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国語辞典はこれでいいのか(三訂版)

2019年01月19日 | カ行
   国語辞典はこれでいいのか(三訂版)

 岩波書店が『広辞苑』の第7版を出して以降、ものすごい広告を張り続けています。「広辞苑大学」などというものも、どんな大学か知りませんが、開校したようです。朝日新聞紙上でのその狂騒を見る度に、「さすがの岩波も、紙の辞典の売れなくなっている時代に危機感を抱いたのか」との感慨を禁じえません。

 また、先日はNHKTVの「プロフェッショナル」という番組で、辞書編集者を取り上げていました。

 しかし、私は、これだけの情熱を以て辞書(ここでは一応、日本語の「国語辞典」だけを問題にします)の改善に取り組んでいる人たちがいるのに、実際の辞書は日本語の現実の問題に答えていないと思います。なんだかその活動はピントが狂っているのではないかという印象を持っています。

 彼らは第1には、あまりにも語釈にばかり意識を集中しすぎていると思います。辞書編集者を題材にして書かれた小説『舟を編む』に出てくる辞書編集者も、語釈をどうするかばかり論じていました。最新の『広辞苑』でも「間違い」とやらが話題になったのものが2つありましたが、いずれも語釈の間違いでした。第2には、世間の関心も編集者のそれも辞書で取り上げるべき新語に集中するのは必ずしも悪いとは言いませんが、取り上げるべき「新語」の基準が間違っているとも思うのです。

 そこで、これまでにも本ブログで取り上げてきた問題も含めて、日本語の「語句」についての問題点を整理しておくことにしました。日本語の「文法」にも問題はあると思います。その根本は、文法(現代語文法)の全領域をカバーしたものは中学の国語の時間で教えられる橋本文法以外にはない(らしい)という事にあると思います。「研究は常に研究対象の全体を見ながら進めなければならない」のです。日本語文法でも個々の点については優れた提案があるようですが、「日本語文法」と題する著書を公刊する蛮勇を持っている人はいないようです(私は知りません)。外国人に日本語を教える人はたくさんいるようですが、どうなさっているのでしょうか。

 文法はさておき、今回は「辞書」の問題をまとめます。たくさんの辞書が出ていますが、実例としては大修館書店の『明鏡国語辞典』を主として取り上げます。他の辞書で私見を補充する、あるいは反証する実例がありましたら、教えてください。私一人でこのような大きなテーマを扱いきれるとは思っていませんし、その気もありませんし、すべての辞書を揃える余裕もありません。

  小目次

  A・用法
その1・他方
その2・お話を聞く
その3・~に注目です
その4・~を決める
その5・下り坂に向かう
その6・立ち居振る舞い
その7・すごい

  B・重言
その1、ひしめき合う
その2・注目を集める(→Aのその3)

  C・語釈
その1・冷笑
その2・皮肉
その3・募金
その4・王道

  D・意味を曖昧にする新語
その1・事実関係
その2・方向性
その3・方法論

  E・発音(漢字の読み方、アクセント)
その1・七
その2・大地震
その2・市場
その3・他人事
その4・本性

付録1・アクセントについて
付録2・サ変動詞の上一段化
付録3・手皿

   A・用法

 ここで「用法」とは「他の語句との関係」のことです。「まとまった言い方を変更する言い方」も含めます。

その1・他方
 第1に問題にしたいのは、「他方」という語が死語になりつつある、という事実です。どうもこの事実に気付いている人がほとんどいないようなのです。「一方」と「他方」は対比を表す最も基本的な用語です。思考の根本が、弁証法の説くように、「対立した事柄の統一」であるならば、この「対比」を表す語は絶対になくしてはならないものであるはずです。それなのに、「他方」が「一方」で取って代わられたり、使われなくなったりしているのです。しかも、これに気付いて警告している辞書がない(私は知りません)のです。最低です。

 用例を挙げます。

 1-1、日本アンチ・ドーピング機構の浅川伸専務理事によると、コンタクトレンズの保存液が原因で、アセタゾラミドが検出され、ドーピング違反が問われたケースは聞いたことがないという。一方で、使っている点眼薬に禁止薬物が含まれ、ドーピング検査で陽性を示したケースは日本でもあった。(朝日、2018年3月2日)
 1-2、北朝鮮の脅威を除くための外交の試みは20年余りの経緯がある。核やミサイルの開発を許した失敗の歴史にすぎないとの見方がある。一方で成功に至る好機はあったという見方もある。(朝日、2018年03月08日。天声人語)
 1-3、(自動翻訳機の発達で)日本人が苦労してきた「英語の壁」は低く成りつつある。一方で、英語が再来年度から小学校の教科になり、大学入試の英語も変革期にある。(朝日、2018年04月19日、編集委員・山脇岳志)

 感想・自動翻訳機の発展に驚嘆したことを報告している筆者は「現在最高のそれは、英語検定のTOEICで900点を取るビジネスマンと同等以上の和文英訳の能力がある」という話を聞いてきたそうです。では、その優れた翻訳機がこの引用文を訳したら、「一方で」の部分をどう訳すのでしょうか。文脈を理解して、「ここは本当は『他方』というべきところだから」と判断して、on the other handと訳すのでしょうか。それとも「原文に忠実に」on the one handとするのでしょうか。自動翻訳機もいいですが、それと同時に新聞記者の文章や国語辞典の語釈や見落としを校正する「自動校正機」も発達してほしいものです。

 教育問題を中心にして大活躍の斎藤孝の『使う哲学』(KKベストセラーズ)の中に次の用例がありました。

  1-4、ドイツの哲人イマヌエル・カントは「定言命法」を説きました。定言命法とはカントが考えた道徳の原理で、「~すべきだ」「~せよ」という正しい行ないについての無条件の義務のことです。~
 一方、誰もが納得する法則って何だろう、そんなことは決められない、それに、どうしたって、そのときどきの状況によって、できることとできないことがある。(略)」(27頁)
  1-5、 オーストリア生まれのイギリスの哲学者、カール・ポパー(1902年~1994年)は科学は反証可能性が大事であると言い、マルクス主義を批判しました。反証可能性とは、仮説や命題などが実験や観察によって間違っていると証明される可能性のことで、ポパーは間違いであることを証明できる可能性があるもののみを科学と考えました。~
 一方、たとえば、三角形の内角の和は180度であることになっていますが、これに対しては「間違いである」と反証できる可能性はあります。実際には、今に至るまで、平面上では三角形の内角の和は180度とされ、反証されていませんが、反証される可能性はあります。となると、「三角形の内角の和は180度である」ことは科学といえます。(67頁)

 感想・実際、こういう模範を示すべき人が疑問の残る用語を使っているのですから、事態は深刻です。

 では、次の用例に進みましょう。
 1-6、崔(チェ)氏は昨年10月、モスクワで一部記者団に、対話による核問題や米朝関係の解決を訴える一方、「(米国は)最大の圧力を加えて、我々が核を手放すように強要している」と批判した。(朝日、2018年03月08日夕刊、ソウル=牧野愛博)
 1-7、野田政権は「30年代原発ゼロ」に舵を切る一方、使用済み燃料については当面、再処理を続ける方向で調整に入っていた。(朝日、2018年04月22日。関根慎一)
 感想・このように「一方」ないし「一方で」を「前の文の最後に」付ける言い方の場合は、これで自然だと思います。文頭に置かなかったので、文末に置いただけと考えるべきでしょう。いったん句点で文を切った後に、次の文で「一方で」と始めるのが、昔は無かった(らしい)のに、今では当たり前になってしまったのが問題なのです。それはこのように「前文の最後に付ける言い方の影響もあったのかもしれません。

 以上の私見に対しては、「もう一方」というのを短縮して「一方」と言っているだけだ、という反論が考えられます。私も、ここで「一方」と言うのは、前に「一方」という語が出ていない状況だから、「他方」と言うのはどうかなと感じて、「もう一方」ないし「その一方」という意味で「一方」と言ったのが始まりで、それが、今では「他方」などという言葉は忘れられてしまったのだとも思います。

 1-8、英国のEUからの離脱が決まってから2年になる。メイ政権は国内政治に手一杯で、煮え切らない英政府にEUがしびれを切らすという構図は続く。その一方、欧州全体が米国やロシアの問題に直面していて、離脱どころではなくなっている。(中日新聞、2018年6月23日)
 1-9、 改革開放から40年、今月18日の記念式典で習主席が行った重要講話で、中国は引き続き発展を追求していくことが確認された。インフラ整備による大経済圏の構築、若者がリードする大衆娯楽やW杯で見られた消費はダイナミックで、中国経済にはまだまだ勢いがある。
 その一方で、米中貿易摩擦がもたらすマイナス要因に人々は不安を感じ、消費傾向の変化に敏感になっている。今年選ばれた言葉からは、躍動する社会の中で様々な問題を抱えながら生きている人たちの姿が浮かんでくる。来年はどんな言葉が生まれるのだろうか。(西本紫乃)
 感想・しかし、やはり本来は、ここには「他方」が最適だと思います。

 1-10、委員には多くの有能な方に参加して頂きたいと思っていますが、他方、実際には~(2018年03月02日、薬師寺みちよさんの質問に対する安倍総理の国会答弁から)
 感想・ラジオでたまたま聞いていただけなので、「実際には」以下の言葉は「女性の適任者が多くない」といった趣旨ではなかったかと思いますが、はっきりとは分かりません。しかし、最近では珍しく、本当に珍しく、「他方」という語を正しく使ったので記録しました。この点だけは安倍総理を評価します。
1-11、近年アフリカにおいて、国連平和維持活動(PKO)の施設整備や通信の能力強化の取り組みとして実績をあげてきた三角パートナーシップが、アジア、医療分野へ拡大する。(略)開発途上国の中には、要員を派遣できても、装備品の準備や要員の訓練が不十分な国々がある。(略)他方、私が勤務した東ティモ-ルをはじめ、ハイチや南スーダンでも自衛隊は道路の修復や人々の生活再建支援などで活躍してきた。(朝日、2019,01,10。伊藤孝一・国連上席企画官)
 1-12、定義だけで言えば、皇室の公的活動や皇居の維持などに当てられる宮廷費は公金扱いで宮内庁が管理する。1989年度は昭和天皇の武蔵野陵建造もあって約45億円だった。他方、天皇、皇族方の日常費用や毎年の新嘗祭(にいなめさい)などに使われる内廷費は公金ではない御手元金(おてもときん)とされ宮内庁の管理も受けない。(朝日、2019年01月20日。編集委員・曽我豪「日曜に想う」)
 感想・これらの「他方」が本来の使い方だと思います。

 では、この事実を辞書はどう扱っているでしょうか。

 『広辞苑』の第7版はその「序」の9頁で「語義や語法説明の精密さ」と自慢しています(笑)が、「他方」はこう説明しています。

 ①他の方向、他の方面。「~の言い分」「~からの視点」
 ②一方では。別の面から見ると。「頑固だが、~実直である」
 『明鏡』の説明はこうです。
 ⑴(名詞)ほかの方面・方向。また、二つのうちのもう一方。「一方を青く、他方を赤く塗る」⑵(副詞)別の面から見ると、(もう)一方では。

