◎39の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の東西への分裂

2017-10-17 22:27:28 | Weblog
◎39の2『自然と人間の歴史・世界篇』ローマ帝国の東西への分裂

 379年、ローマ帝国にテオドシウス1世(379~395)が、東の皇帝として即位する。彼は、侵入するゴート族をひとまず食い止めた後、かれらとの和解に漕ぎつける。ゴート族は、「同盟者」として帝国内での定住を認められる。その彼の宗教政策は、殊の外厳しかった。380年にはアタナシウス派のキリスト教を国教化する勅令を出す。392年年には、異教信仰を処罰することを打ち出す。その後に西帝をめぐる内紛も鎮め、394年には「四分統治」をやめてローマ帝国最後の統一を果たすまでに、覇権を築き上げる。この間、反乱や何かで自分に刃向かう者に対しては、厳格に対処していく。
 そのテオドシウス帝が395年に死ぬ。遺言により、17歳の長男アルカディウスが東側を、11歳の次男ホノリウスが西側を再び分割統治することになる。東側は、コンスタンティノープルを首都とする。そして西側は、以後、ミラノを首都とする東西のローマ帝国としての統治を継承していく。
ところが、西ローマ帝国の方を引き継いだホノリウスは、政治には疎い人物であったらしい。こちらの方では、その後もゲルマンの侵入や勢力拡大が激しかった。西ゴート族はアラリック王が出て、トラキア・マケドニア・ギリシア・イタリアを荒らし回る。2年には、西ローマ帝国は、アラリック王のイタリア侵攻に押される形でラヴェンナに遷都するにいたる。そうなってからのイタリア全土は、ますますもって西ゴート族の軍隊に蹂躙される。それでも西ローマ帝国の将軍スティリコの活躍で、アラリックと対戦してアラリックの侵攻を再度にわたって阻止する。この間ホノリウスはラヴェンナの宮廷に閉じこもったままであったという。
 反スティリコ派の面々は、元老院と官僚の多数派を形成していた。彼らは、成人になったホノリウス帝を権威付けるべく、408年、スティリコ将軍に罪を被せて処刑してしまう。果たして彼らは、本当に国のためを考えて事を起こしたのであろうか。そしてホノリウス自身は、ここに名ばかりの王になり替わるのであった。優秀な守り人を失った西ローマ帝国を軽んじて、アラリックはイタリア侵攻を再開する。そして迎えた410年、彼の軍はローマ市を陥落させ、大いなる略奪行為を行う。アラリックはこの年に没したが、ホノリウス帝との協約により、418年には、西ゴート族はイベリア半島において、西ゴート王国(418~711)を築くにいたる。
 その後からは、ヴァンダル、ブルグント、フランクなどといった諸ゲルマン民族が次々と帝国内に入り込んできては、住処を広げていく。西ローマ帝国は次々と属州を奪われ、実質的な統治はせいぜいローマ市中心のイタリア半島ぐらいとなっていく。こうなると、どうにもならない空気となっていく。423年にホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命が続く。傭兵として雇われたゲルマン人が、将軍となることにもなっていく。 451年からは、民族大移動の原因をつくったフン族の大王アッティラの軍が西ヨーロッパに侵攻してくる。西ローマ帝国は西ゴート、ブルグント、フランクらと連合軍を組んで戦うものの(カタラウヌムの戦い)、西ローマの軍隊はすでにゲルマン人傭兵隊長が握るところでもあったので、傭兵隊長は皇帝の権威も代弁するにいたっていく。そして迎えた476年、ゲルマン人傭兵隊長・オドアケルは、前の傭兵隊長の子であるところの、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、その後をオドアケル自身はイタリア王位(476~493)を名乗るにいたったことで、西ローマ帝国はついに滅亡するのであった。

(続く)

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(64)『自然と人間の歴史・日本篇』心の平安を求めて(真言宗)

2017-10-17 21:07:20 | Weblog
(64)『自然と人間の歴史・日本篇』心の平安を求めて(真言宗)

