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「概念の価値の吟味」の現実的意味(東谷 啓吾)

2022年06月20日 | カ行
<はじめに>
 「マキペディア」の読者の皆様、はじめまして。東谷啓吾(ひがしたにけいご)と申します。
牧野先生のもとで2年ほど、認識論やドイツ語の勉強を集中的に行っていました。現在はドイツのハイデルベルグにて、歴史学や文献学、語学などの勉強を通じて「歴史認識の方法」を思想的に追究しています。牧野先生からの助言を得て、今月から「マキペディア」にて定期的に論文を発表させて頂くことになりました。最低でも月2回程度の頻度で投稿できるようにやっていきます。ご一読くだされば幸いです。

 今回は最初なので、自分の思想的行動の出発点を示せればと思い、書きました。甚だ序説的な文章で、議論の展開として不十分ではありますが、次回から具体的な観念論批判を発表していきたいと思います。コメント等頂ければ嬉しいです。よろしくお願いします。


 「概念の価値の吟味」の現実的意味

 今からおよそ200年ほど前にヘーゲルは、当時のドイツの学問界の状況・思想的潮流を念頭に置いて次のように否定的な態度を表している。曰く彼ら〔当時の大学教授や宗教家など〕は「どこからか持って来た既成の前提から出発し、本質と現象、根拠と帰結、原因と結果といった通常の思考規定を使って、あれこれの有限な諸関係に則ったありきたりの推理をして、真理の探究を企てる」(牧野訳『小論理学』未知谷、第二版への序文、119頁、2018年)と。そしてこうした傾向に対してヘーゲルは本当の意味での真理探究の仕方としての「哲学的態度」を対置して、以下のように述べる。
「哲学とは、あらゆる内容を結びつけ規定している思考規定〔概念〕の本性と価値に関する〔明確な〕意識をもって真理を探究するものです」(同上)。

 では、この「ありきたりの態度」とヘーゲルにとっての「哲学的態度」とはどのように異なっているのだろうか。「思考規定〔=概念〕の本性と価値に関する意識をもって真理を探究する」とはどういうことなのだろうか。今回は、人間の思考、即ち認識について考えることでその現実的意味、我々にとっての意味を考えていきたい。

 まず、認識主体である我々の目の前には無限に豊かで複雑な「現実」がひろがっている。人間にとってその「現実」をそのまま全部一気に扱うことは、能力の面からしても、扱う対象の広大さからしても絶対に不可能なので、その現実のある部分を言語などによって抽象して、反映させたところに一つの観念が生じることになる。この際に「現実」は、人間の意識とは無媒介に存在する「自然現象」と、人間の営みによって形成されていく「歴史的社会的現象」の二つに大別されるが、今回は後者に限定してその観念の領域を例示するとすれば、例えば、政治的な観念の水準(民主主義、国家等々)や法的な観念の水準(民法、刑罰等々)、宗教的な観念の水準(神、原罪等々)、経済的な観念の水準(商品、資本等々)など、様々な観念の水準が階層をなし、それら観念同士が入り混じって更に次の観念を、それがまた二重三重に混合されて次の観念を、というように一見しただけではとても分からない複雑な観念の体系が築かれていく。そして、我々は実際に普段、何気なくこのように観念を操作して思考し、日常的な生活を営んでいるのである。

 しかし、この時に注意しなければならないのが、今述べたように、どんな観念といえども現実の一部の反映であるから、現実が観念に反映する時には必ず現実の中のいくつかの側面が切り落とされるという事実である。つまり、いかなる観念も一面的であることを免れない。であるにもかかわらず、日本的「知識人」に典型的に現れているように、彼らは一面的に規定された定義や既成の観念を前提して、それでもって本質と現象を区別したり、根拠付けを行なったり、原因をうまく説明してくれるものの、そこでは人間の現実のごく一部を何ほどか歪んだ形で反映させている観念体系が整理されているだけで、それによって何らかの現象が説明されたとしても、それは現存の社会構造に対して無自覚的に肯定的であるということに過ぎない。しかも、無自覚であるからこそかえって、現存の社会関係におけるイデオロギー的な影響に無批判で、自分がそれにずぶずぶに浸かっていることに気づけない。こうして観念論が出来上がる。ここでの観念論とは主に「観念が現実との接点を失ったところで観念操作を行っている」ことを指しているが、多くの人が大学その他で「この講義は社会の現実から離れているのでは?」といった類の感覚を抱いたことがあるのではないだろうか。それが現実の一面から取り出した観念でしかないものを現実の全体かのように錯覚して振り回す無自覚的観念論者の姿である。こういう事例は特に社会学や政治学等々、「客観的」な学問を謳う人々に顕著に現れているのであるが、まさにヘーゲルが「ありきたりの態度」として否定的に取り上げていた意味は、こういうことである。200年たっても学問界はまだまだ然るべき認識論的水準に達していない。