 感想・私見では、「他方」を説明するならば、「一方」と対になる語である事をまず書く。そして、用例を挙げる。「死の念は、一方においては、人の考えをこの固定した生命の有限を超えさせ、他方においては、日常生活を真面目に考えさせるように引き締める」(鈴木大拙『禅と日本文化』北川訳岩波新書49頁)。
 次いで、「一方」の代わりに「他方」を使うのが当たり前になっている現状を確認し、それは間違いであると主張する。「一方」の項には上の用例1-5、1-6のような使い方もあることを説明する。
 明鏡で「一方」を引くと、これは②で説明してあります。が、その明鏡も「純粋な他方」の代わりに「一方」が使われている事実には気づいていないようです。
 結論として、「他方」と言うべき所を「一方」という言い方には絶対に賛成できません。これでは物事を対立で考える弁証法が不明確になります。しかし、今や「他方」は死語同然です。「他方」という語を正しく使っている例は探すのが大変です。

 そうそう思い出した事があります。「大地震」の読み方についてです。NHKではこれを「おおじしん」と読むように決めているそうです。何かの放送で聞いた覚えがあります。
 その他の点でも、NHKには「放送文化研究所」みたいなところがあって、言葉の研究をしているはずです。その部署に属する人が放送の中で出てきて、今関心を持って調べている事について発言することがあります。そのこと自体は良いことだと思うのですが、私見では、そこで取り上げる問題がどうもあまり重要でない事が多いように思います。自分の関心と離れていると「重要でない」と言うのも気が引けますが、私の問題にしている点は、やはり常識的にみて重要な事だと思いますが、どうでしょうか。

その2・お話を聞く

 「お話を聞く」という言い方は頻繁に耳にします。NHKのアナウンサーでも平気で使っています。私見によれば、「お話を」と言ったら後は「伺う」と受けるべきでしょう。逆に「聞く」と言うならば前は「話を聞く」だと思います。こういう事を教えるのは辞書の仕事ではなく、文法書の仕事かもしれません。

付記・NHKの雑誌『ラジオ深夜便』2018年8月号にはこの2種類の用例が共にありました。
 1-1、まさか約40年後、こんなにすてきなお話が聞けるとは……(58頁。遠藤ふき子アンカー)
 1-2、老いや死は誰もが必ず向き合う世界、お話を伺っていて、……(113頁。石澤典夫アンカー)
 (以上、2018年07月23日)

その3・~に注目です

 「~に注目です」という言い方はいつ頃から、どのようにして出てきたのでしょうか。今では全然違和感なく使われています。しかし、「注目」で『明鏡』を見てみますと、その品詞は「名詞、自動詞、他動詞、サ変動詞」とあります。ここで問題になってくる「~に注目です」はもちろん名詞としての「注目」の1つの用法でしょう。ではそれはどういう用法なのでしょうか。他の名詞で同じように使われるものがあるのでしょうか。
 それはともかく、「~に注目です」という所は、昔ならどう言ったでしょうか。「~に注目しましょう」くらいでしょうか。「~に注目するとよいでしょう」とか「~に注目するべきでしょう」は強すぎるでしょう。
 そうこうするうちに、「とりわけ注目なのが~」という言葉を聞きました。やはり「注目だ」という形容動詞が生まれていると考えるべきなのでしょうか。

 注・そもそも「注目を集める」という言い方が今では完全に定着していますが、本来は、これは重言だと思います。しかし、『明鏡』は「不適切な重言ではない」としています。これについては既に~に書きました。

その4・~を決める

 「決める」の前に置く助詞には「~を決める」「~と決める」「~に決める」の三つがあると思います。しかし、いつごろからかはっきりとは知りませんが、かなり前から、ほとんどの場合に「~を決める」が使われるようになってきているように思います。
 『明鏡』を見ますと、私の問題にしているようなことには関心がないようです。しかし、この問題は2009年05月19日に書きましたので、繰り返しません。
 と、書いたら、次の用例に出くわしました。

 4-1、トルコ大統領選で再選を決めたエルドアン大統領は~(朝日、2018年06月25日夕刊、アンカラ渡辺丘)
 4-2、トルコ大統領選は24日、即日開票され、~エルドアン大統領が再選を果たした。(朝日、2018年06月26日、イスタンブール其山史晃)
 感想・後者の方が日本語らしいと思いますが、偏見でしょうか。ともかく、少し嬉しかったです。「~は決勝進出を果たした」という言葉をたまには聞きたいものです。

その5・下り坂に向かう

 テレビでもラジオでも同じですが、天気予報を聞いていますと、「天気は下り坂です」という言い方のほかに、「天気は下り坂に向かっています」という言い方が使われていることが分かります。後者の方が多くなってきているとさえ感じます。これでいいのでしょうか。
『明鏡』の編集者である碩学先生はこのような問題は歯牙にもかけないようです。いや、お気づきでないようです。この問題は2006年10月21日に書きました。

その6・立ち居振る舞い

 これは「用法」ではなく、二つの表現法ですが、ここに入れます。すなわち、「立ち居振る舞い」には「立ち振る舞い」という「居」を除いた表現もあるらしいということです。意味はおなじですから、辞書もそう書いていますが、問題はどちらからどちらがなぜ、あるいはどういう経過で出てきたのか、という起源の問題です。明鏡にはそういう事は書いてありません。分からないなら、「起源がどちらかは分からない」と書くべきでしょう。黙っているのは学問ではないと思います。

その7・すごい

 多くの人が気付いていると思いますが、程度のはなはだしいことの表現に「すごく」ではなく「すごい」が使われています。今や、この「間違った」使い方は9割以上の場合と言ってもよいくらいです。
 鈍感な国語辞典編集者もさすがにこれは気付いていまして、明鏡をみますと、「すごい」の項目に、「話し言葉では『すごい』を『すごく』と同じように連用修飾に使うことがある」と書いてあります。
 なぜ、いつ頃からこのような事が起きたのでしょうか。国語辞典はこの現象をただ記載するだけでよいのでしょうか。私は、「これは間違いだから、止めましょう」と提案するくらいの見識があっても好いと思います。 

   B・重言

その1、ひしめき合う

 「犇めく」で済むところを「犇めき合う」という言い方が多くなっていると思います。つい最近も、次の例を見ました。
 01、新宿駅は利用者数国内1位の座を守り続けるが、1番線から16番線までひしめき合う線路が街の東西を分断。(朝日、2018年6月11日夕刊。細沢礼輝)
 感想・「ひしめく」は漢字で書けば「犇めく」となります。牛が3頭集まっているわけで、これだけで既に「合う」は表現されているのではないでしょうか。『明鏡』には「大勢の人が一か所に集まって互いに押し合うようにする」という語釈があるだけです。「人」に限らず「他の物事」についても転用される、と書くとよかったでしょうが、今言いたいことは「犇めき合う」という重言が一般化しつつあることに気づいていないらしいことです。
 なお、学研の『国語大辞典」には語釈の第一に「ぎしぎしと音がする」を挙げています。3頭の牛が角を突き合わせるとそういう音がするのでしょうか。私はこの意味で「犇めく」を使った文に出会ったことがありません。

その2・「注目を集める」については上に言及しました。

   C・語釈

その1・冷笑
 ウルマンの詩「青春」の最後の方に When the aerials are down, and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism という句があります。ネットで和訳を調べてみたら、新井満訳と岡田義夫訳と作山宗久訳の3つがありました。cynicismの部分を、それぞれ、「雪のように冷たい皮肉」「皮肉の厚氷」「皮肉の雪」と訳していました。
 日本語では「シニシズム」を「皮肉」と訳すのが常態化していると思います。新井満でさえこう訳すのですから。私は前からこれの不当性を主張してきました。2006年12月09日にあります。
そこに書き落したことを追加します。①冷笑は英語ではcynicism、仏語ではcynisme、独語ではZinismusですが、この語の起源である古代ギリシャのキュニク派のことは英語ではCynics、仏語ではcynique、独語ではZynikerです。語源が良くわかります。
 ② 西欧の人もcynicをironicalという意味で使ったりすることがあるのでしょうか。英和、仏和、独和辞典にはここに「皮肉な」という訳語が載っています。
 ここで再度、論じます。
 皮肉の本質をとてもよく表現したのが次の川柳だと思います。「本降りになって出てゆく雨宿り」です。つまり「良かれと思ってしたことが逆の結果となってしまう」こと、これが皮肉の正体です。「ソクラテスの皮肉」というのも、相手を「知者」と認めて対話を始めますが、その結果、相手は自分が無知者であることを認めることになるというものです。
 ③『明鏡』の説明は、「人をさげすんで笑うこと」とあります。これでは説明不足です。「誰もが尊重するような事柄を」という限定が落ちています。

その2・皮肉

 皮肉については2007年06月29日の記事で私見をまとめました。しかし、「皮肉」の乱用は本当にひどいものです。しかも、辞書がこれに警告を発していないのですから、希望がありません。
 最近も、次の用例に出会いました。
 1、年齢を重ねると、見えるものが多くなる。でも、それを語り合う知己が次々と世を去っていく。この皮肉が、言いようもなく寂しい。(山藤章二。朝日、2018,04,16)
 感想・「見える物事が多くなるのに反比例してそれを語り合う知己が減少する」というのですから、一見「皮肉」のようですが、どうでしょうか。まあ、これくらいなら「あり」かな?

