マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

ニュルンベルクは伝える

2018年05月30日 | ナ行

 ドイツ南部の都市ニュルンベルクは、城壁に囲まれた美しい街だ。しかし、20世紀に2度にわたって「負の歴史」の主役となった。最初はナチス党大会の開催場所として、2度目は戦後に連合国が行った戦争法廷の所在地としてである。

 戦争の記憶を継承するための歴史展示施設は世界各地にあり、多くを見てきたが、3月に訪れたニュルンベルクには心底驚かされた。今も残る当時の建物をできるだけ保存し、見学者が過去を追体験できる点では群を抜いている。

 ナチスは1933年に政権を掌握してから第2次大戦前の年まで一貫して、この地で党大会を開いた。1週間前後にわたった大会は、軍事パレードやマスゲーム、人々を熱狂させるヒトラーの弁舌、対空サーチライトで光の柱をつくる夜間の演出など、ナチスの力を内外に見せつける壮大な宣伝の場だった。

 野外集会場はまだ残っていた。サッカーのピッチが12面は取れる。ヒトラーの演説台もあった。そこに立ってみると、会場全体が見渡せる。当時の大群衆の姿が目の前に浮かん
でくるような気がした。

 近くには、ローマの円形闘技場を思わせる巨大な廃虚があった。大規模な集会を屋内で開くための議事堂で、5万人を収容する予定だったが、戦争のため工事中止となった。これも保存されていた。

 議事堂の一部は、ナチスの歴史を伝える資料センターとなっている。世界恐慌による社会不安をナチスがあおって政権を獲得、独裁制を打ち立てると侵略戦争やユダヤ人虐殺に乗り出した。そのプロセスが一目でわかるように展示されていた。

 連合国は戦後、この地で戦争犯罪の責任を追及する国際軍事法廷を開いた。ニュルンベルク裁判である。ヒトラーはベルリンの防空壕で自殺していたため、判事団は、ナチス体制のナンバー2だった空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングら12人に死刑判決を下した。

 当時の法廷は今も使われており、訪ねたときは見学できなかった。付属の記念施設には、戦争指導者を裁く歴史的な裁判がいかにして行われたかを説明する展示があった。7カ国語の音声ガイドが備わり、外国からの見学者にも応対する。

 ニュルンベルク到着後に観光案内所でもらった日本語版の地図を広げてみた。「義務を負う過去」という項目があり、「ニュルンベルクが立ち向かわなければならない、ドイツ歴史上もっとも暗い一章の負の遺産です」とある。ぎこちない日本語訳だが、メッセージは伝わる。

 ナショナリズムとポピュリズムが再び隆盛する時代に、歴史と向き合うことは、どの国にとっても容易なことではない。しかし、こういう事例があることは記憶しておきたい。
 (朝日、2018年05月17日。編集委員・三浦俊章)

感想

 これをブログに載せようと思っていた今朝、ラジオで変なニュースを聞きました。名古屋市は南京市と姉妹都市だそうですが、かつて河村市長が南京市を訪れて、例の記念館を見学した後、「住民を虐殺したというのは作り話なのだということが分かった」とかいった発言をしたそうです。そのために両市の友好関係は途絶えてきたのだが、今回名古屋市の市議団の努力で、先方の理解も得られ、友好関係が回復しそうである、とかいった話でした。

 庶民派の河村市長がこのようなバカげた発言をした(らしい)ことも驚きでしたが、最近の日中の友好関係回復の波で、ともかく良い方にむかっているらしいのは安堵しました。しかし、まあ、ドイツと比べての日本の戦争犯罪の反省の不徹底さをまた一つ知りました。

ソンミ虐殺50年と加害者の償い

2018年05月28日 | サ行
     
 1、朝日紙(2018年4月25日)の記事

 1968年3月16日早朝、朝食の支度をしていたファム・ティ・トゥアンさん(80)は銃声が響くのを聞いた。「家畜が撃たれたのかしら」。外を見ると米兵が村民を襲っていた。

 米兵は5歳と3歳の娘とともに小川まで歩くようトゥアンさんに命じた。集めた村民を川辺に並ばせると、米兵は機関銃で撃ち始めた。衝撃で無傷のまま転んだトゥアンさん親子の上に、撃たれた体がいくつも重なった。

 「どうか泣き出さないで」。死んだふりをしながら、祈るように3歳の娘の口にお乳を含ませ続けた。遺体の隙間から、トゥアンさんの父親が頭を撃ち抜かれるのが見えたが、叫ぶこともできなかった。数時間後に救出されると、同じ場所で約170人が殺されていた。「命があるのは亡くなった隣人たちのおかげ」。
トゥアンさんは胸が痛む。