 空海(くうかい、弘法大師、774~835)が東大寺の戒壇院にて具足戒を受け、正式な僧となったのは、803年(延暦22年)のことである。その翌年、彼は藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)らの遣唐使の一行に加わることにする。肥前の松浦郡田浦(まつらぐんたのうら)から、全4隻のうち第一船に乗った。第3、第4の船は航海の途中で連絡を断ち、2隻だけが大陸に到達した。
 空海は、774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)に生まれた。生家は裕福であったようで、15歳にして京の都に上り、18歳になると大学に入って儒教や道教などを学ぶ。いずれもあきたらず、大学を途中でやめて、ただ一つ深い関心を持った仏道の修行に明け暮れるようになっていく。四国や近畿の諸国を健脚で渡り歩くうち、仏教へ帰依するに至る。20歳にして河内の槇尾山で得度を受け、剃髪して僧侶の仲間入りをする。空海は、その彼が22歳の時3度目に改めた法名にほかならない。
804年(延暦2年)の遣唐使で最澄と同じ機会を得て入唐した空海であるが、大乗仏典のうちの「大日経」の疑義を解く師匠を探していた。「大日経」の原典はインドの古語であるサンスクリット語で書かれており、正式名は『大毘盧遮那成仏神変加持経』といい、その漢訳は724年、唐の仏僧、善無畏らが行った。ここで毘盧遮那如来は、菩提心とは何かを、こう語りかける。
 「金剛手言。如是世尊願樂欲聞。佛言菩提心爲因。悲爲根本。方便爲究竟。祕密主云何菩提。謂如實知自心。祕密主是阿耨多羅三藐三菩提。乃至彼法、少分無有可得。何以故。虚空相是菩提無知解者。亦無開曉。何以故。菩提無相故。祕密主諸法無相。謂虚空相。」
 この漢文は、次のように書き下しされる。
「金剛手言さく、是の如し、世尊、願楽(ねがわ)くは聞かんと欲す。仏言さく菩提心を因と為し、大悲を根本と為し、方便を究竟と為す。秘密主、云何が菩提ならば、謂く実の如く自心を知るなり。秘密主、是の阿耨多羅三藐三菩提は、乃至彼の法として少分も得可きこと有ること無し。何を以ての故に。虚空の相は是れ菩提なり、知解の者も無く、亦た開暁(さとる者)も無し。何を以ての故に。菩提は無相なるが故に。秘密主、諸法は無相なり、謂く虚空の相なり。」
 ここに「大日如来」とは、あの奈良の大伽藍・東大寺の大仏(毘盧遮那成仏(びるしゃなぶつ))の別名に他ならない。如来とは、すでに悟りを得た者をいうのであるが、ここにいう「大日如来」は、もっと広大無辺をいうらしい。つまり、万物を照らし、すべての生き物たちを幸福に導く神性を備えた、すでに悟りを得た者を意味する存在、いやそれ以上の「神」とでも言うべきだろうか。ちなみに、この教典に出てくる「大日如来」は、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として、多数説としては現在のネパールのルンビニで誕生した、あのゴータマ・シッダッタ(パーリ語で(Gotama Siddhattha))その人のことではなく、彼のことを神格化させたところの、人間の想像上の覚醒者、俗的には「仏」のことだと考えられる。その初代の仏から数えて7代目の生き仏としてあったのが、長安の青龍寺の住職の恵果和尚(けいかわじょう)であり、若き空海はその恵果と運命的な出会いを経験するのである。
 ところで、この恵果なる人物は、先に暦のところで述べた中国僧の一行禅師と関わりがある。一行という人は、中国に来てインドの密教を伝えていた金剛智(こうごうち、インド名はヴァジラボーディ)と善無畏(ぜんむい、インド名はシュバカラシンバ)の二人から、それぞれ金剛界、そして胎蔵界の密教を授けられる。そんな一行には、金剛智から教えを授かった不空(ふくう、インド名はアモーガヴァジュラ)と、善無畏から教えを授かった玄超(げんちょう)という二人の兄弟弟子がいた。
 ちなみに、平安期に入唐した空海にインド発祥の密教を授けた人物として知られる長安の恵果(けいか)は、不空と玄超の二人を師と仰ぎ、かれら二人からその法灯を受け継いだ人物にほかならず、その教えがさらに空海へと海を渡って伝わっていくのである。このような法脈でみる限り、空海は一行の相弟子の孫弟子となるではないか。
 恵果和尚としても、空海に会って、後継者にと意を固めたに違いない。さっそく、寺の道場において、「胎蔵界・金剛界の二つの灌頂(かんじょう)と、この両方に係わる伝法灌頂を空海に与える。そのほか「三蜜の加持」についても授ける。「遍照金剛」の法号は、その時の灌頂名に他ならない。空海が師匠から受け継いだ真言の教えは、密教の秘技を含む。その儀式がどんなであるかは、今でも厚いベールに包まれている。そのあらましは、田村圓澄氏による「空海」(「人物日本の歴史3王朝の文華」小学館、1976)に、こんな説明がある。
 「大日如来は、智慧と慈悲のふたつのはたらきをもっているが、智慧を表すのが金剛界である。如来の智慧は金剛石(ダイヤモンド)のように堅く、すべての煩悩を破る力をもっている。慈悲は胎蔵界として表される。母の胎内で子がは育てぐくまれるように、如来の慈悲はいっさいを抱き込む。
 この智慧と慈悲をそなえた仏の位に到達したことを示すのが、灌頂すなわち頭の上に、水を注ぐ儀式である。密教の法式により荘厳された道場で、師であるあじゃりが受者の頂(かみ)に水を注ぎ、また法具を与え、大日如来と等しい宝冠を頭上に置く。受者は大日如来の印を結び、みずから大日如来に等しいことを自覚する。即身成仏、すなわちこの身このままが仏になったのである。
 真言宗の教典には、真実が隠されている。真言以外の仏教を顕教(けんぎょう)、すなわち、あらわに示された仏法と呼ぶのに対し、真言を密教とよぶのはこのためである。したがって真言密教は、絵図によって相伝される。」
 およそこのようにして、空海は、第7祖の恵果に次いで、真言密教の第8祖となったのだ、とされる。そして、空海は日本に全てを持ち帰り、816年(弘仁7年)43歳のとき、天皇の許しを得て、高野山に修験道場のための土地をもらいうけ、金剛峰寺(こんごうぶじ)を建立する。
 その彼は、僧のみならず、実に多芸多才の人でもあった。821年(弘仁12年)には、朝廷に願い出て、「別当」の職を名乗る資格を手に入れる。そして生まれ故郷の讃岐に帰ることを考えていたものか。おりしも、現地で築池使をしていた浜継が空海を迎えに上京し、まんのう池の修復工事の指導を請うと、空海は沙弥一人と童子四人を連れて讃岐に入っていく。そして、現地の灌漑工事の総監督に就任する。するとたちまちのうちに噂を聞きつけた民衆が集まり、修復工事はわずか3ヶ月かそこらで無事に終了したのだと、讃岐地方に伝わる。この工事だが、空海が中国にいたおり、僧の法顕(ほっけん)がスリランカのシンハラ王朝(紀元前3世紀~1815)から習得してきた土木・灌漑技術を教わったのだという説がある。そのシンハラ王朝だが、大昔から現在のスリランカ(セイロン島)にあった王国で、アーリア系のシンハラ人の系統であり、シンハラ王朝は最後の王朝であるキャンディ 王国がイギリスに滅ぼされるまでの約2300年続いた。前3世紀にはインドのマウリヤ朝アショカ王の息子マヒンダによって仏教(上座部仏教、釈尊のひらいた原始仏教に近い)が伝えられた。
 823年(弘仁14年)には、空海は、嵯峨天皇から京都の東寺を任せられる。この寺は教王護国寺と改められ、以来、高野山の金剛峯寺とともにあって、日本における真言密教の法燈を守る中心に位置してきた。821年(弘仁13年)らなると、朝廷から讃岐の国の満膿池(現在の香川県仲多郡満膿町)の修復工事を指揮してほしいと頼まれ、現地を訪れたことが伝わっている。教育でも、「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)として学校を創立しており、これは我が国で最初の庶民にも解放された学舎であったことが伝承されている。
 なお、これに関連して「いろは歌」をつくったのが空海であるとも言われるが、「だが、空海作ではありえない。彼の生きた九世紀前半の日本語には、四十八の音節があった。ヤ行のエ(ye)とア行のエ(e)が失われて四十七音節になったのは、十世紀の末ごろであった。空海が作るとすれば、四十八文字でなければならないのだ」(陳舜臣「元号の還暦」中公文庫、1992)と言われる方が説得力が感じられる。空海が没したのは835年(承和2年)で62歳の時であった。死に臨んでは、弟子達に「生後、今いくばくならず、汝らよく住して、慎んで仏法を守れ、われ永く山に帰らん」と訓戒を残し、食を絶って入寂する道を選んだことが伝わっている。没後の921年(延喜21年)、醍醐天皇より弘法大師(こうぼうだいし)の諡(おくりな)を送られ、これが21世紀に入った今日まで、この国の多くの人々から親しみを込めて呼び慣わされている。
 こうして当時の仏教界で一世を風靡した最澄と空海であったが、この二人には交友があった。それを伝えるものに、811~3年(弘仁2~4年)に空海が最澄に宛てた手紙「風信帖」がある。手紙は、元は5通あったのが、現在に3通が残り、これらのうち最初のものとされるものには、「風信雲書、天より翔臨す。これを披(ひら)きこれを閲(けみ)するに、雲務を掲ぐるがごとし」(本文は漢文、ここでは書き下し文にしてある。木本南○(きもとなんそん)「弘法大師空海・人と書」朱雀書房、2003から引用)に始まり、『摩訶止観』を送ってもらったお礼が述べられ、今度またお会いして「仏法の大事因縁を商量」(同)したいと述べている。こうした「風信帖」3通は、彼の書の中でも「灌頂暦名」と双璧をなすのだといわれる。彼のこの書を拝見すると、雄々しく、それでいて繊細な息遣いの書聖の息遣いまでがつとに伝わってくるかのようである。
 空海その人は、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「平安の三筆」と呼ばれる希有の達筆であった事でも、広く知られる。なお、9世紀には漢字の草書体から生まれた仮名(かな)が完成を迎えていた。これの影響を受けての「優美で流麗な運筆の和様」(河野元昭監修「日本美術史入門」平凡社、2014)を「平安の三蹟」として、小野道風(おののみちかぜ)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)の3名人をあてがう習わしも現代に伝わる。

