抜く。(Enzykl.§24 Zus.3)
 独・Bei der Erfahrung kommt es darauf an, mit welchem Sinn man an die Wirklichkeit geht. Ein grosser Sinn macht grosse Erfahrungen und erblickt in dem bunten Spiel der Erscheinungen das, worauf es ankommt.
 英G・With experiences everything depends on the mind with which we approach actuality. A great mind has great experiences, and in the motley play of experience spots the crucial point.

18、世界を理性的に見つめない人に対しては、世界も又、理性的に見返しはしない。
 感想・この言葉の唯物論者にとっての意味は、「ヘーゲル哲学は99%唯物論だが、それの分からない人は、その人自身の唯物論がお粗末だからだ」、ということでしょう。『小論理学』への付録3を参照。


  ヘーゲル以外の語録

・スピノザ
1、規定は否定である。()
 独・Die Bestimmtheit ist Negation. (g.L2,S.164)
 英・Determinateness is negation.
 仏・La déterminité est négation.

2. すべての規定は否定である。(スピノザ)
 独・Alle Bestimmung ist eine Negation. (Bd.20.S.164)

3、真理は真理自身の指標であると同時に誤謬の指標でもある。(ヘーゲル「小論理学」第2版への序文第14段落に引用されている)
 独・Das Wahre ist index sui et falsi.
 英・The true is index sui et falsi (index both of itself and of the false).
 仏・Le vrai est index sui et falsi.
 感想・この言葉の現実的な意味は、「或る事柄とか或る人物とかを正しく評価するには、その対象と同等か対象以上の能力がなければならない」、ということでしょう。

聖書(「独L」は「ルッター訳」、「英G」は「キング・ジェームズ訳」の意)
1、与うるは受くるより幸いなり。(使徒行伝20-35)
 独L・Geben ist seliger als (denn) nehmen.
独・Geben macht mehr Freude als nehmen.
 英G・It is more blessed to give than to receive.
 仏・Il y a plus de bonheur à donner qu'à recevoir.

2、その行果によって人を知るべし。(マタイ伝7-16)
 独L・An ihren Früchten sollt ihr sie erkennen.
英G・Ye shall know them by their fruits.

3、まず神の国を求めよ。(マタイ6-33)
 独・Sorgt euch zuerst darum, dass ihr euch seiner Herrschaft unterstellt und tut, was er verlangt, dann wird er euch schon mit all dem anderen versorgen.
 英・Instead, be concerned above everything else with the Kingdom of God and with what he requires of you, and he will provide you with all these other things.
 仏・Préoccupez-vous d’abord du Royaume de Dieu et de la vie juste qu’il demande, et Dieu vous accordera aussi tout le reste.

4、人を裁くな。汝自身が神に裁かれないように。(マタイ7-1)
 独・Verurteilt nicht andere, damit Gott nicht euch verurteilt.
 英・Do not judge others, so that God will not judge you.
 仏・Ne jude pas les autres, afin que Dieu ne vous juge pas.

5、私は道である。(ヨハネ14-6)
 独・Ich bin der Weg, der zur Wahrheit und zum Leben führt. Einen anderen Weg zum Vater gibt es nicht.
 英・I am the way, the truth, and the life; no one goes to the Father except by me.
 仏・Je suis le chemin, je suis la vérité, je suis la vie. Personne ne peut aller au Père autrement que par moi.

6、神は万物の尺度なり。(?)
 独・Gott ist das Mass aller Dinge.
 英W・God is the Measure of all things.

7、汝ら子どもの如くあらざれば、神の国へ入ることあたわず。マタイ伝、18-3
 独・Ich versichere euch, wenn ihr euch nicht ändert und den Kindern gleich werdet, dann könnt ihr in Gottes neue Welt überhaupt nicht hineinkommen.
 英・I assure you that unless you change and become like children, you will never enter the Kingdom of heaven.
 仏・Je vous le déklare, c’est la vérité: si vous ne changez pas pour devenir comme des enfants, vous n’entrerez pas dans le Royaume des cieux.

8、額に汗して生きよ。創世記3-19
 独・Im Schweiss deines Angesichtes sollst du dein Brot essen.(Luther)
 英・In the sweat of the face thou eat bread. (King James)
 仏・C’est à la sueur de ton visage que tu mangeras de pain.

9、六日間働くべきである。(出エジプト記23-12。申命記5-13)
 Luther: Sechs Tage sollst deine Arbeit tun; aber am siebenten Tage sollst du feiern,
King James: Six days thou shalt do thy work, and on the seventh day thou shalt rest;
 仏・Pendant six jours, tu feras ton ouvrage. Mais le septième jour, tu te reposeras,

10、人生は70年、好く行って80年。(詩篇90-10)
 Luther: Unser Leben währet siebzig Jahre, / und wenn’s hoch kommt, so sind’s achtzig Jahre.
King James: The days of our years are threescore years and ten; and if by reason of strength they be fourscore years,
 仏・Les jours de nos années s’élèvent à soixante-dix ans, / Et, pour les plus robustes, à quatre-vingts ans;

11、明日の日を思い煩うな。どの日にもその日の仕事がある。(マタイ6-34)
独・Quält euch nicht mit Gedanken an morgen: der morgige Tag wird für sich selber sorgen. Ihr habt genug zu tragen an der Last von heute.
 Luther: Darum sorget nicht für den anderen Morgen, denn der morgende Tag wird für das Seine sorgen. Es ist genug, dass ein jeglicher Tag seine eigene Plage habe.
 英・So do not worry about tomorrow; it will have enough worries of its own. There is no need to add to the troubles each day brings.
 仏・Ne vous inquiétes donc pas de lendement: il vous apportera ses propres soucis. La peine qui se présent chaque jour suffit pour la journée.


   その他の箴言

1、Wer etwas Grosses leisten will, muss tief eindringen, scharf unterscheiden, vielseitig verbinden, und standhaft beharren. (Schiller)
 (大事を遂げんとする者は、徹するに深く、弁ずるに鋭く、猟(あさ)るに広く、持するに剛なるを要す)(趣味350頁)

2、酒中に真あり。
 羅・In vino veritas.
 独・Im Wein liegt (die) Wahrheit.
 仏・La vérité est dans le vin.(統辞論166頁)


「天タマ」第9号

2018年11月26日 | カ行
「天タマ」第09号(1998年11月30日発行)

                 浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 2週間ぶりのレポートとなり、又テーマも多かったので、皆さん沢山書いて下さいました。講師の都合で1度には全部を扱えないので、2回に分けて考えることにします。

        アンケートの反省

 教師に対して公正な成績を求め、「どういう根拠でその成績をつけたのか」を教えて欲しいというなら、生徒が授業を評価する時にも客観的な根拠に基づいて公正に行わなければならないのではないか、と問題を提起しました。無記名のアンケートから4つを選び、
カンファレンスをし、やり直してもらいました。レポートの中から力作を紹介します。

──あんなに色々と考えながらアンケートを書くのは初めての経験だった。あれだけ時間をかけたのに2問しか答えられなかった。多分、このペースでいけば、この前のアンケートは2時間以上かかっただろう。

 先生が言う通り、確かに何を基準として評価したのか分からなければ、公平なアンケートとは言えない。でも、私が思ったのは、5段階で評価する事そのものが難しいということ。

 5段階で5が「非常に優れている」、4が「優れている」、3が「普通」~となっているが、こんな言葉だけでは表現できない。5と4の間が私の気持ちにピッタリだと思ったり、3と2の間がピッタリなのに、という時もある。でも、5と4の間の気持ちは5段階
アンケートでは表現できない。だから、私はこの5段階アンケートは好きではない。

 何も考えなくても○さえつければいいから簡単だけど、5段階アンケートが私の本当の気持ちではない。だって、自分でさえ何が基準でなぜこの数字をつけたのか分からないからだ。はっきり言うと、「なんとなくこのぐらいかな」という程度の気持ちである。

 それに、1つの質問について、「この部分は5といえるけど、あの部分は3かな」と思うことが多い。そうなると、5と3を足して2で割った平均値の4をつけるという事になるけど、それもなんだかしっくりこない。とにかく5段階アンケートではどこかしら落ち
つかない気分になる。

 だから私は記述式のアンケートに力を入れている。5段階に比べて、的確に先生の好い所や直してほしい所を表現できるから。本当のことを言うと、前はアンケートなんて簡単でいいかげんな5段階でいい、と思っていたけれど、やっぱり、好い先生や好い授業に出
会った時は、その人にどんな所が良かったのか伝えたい!と思うようになる。

      VTR「福祉オンブズマン」を見て

 社会的な機関なり活動なりを外部の人に見てもらって反省する方法として、先に医療評価機構を勉強して考えてみました。今回はもう一つのあり方として、最近増えてきているオンブズマン(オンブズパーソン)制度を勉強してみました。知らなかった人も多かった
ようですが、皆さん、とても好感を持ったようです。

──福祉オンブズマンのビデオを見て、こういう人の存在って大きいなと思った。施設を利用している人→オンブズマン→施設を経営している人。とてもうまくいっていた。

 ビデオに出てきたオンブズマンの人はとても優しそうで、暖かい雰囲気を持った人だった。しかも、しっかり会話の中はポイントを押さえて、利用者の人と会話していた。オンブズマンの役割とはちょっと違ってきてしまうが、そういう「この人になら話せる」って
いう雰囲気も大事だと思った。私も看護婦として、人として、そういう雰囲気を持てる人になりたい。

        東芝の「議論の3原則」

 これは「天タマ」第7号に紹介したものですが、20日の授業で詳しく検討しました。

 これについても多くの人が「この3原則が守られれば好い話し合いになる」と感心したようです。自分がどこかでリーダーに成ったとき実行してみようという意見もいくつかありました。第3原則の「話し合いが付かない時はリーダーが独断で決める」という点につ
いては、疑問も少し出ていました。

──東芝の3原則を読んでまず私はなるほどと思った。この3原則になぜ私は気づかなかったのだろうと思った。しかし次の瞬間には、実際にこの原則を守って議論するのは大変だと思った。

 まず(1) の全員対等というのは、クラスでの議論ではみな対等に言えるけど、先生や先輩看護婦と議論になったら対等に言えるかといったら、言えないと思う。それは普段から上下関係がはっきりしていて対等という立場になったことがないからだと思う。

(2) の「中傷する言葉を言えば即退場」は、当たり前だけど、実際にはあまり行われていないと思う。それは、その言葉が中傷したという判断を下す人がいないからだと思う。それをはっきりと判断できる司会の役割は大きいと思う。今まで私は、司会は進行役だと思っていたけれど、他にも大きな役目があったんだと、分かった。

(3) の「決着がつかなければリーダーが独断で決める」というのを読んで、リーダーはいいなと思った。でも、その判断の責任はリーダーが取らなければいけないので、大変だと思った。前まで、自分が婦長になった時話し合いのシステムをどうするかについて、自分は意見を持っていなかったけど、もし私が婦長になったら、この3原則を取り入れていきたいと思った。

──先日、「町長と町政を語る会」に出席したが、上座に町長と役場の管理職がテーブルの前にネクタイ姿で座っており、何メートルも離れて町民のための座ぶとんがテーブルもなく並んでいるという会場で、「お上に直訴」の様なセッティングにがっかりした。

          その他

──「天タマ」を見ていたら、小学校の時にもらって製本してもらった学級だよりを思い出し、押入れから引っ張りだしてきました。小学1年生ということもあり、日本語がおかしく、笑えました。今読むといろいろな先生の気持ちが伝わってきて、これを作ってもら
えてよかったと思います。「天タマ」も何年後かに読むと変わるかなと思いました。

──哲学の授業配分が好きです。最初は、こんなに沢山の事、90分じゃ終わる訳ないよ、無理!って思っていたけど、90分を細かく分けることでたくさんの内容を教われるし、メリハリが出て、どの授業よりも短く感じます。

──「組織はトップで8割決まる」を母親と話し合いました。私の家も自営業をしているため、人を使っています。下で働いている人たちが不満を言えるシステムが確立しているか、話し合いの場が持たれているか、考えてみました。

 やはり、従業員間で人間関係の不満は少なからずあるようです。家では、3ケ月に1度食事会を持ち、その中で意見・不満を聞くようです。これは、働いている人が少人数だからできることです。母親もこの議題に関して興味を持っているようで、「天タマ」を読ん
でいました。人間関係の不満はやはり対処に困るそうです。「難しいねえ」と、母親がつぶやいていました。

 ★ 身の回りの大切な問題を直視して取り組んだの姿勢、それを受けとめてしっかりと向き合ったお母さんの姿勢、これにとても感動しました。

 思うに、哲学の最大の難しさは自分の生きている現実とごまかすことなく取り組むことの難しさです。たいていの人はここから逃げてしまうのです。そして、哲学と縁が切れてしまうのです。世の中の哲学教授もこうして哲学から離れていくのです。

──この学校ですごいなあと思っていることがあります。ここの先生は一人一人しっかり自分の意見を持っていて、それを根拠に基づいて、生徒や他の先生の前で堂々と発言します。会議中は先生同士、先輩・後輩の関係なく、自分の意見を言っているようです。そこ
はすごいなあといつも感心しています。

──今日の「天タマ」に、お父さんと話をしない、ということがありました。私も昔は父とあまり話をしませんでした。何故か、話づらいのです。でも最近はよく、いろいろなことを話すようになって、父の好きな釣りの話とか、2人とも好きな映画の話とか、成人病
の一歩手前にいる父の健康の話とか、どちらかというと父親というより、友だちのようです。

 今思うと、何故父親と話せなかったのだろうか、と思います。昔は本当に一言も口をききませんでした。自分でも昔を振り返ると、変な意味で感心します。「昔は話しなかったのにねえ」、「そうだねえ」と、一緒にビデオを見ながら話していると、笑えてきます。父親って何だろうと思いました。

         十年振りのボッカ

 観音山(標高約 580m)の頂上からほんの少し下った所に、清水寺(せいすいじ)があった。それを今度、で再建することになった。車で材料を近くまで運び、最後はの人達で担ぎ上げるということになった。28日と29日の両日でそれを行うというのであ
る。

 私は28日、予定通り出た。天気もよく風もなく、とても好い日だった。午前中は道普請(みちぶしん)をした。担ぎ上げる道の途中の荒れている所を修理したのである。又、寺を建てる所も整地した。午後、いよいよボッカとなった。荷物を担ぎ上げるのを山仲間は
昔「ボッカ」と言っていた。

 日頃、の仕事に出ても、要領も分からずに大した事も出来ない私であったが、そしてこの日も午前中は大した働きが出来なかったが、この担ぎ上げだけは違った。

 日頃鍛えた足腰で、山仕事や畑仕事の専門家の皆さんの2倍のスピードで担ぎ上げた。そもそも足拵(こしら)えが違う。皆さんは地下足袋だが、私は登山靴なのである。こういう私がこういう所にいることが本当は場違いなのだろうが、それを受け入れてくれるの
が我がの包容力である。全身に疲れを感じながらも、快い満足感をもって帰宅し、風呂に入った。

