□25『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆)

2018-08-16 21:05:30 | Weblog

25『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作元文一揆)

 1727年(享保12年)5月、幕府は津山藩の石高を10万石から5万石に減らす。幕府は、津山藩領として残った以外の主だった地域を幕領とし、代官所の差配に置いて直接支配した。その当初の年貢率は「五公五民」であった。もう一方の津山松平氏による治世も、山中一揆の後、追ってだんだんと地固めがなされていく。
 4代にわたる治世を経過する頃には、財政を立て直すなど、藩政を改革しようという機運が出て来た。4代藩主の長孝が38歳で没した後には、その子、松平康哉が、1762年(宝暦12年)に11歳で家督を相続した。英明と言われた彼は、それから9年後の1771年(明和八年)には藩政改革に着手した。かかる改革の諮問役には、儒者大村荘助と飯室荘左衛門を頼りにした。彼は「新法」を唱え、庄屋制度の廃止などの改革をおこなったものの、その実は上がらなかった。


 1739年(元文4年)旧暦3月には、北方の隣国である鳥取城下の因幡(いなば)や伯耆(ほうき)でも百姓一揆が起こっていた。これを「因幡伯耆騒動(一揆)」と呼ぶ。

 これに触発されてか、同じ年、1739年(元文4年)、今度は幕府の天領となっていた旧津山藩の一部地域、勝北郡(しょうぼくぐん)で百姓一揆が起きた。これを「勝北郡横仙(よこせん)一揆」、「勝北郡騒動」又は「美作元文一揆」と呼ぶ。


 この一揆は、前年の幕府の布告によって年貢率が「五公五民」から「六公四民」へと引き上げられた時期と重なる。気象も何やら怪しく、不作が続いたという記録も残っている。ついに堪忍袋の緒が切れた勝北郡北野村(奈義町)百姓の与(與)三衛門と藤九郎をリーダーとして横仙の農民たちが立ち上がった。そもそもの決起は、隣村の近藤村の百姓との連合にとどまっていた。それがしだいに横仙35か村(これには、是宗、宮内、北野、成松、高圓、久常、澤、柿?、勝加茂西中、新野西下村などが含まれる)に広がった。


 この一揆の発生場所となった勝北郡北野村に「西分」の地名があり、「角川地名辞典」においては、この一揆の中心の一つであったところの北野村の経緯が、こう説明されている。


 「西分(近世) 。江戸期~明治7年の村名美作国勝北郡のうち滝川上流域、滝山南麓に位置する享保6年北野村が町分と当村に分村して成立。なお、分村後も2村を合わせて北野村と示すこともある。幕府領村高は、「東作誌」には「北野村西分」と見え363石余、「天保郷帳」は北野村八三3石余のうち、「美作鏡」「旧高旧領」ともに「北野村西分」と見え363石余。「東作誌」では家数33・人数140。
 元文4年北野村百姓与三右衛門・藤九郎らが起こした元文勝北騒動は、横仙35か村3000名以上の農民が参加する大一揆となり、東分と当村の庄屋は御役取上となっている。倉敷県を経て、明治4年北条県に所属同7年滝本村の一部となる。」(「角川地名辞典」)


 この一揆の顛末についてより簡単には、地誌である『東作誌』は、次のように伝えている。


 「元文四年巳未二月北野村藤九郎与右衛門等張本として、百姓等五百三十五人村数十三邑徒党して乞食に出て押て物を乞ふ是に依て頗る騒動に及ぶ(中略)三月四日に吉野勝北之頭分なる庄屋十五、六人見候て、其時御代官曽根五兵衛様御手代中丸清助殿より、集居申候場所罷越、彼是と宥め、取鎮め候様にいたし見申候得共、中々に承引不仕、却て敵対一両人にも礫に両疵付け申候。」


 要するに、生活に困窮した百姓たちが、大挙して富家に押し寄せ、飯米などを要求した、というのだ。それでは、同4日の農民たちの、豪農など富家に侵入しての財物の掠奪を伴う行動が、その数2千人(地方史辞典)とも3千人(『日本地名大辞典』)とも言われる。最終的には幕府が出てきて、大坂町奉行稲垣淡路守に命じて事件を裁断せしめる。同年旧暦10月23日、発起人の両人は大坂で死刑に処せられ、その外24人の主だった農民たちも追放処分となった。誠に、情け容赦はない措置であった。

(続く)

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