(続く)
 
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(395)『自然と人間の歴史・日本篇』憲法9条の改正で若者などへの徴兵制はあるか

2017-10-17 19:28:16 | Weblog
(395)『自然と人間の歴史・日本篇』憲法9条の改正で若者などへの徴兵制はあるか

 2015年に成立した集団的自衛権発動を可能とする安保法制導入の関連で、日本に将来徴兵制が敷かれることがあるかについて、問題となる。2017年秋の衆議院選挙において、憲法第9条の変更を政府与党(自民党と公明党)がしたいとの意思を明確に表明するに至っている。このため、今日では、近い将来、この条文に自衛隊が追記されるなりする可能性が大いにあるとの見方が流れている。もちろん、それには、国会での発議と国民投票をクリアしなければならないが、そうなると論議に顔を出してきそうなのが、ここで取り上げたい、徴兵制なのである。
 これまでのところ、政府は「徴兵制はありません」と言っているものの、その法的根拠は示していないし、未来永劫ないとは言っていない。そもそも、首相をはじめ政府役職に属するこの国の政治家たちのほとんどは、官僚のつくった答弁書を墨守するのに徹しているのではないか。だから、政府統一見解とやらの、「当面の結論」のみ述べて、多くは語ろうとしない。
 さて、日本国憲法の中で、将来の徴兵制防波堤になりそうな憲法規定を探すと、第18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、其の意に反する苦役に服させられない」がある。しかし、憲法第9条に自衛隊が明記され、国民に国防の義務を課す内容の改正が通れば、関連法で徴兵制についての規定が設けられる可能性が出てくるのではないか。この問いに、この条文をかざして、国民は徴兵を拒否できると抗弁できることになるのであろうか。
 因みに、大韓民国における兵役義務については、大韓民国憲法の規定を頂点とし、その詳細は兵役法など関連法規に定められている。ちなみに、基本的人権にかかわる規定については、日本国憲法と大韓民国憲法との間でほとんど差異が見られないことに、留意していてほしい。(なお、以下の(1)~(8)の部分は、おおよその検討をつけていただくために掲載しています。確定情報ではありませんのでご注意ください。正確には、専門サイトをお探しなさるか、韓国語表記の法令、さらに韓国法令の日本語訳サイトをご参照ください。)
(1)大韓民国憲法(2015年1月時点でのもの)
第5条①(「項」、以下この記号を用いる)
大韓民国は、国際平和の維持に努め、侵略的な戦争を否認する。
②国軍は、国家の安全保障び国土防衛の神聖な義務を遂行することを使命とし、その政治的中立性は遵守される。
第39条①
 すベて国民は、法律が定めるところにより、国防の義務を負う。
②何人も、兵役義務の履行に関して、不利益な処遇を受けない
(2)大韓民国兵役法第3条(兵役義務)(2015年1月時点でのもの)
①大韓民国国民の男子は、憲法及びこの法律が定めるところにより兵役義務を遵守しなければならない。女子は、志願により現役に限り兵役に就くことができる。
②この法律によることなく、兵役義務に対する特例を規定することはできない。
③兵役義務者であって6年以上の懲役又は禁錮の刑の宣告を受けた者は、兵役に服務することができないし、兵籍から除籍される。
第5条(兵役の種類)
①兵役は、次の各号のように現役・予備役・補充役・第1国民役及び第2国民役に区分する。
 1.現役:徴集又は志願により入営した兵及びこの法律又は軍人事法により現役として任用された将校・准士官・下士官及び武官候補生
 2.予備役:現役を終えた者その他この法律により予備役に編入された者
 3.補充役:徴兵検査を受けて現役服務をすることができると判定された者の中から兵力需給事情により現役兵入営対象者として決定されていない人及び公益勤務要員・公衆保険医師・徴兵専担医師・国際協力医師・公益法務官・専門研究要員・産業技能要員として服務又は義務従事しており、又はその服務若しくは義務従事を終えた者その他この法律により補充役に編入された者
 4.第1国民役:兵役義務者であって現役・予備役・補充役又は第2国民役でない者
 5.第2国民役:徴兵検査又は身体検査の結果、現役又は補充役服務はできないが戦時勤労召集による軍事支援業務は、耐えられると決定された者その他この法律により第2国民役に編入された者
②予備役に編入された者は、予備役の将校・准士官・下士官又は兵に、補充役に編入された者は、補充役の将校・准士官・下士官又は兵に、第2国民役に編入された者は、第2国民役の下士官又は兵に区分する。
③兵役義務者は、それぞれその兵役の兵籍に編入され、兵籍管理に関して必要な事項は、大統領令で定める。
(3)大韓民国兵役法施行令第128条(2012年改正まで)
 2012年の韓国兵役法施行令改正により、1994年1月1日以降に出生した在日同胞を含めた海外同胞は、18歳以降37歳までの通算韓国滞在期間が3年以上になれば、「在外国民2世」にならず、兵役義務が発生するようになる。
(4)大韓民国兵役法第64条(第1国民役の兵役免除等)(2010年1月25日改正まで)
 ①地方兵務庁長は、第1国民役として第1号(身体等位が6級に該当する人だけに該当する)又は第2号に該当する者は、必要に応じて徴兵検査をせずに兵役を免除することができ、第1号に該当する者のうち身体等位が5級に該当する者及び第三号に該当する者は、必要に応じて徴兵検査をせずに第2国民役に編入することがている。
1.全身奇形、病気、心身障害などにより、兵役に耐えられない人
2.軍事境界線以北の地域から移住してきた人
3.第65条第1項第2号の事由に該当する人(傷痍軍人)
(5)兵役法第18条((1999年2月5日改正まで)
①現役は、入営した日から軍部隊として服務する。ただし、国防部長官が許可した者は、軍部隊外で居住することができる。
②現役兵(支援によらずに任用された下士を含む。以下同じである。)の服務期間は、次の通りである。
 1.陸軍は、2年
 2.海軍及び空軍は、2年6月。ただし、海軍の海兵の場合は、2年とする。
 (なお、兵役期間の基本については、2016年1月1日から改正法が施行され、2年6月になった模様であるが、確認できていない。筆者)
(6)兵役法第11条(1999年2月5日改正まで)
①兵役義務者は、19歳になる年に兵役に耐えられるか否かの判定を受けるために地方兵務庁長が指定する日時及び場所(地方兵務庁又は軍病院等をいう。以下同じである。)で徴兵検査を受けなければならない。ただし、軍必要及び兵役資源の需給等を考慮して19歳になる者の一部を20歳になる年に徴兵検査を受けさせることができる。
②徴兵検査を受けなければならない者がこれを受けず、又は徴兵検査が延期された者であってその延期事由が消滅する者は、その年又はその翌年に徴兵検査を受けなければならない。
③徴兵検査は、身体検査以外に必要な場合には、人性検査等を実施することができる。
④第3項の規定による身体検査は、外科・内科等身体のすべての部位を検査しなければならず、必要な場合には、臨床病理検査・放射線撮影等をすることができる。
(以上は、諸種のインターネット情報と高橋和之編『新版・世界憲法集』(岩波文庫)、「韓国WEB六法」などの、日本語訳されたものから適宜選んで引用させていただいているため、韓国語原文に当たることをしていません。追って、原文に当たって検討を進める予定でおりますので、ご了承ください。)

