マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

コロナウイルスと戦う方法(第4版)

2020年06月21日 | カ行
     コロナウイルスと戦う方法(第4版)

 NHKがようやく「温冷浴」を取り上げましたので、第4版を書きます。皆さんのご意見を歓迎します。

A・君子危うきに近寄らず──「三十六計逃げるにしかず」といいますか、消極的な態度ではあります。
 Aの1──手洗い
 Aの2──マスク
 Aの3──外出をしない。3密を避ける。

B・攻撃は最大の防御である──主体の生命力(抵抗力、免疫力)を高めて、ウイルスを撃退する積極的な態度

 Bの1──免疫力を高める食事を取る。ananとかいう雑誌でも特集してますし、こういうレシピをまとめたシェフ達もいるようです。説明不要でしょう。

 Bの2──『歩くだけでウイルス感染に勝てる』という本も山と渓谷社から出たようです。これが分かれば、外出の自粛とやらは、無条件には認められないことが、分かるでしょう。他者と接触しないようにジョギングをするのはむしろ奨励されるべきです。

 Bの3──温冷浴。NHKのは「お風呂をいただきます」とかいったふざけた番組で取り上げていましたので不十分でした。出てきた医者(医学博士?)もおかしな人で、「最後はお湯で出る」などという珍説を述べていました。まあ、そういう説もあるのでしょう。

 しかし、温冷浴を言うなら、その最初の提唱者である西勝造と西式健康法に触れないのは公正とは言えないでしょう。

 西式の基本は、冷ー温ー冷ー温ー冷ー温ー冷、と1分間ずつ入るものです。冷浴は18度前後、温浴は40度前後です。冬は最初の冷浴は省いても構いませんが、「最後の冷浴は絶対」です。そもそも最後の冷浴は冬でも辛くありません。(自宅では、冷浴にはシャワーを使います)

 私の周りの人たちは、「これを始めたら、風邪を引く回数が半減した」とか「何をしても利かなかった小児ゼンソクの症状が軽くなった」とか喜んでいます。

 サウナ温冷浴について言いますと、私は、「80度以上のサウナを10分と17度くらいの冷浴を2分間」、これを2セットやります。或る人が朝日で、「自分の経験からの結論」として紹介してくれたものを私なりに修正したものです。その人は「110度のサウナ」と言っていましたが、それほどのサウナは知りません。

 NHKの「趣味どき」とかいう番組では、この間「銭湯」を特集していましたが、その時に出てきた或る浴場のサウナの入り方では冷浴の後に外気浴があるようです。驚きました。
 まあ、皆さん、「自分の温冷浴」を実践してください。

 Bの4──座禅、断食
 私は断食道場に行ったことはありませんが、自分で三日間の断食をしたことはあります。胃潰瘍のためですが、後で西式の先生に聞いた所では「胃潰瘍に断食は適当でない」とのことでした。実際、効果はありませんでした。しかし、免疫力は高めるだろうと推測します。
 伊豆のどこかに断食道場があるようで、NHKの「72時間」とかいう番組で取り上げていたのを見たことがあります。皆、いい顔をしていました。

 座禅も、多分、免疫力を高めると思います。昔、新年を期して座禅をやってみようとした最初の時です。夕方から始まったのですが、「こんなに寒いのだから、部屋には暖房があるのだろうな」と思って行きました。手続きをして、コートを脱いで、道場に入りました。暖房は何もありませんでした。しかし、45分を2回座るのですが、座っている間は、全然寒くありませんでした。逆に、コートを着て外に出て、駅まで歩き始めたら、ガタガタ震えて止まりませんでした。不思議な物です。

 私は、残念ながら、冷え性で、指先が冷たくなることがありますが、座禅をすると、しばらくして指先まで血が巡ってきて、暖かくなるのが分かります。

 しかし、ここに挙げた断食と座禅は、時間が掛かりすぎます。クルーズ船でなら、これが最適でしょう。

 Bの5──最後に乾布摩擦です。これの好い所は、何と言っても、コストパフォーマンスが最高に好いことです。用意する物はタオル1夲です。所要時間は1分間で、1日に何度でもできます。
 それに、ワクチンのように、それでかえって病気になるという危険がゼロです。ワクチンで病気になったら、治りません。乾布摩擦は「百益あって、害は一つもありません」。
 正直に言って、私は今回のコロナ騒ぎの間中、いつもと何一つ変わらない生活で通しました。皆さんの幸福を祈ります。

付記
 余計なお節介ですが、「乾布摩擦で子供の病気の八割は予防できる」という事をお伝えしたいと思います。これは我が家での三人の子供での成功と失敗の経験に基づいています。子供の病気は親にとって本当に辛い事ですが、朝子供が起きて、パジャマからシャツに着替えをさせる時、一時裸になります。その時に胸を十回、背中も十回、ゴシゴシとやればよいのです。1分もかかりません。これで子供の病気の八割はなくせると思います。