 思うに、の仕事はたしかにそれ自体としての意味もあるのだが、それと同時にここに住む人達にとってはそれは一種の社交場なのである。こういう機会にいろいろな話をし、情報を交換する。それによって同じに住む者としての連帯感を養うのである。

 葬式の時も必要以上に沢山の人が出て手伝うが、その本当の趣旨は同じことである。都合が悪くて来られない人もいる。しかし、絶対に咎められない。後で何かの機会に働けばよいのである。「人を責めない」──これがこのという共同体を成り立たせている。


カント主義の限界

2018年11月24日 | abc ...
     カント主義の限界
                   P.N. AZUMA

カント主義。この語を『哲学小辞典』(古在由重・粟田賢三編 岩波書店)で引くと次のように書かれている。「カントおよびその信奉者たちの哲学的立場。その主要な特色は独断的形而上学の否定、思考の自発性の強調、直観形式(時間・空間)およびカテゴリーの先天性と主観性の主張、不可知な物自体の容認などにある」、と。しかし、私がここで指す「カント主義」はこの意味では決してない。いわゆるそういった意味でのカント主義や新カント派の限界を指摘しようなどという大それたことをする資格は今の私にはない。そうではなく、ここでの「カント主義」とは、ヘーゲルがいうところの「カント主義」である。

 ヘーゲルはカントの認識論を分析し、カントのそれは「認識する前に認識能力を吟味しようとするもの」であるとしたのであった。そして、そのような認識論は「水に入る前に泳ぎ方を習おうとする」カント主義だとして批判した。以上のことは、先生の小論文「教条主義と独断論」(『マキペディア』2011年11月20日)に詳しい。『ヘーゲル哲学事典』を既に読んでいた私はこのことを知ってはいた。しかし、それを十分に認識するところまでは至っていなかったのであった。そのことを痛切に思い知った体験を振り返るとともに、自己反省とさせて頂きたい。

 私はこの夏、長期休暇を利用してドイツへ行くことができた。ボン大学で行われたサマーコース(名称:Internationaler Sommerkurs für deutsche Sprache und Landeskunde 2018 Universität Bonn)に参加するためである。それまでに紆余曲折もあったが、昨年の末頃に先生のブログ『マキペディア』に出会い、「哲学に一生を捧げよう」と決心して以来少しずつドイツ語に触れはじめ、早い段階で夏季語学留学への参加の決意を固めていた。そして、それが開催されるまでのおよそ半年の間で、『関口・初等ドイツ語講座』などを利用して一通りの文法事項と基本語彙を頭に叩き込み、多少の自信を胸にドイツへと向かったのであった。

 しかし、そのような浅はかな自信が打ち砕かれるまで時間はかからなかった。今回のサマーコースは語学力の段階に応じて、たしか7クラスに編成され、私はちょうど真ん中のクラスであったのだが、彼らとのオリエンテーションの際、簡単な会話ならまだしも、会話のテンポが上がったり少し複雑な質問をされると、聴き取れなかったり上手く言いたいことを伝えられない、ということが往々にして起きたのだ。これにはかなり応えてしまった。当初は曲がりなりにも自信を持っていただけに自己嫌悪に陥った。しかし、落ち込んでいても仕方がない、気持ちを切り替えて週5日、9時〜12時半の授業で最大限に学ぶことを考えた。

 クラスは十数人で構成され、海外の学校らしく生徒が四角に座って先生を囲む形で行われた。内容としては、文法と読解・作文の二つを軸に進められ、最初に先生が文法事項の説明を行い、それに関連した文章を読んだり書いたりするのである。そして毎日、前日のフィードバックの形をとった小テストがあった。時には、先生が与えてくれる題に対して、生徒が各々の出身国の事情を絡めて議論をしたりする機会もあった。例えば、文化やスポーツなどについてである。非常に密度が濃い時間に感じた。最初の方は、上手くいかず英語に逃げたりと、もどかしい思いをしたが、段々と、少しずつではあるが意思疎通ができるようになってきたのだ。思うに、ここに語学学習における重要な点があった。それは、理論(文法)と実践(読解・作文)を並行して行うということである。私はこのことを軽んじていた。この講習より以前に先生から、「君のドイツ語の勉強は理論に偏りすぎている」と忠告を受けていたにもかかわらず。

 どうして、そうなったのかを反省してみると、まず第一に、自分の語学学習経験によるものであると思われる。幸運なことに幼い頃より英語に接する環境に育ち、中学校のある一時期に英文法を集中的に勉強してからはずっと英語に対して得意意識を持ってきた。それゆえに文法さえ習得してしまえば言語を操れると考えていたのだ。これが拙かった。そして第二に、日本における、特に第二外国語の初等教育を挙げたい。周囲の数人に聞いてみても、「第二外国語は基本的に文法に終始していて、途中で簡単な会話練習を挟む程度」という答えが返ってきた。私が受けているのも同様であり、その先生は一冊の文法書(教科書)を終わらすことを第一に考えている。読本も作文もないのである。そして、無意識に私はこれでよいと思っていたのだと思う。しかし、結果は上述の通りである。

 このサマーコース中、ドイツ語をすでに10年ほどやっているというフランス人の女子学生に出会った。彼女はソルボンヌで哲学を学んでいるとのことで、絶好の機会と思い、哲学の話を試みた。快く対応してくれたものの、自分からは表面的形式的なことしか述べられず、自分の問題意識や内容まで踏み込んだ話をすることは出来なかった。これは特に歯がゆい思いをした記憶である。

 かくして私は「実践(読み書き)をする前に理論(文法)を習う」カント主義の限界を痛感した。水泳を習う際、まずプールに入り泳ぎながら泳ぎ方を習得していくのは当然のことであるのにどうしてこのことに気づかなかったのだろうか。そして思うに、このことは水泳や語学に限らずあらゆることで当てはまると思う。先生が「理論とは実践の反省形態である」と述べられているのは、こういうことだったのではないかと思った。以来、私は文法の勉強と並行しつつ読本や音読に力を入れるように心がけている。来年の夏、再び語学講習に参加して、その成果を発揮したいと思う。

 最後に、私が何の為にドイツ語を学ぶのか、どうして鶏鳴ヘーゲル原書講読会への参加を希望したかについて簡単に発表しておきたい。

 私の根本的な問題意識は世の中の現状への懐疑から生じている。この思いは高校時代から強くなり、「世の中をより良くする為には、より公正にするにはどうすればよいのだろうか」という問題意識に結実した。そして、マルクスから入り諸種の著作を読み漁った結果、先生の本ブログを通して、ヘーゲル哲学にたどり着いた。これしかない。そう思った。人類史上屈指の頭脳であったマルクスがその重要性を説いているのにもかかわらずヘーゲルの論理学の研究がされていない、あるいは無視されているなと感じていたところに、その最高峰の山塊に対して先生が孤軍奮闘されている「登山記録」を読んで感銘を受けたのだ。先生はヘーゲル生誕200周年の際にこう述べられている。「なにをいっているのかわからない『論文』や、そこがききたいと思うところを引用でとおりすぎる『研究』が大きな顔のできる時代は去った。わからないところはわからないといおう。そのかわり、自分の論文もわかるようにかこう。ヘーゲルの論理的表現を私はこう解釈するという意見をドシドシ出しあおう。賛成、反対はともかく、人にわからせられないのは、いう人自身にわかっていないのである。」(「現代に生きるヘーゲル」)

 しかし残念ながら、先日ヘーゲル没後187年が経ち、先生の呼びかけからおよそ半世紀を迎えようとしている今なお、こういう哲学の発展にとって重要なことが十分に行われているとは言えないのではないかと思う。この活動を受け継ぎ、発展させることは我々後輩の責務ではないか。ゆえに、それを果たすために私はさしあたって次の大目標を掲げたい。日本が世界に誇るべき学問的成果、関口存男氏の冠詞論と牧野先生によるヘーゲル論理学の唯物論的改作の両者を独訳して、ヘーゲル生誕の地であるドイツで再び「ヘーゲル哲学の現実的意味をよみとって自己のものとし、さらに発展させ」うる活動を興すべく尽力し、哲学の発展に貢献することである。日本の学会では完全に黙殺される結末が想像に難くないので、敢えて厳しい道を選択するべきだと思っている。それには、ドイツ人なみの言語運用能力が要求されることはいうまでもないことであるし、哲学的論理的思考能力も求められよう。そして、この2つを得る為に私はドイツ語を学んでおり、鶏鳴ヘーゲル原書講読会の門を敲いた。もし、似たような志をもち、同じような問題意識を共有してくれる方がいるならば、先生のもとで一緒に勉強していくことを検討して頂きたい。私は、上のように大層なことを宣言したが、決して才能に恵まれているわけでもなくそれらを一人では絶対に成し得ないことも自覚している。だからこそ、真の仲間が、学友が欲しいと心の底から思っている。心より、あなたの参加を期待する。

  トリビア

 ① サマーコースの情報入手について
  春先に、青山にある「ドイツ学術交流会(通称:DAAD)」のスタッフの方に相談をしたところ、こういうものがあるよ、といって留学生向けの小冊子を何冊かくれて、その内の1つが夏季冬季短期留学についてのもので、それによりサマーコースというのがある、というのを知りました。 そして、様々な大学がそれぞれレベルや規模、予算などを設定して、サマーコースの告知を記していました。僕は、いくつかある内で、初学者にも参加資格があるものに目星をつけて、その中で惹かれる土地ないし大学を選ぼうと思い、ボン大学を選択しました。(もちろん、マルクスが学生時代をそこで過ごしたことを知っていて、興味を持っていた為でもあります。) こうして、参加希望地を決め、あとは個人的に申し込みを行いました。ボン大学の担当の方にメールでその旨を伝えると、丁寧に対応してくれました。以上が申し込みまでの流れです。そこから何通かメールでやり取りをして、参加が決定しました。

 ② 日程──2018年のボン大学サマーコースは、8/7〜8/31で行われました。

 ③ 宿舎は基本的にみんな寮です。ボンには、学生寮がいくつか点在していて。僕が過ごした寮は市バスで20分ほどの場所にあり、共同部屋で、ルームメイトが3人(中国人、インド人、ドイツ人がそれぞれ1人ずつ)いました。週に1,2回、ルームメイトと安くて美味しいビールを飲みながら食事を共にしました。
 食事ですが、基本的には自分で買うか作るかです。大学からの用意は一切ありませんでした。 しかし、Mensaは使えました。学生はデポジットを払って「メンザカード」というものをもらうことができ、それにお金をチャージして、それでもって会計を行います。平日のランチはクラスメイトと一緒にメンザで食事をするのが恒例でした。3ユーロ(約390円)ほどでお腹を満たせたので、学生に優しいです。ちなみに、外のレストランは高いので頻繁には行けません。

 ④ 学費は、授業料と観光代で630ユーロ(約8万円)、寮費で300ユーロ(約3万9000円)の計930ユーロ(約11万9000円)でした。それ以外の食費や交通費は別途必要になります。

 ⑤ 土日は基本的に何もありません。みんな各々プールに行ったりサッカーをしたりライン川沿いで散歩したり図書館で勉強したりと、様々です。日曜日に街を歩いても全然人がいないのには、驚きました。 旅行はありました。観光目的のもので、みんなで揃って行った所としてはケルン、エッセン、アーヘン の3箇所です。その他にも課外授業のような位置付けで、いくつかの行政機関や研究所、博物館に行くことが出来ました。複数個の中から興味のあるものを選択して参加できる形で、僕が選んだのは「連邦政治教育センター(bundeszentrale für politische bildung;bpb)」、「Bonn Center of Neuroscience;BCN)」、「Deutsche Museum Bonn(ドイツ博物館のボン支部のようなもの」の3つです。
 旅行も課外授業も平日のドイツ語の授業が終わったあとの午後に行われました。行事は週に2回ほどです。他にも市長訪問などがありました。 この行事があると、その後に寮に帰って復習と宿題をしなければならなかったので少し大変だったことも今ではいい思い出です。もっとも向こうの夏は夜9時ごろまで日が落ちないので1日が長く感じました。
 
関連項目

ヘーゲル原書講読会、開講




「天タマ」第8号

2018年11月23日 | カ行
「天タマ」第08号(1998年11月27日発行)

          浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

    記名式アンケート「より良い授業のために」

 まず第2項の「家族や友達に『天タマ』を見せたり、授業の事を話したりしていますか。相手の反応はどうですか」はとても聞きたかった事です。

 なぜこれを聞きたいのだろうか、と反省してみると、その理由として、自分が皆さんとほぼ同年令の子供を持つ親であるということがあると思います。子供が学校の様子を話してくれるのはとても嬉しいからだと思います。そして、自分に合う先生に出会って楽しく
やっている様子を聞けば「よかったなあ」と思いますし、逆に「英語の先生は『1年くらいやったって大した事は出来ない』と言って、雑談ばかりしている」といった事を聞くと、とても残念に思います。

 私もドイツ語講師をしていますが、1年間でも工夫をして熱心に教えれば随分出来るようになります。持ち上がりで2年間教えたクラスからは独検3級合格者を3人出しました。

 それに、Aさんも言うように、「この授業内だけでなく、関係するすべての人達とも話し合う必要のある重要な課題ばかり」だと思っているからでもあります。これを機会に対話が少しでも広がって欲しいと思っています。

 しかし、皆さんの中で家族と話している人は3分の1以下でした。中学・高校時代では心理的に難しい場合も多いかと思いますが、もう20歳です。そろそろ家族と大人の関係を作る努力をしても好いのではないでしょうか。

 それに、話した人でも、お父さんという言葉が全然出てこないのはどうしたことでしょうか。家族と離れて生活している人は冬休みに話して下さるようにお願いします。

         回答から

──哲学ってどんなのか知らなかったけど、授業面白そうだね(母)。
──母に見せたが、「おもしろいね」と言っていた。

──私と同年代は哲学=難しいというイメージがあり、概論を学ぶと思われるけれど、通信や授業の様子を友達に話すと、意外な感じを受けるようです。

──母に話したら、「まめだねえ」と一言。
──「専門学校でもこういう風にやってくれるんだねえ」と言っていた。
──家族に話をする事はあります。個性的だと言っています。

──授業で話した事を私がしゃべると、「あんまり哲学っていうお堅い授業じゃないんだね」と言われた。

──姉に見せた。先生は大変だと言っていました。
──友達は「いわゆる哲学のイメージとは違うね」と言っていました。

──家族は「面白い授業だね」と言ってくれている。他校の友達も興味をもってくれ、友達同士で討論している。
──親は興味深く読んでいた。「何の授業なの?」って聞かれた。

──教師をしている知人に話したら、面白そうだと、ちょっと興味をもったようでした。

──家族が私の机の上にあった「天タマ」を読んだ時、母が「みんなしっかり自分の意見を書いてるね。先生もコメントをのせてくれていて、その生徒に対してプラスになるプリントだね」と言っていました。

──驚いていた。毎回読みたい、と言っていた。
──裁判の話など家族に話したら、家族も納得をしていました。病院の評価の話にもとても興味をもって聞いてくれていました。

──裁判をニュースでやっているのを見て、母に裁判のことを授業でやったと話した。また姉には休憩のプリントを見せたり、好き嫌いの区別のプリントを見せた。姉からは『明るい悩み相談室』の本が欲しい。また好き嫌いの区別については、「この分け方は難しい。私はこうやって好き嫌いを分けて考えたことならある」などと言い、2人で話し合いになった。

──恋愛のパターンのテストを行った時、妹に授業のことを話したら、「哲学の時間にそんなこともやるんだぁ」と驚いていた。

   第6項「レポートに対する講師の感想は十分親切でしたか。
       どう思いましたか」

 講師への不満ないし要望はほとんど「レポートへの感想をもう少し沢山書いてほしい」ということでした。まず、皆さんの声を拾ってみます。

──私はテーマが飲み込めてないのであまりよいレポートは書けていないので、いつも感想が少ないのは分かるが、多い人のを見るとやはり羨ましいと思ってしまう。

──先生は忙しいと思うけど沢山書いてもらえるとうれしいです。
──言葉が少し難しい時もある。
──感想がとても短かったりすると、少しさみしい。

──少し簡単すぎる時もあるけど、多くの人のを見るから仕方ないかなと思っている。
──もう少し先生のこともプラスしてあるとよかったと思います。

──もっとコメントがほしい。
──もっとたくさん書いてほしいです(大変だと思いますが、できるだけ)

         講師の考え

 「天タマ」と「感想」の両方を続けるのは難しいと分かった時、私は「天タマ」を優先しました。感想は1人3行を原則として、いろいろな事情で多く書く場合もあります。

 皆に同じ分量を書くのは悪平等だと思います。この授業に取り組む生徒の姿勢や熱意などが違うのですから、そしてそれがレポートに出てくるのですから、それへの反応も違うのが本当の公平だと思います。

 もちろん生徒に対する好き嫌いの感情で区別しているとしたら、それは依怙贔屓であり、悪い事だと思いますが、レポートの内容とか、休んだ人を励ますとかの理由なら、悪くないと思います。

 上の人々への感想を確かめて見ましたが、他の人より特に少なく書いているという訳ではありませんでした。皆さんはどう思いますか?