(続く)

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◎198の4『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年8月23日~1999)

2017-10-17 12:20:28 | Weblog
◎198の4『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年8月23日~1999)

 1998年8月23日、混乱の中に改革派のキリエンコ首相は通貨混乱の責任をとる形で辞任させられました。エリツィン大統領によって、臨時首相代行にチェルノムイルジン前首相を指名しました。それでもうまくいかず、さらには保守派のプリマコフが首相に就任しました。8月26日、1ドルが9.5ルーブルに下落。ロシア政府は対ドル為替取引の不成立の宣言を宣言しました。8月27日、外国為替取引を全面停止しました。9月7日、ロシア政府は再度の対ドル為替取引の不成立の宣言をしました。これにより1ドルが30ルーブル以下に為替相場が下落しました。9月11日にはドゥビーニン中央銀行が辞任しました。
 1998年のGDP(国内総生産)は対前年比で5.3%減少、物価上昇率は84%上昇しました。このときのロシアの実態経済がどのような状況にあったかについては、ここで簡略化した総需要の式で当時を再現してみましょう。
 いまロシア一国の総需要Yが消費C、民間投資I、輸出Xから輸入Mを差し引いた純輸出(XーM)から成り立っているとしましょう。ここで政府による投資Gがないのは、当時のロシア経済がそのまま(デフォルト)では、景気刺激なりの政府投資を続けられないほどの財政逼迫の状況にあったことを想定したものです。
そうすると、Y=C+I+X-M・・・・・・・(1)
 ここで投資Iと輸出Xは自分で決めるものであり、他方、消費Cと輸入Mはそれぞれ所得に影響を受けます。
C=Co+cY・・・・・・・(2)
M=Mo+mY・・・・・・・(3)
 ここでcとは限界消費性向であり、mとは限界輸出性向です。
この(1)、(2)及び(3)より、Y=(Co+I+X-(M+)・・・・(4)
(1)の総生産Yと(2)及び(3)の総所得Yとは同じとしているので、次のようになります。
Y=(Co+cY)+I+X-(Mo+mY)
Y=Co+I+X-Mo+(c-m)Y
I=(Co+I+X-Mo)/Y+(1-c+m)
(Co+I+X-Mo)/Y=1-(cーm)
Y(1-c+m)=Co+I+X-Mo
Y=(Co+I+X-Mo)/(1-c+m)・・・・・・・(5)
 さて、いま輸出Xが△Xだけ伸びて、他の要素には変化がないとしよう。それが△Yだけの所得変化を引き出したとすると、
△Y=△X/(1-c+m)・・・・・・・(6)
 このうち1/(1-c+m)は貿易乗数と呼ばれ、(6)は輸出の増分は貿易乗数分だけ所得を増加させることを意味しています。
 次に、この△Yは輸出を増大させるでしょう。この変化は貿易収支にどのような変化を及ぼすのでしょうか。
(3)式より△M=△Xーm△Yだから、
△Xー△M=△Xーm△Y=△Xーm△X/(1-c+m)=(1-c)△X/(1-c+m)・・・・・・・(7)
(6)と(7)から、輸出Xが増えると、所得Yと貿易収支もともに拡大することが読み取れます。
 そして、ロシアの経済を閉塞状況から脱却させたものも、第一の力は輸出の力でした。
 プリマコフ首相は、企業が売り上げた結果として持っている外貨の75%をルーブルに交換することを決めました。ルーブルの切り下げで輸出停滞現象に歯止めがかかったところへ、国がかれらの獲得した外貨の集中管理を打ち出したものです。これでルーブルが持ち直しました。
 1999年からは鉱物資源の価格が上昇します。1999年11月には石油輸出税によって外貨の流入が始まりました。原油価格は1バレル当たりで30ドルから35ドルまで上昇。外貨準備高は、1998年末時点で100億ドル(金60億ドルを含む。)、2000年280億ドル、2001年360億ドルへ伸びました。
 ロシアの経済を閉塞状況から脱却させた第二の力は国際金融支援の力でした。具体的に言うと、2002年2月には、ロシアと日本、米国、そして押収の銀行団による債権銀行団会議(ロンドン会議)が開催されました。この中で、ロシアが背
負っている債務を証券化する方向で調整しました。
 こうした内外からのアプローチにより、ロシアを席捲した経済危機はしだいに遠ざかっていきます。
 1998年1月、ロシアがデノミネーションを実施しました。デノミネーションの実施は、1998年1月のことであり、このときは通貨単位を1000分の1に切り下げる、つまり旧 1,000ルーブル=新1ルーブルとする。それとともに、1ドル6.2ルーブル(旧6,200ルーブル)の上下15%幅を3年間維持することになりました。それからの消費者物価上昇率の推移(対前年比)(外務省ホームページより)ですが、1997年:11.0%、1998年:84.4%、1999年:36.5%、2000年:20.2%というものでした。
 1998年8月、財政悪化を背景にロシア通貨のルーブルが急落しました。これにより、対外債務支払いの一時凍結、為替取引の全面停止などに追い込まれました。1998年9月、外国為替制度の目標相場圏を撤廃し、「管理変動相場制」に移行しました。そして1999年のGDP(国内総生産)で見た経済成長率は、前年のマイナスから一変して5.4%の上昇。工業生産は11.0%、農業生産は4.1%の増加を示しました。
 これらの経済的な小康状態復帰を背景に、プリマコフ政権下で、銀行再建が進められました。金融機関再建庁が設置され、21行について業務健全化計画が立てられました。3年間で再建できるように総額190億ルーブルの財政資金を投下しました。また、先端産業の設備投資促進のために開発銀行を設立しました。