関連項目・健康法


言論の自由を考える

2020年06月11日 | カ行
            言論の自由を考える

 1、朝日新聞の記事
  [朝日の付けた題は『「正しさの暴力」自分にも』でした)

 電話は鳴りっばなし。受話器を取った職員は「名前をさらすぞ」などと脅される。

 昨年8月、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の事務局には脅迫や抗議が殺到していた。慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品が反発を招いた。

 出展者の一人で演出家の高山明(50)は、職員の疲弊を知り、参加アーティストが自ら電話を受ける「Jアート・コールセンター」を立ち上げた。約30人が交代で電話を受け続けた。

 高山は長くドイツで活動してきた。国際芸術祭「ドクメンタ」では、社会性、政治性の強い作品が並ぶ。ヒトラー政権下の言論弾圧に対する反省から、「小さな声こそ社会を健全に保つために必要」との考えが社会にあるのだという。

 日本では、公金を使う芸術祭なら、多くの共感を呼ぶ作品を展示すべきだと考える人がたくさんいた。だが、公金を使うからこそ少数者の声をアーティストはかたちにしていくべきだ、と高山は考える。

 「一人ひとりが自由に声を発していい、という権利を職業として実践するのがアーティスト。自分の思ったこと、やりたいことを表現し続けることが、いまの日本社会における我々の役割だと思う」

 白分とは異なる考えの人たちに意見もぶつけ、聞いてみたい。コールセンターをつくったのには、そんな思いがあった。直接話せば、相互理解も生まれるのでは、との期待もあった。

 ただ、考えは甘かった。

 「天皇陛下についてどう思う」 「少女像を公金で展示するなんて言語道断」。電話口の声は怒りに震え、泣いているような人もいた。自分の意見を言ってはみたが、対話は成立しない。自分がいかに「通じる人」だけとコミュニケーションをしてきたかを痛感した。「これは無理だ」。とにかく聞くことにした。

 昭和天皇の肖像を扱った作品に抗議した高齢の女性がいた。
 「あなただって正月に初詣に行くでしょう。私としてはそういうもの」

 崇拝や信仰とは違う、内面を傷つけられた気持ちになったと訴えていた。「少なくとも彼女がそう感じたことに、耳を傾けるべきだと思った」

一方で、時には3時間も話していると、だんだん相手を説き伏せたくなっている自分に気がついた。「自分は正しい、自分の考えに同化させたい。そんな『正しさの暴力』のようなものを、自分だって持っているじゃないか」

 相手を同化させようという欲望は、極まれば異なる者を暴力で排除してしまおうという思想につながる。「正しさ」をいかに疑うことができるか。それがいまアートや表現が取り組むべき問題なのではないか。高山はそう感じている。

 「彼らも自分が正しいと思っている。僕も思っていたりする。永遠に平行線。でも大切なのは意見を一致させることではなく、異なる声があるということを受け入れること、それをこそ死守するという姿勢ではないか」(朝日、2020年5月20日、石田貴子)

 2、牧野の感想

 かつて一緒に勉強した仲間の立派な活躍を知るのは嬉しい事です。だからこそ、この問題に付いての私見を箇条書きにします。

 ➀ 民主的な社会では「言論の自由」は最大限保障されるべきだと思います。

 ➁ では「言論の自由」とはどういうことでしょうか。それは「間違った事を言っても罰せられない」ということです。「或る人Aの言や行動は間違っている」と他者Bが「思った」時、BはAを言論で批判するのは自由ですが、言論以外の力を使って自説をAに強要してはならない、ということです。

 なぜなら、人間には絶対的真理は分からないからであり、その自説の方が間違っているかもしれないからです。いや、たとえその「自説」が「部分的真理」であっても、もっと大きな観点から見れば、全体的真実ではないかもしれないからです。(注・部分的真理と全体的真実との異同については、近日中に書きます)

 要するに、どちらの側も、自分の考えの主張において、暴力や脅しはもちろんの事、泣き落としのような態度も避けるべきだということです。

 ➁ この観点から今回の問題を考えますと、最も残念だった事は、名古屋市長が、自説を表明したのは自由ですが、批判派に対して「言論で冷静に発言して欲しい」という注意を言わなかった点です。

 この問題を更に大きく考えますと、日本では、学校教育において討論が少なく、その練習が意識的に為されているとは言えないという事です。

 特に国語の授業では先生の解釈に対して納得出来ない生徒が異論を言うことは、かなりの頻度で、在るのではないでしょうか。では、そういう場合、先生はどのように対処するべきでしょうか。

 こういう点について、職員会議で話し合って、何らかの申し合わせをしている学校がどれだけあるでしょうか。多分、ゼロか、それに近い数字でしょう。これが問題だと、私は思うのです。

 家庭でも、学校でも、意見の違う人と話し合うのはなぜ必要か、そのためには各人はどういう事に気をつけなければならないか、といった事がほとんど話し合われていないのです。例外は、多分、私の哲学の授業だけでしょう(失笑)。

 今からでも遅くありませんから、志のある先生はこの現実を改革するように動いて欲しいと思います。

 参考項目・「議論の認識論」