マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

都立高校でタイムカード導入

2018年09月27日 | タ行
 都立高校でタイムカードが先行導入されてから、いくつかの意見が新聞に出ています。教師の厳しい勤務状況が分かるから賛成だという意見に対して、タイムカードはそのようには使われておらず、出勤には厳しく退勤の記録はしなくていいと指示されている、という反論がありました(2002,9,10,朝日声欄)。

 この方は、教師の仕事は勤務時間で計れるものではない、と主張しています。そしてこの夏、ご自分の前任校のクラブ合宿に参加した経験を出して、サービス残業をしても生徒が喜んでくれれば満足なのだ、と主張しています。これを読んで考えたことを書きます。

 まず、前任校のクラブ合宿への参加は勤務とは無関係ですから、参考として出すのはおかしいと思います。

 第2に、そもそも問題は個々の教師がどうかということではなくて、都立高校の教師の勤務規律が「全体として」乱れている、ということだと思います。しかも、この「乱れ」は都立高校の教師が「全体として」十分に熱心にその職責を果たしていないことの1例だということだと思います。

 従って、まず、これらの事実確認が必要です。つまり、都立高校の教師が「全体として」十分に熱心にその職責を果たしていないという意見に賛成なのか反対なのかということです。

 反対ならそう判断する根拠を挙げるといいと思います。学校教師、特に公立学校の教師は小学校から中学へ、更に高校へ、更に大学へと、上にいくほど不熱心になるという考えは、大多数の国民の考えだということを考慮して、十分に納得できる説明をしてほしいと思います。

 賛成なら、その本当の原因はどこにあるのか、どうしたらいいか、タイムカードはその解決に資するのか、それ以外にどういう適切な方法があるのか、と論を進めればそれでいいと思います。

 この方の考え方は感情的だと思います。こういう方が教師になっているということ自体が問題だと思います。    (メルマガ「教育の広場」2002年09月18日発行から転載)

       



国語辞典はこれでいいのか(改訂版)

2018年09月26日 | カ行

 岩波書店が『広辞苑』の第7版を出して以降、ものすごい広告を張り続けています。「広辞苑大学」などというものも、どんな大学か知りませんが、開校したようです。朝日新聞紙上でのその狂騒を見る度に、「さすがの岩波も、紙の辞典の売れなくなっている時代に危機感を抱いたのか」との感慨を禁じえません。

 また、先日はNHKTVの「プロフェッショナル」という番組で、辞書編集者を取り上げていました。

 しかし、私は、これだけの情熱を以て辞書(ここでは一応、日本語の「国語辞典」だけを問題にします)の改善に取り組んでいる人たちがいるのに、実際の辞書は日本語の現実の問題に答えていないと思います。なんだかその活動はピントが狂っているのではないかという印象を持っています。

 彼らは第1には、あまりにも語釈にばかり意識を集中しすぎていると思います。辞書編集者を題材にして書かれた小説『舟を編む』に出てくる辞書編集者も、語釈をどうするかばかり論じていました。最新の『広辞苑』でも「間違い」とやらが話題になったのものが2つありましたが、いずれも語釈の間違いでした。第2には、世間の関心も編集者のそれも辞書で取り上げるべき新語に集中するのは必ずしも悪いとは言いませんが、取り上げるべき「新語」の基準が間違っているとも思うのです。

 そこで、これまでにも本ブログで取り上げてきた問題も含めて、日本語の「語句」についての問題点を整理しておくことにしました。日本語の「文法」にも問題はあると思います。その根本は、文法(現代語文法)の全領域をカバーしたものは中学の国語の時間で教えられる橋本文法以外にはない(らしい)という事にあると思います。「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

 文法はさておき、今回は「辞書」の問題をまとめます。たくさんの辞書が出ていますが、実例としては大修館書店の『明鏡国語辞典』を主として取り上げます。他の辞書で私見を補充する、あるいは反証する実例がありましたら、教えてください。私一人でこのような大きなテーマを扱いきれるとは思っていませんし、その気もありませんし、すべての辞書を揃える余裕もありません。

  小目次

A・用法
その1・他方
その2・お話を聞く
  その3・~に注目です
その4・~を決める
その5・下り坂に向かう
その6・立ち居振る舞い
その7・すごい
B・重言
その1、ひしめき合う
その2・注目を集める(→Aのその3)
C・語釈
その1・冷笑
その2・皮肉
その3・募金
  その4・王道
D・意味を曖昧にする新語
その1・事実関係
その2・方向性
その3・方法論
E・発音(漢字の読み方、アクセント)
その1・七
その2・市場
その3・他人事
その4・本性

付録1・アクセントについて
付録2・サ変動詞の上一段化
付録3・手皿

   A・用法

 ここで「用法」とは「他の語句との関係」のことです。「まとまった言い方を変更する言い方」も含めます。

その1・他方
 第1に問題にしたいのは、「他方」という語が死語になりつつある、という事実です。どうもこの事実に気付いている人がほとんどいないようなのです。「一方」と「他方」は対比を表す最も基本的な用語です。思考の根本が、弁証法の説くように、「対立した事柄の統一」であるならば、この「対比」を表す語は絶対になくしてはならないものであるはずです。それなのに、「他方」が「一方」で取って代わられたり、使われなくなったりしているのです。しかも、これに気付いて警告している辞書がない(私は知りません)のです。最低です。

 用例を挙げます。

 1-1、日本アンチ・ドーピング機構の浅川伸専務理事によると、コンタクトレンズの保存液が原因で、アセタゾラミドが検出され、ドーピング違反が問われたケースは聞いたことがないという。一方で、使っている点眼薬に禁止薬物が含まれ、ドーピング検査で陽性を示したケースは日本でもあった。(朝日、2018年3月2日)
 1-2、北朝鮮の脅威を除くための外交の試みは20年余りの経緯がある。核やミサイルの開発を許した失敗の歴史にすぎないとの見方がある。一方で成功に至る好機はあったという見方もある。(朝日、2018年03月08日。天声人語)
 1-3、(自動翻訳機の発達で)日本人が苦労してきた「英語の壁」は低く成りつつある。一方で、英語が再来年度から小学校の教科になり、大学入試の英語も変革期にある。(朝日、2018年04月19日、編集委員・山脇岳志)

感想・自動翻訳機の発展に驚嘆したことを報告している筆者は「現在最高のそれは、英語検定のTOEICで900点を取るビジネスマンと同等以上の和文英訳の能力がある」という話を聞いてきたそうです。では、その優れた翻訳機がこの引用文を訳したら、「一方で」の部分をどう訳すのでしょうか。文脈を理解して、「ここは本当は『他方』というべきところだから」と判断して、on the other handと訳すのでしょうか。それとも「原文に忠実に」on the one handとするのでしょうか。自動翻訳機もいいですが、それと同時に新聞記者の文章や国語辞典の語釈や見落としを校正する「自動校正機」も発達してほしいものです。

 1-4、崔(チェ)氏は昨年10月、モスクワで一部記者団に、対話による核問題や米朝関係の解決を訴える一方、「(米国は)最大の圧力を加えて、我々が核を手放すように強要している」と批判した。(朝日、2018年03月08日夕刊、ソウル=牧野愛博)
1-5、野田政権は「30年代原発ゼロ」に舵を切る一方、使用済み燃料については当面、再処理を続ける方向で調整に入っていた。(朝日、2018年04月22日。関根慎一)

 感想・このように「一方」ないし「一方で」を「前の文の最後に」付ける言い方の場合は、これで自然だと思います。文頭に置かなかったので、文末に置いただけと考えるべきでしょう。いったん句点で文を切った後に、次の文で「一方で」と始めるのが、昔は無かった(らしい)のに、今では当たり前になってしまったのが問題なのです。それはこのように「前文の最後に付ける言い方の影響もあったのかもしれません。

 1-6、委員には多くの有能な方に参加して頂きたいと思っていますが、他方実際には~(2018年03月02日、薬師寺みちよさんの質問に対する安倍総理の国会答弁から)
 感想・ラジオでたまたま聞いていただけなので、「実際には」以下の言葉は「女性の適任者が多くない」といった趣旨ではなかったかと思いますが、はっきりとは分かりません。しかし、最近では珍しく、本当に珍しく、「他方」という語を正しく使ったので記録しました。この点だけは安倍総理を評価します。

1-7、英国のEUからの離脱が決まってから2年になる。メイ政権は国内政治に手一杯で、煮え切らない英政府にEUがしびれを切らすという構図は続く。その一方、欧州全体が米国やロシアの問題に直面していて、離脱どころではなくなっている。(中日新聞、2018年6月23日)
 感想・「一方」がのさばっていることに問題を感じていないので、「一方」を使おうとしたのだが、何となくおかしいと感じて、「その」を付けてその場をしのいだ、という所でしょうか。そもそも、英国対EUの問題から、「更に」欧州全体対アメリカあるいはロシアという問題に移ってゆく場合、どういう「つなぎの語句」を使ったらよいでしょうか。やはり「さらに視野を広げると」くらいではないでしょうか。読者の意見を聞きたいものです。

 では、この事実を辞書はどう扱っているでしょうか。『広辞苑』の第7版はその「序」の9頁で「語義や語法説明の精密さ」と自慢しています(笑)が、「他方」はこう説明しています。
 ①他の方向、他の方面。「~の言い分」「~からの視点」
 ②一方では。別の面から見ると。「頑固だが、~実直である」
 『明鏡』の説明はこうです。
⑴(名詞)ほかの方面・方向。また、二つのうちのもう一方。「一方を青く、他方を赤く塗る」⑵(副詞)別の面から見ると、(もう)一方では。
 
 感想・私見では、「他方」を説明するならば、「一方」と対になる語である事をまず書く。そして、用例を挙げる。「死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引き締める」(鈴木大拙『禅と日本文化』北川訳岩波新書49頁)。次いで、「一方」の代わりに「他方」を使うのが当たり前になっている現状を確認し、それは間違いであると主張する。「一方」の項には上の用例1-4、1-5のような使い方もあることを説明する。明鏡の「一方」を引くと、これは②で説明してあります。が、その明鏡も「純粋な他方」の代わりに「一方」が使われている事実には気づいていないようです。