(続く)

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◎198の3『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年7月~8月22日のロシア)

2017-10-17 12:19:19 | Weblog
◎198の3『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(1998年7月~8月22日のロシア)

 1998年7月になると、通貨ルーブルはさらに減価し、国際市場(資本市場)での資金調達が難しくなりました。ロシア政府は紙幣発行を開始します。これは後日に手形等を発行して市場の資金を引き揚げるのではない、いわゆる不胎化介入ではなく、一方的に国家が信用を与えるものであったことから、物価は再び上昇します。その率は45%。こうなると、投資家が国債を買っても、そのカネはインフレーションによって価値が下落していくのであるから、償還してもその率だけ受取額が目減りすることでしょう。したがって、金利はそれを投資して賄える水準にまではい上がっていきます。
 ここでの波及効果として、ロシア政府の発行するルーブル建て国債の価格が急落し、デフォルト(債務不履行)されかけたことがあげられます。なぜ金利が上がれば国債の価格が上がったのでしょうか。
金利(%)=表面利率+【{(償還価格ー債券価格)/残存年数}/債券価格】×100
 この式により、何がおこったかを考えてみましょう。
 まずは、必要な予備知識から。たとえば、いまある国債の年利が20%で、満期になるのが10年、償還価格と発行価格をともに100とすると、
金利(%)=20%=20+【{(100ー100)/10}/100】×100
これがいま5年経って、市場の金利が30%に上がったとすると、
金利(%)=30%=20+【{(100ーX)/5}/X】×100
 これからXを求めると、X=75となって、100ー75=25だけ価格は下落するでしょう。
 今度は逆に、これがいま5年経って、市場の金利が10%に下がったとすると、
金利(%)=10%=20+【{(100ーX)/5}/X】×100
 これからXを求めると、X=133.33となって、100ー133.33=ー33.33となり、33.33だけ価格は上昇するでしょう。
 これでひとまず準備ができたので、前提にできるだけ近づけてロシアの状況を再現してみましょう。
 第一段階として、金利100%のときの価格は、つぎのようになるでしょう。
(金利(%)=100%=100+【{(100ー100)/0.5}/100】×100
 第二段階として、3か月後には金利が150%になります。このときの価格は、次のようになるでしょう。
金利(%)=150%=100+【{(100ーX)/0.25}/X】×100
100+(400ー4X)/X=1.5/1
1.5X=500-4X
5.5X=500
X=90.90が導かれます。
 こうした動きが有って、市場はだんだんと変化していったと考えられます。勢い、無制限に国債を売り続けるロシア政府の姿勢に危なさを覚えるようになり、国債を買い控えるようになります。これに対して、ロシア政府は引き続き買ってもらうため、そして何よりも増え続けた国債の償還に要する費用を捻出するべく、さらに高利回りの国債を発行するようになります。償還期間が1~6か月単位の短期国債の主力を占めていたのは6か月物の短期国債でした。
 それが1998年7月がさらに進むと、利回り100%を超える、そうなると、6か月後の満期には1.5倍のカネを払う必要が出てきます。そのため、ある時点からは、国債の利子を払い続けるためにこそ、国債を発行し続けるという構図となっていきます。危険とわかっているのにその危険なことにズルズルのめり込んでいったのです。
 ところが、これでも焼け石に水の類で、このままでは、即デフォルト(債務不履行)ということではないが、民間にそれを賄うに足る貯蓄がない場合は、そのままに放置していおけば本当の国家債務不履行となりかねません。そこで、国債を発行してドル資金を調達できなくなった政府は、その苦しさから、事態打開を目指して通貨ルーブルの切り下げ、民間対外債務の支払い凍結といった荒療治に出ます。
 そこで、次に、これ以後、具体的な経過がどうなっていったのかかを、少し振り返ってみましょう。
 1998年7月24日にはロシアは公定歩合を60%に引き下げました。8月13日、株式相場急落で取引所が一時停止となりました。これを憂慮した主要7か国(G7)とIMF当局者がロシア経済問題で緊急電話会議を行いました。1998年8月17日、ロシア政府はルーブルを対ドルで最大24.7%切り下げました。具体的には、ルーブルの目標相場圏を1ドルが6.2ルーブル・プラスマイナス15%の水準、すなわち5.25~7.15ルーブルから同6.0~9.5ルーブルへ切り下げました。また、民間対外債務(非居住者へのローン、証券担保付きローンの返済に係るもの)を17日から90日間猶予(モラトリアム)を発表しました。三番目として、非居住者に対して、彼らがルーブル建て債券投資をすることへの制限がありました。四番目としては、1999年末までに償還期を迎える短期国債を中期国債へと切り替えるルーブル防衛措置が取られました。
 1998年8月17日からの混乱の中で、改革派のキリエンコ首相は「これはデフォルトではない。期間をのばすだけだ。」と事態の沈静化を図りましたがうまくいきませんでした。その頃の新聞報道によれば、それまで国債の購入について政府に協力的であったロシアの産業金融集団(FIG)の中にも国債消化など政府・金融当局の財政運営、そして国内経済の先行きに懐疑的になるところが出てまいります。
 「さらに過去2年間政権に協力的だった民間銀行、エネルギー企業などの離反が目立ち始めた。IMFに約束した短期国債発行停止は国内銀行の利潤の元を絶つことになるし、徴税強化に対しては国内最大企業のガスプロムをはじめ有力企業が抗議の声を上げている。これらの議会や財界の大部分が政権の方針にそっぽを向いたことが今回の金融危機の背景にある。」(日本経済新聞、1998年8月18日)と。
 こうして、1ドルが9.5ルーブルに下落(一説には、8月17日のその日のうちに1ドルが6.3ルーブルから9.5ルーブルへと変化した。)。ロシア政府は対ドル為替取引の不成立の宣言を宣言しました。8月27日、ロシアは外国為替取引を全面停止しました。9月7日、ロシア政府は再度の対ドル為替取引の不成立の宣言し、これにより1ドルが30ルーブル以下に為替相場が下落しました。
 当然の事ながら、ロシアの銀行には市民が預金払い戻しに殺到しました。日本の新聞各紙も8月17日「両替所に列をなすモスクワ市民」を写真で報道しました。銀行の多くは、窓口を閉めるか、預金の払い戻しに応じたものの、資金の枯渇により、営業停止へと追い込まれていきました。そしてこの間も、政府はルーブル紙幣を印刷するため輪転機を回しつつルーブルを増刷し続けました。国内商品市場での急速なインフレーションはやむところを知りませんでした。