 大多数の意見は次の3種です。

──先生の感想が少ないと、私のレポートは大したこと書かったかなと思う。ちゃんと読んでくれてるなと思うこともある。
──自分の考え方をより深くさせてくれる感想で、とてもためになる。
──「天タマ」を作る上に感想を全員書くというのは本当に大変な事だと思う。

        講師からのお願い

 「感想」の中に、あなたへの質問を書いているのに、答えてくれない人がいます。これでは対話になりません。ストーカーをしている訳ではありませんから、なるべく答えて欲しいと思います。

            その他

 休憩は好評でした。カンファレンスの人数(3~4人)と時間(10~15分)も、これで好いという意見がほとんどでした。

 レポートを宿題にすることについては、3割くらいの人が「時には好い」で、7割が「止めて欲しい」でした。

 話すスピードを落として欲しい、という意見は、当然の事ながらありました。

 「その他」からいくつか拾います。

──ケーキ作りが趣味ということをもっとくわしく聞きたいです。

──先生の授業は最初に思っていたより楽しかった。「天タマ」ではみんなの意見に触れることが出来、いろいろ考えさせられた。

──より良い授業のために、私達の意見を取り入れようとする先生の姿勢を、他の先生方にも見習って欲しいな、なんて思ったりしています。
──先生のドイツ語、1度聞いてみたいです。

──先生は自分の意見をしっかり持っていて、それに自信を持てているのがすごいと思いました。

──哲学の授業は他の授業にくらべて参加しているという感じがします。

──哲学と聞くと難しいと思っていたが、自分で考え、皆と話して、考えも広がり、興味深いものであると思いました。

──あきない授業で楽しいです。休憩では又、心あたたまるユーモアのある話を聞かせて下さい。

      「マッターホルンの麓」から

 村の北のはずれから、風に騒ぐ小波のように、チーゲ(山羊)の鈴の音が高く低く響いて来る。

 南へだらだら上りになった、たった一本しかない村の通りを、牧童に追われつつ、チーゲの群れが進んで来る。両側の家の間から、一匹二匹、ひょいひょいと現れて、この仲間が殖えてゆく。鈴の音はますます賑やかになる。からんころんと忙しげに鳴る鈴の音が、村の南のはずれに消えかかると、教会の鐘が鳴り出す。そしてツェルマットの朝が始まる。(中略)

 両側から谷を抑(お)し狭めるように、差し挟んでいる高い崖に切り取られて、青空が北から細長く流れている。……峠の向こうにイタリアの空がのびのびとしている。

 地の底から生え抜けたような、マッターホルンの大きな姿が、ただ一つその大空に聳えている。茶褐色の岩肌にまばらに残った白雪が、朝日に眩(まばゆ)いほど爽やかに輝いている。

 思えばこの山一つのために、幾万の人がこの谷へ、自然への限りない憧れに駆られて入って来たことか。それほど底知れない力をもって、人の心に迫って来る。美しいの一言だけでは言い尽くせない。力強いと付け加えてもなお足りない。はっきりと大空に、鋭い直線で描き出す二本の山稜の上に、ゆらぐ光を見るがいい。青でもない、緑でもない、身も魂もその中に溶かし込んで、空高いあの岩の上に、しがみつかずには置かない、不思議な光が燃えている。(以下略)(浦松佐美太郎著『たった一人の山』)

関口の意味形態論の例解

2018年11月22日 | ア行
     
         意味形態論の例解

 私は、関口存男(つぎお)の意味形態論について既に2回「説明」しています。1回目は『関口ドイツ語学の研究』(鶏鳴出版、1976年)でして、2回目は『関口ドイツ文法』(未知谷、2013年)の中です。しかし、読者は気付いているでしょうが、両方とも、自分でも、「これでは何も分からないな」と自覚しながら書いたものです。最近、ようやく、例解が出来なければならないと気付きました。それを実行します。

   小目次
 例解1・千一夜物語
 例解2・動詞。進行形、能動で言うか、受動で言うか
 例解3・語順
 例解4・否定疑問文への答え方
 例解5・ドイツ語の指向性と日本語の響き

例解1・千一夜物語
 金田一春彦は『日本語の特質』(NHKブックス)の183頁で次のように述べています。
 〔単数・複数の区別については〕ドイツ語なんかでも難しいのがありますね。たとえば『千夜一夜』をドイツ語で "tausend und eine Nacht" と言うそうです。Nachtというのは単数です。元来「千一の夜」ですから複数にすべきですが、tausendの次に「一つの」というeineがあるので、それに引かれて単数のかたちを使う。このへんはどうも論理的ではないように思います。(引用終わり)
 残念ながら、この説はいただけません。そもそも金田一は「自然現象に不合理はない」という大法則を知らないようです。自分に分からない現象を「非論理的=不合理」と決めつけるのは学者として極めて拙い態度だと思います。言語でも人工的に作られたもの、例えばエスペラント語なら、非合理という事はありえるでしょうが、ドイツ語は自然言語です。そこには非論理的なものはありません。研究者にとって説明できない現象があるとするならば、それは研究者の理解がまだ十分に進んでいないだけのことです。
 注・エスペラント語は実際には言語の本性に対する深い洞察に基づいて作られた素晴らしい言語のようです。そうでなければ、他の人工言語は生まれては消えていったのに、ただ一つエスペラント語だけが生き残って未だに隠然たる影響力を発揮し、国連の共通言語にしたらどうかという提案すらあると聞きます。

 さて、一般論はこれくらいにして、この実例をどう考えるかです。私の知る範囲では、ドイツ人でも、その他のドイツ語学者の誰でも、これを「説明」した人はいません。いや、関口存男だけは別です。関口の説明を聞く前に、まず念のために、英語及びフランス語と比較して、ドイツ語の「奇妙さ」を確認し、問題を確認しておきましょう。
 日・千一夜物語(あるいは千夜一夜)
 英・Thousand and One Nights (×Night)
 仏・Les Mille et une Nuits (×Nuit)
 独・Tausendundeine Nacht (×Nächte)

 問題は、なぜドイツ語はここで単数形を使うか、です。常識的に考えれば、金田一の言うように、複数形を使って当然の所なのに、です。
 関口は『無冠詞論』(『冠詞』第三巻、三修社)の341頁で、「これは対象を一括的に捉えるか、分解的に捉えるか、それぞれの言語の捉え方が違うだけの話である」と答えています。英語やフランス語は、他の多くの言語も多分そうでしょうが、一括的に捉えるから複数形にしますが、ドイツ語は(多分、ロシア語も)分解的に捉えるから、こうなるのだ、ということです。つまり、ドイツ語は千一夜(千一回の夜)をいったん千回の夜と一回の夜に分けた上で、次に合わせて表現する言語だということです。そして、その「合わせた結果の最後の数が「一」だから、次の名詞は単数形にする、ということです。

関口の説明をそのまま引きます。
──英語ではmy und your fatherなどという独と同じ言い方のほかに、独には見られないmy und your fathersと複数扱いが盛んに行われる。これは分解しないで一括して考える証拠であり、ここでも「分割」と「一括」との2原理が対立して外形を左右している現象が観察される。
 例えば、air-, car- and seasickness are the same thing(飛行機酔いと車酔いと船酔いとは同じものである)などと言うかと思うと、the American and Japanese goverments〔米日両政府〕とかthe foreign, defence and finance ministers〔外務、防衛、財務大臣〕などは複数形で見かけることが「多い」。
 ドイツ語の考え方がすべて分解的であり、英が「主として」一括的であるということは、例えば「2時間半」を英はtwo and a half hoursと言うに反し、独はzwei und eine halbe Stundeと言うのでも分かる。但しzweieinhalb Stundenないしdrittehalb Stundenにおいては、数詞が1語をなすから、もちろん一括的取り扱いをする。(引用終わり)

 残念ながら、フランス語への言及もロシア語の検討もありませんが、思うに、英語がこの点でかなり中途半端(牧野が引用符号を付けた「主として」とか「多い」に注意)なのは、英語は比較級の形などからも分かりますように、ドイツ語から分かれて独立した言語ですが、フランス語の影響も強く受けているからではないでしょうか。

 さて、ここで意味形態とは何かをまとめましょう。
 人間は言語に使って対象を捉え、表現する場合、対象を「直接」「そのままの姿で」捉え表現するのではないということです。これが大前提です。これを知らないと、金田一のように「対象が複数なのに単数形を使うとは論理的でない」などという愚論が出てくるのです。
 そうではなくて、人間はそれぞれの言語に定式化されている「考え方」を通して、対象に接し、対象を捉え、そして表現するのです。この「考え方」を関口は「意味形態」と呼んだのです。氏のよく使う言い方を引きますと、「水は器の方円にしたがう」のです。水そのものには形はないのです。それを入れる器の形によって丸くもなれば四角くもなる、という事です。
 以上で終わりなのですが、もう少し蛇足を加えます。

例解2・進行形。能動か受動か
 我々は外国語としては先ず英語を学びますから、そして英語の動詞には進行形という形がありますから、「~しつつある」という状態を意識するようになります。そして、無意識の内に、「外国語はどの外国語でも進行形という形を持っているものなのだ」と思い込みます。しかし、大学に進んで、第二外国語を学びますと、ドイツ語にもフランス語にも進行形というのはありませんので、「おやっ?」と思うのです。しかし、この疑念はすぐに忘れ去られます。それほど文法学に興味を持っている学生はほとんどいないからです。
 しかし、この進行形を持っているかいないかの違いも意味形態論で説明できます。それはそれぞれの言語の対象把握の方式の違いでしかありません。

 動詞との関係で、日本語と西洋語との違いを、形というより使い方の違いの面で見てみますと、私は、「西洋語は受動表現を好むが、日本語は能動表現を好む」という事実を指摘したいと思います。
 ヘーゲルの有名な言葉に、
 Das Bekannte überhaupt ist darum, weil es bekannt ist, nicht erkannt.(ズーアカンプ版『全集』第3巻35頁)
 というのがあります。直訳すれば「一般的に言って、知られている事は、知られているからといって、それだけで、認識されている訳ではない」くらいでしょう。
 英訳は2つありますが、Baillieの訳は、What is “familiiary known” is not properly known, just for the reason that it is “familiar”です。
 Millerの訳は Quite generally, the familiar, just because it is familiar, is not cognitively understoodです。
 金子武蔵は「一般に熟知せられているものは、熟知せられているからといって認識せられているわけではない」と訳しています。
 私もかつては受動形で訳していましたが、最近は「或る事を知っているというだけでは、認識していることにはならない」と訳しました。要するに「知っていることと認識している事とは別」ということです。皆さんはどう思いますか。能動文の方が日本語らしいと思いませんか。
 この彼我の違いも意味形態論で説明できます。対象自身は能動でも受動でもないのです。その言語が能動で捉えるか、受動で捉えるかの違いでしかないのです。

例解3・語順
 語順も習慣で決まっています。例えば、イエス・キリストがその好例です。日本語は「イエス・キリスト」という語順で言いますが、これは多分、英語のJesus Christをそのままの語順で訳したのでしょう。ドイツ語ではJesus Chistusで、フランス語では Jesu Christ
です。
 ここで大切なのは名前と評辞の順序です。英語でも同じでしょうが、ドイツ語では例えばガミガミうるさい人がいたら、Robert der Teufel (鬼のロバート)と言います。「仏のロバート」は、見たことがありませんが、多分、Robert der Engelでしょう。
 ともかく、Jesus Christを訳す時、「キリスト・イエス」と日本語文法として正しく訳した人もいたようですが、多くの場合、「イエス・キリスト」と間違った語順で訳してしまい、それが一般化したのです。そのため、「イエス・キリスト」全体で或る人の名前だと思い込むような誤解が生じたのです。

 もう少し大きな語順の問題を見てみますと、「交叉配語か平行配語か」の問題があります。 一般論を言うより、実例で説明した方が早いでしょう。関口はこう言っています。
──対比した句を並べるのに漢文口調は(日本語も同じ)必ず平行配語を用いて、……「家貧にして孝子出で、国乱れて忠臣顕はる」とかいったように、語順を厳密に平行させるのが配語法として美しいとされている。西洋人の昔から好む交叉配語(Chiasmus)、例えば
Die Kunst ist lang, und kurz ist unser Leben.〔芸術は永く、人生は短い〕 (ゲーテの『ファウスト』)とか、Das Leben ist der Güter höchstes nicht, der Übel größtes aber ist die Schuld. (シラー)〔生きていること自体が最善の事とはいえないが、最悪の事は罪である〕
というやつは、少なくとも私の知るかぎり東洋人の間には絶対に好まれないどころではない、むしろ絶対に無いのではあるまいか(定冠詞298頁)。

 私(牧野)の見つけた文例を挙げますと、「秋水には『兆民先生行状記』がある。これによって私はふだん着の兆民に親しんだ。兆民先生は夜を好まれた、夜は雅にして昼は俗也、子の生れたる時より俗なるはなく、人の死したる時より雅なるはなしとおっしゃった。」(山本夏彦『完本文語文』文春文庫)があります。

