マキペディア(発行人・牧野紀之)

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橋爪大三郎批判、その一(東谷 啓吾)

2022年07月28日 | サ行
橋爪大三郎批判
-「社会学」の宗教理解における観念論性(前半)

1、はじめに

 旧聞で恐縮ですが、「News Picks」というメディアにおいて「現代人が『よく生きる』ための宗教講義」(2020年11月13日、https://newspicks.com/news/5377724/body/ )という記事があがっています。「日本を代表する社会学者」との紹介で橋爪大三郎という人物が宗教について語っているものです。事実この人物、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年)という「キリスト教のすべてがわかる決定版入門書(新書一冊程度で巨大な歴史現象であるキリスト教の「すべてがわかる」などと銘打てる出版社の見識をまず疑うが...)」で20万部以上売り上げていたりと、宗教に関する講壇学者の代表格と見做されているようです。また、上のメディア自体、現代のビジネスマンをはじめとした進歩的「知識人」に多く読まれており、その影響は無視できないほどです。実際、この種の記事を読んで、宗教について分かったような気になっている日本人は少なくありません。

 最近もまた、安倍何某の件で「統一教会」という宗教組織が連日話題になっていますが、それを取り巻くメディア等々で「論者」や「有識者」を観察していると、誰一人として宗教が何たるか、その本質において捉えている人はいないと思わされるほどです。「宗教は害悪だ!」と叫ぶだけでは宗教はなくなりませんし、ましてや法律によって規制すれば宗教現象がなくなると思うなど浅薄も甚だしいと言えます。その程度で取り除けるのであれば、人類の歴史上、あらゆる時代において様々に異なった条件下で生きている様々な人間たちが、それぞれの仕方で宗教にしがみ続けてきたことの説明がつきません。宗教現象というのは、その論者たちでは想像も出来ないほどに極めて複雑多岐な歴史現象なのですから。

 しかし、彼らがその程度の宗教理解を晒すのも、根本には橋爪大三郎ら、宗教についての極めて狭小な部分的真理を我が物顔で語るイデオローグ〔観念論者〕が原因にあると見るべきでしょう。観念論者が「宗教」という観念において極めて一面的な側面を固定し、歪めて反映し、それを振りまく図がここに典型的に現れています。そして、それが「世論」というイデオロギーを作り出す一つの機能として働く、観念論の悪影響がここに出ています。

 従って、今回は橋爪大三郎の宗教理解を取り上げて観念論批判の素材の一つにしていきます。


2、宗教の意義と限界

 まず橋爪は宗教の特徴として「人間が経験できないこと(超越的なこと)も、必要ならば議論として取り込んでいく点にある」と書き、そのすぐ後に続けて、「経験的な領域に議論を限定する社会科学とは対極的」だと述べます。そもそも、人間の現象を「経験的なこと」と「超越的なこと」に二元的に分けて考え、どちらかに「限定」できるなどと思っている「社会科学」が浅薄なのですが、それはまた後で論ずるとして、宗教の特徴を上記のように規定することで、氏の一面性が露呈しています。

 宗教というのは、超越的なことを「必要ならば」議論として取り込んでいく、といった甘いものではありません。それはむしろ、徹底的に、あらゆる場面で執拗に、現実の事柄を観念的な仕方で吸い上げていく営みです。事実、その徹底性が高ければ高いほど、「偉大な」宗教として現実に影響を与えていきます。たとえばキリスト教においてその役割を果たしたのが、パウロです。

「イエスの死後、彼をキリスト(メシア)として神格化し、その『神の子キリスト』が復活したという神話的表象をめぐって築き上げられた信仰体系が原始キリスト教という実態である。当然のことながら、復活したのはイエスではなく、信者の頭の中で神の子キリストの復活が生起しただけである。そういうことだから、原始キリスト教はその出発の当初から、およそ観念的な救済宗教として性格づけられていった。そしてその観念性をこの上もなく徹底的に追求したのがパウロという男だったのだ」(田川建三『批判的主体の形成』増補改訂版、洋泉社MC新書、2009年、99頁)。

 新約聖書学者の田川建三によると、パウロ思想というものがいかに徹底した観念性を主張しているか、次の一文に表れているといいます。

「女を持つ者は持たない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のように、此の世を利用する者は利用しない者のようにあるがよい。何故なら、此の世の形は過ぎ去るからである」(第一コリントス 7章29節以下)。