その2・お話を聞く

 「お話を聞く」という言い方は頻繁に耳にします。NHKのアナウンサーでも平気で使っています。私見によれば、「お話を」と言ったら後は「伺う」と受けるべきでしょう。逆に「聞く」と言うならば前は「話を聞く」だと思います。こういう事を教えるのは辞書の仕事ではなく、文法書の仕事かもしれません。

付記・NHKの雑誌『ラジオ深夜便』2018年8月号にはこの2種類の用例が共にありました。
 1-1、まさか約40年後、こんなにすてきなお話が聞けるとは……(58頁。遠藤ふき子アンカー)
 1-2、老いや死は誰もが必ず向き合う世界、お話を伺っていて、……(113頁。石澤典夫アンカー)
 (以上、2018年07月23日)

その3・~に注目です

 「~に注目です」という言い方はいつ頃から、どのようにして出てきたのでしょうか。今では全然違和感なく使われています。しかし、「注目」で『明鏡』を見てみますと、その品詞は「名詞、自動詞、他動詞、サ変動詞」とあります。ここで問題になってくる「~に注目です」はもちろん名詞としての「注目」の1つの用法でしょう。ではそれはどういう用法なのでしょうか。他の名詞で同じように使われるものがあるのでしょうか。
 それはともかく、「~に注目です」という所は、昔ならどう言ったでしょうか。「~に注目しましょう」くらいでしょうか。「~に注目するとよいでしょう」とか「~に注目するべきでしょう」は強すぎるでしょう。
 そうこうするうちに、「とりわけ注目なのが~」という言葉を聞きました。やはり「注目だ」という形容動詞が生まれていると考えるべきなのでしょうか。

注・そもそも「注目を集める」という言い方が今では完全に定着していますが、本来は、これは重言だと思います。しかし、『明鏡』は「不適切な重言ではない」としています。これについては既に~に書きました。

その4・~を決める

 「決める」の前に置く助詞には「~を決める」「~と決める」「~に決める」の三つがあると思います。しかし、いつごろからかはっきりとは知りませんが、かなり前から、ほとんどの場合に「~を決める」が使われるようになってきているように思います。
 『明鏡』を見ますと、私の問題にしているようなことには関心がないようです。しかし、この問題は2009年05月19日に書きましたので、繰り返しません。

 と、書いたら、次の用例に出くわしました。
 4-1、トルコ大統領選で再選を決めたエルドアン大統領は~(朝日、2018年06月25日夕刊、アンカラ渡辺丘)
 4-2、トルコ大統領選は24日、即日開票され、~エルドアン大統領が再選を果たした。(朝日、2018年06月26日、イスタンブール其山史晃)
 感想・後者の方が日本語らしいと思いますが、偏見でしょうか。ともかく、少し嬉しかったです。「~は決勝進出を果たした」という言葉をたまには聞きたいものです。

その5・下り坂に向かう

 テレビでもラジオでも同じですが、天気予報を聞いていますと、「天気は下り坂です」という言い方のほかに、「天気は下り坂に向かっています」という言い方が使われていることが分かります。後者の方が多くなってきているとさえ感じます。これでいいのでしょうか。
『明鏡』の編集者である碩学先生はこのような問題は歯牙にもかけないようです。いや、お気づきでないようです。この問題は2006年10月21日に書きました。

その6・立ち居振る舞い

 これは「用法」ではなく、二つの表現法ですが、ここに入れます。すなわち、「立ち居振る舞い」には「立ち振る舞い」という「居」を除いた表現もあるらしいということです。意味はおなじですから、辞書もそう書いていますが、問題はどちらからどちらがなぜ、あるいはどういう経過で出てきたのか、という起源の問題です。明鏡にはそういう事は書いてありません。分からないなら、「起源がどちらかは分からない」と書くべきでしょう。黙っているのは学問ではないと思います。

その7・すごい

 多くの人が気付いていると思いますが、程度のはなはだしいことの表現に「すごく」ではなく「すごい」が使われています。今や、この「間違った」使い方は9割以上の場合と言ってもよいくらいです。
 鈍感な国語辞典編集者もさすがにこれは気付いていまして、明鏡をみますと、「すごい」の項目に、「話し言葉では『すごい』を『すごく』と同じように連用修飾に使うことがある」と書いてあります。
 なぜ、いつ頃からこのような事が起きたのでしょうか。国語辞典はこの現象をただ記載するだけでよいのでしょうか。私は、「これは間違いだから、止めましょう」と提案するくらいの見識があっても好いと思います。 

   B・重言

その1、ひしめき合う

 「犇めく」で済むところを「犇めき合う」という言い方が多くなっていると思います。つい最近も、次の例を見ました。
 01、新宿駅は利用者数国内1位の座を守り続けるが、1番線から16番線までひしめき合う線路が街の東西を分断。(朝日、2018年6月11日夕刊。細沢礼輝)
 感想・「ひしめく」は漢字で書けば「犇めく」となります。牛が3頭集まっているわけで、これだけで既に「合う」は表現されているのではないでしょうか。『明鏡』には「大勢の人が一か所に集まって互いに押し合うようにする」という語釈があるだけです。「人」に限らず「他の物事」についても転用される、と書くとよかったでしょうが、今言いたいことは「犇めき合う」という重言が一般化しつつあることに気づいていないらしいことです。
 なお、学研の『国語大辞典」には語釈の第一に「ぎしぎしと音がする」を挙げています。3頭の牛が角を突き合わせるとそういう音がするのでしょうか。私はこの意味で「犇めく」を使った文に出会ったことがありません。

その2・「注目を集める」については上に言及しました。

   C・語釈

その1・冷笑

 ウルマンの詩「青春」の最後の方に When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism という句があります。ネットで和訳を調べてみたら、新井満訳と岡田義夫訳と作山宗久訳の3つがありました。cynicismの部分を、それぞれ、「雪のように冷たい皮肉」「皮肉の厚氷」「皮肉の雪」と訳していました。
 日本語では「シニシズム」を「皮肉」と訳すのが常態化していると思います。新井満でさえこう訳すのですから。私は前からこれの不当性を主張してきました。2006年12月09日にあります。
そこに書き落したことを追加します。①冷笑は英語ではcynicism、仏語ではcynisme、独語ではZinismusですが、この語の起源である古代ギリシャのキュニク派のことは英語ではCynics、仏語ではcynique、独語ではZynikerです。語源が良くわかります。
 ② 西欧の人もcynicをironicalという意味で使ったりすることがあるのでしょうか。英和、仏和、独和辞典にはここに「皮肉な」という訳語が載っています。
 ここで再度、論じます。
 皮肉の本質をとてもよく表現したのが次の川柳だと思います。「本降りになって出てゆく雨宿り」です。つまり「良かれと思ってしたことが逆の結果となってしまう」こと、これが皮肉の正体です。「ソクラテスの皮肉」というのも、相手を「知者」と認めて対話を始めますが、その結果、相手は自分が無知者であることを認めることになるというものです。
 ③『明鏡』の説明は、「人をさげすんで笑うこと」とあります。これでは説明不足です。「誰もが尊重するような事柄を」という限定が落ちています。

その2・皮肉

 皮肉については2007年06月29日の記事で私見をまとめました。しかし、「皮肉」の乱用は本当にひどいものです。しかも、辞書がこれに警告を発していないのですから、希望がありません。
 最近も、次の用例に出会いました。
 1、年齢を重ねると、見えるものが多くなる。でも、それを語り合う知己が次々と世を去っていく。この皮肉が、言いようもなく寂しい。(山藤章二。朝日、2018,04,16)
 感想・「見える物事が多くなるのに反比例してそれを語り合う知己が減少する」というのですから、一見「皮肉」のようですが、どうでしょうか。まあ、これくらいなら「あり」かな?

 2、ウクライナ保安局(SBU)は5月30日、首都キエフで隣国ロシアのプーチン政権を批判したロシア人記者が射殺されたと報道された事件が、実は同局による偽装で、記者は殺されていなかったと明らかにした。殺人事件を装ったおとり捜査の一環だったとし、これによって実際に記者殺害を計画していた関係者の拘束に成功したと発表した。(略)
 SBUによると、バプチェンコ氏に対する殺害計画があるのをSBUが探知。バプチェンコ氏本人に協力を求め、29日夕に本当に殺害事件が起きたかのように見せかけて関係者のあぶり出しを図ったという。
 「事件」では、バプチェンコ氏が自宅近くで血まみれになっているのを妻が発見し、病院へ搬送される途中で死亡したとされ、各国メディアが報道した。
 フリツァク長官は、おとり捜査によって拘束された人物はウクライナ国民で、「ロシア治安機関に3万㌦(約326万円)で雇われていた」と話した。ロシア外務省は30日夜、「反ロシアの挑発行為だ」とする声明を発表。「ウクライナ当局は自国で本当に起きている犯罪は捜査せず、代わりにやらせの殺人事件をやってみせるくらいしか能力を示す道がないのだ」と皮肉った。(モスクワ=喜田尚。朝日2018年05月31日夕刊))
 感想・これのどこが「皮肉」なのでしょうか。「皮肉」でないとしたら、これは何と評したらよいのでしょうか。私案は、「~と負け惜しみを言った」ですが、「強がってみせた」、「嫌味を言った」、「あてこすった」などを考えましたが、どれも適当でないと思います。皆さんはどう思いますか。こういう具体例で考えないと、言語感覚は鍛えられないと思います。ともかく「皮肉」はかくも不正確に乱用されているのです。それなのに辞書編集者自身がそれに気付いていないのです。世も末です。 