 2、ウクライナ保安局(SBU)は5月30日、首都キエフで隣国ロシアのプーチン政権を批判したロシア人記者が射殺されたと報道された事件が、実は同局による偽装で、記者は殺されていなかったと明らかにした。殺人事件を装ったおとり捜査の一環だったとし、これによって実際に記者殺害を計画していた関係者の拘束に成功したと発表した。(略)
 SBUによると、バプチェンコ氏に対する殺害計画があるのをSBUが探知。バプチェンコ氏本人に協力を求め、29日夕に本当に殺害事件が起きたかのように見せかけて関係者のあぶり出しを図ったという。
 「事件」では、バプチェンコ氏が自宅近くで血まみれになっているのを妻が発見し、病院へ搬送される途中で死亡したとされ、各国メディアが報道した。
 フリツァク長官は、おとり捜査によって拘束された人物はウクライナ国民で、「ロシア治安機関に3万㌦(約326万円)で雇われていた」と話した。ロシア外務省は30日夜、「反ロシアの挑発行為だ」とする声明を発表。「ウクライナ当局は自国で本当に起きている犯罪は捜査せず、代わりにやらせの殺人事件をやってみせるくらいしか能力を示す道がないのだ」と皮肉った。(モスクワ=喜田尚。朝日2018年05月31日夕刊))

 感想・これのどこが「皮肉」なのでしょうか。「皮肉」でないとしたら、これは何と評したらよいのでしょうか。私案は、「~と負け惜しみを言った」ですが、「強がってみせた」、「嫌味を言った」、「あてこすった」などを考えましたが、どれも適当でないと思います。皆さんはどう思いますか。こういう具体例で考えないと、言語感覚は鍛えられないと思います。ともかく「皮肉」はかくも不正確に乱用されているのです。それなのに辞書編集者自身がそれに気付いていないのです。世も末です。 

その3・募金

 1、しかし、奨学金を支える募金(1) は年々減少。2011年の約3億6600万円をピークに17年は約1億8100万円にまで半減した。寄付を募る(2) ボランティアの不足も続く。募金活動(3) は22、28日にも全国約150カ所で実施する。集めたお金(4) は全額、「あしなが育英会」を通じて遺児学生の奨学金に充てられる。(朝日、2018年4月21日夕刊。金山隆之介)
 感想・(1)の「募金」は「集まった寄付金」の意でしょう。こういう使い方も出てきています。賛成は出来ません。「寄付金」とするべきでしょう。(2) の「寄付を募る」はあまり聞かなくなりましたが、正しい表現だと思います。「募金を募る」などという言葉がNHKで平気で使われている時代ですから、「寄付を募る」は立派です。(3) の「募金活動」も正しいと思います。(4) の「集めたお金」は、よくぞ「集めた募金」と言うのを踏みとどまったと思います。

 「募金」は今では「寄付金を出す」、つまり「拠金」の意味でも使われるようになってきています。NHKテレビのニュースを見ていますと、花を手向ける人の映像に交じって、寄付金を置く人の姿を映しながら「中には募金をする人も」というナレーションがなされることがあります。
 この「募金」の意味の変遷(寄付金→寄付金を集める行為→寄付金を出す行為つまり拠金)は、私の知る限りでは『明鏡』が良く追跡しているようです。しかし、「募金」の説明の中で、「寄付金などを集める事。また、その金」という解説に続いて、「俗」として、「金を寄付すること。また、その金」と解説した後に、「難民救済のために募金した」という例文を掲げて、「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」と説明しているのは賛成できません。

 先ず第1に、「拠金」と言うべきところで「募金」という正反対の語を使っている、と書くべきでしょう。「拠金」という語を出すべきだと思うのです。
 また、根拠の怪しい「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」などという「弁護論」を持ち出すに至っては最低です。
 これは日本人の言語感覚が鈍ってきていることを示す典型的な例だと思います。はっきりと「『拠金』と言わなければなりません」と書くべきでした。世間に迎合するのは学者ではないと思います。
 逆に、「拠金」の項には、「『拠金』の意味で『募金』と言う人が増えています」という事実の指摘がなく、「これは困った現象です」という批評もありません。
 本当に、まともな辞書がなくて困ります。

その4・王道

 予備校の広告などを見ていますと、「何々への王道を伝授する」といったような文句が出てきます。これで好いのでしょうか。「学問に王道なし」という言葉は間違いで、実際には「学問にも王道、つまり『楽をして目的地に達する道』がある」のでしょうか。

 『明鏡』━━①儒教で、有徳の君主が仁徳を以て国を治める政治の道。覇道の反対概念。②安易な方法。「学問に王道なし」。③最も正統的な道。「古典研究の王道を行く」。
 ③の意味で使われている事実を事実として認めているわけです。しかし、これで好いのでしょうか。学研の『国語大辞典』を見ると、③は載っていません。つまり、これは最近になって(と言ってももう20~30年以上も前から使われてきていますが)、使われ、何の疑問も持たれなくなってきたのです。私の記憶でもそうです。ということは、誤用の始まった頃にいち早く警鐘を鳴らさなかった辞書編集者にも大きな責任があるということです。『明鏡』の編集者にはこの種の反省がないと思います。私は、今からでも、③の意味では「正道」を使うように変えてゆくべきだと思います。

  D・語義を曖昧にする新語

その1・事実関係

 01、野党議員は2日午後、東京労働局に出向いて勝田氏に会い、事実関係を確認。(朝日、2018年04月03日)
 02、東京労働局が公表済みの是正勧告の事実さえ、加藤氏が説明を拒んだ理由も不可解だ。(朝日、2018年04月03日)
 感想・いまでは「事実関係」のオンパレードの様相を呈してきています。この「事実」(「事実関係」ではありません)に気付いていない方は、注意してニュース番組を聞き、新聞を読んでください。『明鏡』で「事実」を引きますと、「実際に起こった事柄」といった語釈の後に、説明もなく「事実関係」と載っています。そして、「事実関係」という項目はありません。辞書編集者の責任を放棄しています。

その2・方向性

 01、選手の意見を尊重するのが西野監督のスタイルだ。ミーティングは活発になった。ただ、ピッチ上で攻守に方向性が見えぬチームに、話し合いが有効になっているのかどうか、疑問に思っていた。25歳の大島は言う。「皆がそれぞれの成功体験を話すことで、一つの方向に行かない難しさはある。」(朝日、2018年6月13日。藤木健)
02、(東電の福島第二原発の廃炉決定に関して)小早川社長は〔県知事との〕面会後、報道陣に「大きな方向性を示させて頂いた」と繰り返し、すべて廃炉の方向はごく最近、取締役会で説明し、賛意を得たと述べた。(朝日、2018年6月15日)
 感想・このようにごっちゃに使われています。全体としてはやはり「方向性」の方が多く使われていると思います。『明鏡』には「方向性」は載っていないようです。「方向」欄にも言及はありません。「他方」の用例2に「方向」が使われています。

 ウィンブルドンのテニスの試合を視聴していたら、「正確性を欠いている」といった言葉に気付きました。日本人は、やたらと「性」を付けて曖昧な表現を作るのが好きなようです。

その3・方法論

 「方法」と言うべきところで「方法論」と言う人が少なくありません。これについては2012年01月17日の項をお読みください。

その4・哲学の世界では、「関連」の代わりに「連関」という用語が使われるが普通です。なぜでしょうか。「哲学用語は日常用語とは『ちょっと』違う」という考えと関係があるのではなかろうか。賛成できません。関連で十分です。

   E・漢字の読み方

 その1・七

 今年(2018年)の3月11日は東日本大震災の7周年記念日でした。朝からラジオやテレビを聞いていますと、「震災から7(なな)年経って」という言葉が繰り返されました。「おや、『しち』年ではないのかな?」と思いました。その後は「しちねん」と言う人も多く出てきました。どちらが正しいのでしょうか。

 ① 「しち」──七福神、七転八倒、藤井総太七段、
 ② 「なな」──七転び八起き、七回の表、河津七滝(かわづななたる)、
 特注・証書などで金額を記す場合は間違いを避けるため「漆」とも書く。(明鏡)
 
 どういう場合に「なな」と読み、どういう場合に「しち」と読むのかを教えている辞書はあるのでしょうか。知っている人は教えてください。

 考えてみますと、日付の読み方では、月は「いちがつ」「にがつ」「さんがつ」……、日は「ついたち」「ふつか」「みっか」……ですから、「七月七日」は「しちがつなのか」と読むはずです。この「月」と「日」の読み方の違いはどこから来たのでしょうか。日の読み方はしかし、十一日以上は「二十日(はつか)」を除いて、漢字読みと言うのでしょうか。大和言葉ではないと思います。

その2・市場

 築地市場(つきじしじょう)の移転問題で、この名前が頻繁に聞かれています。しかし、「これは昔は『築地いちば』と呼んだはずだったのだがなあ」と思う人は、私のように「棺桶に片足を突っ込んだ老人」だけでしょうか。
 「いちば」と「しじょう」の違いを辞書はどう説明しているでしょうか。これは既に2014年08月29日に論じてあります。

 今回は『明鏡』を見てみました。

 b・しじょう━━①売り手と買い手が集まって、商品や株式取引を行う特定の場所。中央卸売市場、証券取引所。②商品の売買や交換が行われる場を抽象的にいう語。国内市場、国際市場、金融市場。③商品が売買される範囲。販路。マーケット。④いちば。
 a・いちば━━⑤定期的に商人が集まって商品の売買を行う所。市(いち)。⑥食料品や日用品などの小売店が集まった常設の共同販売施設。
 念のために「市(いち)」も引いてみました。⑦多くの人が集まって品物の売買や交換をすること。また、その場所。市場。「市(いち)が立つ」「朝市」。⑧多くの人が集まる場所。「市(いち)に虎を放つ」。

 「市(いち)」という言葉が先に出来て、それの場所をも表すようになったのが第2段階でしょう。そのように「現物」を扱う所であることは当然の前提だったのですが、資本主義の発達で株や債券の市場(しじょう)が開かれた時、これは「現物」ではなく「観念的なもの」を扱うので「しじょう」と読むようになったのではあるまいか。今では、株や債券の売買も一般化して、特殊な専門家だけの事ではなくなったので、「しじょう」という言葉が日常用語になったのでしょう。その時、多くの人が両者の違いを意識しなくなり、現物を扱う所もある種の場合には「しじょう」と言うようになったのだと、推測します。
 私は今でも、現物を売買する所はどんなに大きくても「いちば」と言ってほしいと思っていますが、もう無理な願いでしょう。しかし、今でも地方の魚市場(うおいちば)とかはそのままですし、卸売り市場でも「いちば」と呼ばれているところはあるようです。ニュースを注意して聞いていてください。
 「築地中央卸売市場」でさえかつては「おろしうりいちば」と呼ばれていたと思います。私の若いころはそうだったと思います。最近のニュースでも、昔からある従業員の組合(団体)の名前は固有名詞であるがゆえに「築地いちば~組合」と呼ばれている例を1つだけですが聞きました。何だったか、記録しなかったのは残念です。興味のある方は、築地市場に行って、年配の人やおかみさんに聞いてみてください。「昔は『いちば』と言った」とか「今でも『築地いちば』と言っている団体はある」と教えてくれるはずです。こういう言葉の問題に関心のないジャーナリストが多すぎて、私は孤立無援です。

 思い出したことを1つ付け加えます。築地の「場外市場」も今では「場外しじょう」と呼ばれているのでしょうか。ここは完全に「現物」を売買していますから、「場外いちば」と読むべきだと思いますし、昔はそうだったと記憶しています。これも興味のある人は調べてくださるようにお願いします。

 付記・書くのを忘れていた事を思い出しました。それはネット通販の大手「楽天市場」はその創業の当初から自分の名前を、正しく、「楽天いちば」と呼んでいることです。(2018年07月23日)

A・市場(いちば)の用例

 既に記録しましたが、大きいのでは、楽天市場があります。
 ネット空間ではなく、リアル世界で必ず「いちば」と読んでいるのは「魚市場(うおいちば)」です。
 魚が中心でしょうが、他に野菜なども扱っている所で、大きなものでその後見つけたのは、京都の錦市場(にしきいちば)があります。朝日紙にカナが振られていました。
 金沢市の近江町市場(おうみちょういちば)もこちらです。こういう大きな市場でも、旧習を守って「いちば」と言っている例を見つけると嬉しくなります。ただし、金沢市には金沢市中央卸売市場(しじょう)というのもあって、これは文字通り卸売りで、小売店が買いに来るのだそうです。
 小売りは「いちば」と呼び、卸売りは「しじょう」と言うとすれば、一応の原則は出来た事になりますが、他所はどうでしょうか。この伝で行くと、築地は場外市場は「いちば」と呼び、卸売りの方は「しじょう」となりますが、そうはなっていません。