 母親ら8人の家族を失ったチュオン・ティ・レさん(88)は、米兵が「ベトコン!」と叫びながら襲ったのを覚えている。トゥアンさんとは別の場所に約100人が集められた。やはり村民の血まみれの遺体にまぎれ、当時5歳の長男ドー・タン・ズンさん(55)とともに生き延びた。

 ズンさんは「今も時折、血のにおいがよみがえる。でも憎み続けるのではなく、二度と起きないよう願いながら前に進みたい」。

 村で虐殺された504人の大半は子ども、女性、高齢者だった。

     米韓市民、それぞれの償い

 虐殺50年の記念式典には米国人も参加した。正装のアオザイ姿のマイ・ベイムさん(70)は68~69年にべトナムに従軍。戦闘には参加しなかったが、帰国後に米軍の行いを知り、衝撃を受けた。92年からクアンガイ省に学校や診療所をつくり、貧しい人々の支援している。「過去から目を背ける米国人は多いが、私は私にできることを続ける」

 道に転がる子らの遺体、にらむようにカメラを見る高齢の男性。村の資料館に展示された写真を撮影したロナルド・ヘイバリーさん(76)は米国の元従軍カメラマン。米誌「ライフ」や新聞に掲載された写真は米国で反戦運動が高まるきっかけにもなった。なぜ助けなかったのかと問う声もあるが、「写真を撮ることが抵抗だった。ここへ来たのは私なりの償いのため」。

 代表的な一枚が「道に倒れた幼い兄が弟をかばうように抱く」とされた写真。2人は殺されたと言われていたが、式典の日、「あの少年は私Jと名乗り出た男性がいた。チャン・バン・ドクさん(55)。当時5歳の自分と生後14ヵ月の妹だという。

 「両国間の不幸な歴史に遺憾の意を表する」。韓国の文在寅大統領は3月、訪問先のハノイで述べた。韓国は米国の同盟国として南ベトナム側に参戦。50年前、ソンミ村に近いハミ村で住民135人を虐殺したとされる。今年2月には韓国の市民41人が村を訪ね、土下座で謝罪する姿が報じられた。

 韓国ではベトナムでの行いへの反省と交流を促す市民団体の取り組みが続き、文大統領を後押ししたという。

   外交への影響懸念補償求めず、ベトナム政府

 「ソンミの人々は痛みを乗り越え、米国の訪問者を受け入れてきた。過去を閉じて未来へ向かうことは、党と政府のみならず個々のベトナム国民の生き方でもある」。式典で地元クアンガイ省の当局者があいさつした。周辺ではデモなどの動きもなかった。

 ベトナム政府は米国などに戦争被害の謝罪や補償を求めていない。京大大学院の伊藤正子准教授(ベトナム現代史)は「謝罪や補償に国民の関心が及び、対戦国への感情が悪化して外交に影響が出ることをベトナムは懸念している。逆に『過去を閉じて未来へ向かおう』というスローガンを国民に貫徹させ、記憶にふたをしようとしている」と話す。米国はベトナムにとって繊維製品などの輸出先で、最大の貿易相手国だ。韓国もサムスンなどが対ベトナム投資に力を入れてきた。

 米調査機関ビュー・リサーチ・センターが2017年に実施した意識調査によると、ベトナム人の84%が米国に「好意的」と回答。また15年の調査ではベトナム人の80%以上が韓国に「好意的」との結果だった。

 旧ソンミ村で住民支援を続ける財団代表のチュオン・ゴツク・トゥイさんは「忍耐強く、利他的なのがベトナム人の気質だ。逃げた人を責めても、謝罪に戻ってきた人まで追及しようとしない」と話す。「ベトナム人に権利意識が根づいていない」との見方もあり、国策に反してまで補償を求める動きは高まりにくいようだ。

 2、牧野の感想

 この朝日の報道で、アメリカや韓国の人の中にはベトナム国民への加害の反省を続けている人のいることを知りました。立派なことだと感心しました。

 私はかねがね、原爆記念日の慰霊祭は日本の外国民への加害の反省と対にしなければならない、と考えてきました。8月6日の広島への原爆の投下には12月13日の南京大虐殺の反省の日と対にすべきですし、8月9日の長崎への原爆の投下には3月1日の朝鮮国民の「万歳事件」(1919年)への残虐な報復の反省と対にするべきだと思います。ところが、我が静岡県では3月1日には、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験とそれによる漁民の被害(久保山さんの死)のことしか報道されません。

 ソウルには独立記念館とかいう施設があるそうです。そこでは、日本兵に首だけ出して生き埋めにされている朝鮮人の姿を人形を使って展示してあるそうです。南京にもあの大虐殺を記念する施設があるそうです。そこではどんな展示があるかは知りません。

 私がこれらの施設に行ったとしたら、館内を回った後に、日本兵の行為を見せているところで土下座をして謝罪する勇気があるだろうか、と考えました。