(続く)

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◎198の2『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(その前史、1997~98年6月)

2017-10-17 12:18:14 | Weblog
◎198の2『自然と人間の歴史・世界篇』1998年ロシア通貨危機とその帰結(その前史、1997~98年6月)

 ソ連解体後のロシア連邦の経済は、おおむねトンネルを抜け出せないまま、推移していきます。そんな中でも、金融面は、1992年7月、外国為替の複数相場制から中央銀行公表レート制へ移行しました。1993年7月、旧ソ連邦ルーブル紙幣から新ロシア・ルーブル紙幣への切り替えがありました。1995年1月、財政赤字の中央銀行借入れを禁止しました。短期国債発行方式に移行しました。同年7月、外国為替において、目標相場圏(コリドール制)を採用しました。
 そして1996年6月、ロシアとしてIMF8条国となりました。毎日新聞は、このことを伝えています。
 「日本が国際通貨基金(IMF)8条国になった。これにより国際収支の悪化を理由にした為替取引制限ができなくなり、民間が行う外国との資本取引や輸入貿易制限がほぼ30年ぶりに解かれた。円は交換可能通貨になった。本格的な開放経済体制移行に際して、政府はとくに声明を出し、先進国への仲間入りを宣言、国民の協力を求めた。経団連など財界各団体も決意を明らかにした。」(1964年4月1日付け毎日新聞より引用。)
 そして迎えた1997年4月、外国人(非居住者)による国債投資の段階的自由化が開始となりました。参考までに、この間の消費者物価上昇率推移(対前年比)(外務省ホームページより)は、次のとおりでした。1992年:26.1倍。1993年:9.4倍。
1994年:3.2倍。※1995年はデータがありません。1996年:21.8%。一進一退で、推移していましたから、庶民の生活はさぞかし大変だったでしょう。
 1992年1月の価格自由化を境にハイパーインフレーションが起こり、1995年まで継続しました。その後、1998年の財政金融危機後に再び増加を見ました。そして、1997年を迎えた頃、その間政府の財政はますます多額の国債を継続的に発行することてだ賄われるようになってきていました。そうした鳴り物入りのロシア国債を国内で買ったのは、ロシアの金融産業グループ(FIG)が筆頭でした。塩原俊彦氏の論考によれば、1997年4月1日現在のFIG内銀行の国債投資残高、及びその額の1996年10月1日の残高からみた増加率は、づきのようなものでした。
 「①ナショナル。リザーブ銀行4412(100万ルーブル)、ー2.99%。②オネクシム銀行2564、681.72%。③国際金融会社(MFK)1013、188.72%。④インコム銀行3439、75.13%。⑤インペリアル銀行479、ー24.44%。⑥SBSアグロ4869、68.20%。⑦モスト銀行212、189.84%。⑧アルファ銀行1288、271.32%。」(塩原俊彦「現代ロシアの政治・経済分析」丸善ブックス、1998)
 こうして中でロシアは1998年を迎えていました。1998年1月1日をもって、ロシアは従前の1000ルーブルを新1ルーブルとするデノミネーションを実施しました。
 1998年5月半ばから短期国債の利回りが40%程度から118%程度まで急上昇しました。7月22日、連邦財務省が短期国債の新規発行オークションを中止しました。7月24日になると、IMF(国際通貨基金)による第一トランシェ48億ドルの割り当てがありました。8月12日には、7月7日に取り決められていた世界銀行からの構造調整融資の15億ドルのプログラム枠の中から3億ドルを借り入れました。
 1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。この状況のもとで、7月13日にはMF(国際通貨基金)などによる総額約230億ドルの国際金融支援が合意されました。伊藤光晴氏は、こうのべています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)

(続く)

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◎198の1『自然と人間の歴史・世界篇』1995~1999年の世界金融とロシア金融危機(国際的視点から)

2017-10-17 12:16:45 | Weblog
◎198の1『自然と人間の歴史・世界篇』1995~1999年の世界金融とロシア金融危機(国際的視点から)