 上に書いた京都市の場合はどうなのでしょうか。錦市場以外に卸売り市場があるのでしょうか。と考えて、市役所に電話で聞いてみましたら、中央卸売市場(いちば)というのがあるそうです。さすがに古きを愛する京都! こちらも「いちば」でした。
 皆さん、自分の都市なり町なりの「市場」の呼び方を確認して、面白い事があったら教えて下さい。

 築地市場について大発見をしました。東京証券取引所への登録名が「築地魚市場(つきじうおいちば)」となっていることを発見したのです。確かめたい人は、本屋に行って、『会社四季報』を手に取って、コード8039を探してご覧なさい。ちゃんとカナが振ってあります。

 しかし、この会社名もその内に「豊洲市場(しじょう)」と改名されるのでしょうか。ああ。

 断っておきますが、私は、読み方を元に戻せと言っているのではありません。言葉は変わる物ですから、変わっても好いのですが、いつ頃、なぜ変わったのか、を考えてほしいと言っているのです。少なくとも、辞書はそれを書くべきだといっているのです。こういう事に多くの人が関心を持つようになってほしいのです。
 「しじょう」か「いちば」かで言えば、個人的には、「いちば」の方が、その「賑やかさ」が聞こえてくるようで、楽しいから好きですが。

その3・他人事

 これについては『明鏡』が明快な説明を与えています。
━━明治・大正期の文字で「ひとごと」とふりがな付きで書かれていたものが、後にふりがなが取られ、「たにんごと」とも読むようになった。

その4・本性

 これは「ほんしょう」と読むのが本来の読み方でしょうが、哲学の世界ではなぜか「ほんせい」と読むようです。哲学者はくだらないところで「差」を付けようとするようです。情けない習性です。「呪物」でいいところをわざわざ「物神」という新語で置き換えるのも、そういう所でしか新味を出せない無能学者の負け惜しみでしょう。

付録1・アクセントについて

 日本語は高低アクセントなので、紙の上に表示するのは難しいですが、かつては高低のあった語が今では平板に発音されることが多くなっているようです。サークル、クラブ、など。
 私のような老人は世を去るべきなのかもしれません。最後のあがきとして、いくつかの出版社の辞書編集部にこの論文を送ってみようかと考えています。

付録2・サ変動詞の上一段化

 「論ずる」を「論じる」と言い、「感ずる」を「感じる」と言い、「信ずる」の代わりに「信じる」というように、本来はサ変動詞であったものを上一段動詞として使うのは今では一般化していると思います。少し古い方には同じ語について両方を、使い分けているのではなく、多分無意識にごっちゃに使っている人もいます。
 いつ頃からそうなったのか、調べたことはありませんが、たまたま読んだ鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書、1940年初版)では訳者の北川桃雄は「転ぜられる」ではなく「転じられる」と書いています(63頁)から、この変化はかなり前から起きていると推察出来ます。先に申しましたように、今ではこれは基本的に上一段になったと言ってよいと思います。実際、語釈は上一段の方に書いて、最後に「=感ずる」と断っているだけです。これでは不十分だと思います。代表的な語を決めてきちんと書くべきでしょう。
 この点で例外があるのを発見しました。「禁ずる」です。明鏡ではサ変の方に語釈を書いて、上一段の項にはただ「=禁ずる」とあるだけです。どちらに語釈を書くかで基準を決めていないのでしょうか。こういう事に無頓着な事自体、褒められた事ではないと思います。

付録3・手皿

 「手皿」という名詞は本当にあるのでしょうか。ヤフーの「辞書」で検索すると、「長手皿」といった語しか出てきません。しかし、そのヤフーでも「WEB」で検索すると、手皿が礼儀に適った作法か否かでの議論が沢山載っています。
 私は、手皿はダメだと聞いています。箸で持った物を口に運んでいる途中で落としたら、それが食卓に落ちるのを防ぐのに何で受けるべきでしょうか。手で受けたら、手が汚れます。その手は何で拭うのでしょうか。ですから、茶碗とか皿とかを常に左手で持っていて、運んでいる食べ物の下にセイフティネットのように構えているのが日本の食事作法だと聞いています。
 テレビを見ていますと、美しい方々の多くが、この手皿を使っています。子供たちはそれを自然に「模範」として理解して育ちます。
 まず、国語辞典に「手皿」を掲載することから始めなければならないようです。これが「礼儀正しい日本国の現状」です。


 付記・2019年01月20日に小さな加筆を行いました。これでこの記事は一応の終わりにしたいです。










「天タマ」第23号

2019年01月17日 | カ行
「天タマ」第23号(1999年11月15日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 8日はいつもとは違う授業形態にしました。講師が「天タマ」22号について自分の意見を話しながら時々生徒の意見も聞く、という方法で60分。その後、VTRを見ました。レポートの時間は短かったので、何か1つのテーマに絞って書くというようにしました。

 時にはこういうやり方を取り入れた方が好い、という意見が多かったようです。が、今までの方がよかったという意見も2つありました。

──みんなで意見交換して考えを深めていくのも私は好きですが、私はもっと先生の今まで経験した事やいままで考えてきたことをじっくり聞きたいです。

──物事をこんなに深くまで考えられるものだということにちょっとびっくりした。1つのテーマをいろいろな角度から見ていくことはとても大切であり、1つの方向からしか見ていないと、何も見えてこないと思った。

──今回の授業では、前からの流れを時々組み入れて(17号の文、トップについてなど)、1つ1つの授業が相互作用して関連していて、前考えたことをもう1度冷静に振り返ってみることも大切だと思った。

 ★ 皆さんの考えを聞いていて、やはり拙いなと思う点が分かってきました。それは「ふざけた意見や載せていいもの・悪いものというのは、人によって違い、判断が難しい」というような考えです。

 「人によって違う」ということは、「好い悪いは決められない」、だから「自由だ」、ということになるでしょうか。

 世の中には社会通念というものがあります。もちろんそれ自体、時代と共に変化していきます。しかし、今という時点を取ったらやはり一応、社会通念は決まっています。そして、その通念に従って許されることと許されないこととが判断されるのです。

 個人の主観から「出発する」のは結構です。しかし、そこに留まっていては考えは進歩しませんし、社会的に通用しません。つまり大人とは言えません。極端な場合を挙げますと、いくら皆さんが「個人の自由だ」と思っても、裁判で判決が出て「あなたが悪い」と言われたら、それでお終いです。日本は法治国家です。

 自分の主観に閉じこもらないで、親や他の大人と話して「世の中の基準」というものを知り、それと比べて自分の考えを深めていって欲しいと思います。

      匿名のアンケートについて

──いくらアンケートで名前を出さなくても、言っていい本音と悪い本音があると思います。先生は自分の考えをしっかり持っている人だと私も思います。その下の意見もきっと同じ事を言いたかったのだと思います。言い方書き方によって受け止め方も変わってきます。そこらへんは難しいと思った。

──23回生のアンケートの「自分の考えが一番正しいと思いこんでいる」という意見には、きっと続きがあるのだと思います。「先生の話を聞いていると、自分の考えが一番正しいと思い込んでいるように見受けられるので、私の意見も受け入れてほしい」のだと思います。

 きっとその人は、哲学の授業で自分の意見に対して先生に批判されてしまったのではないでしょうか。自分の考えたことに対して、ただ「それは違っている」と批判されてしまうと、辛いと思います。

 一度意見を受け入れた上で、やんわりと自分の意見を話せば、先生に対してそういう意見がなくなると思います。先生は、少し話すのが早いので、そういう風に取られてしまったのかもしれません。私は、先生は自分の意見をしっかり持っている人だなと思ったけど、もう少しゆっくり話してもらえるといいなと思います。

──最近しばしば匿名ということが問題として取り上げられていますが、そこまで匿名にこだわる事がよく分かりません。1つの事を考えるのは良いことだけれど、考えすぎると熱が入りすぎるし、自分の考えが正しいと思い込んでしまいやすいと思います。先生の考えも分かりますが、こうじゃなきゃいけないと言われているような気がして、授業を聞いていることが少し苦痛に思えてきました。

──今までは無記名や匿名の裏の部分なんて考えたことはなかった。他人を批判する手段としては、とてもずるくておそろしい方法だと思った。しかし、他人を批判するのはやっぱり後ろめたいことなので、どこまで許されるのか考えて書くべきである。

        組織はトップで8割決まる

──私のバイト先の大型小売店の内部事情を見ていると、トップだけでもないかなと思います。パートのおばさん達によって左右されているように思うからです。これもある意味でトップのためにそうなっていると、取れるかも知れませんが。ちなみに、そこでは自己評価と上司による評価とがあり、それによって給料も出世も転勤場所も変わってきます。紙一枚で人生が左右されるのですから、恐ろしいと思います。

──母は「うん、そうかもしれないね」と言っていました。母は准看護婦としてある病院で働いています。看護婦として患者のことを優先的に考え、働いているつもりなのに、周りから「そこまでしなくても~」と陰で言われたこともあるそうです。同じ経験をした准看の人もいるそうです。

 でも、そんな母たちが言われて終わりになってしまうのは、主任や婦長などの上の立場にある人が大きく関わっているのではないかと思います。上の人達の仕事に対する考えが部下に伝わっていないのか、上の人達が曖昧にしているから、母たちのような人が目立ってしまうのかなとも思います。こういう事も考えると、就職先も内部の状況を調べて選びたいと思います。

──父に相談した。久しぶりに親との会話が成り立ったように思う。父は一生懸命に話し、うなづいている私にご満悦のようだった。父はどうしたらトップになれるかを熱く語っていた。この事から、父はトップに立てば何でもできると思っているらしいことが分かった。

       デンマークの医療制度

──私の父は病院で働いているが、実際病院で入院しても入院費が払えず逃げてしまう人も少なくない。病人に「入院費が払えるかどうか確認してから入院させる」という事実を冷たいことだと分かっていながら仕事として行うのに抵抗がある、と言っていた。

 デンマークの人々はお金云々でなく、病院という施設、介護という制度自体を大切にして運営しているのだと感じた。日本人は「お金があればなんとかなる」という考えが他国に比べて強いことが、介護保険の話し合いが長引いている原因のような気がする。

──デンマークの制度は良くできていると思います。でもうまく機能しているのはデンマークだからで、日本に導入するとしたら、日本に合った型に変えなければうまく機能しないと思います。歴史・文化・国民性などの違いがあるから、無理に押しつけても良い効果は得られないと思います。