もちろん例外はあります。更に関口の言を引きます。
──日本語でも「行こうか戻ろか、戻ろか行こうか」といい、漢詩にも「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」という〔交叉配語の〕句があるが、これらはそう広範に見受けられる現象でもないし、いわんや修辞・文法の1原則として堂々と振りかざす必要のあるほどの筋道とも思えない。ところが西洋語では、これが1つの原則になっており、只今の場合においてはむしろ文法上の規則と言ってもよい位である(無冠詞236頁)。
Seine Großmutter und er, er und seine Großmutter, machten für ihn die Welt aus. (お祖母さんと自分、自分とお祖母さん、これが彼にとっては全世界であった)
これも日本語と西洋語の意味形態(考え方)の違いです。対象にはどっちを取るかの基準はありません。

例解4・否定疑問文への答え方
 これは大分詳しく論じます。

 第1項 否定疑問文とその答えの原則
 否定疑問文に対する答え方は日本語と西欧語とでは逆である、だから西欧諸国から来る宣教師などはこれで戸惑うと言います。まず、それを確認しましょう。
1. 問・Haben Sie keinen Ausweis?
答・Doch, ich habe einen. 又はNein, ich habe keinen.
(「証明書はお持ちではないのですか」「いえ、持っています」又は「ええ、持っていません」)
2. 問・Gehen Sie heute abend nicht aus?
答・Doch, ich gehe aus. od. Doch, das tue ich. 又はNein, ich gehe nicht aus. od. Nein, das tue ich nicht.
(「今晩は出掛けないのですか」「いえ、出掛けます」又は「ええ、出掛けません」)
(NHKラジオドイツ語講座、2005年3 月)
3. 日・「それじゃ窮屈でしょう」「いえ、窮屈じゃありません」(漱石『こころ』)
 独・„ Sie sich unbehaglich?“ „Keineswegs.“
 英・“You seem very uncomfortable.” “Oh, no, I am not at all uncomfortable.”
用例3から判断するに、unbehaglichを使っても否定疑問文ではないようです。否定疑問文とは否定詞が単語として入っているものを言うようです。従って、ここではドイツ語ではDochという返事はないのでしょう。


 第2項 原則とは違った返事もあるようです。用例を少し挙げます。
4. „… und er kommt aus Weintal.“ „Weintal? Das ist im nächsten Kreis. Er ist nicht von hier.“ „Ja, das ist mir auch aufgefallen“, antwortet der Kommissar. ―謎の死
(「そして彼はヴァインタールの人です」「ヴァインタールですか?隣の町だ。彼はここの人じゃないんだ」「ええ、私も変だと思いました」と警部は答えた)
5. „Und was machst du denn heute an deinem Geburtstag?“ „Nichts.“ „Was, nichts!“ „Ja. nichts.“ (「今日の誕生日には何をするの」「何もしない」「えっ、何もしない?」「うん、何もしない」)(NHKラジオドイツ語講座、2005年3 月)
感想・4と5は日本語と同じだと思います。‚Nein, nichts.‘とは言わないのでしょうか。 Stimmtという返事もあるようです。
6. „Und wie heißt das Kind?“ „Amin.“ „Das ist kein deutscher Name.“ „Stimmt, der Vater kommt aus Tunesien.“
(「で、その子の名は何?」「アミンだ」「ドイツ人の名前じゃないね」「うん、父親はチュニジアの人だ」)(NHKラジオドイツ語講座、2003年04 月)
7. 日・「新聞なんか読ましちゃ不可(いけ)なかないか」「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」(漱石『こころ』)
独・„Vielleicht sollte man ihn die Zeitung gar nicht mehr lesen lassen ...“ „Ja, aber er besteht darauf.“
英・“He shouldn’t be reading the paper like that, should he?” “No, I don’t think he should either, but what can I do? He insists on being allowed to see it.”
感想・独と英では答え方が反対になる事もあるようです。
第3項 他の文への応用
否定疑問文への応えとしてのNein, Dochは他にも応用されます。
8, „Aber Phantasien hat keine Grenzen“, antwortete er. / „Doch, aber sie liegen nicht außen, sondern innen ... “ (Die unendliche Geschichte)
英・ “I thought Fantastica had no borders.” / “It has, though …”
仏・«Mais le Pays Fantastique n’a pas de frontières» objecta-t-il. / «Si, mais elles ne sont pas externes, elles sont a l'interieur. …(「でもファンタジア国には国境がないよ」と彼は答えた。「いやある。但し、外にではなくて中にあるんだ」)
感想・8は否定「疑問文」への対応ではなくて、否定「平叙文」への対応です。表現は一様ではありませんが、根本は同じだと思います。
9. „Versprecht mir: Geht nie wieder so dicht an den Fluss!“ „Nein, bestimmt nicht.“(「約束するんだよ。川にはもう2度とそんなに近づかないように」「はい、決して近づきません」)(NHKラジオドイツ語講座、1999年06 月)
 感想・これは否定「命令文」への応答です。

第4項 ジェスチャーで答える場合
 これが特に問題です。
10-1. 英原文・“I'm going to do a little reconnaissance for a few minutes, do you mind?” She shook her head and smited back. (「マジソン郡の橋」34頁)(「ちょっと見てくる。いい?」。彼女は彼の笑顔に笑顔で応えながら頷いた)
 独訳・„Ich gehe mal ein paar Minuten auf Erkundigung, wenn's Ihnen nichts ausmacht.“ Kopfschüttelnd erwiderte sie sein Lächeln. (独訳55頁) (迷惑でない?)
 仏訳・”Je vais faire un petit tour de reconnaissance quelques minutes, ça ne vous ennuie pas?” Elle avait secoué la tête et lui avait rendu son sourire.(仏訳41頁)
 感想・英語は肯定疑問文ですから、答えは当然「首を振る」です。しかし、独訳と仏訳は「それであなたに差し障りはありませんか?」と否定疑問文で訳しています。そして、その否定的な問いに対して「差し障りありません」と答える動作は「首を横に振る」こととなっています。これは原則通りです。日本語で「迷惑じゃない?」と聞かれた時、「迷惑ではない」と首を振って答える場合、横に振るだろうか、縦に振るだろうか。やはり横に振るのではあるまいか。独仏と同じように。
  10-2, „Hm“, brummte Herr K., „und jetst traust du dich nicht mehr.“ Bastian nickte. (Unendliche G. S.8)
 上田・佐藤訳・「ふーん」コレアンダー氏はうなった。「だからもういいかえすのもこわいんだな。」 / バスチャンはうなずいた。
 英訳・‘Hmm,‘ Mr C. grumbled. ‚And now you don’t dare?‘ / Bastian nodded.
 仏訳・── Hum, grogna M. K., et maintenant tu ne t’y risques plus. / Bastian secoua la tête.
 感想・これは実に面白い用例です。独と英は「否定疑問文への答え方」の原則に反して「頷いた」と言い、訳しています。つまり、これを原則通りに理解すると、「いや、まだやっている」「仕返しを続けている」という意味になりますが、実際は「もう仕返しはしなくなった」という意味です。和訳は問いの方を肯定疑問文に訳しましたから、「うなずいた」で日本語文法の原則通りです。もっとも、訳者が自覚してこう訳したのかは疑問ですが。 
 仏だけは原文には逆らって、但し原意と仏文法には忠実に「首を振った」と訳しています。と書いたのですが、これは「文法に逆らって」かどうか、私には分かりません。そもそもsecouerを辞書で引きますと、「secouer la tête(同意または疑いのしるし)」とあります。つまり、どちらにでも使えるのです。
さて、こういう日本語と同じになる独と英はあるのだそうです。アッカーマンさんに聞きました。仏はこういう場合でもinclina la tête, hocha la tête (うなずいた)とは言わないのでしょうか。

日本語を用例で考えておきます。
 11-01、池田・西田を読んだうえであの本を書いたというわけではなかったのですよね。/ 福岡・はい。その通りです。(池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店29頁)
 感想・これが通説通りの言い方でしょう。

 11-02、「あなたは本当にアシザワという人に会ったことはない?」/ 運ばれて来たコーヒーをよけて身を引いた彼女は無言のまま首を横に振る。/ 「でも、名前は聞いたことがある?」(黒井千次「羽と翼」189頁 
11-03、──焼そばはそれまで、富士宮名物ではなかったのですか。──とんでもない。焼そば目当ての観光客はほとんどゼロでした。(朝日、2011年11月05日)
11-04、「どうあっても、お納め願えませぬか」/ 「……」/ 上野介は、首を横に振るしかなかった。説明している暇はない。(池宮彰一郎『その日の吉良上野介』新潮文庫142頁)
感想・最後の3例は西洋と同じでしょう。

私は、否定疑問文とそれへの答え方はほとんど研究されていないのではなかろうか、と思っています。関口も全然言及していません。否定疑問文には更に、二重否定の疑問文もあります。
又、かつては、"Vater, wollt ihr nicht essen ?" "Ja, wohl," antwortete Zitterlein und rückte näher zum Tische. (理髪師1頁)(「お父さん、食べないの?」「いや、食べる」と言って、テーブルの方に動いた)という言い方もあったそうです。今ならDochだけですが。
又、ロシア語では原則的に日本語と同じだそうです。但し、後に確認の文を添えずに да, нет だけで答える時は英語のyes, noと同じに(日本語と逆に)用いるそうです(佐藤純一『ロシア語入門』日本放送出版協会、30-31頁)。
 最後に、こういう事があるから文法研究では最低でも英独仏の3カ国語を比較するようにした方が好いという事になるのです。
 
例解5・ドイツ語の指向性と日本語の響き

次の例文を見て比較して下さい。
  An droht die Glocke.(ゴーンと鐘が鳴る)
  Ab riss das Seil.(プツリと綱が切れた)
  Auf tut sich der weite Zwinger. (パッと檻が開く)
  Hin gleitet der Kahn. (スーッと小舟が滑っていく)
 以上の4例を見ますと、ドイツ語の文はいずれも分離動詞を使った文です。しかし、そ
の分離した前綴りが原則通り文末に置かれていなくて文頭に置かれています。確かに分離
動詞の前綴りは文末に置くのが原則ですが、それは原則です。言語などというものは原則
があれば例外があるものでして、この場合もその原則の例外です。そして、前綴りをこの
ように文頭に置くと(ドイツ人には)間投詞な力を持って感じられるそうです。
 右側に掲げました「訳」は本来の訳ではありません。あるいはこういう方が本当の訳だ
という考えもあると思いますが、ともかくここで独日両語を対比しましたのは、或る同じ
情景に接した時、ドイツ人はこう言い、日本人はこう言う、という対比なのです。
 そして、その対比をさらに詳しく見てみますと、ドイツ語で分離動詞の前綴りが使われ
ている所に日本語は擬音語が使われているということが分かります。

 別の例を出してみましょう。
  A・Krach! war die Tür zu.(バタンと扉が閉まった)
  B・Die Tür fiel ins Schloss.(バタンと扉が閉まった)
 この場合は実際に音が出ているのですから、ドイツ語にも「バタン」という言葉を使っ
た表現(A)があります。それももちろん使われるのですが、ドイツ語にはもう一つBの言い方もあるのです。
 これはよく分析してみるととても面白い表現でして、文字通り訳しますと「ドアが錠前
の〔穴の〕中に落ち込んだ」ということになります。もちろんドアの方が錠前の穴より大
きいですから、物理的にはそのような事はありえません。しかし、ドアが勢い良く閉まっ
てきて、それを錠前がハッシと受け止めて、ドアの動きがいっぺんに止まる、その感じが
この表現には良く出ていると思いませんか。
 実にこのドイツ語があるからこそ「なるほどこういう見方も出来るんだ」ということが
分かるのです。これが言葉を学ぶ楽しさだと思います。

 「はてしない物語」の中に次のような一節がありました。
 Plötzlich trat Stille im Saal ein, und aller Augen wandten sich nach der grossen Flügeltür, die geöffnet wurde. Herein trat Cairon, der berühmteste und sagenumwobene Meister der Heilkunst.
 英訳・Suddenly all fell silent, for the great double door had opened. In stepped Cairon, the far-famed master of the healer's art.
 牧野訳・一瞬、広間はシーンとなった。皆の眼が入口の大扉に注がれた。扉が開く。サッと入ってきたのはカイロンだった。名高いというより、すでに伝説的と言ってよいほどの医術の達人である。
 岩波訳・突然、大広間が水を打ったように静まった。全員の目が、今しも開かれた大きな両開きの扉の方に吸い寄せられた。入ってきたのはカイロン、名高いというより、すでに古い伝説に包まれているほどの、医術の達人だった。

 ドイツ語で einとか herein と方向が表現されている所には日本語ではやはり「シーン
」とか「サッ」と擬音語を使いたくなります。ドイツ人は目が発達しているのか、静けさ
が入ってくるのが見えるようです。日本人にはそれは見えませんが日本人は耳が発達して
いますから、何も音のしない静けさの中にも「シーン」という音が聞こえてしまうようで
す。
 要するに、日本語は音楽なのです。自然と共鳴して歌うのです。これが日本語なのだと
思います。それに対してドイツ語の世界は幾何学の世界です。どこにでも直線運動を見いだすのです。ですから、それはもう少し正確に言いますと、ベクトルの世界と言ってもい
いと思います。

 以上のは一つの試論みたいなものですから全部正しいと思わなくて結構です。大切な事は、このように諸言語には共通した大きな枠組みとその中での違いとがあるということです。ですからその共通点と違いとを手掛かりにして色々な事を理解することが出来るということです。私の言いたかったことは、我々が日本語を母語として生まれてきたことによってどういう偏った考え方をしているかということを自覚しておいても好いのではないか、ということです。語学の勉強の目的の1つとしてこういう事もあるのではないでしょうか。
(2018年11月22日)





 

初版『資本論』の所蔵

2018年11月21日 | サ行
   初版『資本論』の所蔵

1、11月5日の朝日新聞夕刊に次の記事がありました。
      「資本論」
  ──マルクスのサイン入り初版本、世界に15冊、4冊は日本に

 生誕200年を今年迎えたドイツの思想家カール・マルクス。その「資本論」の自筆サイン入り初版本が日本に少なくとも4冊あることが研究者の調査でわかった。

 サイン入り初版本は東北大、法政大、関西大、小樽商科大が所蔵していた。いずれも扉ページ横などに、友人や研究者の名前と謝辞、マルクスの自筆サインが書かれている。国際マルクス・エンゲルス財団(オランダ)で全集の編集委員を務める大村泉・東北大名誉教授(マルクス経済学原論)の調査でわかった。

 大村名誉教授によると、資本論は1867年、第1巻のドイツ語初版本が1千冊発行された。このうちサイン入りは世界で15冊確認されているという。

 国内の大学がサイン入り初版本を購入した経緯はさまざまだ。東北大は1989年、外国書籍を扱う丸善から490万円で買った。友人のドイツ人ジャーナリストへの献群が書かれており、付属図書館の貴重書庫に保管されている。

 国内の4冊の中で最も早い1921年に購入したのが、法政大の大原社会問題研究所だ。「日本円換算の18円20銭で購入」との記録が残る。関西大は1984年に丸善から520万円で入手。両大学とも公開は予定していないという。