その3・募金

 1、しかし、奨学金を支える募金(1) は年々減少。2011年の約3億6600万円をピークに17年は約1億8100万円にまで半減した。寄付を募る(2) ボランティアの不足も続く。募金活動(3) は22、28日にも全国約150カ所で実施する。集めたお金(4) は全額、「あしなが育英会」を通じて遺児学生の奨学金に充てられる。(朝日、2018年4月21日夕刊。金山隆之介)
 感想・(1)の「募金」は「集まった寄付金」の意でしょう。こういう使い方も出てきています。賛成は出来ません。「寄付金」とするべきでしょう。(2) の「寄付を募る」はあまり聞かなくなりましたが、正しい表現だと思います。(3) の「募金活動」も正しいと思います。(4) の「集めたお金」は、よくぞ「集めた募金」と言うのを踏みとどまったと思います。

 「募金」は今では「寄付金を出す」、つまり「拠金」の意味でも使われるようになってきています。NHKテレビのニュースを見ていますと、花を手向ける人の映像に交じって、寄付金を置く人の姿を映しながら「中には募金をする人も」というナレーションがなされることがあります。
 この「募金」の意味の変遷(寄付金→寄付金を集める行為→寄付金を出す行為つまり拠金)は、私の知る限りでは『明鏡』が良く追跡しているようです。その第2版では「〔寄付集めの〕主催者側からいう言葉」と「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」との「説明」が付いています。しかし、「醵金」の項には「今では多くの人がこの意味で『募金』ということもある」という説明がありません。片手落ちでしょう。私は「醵金の意味で募金と言うのは『間違いだから止めましょう』と書いて、NHKにも注意をするのが辞書編集者の仕事だと思います。

その4・王道

 予備校の広告などを見ていますと、「何々への王道を伝授する」といったような文句が出てきます。これで好いのでしょうか。「学問に王道なし」という言葉は間違いで、実際には「学問にも王道、つまり『楽をして目的地に達する道』がある」のでしょうか。
 『明鏡』━━①儒教で、有徳の君主が仁徳を以て国を治める政治の道。覇道の反対概念。②安易な方法。「学問に王道なし」。③最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」。
 ③の意味で使われている事実を事実として認めているわけです。しかし、これで好いのでしょうか。学研の『国語大辞典』を見ると、③は載っていません。つまり、これは最近になって(と言ってももう20~30年以上も前から使われてきていますが)、使われ、何の疑問も持たれなくなってきたのです。私の記憶でもそうです。ということは、誤用の始まった頃にいち早く警鐘を鳴らさなかった辞書編集者にも大きな責任があるということです。『明鏡』の編集者にはこの種の反省がないと思います。私は、今からでも、③の意味では「正道」を使うように変えてゆくべきだと思います。

  D・語義を曖昧にする新語

その1・事実関係

 01、野党議員は2日午後、東京労働局に出向いて勝田氏に会い、事実関係を確認。(朝日、2018年04月03日)
 02、東京労働局が公表済みの是正勧告の事実さえ、加藤氏が説明を拒んだ理由も不可解だ。(朝日、2018年04月03日)
 感想・いまでは「事実関係」のオンパレードの様相を呈してきています。この「事実」(「事実関係」ではありません)に気付いていない方は、注意してニュース番組を聞き、新聞を読んでください。『明鏡』で「事実」を引きますと、「実際に起こった事柄」といった語釈の後に、説明もなく「事実関係」と載っています。そして、「事実関係」という項目はありません。辞書編集者の責任を放棄しています。

その2・方向性

 01、選手の意見を尊重するのが西野監督のスタイルだ。ミーティングは活発になった。ただ、ピッチ上で攻守に方向性が見えぬチームに、話し合いが有効になっているのかどうか、疑問に思っていた。25歳の大島は言う。「皆がそれぞれの成功体験を話すことで、一つの方向に行かない難しさはある。」(朝日、2018年6月13日。藤木健)
02、(東電の福島第二原発の廃炉決定に関して)小早川社長は〔県知事との〕面会後、報道陣に「大きな方向性を示させて頂いた」と繰り返し、すべて廃炉の方向はごく最近、取締役会で説明し、賛意を得たと述べた。(朝日、2018年6月15日)
 感想・このようにごっちゃに使われています。全体としてはやはり「方向性」の方が多く使われていると思います。『明鏡』には「方向性」は載っていないようです。「方向」欄にも言及はありません。「他方」の用例2に「方向」が使われています。

 ウィンブルドンのテニスの試合を視聴していたら、「正確性を欠いている」といった言葉に気付きました。日本人は、やたらと「性」を付けて曖昧な表現を作るのが好きなようです。

その3・方法論

 「方法」と言うべきところで「方法論」と言う人が少なくありません。これについては2012年01月17日の項をお読みください。

その4・哲学の世界では、「関連」の代わりに「連関」という用語が使われるが普通です。なぜでしょうか。「哲学用語は日常用語とは『ちょっと』違う」という考えと関係があるのではなかろうか。賛成できません。関連で十分です。

   E・漢字の読み方

 その1・七

 今年(2018年)の3月11日は東日本大震災の7周年記念日でした。朝からラジオやテレビを聞いていますと、「震災から7(なな)年経って」という言葉が繰り返されました。「おや、『しち』年ではないのかな?」と思いました。その後は「しちねん」と言う人も多く出てきました。どちらが正しいのでしょうか。

 ① 「しち」──七福神、七転八倒、藤井総太七段、
 ② 「なな」──七転び八起き、七回の表、河津七滝(かわづななたる)、
 特注・証書などで金額を記す場合は間違いを避けるため「漆」とも書く。(明鏡)
 
 どういう場合に「なな」と読み、どういう場合に「しち」と読むのかを教えている辞書はあるのでしょうか。知っている人は教えてください。

 考えてみますと、日付の読み方では、月は「いちがつ」「にがつ」「さんがつ」……、日は「ついたち」「ふつか」「みっか」……ですから、「七月七日」は「しちがつなのか」と読むはずです。この「月」と「日」の読み方の違いはどこから来たのでしょうか。日の読み方はしかし、十一日以上は「二十日(はつか)」を除いて、漢字読みと言うのでしょうか。大和言葉ではないと思います。

その2・市場

 築地市場(つきじしじょう)の移転問題で、この名前が頻繁に聞かれています。しかし、「これは昔は『築地いちば』と呼んだはずだったのだがなあ」と思う人は、私のように「棺桶に片足を突っ込んだ老人」だけでしょうか。
 「いちば」と「しじょう」の違いを辞書はどう説明しているでしょうか。これは既に2014年08月29日に論じてあります。

 今回は『明鏡』を見てみました。

b・しじょう━━①売り手と買い手が集まって、商品や株式取引を行う特定の場所。中央卸売市場、証券取引所。②商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語。国内市場、国際市場、金融市場。③商品が売買される範囲。販路。マーケット。④いちば。
a・いちば━━⑤定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市(いち)。⑥食料品や日用品などの小売店が集まった常設の共同販売施設。
 念のために「市(いち)」も引いてみました。⑦多くの人が集まって品物の売買や交換をすること。また、その場所。市場。「市(いち)が立つ」「朝市」。⑧多くの人が集まる場所。「市(いち)に虎を放つ」。
 「市(いち)」という言葉が先に出来て、それの場所をも表すようになったのが第2段階でしょう。そのように「現物」を扱う所であることは当然の前提だったのですが、資本主義の発達で株や債券の市場(しじょう)が開かれた時、これは「現物」ではなく「観念的なもの」を扱うので「しじょう」と読むようになったのではあるまいか。今では、株や債券の売買も一般化して、特殊な専門家だけの事ではなくなったので、「しじょう」という言葉が日常用語になったのでしょう。その時、多くの人が両者の違いを意識しなくなり、現物を扱う所もある種の場合には「しじょう」と言うようになったのだと、推測します。
 私は今でも、現物を売買する所はどんなに大きくても「いちば」と言ってほしいと思っていますが、もう無理な願いでしょう。しかし、今でも地方の魚市場(うおいちば)とかはそのままですし、卸売り市場でも「いちば」と呼ばれているところはあるようです。ニュースを注意して聞いていてください。
 「築地中央卸売市場」でさえかつては「おろしうりいちば」と呼ばれていたと思います。私の若いころはそうだったと思います。最近のニュースでも、昔からある従業員の組合(団体)の名前は固有名詞であるがゆえに「築地いちば~組合」と呼ばれている例を1つだけですが聞きました。何だったか、記録しなかったのは残念です。興味のある方は、築地市場に行って、年配の人やおかみさんに聞いてみてください。「昔は『いちば』と言った」とか「今でも『築地いちば』と言っている団体はある」と教えてくれるはずです。こういう言葉の問題に関心のないジャーナリストが多すぎて、私は孤立無援です。

 思い出したことを1つ付け加えます。築地の「場外市場」も今では「場外しじょう」と呼ばれているのでしょうか。ここは完全に「現物」を売買していますから、「場外いちば」と読むべきだと思いますし、昔はそうだったと記憶しています。これも興味のある人は調べてくださるようにお願いします。

 付記・書くのを忘れていた事を思い出しました。それはネット通販の大手「楽天市場」はその創業の当初から自分の名前を、正しく、「楽天いちば」と呼んでいることです。(2018年07月23日)

その3・他人事

 これについては『明鏡』が明快な説明を与えています。
━━明治・大正期の文字で「ひとごと」とふりがな付きで書かれていたものが、後にふりがなが取られ、「たにんごと」とも読むようになった。

その4・本性

 これは「ほんしょう」と読むのが本来の読み方でしょうが、哲学の世界ではなぜか「ほんせい」と読むようです。哲学者はくだらないところで「差」を付けようとするようです。情けない習性です。「呪物」でいいところをわざわざ「物神」という新語で置き換えるのも、そういう所でしか新味を出せない無能学者の負け惜しみでしょう。

付録1・アクセントについて

 日本語は高低アクセントなので、紙の上に表示するのは難しいですが、かつては高低のあった語が今では平板に発音されることが多くなっているようです。サークル、クラブ、など。
 私のような老人は世を去るべきなのかもしれません。最後のあがきとして、いくつかの出版社の辞書編集部にこの論文を送ってみようかと考えています。