        VTR「デルフトの眺望」

──VTRを見て、高校の修学旅行を思い出しました。長崎でハウステンボスへ行きました。とても広く、1日では全然見て回れませんでした。ああいう所に住んだら、きっとずっと外の景色や窓からの眺めを見ていたいと思います。

──フェルメールは私がもっとも愛する画家。私がフェルメールに出会った最初の絵がこの「デルフトの眺望」でした。そこに描かれた光と影、そこに立つ人の一人一人がまるで生きているかのように描かれている。それから沢山のフェルメールを見ました。彼は人を描き、その中の人はほとんどすべて、日常の動作の中の一瞬をとらえたかのように、絵の中で息づいているものばかりです。

 「デルフトの眺望」を見た時にも鳥肌が立つ思いでしたが、今もなおフェルメールの生の絵を見るとそう思います。昨年、京都でニューヨークの美術館の絵を展示する機会がありました。その中に一点、フェルメールの「手紙を書く少女」があり、私はすぐに足を運びました。茜色の毛皮のつけた上着をはおり、手紙を書きながらこちらを一瞬振り返ったような少女の顔と、現実のようでそうでないライティングの技法はまさに「その時」を一枚の絵に閉じ込めたかのようです(少女はフェルメールの娘で、その上着はプレゼントに彼女に贈ったものとも言われていますが)。

 私は今後も彼の全36枚の絵に会いにゆくつもりです。1枚はとある王室の家にあり、見るのはかなり難しいのですが。

          その他

──「天タマ」22号で先生が「犬が亡くなるはおかしい」と書いていました。きっとこの犬は家族同様に生活してきたのだろうから、別に「亡くなる」でもいいと思いました。この犬の飼い主がょっとかわいそうだと思いました。

──今日は自分のレポートが再び話題に取り上げられてびっくりした。私のいた高校は、体育の先生がみんなこわい人達ばかりで、その時の体育の先生は入ってきたばかりでした。他の体育の先生は、教室で生徒をけって怪我をさせたりして、ニュースでも取り上げられ、地方にとばされた人が何人かいるほどでした。だから、私の体育の先生もそんな感じで、厳しくしてきたのだと思います。

 担任の先生はもう何年か勤めていたので、体育の先生に話をしてくれました(体育の先生がもっと偉い人だったら、どうしたのかは分かりません)。それで、逆立ちはやらないという事になりました。次の体育の時、行くのが嫌だったけど、それから逆立ちをすることになっても、何十秒もやるのではなく、足を何回か上に上げるだけというものに変更されました。

 体育の先生とも、逆立ちの事は言わないけれど、仲良くなれました。教師の間での話はとても難しいことだと思います。だけど、そのお蔭で私は体育も何とかやってこれたので、感謝しています。

──中学の時、体育で持久走の授業があり、全員が1000mを5分以内でないと、切れるまでずっと体育の授業は持久走というルールがあった。どんなにがんばっても5分は切れず、体育が大嫌いになり、その先生が鬼に見えて顔を見たくなかった。(中略)人には得手不得手があるし、みんながみんな同じ目標は無理だと思う。だからその先生も個別性を考えて欲しかった。

──カンファレンスの内容が多いという意見は、私も同感である。実習の時でも、グループでのカンファレンスで、1つの話題でも言いたいことが沢山出てきて、結局かなりの時間話し合っている。物事を深く考えるのなら、テーマは1つにしぼり、もっと時間をかけるべきではないかと思う。

 またグループ内だけでなく、グループでの話し合いの結果を発表してクラス全体で話し合う時間があったら、考えが一層深まっていくかれしれない。時々はそういう時間があっても面白い。

   お断り

 昼休みに「天タマ」を読むことに反対の意見がありました。アンケートで聞きます。

ご意見への回答

2019年01月07日 | 読者へ
     ご意見への回答

 最近いただいたコメントに回答します。

1,尾野豊さんのコメント、世論(よろん)か世論(せろん)か

先日は『小論理学』お送りいただきありがとうございました。
 時間がとれないので(と言うと、牧野さんに「やる気がない」「能力がないんだ」と言われそうですが)なかなか進みませんが、とりあえず全文コンピュータに取り入れ、今は索引を手がかりに『ヘーゲル哲学辞典(仮)』めいたものを作っているところです(まだ『え』の段階ですが・・・) いつか勉強の報告でもできればいいですね。

 さて、高校時代(昭和四〇年後半)に『世論』を「せろん」と読むと、皆おかしがるんですね。「よろん」には『輿論』という字があるではないか!といっても、誰も聞き入れちゃあくれませんでした。テレビでニュースを聴いてても「よろん」という言葉は出てきても「せろん」は出てきません。もう死に絶えたのか、と思っていました。
 「市場(しじょう)か市場(いちば)か」を見て、ちょっと辞書でも引いてみようかと思ったら、まだちゃんと載っていました。

せろん(世論)
 世間一般の論。せいろん。→輿論(よろん)。(広辞苑第6版)
 ある社会の問題について世間の人々の持っている意見。よろん。せいろん。「―を反映させる」「―の動向」。「輿論(よろん)」の書き換えとして用いられ、「よろん」とも読まれる。→輿論(大辞泉第2版)
 世間の多くの人の意見。よろん。(新明解第7版)

よろん(輿論・世論)
 世間一般の人が唱える論。社会大衆に共通な意見。中江兆民、平民の目さまし「輿論とは輿人の論と云ふ事にて大勢の人の考と云ふも同じ事なり」。「―に訴える」。「世論」は「輿論」の代りに用いる表記。(広辞苑第6版)
 世間一般の人の考え。ある社会的問題について、多数の人々の議論による意見。せろん。「―を喚起する」「―に訴える」→せろん(世論)。当用漢字制定以前は「よろん」は「輿論」と書いた。「世論」は「せろん・せいろん」と読んだ。「輿論」は人々の議論または議論に基づいた意見、「世論(せろん)」は世間一般の感情または国民の感情から出た意見という意味合いの違いがある。(大辞泉第2版)
 〔「輿」は、衆の意〕それぞれの問題についての世間の人の考え。「輿論が高まる(落ち着く・割れる・沸騰する)」。当用漢字制定以後は、この意味で「世論」と書き、「せろん」と言うことが多い。(新明解第7版)

 岩波書店のホーム・ページで検索すると、
  「せろん」→岩本裕著『世論調査とは何だろうか』
  「よろん」→リップマン著『世論』が出てきました。

 大地震を「だいじしん」と読むようになったのは、チャールトン・ヘストンの1974年の映画『大地震』からではないでしょうか。(宣がすごかった)

 ★ 牧野の考え

 「世論・輿論」については、『明鏡』にこう書いてあります。
── 世間一般の人々の考えや意見。Public opinionの訳語。「輿」は「もろもろ」「みんな」の意。
〈表記〉「世論」は「輿論」の言い換え語として採用された「世論(せろん)」が「世論(よろん)」と誤読され、一般化したもの。「世論」の場合は「よろん」を避けて、「せろん」と読む人も多い。(引用終わり)

 この説明で好いと思いますが。
 私は、「与論」は多数者の考えで、「世論」は客観的に皆の意見という意味だと「も」思っていました。だから「与論調査」とは言わない。更に、ここでは「与論」は「輿論」の代わりとして、「輿論」より多く使われる(と、思います)という説明があっても好かったかな。
 全体として、『明鏡』は説明があって、役立つと思います。が、「募金」の説明の中で、「寄付金などを集める事。また、その金」という解説に続いて、「俗」として、「金を寄付すること。また、その金」と解説した後に、「難民救済のために募金した」という例文を掲げて、「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」と説明しているのは賛成できません。
 先ず第1に、「拠金」と言うべきところで「募金」という正反対の語を使っている」と書くべきでしょう。「拠金」という語を出すべきだと思うのです。
 また、根拠の怪しい「主催者側の言い方をそのまま受けて言ったもの」などという「弁護論」を持ち出すに至っては最低です。
 これは日本人の言語感覚が鈍ってきていることを示す典型的な例だと思います。はっきりと「『拠金』と言わなければなりません」と書くべきでした。世間に迎合するのは学者ではないと思います。
 逆に、「拠金」の項には、「『拠金』の意味で『募金』と言う人が増えています」という事実の指摘がなく、「これは困った現象です」という批評もありません。
 本当に、まともな辞書がなくて困ります。

2、弁証法的発想について、山下 肇

 ブロガーの問題意識は貴重で、重要とは思いますが、その根底の言語観に誤りがある点が一番の問題です。

 ソシュール、カント的な不可知論に基づく言語道具観に依拠し、いまだにパヴロフ反射理論で言語を捉えようとするのは非科学的というしかありません。

 あれかこれかという非弁証法的な発想を開陳されており、本来はあれもこれもの弁証法的発想によるべきものです。

 デジタル大辞泉の解説

いち‐ば【市場/市▽庭】

1 一定の商品を大量に卸売りする所。「魚―」「青物―」
2 小売店が集まって常設の設備の中で、食料品や日用品を売る所。マーケット。「公設―」

し‐じょう〔‐ヂヤウ〕【市場】

 1 売り手と買い手とが特定の商品や証券などを取引する場所。中央卸売市場・証券取引所(金融商品取引所)・商品取引所など。マーケット。
 2 財貨・サービスが売買される場についての抽象的な概念。国内市場・労働市場・金融市場など。マーケット。
 3 商品の販路。マーケット。「市場開発」

 のように使い分けられており、話者がどのように認識するかで使い分けられているもので、対象と直結し、あれかこれかと排他的な発想になるところにその言語観の限界、誤りが露呈しています。

 一方/他方も、話者がこれに対し一方と捉えるか、一方/他方と捉えるかの認識のあり方の問題です。これを、話者の認識の移行を無視し表現と規範を直結しあれかこれかという二者択一の形式主義的発想を開陳しています。

 これでは、地下のヘーゲルも顔をしかめるしかありません。

 ★ 牧野の考え

 私が言語に関する記事を書くと、時枝・三浦つとむ系統の言語論に心酔しているらしい人から必ず「批判」が来ます。
 第1には、かつては匿名での批判でしたので、「こちらは実名で発言しているのだから、批判するなら自分も実名を出せ」と言った(らしい)と記憶しています。そのため今回のように、実名を装って仮名で批判するようになりました。
 山下肇という人は東大のドイツ語の教授だった人が一人いますが(この人は少し知っています)、それ以外にはアマゾンを見ても、ヤフーで検索しても、何も出てきません。たとえこれが実名だったとしても、本の1冊も出していない人に私を批判する資格はないと思います。
 日本は民主主義国家ですから、発言の「自由」=権利はありますが、社会的な発言では、「権利」のほかに「資格」が必要です。私の文法論を批判するならば、『関口ドイツ文法』
と同等かそれ以上の文法書を公刊していなければなりません。しかるにそういう人はいません。
 山下さんはカントだとかソシュールだとか弁証法だとか、言葉だけを使っていますが、ヘーゲルは原典で研究した形跡はなく、エンゲルスの言葉を表面的に繰り返しています。このような批判が本当に私に通ずるとでも思っているのでしょうか。親の顔が見たいです。「もうそういう歳ではない」と言うならば、一度精神科の医者に相談してみるのが適当だと思います。
 時枝・三浦の信奉者は、他者を批判する前に、先ず「包括的な日本語文法の本」を出しなさい。それまでは、私はこれらの人を相手にしませんので、ご承知おき下さい。 