 では、いかにしてその一面性を克服するか。観念が上に述べてきたような性格を持っている故に、すべての観念的営み、即ち認識は常に観念論におちいる危険をはらんでいると言える。したがってその克服のためには我々も常に観念論批判を続けなければならない。それはまず第一に、現実が観念に反映する時に切り捨てられる側面を自覚的に拾い上げていく作業、すなわち「観念批判」に他ならない。そして第二に、これがより重要なのだが、我々が生きていて、それを認識しようとする現実自体があらゆる類の矛盾や抑圧、差別や貧困構造などの歪みを含む総体なので、その与えられた現実から観念的操作だけをして合理的な観念体系、思想的営みを作り上げられると思うのは間違っている。観念批判のみで、既存の観念体系だけを対象として批判するのではだめで、既存の観念体系を生み出し支えている社会的現実に対して、その歪みの構造は何であるかを解明していく形で、批判的に切り込んでいく作業が必要なのである。これを「現実批判」とすると、これだけでは現実主義に落ちてしまう。大切なことは、この「観念批判」と「現実批判」の両者を一体した作業を通じて、闘うべき現実に対してどのように批判的に立ち向かうか、ということである。

 以上、図式的に述べてきたが、その闘うべき現実はそう簡単に整理して捉えられるものではなく、歴史的社会的に極めて複雑な形成過程を経て成り立っているものなので、例えばキリスト教という観念体系がここドイツでどのように影響を与えているかを見ようとするにも、いくつかの観念と現在の現実だけをみれば分かるなどというものでは絶対にない。そこには極めて高い歴史認識の方法に貫かれた「歴史意識」が必要である。したがって、「歴史意識」を根底とした「観念批判」と「現実批判」の往復、これが真に現実を認識してそこから変革の力を生み出す学問的認識であると考える。カール・マルクスが観念論的ブルジョワ経済学者に対して行った政治経済学批判や当時のドイツ社会民主党の綱領への批判などはそういう作業の一つと見ることが出来る。そして、ヘーゲルのいう「哲学的態度」即ち「概念の価値の吟味」とはこういう方向のことを指しているのではなかろうか。どれほど見事に人間の現実の一部分を観念の領域にすくい上げていったとしても、人間にはその一面だけしか表現できないという限りにおいてどうしても歪みの構造をはらんでしまう。そこで、この観念はどういう一面を切り取ってきたものなのか、その際どこが切りすてられたのか、全体の中で位置づけるとどうなるのか、といったことからはじまり、その歪みの構造は何であるかを解明していく、そういった作業が、そういった知のあり方が我々には求められているのではないだろうか。

 もうそろそろ一面的な観念を無自覚に前提して組み合わせるといった、少なくと200年前から現在まで続けられている(本当はもっと長いでしょう)知のあり方を超えなければならない。それでは、いつまでたっても我々の中から現実を革新して、本質的に歴史を動かしていく力は現れない。我々はヘーゲルのこの「概念の価値の吟味」とは何かを考え続けることによって、そういった力を養っていく場になる必要がある。今の日本の社会では残念ながら、以上のような知のあり方や歴史を変革していく力について、日常ゆっくり反省し語り合う場がほとんどない。これは一人一人自分で注意していれば事足りるといったようなことではなく、そこに行けば常にその問題が語られている、という場が必要なのである。そういう人々が集まることによって、遠くは歴史を革新していく力が生み出されるのであるから。

  2022年6月20日
   東谷 啓吾

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