付録2・サ変動詞の上一段化

 「論ずる」を「論じる」と言い、「感ずる」を「感じる」と言い、「信ずる」の代わりに「信じる」というように、本来はサ変動詞であったものを上一段動詞として使うのは今では一般化していると思います。少し古い方には同じ語について両方を、使い分けているのではなく、多分無意識にごっちゃに使っている人もいます。
 いつ頃からそうなったのか、調べたことはありませんが、たまたま読んだ鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書、1940年初版)では訳者の北川桃雄は「転ぜられる」ではなく「転じられる」と書いています(63頁)から、この変化はかなり前から起きていると推察出来ます。先に申しましたように、今ではこれは基本的に上一段になったと言ってよいと思います。実際、語釈は上一段の方に書いて、最後に「=感ずる」と断っているだけです。これでは不十分だと思います。代表的な語を決めてきちんと書くべきでしょう。
 この点で例外があるのを発見しました。「禁ずる」です。明鏡ではサ変の方に語釈を書いて、上一段の項にはただ「=禁ずる」とあるだけです。どちらに語釈を書くかで基準を決めていないのでしょうか。こういう事に無頓着な事自体、褒められた事ではないと思います。

付録3・手皿

 「手皿」という名詞は本当にあるのでしょうか。ヤフーの「辞書」で検索すると、「長手皿」といった語しか出てきません。しかし、そのヤフーでも「WEB」で検索すると、手皿が礼儀に適った作法か否かでの議論が沢山載っています。
 私は、手皿はダメだと聞いています。箸で持った物を口に運んでいる途中で落としたら、それが食卓に落ちるのを防ぐのに何で受けるべきでしょうか。手で受けたら、手が汚れます。その手は何で拭うのでしょうか。ですから、茶碗とか皿とかを常に左手で持っていて、運んでいる食べ物の下にセイフティネットのように構えているのが日本の食事作法だと聞いています。
 テレビを見ていますと、美しい方々の多くが、この手皿を使っています。子供たちはそれを自然に「模範」として理解して育ちます。
 まず、国語辞典に「手皿」を掲載することから始めなければならないようです。これが「礼儀正しい日本国の現状」です。

実証主義の見本

2018年09月25日 | サ行
      実証主義の見本

 茨城大学教育学部のK教授が全国の公立小中学校の教員3500人を対象に郵送で調査をし回答率は62%だったと、(2001年)03月17日付け朝日新聞に報じられています。

 それによると、小中全体で、困難に感じた体験は、
 不登校児(42%)、生徒間のいじめ(32%)、生徒の非行(24%)
の順だそうです。

 いずれも中学だけを見ると、
 不登校児(61%)、生徒の非行(52%)、生徒間のいじめ(42%)
と飛び抜けています。

 困難な体験として「授業が成立しないこと」をあげた先生は、中学校で15%で、小学校の8%を上回り、「学級崩壊は小学校で多い」という見方とは逆の結果となっています。

 不登校児への指導に「自信がある」人は22%で、「自信がない」は30%以上だそうです。

 現在感じている悩みについて尋ねたところ、「校務に追われ、授業の準備ができない」、「忙しすぎて学校で子供たちと話す時間がない」、「忙しすぎて私生活が犠牲」の3つが突出して多いと書かれています。

 この記事を読んで疑問に思いました。

 こういう事だけ調べて何をするつもりなのでしょうか。調査研究は、問題を解決する手段なり方法なりを発見するためだと思います。しかし、こういう調査では解決手段は見えてこないと思います。

 「それはこれから考えるのだ」と強弁するかもしれません。しかし、どういう調査をするかに既にその人の考えが出ているのです。白紙で調査を始めるということは事実上ないのです。これまでに何らかの考えがあって、その観点を確かめたり、深めたりするために調査をするのです。ですから、自分の考えを反省して、問題点を解明するような質問をしなければならないのです。漠然と質問しても何も出てきません。

 「学校教育は個々の教師がするものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものだ」という考えに立つならば、「校長のリーダーシップ」とか「教師集団のまとまり具合」を聞いたり、それと生徒指導の関係を聞くことになるはずです。そういう事を聞いていないということは、調査をしたK教授にそういう観点がないということです。

 私の生徒が、新聞に載っていたこととしてこういう実例を教えてくれました。

 ──長野県の或る中学校での出来事である。不登校の生徒のために校長自ら夜間中学と称して不登校の生徒を集めて授業を夜、行った。また他の不登校の生徒のそれぞれの個性に合わせて対策を考えた。結果として、不登校の生徒は激減した。

 これは校長の熱意が生徒に伝わったものだと考える。また、生徒としても自分の存在感を認識できたのではないだろうか。トップによって変わるものだということを証明したような事例である。──

K教授が本当に問題解決のためにアンケートをしたのだったら、こういう成功例くらい集めてみるべきだったと思います。それをしなかったと思われるこのようなアンケートはほとんど意味がないと思います。これは実証主義の下らなさを証明する見本のような調査だと思います。

 しかも3500ものアンケートを郵送したのです。随分、研究費を使ったものです。しかも、国立大学ですから、これは税金から出ているのです。

 なお、以上の意見は、K教授の今回の調査の主要内容が新聞記事に全部書かれていると前提しての意見です。もし以上の視点が実際にはK教授の調査項目の中にあったのに新聞がそれを報道しなかっただけだ、とするならば、以上の批判は新聞記事に向けられるべきだと思います。

 注・これはメルマガ「教育の広場」 (2001年03月21日発行)からの転載です。


キーンさんの日本語

2018年09月24日 | カ行
   キーンさんの日本語

アメリカ人の日本文学研究家として名高いドナルド・キーンさんが朝日新聞夕刊のコラム「時のかたち」に寄稿しています。

(2003年)01月07日の文は「日本との出会い」と題されていました。その中に次の文がありました。

「ニューヨークに帰ってから父にフランス語の家庭教師を頼んだが、そんな金がないと言われた。」

ここはやはり「そんな金はない」だと思います。

キーンさんほどの方でも「が」と「は」の使い方では間違えるのです。我々が定冠詞と不定冠詞の使い方を間違えても恥ずかしいことはありません。

かつてキーンさんの話をラジオで聞いた時に思ったのは、日本人の友人も沢山いるだろうに、誰もキーンさんの日本語のおかしい所を注意してあげないのかなということでした。

というのは、キーンさんの日本語には「違うのではないかな」と思われるような表現が散見されるからです。

外国人の日本語に注意してあげるのが正しいか否かは問題ですが、キーンさんのような方の場合は注意してあげた方が親切だと思います。

(メルマガ「教育の広場」2003年01月10日発行から転載)

にきび

2018年09月22日 | ナ行
       

 紹介・槇佐知子さんは、古典医学研究家で、平安時代初期に編纂された『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』全百巻を現代語に訳し、又『医心方(いしんぼう)』という平安中期の医学全書全三十巻を現代語に訳した方です。

 その方の話から「冷え性」と「にきび」を治す方法についての箇所を引用しておきます。
 (槇佐知子、『ラジオ深夜便』2012年12月号より)

 にきびの治療法もあるんですよ。「三年酢の中へ鶏の子(卵)を三日漬けて、顔に塗れ」 って、ただ一行書いてあるんです。

 私も試してみようと、三年酢として売られている黒酢に卵を殻ごと入れたんです。3日漬けてもあまり変わらないので、1週間漬けておいたら、殻が溶けて、お酢を吸ってアヒルの卵ぐらいに大きくなりました。

 いきなり顔へ塗るのは怖いから、手に塗ってみました。ぱりぱりに乾いてからぬるま湯で洗い落とすと、跡が白い手袋をはめたみたいになっていました。試しに唇の下にできたにきびに塗ってみたら、これが一晩で取れちゃったんです。

 にきびで困って病院をいくつも回ったけど治らないというお嬢さんがこれを一週間試したら、顔一面のにきびが治ってしまったんですよ。

 ただ、お酢は刺激が強いし、また卵アレルギーの方は特に注意が必要ですね。

 関連項目──冷え性

注・今、ブログ「教育の広場」を無くすために、残したい記事をこちらに移しています。

論争的報道番組のあり方

2018年09月19日 | カ行
   
 去る(2005年)03月28日、NHKの夕方の看板番組「クローズアップ現代」で、東京都(の主として都立高校の入卒業式)における日の丸・君が代の「強制」問題が報道されました。

 4月5日、都議会自民党はこの番組について、「番組は著しくバランスを欠いている」として、批判の「コメント」を発表しました(NHKに対する申し入れは、時節がらでしょう、避けたようです)。

 4月6日、東京都教育委員会は「『趣旨説明』を聞いた上で取材に協力したのに、その『趣旨説明』とは異なる内容だった」ことを問題にして、NHKに文書で申し入れをしたそうです。

 これらに対してNHKは、「教師たちの意見と教育委員会の考え方とを丁寧に伝えた公正な内容だった」と答えています。

 以上は、4月15日付けの朝日新聞に書いてあったことです。

 その後の朝日紙の報道によりますと、この「強制」に反対している教員たちは、都議会自民党のコメント発表に対して抗議したようです。

 私もこの問題に関心を持っている者としてあの番組を見ました。その感想は、「キャスター(国谷裕子さん)の準備不足で内容のない番組だったな」というものです。

 決定的に欠けていたものは、双方の言い分をかみ合わせる努力です。横山教育長の主張の中心は次の2点でした。第1に、学習指導要領に従ってやっている、第2に、学習指導要領は判決によって「法的拘束力を持つ」とされている、です。

 これはこの問題を少しでも注視している者にとっては十分に予想された発言です。それなのに、これを予想した次の質問がないのです。教師たちの意見の中にもこれに反論するものはありませんでした。

 それに対して、横山教育長は教師たちの「内心の自由」の主張に対して、「内心の自由は当然だが、それが表に出て式典を阻害するなら自由ではない」との反論を用意していました。

 全体として、横山教育長は余裕しゃくしゃくで、薄ら笑いすら浮かべながら話していました。当然でしょう。

 私は前号のメルマガ「小林俊太さんへ」でこの問題を論じた時、「これを押し進める勢力と反対する勢力の動きを冷静に評価してみると、前者は巧妙かつ組織的であるのに対し後者は拙劣ないし幼稚であると思います」と書きました。これが又証明されました。残念ながら。