 ここでは「此の世」すなわち、現実との関わりにおいて、所有することが否定されています(古代社会では妻も所有の対象だった)。また、現実に生じる苦しみや楽しみによって泣くことも、喜ぶことも否定されています。しかしこれは、近代の共産主義思想のように、現実の社会的経済的な、複雑に絡み合った関係から「所有」を放棄して皆平等になろう、というのではありません。また本気になって、泣くことの原因である「苦しみ」や「差別」(本来肯定的な「喜び」までも否定しようというところにパウロの徹底っぷりがうかがえます)等々を現実の社会から根本的に取り除こうとするわけでもありません。もしそういうことをしようとすれば、現実の社会関係全体と闘わなければならなくなります。そのようなことは古代でも現代でも徹底しようと思えばすぐに大きな壁にぶつからざるを得ません。

 そこでパウロは「現実の否定を、本当に現実的に実行するのではなく、観念の領域においてのみ実行する」(同上、101頁)。
 つまり、この宗教思想においては、現実に存在する一切の事柄、現実に生ずるあらゆる局面に対して、それがないかの「ように」振る舞えば、現実の問題は全て解決される、と主張されます。「此の世の形は過ぎ去る」すなわち、一切の現実はいずれなくなることを根拠に、現に目の前の構造的な問題は放置され、現実は何一つ変わらないけれど、この思想にすがれば、日常生活上の苦しみや矛盾から解放されたように思える。死の恐怖からも自由になった気分になれる。そして、このように観念の領域で現実の問題を「解決」したパウロは、奴隷制という極端に人間性を収奪していく現実を露骨に肯定していくのです。

「招かれた時〔クリスチャンになった時〕に奴隷であったとしても、気にすることはない。たとえ自由になることが可能であっても、むしろ用いるがよい〔奴隷であるということをそのまま保っているがよい〕。何故なら、主において招かれた奴隷は、主の解放された者なのだ」(第一コリントス 7章21節以下、〔〕内については田川建三訳著『新約聖書 訳と註 <三>パウロ書簡 その一』作品社、2007年、283頁以下参照)。

 これは一つの顕著な例ですが、このようにして、現実の極めて複雑な実態を観念の領域に移しかえ、そこでの議論に終始してしまう強い傾向をもつのが宗教の根本的な特徴の一つです。そして、こう整理した時に、宗教の意義と限界が見えてきます。

 それは一方では、以上の例からも分かるように、宗教の出発点は現実の苦しみや矛盾を反映しているところにあるということです。そういう現実に対して、何かをしなければいけないという問題意識を持つことに、一応の正しさがあります。
 しかし他方で、それが宗教信仰である限り、その反映の仕方は何ほどか観念性の中に歪められてしまい、出発点であった変えるべき現実に戻ることなく、現実の変革という課題は彼らにとって忘れ去られてしまいます。そして、それ故に結果として、宗教が現実をずぶずぶに肯定する機構として働くことになるのです。つまり、正しさを含んでいた出発点は消し飛び、かえって現実の苦しみや矛盾を温存する役割を担ってしまう。

 このように、宗教の意義と限界の両面を正確に捉えることをしていない橋爪の意識は次のような発言に表れます。曰く「宗教は『人間が死んだらどうなるか』について、先人たちが考え抜いた蓄積が反映されている」。問題は、それが「反映されているかどうか」ではなくて、「どのように反映されているか」、ということにこそあるのです。上で展開した議論に無批判であるからこそ、橋爪は「死について正面から考えてきた宗教は、これまで生きた人びとから、今を生きる人々へのプレゼント」などと言いますが、これに至っては笑止です。「死」という観念を宗教思想がどのように扱って議論を展開していくか、またそれによって振りまく害には一切無頓着であるから、宗教思想が語る「死」についての知識を表面的に知ることだけで満足し、それを「プレゼント」などと呼んで済ましていられるのです。その「プレゼント」がいかに現実を歪め、人間を抑圧してきたか、それら一つ一つの歴史的実態を認識していれば、そんな軽々しい発言は出てきません。

 しかし、この浅薄な宗教理解は橋爪個人の問題ではなく、いわゆる「社会学」の方法自体にその真因があります。以下、それを見ていきましょう。

(前半 おわり)

 2022年7月27日
  東谷 啓吾