 唯一、一般に公開(要予約)しているのが小樽商科大。元学長が1980年にべルリンの古本屋で購入し、遺族が大学に寄贈したものだ。大村名誉教授は「日本には初版本が約50冊、中でもサイン本が4冊あり、ドイツやロシアより多い。戦前のマルクスブームの証しだろう」と話す。

 2013年、マルクスが自筆で注釈を書き込んだ資本論の初版本が、「共産党宣言」の手書き原稿とともにユネスコ世界記憶遺産に登録され、サイン入り初版本の価格も急騰。オーストリアの古書業者が150万ユーロ(約1億9千万円)で売り出したことでも話題になったという。(2018年11月05日朝日夕刊、石川雅彦)

 2、感想

 第一に考えた事は、この記事はマルクスを「思想家」と紹介していますが、「マルクスを紹介するとしたら、ほかに何という言葉が考えられるかな?」という事でした。すぐに浮かんだ対案は、革命家と経済学者です。ドイツ語版のウイキペディアを見たら、哲学者、経済学者、社会理論家、政治ジャ-ナリスト、労働運動の指導者、ブルジョア社会の批判者と六つもの称号が挙がっていました。
 ちなみに、エンゲルスは哲学者、社会理論家、歴史家、ジャーナリスト、共産主義の革命家、ブルジョア社会の批判者でした。マルクスと比べると「経済学者」が「歴史家」に替わっていますが、内容的には同じと考えて好いでしょう。レーニンとなると「ソ連の建設者」が入っていますし、毛沢東では「中国共産党の主席と中華人民共和国の主席」が主です。
 元に戻ってマルクスの肩書きを何とするかと自分で考えてみますと、やはり「思想家」が無難かなと思います。エンゲルスも同じです。その意味は、私の現在の考えでは、「革命家」とは言えないということです。その人生の前半は「革命家」だったと思いますが、後半は「経済学者」は少し酷いとするならば、やはり「思想家」しかないでしょう。なぜかと言いますと、「革命家」と言うのは、革命のためには、客観情勢と自分の資質・能力から考えて、今何をするべきかを考えて行動していなければならないと思うからです。そして、後年のマル・エンは、「革命家」と言うには、運動なり運動の組織の中心に居てそれを指導し、特に後輩達に本当の理論を身につけさせるためには何をしなければならないかを、常に考えて実行していなければならなかったにも拘わらず、それをしなかったからです。
少し酷い言い方をしますと、昔、学生運動が盛んだった頃、「学生時代のアカなんて、ハシカみたいなものだ」と言う言葉がありました。これを「はしかアカ」としますと、マル・エンは「元祖はしかアカ」だったのではなかったか、という事です。1848年の革命運動に参加した頃はアカだったのでしょうが、亡命してからは徐々にアカではなくなっていったのではないだろうか、という考えです。「こんな現状では社会主義革命なんて、無理だ」と思い、理論的な仕事をしていたのではないか、ということです。
 エンゲルスは『フォイエルバッハ論』(1888年)の最後を「ドイツの労働者階級の運動こそドイツ古典哲学の相続者である」と結んでいますが、これはリップサービスだったのではないだろうか、と思うようになりました。1878年に『反デューリンク論』を書いた時も、この『フォイエルバッハ論』を引き受けた時も、ドイツの社会民主党方面からの要請で書いたようですが、そしてそれは「喜んで引き受けた」ように書いてはいますが、本当は「まだオレに頼んでくるとは、情けない話だ」という気持ちがあったのではないでしょうか。同時に「後輩の養成に手抜かりがあったな」という自己反省まであったかは分かりませんが(多分、無かったでしょう)。

 もう一つ考えた事は、こういう歴史的史料の収集と保管において日本が世界の先端を行っているという事実です。これは、その裏面に、「先人の思想を主体的に継承して、生きて行くという点では、決して世界の先頭に立ってはいない」、という事実を伴っています。ここに日本の学者の講壇学問の特徴がよく出ていると思います。普通の言い方をするならば、「マルクスの思想を受け継いで生きる」という事とは切り離して、本だけ珍重するということです。分かりやすく言うならば、政治的実践には踏み込まないで、マルクスの理論を「客観的に」研究するだけで自己満足しているということです。

 マルクス研究で最近特にがんばっている的場昭宏は、「私は、これからの時代こそマルクスの時代だと思っております。そのためにも、マルクスとはどういう人物だったか、その思想はどういうものであったかを、とりわけ若い人たちに学んで欲しいと思っております」(『カール・マルクス入門』360頁)と言っていますが、何のためにマルクスを学ばなければならないかは書いていません。そして、ご自分は「ライフワークである『マルクス伝』を執筆中……じきに勤務先の大学も退職するので、余った時間を伝記の完成と、マルクスの詳しい解説つきの翻訳のために、あの世に迎えられるまで捧げるつもりでいます」(同、357頁)と言っています。正直でいいですが、内容的には「世の不正と戦う気はありません」、「政治には一切関わりません」ということです。

 3、朝日新聞の記事

 少し前、こういう記事がありました。

 ──今月上旬、シングルマザーの彼女(18)は、仕事に復帰した。2人目の子どもを出産して2週間。「早すぎるって友達に言われたけど」。メイクをして向かうのは「性的サービス」を伴う那覇市の夜の飲食店だ。

 7歳で親が離婚し、父親に引き取られた。年上の兄弟が食事を作り、服はもらい物が多かった。中学卒業後、父親に「自立しろ」と言われ、働く所が見つからないうち、知人に誘われて今の店に。数ヵ月後に妊娠、出産した。

 母子生活支援センターの寮で暮らしたり職員の指導で、食堂の店員など「昼の仕事」に就いたが、時給は700円台。アパートに移るお金を稼ごうと、友人宅に泊まると言って「夜の仕事」に出た。多いときで一晩に3万円を手にできた。

 2人目の子どもを出産した日も、直前まで店に出ていた。「最初の子が可愛かったから、次も産みたかった」。父親たちとは結婚に至らなった。

 知事選は投票権を得て迎える初の選挙だが、興味は持てない。「子どもに不自由させたくないけど、選挙で生活が変わるかな。何かのせいで自分がこうなっているとも思わないし」。

 子どもの貧困は、沖縄県で特に深刻だ。県が初めて行い、2016年に発表した独自調査による貧困率は29・9%。全国平均の倍だ。県民所得が全国最下位(約217万円、15年度)という「親の貧困」が招く現実。ひとり親世帯の割合も高い(6・36%、13年度)。離婚の大半は経済的理由という。

 元県中央児童相談所長で若年妊産婦の支援に取り組む山内優子さん(71)は、戦後27年間にわたる米軍統治で児童福祉法の適用が遅れたことが「貧困の連鎖」の遠因とみる。「そして、今は基地問題。代々の県政が手を取られ続け、本来の大きな課題に腰を据えて取り組めずにいる」。(朝日、2018年09月22日。奥村智司)

 4,感想

 こういう現実を調べて、本にしたものがあります。『裸足で逃げる』(上間陽子著、太田出版)です。
 「ライフワークである『マルクス伝』を執筆中」のマルクス研究者はこういう現実をどう考えているのでしょうか。
 私は、やはり「世の中をよくする」という初志を忘れたくないと思っています。あえて言いますけれど、今問題になっている普天間基地の辺野古への移転の問題でも、私は、辺野古移転を認めて、その代わりとして、十分な補償を毎年、政府からもらうことを約束させて、それを沖縄の全県民を対象にした「ベーシック・インカム」に当てると好いと思います。現に辺野古周辺の人たちはこれを選択しています。先日の県知事選挙で反政府側が勝ったのは、前知事の死があったので、それに対する弔いの気持ちが強かったからだと思います。
 そもそも米軍の沖縄駐留は日本が侵略戦争を始めた結果として「無条件降伏」したことの結果の一つで、実際問題として、日本の力ではどうしようもないことです。米軍の力がどれほどかを知るには、「自力の革命で政権を取ったキューバですら、ガンタナモ基地を取り返す事ができないという事実」を見れば分かるでしょう。だから米軍の方針は受け入れて、基地を辺野古に移せば、普天間基地という大きな危険は無くなるのですから、危険は小さくなるし、行政協定の(ドイツやイタリア並のものへの)改定も要求しやすくなると思います。
 日本だけの問題としても、沖縄は昔から我々本土の人間は犠牲にしてきたこと、その上、今全ての米軍基地の中で沖縄の負担はあまりにも莫大であること、こういう事を考えたら、それしか仕方ないと思います。
 とにかく、沖縄の貧困問題、特にそれを最大の原因とする貧困家庭の少女達の苦しみはこれ以上放置出来ません。「マルクスを訳して幸福な生活を送っている」訳には行かないと思います。

 その後、ヘーゲルの『世界史の哲学講義』(講談社学術文庫)が出ました。訳者は伊坂青司です。下巻の最後に「訳者解説」が載っています。そこには次のような文句がありました。
 ──ヘーゲルの「世界史の哲学」講義をどう現代に活かすかは、現代に生きるわれわれ自身にかかっていると言えよう。
 現代はまさに世界史的な転換点にあると言っても過言ではない。産業革命以降の地球温暖化とそれにともなう自然諸現象の変化、また核兵器による世界戦争の危機という人類存亡に関わる時代の中で、われわれは現代という歴史的地点を反省する必要に迫られている。そのためには、ヨーロッパの近代文明を問い直すとともに、近代以前の、しかも近代文明とは異なる世界の文明に広く目を向ける必要もあると思われる。東洋の中でも極東に位置する日本はヘーゲルによって世界史から除外されたが、その考察はわれわれ自身がなすべき作業である。現代に生きるわれわれ日本人は、明治期以降ヨーロッパ文明を受容してきた歴史を振り返るとともに、それ以前の日本を歴史的に遡上することによって、忘れられたわれわれ自身の過去を世界史的な連関の中で想起することが必要であろう。(339頁)

 やれやれ、折角「ヘーゲルを現代にどう活かすか」と正しく問題を立てたのに、その「現代」を「地球温暖化」と「核戦争の危機」とにすり替え、更にそのための仕事として、日本の過去を世界史的関連の中で振り返る」として、結局は歴史研究に、只の歴史研究に持って行ってしまうのです。

 伊坂は、極左派から転向して出世し、紫綬褒章までもらい、今やヘーゲル哲学そのものではなく、ヘーゲル関係の文献学で頑張っている加藤尚武の弟子のようです。この師にしてこの弟あり、ですね。










「天タマ」第7号

2018年11月17日 | カ行
「天タマ」第07号   (1998年11月20日発行)
                浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は、他人に対して不満を言ったりするだけでなく、自分の出来る範囲でどう世の中を改善していくかという問題を考えました。

 部活で最上級生になった時、話し合いのシステムをどう改善したか

───私が中1のときは、部活の仲間の中の2~3人が同じ部活の先輩に呼び出されていろいろ注意を受けたりしていた。でも私たちが中3になった時は、何か問題があったら1~3年までの部員全員が集まり、部長が司会をしながら問題の解決ために意見を言い合ったりするようになった。

───1・2・3年生を3つぐらいのグループに分けて、1年生が6人、2年生が6人、3年生が4人で1つのグループを作り、そこで話し合うようにしたら、下級生も意見が出しやすくなった。

 ★ 多くの中学校の部活では、ヘンな上下関係があって、上級生が下級生をミーティングと称して呼び出して、一方的な説教をするといったことがあるようです。多くの人が「自分たちはそういう事をしたくない」と思って、自分たちは変えた、と書いています。これは嬉しかったです。残念ながら、自分たちもされたのだから、ということで、下級生に同じ事をした人もいるようです。

 学校と教師は多かれ少なかれこういう事態に気づいているのに、積極的に是正しようとしている所は少ないようです。それどころか、教師の間にいじめがあったりします。

 或る校長は私と私の娘を快からず思っていました。私が或る事で学校に問い合わせたら、電話で十分に答えられることなのに、「~日までに来てくれ」と一方的に呼び出し、娘を「協調性がない」と罵り、私にも「お父さんは我が儘なのではないか」と罵りました。その校長にはその後、裁判を通して反省していただきました。公務員は憲法第15条に「全体の奉仕者」と定められています。「奉仕者」ということは「威張ってはいけない」という意味です。

  自分が婦長などになったら、話し合いのシステムをどう改善するか

 自分が主任に成ったときとか、婦長に成ったときというのを想像すらできないような人が多かったようでした。仕方ない面もありますが、今後の実習の中で意識的にこういう事を考えてみて下さい。これと同じ事ですが、自分の生まれ育った家庭のあり方を反省し、自分はどういう家庭を築くかと考えてみることも大切な事だと思います。提案されていた具体策を箇条書きにします。

───申し送りやカンファレンス以外の時間を設ける。その時に仕事で出られない人は又別の時間を作る。部屋は2列にならないようにする。途中で反論しないようにする。

──部活(吹奏楽)で各学年、各パートの代表がいて、その代表たちが事前に話し合ったのでうまくいった。この経験から、各立場(看護婦・助手・実習生)に代表をおいて、その代表でまず話し合い、その上で皆で話し合うと好い。

──10人(実習生6人、看護婦4人)くらいのグループで毎日話し合うようにする。あるいは、婦長が毎日実習生と話すようにする。

──3回とかに分けて看護婦の会議をし、特定の人がその全部に出てまとめる。

──週1回とか曜日を決めてみんなで話し合う時間を作ると好いと思う。その時婦長が下の人の意見を引き出すようにする。

──申し送りの時間に話し合いを入れる。1日3回持つ。終わらない事柄は別に話し合いの時間を持つ。看護助手やクラークや医師を含めた話し合いを持ちたい。

──ナースステーションの全員の集まりだから意見が出ない。婦長が2~3人ずつと会うと好い。婦長が新聞を出すと好い。

──看護婦と看護助手の関係は、婦長と看護助手の関係に左右される。後者に信頼関係があれば、看護婦も自然に看護助手を尊重すると思う。

──交換日記のようなものを回し、婦長がそれを読んで、会議には代表者として出ると好い。

──どう話し合いをしていくのかを考える前に、まずお互いの人間関係を把握することが先決である。立場についての共通の認識がなければ、話し合いにならない。ここの病院は現在そこの所があいまいだから、「助手さん」「学生さん」といったひとくくりにされているのだと思う。

──新人から婦長まで活発な意見が出る状況にしたい。そのためには話し合い以外の場で色々な人に声をかけ、信頼関係を築く。そして、司会者は上の者だけでなく、新人の人にもやってもらったりすると、意見を出しやすいのでは。

──まず初日はカンファレンス室に集め、病棟の説明、どんなケアを中心にしているか、看護方針、注意点をじっくり話す。そして、物品は事前に聞いて備えておく。3日目くらいになって少し慣れた頃、学生側の不満を聞いたり、看護婦のこと、患者とのコミュニケーションなどの悩みを聞く。気楽に、そして秘密を守ることが前提。5日目か1週間くらいしてアンケートをとって、実習生とのコミュニケーションを深め、残りの日を改善して過ごす。