 都教委では「担当部署が録画を見直して分刻みで点検した」そうです。自民党は90年代から報道モニター制度を造ってメディア監視を強めてきたが、それが地方組織でも定着してきたようです(15日付けの朝日紙に載っている服部教授の話)。

 それに対して、教師の側では、いまや組合すら動けなくなっています。法律(それに準ずるものを含む)と人事権を武器にした反動勢力に対する武器が、相も変わらず「内心の自由」と個々の教師たちの抵抗だけではどうしようもないと思います。

 そして、このような現状をくっきりと浮かび上がらせるべきキャスター(国谷裕子さん)もただ心情的な態度で教師の側を応援しているように見えます。卓球では「3球攻撃」というのがあるそうですが、まず質問したら、相手の答えを予想して、それを踏まえた次の質問をするのは常識ではないでしょうか。

 私の好きなラジオ深夜便では、アナウンサーが誰かにインタビューする場合、アナウンサーは相手の書いた本を何冊か読んでおくとか、相当の準備をしているようです。放送を聞いているとそれが分かります。

 報道番組では毎日、新しい問題と取り組まなければならないからそんな事をしているヒマがないとでも言うのでしょうか。それなら、キャスターなど辞めるべきです。国谷さんはもう長い間この仕事をしているはずです。女性で英語が出来ればいい、という時代ではないと思います。

 換言するならば、争いのある問題を扱った報道番組を公正で客観的なものにするためには、キャスターはディベートの審判のような技術を持っていなければならないということです。

 そういえば10年ほど前、この「クローズアップ現代」で「ディベート甲子園」を取り上げたことがありました。高校生が「首相公選制は是か非か」でディベートの全国大会を開いたときの様子を報じたものです。

 とてもありがたかったです。授業で使いました。しかし、これはその後どうなったのでしょうか。ディベートのやり方の勉強になるような番組はその後見当たりません。それを報じたキャスター自身がその技術を知らないということと関係があるのかもしれません。

 03月28日の「クローズアップ現代」は落第番組でした。唯一の収穫は、都教委が校長を集めた「会議」で、課長が今の式典の様子を「寒々しい光景」などと話をしていましたが、その態度の傲慢無礼なのがはっきりと分かったことだけです。話し合うのではなく、命令し説教するという態度でした。

 世の校長の中にもこういう態度で教師や保護者に接している人がいますが、それはこういう課長の態度を見習ったものらしいと思いました。

 では我々は、こういう態度の教委や校長とどう戦ったら好いのか、それは回を改めて考えましょう。
 (メルマガ「哲学の広場」2005年05月02日に初出。ブログ「教育の広場」2005年06月12日に転載)

議論は真理にとってのみ有利である

2018年09月18日 | カ行
★ メルマガ「哲学の広場」2005年07月30日からの転載です。

 これまでにも何回か投書をいただきましたUさんから又投書をいただきました。これをまず全文掲げます。

 1、Uさんからの投書

牧野様

 いつも拝読しています。

 第 177号「社民党は公明党から学べ」を読んで、同様の疑問を持ちました。そして、私も牧野さんと同様の投票をしました。政権交代を期待して、さほど好きでもない民主党に入れました。

 ただ私は、公明党から学べなどと言う気はさらさらありません。そんな例を出さずとも、野党が協力しあえば好いと言えばよいと思います。

 創価学会を母体とするインチキ風見鶏政党などを例に出す必要はないと思います。私の家の周囲は学会の人間が多く、その一人にいわれのない嫌がらせを受けたりしたことがあります。また、こういった宗教団体を母体にした政党には、民主的に問題を解決する能力は無いと思います。

 話は変わりますが、文中の言葉がとても偉そうですね。今回も、政党に対して子供、大人という表現をされています。確かに、全体的な事柄を表現するのにこうした言葉があなたにとってはぴったりなのかもしれませんが、読んでいる方は、「何をこいつ偉そうに~」と思いますね。

 以前、ノーベル賞学者の批判をするときもそういった表現があったと思います。読んでいて不快です。

 牧野さんの考え方は非常に参考になりますし、現実的、建設的だと思いますが、感情的に受け入れられない人は多いような気がします。あなたのいま置かれている立場がそうさせているような気もします。

 私はたとえ気に食わなくとも支持しますが~。

 PS・このメールはプライベートなものです。公開されなくて結構です。当方としてはコメントの必要ありません。 -

2、牧野の感想

 「PS」を読みますと、これは「投書」ではないのかもしれません。しかし、こういう発言を「プライベート」と断って、公開やコメントを拒否する自由があるのでしょうか。それなら始めから投書するべきではないと思います。

 そのように考えましたので、投書者の考えに反して公開し、コメントを書きます。公の問題についての議論は公の場で冷静に議論することが真理のためであり、そういう議論はただ真理にとってだけ有利なものだと思います。

 私への批判は「言葉が偉そうだ」ということだと思います。

 ご忠告はありがたく伺い、繰り返し反省するつもりですが、私の基本的な立場を申し上げます。

 それは、第1に、最近の日本語ではあまりにも「~させていただく」という謙譲語が多すぎると思う、ということです。批判する場合には、相手が反省してほしいという思いを持って、又自分の方が間違っているかもしれないということを忘れずに、対等な立場で客観的な言葉で話し合うという態度で話せば好いと思います。

 第2に、原則として言ってはいけない言葉もあると思います。例えば、「バカ」とかです。しかし、又、なるべく使わない方が好いが場合によっては根拠を挙げて使うならば、使っても好い言葉もあると思います。

 Uさんが問題にしている「コドモ」という言葉は後者だと思います。Uさん自身、「インチキ風見鶏政党」という悪罵を投げつけていますが、これの方が感情的で不適切だと思います。

 第3に、批判する場合には特に根拠を示すべきだと思います。「以前、ノーベル賞学者の批判をするとき」と言っていますが、このメルマガはすべてバックナンバーが残っていて調べられるようになっていますから、それくらいは調べて確かめて、どの言葉が不適当なのかを指摘するべきだと思います。批判のモラルも守ってほしいと思います。

 尚、Uさんは牧野と同じ投票行動を取ったと書いていますが、自分の政治的見解及び支持政党については述べていません。多くの日本人は自分の支持政党を言わないで、何党が勝つかなどを論じるのが好きですが、残念ながらUさんもこの日本人的特徴を持っているようです。

 私は自分の支持政党を言わない人は政治の話をする資格がない、あるいは半分しかないと思います。

(メルマガ『哲学の広場』2004年07月21日、ブログ『教育の広場』2005年07月30日に転載。今回再度、転載)

 3、参考までに、Uさんが問題にしている「社民党は公明党から学べ」を以下に再掲します。

(2004年)07月11日、第20回参議院議員選挙が行われました。自公連立与党が何とか安定多数を確保したようです。

 今回の選挙について1つだけ述べます。

 それは、与党は自民党と公明党とが協力したのに、野党は民主党と社民党と共産党との協力が極めて少なかったということです。そして、この事がその分だけ政権交代を遠ざけたということです。そして、この事の原因は社民党と共産党が政治的にコドモだという点にある、ということです。

 今回の参議院選挙の結果について1人区だけで見てみますと、共産党はともかくとして、社民党が民主党を応援したら民主党が議席を取った(従って自民党が議席を取れなかった)であろう選挙区が4つあります。山形県と富山県と徳島県と香川県です。

 社民党が民主党に協力したら、民主党が議席を取れたかもしれないと思われる選挙区も4つあります。鳥取県と山口県と佐賀県と熊本県です。

 後者は除いて前者のほとんど確実に逆転していたであろう4つを逆転して計算しますと、自民党は45議席になり、民主党は54議席になります。

 これなら民主党の大勝で、小泉首相は退陣していたでしょう。従って、次の総選挙は近づいていたでしょう。

 ではなぜ、社民党(共産党も同じ)は民主党に協力しないのでしょうか。民主党に協力すると自党の存在感が薄れるからであり、民主党の憲法観に賛成できないからであり、消費税引き上げに賛成できないからだそうです。これらの点を憲法第9条で代表させますと、要するに、民主党に協力したのでは憲法第9条を守れないからであり、民主党と自民党は同じだからだと言うのです。

 では、民主党に協力しないで、独自に戦って「憲法第9条を守れる」でしょうか。否。社民党の議席は変わりませんでした。共産党は大敗しました。

 どこに間違いがあるのでしょうか。公明党を見るといいでしょう。公明党は自民党に協力しながら、自党の存在感をどんどん高めています。今回、自民党に恩を売ったために、自民党の憲法改正と教育基本法改正はその分だけやりにくくなったと言われています。

 つまり、選挙では、政権に対する態度が根本であって、それ以外の点は二の次、三の次なのです。社民党と共産党に分かっていないのはこの点なのです。公明党が心得ているのはこの点なのです。これがコドモと大人の違いです。

 小選挙区の比重が高まり、二大政党時代になった今、選挙は常に政権維持か政権交代かが根本問題なのです。その時、どちらかと組まなければ自党の存在感を出すことは不可能なのです。大政党と組んで自党の存在感が薄れたとするならば、それは大政党と組んだからではなくて、自党の組織のあり方が間違っているからなのです。

 現在の日本の政治では政権交代が最大の課題であり、これに比べたらほかの問題は小さな事柄です。この事については既に本メルマガ第 141号「政権交代はなぜ必要か」(2003,09,25配信)で詳論しました。私は決して民主党支持者ではありませんが、今回も民主党に入れました。

 政策的には社民党が正しいと思います。正しいで悪ければ、私の考えと一致します。憲法第9条を守れということも、自衛隊は憲法違反だということも、国民全員に月8万円の年金を保障せよということも、皆賛成です。

 しかし、私は社民党には入れませんでした。なぜなら、社民党の考えは中学生の社会科のレポートみたいなものだからです。被選挙権のない党に投票することはできません。

 確かに憲法改正の足音は高まっています。だからこそ、それに現実的に対処することが必要なのだと思います。ドイツのみどりの党は社民党と協力しながら政権につきました。  なぜ日本の社民党に同じ事が出来ないのでしょうか。それはただ、社民党の人々、特にその指導者がコドモだからだと思います。