 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが第二期クリントン政権の財務長官に迎えられました。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばくという離れ業を次々としていったのでした。
 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていきます。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破しました。1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に
警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫きました。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ株価は1999年3月には10000ドルを突破しました。
 海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
しかし、このように金融大国への波に逆流もあったのは事実です。その中で、ひとたびこの波が逆になるとどのようなことになるかを教えてくれたのが1998年7月から9月にかけてのロシア金融危機でした。
 これより先、1997年からのアジア金融危機では、米英の金融機関とそれの意を汲むIMFは自らの影響力と利益拡大のために奔走していました。その傍らで、彼らはロシアに「黄金」を見つけていました。しかし、そのロシアに金融危機が近づいてくるに及んで、状況は一変します。そして迎えた1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。そして迎えた7月13日、IMFなどによる総額約230億ドルの国債緊急融資を合意しました。伊東光晴氏は、こう論評しています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 さて、かれら米英を中心とする金融機関の中で得意な位置を占めていたのが、ヘッジ・ファンドの面々でした。その中でも、米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)でした。
 このCTCMの最大の収入源は、ロシアの国債とアメリカの国債を巡っての裁定取引(さや取り)でした。それは、簡単な例で言うと、投資家は性質(満期までの期間、クーポンレート、信用度)が似通った両方の債権を市場から探し出します。まずはアメリカの利回り10%の国債を買い入れる、としましょう。それから、いま割高感のあるアメリカ国債を売っておき、その一方で割安感のあるロシアの利回り20%の短期国債を買っておきます。この場合、支払い不能になる可能性がより高い代わりに高い利回りが期待できるの債権A(「ジヤンク債」)がロシアの国債であり、利回りは安いものの安全性に勝る債権Bとの間に発生する理論値からの乖離を利用して膨大な利益を上げていくのです。
 このことを、具体的な簡単な例でなぞってみることにいたしましょう。その後時間が経過して市場が動き、米国債の利回りが年20%とロシア国債のそれとの差が同一となり(または縮まり)(他の条件は変化なしとして)、両者の関係が理論値価格に届いたら、こんどはアメリカの国債を買い戻し、ロシア国債を売りますと、その差額分(収益)から取引手数料を差し引いた分が投資家の利益となるでしょう。CTCMは「平均で30倍以上」のレバリッジ(取引金額/保証金)で投資家の資金をかき集めて投資を行い、そこから莫大な利益を得ていました。ところが、いまロシアに金融危機が起きて、ルーブルそのものの価値がドルに対して暴落するようになると、ルーブル建てのロシア国債の利回りは急上昇することになり、本来は縮まるはずの両者の金利差が逆に拡大してしまうことで、利益が上げられなくなったのです。 
 ここにリスクの顕在化に直面化した投資ファンドがジャンク債=ロシア国債を大量に手放そうとしたために事態は悪化していきました。そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来て、外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちはそれらの債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちのロシア国債以外のアメリカ国債などの債権や株式のたたき売りを始めました。
 こうしたロシア金融危機の進展により、米系金融機関は大きな痛手を受けました。中でも、ヘッジファンドの雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 1998年8月17日、ロシアがついに債務不履行(デフォルト)か、という事態に見舞われました。その結末については、1998年8月23日の日曜日、政府のルービン財務長官とFRBのグリーンスパン議長が取り持った、ニューヨーク連銀11階の会議室での金融機関14社の集まりでCTCMへの資金拠出で支えていくことが決まったことでした。後にグリーンスパンがキャピタル・ヒルの銀行委員会公聴会で「席を貸しただけで、政府機関として具体的な救済に乗り出したわけではない」と言い張ったように、あくまで民間による民間の救済を実現すめるために仲介の労をとった、ということでしたが、その会議を事実上主導したのはニューヨーク連銀のピーター・フィッシャー副総裁であり、彼は各社の代表を前にして、連鎖的な倒産を回避するには、「LTCMの破たんは絶対に避けなければならない」ことを言い放ったと伝えられています。
 このロシア発の金融危機は、ニューヨークばかりでなく、ロンドン、香港、シンガポールも、モスクワも、フランクフルトも、世界の名だたる金融市場のほとんど至るところで、動きがありました。その後も数回にわたる14金融機関の会議の後、「「14社が均等に2億5000万ドルずつ出し合って、総額35億ドルの緊急資金を注入する」という線で、なんとか折り合いをつけたのではないかといわれているところです。その直後ですが、1998年10月、ロシアで投資に失敗したヘッジファンドが損失を削減するために、ドル売り・円買いに入りました。まさに、やられたらやり返すといった彼らのしたたかさを、ここに垣間見ることができます。」(拙ホームページ「アメリカの政治経済社会の歩み」より抜粋)

 以上述べてきたことをまとめると、およそ、つぎのようになるのでしょう。海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
 そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来る外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちは債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちの債権や株式のたたき売りを始めました。米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 こうして通貨ルーブル安がさらなる債券安、株安を次々に誘発していったと考えられるのです。こうした場合、彼らヘッジファンドの面々が事の発端をなしたとしても、その波紋が広がるにつれ連鎖的な損失を内外のあらゆる層の投資家たちに及ぼしていく。それを裏付けるかのように、ヘッジファンドのCTCMの巨額の損失に対して、そのCTCMに投資していた米国系の銀行が債権回収できなくなる事態を見込んで、FRB(米国連邦制度理事会)が動き、具体的に言うと、ニューヨーク連邦準備銀行総裁の要請で1998年9月23日、アメリカ大手証券会社と銀行が会合し、ゴールドマン・サックス、メリル・リンチ等の金融機関16行が数千億円規模の緊急融資をして、これが米国発「世界金融恐慌」に発展する芽を摘んだとされています。

(続く)

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◎168『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのグレナダ侵略

2017-10-16 22:15:30 | Weblog
◎168『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのグレナダ侵略

 経済学者にして、長くイギリスに暮らしていた森嶋通夫は、アメリカのグレナダ侵略を
こう評している。
 「1983年秋以後、彼女の対ソ外交は変化し始めたと見られうる。グレナダ事件では、彼女はアメリカの実力行使に反対したが、キューバやソ連を強く非難しなかった。
 ついでにいうならば、日本人はグレナダ事件から学ぶべきである。グレナダ侵攻に際して、レーガンが事前にサッチャーに電話した時、彼女はグレナダと同じ「連邦」に加盟している国の首相として侵攻に反対の意向を表明したにもかかわらず、レーガンは「グレナダはアメリカの裏庭だ」と称して武力で共産勢力を島から一掃した。英米のように「親類」の間柄でもこういう有様である。(中略)
 なおレーガンは「アメリカが行ったことは侵略ではなく救出作戦である。イギリスは誤解している」と言っていたが、「たとえ目的は正しくとも手段は選ばなければならぬ」というのがイギリスの立場であるから、誤解しているのは、アメリカであると言わねばならない。」(森嶋通夫「サッチャー時代のイギリスーその政治、経済、教育ー」岩波新書、1988)
 これは当時のスクープであって、親密な間柄といわれたアメリカとイギリスの間でさえ、事安全保障問題となると、アメリカは自分の裏庭のことだがら、好きなようにやらせてもらう、という訳なのであったらしい。

(続く)