3、「先生を選べ」に学ぶ。いんきょやの10ちゃん(桜沢 彰)

 牧野先生、私のような者に目を止めてくださりありがとうございます。以下の文は私のブログに載せているものです。できますれば、先生の批評をいただきたく、お願い申し上げます。以下、敬称略。

 牧野は、勉強とは何かと問い始める。普通は学問だろう。勉強と研究を分けたところが重要な点だと思う。その同一性と差異を挙げてゆき、勉強とは創造的継承であると結論する。
 そして勉強と研究の同一性である創造的性格から「自分の問題意識を大切にせよ」と言う最重要な当為を導き出す。
 問題意識とは何かが問題であると思う。出発点は「~が面白そうだ」と言う程度の漠然とした直接的なものではないかと思う。それを追求してゆけば、そこに客観性が現れて、「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」という点に到達する。
 そこで先生について学ぶことになるのだが、牧野はここで真理と先生と生徒からなる三項関係の図を提示する。この図は実に的確でここに牧野の研究姿勢が凝縮されていると思う。生徒から見ると先生を介して真理と関係するのと、直接関係するのと二つの線がある。これによって生徒は、「私は自分の真理に到達するために、自ら先生を選び、勉強するのだ」と考えることができる。自分が自分に与えた規定態の中で自由であるということだと思う。
 またこの生徒は、真の友人や真の芸術のように実在と概念が一致しているという意味でそれ自体が真理なのではないか。
  私はまず生徒の概念に到達し、労苦を払わねばならない。私の問題意識は何かと反省してみると、もやもやしてすぐには出てこない。では、「生活の中の哲学」に感銘を受けたのはなぜか。単にわかりやすいからではない。哲学の訓練を積んだ知性が、日常的ななじみ深い意識にむかい、明晰に解き明かすのを見るからだ。しかしそのような人はたぶん、他にもいると思う。牧野だけにあるのは、純粋に哲学知を追求してゆけば必然的にそこに至るという道筋だと思う。そこが、「頭の良い人たちのおしゃべり」と生活の中の哲学の違いだと思う。やはり、まずやらなければならぬのは本を読み勉強し、哲学知を自家薬籠中の物にすることだと思う。

 ★ 牧野の考え

 もう少し自己紹介をして下さらなくては、返事が出来ません。ご自分のブログを持っているようですので、その名称を教えて下さい。「桜沢 彰」で検索しても、「いんきょやの10ちゃん」で検索しても分かりませんでした。
 私の考えを理解しようとして下さるのはありがたいことですが、あまり賛成できません。桜沢さんは何らかの意味で「先生」みたいな仕事をしてきたのではないでしょうか。そこで経験した問題を出して下さい。応用問題こそが本当の問題だと思います。
 『天タマ』を読んで下されば、例えば「先生と生徒は対等か」という問題で、二十歳の看護学生がどれだけ自分の経験に引きつけて考えているか、分かるだろうと思います。このように考えてみて下さいませんか。
 あるいは、お子さんが、「国語の授業で、先生の解釈に反対したが、先生は聞いてくれなかった」とか、家で訴えたとかでもいいです。こういう問題は中学などでは大抵起きているはずですが、これを認識論的に正しく処理するにはどうしたら好いか、などは立派な哲学的問題です。誰も答えていないし、問題にしてさえいませんが。

 最近、伊坂青司とかいう神奈川大学の教授がヘーゲルの「歴史哲学」を最新編集版に基づいて訳して、出しました。『世界史の哲学講義』(講談社学術文庫)です。この原書には先ず、例によって、長ったらしい「序論」があります。「例によって」と書きましたが、皆さんはこれがヘーゲルのやり方だと言うことに気付いているでしょうか。ではなぜヘーゲルはこういう長い「序論」をほとんど必ず前に置くのでしょうか。その理由を考えたことがありますか。これが哲学的な問題なのです。
 しかるに、この本の訳者の伊坂さんはこれを問題にしていません。気付いていません。ですから、当然、その内容が、「論理学以外の学問は論理学の応用であり、応用論理学だ」というヘーゲルの考え(『小論理学』第二四節への付録2)を実行した物であること(「理論と実践の統一」)に気付いておらず、従ってその「応用」では元の理論がどのように具体化されて適用されているかを検討していません。
 そこで問題になっていることは、認識には三段階があるということで、それは経験的認識、反省的認識、理性的認識の三つであるということです(同、第二四節への付録3)。歴史の研究でもこの三段階があると言って、それを説明しているのです。もちろん、個別的対象に適用する場合の微調整にも言及しています。
 それなのに、これに気付いていない伊坂さんは、こういう問題に当然、言及していません。そして、一番悪い事は、認識にこの三段階があるとするならば、翻訳にもこの三段階があるのだろうか、それぞれはどいう翻訳に当たるのだろうか、自分の翻訳はどの段階の翻訳だろうか、という自己反省が全然ないのです。自己反省のためではないとしたら、何のために哲学書を読んだのでしょうか。
 伊坂さんだけではありません。同じく最近出ました熊野純彦訳『精神現象学』(ちくま学芸文庫)でも同じです。ここでは当然考えるべき「なぜあれ程長い『序言』と、そのほかに更に、こちらは大して長くはありませんが、『序論』を書いたのか」という問題が考えられていません。
 熊野さんもやはり翻訳における経験的翻訳と反省的翻訳と理性的翻訳とは、それぞれ、どういう翻訳だろうか、自分の翻訳はどれに当たるのだろうか、という自己反省をしていません。何の理由の説明もなく「フランス語訳を一番参考にした」と言っているだけです。学者たる者、何かを言うなら理由を付けて言わなければならない、ということすら知らないようです。
 これでは哲学教授の非哲学的翻訳と言わざるをえません。私見を言っておきますと、熊野訳は、内容的には「経験的認識段階の翻訳」です。与えられたドイツ語をそのまま訳しただけですから。まあ、誤訳だらけの樫山訳や長谷川訳よりはいいかな、という程度でしょう。
 金子訳は文体が古いので、敬遠されていますが、内容的には「反省的認識段階の翻訳」です。与えられた原文の歴史的背景へと反省しているからです。学ぶ点があります。

 最近思っていることを正直に書きました。
 現在、『フォイエルバッハ論』の訳と評注を、相変わらず書き続けています。牛歩ですから、もう少し時間がかかるでしょう。
 衰えたとはいえ、まだ気持ちは若く持っていたいと思っています。音痴の私ではありますが、好きな音楽はあります。それはモーツアルトの「ディヴェルティメント第136番」です。この曲はNHKの「名曲アルバム」の解説によりますと、初めてイタリアへ旅行して、そこで大歓迎されて、優秀な先生の指導も受けて、前途洋々で、未来への希望に満ち満ちたモーツアルトが作曲したのだそうです。本当に明るくて楽しさ満杯の曲ですから、朝、これを聞くと、私も歳を忘れて、青春の「やる気」に満たされます(笑)。
 以上、活動報告に替えます。

PS
 これを書いて推敲している間にお二人の方から計3個の充実したコメントを頂きました。ありがとうございます。後ほど、お返事するつもりです。私はなにしろ返事が遅いのです。済みません。

「天タマ」第22号

2019年01月03日 | カ行
「天タマ」第22号(1999年11月08日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今年は「先生と生徒は対等か」ということから始めました。これは親子、看護婦と患者、上司と部下の関係にも関係しているということになりました。又、下の立場だけから考えるのではなく、上の立場からも考える必要があるということでした。又、それはその関係を取り巻く大小の状況とも関係させて考えなければならないということでした。

 これらを踏まえて、今後は当面、両者の関係を公正なものにしていく様々な方法を考えてみます。まず4日には「生徒による授業評価」を取り上げました。

      生徒による授業評価の経験

──本校でも一部の授業で行われている。授業の内容、先生の態度、声の大きさなどについて生徒が評価するものであった。最初は1~5にマルを付けて評価するのだが、最後に記述もある。先生の熱意が感じられた。

──実習のあとには、今回の実習での担当教官の熱意や指導のあり方はどうだったのかというアンケートを書きました。私は、初め書くのがイヤだったけど、しっかりそのアンケートを書いたら、今後先生たちが考え直して授業や実習に臨んでくれると思い、書ける所はしっかり書くようにしました。

──中学高校と通っていた塾ではこのようなアンケートが定期的に、しかも先生一人ずつ、細部にわたって生徒が評価するということを行っていました。そして、授業が分かりにくい先生や、生徒が嫌いな先生は、すぐにとばされたりして、先生がどんどん代わっていました。このように先生を代えることが正しいのかは疑問でした。

──小学校の頃、先生への通信簿を書いて交換したことが一度だけある。わたくしはその先生が好きで、オール「よくできました」だった。授業評価は両者の信頼関係を築くのに役立つから導入すべきである。

──私は中高一貫校だったが、そこでは生徒ではなく、親に子供の話を聞いてもらい、学校への意見を出してもらうというものがあった。匿名で。私の家にも高3の時、そのアンケートをやってもらいたいという依頼がありました。両親にも、なんでこんな回りくどいやり方をしているのだろうという意見もありました。なんで直接生徒に聞かないのか、考えていました。

──私は中高一貫校だったが、毎年ではないが、全校で、先生方や学校の方針についてのアンケートを行い、無記名だったので正直に書けた。

──教師側の希望で行われるのだと思ってきたが、生徒側の希望でも可能であることが分かった。生徒側にも自分に合った教育、好きな先生を選ぶ権利があってもいいのではないかと思った。私の知り合いの大学生は、人気のある教師の授業を受けようと希望を出したが、抽選で外れた。生徒側の選ぶ権利も重要だ。

──授業は先生と生徒が協力してつくっていくものだと思うので、先生が生徒に授業態度のことで注意したりすることが出来るのなら、生徒も先生に要望が言えてもいいと思います。

──教師は自分の中でだけ考えた授業を行うのではなく、生徒の反応、反響を取り入れつつ、毎回、授業のやり方を変えたり、生徒の意見から日々改善することが大切だと思う。

──高校の時、担任の先生に「○○先生は分かりずらいです」と訴えても、「ああ、しょうがないねぇ。でもがんばってみて」としか言わなかった。授業の評価を先生に訴えても、生徒の意見を受け入れてくれる制度が学校になければ、意味がない。

      その問題点と提案

──評価を求めても賛否両論になる。先生はどうするのかな。
──小学校での導入は早すぎる。中学高校では行うべきだ。
──中学では内申点を気にして思ったことが言えないことが考えられる。