 次の総選挙までに社民党の中にこういう大人の考えが根づくことを願っています。

 なお、昨年(2003)年11月の総選挙でも共産党が民主党に協力していれば政権交代が実現したという説があります。一応これをお断りしておきます。(2004年07月14日発行)

お知らせ

2018年09月17日 | 読者へ

 『小論理学』の発売を機にホームページ「哲学の広場」を改訂しました。

 と言いましても、これはWEBの上での仕事の「表紙」ないし「目次」にすぎませんから、大したことではありませんが、内容も少し変えました。

 思うに、ブログは本当に使いかっての好いもので、もう10年以上も愛用していますが、表紙の作れないのが大欠点です。新しい記事を載せると、それが最新頁になってしまい、同時に表紙のように成ってしまうからです。

 そこでたった1頁だけでもホームページを作って、表紙とし、同時にそこに目次兼索引を書かなければならなくなる訳です。

 新しい「哲学の広場」のURLは変わりました。このブログ「マキペディア」の左の「ブックマーク」の中にあります「哲学の広場」は新しいものに対応しています。

 よろしくお願いします。

2018年09月17日、牧野紀之

『小論理学』、遂に発売

2018年09月12日 | サ行

 待ちに待った未知谷版『小論理学』は、昨日未知谷に届けられました。そして、今日訳者である私の所に届きました。

 四六判1246頁、上製函入り、15000円(税送共)
 (この価格は鶏鳴出版に申し込んだ場合のものです)

    郵便口座番号 ── 00130 - 7 - 49648
    加入者名 ── 鶏鳴出版
     注意・何を注文するのかを書き忘れないように。

 訳と細かい注釈のほかに、まず3つの付録があります。
  付録1・「パンテオンの人人」の論理
  付録2・昭和元禄と哲学
  付録3・ヘーゲル論理学における概念と本質と存在
  (付録3は今回書き下ろしたものです)

 そのほかに、巻末には、「総索引」(64頁)、箴言の索引(6頁)、例解の索引(4頁)、ヘーゲル受容史の年表(2頁)があります。

 本訳書をどう読むかは読者の自由ですが、私のたどった『小論理学』読解の道筋を紹介しておきますと、まず、全文をとにもかくにも通読しました。松村訳岩波文庫で、です。もちろん何も分かりませんでした。ただ、「必然性」ということが重要なんだな、と感じただけでした。
 その後は、気になった時に気になった所だけ(と言っても、それが何頁にわたるかは、場合によります)を読み直して考える。何年かして、思い出したように通読する。これを繰り返すというものです。
 私にとっての転機は「目的論」の部分を原書で読み返していたら、ものすごく分かるような気がして、一気に、論文「ヘーゲルの目的論とパヴロフの第二信号理論」を書いた事です。1969年の早春の事だったと思います。
 いずれにせよ、はじめから賛成してくださらなくても結構ですが、「ヘーゲル研究は『小論理学』に始まって『小論理学』に終わる」ということを頭に入れておくと好いでしょう。

  関連項目・鶏鳴出版

話し合いのない社会

2018年09月11日 | カ行
 
 学校や教師に対して生徒の保護者が「無理難題」を言うそうです。それがかなりひどいのでしょう。朝日新聞が取り上げたところ反響があったとして又07月10日に特集していました。

 もちろん教師側の非を責めるものと保護者側の非を責めるものとの両方が載っていますが、どちらも自分の主張に合った事実だけを根拠として述べています。

 こういう問題に対する私の基本的な考えを述べます。

 第1に、未成年者の教育は家庭と学校と地域社会の3者が協力して行うものである。

 第2に、組織はトップで8割決まる。

 第3に、学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである。

 第4に、問題があれば、関係者で話し合い、それぞれの規則に基づいて処理するのが民主主義である。

 さて、この基準を適用して考えてみましょう。特に学校側のトップの意見を検討します。朝日紙に載った埼玉県の或る小学校長(56)の意見は次の通りです。

- 保護者の批判は教師の日々の言動や指導力不足など多岐にわたりますが、うわさによるものが多くあります。複数の保護者からセクハラの苦情が寄せられたことがありましたが、実は子どもが「先生いじめ」でうその話を親にし、それが親の間で広まった結果でした。多くの教師は一方的な攻撃を受けると自信と意欲を失います。大切なのは事実を把握し、問題に取り組むことです。 -

 これは最後に「大切なのは事実を把握し、問題に取り組むことです」と言っていますが、それが実際にどういう事なのか書いていませんし、自分の実践の報告もありません。こういう書き方しかできないのがそもそも校長として情けないです。

 私の提案は、日頃から学校の方針や活動を保護者や地域社会に知らせ、意見や批判も聞いて話し合い、その話し合いも報告するようにしておく、です。今ではインターネットという武器がありますが、古典的な紙による通信も重要だと思います。

 しかるに、その紙による報告(主として「学校だより」)が内容の乏しいものになっていますし、何よりも「議論のない通信」でしかありません。これでは問題が起きたとき、対処できないでしょう。なぜ議論がないかと言いますと、校長が自分の学校運営に対する批判を聞くということをはっきりと言っておかないからだと思います。

 愛知県小牧市の教育長は自分の考えを積極的に発表する人ですが、07月22日付けの「教育委員だより」でこれを取り上げています。

 大阪大学の小野田氏が日本教育経営学会で発表されたこともこういう問題が取り上げられるようになった機縁ではないかと言っています。又、平成14年には『子どもより親が怖い』という本も出ていると紹介しています。

 そして、肝心の対策についても、この本の提言を紹介しています。曰く「親を変えるのはあきらめましょう」「目の前の子どもで勝負」「学校でできることを精一杯やろう」「保護者との人間関係づくりに積極的に打って出よう」。

 結論として「満点の教師や親はいないことを前提に、言うべきは言いながらも、協力し合うこと以外に方法はありません」と結んでいます。

 この程度の考え方しか出来ないような教授や教育長ではもの足りません。

 教育長のするべきことは、第1に、上の4点を確認し、各学校長に指導性を求めることです、第2に、保護者から出された「無理難題」とその処理を報告させて、校長会で本音を出し合った議論をするように指導することです、第3に、必要な場合には、PTAの会長たちや自治会長たちとの話し合いの場を持つようにイニシアティブを取ることです、そして第4に、それが難しい場合には県知事や市長や町長にリーダーシップを求めてそういう場(議論の場)を作ってもらうことです。原則として、全て公開しつつ進めた方が好いと思います。

 わが町の中学校の教頭が、自分の娘の通っている小学校のPTAの副会長になったようです。PTAの「通信」に一文を寄せていました。保護者の問題を指摘したものですが、その最後の方に次の文がありました。

- 昨日(7月14日)は、私の学校〔この人が教頭をしている中学校〕の開放日だった。

 ガムをかんでいる保護者、携帯電話のメールに夢中になっている保護者、子どもはそっちのけでうわさ話に興じている保護者。

 この小学校〔この人の娘さんが通っている小学校〕の参観会では見られない光景であり、これも様変わりである。 -

 これも教頭の発言としてはおかしいと思います。学校の参観会のことは校長に責任があると思います。まずこれが分かっていないようです。

 そもそも校長に意見を言ったり、話し合ったりする雰囲気がないのでしょう。初めから校長の学校運営を批判的に検討する習慣なり姿勢がありません。これでは民主教育は不可能でしょう。

 私がどうしているかを報告します。

 教師としての私は、第1に、最初の授業で「授業要綱」を配ってルールを説明します。その中に、私の授業に不満ないし疑問を持った場合の対処について書いてあります。

 「この授業について、根本的に間違っていると思う場合は大学と相談して下さい。根本的には肯定できるが部分的に改善してほしい点があるという場合は、アンケートに書くとか、小テストの際に書くとか、メールで伝えるとかして下さい」。

 第2に、今年もそうですが、授業内容ではなく、私の態度とかやり方とかの形式的な批判が出ることがあります。昨年から、「講師の話す口調がきつくて、怖い感じがする」という意見が出ています。

 こういう時は、全体の問題にします。アンケートの時に皆の意見を聞いた上で私見を述べます。今年も先日そうしたところです。

 第3に、親との話を奨励します。夏休みの宿題にはいつもの通り「親及び他の多くの人と話した上で、組織はトップで8割決まるという講師の考えについての自分の意見をまとめよ」というのを出しました。

 第4に、「言いやすい人にだけ言う」という卑劣な態度とか、根本を問題にしないで派生的な問題を論じる間違いとかは適宜、指摘します。

 教科通信を出しているからこそ、これも可能なのだと思います。

 次に親としての私、または地域社会の一員としての私はどうしているか。学校とのやりとりは自著などにも発表してきました。全体として、学校(主として校長)と関わるほど疑問が大きくなっています。かつて校長を訴えたこともあります。

 昨年度は自治会長をしましたので、又新たな事がありました。その一部は「私の自治会長」で報告しました。まだ決着が付いていない事もあります。その内、報告できるといいと思っています。

 (メルマガ「哲学の広場」2005年08月06日発行。ブログ「教育の広場」2009年05月30日に転載)

お断り
 ブログ「教育の広場」をやめて「マキペディア」に一本化しようとしています。

議論のない教育

2018年09月10日 | カ行
      
 「ハダカの学校」というメルマガがあります。題名から推察できますように、学校と教師を批判することを主目的にしているメルマガです。このメルマガの非民主的性格(自分に対する批判的意見は載せない)については本メルマガの第8号(まぐまぐでの配信日は2001年03月21日)に書きました。

 投稿がないと長い休んでいるようですが、最近は又々教師批判で盛り上がっているようです。次に2人の意見を引用します。

 第1の意見(女子中学生の意見です)

── 私は、今まで学校の校則を守ってきましたが、破ることに決意しました!「ハダカの学校」(241 ~ 243号)のおかあさんからのメールを見て、すごく感動しました。

 私の学校は、靴下の色・形・長さから、カサの色も決まっていて、個性の出せる場所がひとつもありません。

 このまえの掃除の時の話です。私は廊下の拭き掃除をやっていますが、長い制服のスカートがジャマで、スカートが汚れるし、拭きにくいし、つまずいて転ぶから、スカートを膝上程度に上げました。当たり前の行動だと思います。

 でも、それをみた担任の先生は「なにやってんだ! そのスカートは! 」と後ろからいきなり怒鳴ってきました。周りにいた友達は一斉に振り向いて、一瞬シーンとしました。

 びっくりして、足が震えたけど、ゆっくり「掃除のときにジャマだったので~」と説明しました。先生にはわかってもらえなかった。「でもここは学校だから、この校舎に入っている以上は制服をだらしなくすることは許しません」といわれた!もう、友達が見てるもおかまいなしに言い返した!