──横(1年目の看護婦同士とか)のつながり、と縦のつながりの両方で小グループを作り、話し合い、それをまとめる。

       講師から

 朝日新聞の土曜日の夕刊に「ビジネス戦記」という題のコラムがあります。題名から分かる通り、ビジネス社会で活躍している方々が自分の経験と考えを書いているのです。長さは一定しておらず、2~5回くらいの連載が多いようです。

 2年程前、東芝の常務をしているという森健一氏が「創造一生」と題する文を寄せられました。その内容はほとんど東芝におけるワープロ開発の苦心談でしたが、その中に次のような一文がありました。

──ある商品を開発する際には、徹底的に議論してコンセプトを詰めておくと、他社の動きは気になりません。次に何をやるべきかが分かっていますから。この手法の元となったのは、大学時代の研究室での経験です。

 私の恩師は「学問の発展のためには徹底した議論が必要」といい、議論の三原則を定めました。①チームで議論を始めれば全員対等、②相手を誹謗中傷する言葉を一言でも言えば、即退場、③議論で決着がつかなければ、リーダーが独断で決めて、全員がそれに従う、というものです。(以下略)

私はこれを読んで、日本企業の強さの秘密を知ったような気がしました。普通に思考と言われているものを「個人的思考」とするならば、議論は「集団的思考」(集団で考えること)と言えます。

 この東芝のやり方が成果を挙げたということは、この3原則は「物事を考える時に必ず守らなければならない原則」だということです。この1つ1つがなぜ正しいのか。こういう事を考えるのが私は本当の認識論であり、本当の哲学だと思っています。

         その他

──看護助手さんには、この前の実習のときとてもお世話になった。看護婦よりも何だか安心できるところがある気がする。

──昨日フリーワークでテニスをしたら、今日筋肉痛に襲われている。久しぶりに体を動かすと気分もすっきりしていいのですが、体の方が疲れを訴えてきます。

 ★ 看護婦になった元生徒で、患者さんを動かしたら筋肉痛になり、体力の落ちているのを痛感したので、それ以来スイミングプールに通っている、という人もいます。社会に出たら、健康と体力がすべての第一前提です。

──西式健康法は初めて聞きましたが、温冷浴は何かどこかで聞いたような気がします。カイロプラクティックの先生も、脊椎を矯正すれば体の調子はよくなる、と言っています。時々、医者って何だろうと思うことがあります。

──私は昨年、今年と夏休みは1ヵ月くらい山小屋で住み込みのバイトをしました。山は空気も水もおいしくて、みんな心が暖かく、帰ってくると、よっしゃー頑張れる、という気分になります。これが私の健康法かな。

──私はミシマの泉(スーパー銭湯)にはまっています。この間は1週間に2度も行ってしまいました。ラジオ深夜便も時々聞いています。とても心おだやかになる番組です。

──授業の時、先生はなんか楽しそうに笑顔で話しはじめることに気づきました。聞いていると楽しい気分になるので、いいなあと思いました。

──今日、先生から感想の紙をもらってびっくりした。前回欠席したので、来るはずがないと思っていたから、嬉しかった。欠席者に対してもここまでする先生はそういないと思う。こういう心掛けをこれからも続けて欲しい。

      お知らせ

 私のホームページ「哲学の広場」が出来ました。「授業参観をどうぞ」のコーナーにはこの「天タマ」も載っています。そのほかに哲学日記(第1回は「心の教育」)、日本語疑典(第1回は「どういたしまして」)などが載っています。ゲストブックには既に読者からの反響が寄せられています。「すてきなHPですね」と書いてくれた看護婦さんもいます。なお、本校に関係する地名、病院名、個人名などは皆匿名にしました。

     「ナース大辞苑」
   (別冊宝島『ナースという生きかた』)から

 ナースの節目にスピーチ──看護学校受験、病院実習、病院の就職面接のたびに「看護婦になった動機」を聞かれる。だから改めてこの質問をすると嫌がるナースが多い。

鶏鳴・ヘーゲル原書講読会の1ヶ月

2018年11月15日 | ハ行
   ヘーゲル原書講読会の1ヶ月

 10月15日に「ヘーゲル原書講読会」のお知らせを発表してから1ヶ月が経ちました。誰も来ないのではないかという心配は始めからありませんでした。と言いますのは、この春、3月だったと思いますが、大学に入学が決まった方から「弟子入りさせてほしい」というメールをいただいて、それ以来連絡を取っていたからです。私は、かねてから、「『小論理学』が出来たら、『原書講読会』をやろう」と決めていたので、そのことを伝えて、待ってもらっていました。と言っても、その間にも連絡を取り合った訳です。

 さて、かくして始まりましたが、内容は手探りです。手探りは今も、続いています。決まっている事は、「大学(院)レベルの真の哲学ゼミを目指す」ということだけです。この目標に向かって、内容を少しずつ具体化しています。

 先日、或る方から「もう少し詳しい説明がほしい」というメールをいただきました。その中心点を引用します。

──さて,もう少し詳しく知りたいこととは,具体的な指導内容です。
 先生はブログの中で,指導に関わるものとしては,
1. 「大学院レベルの哲学演習の会」であること
2.目的は,「自分の考え方を確認し、更に発展させて哲学的思考能力を高めること」
3.指導形態は,「基本的に個人指導」
4.指導内容は,「基本的に、牧野の既に発表してある論文や本を読んで、「これはどういう意味か」「これでいいのか」「他の考えはないか」といったことを一つ一つ考えて、その考えを大小の論文にまとめること」(なお,「哲学書や哲学論文の「和文独訳」にも力を入れる」)
5.「この「原書講読会」は、各自が自分の哲学を作って生きてゆくための「基礎的修練の場」にすぎない」 
などの点を挙げておられます。

 私が充分に把握できなかったのは,上記の内,その指導内容と,この会の名称である「鶏鳴ヘーゲル原書講読会」との関連性です。
 会の名称は「ヘーゲル原書講読会」となっているのですが,上記の4の内容には先生の御著作等を読んでその考えたところを文章にするとあり,ヘーゲルの原書の講読との関連が直接には書かれておらず,その繋がりが理解できませんでした。
 例えば,先生の翻訳である『精神現象学』や『小論理学』などで挙げられている注釈に関して,原文と照らし合わせながら考え,それについての意見なりを書いて提出するということなのでしょうか。しかし,それではいわゆる原書講読という言葉のもつイメージとは違うようにも思えます。

 大学3回生の時,私がドイツ語講読の授業を選択した際,たまたま受講生は私一人でありました。そのため,その講義の担当の先生はブレヒトの専門家でしたが,私が講読したい本を好きに選んで良いと言われたため,私はマルクスの『経済学批判要綱』を選びました。事前に私が訳文を作成し,授業当日にその先生が添削を行い,独文の構造把握やその内容理解について話し合うというのが,その授業の大まかな流れでした。私が原書講読という言葉でイメージするのはそういうことであり,すなわち,ドイツ語による原書の文構造なりの理解とその内容理解というが中心,ということになります。残念ながら,その内容に関する議論はほとんどありませんでした。

 辞書で「講読」という項目を調べますと,広辞苑では「書物を読み,その意味を説きあかすこと。また,その科目。「原書—-」」と出てきます。先生が常々書いておられるように,これも用例を詳らかに示しているものではありませんが,講読というのは,議論を発展させるものではないように思えます。

 もちろん「原書講読」という言葉を聞いて懐く私のイメージが,世間一般が懐くイメージと異なるのかもしれません。よって,もしそうであれば,申し訳ありませんが,私にその旨をメールにてお伝えください。ただ,もし私が感じていることが,先生の当該ブログを読んだ他の方が一般的に感じるかもしれないこと,すなわち,「概念的個別(?)」(「昭和元禄と哲学」は,すばらしい論文です。価値形態論の理解に欠かせないものであると思っています)であると思われるならば,ブログにて詳細を伝えてくだされば,喜ぶ方も多いかもしれません。(引用終わり)──

 まだ文字通りの「原書講読」は始めていませんが、私の考えている「本当の原書講読」は大きく分けて二つの内容があります。
 第一は、「横文字を訳すこと」です。これは前半と後半に分けられます。前半は、「一応正確な日本語に訳すこと」です。そこには「文脈を読むこと」も入ると思います。後半は、「中級以上の文法に属する事柄があったならば、それを確認すること」です。
 第二は、そこを読んで考えた哲学的問題を出し合うことです。これの前半は、「哲学ではなく、哲学史的な背景を考えること」です。後半は、文字通り「現実を哲学すること」です。

 私の経験した哲学ゼミでは、どれも、「第一」の「前半」だけでした。それも、文脈を読む練習ないし指導はありませんでした。寺沢氏は「君たちは文脈が読めない」と何度も叱りましたが、氏自身文脈の読めない人で、まして「文脈を読む技術」という考えを知らない人でした。
 「後半」もたまにはありましたが、ほとんど「あった」と言えるほどのものではありません。私の出席したゼミの先生で、関口文法を研究していた人は居なかったと思います。「不定冠詞の内的形容」は誰も知らなくて、「一つの」と訳しておしまいでした。
 「第二」も「前半」は少し、ときたま、ありました。ゼミではなく、訳書と著書で考えますと、金子武蔵氏の『精神現象学』の注釈はこれに当たると思います。許萬元の著書は、ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの言葉を整理したもので、これに入ると思います。
 「第二」の「後半」を実践したものはないと思います。「哲学ゼミはどうあるべきか」という「現実問題」をテーマにしたことはありませんでした。「議論の認識論」もありませんでした。「自己反省なき哲学ゼミ」は「哲学ゼミ」と言えるのでしょうか。
 レーニンの『哲学ノート』はこれが本当の哲学だと提案しただけで、自分は実行出来なかったのだと思います。今回の私の『小論理学』が初めてでしょう。ですから、これの出版を待って、この会を始めたのです。

 「ヘーゲル原書講読会」と名付けたのは、やはりヘーゲルを原書で読んで考えることが、哲学的に考え、論理的思考能力を高めるのに、最適だと思うからです。ですから、それを最高として、その準備を含めてやっていこうというわけです。
 特に初めの内は、参加者の実情が分かりませんので、いろいろと課題を出して、取り組んでもらいます。今参加している方は19歳か20歳くらいですから、まもなく79歳に成る私とは60歳も離れている訳で、経験と認識の前提が違います。まずはこのギャップを確認することから始めています。『哲学夜話』に所収の論文「人間の相互理解」を読んでほしいと思います。もっとも、ここに書いた事を十分に認識しておらず、実行しなかったのが、これまでの私でした。今回はこのことの反省から出発しています。

 これくらいの説明でどうでしょうか。

11月15日、牧野紀之


 関連項目

ヘーゲル原書講読会、開講


PS

 コメント欄に、この「詳しい説明」を求めてこられた K.Hさんへ。
 あなたの書いていましたメルアドに返信を、二度にわたって送りましたが、返ってきて
しまいました。
 私のPC技術の未熟さのせいでしょうが、困っています。
 すみませんが、鶏鳴出版あてに手紙をください。
 お願いします。牧野紀之(15日17時に記す)
431-2201 浜松市北区引佐町東久留女木 307-2



「天タマ」第6号

2018年11月11日 | カ行
「天タマ」第06号(1998年11月13日発行)
                    浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は皆さんの姿勢について、2・3の問題提起をします。お互いに感情的にならないように気をつけて、対話しましょう。

     「講師の話が分からない」

 こういうレポートがありました。

──〔10月30日の「アンケートの記述」についての〕話の主旨がよくわかりません。哲学との関係性が見えてきません。人間的には自分の気づかない考えや、自分自身の考えを堂々と持っている人は、好意を持っているけど、理解できないとつらい時があります。でも、それは「=嫌い」になるとは限りません。わからないことを「わからない、11月2日にもっとくわしく教えて欲しい」と思います。この言葉を言える授業であることはとても幸いに思います。わからないから嫌いになる、そんな先生は今まで多かったように思います。勉強以前の問題です。

 ★ まず問題にしたいことは、Aさんが「分からない」という言葉で表現していることは、①言葉として理解できない、という意味なのか、それとも②賛成できない、という意味なのか、ということです。

 「それは『=嫌い』になるとは限りません」という言葉からみて、多分、②でしょう。「分からない」という言葉は本来は①の「言葉として理解できない」という意味だと思いますが、日本人はよく②の「賛成できない」という意味に使います。Aさんの場合もそうだと思います。

 しかし、一応両方の場合を考えて、①だとしたら、カンファレンスの時に他の人に相談してみるべきだったと思います。そして、レジュメのどこが「分からない」のか指摘して欲しいと思います。

 ②なら、自分の考えを展開すれば、それで好いと思います。講師の考えに賛成できないと、強く反発する人がいますが、哲学の授業の目的は、「授業概要」に書きましたように、「自分の考えを自分にはっきりさせ、発展させること」です。講師の意見は参考意見です。

 Aさんも全体として、やや興奮気味で、文章がつながっておらず、言葉が固くなっていると思います。これは反省して欲しいです(尚、Aさんも「この授業が嫌いだというのではない」と断っています)。

     「哲学の授業は楽しい」

 もう5回も授業をしたせいか、2日までの宿題のレポートには、授業についての感想を多くの人が書いていました。中には「授業が段々難しくなってきた」というのもありましたが、多くは「一つ一つ〔の事柄〕を深めていくのが、こんなに充実したものとは知らなかった」とか、「どの先生も牧野先生のように、生徒と言い合える機会がほしい」とか、「哲学の授業は他の授業と違って自発性が求められます。そのため、終わった後、軽い疲労感を感じますが、いまはそれが心地よい」とか、「話も関心あることばかりなので眠っている暇などありません。他の先生に見てもらいたいくらいです」とか、「哲学の授業がすごく楽しい」とか、「2回目くらいから、社会に出ていった時の考え方の基本を学んでいるのかなと思った」とか、「哲学の授業では、身近な問題であるのに、今まで考えたことのなかったこと、問題としてみていなかったことを考えていくので、新たな発見が一杯あり、おもしろいです」といったものです。「哲学の時間はすぐ終わってしまいます。それだけ充実した内容なのだと思う」という意見も複数あります。

 確かにこう言われれば嬉しいに決まっています。まず感謝します。しかし、本当を言うと「嬉しさも中ぐらい」です。なぜなら、皆さんが「他人を褒める時は陰で褒める」という原則を実行しているとは思えないからです。ゴマスリを書いていると感じるほど、私と皆さんの関係はもう浅薄ではないと思いますが、「どの先生も牧野先生のように、生徒と言い合える機会がほしい」とか、「他の先生に見てもらいたいくらいです」というのは、やはりどこか別の所で言った方が適切だと思います。

 去年の生徒がもし「怖い先生だ」と教えた先生達に、「〔牧野先生は〕怖くありません」と言っていたら、今年はそういう噂は出なかったと思います。この噂は別に大した問題ではないのですが、要するに、「褒めるのは陰で褒める」という原則を皆さんはどう思うかということです。


     『天タマ』をがんばって欲しい

 「がんばりすぎて体調を崩したので、少しセーブしなければならない」と言いましたが、声援はいただいています。しかし、その声援にも2種類あって、A・ただ「がっばって下さい」というのと、B・「がっばって欲しいが、ムリをしないで」とか「金・月をまとめて1回ではどうか」といった提案などのあるのと、あります。自分の気持ちから出発するのは当然ですが、それをそのまま出すのではなく、相手の立場も考えて発言し、行動するのが大人ではないでしょうか。Aの発言は少し冷たいと思います。

 又2日に、1組の人から「〔今日は〕『天タマ』が配られなくて残念でした」という言葉もありました。これは誤解で、授業の終わりに配るということは伝えてあり、黒板にも書いてあったのですが、気づかなかったのでしょう。

 しかし、たとえ実際に配られなかったとしても、「『天タマ』がなかったけど、具合でも悪かったのですか?」と言うのと、どちらが親切でしょうか?