──小中高は決められた授業で決められた先生なので、授業評価までやらなくても、意見があった時にはいつでも意見を出せるような方法をとればよいのではないだろうか。

──アンケートより生徒の受講態度が評価になると思う。つまらない授業は生徒は聞いていない。分かりやすく教えてくれると真剣に聞く。知的好奇心をくすぐるような授業は拍手したくなる。先生達はそこからも感じてくれるといいと思う。

──本校でのそれもそうだが、たいてい、授業の最後にアンケートをとるため〔改善点があっても〕私たちの授業では直してもらえない。授業の中頃にやってほしい。

 ★ 1時間ごとという意見もありました。

──先生が本当に直してくれるのか分からない。制度からみて直せる限度もあると思う。

──アンケートをしたら結果を公表し、改革案を発表してもらいたい。

──アンケートをとる授業は大体よい授業で、本当に考えてほしい授業ほどアンケートを取らない。

──匿名で評価表を出すのは、先生の悪い所など言いにくいことも素直に書けるので、場合によってはいいと思う。

──アンケートを生徒が集計するのもいいと思う。最終的には先生と生徒の信頼関係の問題だと思う。

──先生でも生徒でもない所がアンケートをとって、それを生かすことが大切だろう。

──生徒が本心でアンケートを書いているかが問題。
──好き嫌いの感情の入ってしまうのが問題。
──授業そのものではなく、先生の人間性についての評価になってしまう恐れがある。

──私は授業評価に何の関心も持っていなかった。めんどくさいだけだったように思う。導入するなら、授業評価の意味を〔生徒に〕理解してもらう必要があると思う。

──学校が塾みたいになる危険がある。学校で何かしたり、相談相手になったりがおろそかになるとか。

──問題は生徒に先生がこびる事にならないかという事だ。

 ★ 予備校などでは、講師が生徒の受講態度を注意しなくなるという噂も聞きます。

──評価はやりすぎがよくない。度を越すと、その評価を活用するどころか、それにより傷つき自信をなくすこともあると思う。

      病院や学校での 360度評価

──学校や病院での 360度評価は意味があるが、自分が上司、同僚、部下(あるいは生徒)から評価を受けること自体、大変なストレスとなり、多忙で神経を細かく使う仕事には負担になりすぎないだろうか。元々、人間とは欠点があり、それを理解して共同で仕事にあたっていくのだから、チーム力を高めるという点についての評価をするなど、内容が問題ではないか。

──病院に導入するのは面白い。患者、婦長、先輩看護婦、同僚から、みんなに評価されていると思えば自然と緊張感を持って仕事が出来る。悪い事を書いたら可哀相だとか、失礼かなとか考えないように、様々な工夫をし、評価することの意味をみんなが理解することが大切である。

──評価の対象となる人が評価者を選ぶのはなんだか変だ。その人にかかわるすべての人に評価されるべきだ。上・下・横の人間関係全てから評価してもらうのはよいと思う。

──部下からの評価が大切。部下だからこそ気づける悪い所もあると思う。

──特に、医師や看護婦に患者さんからの評価を与えるべきだと思う。

──自分が評価されるのは怖い。

      その他

──哲学の授業は深く物事を考えることが目的なのに、カンファレンスの内容が少し多いように感じる。

 ★ 私も授業が進んできて、少し混乱してきているように感じています。いろいろと考えた結果、今回はレポートを「その他」だけにして、講師の話す時間を増やすことにしました。それが皆さんとの対話で「全体カンファレンス」になれば嬉しいです。また、「天タマ」も今回は「生徒による授業評価」関連の問題に絞り、その他のことは次の号に回すように編集しました。

──「天タマ」に載るみんなの意見の内容が濃く、そしてハイレベルになってきたように思います。自分の考えをしっかり持つことが出来るようになり、大人になっていくのだと思います。

──もう何回か哲学の授業を受けてきて、自分の考えることが増えてきたように思う。

──今回の「天タマ」で、話し合うというのは馴れ合いでもなければ感情的対立でもない。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのかと、一緒に考えていくことである、ということが書かれていた。これを読み、本当にそうだなと感じた。

 私はすぐ感情的になってしまうことがある。特に父親の考えをいつも素直に聞くことができないように思う。又、一方的に自分の意見を言ってしまうことが多いように思う。自分なりに気をつけようとはしているが、なかなか直すことができないでいる。どうしてかと考えてみると、私はしっかりと自分の考えを持っておらず、そのため自分に自信がないのだと思う。そして、相手の意見をきちんと聞くという心のゆとりがないからだと思う。

 哲学の授業を通して、自分の考えをもっと深め、自分の考えとして冷静に言えるようになれたらいいと思った。

 ★ 事柄(内容)について話すだけでなく、話し合いのあり方自体(形式)をテーマにして話し合うことが出来るといいと思います。親しい間柄ではこれが難しいのですが。哲学が形式的な学問だということは、こういう反省をしながら考えていく学問だからです。この授業でも、匿名希望の意味について反省したのがその一例です。

──「天タマ」の中で、否定的とか批判的という言葉が出てきていた。みんな違う考えを持っているのだから、意見が合わないのは当たり前だと思う。たまたま意見が合うと気が合うと感じ、意見が違うと否定的・批判的な人と思う。そういうことはよくあると思う。それで今回の「天タマ」で「先生に否定的にとられてしまった」という意見がで出てきたのでは、と私は思った。

──「天タマ」21号を読んで悲しくなりました。私のレポートが載っていて、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」という私の言葉について、先生が「といった反発気味の意見もありましたが」と書いてあったことがショックでした。私は先生に反発なんて絶対そんな気持ちはないし、それはイケナイ事なのか、知りたかったので、ただ問いかけただけだったのに。

 ★ なぜ反発と取られたのかというと次の2つの理由があると思います。第1に、課題は生徒が自分で考えるもので先生に質問していいものではありません。自分で考えるべきことを質問した点で教師と生徒の境界線を越えていると思います(もう1人同じ間違いがありました)。

 第2に、イケナイか否は問題になっていないのに「イケナイ事でしょうか?」と発想したことです。微妙な問題をすべて「良いか悪いか」に還元して、人が少しでも疑問を投げかけると「悪い?」と反問する人がいます。これは貧しい考え方で、これでは進歩しないと思います。あなたが反発したのではないことは分かりましたが、こういう「誤解」が生じたのはあなたの言葉に原因があったと思います。

──直立歩行のはじまりが人間の病気のはじまりというのは面白いと思った。納得したいような気はするけれど、愛犬が心臓病が原因で肺水腫で昨年亡くなっているため、その考えにまだ納得できない。

 ★ 飼い犬は野性動物ではありません。「犬が亡くなる」はおかしい。

──私も東洋医学に興味があります。先生も、話をするとき、すごくニコニコしていた。病は気から、ですね。私も自分の不調の時の症状をプラス方向に考えるようにして、自分を支えています。

──うちの母は薬があまり好きではない。カゼを引いても「人間には自然治癒力があるのだから」と言われ、野菜を食べさせられる。しかし、薬の効果や副作用をしっかり理解して使うのは全然問題ないと、私は思う。

 ★ カゼに効く薬はありません。体を休めて野菜を食べるのは最高だと思います。立派なお母さんをもったことを誇りに思ってください。

──「ミシマの泉」に行ったことあります。いろいろなお風呂があって楽しめるし、健康にもよさそうだし、個人的にも好きです。ところで先生はあそこの「人間洗濯機」に入りましたか?

 ★ 「ミシマの泉」ではぜひ温冷浴をして下さい。「人間洗濯機」のように動きの激しいものは老人には向かないと思います。

 スーパー銭湯でなく「日帰り温泉」みたいなのについてみると、ここ2~3年、このあたりにも随分いろいろと出来ましたね。八扇乃湯、大東温泉、和ぎの湯、川根のふれあいの泉、湯谷温泉のゆーゆーありいな、とかです。私は脚に故障が出るようになってから、ゆーゆーありいなのプールによく泳ぎに行っています。温泉なので水が温かいのがいいです。家から40分で行けます。


「天タマ」第21号

2019年01月01日 | カ行
「天タマ」第21号(1999年11月 4日発行)

           浜松市立看護専門学校 哲学の教科通信

 今回は、人間関係をそれだけとして考えるのではなく、それを取り巻く状況の中において考えるということを主題にしましたが、そのテーマより「レポート発表における匿名希望の自由」の問題に皆さんの関心が大きかったようです。少し感情的になっているような所もあったと思いますが、これは自制して欲しいと思います。

 これを巡る賛否両論を網羅します。

  ★ 匿名のメリット、記名のデメリット

──先生の意見に対して否定的な意見が名前付きで載ると、「あの子、先生に反論してるよ」、「当たり障りのない事を書いておけばいいのに」とか思われそうで、怖い。

──他人に自分の意見を見せると、他人がどう評価するか気になるので、苦手です。こういう人達が多いので匿名希望が多くなっているのではないか。

──知られたくない事や個人のプライバシーに関する事は匿名にしてよい。

──みんなは私のことをあまり知らないし、私もみんなのことをあまり知らないので、恥ずかしい。

──自分のクラスだけならまだしも隣のクラスまで配られるので恥ずかしいと思うのかもしれない。

──自分の考えを伝える相手は自分で決めたい。だから少しでも自分の考えを守るために匿名希望にするのである。

──先生が名前を載せても構わないと思う内容でも、本人にとっては名前を出したくないものかもしれない。

──人のは見たいけれど自分のは見せたくないというのは誰にでも少しはあると思う。

──考え(どんな意見か)が知りたいのであって、誰の意見かは問題でない。

──匿名だから言えるということは意外に多い。

──先生には言えるけれど他の生徒には知ってほしくないことがきっとあるのだと思う。

──私も匿名希望にしたことはあるけれど、それは「何となくいやだから」という感じです。自信がないのです。

──匿名で自分の意見が載っていたら、自分の考えに対する友達の考えも聞ける。名前を出したら、友達の本音は聞けないかもしれない。

  ★ 匿名のデメリット、記名のメリット

──哲学とは人と人との対話の中から生まれ育つのであり、匿名希望で「以降話し合いお断り」とした人は、本人はそのつもりがなくとも、物見の塔信者が剣道の授業を拒否したように、哲学の授業を拒否した形になっていると思う。

──哲学の授業では意見を発展させて考えを深めることが大切だと思います。匿名希望だと、その人の意見をみんなに伝えることは出来ても、他の人からその人への意見が伝わらず、考えが深まらないので、私もなるべく匿名希望を使わない方がいいと思います。

──匿名希望にしたい気持ちは分かるけれど、自分の意見を言うのは気持ちがいいし、それに同調してくれる人がいたならばなおさら気持ちがいい。

──名前があると、人との交流の上でいいきっかけになることもあると思う。意外な一面や共感出来る考えを読むと、「この人はこんなこと考えてたんだ」とその人を知れていい機会になる。

──私は「天タマ」に名前が載ると、恥ずかしいけれどちょっと嬉しい。読む方として見れば、いい文があると、これ誰のだろう、と思ってしまうのが当然であると思う。

──日常の付き合いではあまり真面目な話をし合わないためか、「天タマ」の人の意見は新鮮で、みんなすごいことを考えているなと、感心したりできる。むやみに匿名希望を使うのではなく、「これは身内のことだから」とか根拠があって仕方のない場合のみ使っていくのが、匿名希望の目的ではないだろうか。