 「じゃー、スカートが汚れても、転んでも、膝下丈でしっかり掃除やれって言う意味ですね?」って言いました。
 「そんなこと言ってないじゃない。それに、掃除は膝丈でもできるでしょ。言い訳しないの!」
 「言い訳じゃないです。」

 こんな会話の後、先生は怒って帰っちゃいました(逃げた?)。

 何回か抗議はしたんですけどね ─- 。必ず逃げちゃうんです。「話にならん」って感じで。(←こっちのセりフだって!)

 校則を守ると、自分がダメになっちゃう気がするし、指示持ち族にもリモコンロボットにもなりたくない。よく友達が「校則は破るためにあるもんなんだ!」ってふざけて言うけど、その通りですね。

 学校は、「服装を自由にするとオシャレにエスカレートする」とか言ってるけど、掃除の時まで~っていうのは逆の意味での先生のエスカレートですよねえ。って後で思いました。 -

 第2の意見(元不登校で今は母親のようです)

 全国の大学、高校、専門、または予備校の先生方ヘ。

 言いたいことが山の様にあります。覚悟してくださいよ。ねえ。たまに良く耳にする言葉があるんですけど。あれは一体どういう了見なんですかっ。

 たとえば、「自分の説明がいいからだ」、「こんな問題も分からんのか」とか。「やな生徒(学生)」とか。まるで生徒、学生を馬鹿にしてません? それを聞いて呆れて物も言えませんですよ。情けないと思いませんかっ、大の大人がっ。

 はっきし言って、要りませんよ。そんなことばを言う先生なんか。だいたいな、あなた方は何の為に教飾をやってるんですか。「給料が良いから?」。ふざけるなっ。たいがいにしなさいよ!

 学生の親は高すぎる学校の学費を必死に働いて出してるんですからね。その代償として給料を貰ってるんですから。持ち逃げは、許しませんよっ。ちゃんと教師としての責任を果してください。只じゃないんですから。

 学生ときっちり向かい合ってください。逃げないことに挑戦して下さい。とくに、苦手な人は。お金でかたずけないでください。学生を褒めてあげてください。教師だということを自覚してください。

 皆、奇跡を持って生まれてきた人間ですから。学生にも可能性がある訳です。それを打ち切るような言い方で、馬鹿にしないで下さい。いいですね! 学生の将来も、勝手に能力差別で決めないで下さい。皆、同じじゃないんですから。

 まだ四の五の言うのなら、私は教飾を必要としません。時間の無駄ですから。教えてもらわなくても結構。自分でやります。元不登校者。─-

     感想

 このメルマガ(「ハダカの学校」)はこれをただ載せているだけですが、その後第1の意見を肯定するような別の母親の意見も載りました。これらの2つの意見を読んだ感想を箇条書きにします。

 第1に、これらの(元)生徒たちは未成年者であり、間違った教育(家庭教育と学校教育)の犠牲者ではあると思いました。ここで大切な点は、これらの2人のお粗末な考えは学校と教師のお粗末な教育の結果であるだけでなく、親のお粗末さの結果でもあるということです。

 これらの2人の生徒たちは自分の親の事に言及していませんが、親たちは「保護者」なのです。学校に子供をやる時、学校での事を、特に学校や教師に疑問をもったら親に相談するように、と言わなかったのでしょうか。多分、言わなかったのでしょう。ここには親と相談した形跡が全然ありません。そして、「ハダカの学校」の主催者もその点に注意していません。これでは困ります。

 第2に、それと関係していますが、この2人の方は自分が「直接」接した教師たちだけを批判していますが、その教師たちの言動が間違っていたとして、その間違いの本当の原因(校長、教育委員会、文部行政など)を考える姿勢がありません。その結果、こういう現実を是正するにはどうしたら好いのかも分からず、メルマガに投書して自己満足し、結果的には現状維持に貢献しているという訳です。

 私はよく学生にも言うのですが、目に見える事だけでいいなら学校に来て勉強する必要はない、目に見えないで頭で考えなければ分からない本当の事を考えられるようになるために学校にきて勉強しているのだ、ということです。

 そして第3に、これらと結びついているのですが、生活の中での個々の問題を教師(校長を含む)と親と生徒全員とでじっくり考えていく場も方法もないということです。しかるにこの話し合い(討論)こそ本当の教育の場であり方法なのです。

 日本の教育は1から9まで間違っているという私の持論を再確認する投書でした。

(最初はメルマガ「哲学のひろば」2004年05月20日。2度目はブログ「教育のひろば」2006年11月19日)


お断り・今、ブログ「教育のひろば」をやめて、「マキペディア」に一本化しようとしています。
 前者の残したいものだけは後者に移しています。

内容を生み出す形式の1例

2018年09月07日 | ナ行
    

 3年前(2004年)、私は引佐町の或る自治会の自治会長でした。引佐町には41の自治会があり、41人の自治会長がいました。年に4回の自治会長会議がありました。最初の2回(4月と7月)に出席してみて、「これは町長が自治会を押さえつけておくためのものだ」と感じました。自治会長同士が互いの問題を出し合って話し合うものだと思っていたのですが、違いました。

 そこで、第3回(12月)は変えようと思い、周囲の数人の自治会長と計らって改善提案を出しました。受け入れられました。

 その提案は2点ありました。第1に、机を学校の授業のように並べるのではなく、ロの字型に並べること、第2に、会議全体を2部に分けて、第1部は役場との協議とし、第2部は役場の人たちは退席してもらって、自治会長だけの会議とすること、です。

 その日の第2部は素晴らしかったです。皆が次から次へと発言しました。みんな、言いたい事が沢山あったのだな、と思いました。終わって会場から出てくる面々の顔は上気していました。提案した仲間とは「よかったねえ」と言い合いました。少したってから、会長(自治会長会の会長)に電話をした時、「引佐町に今まで、あんな活発な会議があったのか」と聞いたら、「あんなの、初めてだよ」との返事でした。

 内容的には何も決まらなかったのですが、机をロの字型に並べるのはその後も受け継がれました。自治会長会議を可能な限り週日の夜に開くべきだという提案は、その後部分的に実行されるようになりました。

 この経験は何を証明するかと言いますと、会議(これは個人の思考に対して「集団的思考」と言えます)のあり方(形式)は内容にとって大きな意味を持つということです。これを「内容を生み出す形式」と言うことも出来ると思います。

 さて、集団的思考は司会者で大きく3種に分けられると思います。司会者がいない議論、司会者が司会に専念する議論、司会者が発言もする議論、です。本ブログ(秋山ブログ)は大学のゼミと同じく第3の議論に入ると思います。

 このタイプでは司会者は時に発言者でもありますから、両方の役割をどう自覚的に使い分けるかが問題になります。私の経験では、大学教員を含めて、これの正しくできている人は少ないです。

 まず、ブログのあり方(形式)を決めるのは最終的に司会者(発行人)の義務と権利であることを確認する必要があると思います。

 この権限をどう使うかは、批判的な意見を抑圧する多くの校長とか社会主義国を一方の極端とし、どんな発言でも機械的に許す2チャンネルを他方の極端として、その中間に無数のあり方があります(外国はいざ知らず、日本の学校でも司会者は発言者を指名する機械に成り下がっていますが、これも後者です)。

 秋山さんの司会の方針は「なるべく介入しないように」といった言葉から伺えるように後者に近いと思います。しかし、これでは立ち行かなくなって、少し介入しようかと考えているところだと思います。理論的な根拠はともかくとして、「なるべく介入しない」といった考えではなく、「このブログの目的にはどういう司会が正しいか」という風に考えることを提案します。

 私自身、教師として、特に哲学の授業のやり方がなかなか分かりませんでした。こういう価値観的な要素を含む教科で議論中心の授業をどうやったらいいのか、分からなかったのです。

 今では、まず「授業の目的」を「自分の考えを自分にはっきりさせ、更に発展させること」と明記して、最初の授業で「この授業の目的を間違えるなよ。議論もするし、他者の意見を批判するのも自由だけれど、あくまでも最終目的は自分の考えを発展させることだということを忘れるなよ」と念を押します。

 第2は、授業のあり方(形式)について異論が出たとか、私が疑念を持った時にはそれをそれとして提案し、皆の意見を聞きます。日本人は口では言ってくれませんが、書いてもらえばたいてい正直に言ってくれます。それを教科通信に載せて、私の判断を伝えます。皆の意見を聞き、賛否両論を発表した上での結論なら、受け入れてくれます。というか、「授業のあり方については講師に最終的決定権がある」と最初に「授業要綱」に書いておきます。

 つまり、「正しい司会(形式)」を追求するようになると、困ったり間違えたりすることがあるのですが、それは自分の成長のための糧なのだと思います。誠意をもってやって、しかも情報を公開してやっていけば、たいていの人は理解してくれます。おかしな人は何パーセントかはいるものですから、それは気にしても仕方ないでしょう。

 具体例(例ですよ)を出しますと、小杉さんが、「このブログでは匿名は止めたらどうか」と発言していたと思います。これに対して秋山さんは「自分は実名派だ」と答えていました。しかし、これは「1発言者」としての振る舞いです。この時、「司会者」として振る舞い、「小杉さんの提案を皆さん、どう思いますか」と、いったん皆の意見を聞いてから、今までどおり自由にするとか、実名にするとか、規律を確認するというやり方もあったと思います。