 「休憩」がなかった場合でも、なぜなかったのか、授業の組み立て方が悪くて休憩が取れなかったのか(これは教師の責任)、どうしても休憩を取る時間が作れなかったのか、一度考えてから発言するのが大人ではないでしょうか。

     VTR「病院、採点します」を見て

 知らない人が多かったようですが、こういう医療評価機構のようなものを作ることは好いことだという点で、皆さん一致していたと思います。改善点についても、ビデオに言われていた事が支持されていました。

 ここの病院がこの評価を受けたら、ということを考えた人も何人かいました。Bさんは「合格できるのではないか」として、内装の新しさ、患者をあきさせない、薬が院外処方である、待合室がロビーで広い、カルテも個人で1冊である、カンファレンス室や治療室
に戸がある、といった点を挙げています。

 Cさんは、病院や歯医者などは夜も開いているとよいのだが、と提案しています。同感です。徳州会系の病院はたしか夜も診察すると思います。役所も夜9時までやっている曜日とか、月に1回は日曜日にもやるとかするべきだと思います。

 Dさんは、学校にも評価団体が入ったら面白いと指摘しています。これも賛成です。学校の問題はそのうちに取り上げましょう。

 しかし、この評価機構(評価表)もNHKの人もゲストの人も、「組織は内部の研鑽体制(話し合いのシステム)が一番大切である」ということに気づいていないと思います。

 「長」の付く代表者だけの会議。それも30人以上集まって、二重の輪になって座っている。こんな会議で本当の話し合いが出来るのでしょうか。平の看護婦や看護助手はどこでどのように意見を言えるのでしょうか。下の人の方が本当の事を知っているのではないでしょうか。

 本県でトップを切って認定証をもらったS病院でも、皆さんの先輩でそこに務めるTさんは「何かあったみたい」と言っていました。つまり、平の看護婦レベルには浸透していないのです。あの番組にも朝日新聞の社説にも、こういう「本当の話し合いを保証するシステム」に対する問題意識がゼロでした。これが13日のテーマです。

 前回までは「組織はトップで8割決まる」と言いました。今回の事を合わせると、「トップの第1の最大の任務はその組織内の意思の疎通のシステムを絶えず改善すること」となります。この哲学の授業も始めからこうだったのではありません。皆さんの意見を聞き、他の人の実例を学び、反省して少しずつ改善してきたのです。

       成績について

 成績は皆さんの年からABCDEでつくことを知りました。Cを「真面目に努力した」とします。これを標準として、特に優れた点がある場合はBとし、それが大いに優れている場合はAとします。逆に、水準以下の点がある場合はDとします。

 C以外は、いずれも根拠を書きます。中間に一度成績を出して欲しいという要望については、少し考えます。アンケート形式にしたら、という提案は、今年はできないと思いますが、事実上今のでも項目別評価になっていると思います。

 成績の客観性を問題にする人がいます。これは哲学などの場合ではいつもいます。曰く「先生自身の考えが入ってしまう」、曰く「レポートの点数(悪い点だった)だけ書いてあって、コメントも何もなかったのは、納得がいかない」など。

 私の見る所では、ここには3つの問題があると思います。①数学などの成績は客観的だが、哲学の成績は客観的ではありえない、と多くの人が考え、言っているが、この考えは正しいか、②レポートで評価すると、文章のうまい人が有利になる、という考えをどう考えるか、③レポートで評価する場合、その根拠の説明が欲しいという要望をどう考えるか。

①は人間の価値判断は客観的でありうるかという難しい問題につながるのですが、それはともかく、こう考えたらどうでしょうか。数学の試験でもどういう問題を作るかは先生の主観であり、それによって成績は左右される。逆に、例えば音楽のコンクールなどで優勝した人はたいていその後世界的な音楽家になっている、つまりああいう評価も結構客観的である。私は、成績がどの程度客観的かは、その学問なり対象には何の関係もなく、ただ評価する人の能力と公正感覚によるだけだと考えています。

 ②については、Eさんは「他の学科はその先生の見方があるから、哲学は哲学の評価があっていいと思う」と書いています。同感です。哲学で要求される方面に得手な人は哲学では有利になる。当然ではないでしょうか。もしこれが悪いとするなら、走るのが速い人が体育で有利になるのも不公平だということになります。

 ③は、やはり根拠を説明するべきだと思います。

         その他

── 朝の通学電車の中で『囲炉裏端』を読んでいます。久々に字ばかりの本ですが、結構はまって読んでいます。もう少しで読了です。(Fさん)

── 〔レポートが宿題だったので〕ゆっくり時間をかけて、納得のいくレポートができると思う。(Gさん)

── 教師にはテストの成績(教科の理解度)を教師自身に対する理解度と勘違いしている人がいる。そして、好き嫌いの感情を持つ。しかし、高校の時のある数学の教師は「テストでいい成績をとれないのは生徒が理解できないような授業をしている教師が悪い」と言って、わからない所を聞き、そこを補強するという態度だった。お蔭で嫌いな数学が普通くらいになった。(Hさん)

 ★ 教師は生徒を嫌ってはならないという前半は賛成です。生徒の素質ややる気といった前提条件がありますから、全員に同じように理解させるのは、原理的に無理だと思います。これを口実にして授業の工夫を怠るのも間違いですが。

 私は、大学では、やる気と才能のある学生を最大限伸ばすのが教師の仕事で、下の人は60点に達してくれればよい、と考えています。現在の哲学の授業でも理解度は一人一人違うと思います。

── 病院付属のふたば保育園では、看護婦の子供だけ預かると聞いています。S病院ではその病院で働く人の子供はみな預かっているそうです。それにしても、1クラス15人に保母3人以上で、保母の多さにびっくりしました。(Iさん)

 ★ 患者に対するサービスと比較して、身内の者にばかり親切すぎるということはないのでしょうか? もしそうなら、公務員のあり方として問題だと思います。

- 病院は奇妙な空間だと思う。服を脱ぐにしても、なぜ病院の中ではあんなにも当たり前で、事務的なんだろう。(Jさん)

- 今日(30日)の休憩時間に「明るい悩み」の相談の本を読んで、見事私が「アタックNo.1」という所を読み、「♪苦しくったってえー♪」という所を本当に歌ってしまいました。ここは歌わなければ、と思い、はずかしながらも歌いました。本当にはずかしかったです。(Kさん)

       NHKラジオ深夜便

 皆さんは、NHKの「ラジオ深夜便」という番組を知っていますか? もう始まって10年くらいになると思います。眠れない中高年の人々を念頭においた落ちついた番組です。NHKのベテランまたは退職した名アナウンサーを選りすぐってアンカーマン(ウーマン)にしています。その知識と人格とが番組の味となって、聞くものに安らぎと喜びを与えています。そのため物凄い人気です。

 各地で「深夜便の集い」が開かれています。その模様が放送されるのですが、その発言を聞いていると、まるで恋人に会いに行くような雰囲気です。今では「ラジオ深夜便の治療効果」ということすら言われるようになっています。この番組を聞いている年寄りが元気になってくるというのです。最近何かの賞をもらったはずです。

 入院患者でもこれを聞いている人は多いはずです。若くて健康な皆さんはこれを聞く機会は少ないでしょうが、患者との対話のための予備知識として。

      授業の記録

    11月2日(月)
講師の話 - 裁判について
VTR 「病院、評価します」を見る。病院の評価から1年の「社説」
カンファレンス - なし
休憩 - なし
レポート

 ★ 第1回のアンケート「より良い授業のために」を宿題とした。1組では全体カンファレンスのために15分取った。宿題のレポートと今回のレポートの2つを持ち帰った。


「天タマ」第05号

2018年11月08日 | カ行
「天タマ」第05号(1998年11月 2日発行)
                    浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回はレポートが宿題になりましたので、レポートについての報告などはありません。今まで載せられなかった事、先輩たちの書いたものなどを特集してみます。

       学習日記から

1995年9月29日(金)3限
 初めに、日本の女性について。資料にあった日本の女性の世界での位置は、私にとっても印象強く、がっかりさせられた。日本で男女平等とさけばれ、最近では政界にも女性が多く見られるようになったので、かなり平等になってきたのだと感じていたが、「女性の社会進出度指数」の27位には、期待をうらぎられてしまった。世界女性会議の参加状況にも現れているが、日本人の性格である実行力のなさを破らないといけないと思う。口や頭だけでなく、実行していく行動力が必要だと思う。

 次に、いじめについて。個人的には、私の周囲で今までにいじめというものはなく、逆に生徒と先生の間柄はとてもよかったので、資料の恵さんほどに問題になってしまうのが考えられない。先生も行き過ぎだと思うが、恵さんも、もっと冷静になったらよかったのではないかと思う。又、先生もおっしゃっていたように、親が中に入ったり、子供と共に考えていたら、もっと丸くおさまったのではないかと思う。(21回生)

1997年1月10日(金) 4限
 初めに1月の授業について先生の意見をうかがった。「1月は授業がやりにくい」と先生は言う。冬休みが終わり最初の授業が今日で次回が2月の終わりになってしまい、授業間隔があきすぎる程、あいてしまっているため、前回の授業内容とのつながりが薄くなってしまうからである。人間は忘却の生き物であるので、記憶は話を聞いた直後から薄れて行く。それは先生でも生徒でも同じであると思う。授業を行う先生も記憶をたどりながらの進行で大変だが、生徒も記憶をたどりながらの授業で、けっこう大変である。

 ケーキのレシピについて、先生がなぜケーキを作るようになったかという理由を聞いて、先生の家の父親と娘の関係に大変興味を持った。以前、授業で家庭内の会話が激減しているという話を聞いた。我が家においても言える事だが、家庭内の会話でも特に父親と娘の会話はすごく減少していると思う。先生の家でも我が家と同じく、父親と娘の会話は少ないらしい。

 しかし、先生が家に一人でいる事の寂しさをまぎらわすためにケーキをつくり、そのケーキを先生の娘さんが批評する事によって、娘さんとの会話がはずんだ。先生はそれからケーキを作り始めるようになったと言う。

 女性は大半の人が甘い物が好きである。甘い物を食べている時は、すごく幸せな、やさしい気持ちになる。「先生が作ったケーキ」と「女性の好きな甘い物(ケーキ)」という父と娘においての共通点ができ、また、「先生(男性)が作った」という意外性と、「甘い物を食べている時の気分」が会話を盛り上げたのだろうなと思う。

 「娘さんとの会話がはずんだ」と話している時の先生の顔はうれしそうに笑っていて、自分の父親も私と会話がはずんだら、先生みたいにすごく喜ぶのかなと思った。「父の日のプレゼントは話をしてあげるのが一番喜ばれる」と、男性であり父親である先生がそう言うのならば、年に一度意識的に父親との会話の機会を設けてもいいかな、と思う。

 休憩では、「指圧」についての話を聞いた。高校生の時、自由研究でも体の「ツボ」について取り上げた事もあり、すごく興味を持った話題であった。しゃっくりを止める指圧は初めて聞いた。時間がたって、ちょうどしゃっくりが出たのでためしてみたら、その効果か否かはいまいち分からなかったが、止まった。信じる者は救われると昔から言うので、指圧の効果であると信じておこうと思う。(22回生)

1997年12月5日(金) 4限
 今日の授業では「先生と生徒の人間関係、好き嫌いの関係」をテーマに、先生のレポートを基にして考えた。

 「善悪と高低と好悪を区別して考える」については、私も「好きだ」という言葉をよく使うということに気づいた。「好き嫌いに理由はない」と逃げられるというのも、全くその通りだと思った。なぜこう言ってしまうのか。私は、自分の言葉に自信がないからではないかと思う。「好きだ」という言葉で答えをあいまいにしてしまっている気がする。

 「教師と生徒の感情的な関係」については、平等にも二つの平等があるということが印象的だった。また学校での成績評価も私はとても興味があった。個々の生徒に対する好悪を持ち込まないで評価してほしいと思う。成績が何を基準につけられているかわからない。先生がおっしゃったように、成績に対する理由があってもいいのではないかと思う。また、教師に生徒に対する好悪を持ち込まないでほしいと思うなら、生徒側も教師に対する好悪の感情を態度やアンケートに出すべきではないと思う。

 今日の休憩は恋愛の歌をよんだ。二首ともとてもステキな歌だと思った。こんなに短い歌の中に、あんなにたくさんの「想い」が込められているのかと思うと、恋をするということはすごいことなんだと思った。また好意度診断テストはすごく盛り上がった。いろんな人に試してみたいと思った。(23回生)

      「群盲、象をなでる」

 この譬え話は古くからインドのバラモン教やジャイナ教の人々の間で使われていたそうです。仏陀(ゴータマ、というのが本名)もこれを使って弟子を教えたことがあるようです。日本には中国をへて、いろいろなルートで入ってきたようです。

 象のそれぞれ勝手な部分に触れた盲人が、自分の触った部分を象の全体だと思い込んで互いに争ったということです。牙に触った人は「象とは犂の先のようなものだ」と言い、脚に触った人は「柱のようだ」と言い、~というわけです。ここからどういう事が分かるのでしょうか。

 小学館の『現代漢語例解辞典』は「物の一部のみを見て、全体の把握のできないことのたとえ」と解説し、集英社の『暮らしの中の国語慣用句辞典』は「凡人は大人物や大事業の一部分しか理解できず、広い視野で全体を判断することができないという時のたとえ」と説明しています。

 講師の解釈(昔の人はこう解釈したのだろうという推測)

① 人間の(ある対象についての)認識は完全ではありえない。
② その事を自覚せず、自分の知っている事実だけから、全体を勝手に推測しながら、そ れと気づいていないことがある。これを盲人に譬えた。
③ この種の「盲人」が議論しても結論は出ないし、本当の事も分からない。

 講師がここから更に引き出したい結論

④ ①はその通り。
⑤ 百パーセントの認識はないが、人によってどの程度完全かの違いはある。従って、個人は自分の認識がどの程度かを自覚して判断し、発言するように心掛けるべきである(ここで言う「盲人」にならないために)。

⑥ 話し合いでは互いに自分の認識の程度を自覚しながら話し合うことが大切である。より高い認識を持っている人がより低い認識を持っている人よりつねに正確な判断をするとは限らないから、高い人が低い人の意見を聞くのも有効である。ただし、低い人は自分の低さを自覚しながら発言するべきである。