──こういう形式の授業は今までなかったので、慣れなくて、自分の意見を載せられることに抵抗を感じるかもしれないが、だんだん慣れてくれば、特に気にならなくなってくるのではないかと思います。あの人はこういう考えを持っているのか、と思えていいです。

──家族やプライバシーに関わることは匿名希望でもよいが、テーマについての自分の意見はしっかりと名前を出す方がよいのではないかと思う。その意見が合っているかは、その後みんなで考えればいいことである。

──カンファレンスで話し合うことですでに自分の意見を相手と交わしているのではないか。そう考えると、文章にしたものはなぜ匿名希望なのか。グループの人の意見だけでなく、もっとクラスの人の意見を聞いてみたいから、なるべく匿名希望は避けてほしい。

   次のような具体的な対策案がありました

──カンファレンスの班を毎回、変える。匿名にしても、今まで話さなかった人と話ができる。

 ★ これは皆さんで考えて、時々席替えしてくれるように希望します。

    講師の感想

 初め少なかった匿名希望がだんだんと増えてきましたので、どうしてかなと考えました。女子高校生のスカートやルーズのように、ほかの子がするから~ということで、安易に匿名希望をしているのかな、とも思いました。そこで、皆さんに問題を提起しました。

 「講師の意見を聞いていると、匿名希望に対して自分の意見を押しつけていると思ってしまう」とか、「匿名希望で書くのはイケナイ事なのでしょうか?」といった反発気味の意見もありましたが、皆さんよく考えてくれたと思います。

 名前を出すのは恥ずかしいという心理についてはこんな事を思い出しました。

 中学時代、『山びこ学校』とかいう農村の作文教育が評判になったころ、私の国語の先生(この人は担任でもあった)が、みなの作文を読ませようとしました。最初、ある女子生徒が指名されましたが、その人は泣きだしてしまい、ついに先生は諦めました。次に私が指名されて読みました。

 その後、どうなったかは覚えていません。中学生の作文は身の回りのことを書くので、私は魚屋の住み込み店員さんと裏の池で魚釣りをしたことを書いたのですが、友達からその後少し聞かれました。

 しかし、やはり一番関係していることは、そのクラスがどの程度本当のクラスになっているか、ということではないかと思いました。これは直観みたいなもので、証拠はありません。S大学のドイツ語の授業の教科通信では名前を全然載せていません。2クラスあり、相互に無関係だということ、大学のクラスはクラス自体が本当のクラスになっていないということ、がその理由です。

 それ以上の感想としては、皆さんは本当の話し合いに慣れていないな、と思いました。これは皆さんの責任というより、学校教育の問題かもしれません。ともかく、多くの人は、人と話す場合、馴れ合いと感情的対立の両極端しかないようです。話し合うというのは馴れ合いでもなければ、感情的対立でもないと思います。自分の意見も冷静に言い、相手の意見もきちんと聞く。その中で本当の事はどうなのだろうかと一緒に考えていく、これが話し合いだと思います。どんな結論になっても、あるいは結論が出なくても、話し合ってよかったなと思えるような対話をしたいものです。

   今回の結論

 授業要綱はそのままです。つまり、「匿名希望も可」です。「匿名希望の意義について考えて、安易に使わないように」と言う必要はないと思います。もう既にしっかり考えたのですから。

   「哲学の授業が苦痛だ」という「疑問」について

──私達が将来看護婦になった時、深く考えることは重要なことになると思う。安易な考えでは場合によっては患者の生命の危機へと結びついてしまうこともあるだろうし、患者にとってより良いケアが出来ない気がする。だから、自分の考えにとらわれず、客観的にものをみつめ、様々な方向からの意見、考えができなくてはならないと思う。創造性も養わなくてはいけないと思う。自分の考えを見せるということは、つまり自分の考えを相手に伝えることはどんな時でも大切なことである。看護婦はチームプレーが鍵となる。

 患者に説明する時も、人に何かを伝える時も、納得のいく説明や自分の気持ちを伝えるためにも、人に自分の考えを見せるということは大切なことではないだろうか。しかし、これらのことはすぐに出来るものではない。だからこそ哲学というこのような時間を利用して、深く考えることや相手に伝えることが出来る能力を養っておかなくてはいけないのではないだろうか。

──この人は今回このような事を書いて後悔していると思う。自分がこの授業に対して思っていることを正直に書いたことで、このようなテーマとなり、周りから批判(批評)を受ける。先生だけに伝えて一つの意見として見てほしかったと思う。

──私は今まで生きてきて、こんなにも物事を深く考えたことはありません。考えていると言ってもいつも表面ばかりで、そこから先に進みません。でも、哲学の授業を学び、身近な「対話」や「先生と生徒」、「親」などのことからも深く考えられるのだと思いました。また、よく考えてみると奥が深いということを感じました。

 この人のように、自分が考えたことを心にしまっておきたいという人もいると思うけど、私は、自分の考えた事を言うことにより、相手の考えも聞くことが出来るし、そうすることでより深く物事を考えることができる、ということにつながると思います。他の人の考えを聞き、新たな自分にはないものを得られるかもしれません。

   講師の考えの一部

 深く考えないで生きたいのも、人に自分の考えを見せたくないのも、それ自体としては「個人の自由」だと思います。問題は、看護婦になること、看護学校に来ていること、哲学の授業に出ることと、その自由との関係です。

 体操の授業の目的は柔道をすることではなく、体を鍛えるとかですから、柔道をしないでも、ほかの手段で替えられます。しかし、哲学は考えることであり、授業に出ることは最低限、先生に見せることを含んでいると思います。従って、深く考えたくないとか、先生にも見せたくないという人は哲学の授業の前提に抵触するわけです。ではこの時どうしたらよいか。これが本当の問題なのです。或る事柄をそれだけとしてだけでなく、状況の中において考えるとはこういうことです。

   状況と人間関係

──今の制度で看護婦が患者の話をじっくり聴くことは、困難かもしれないが無理ではない。ある看護婦に患者の話を聴く時間はあるのかと質問すると、「時間を作って行く。業務的に夜になってしまうけれど」と言っていた。その時はベッドサイドで椅子に腰掛けて話をするそうだ。「忙しいからできない」というのはもっともらしい理由に聞こえるが、実は適当な言い訳なのかもしれない。

   組織はトップで8割決まる

──私は中高と吹奏楽をやっていたが、指導内容と大会での成績とは比例していた。そして、いい先生がいなくなるとすぐに成績は落ちた。あの先生はいい先生だといううわさがあると、よけいに付いていこうという気持ちが大きくなった。こういう評判もプラスになりマイナスになると思う。

──組織はトップで8割決まる、というのが現状かもしれない。しかし、それではトップだけの世の中になってしまって、トップ以外の人の意見はどうなってしまうのだろう。でも、今は、学校でもそうだけど、意見を言う所がないので困ってしまう。もっとトップがこの現状を知ることと、トップ以外の人は、自分たちが意見の言えるような場所をつくったら、もっと割合が変わると思う。

   コスモス寺のVTR

──私は結婚して子供が出来たら、家族で花畑に行って、寝ころがったり、香りを楽しんだりしてのんびりしてみたい。好きな人ときれいなものを感じることは、同じものを共有して、また一歩距離が縮まる気がする。

──コスモスは安らぎを与えてくれる花だと思います。中学生のころ、私は姉にコスモスの種をもらい、温水で育ててみたら予定より3ヵ月も早く花が咲いてびっくりした思い出があります。しかし、咲いた30本のコスモスは次の日、祖母が1本 100円で売ってしまいました。種は 100円なのに3000円のもうけ! うれしいのも束の間、もうけ分はすべて祖母のもとへ。悲しい思い出でした。

   その他

──先生は、学校の教育はサービス業だといいましたが、私は違うと思います。予備校や塾はサービス業だと言われても仕方がありませんが、学校は、勉強を教える場所でもありますが、人間を育てる場でもあります。サービス業というだけで軽い物のような感じがしてしまいます。

──「宿題」について、なぜ先生は「お父さんの方がよい」とおっしゃったのでしょうか。

 ★ お父さんは会社勤め、お母さんは専業主婦かパートというのが多いと推定される。日頃からお父さんとの対話がとても少ない人が多い。当の問題を話し合うのに適当な人ならもちろん誰でもいいし、お母さんとの話も否定していません。

──「授業要綱の修正」で「Eメールで意見を送ってもよい」とありますが、先生は勤務時間外のプライベートな時間でも哲学や生徒との関わりを持つことがいやではないのですか。

 ★ 教師は学校でだけ働くのではないと思います。授業の準備、テストの採点など、私の場合なら教科通信の作成など、家庭ですることがあります。問題はそれをどの程度するかということだけだと思います。メールが少し来る程度なら問題はありません。

──今回の「天タマ」で私の意見が取り上げられていた。この事について私は何か悲しい気分になった。今考えてみれば、私は先生の考えに対して否定的にとらえてしまっていたように思う。しかし、私が先生の考えをそのようにとらえてしまったことは事実である。そのとらえ方が本来先生が言いたかった事とは違ったのでしょうか。

 ★ 「天タマ」第20号の記事で、皆さんが判断して、こういう載せ方では筆者が悲しくなると思う、という記事がありましたら、お知らせ下さい。私は少し困惑しています。少なくとも冷たい扱いはしていないつもりなのですが。

──「天タマ」で先生が書かれているように私たちは「目に見えているものしか見ていない」かもしれない。でも、私は今は学生で患者に接する時はまだ患者のことだけを見ていいのではないかと思う。たしかに周囲の状態が見えていないし、まだ社会というものが見えていないのかもしれない。社会のルールについて甘い考えかもしれない。でも、これはこれから社会の波みたいなものにもまれて自らが感じ取れていければいいのではないかと思った。

 今、学生のうちでしかできない一人の患者さんと向き合い、いろいろなことを学んでいる。これから看護婦になる上でとても貴重な体験をしていると思う。看護婦になったらなかなか出来ないことだと思う(看護婦を見ていると)。それを私は大事にしたいと感じた。

──ある授業でデンマークは老人の自殺率が高いと聞いた事があります(記憶違いかもしれませんが)。またある本で、日本とデンマークは文化が違うのでデンマークのような福祉制度は日本にはそのまま使えない、というのを読んだことがあります。それも踏まえてデンマークの制度について学ぶことは、すごく哲学的なことだと思います。

   読みやすいレポートのために

 まだ読みにくいレポートがあります。字を直すというのはなかなか大変なことだと思います。もちろんきれいな字で書こうと思う気持ちも大切ですが、次のことなら実行しやすいのではないでしょうか。

・濃い字で書く。これはとても読みやすくなります。2B以上にしてほしい。
 ・大きめの字で書く。これも役立ちます。
 ・行間と左右の隅を空ける。