 さて、miburoさんの牧野批判は、➀議論と無関係な事を書くことは間違い、②ほかに書くべき場所があるのだからそこに書くべし、の2点だと思います。

 ①は、一般的には言えないと思います。ブログのような単線的な場で一時にせよ特定のテーマ以外の事を出してはいけないとすると、多様な議論がしにくくなると思います。

 ②は一見もっともですが、これもブログの性格からして現実的ではないと思います。ブログでは誰でも、原則として、最新記事とそれのコメント欄しか見ないと思います。

 過去の記事のコメント欄への新たな書き込みがあった場合には発行人(司会者)がそれを知らせるようにすることも考えられますが、現実的ではないと思います。

 「コメント掲載の事前承認制」を取っていない秋山ブログでは、発行人にすら過去のコメント欄に黙って書き込まれた発言を知るのは難しいでしょう〔これは私の誤解でした〕。すると「オーナーへのメール」で一々知らせなければならなくなります。やはり現実的ではないでしょう。

 ついでに言及しますと、これは市役所のホームページでも同じで、この方はかなりの大問題です。「新着記事を知らせるメールを登録者に送る」ようにするか、「トップページの新着記事の欄にその日に新しく掲載された記事を箇条書きにして知らせる」ようにするかしてくれないと困ります。メルマガに1週間分の新着記事を知らせるコーナーを作るのも1つの手かもしれません。ともかく、自分でその箇所を見に行かなければ分からない現状は改善してほしいと思います。

 いずれ、市役所に言うつもりです。その前に、「市役所のホームページのあり方」というテーマで議論してもいいと思います。

 元に戻って、その後の秋山ブログの様子を見ていますと、私への「違和感」を2人の方が表明しました。

 これらの結果、「コメントを書くと何か言われるのではないか」と躊躇している方や、「あまり長いコメントはよそう」と考えるようになった方がいるように「感じ」ます。

 それやこれやで、何となく、このブログには元気がなくなってきて、「今日はどんなコメントがあるかな」と思って秋山ブログを開く楽しみが減少したように思います。これは大問題です。

 ですから、次の2大原則を確認するべきだと思います。
 第1に、原則としてコメントは最新記事のコメント欄に書く。
 第2に、自分の意見を表明するのに必要十分な長さの文を書いてよい。

 ただ、1つだけ改善案を出します。それは「コメントに番号を振る」という事です。

 「コメントを書き込む本人が自分で番号を入れる」のを原則として、「発行人がチェックして落ちている番号や間違っている番号は直す」ことにするといいと思います。

 このようにコメントの多いブログではどのコメントの事を言っているのか、参照してほしいのか、特定するのを容易にしておく必要があると思います。

 記事は年月日で特定できます。ですから、例えば「2007年09月25日C-15」とすれば、2007年09月25日の記事の15番目のコメントのことだと分かるわけです。

 たしか『論語』だったと思いますが、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉がありました。

 日本は「小人の国」のようで、協調性などという言葉を創り出して、和と同をわざわざ一緒くたにして、事実上「同」を押しつけています。その結果、日本は世界に冠たる「イジメ大国」になっています。

 こういう日本人とイジメ学校に満ち溢れている浜松で、これを少しでも変えようとしてがんばっている秋山ブログぐらいは「君子のブログ」であってほしいと思います。

 秋山さんのリーダーシップを期待します。

 付記

 1、これは2007年12月に秋山ブログへ寄せたコメントです。秋山さんというのは、そのブログの主宰者です。牧野のブログ『教育の広場』に載せておいたものを、今回ここに転載しました。
 2、「内容を生み出す形式」というのはヘーゲルの哲学観です。哲学は形式を問題にする学問だが、その形式とは内容に無関係な外面的な形式ではなく、「内容を生み出す形式」だというものです。では、それは例えばどういうものか、私の答えがこれです。
 あまり答えになっていないと思う方もいるでしょう。ずっと考え続けている問題です。近刊予定の『小論理学』(ヘーゲル著牧野紀之訳、未知谷)でもまた考えています。

独断論と不可知論(一例に適用してみる)

2018年09月06日 | タ行
      
  ここ2回の本メルマガで取り上げました田中正史著『?(なぜ)と!(びっくり)を見つけよう』(KKベストセラーズ、本体1800円。著者は中学の理科教師))の目玉の1つが、「育てて、解体して、食べる授業に賛成か反対か」の議論でした。その最後( 235頁)に田中教諭は締めくくってこう書いています。

-─ あなた達の意見を読んで、私はこう思いました。「考える」だけでは十分ではない。「考え続ける」ことが大切である。違う意見を聞いて、何度も何度も考えていくと、今まで思いもしなかったことが見えてくる。

 あなたの今の生活や将来の希望も、違った方向から見ると変わって見えるはずです。その違った方向を教えてくれる人や話をおろそかにしないでください。テスト問題と違って、生きていく中での問題には、明白な正解はありません。答えは、求めつづける中にある。と私は思います。─-

 ここには3つの事が書いてあると思います。

 ① 考える以上に考え続けることが大切である。
 ② 自分の考えと違う意見を聞いて又考える事は有益である。
 ③ テスト問題には明白な正解があるけれど、生きていく中での問題には明白な正解はない。

 こう整理すると色々な感想が浮かびます。

 第1に、①はそのまま肯定できると思います。

 第2に、②もそうでしょうけれど、これは大人、特に「偉い人」にこそ求められることだと思います。例えば小泉首相とか東京都教育委員会とかです。田中教諭にとって身近な例を出すならば、校長とか教師とかです。②だけ言って、誰に必要な事かを言わないのは片手落ちでしょう。

 第3に、③は大問題です。テスト問題には確かに「明白な正解」がありますが、その「正解」とやらは本当に「真理」でしょうか。それはなぜ「正解」とされているのでしょうか。教科書検定委員が「正解」と決めただけではないのでしょうか。田中教諭は教科書に書いてある事を本当に「真理」だと思って教えているのでしょうか。そうだとしたら、とんでもない間違いです。

 逆に、「生きていく中での問題」には、本当に「明白な正解」はないでしょうか。どうしてこんな事を断言できるのでしょうか。

 もしそうだとすると、テスト問題で扱っている事は「生きていくなかでの問題」と無関係だということになりますが、そんな下らない事をどうしてテストに出したりするのでしょうか。

 哲学を知らない田中教諭は独断論と不可知論の間を揺れ動いているようです。しかし、これは大多数の教師の考え方でもあると思います。こうなっている一因は哲学がこういう現実の問題を扱わず、しっかりした事を言わないからだと思います。

 私見を箇条書きにしておきます。

 1、人間の認識は何らかの意味で認識対象を反映している。その意味で「正しい」。

 2、しかし、その反映の正確さには度合いがあるから、「正しさ」にも程度がある。従って、正しいか否かの問題は何%正しいかの問題でしかない。

 3、しかし、所与の場合には真偽を分ける基準が決まっていて、それを境にして真偽に分かれる。つまり何%以上正しければ真理とされ、それ以下の認識は虚偽とされる、そういう基準がある。

 4、従って真理は相対的であり、歴史的である。これはどんな認識でも同じである。

 5、学校教師にとって大切な事は、自分の教えている事は決して絶対的真理ではないことを自覚しておくことである。それは教師個人の能力による部分と歴史的制約による部分との2つがある。

 6、換言するならば、学校で教えている事の8割は間違いである。今「真理」として教えられている事の内、何%の事が50年後の学校でそのまま「真理」として残っているか考えてみれば分かるであろう。

 その内のいくつかは完全な間違いとされているであろうし、残りの大部分もより正確な真理(理論)の1部分に格下げされているであろう。

 7、では、8割も間違っているのにそれを教えるのは間違いか。否、現在真理とされている事、自分が科学的に正しいと思う事を教えればよい。それ以外のやり方はない。それを絶対的真理と思い込まないことであり、「現在はそうなっている」と断って教えることであり、「自分と違った意見(生徒の意見)」を聞く耳を持つことである。

 個人によって変わる事柄については、私の哲学の授業のように、「自分の考えを自分にはっきりさせること」を授業の目的として断ればよい。しかし、それは「明白な正解がない」という不可知論ではない。正解があるからそれを求めて考えるのである。どんな正解でも歴史的な正解(その時点での正解)でしかないだけである。

 注・この小論文は、最初メルマガ『教育のひろば』第188号(2004年11月19日発行)に発表し、次いでブログ『教育のひろば』2005年6月28日号に転載したものです。そのブログを無くしたいと思い、今回さらにここに転載しました。少し加筆しました。

ラウンド制(集団での議論のやり方の1つ)

2018年09月05日 | ラ行
これは川喜多二郎氏のKJ法を手掛かりにして生まれた話し合いの方法です。

 まず、発言の順序をどうするかを決めておく。自由発言は一切認めない。あらかじめメモを作っておいて発言するのを原則とする。

 カードを配り、そのカードに書かれている番号順に意見を言うのも1つのやり方。出席者が円を作っている場合なら、左周りとかに決めても好い。

 第1ラウンドと第2ラウンドで発言の順序を変えても好いが、それは本質的な問題ではない。
 何ラウンド廻すかは時によるが、前もって決めておく。
 いずれにせよ、第1ラウンドと第2ラウンドとの間には10分位の休憩と言うか、考えをまとめる時間をおく。その時も、メモを作っておく事を奨励する。
 休憩時間中に発言してはならない。

 大切なことは、同一ラウンド内では、後の発言者は自分より前の発言者の意見について何かを言ってはならない。それは次のラウンドでのみ許される。

 ラウンド制の利点。
 ①言い合いがなく、激昂する事がない。
 ②全員に完全に発言権が保障される。
 ③口がうまく、押しの強い人が勝つような事がない。

 ラウンド制における採決はアンケート調査の別名でしかない。採決して結論を決める場合については、「議論の認識論」を参照。

注・ブログ『教育の広場』2012年2月1日号に載せたものを転載しました。少し加筆しました。