⑦ 社会的に通用する認識の程度というものがある。これを仮に60パーセントとすると、それ以上の認識を持っている人は「(その対象について)知っている人」「識者」と言える(この60パーセントというのは、単に量的に理解するのではなく、質的につまりその対象の本質を一応理解しているという意味に理解するべきである)。

⑧ 自分にとっては未知の或る対象について、誰かに聞く時には、相手の認識がどの程度一面的かを考えながら聞くべきで、鵜呑みにするべきではない。

──「哲学の先生は怖い先生だ」という「噂」にフンガイして、私はここまで考えました。哲学の先生は怖くはないけれど、理屈っぽい。これは当然でした。──

      ビデオ「大隈通り」について

 専門学校生であることにコンプレックスを持っている人が多いという手紙を、元生徒からもらいました。又、第2志望でここにきている人もいるそうです。そういう人を傷つけるかな?と思いつつ、敢えて取り上げました。

 感想を読んでいると、やはり自分もこういうのを経験してみたかったという声もあるようです。しかし、テレビは好い面だけ描いているということもあると思います。ウィーンのハイリゲンシュタットのベートーベンの散歩した小川なども、「名曲アルバム」の背景ではとてもきれいでしたが、実際はそれほどでもありませんでした。

 それはともかく、専門学校で教えてみて、クラスがまとまっているということの良さを感じています。皆さんが、「自分たちは大多数の大学生より充実した勉強をしているのだ」という誇りを持てる授業にしたいと思います。

 この哲学の授業は、皆さんの友達が大学で受けている哲学の授業と比較してみるとどうなるでしょうか? 冬休みにぜひ友達と話してみて、その結果を報告して下さい。レベルの高さ、内容の多彩さ、話し合いがどの程度充実しているか、先生と生徒の交流がどの程度あるか、などで比較して下さい。

      アプヘェル・クーヘン

 東京の銀座に「ケテル」というドイツ料理の店がある。散歩の途中でお茶を飲みに入った。リンゴのケーキも取った。美味しかった。もっと沢山食べたいと思った。随分昔の話である。

 ドイツでケーキの作り方を習ってきたという人が、4~5年前、NHK・TVで「アプヘェル・クーヘン」(英語で言えば「アップル・ケーキ」)の作り方を教えていた。忘れもしない昔の片思いの人に再会した気分だった。ビデオに取って練習した。

 いろいろと作ってみて、これはリンゴを味わうケーキだということが分かった。好いリンゴ(と言うのは、農薬と化学肥料で作られたのではない本当のリンゴ)でないと、本当の味が出ないことも分かった。

 私の通う病院から少し先に行った所に、H農園がある。そこでおばあさんが自家用に好い「ふじ」を作っていた。それを発見したためにこのケーキは我が家の秋を代表するケーキとなった。去年、「今年もアプヘェル・クーヘンの季節が来たんだな」と思いながら、H農園に車を走らせた。おばあさんには会えなかった。息子さんらしい人が「あのリンゴは止めた。木も切った」と、教えてくれた。私は呆然として立ちすくんだ。

 去年は生協で「完熟リンゴ」とやらを買って我慢した。今年は人に紹介されたものを買ったが、ニセものだった。本当のリンゴはどこに行ってしまったのだろう、と考えてながら、もう少し探してみようかと思っている。

        授業の記録

   10月2日(金)
講師の話──「授業要綱」を配り、その1枚目だけ説明した。
カンファレンス
 (1) 学級通信の思い出(どういう教科通信を貰ったかを含む)
 (2) 自分の受けた道徳・社会・倫理の授業
 (3) 「授業要綱」について
 (4) 成績について、内申書について
 (5) その他(「その他」は毎回あるので、今後は記さない)
休憩・「日本一短い家族への手紙」から10通を読む
レポート

    10月9日(金)
講師の話……金大中韓国大統領が来日して「未来志向の関係」を確認した、ということが
   報じられていたので、朝鮮と日本の歴史的な関係についておさらいした。
カンファレンス
 (1) 新米の看護婦が、患者に、「あなたでは心配だから、他の看護婦に代わって」と言われた。これをどう考えるか。
 (2) 市看における縦の関係を強めるための方法
休憩・「ディベート甲子園」のVTR
レポート

   10月16日(金)
講師の話──レポートを読んだ感想。教科通信に書いた事の説明。
カンファレンス
 (1) 病院における苦情処理のシステムの現状とその改善案
 (2) 市看における苦情処理のシステムの現状とその改善案
 (3) 「天タマ」について
休憩・VTR「大隈通り」
レポート

    10月19日(月)
講師の話
 (1) 「組織はトップで8割決まる」
 (2) 欠点や間違いについて考える場合、根本的な欠点と部分的な欠点とを分けて考える必要があるのではないか。
 (3) 「先生の授業は早すぎて分からない」と言ったら、「予習や復習をしていないからだ」と逆に説教されてむなしかった、というレポートについて。
 (4) 昨年の学生版「アンケート」での「自分の考えが一番正しいと思っている」及び「理解不可能な人」という批評について
カンファレンス
休憩・心理テスト「あなたの恋愛のタイプは?」
レポート

   10月30日(金)
講師の話──学生版アンケートの発言「自分の考えが一番正しいと思い込んでいる」をど
   う考えるか。善悪と高低と好悪の区別。教師と生徒の好き嫌いの関係、など。
カンファレンス・(1) 講師の話、(2) 「授業要綱」の「(5) 成績」
休憩・中島らも『明るい悩み相談室』から2編を読む。
全体カンファレンス・学生版アンケートをどうするか。

「天タマ」第04号

2018年11月05日 | カ行
    「天タマ」  第04号 (1998年10月30日発行)

       浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 皆さん、〔恋愛のタイプの〕心理テストの結果はいかがでしたか? 自分の思っていた通りの「恋愛のタイプ」と出ましたか? 

 「先生は私たちが興味を持っていることまでわかっているなんて、すごいな!と思った」と書いてくれた人もいましたが、皆さんが率直な感想を書いてくれるから一人でに分かってくるのです。授業は教師と生徒の共同作品です。

 それにしてもこの心理テストに取り組む皆さんの態度は真剣そのもの。圧巻でした。

 「好意度診断テスト」の方はどうでしたか? 何番で盛り上がりましたか? アンケートを取ってみましょうか?

     組織はトップで8割決まる

──ここの病院の或る病棟に実習に行った時、私は「何て居心地のよいナースステーションなんだろう」と、そこに入った瞬間に思いました。その前の実習ではすごく居づらい雰囲気で、そこに居たくないと感じていました。それを先生(指導教員)に話したら、「こ
こは婦長さんがしっかりしているってことだよ」と教えて下さいました。

 確かにその通りだと思います。そこのナースステーションでは、看護婦同士、看護婦と医師、助手、その他の医療スタッフとの間で穏和な会話が時々ありました。もちろん婦長も含めて。そして、常に病室に患者さんの様子を伺いにいく婦長の姿が見られました。前
の病棟はみんな黙々と働くばかりで、余裕なんてものはなく、堅苦しいだけだと思いました。

 ★ とても好い実例を紹介して下さったと思います。これはこの通りだと思います。しかしここで終わっては哲学の授業の意味がありません。ここに止まらないで、もう一歩先まで考えて欲しいのです。そこで、次の問題を考えて下さい。

 A病院では、分かりやすく点数で表しますと、婦長の出来が90点から30点まで大きくバラついていたとします。B病院ではそのバラツキが小さく、どの婦長も60点以上だったとします。この違いは何によって説明されるでしょうか?

──講師の考え。総婦長と院長の違いによる。

 「ここのような大病院では院長の目が全てに行き届くのは難しいのではないか、忙しいから」という同情論もありました。これから皆さんも世の中に出ていくと「忙しい」という言葉をよく聞くと思います。

 「忙しい」って何でしょうか。「仕事がある」ということだと思います。しかし、全体を見るのはトップの「仕事」ではないのでしょうか? 忙しいからしなくて好いというものではないと思います。

 つまり、ここには2つの場合があります。(1) 仕事量が人間の能力を越えていて、誰がやっても無理な場合と、(2) そのトップの能力と情熱が不足しているために、すべての任務を全うできない場合と。

 (1) の場合は組織を小さく分割するしかないと思います。(2) なら、適任者に代わってもらうべきでしょう。「忙しい」の中身を検討しないで、これを放っておくのは正しいとは思えません。

   欠点を根本的なものと部分的なものとに分けること

──私たちが嫌いになる先生は、根本的に60点以下だから、アンケートをしても意味がない。問題はそれをどう伝えるか、どうやってその先生に分かってもらうか、である。根本的に嫌いな人は、その人の全てを受け入れられなくなっているわけで、その人が学校を辞
めるか、私たちがやめるか、どちらかしかない。何かが起こらない限り、和解は絶対にない。お互いがお互いをさけ、悪循環を引き起こす。生理的に受け付けないとはまさにこの事なのだろうか?

 ★ 少し感情的ではないかなという気もしますが、正直な気持ちではあるのでしょう。どうしたらよいのか、授業で考えましょう。

 このテーマは難しかったようです。設問を、「授業要綱の(4) をどう考えるか」とすると具体的になって考えやすかったかもしれません。

   下位の人の話を聞くときには、その場で反論するな

──私達は〔カウンセリングの〕授業で、人との接し方、聴く態度などをならう。人の話を聴く時は、否定・批判をせず、まず共感的・理解的な態度で接するべきだと、先生達が教えているのに、その先生達の中に、私達の言ったことに対してすぐに反論・批判をする
人がいる。これでは説得力がない。

 ★ 同趣旨のレポートがかなりありました。私は、哲学の第1前提は感情的にならないことだと思っています。私の通っていた大学院の或る教師はよく大きな声を出していました。私は教室から出てきてしまったこともあります。

   アンケートの発言(「自分の考えが一番正しいと思い込んでいる」及び「理解不可能な人」)について

──生徒の意見はひどいと思う。今まで、先生の授業を受けて、どう思っていたのか。心の中で批判ばかりしていたと思う。かわいくない。信頼関係が成立していない。生徒は根本的欠点と思っていたのに、約束だった上の人への相談をせず、アンケートで言っている。ルール違反である。

 ★ 「理解不可能な人と簡単に言える人の方が、私にとっては理解不可能な人です」と反発していた人もいます。逆に、「アンケートは名前を書かないから、どんな意見が出てもしょうがない。書いてもよい範囲があるなら、〔悪い事と同様に〕どんなに書きたくて褒めたくて、良いと評価したことも制限されなくては、フェアじゃない」という意見もありました。この問題は30日の授業で詳しく取り上げます。

   アンケートでの記名・無記名についての講師の考え

 (1) 根本的に悪い先生だと思っている人は、管理者に抗議しているはずだから、出席している人は一応「先生」と認めているはずです。すると、アンケートに欠点(と思うこと)を書くときでも、部分的な欠点なのだから、原理的には、記名で言えないことはないはずです(部分的欠点を指摘されて仕返しするような教師は、その点で「根本的に間違った教師」です)。私は、指摘してくれた人の名前を見て、その人に対して「さすがに○○さんだな」と思ったことが何度もあります。記名の大メリットです。

 (2) では、無記名のアンケートは要らないのか? いや、必要。
 名前に用のない統計のためのアンケートの場合。記名では「ごますり」等と思われるから書きたくない褒め言葉を書く場合。一般的に言って、「人を褒めるのは陰で言い、批判は直接言う」というのが原則ではないでしょうか。去年、1組のTさんの異才を2組で褒め
ました。Tさんには、「2組であなたの噂話をしちゃった」と言っておきました。

     心理テスト

──自分の恋愛のタイプは、自分が考えていたのとは反対で、「本当に?」って感じです。なかなかおもしろい。型にはまった恋愛なんてないと思いますが、これからの私の恋愛に生かしていくのもいいと思う。今は相手がいないのでこういう結果なのかもしれないけれど。相手ができたらきっと変化するでしょう。その変化が恋愛のおもしろさ、と思っている私は、やっぱりルダス型!?でしょうか。

     「天タマ」応援歌

──「天タマ」をいつも楽しみにしています。「あ、これ私と同じこと考えてる」とか、「みんなこんなことを考えてるんだ」と分かって、とっても楽しいです。病院の人や学生、先生達と「天タマ」みたいに意見の言い合える通信があったらいいのになあ、と思いました。

──「天タマ」はいつもいろんな事を考えさせてくれるので、とても好きです。前回の授業で考えたことについて、先生がもう一歩ふみこんだ意見を書いてくれるので、こういうことなんだ、と再確認するとともに、自分の考え方の偏りというか、足りない部分が見えてくる気がします。~大変とは思いますが、ずっと続けていってもらいたいです。

     その他

──授業の回数を重ねるごとに、だんだん先生のことが分かって(!?)きたみたい。先生は私たちのことを〔高校生以上になると先生と生徒の〕考え方は同じ、と言ってくれて、嬉しかった。先生方は立場は上でも、そういう気持ちで接してくださると、私たちもやる気
になります。

 ★ これは単純ではないと思います。要点だけ言います。人間の考え方は、2歳で言葉を使い始めて第1段階。3歳で「どうして?」という発問を覚えて第2段階。15歳前後で思春期になって「人間とは何か」を考えるようになって第3段階に達します。皆、ここで
「考え方としては」終わりです(だから高校生以上は教師と考え方は同じ第3段階なのです)。ヘーゲルという哲学者が初めてこの上の第4段階を発見しました。

──昨年までのことはいざ知らず、今年の哲学の講義はとても関心が持て、興味がそそられる。前日に、「明日はどんな講義内容なのかな?」とか、「レポートの感想はどんなかな?」とか、つい考えてしまう〔……恋人に会いに行く雰囲気ですね……〕。この講義では、今まで見えなかった問題について問い正してみたり、牧野先生個人の考えや、仲間の考えを知ることが出来るからである。

   スイートポテト・ババロア

  ──味覚の秋です。ヘルシーでシックな一品を!──

 ① ココアスポンジをパウンド型で焼いておきます。160 度、30分
 材料・・卵2個、砂糖65g、粉50g、ココア大さじ1、牛乳大さじ1

 ② ゼラチン8gを40ccの水でふやかしておきます。
 ③ さつま芋約150gを蒸して裏ごしして、さつまいもペースト100gを作っておきます。

 ④ 牛乳60ccに砂糖30g を加えて、約60度に熱し、火を止め、②を加えて溶かします。
 ⑤ 別のボールで卵1個をほぐし、③を少しずつ混ぜ合わせます。

 ⑥ ⑤に④を少しずつ加えてよく混ぜ合わせます。ブランデー15ccを加えます。
 ⑦ 生クリーム140cc に砂糖20g を加えてホイップします。⑥を加えて混ぜます。

 ⑧ 紙を敷いたパウンド型に⑦の半分を流し、冷蔵庫で冷やします。
 ⑨ 型より一回り小さく切ったココアスポンジを中央に置き、残りの⑦を流し、底になるスポンジをのせて冷蔵庫に。
(森山サチ子『和風ケーキ』ひかりのくに社、から)