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◎167『自然と人間の歴史・世界篇』フォークランド戦争

2017-10-16 22:14:15 | Weblog
◎167『自然と人間の歴史・世界篇』フォークランド戦争

 1598年、オランダ人が初めて上陸しました。1764年にはフランス人が東島に上陸、一方西島にはイギリス人が上陸しました。その後、今度はスペインがフランス人から東島を購入するとともに、西島からイギリス人を追い出しました。イギリス人は西島を取り戻しましたが、それもつかの間再度スペインに奪回されてしまいました。
 1820年、スペインから独立したリオ・デ・ラ・ラプラタの連合州(現在のアルゼンチン)、フォークランド諸島の領有を宣言しました。1824年になると、同島をマルビーナスと名付け、総督を任命して統治を始めました。スペインはこれより先の1811年には、同島の放棄を宣言していました。イギリスはと言えば、1829年に連合州の統治
に対抗して戦端をひらき、1832年に西島を、その翌年には東島を武力で奪還しました。
 1833年、フォークランド諸島が英国の支配下に置かれる。以降、現在まで、同諸島は英国の領土であり続けている。1845年、スタンリー(Stanley)が正式にフォークランド諸島の首都となりました。
 それから、さらに時が流れていく。1965年、国連総会が決議第2065号を採択しました。この中で、英国とアルゼンチンの両国に対しフォークランド諸島の領有権問題について平和的な解決策を探る交渉を行うよう促しました。1966年、国連の呼び掛けを受けて英国とアルゼンチンがフォークランド諸島の領権有問題について協議しました。しかし、双方が譲らず協議は不調に終わりました。
 そして迎えた1982年3月中旬、アルゼンチンの業者がサウス・ジョージア島に上陸しました。イギリス側からみると、アルゼンチン人がフォークランド諸島を占領したわけで、黙っていられない。これを巡って英国とアルゼンチンの間でフォークランド紛争((マルビーナス諸島紛争)が持ち上がる。続く4月2日にはアルゼンチン軍がフォークランド島に上陸しました。イギリスのサッチャー内閣は、これを許すまいと、キャリントン外務大臣を更迭し、大艦隊の派遣を即決しました。そして両軍は、戦闘を始める、これを「フォークランド戦争」と呼ぶ。
 1982年6月、フォークランド(マルビーナス)諸島紛争での戦闘ですが、英国の勝利に終わりました。1983年12月 アルフォンシン大統領就任し、民政移管しました。1989年7月、メネム大統領が就任しました。

(続く)

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▽目次『自然と人間の歴史・世界篇』(2017年10月16夕時点)、0~220)

2017-10-16 19:15:05 | Weblog
▽目次『自然と人間の歴史・世界篇』(2017年10月16夕時点)、0~220)
 ただし、項目題名だけで、まだ中身のないものが沢山あります。全てが、未完成です。項目は、これからさらに追加されていきますが、その都度、本目次に記していきます。ご不便をおかけしますが何卒、よろしくお願いいたします。

0.最初は何であったのか
1.宇宙の誕生
2.銀河系
3.太陽系
4.月と地球
5.最初の生物(約46億~38億年前)
6.全球凍結
7.原核生物から真核生物へ(約38億~22億年前)
8.新たな全球凍結と生物(約22億~5億4000万年前)
9.生物の発展(カンブリア紀からの古生代)
10.生物の発展(中生代)
11.生物の発展(新生代)
12.多様な生物種(検討中)
13.人類の歩み(800万~400万年前)
14.人類の歩み(400万~180万年前)
15.人類の歩み(180万~35万年前)
16.人類の歩み(35万~20万年前)
17.人類の歩み(20万~5万年前、出アフリカ)
18の1.現世人類、出アフリカ1(5万年前~、出アフリカ)
18の2.現世人類、出アフリカ1(5万年前~、出アフリカ)
19.世界文明の曙(メソポタミア:~紀元前2500年前)
20.世界文明の曙(メソポタミア:紀元前2500年前~)
21.世界文明の曙(中国の夏と殷と周)
22.世界文明の曙(中国の春秋戦国時代)
23.世界文明の曙(エジプト1:王朝の移り変わり)
24.世界文明の曙(エジプト1:ナイルの恵みとヒエログリフなど)
25.世界文明の曙(インダス1)
26.世界文明の曙(インダス2)
27.ギリシア(ペルポンネセス戦争前)
28.ギリシア(ペルポンネセス戦争以後)
29.ローマの共和制
30の1.ローマの帝政
30の2.秦による中国統一
30の3.秦から前漢へ
30の4.歴史家・司馬遷が見た古代中国社会
30の5.前漢から後漢へ
30の6.アケメネス朝ペルシア
30の7.ササン朝ペルシア
31.古代の奴隷制
32.古代世界の天文学
33.マケドニアの覇権と最初の世界帝国
34.ヘレニズム文明
35.古代文明と宗教
36の1.世界宗教(仏教)
36の2.世界宗教(キリスト教)
37の1.世界宗教(イスラム教)
37の2.世界宗教(ヒンドゥー教)
38.世界宗教(ユダヤ教、儒教、道教など)
39の1.南北アメリカ(マヤ文明)
39の2.ローマ帝国の東西への分裂
40.ヨーロッパ(フランク王国)
41の1の1.中国の隋と唐
41の1の2.北宋と南宋
41の2.東ローマ帝国
41の3.神聖ローマ帝国
42.東西文化の交流
43.十字軍(1)
44の1.十字軍(2)
44の2の1.ヨーロッパは中世へ
44の2の2.中世における商工業圏の形成
44の3.ヴェネツィアなどの自治
44の4.ジェノバなどの自治
45.アラブ世界(ウマイヤ朝)
46.アラブ世界(アッバース朝)
47.モンゴル帝国の成立
48.モンゴル系4国の盛衰
49の1.元の盛衰
49の2.明の政治経済
49の3.明の対外政策
50.コンスタンチノープルの陥落
51.ルネサンス(フィレンツェなど)
52.ルネサンス(ローマ、北方など)
53.ルネサンスがもたらしたもの
54.宗教改革(ドイツなど)
55.宗教改革(フランスなど)
56.ヨーロッパの中世(1)
57.ヨーロッパの中世(2)
58.ヨーロッパ中世の農民反乱(ワットタイラーの乱など)
59.ヨーロッパ中世の農民反乱(ドイツ農民戦争など)
60.未定
61.大航海時代(ポルトガルとスペイン1)
62.大航海時代(ポルトガルとスペイン2)
63.大航海時代(オランダなど)
64の1.中米・南米へのスペイン進出(アステカとインカの征服)
64の2.重商主義の始まり
65の1.キリスト教(パスカルの選択)
65の2.キリスト教(パスカルとデカルト)
66.封建制下の天文学(ニュートン以前)
67の1.封建制下の天文学(ニュートン以後)
67の2.暦の改新
68.イギリスの清教徒革命
69.イギリスの名誉革命
70.第一次産業革命1(~19世紀)
71.第一次産業革命2(~19世紀)
72.産業革命の伝搬
73.アメリカの独立(1)
74の1.アメリカの独立(2)
74の2.アメリカの独立(信教の自由)
75.フランス革命(1787~1792)
76.フランス革命(1793~1799)
77.芸術1(音楽など)
78.芸術2(音楽など)
79.近代立憲思想の系譜(ルソーとロックなど)
80.近代立憲思想の系譜(モンテスキューなど)
81.アヘン戦争と三角貿易
82.アヘン戦争後の中国
83.19世紀の東南アジア
84.19世紀のインド
85.19世紀の朝鮮
86の1.アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで)
86の2.アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い後)
86の3.アメリカ南北戦争当時の奴隷制
86の4.奴隷貿易の系譜
87.アメリカの産業発展
88の1.ドイツなどの産業発展
88の2.ロシアにおける資本主義の発展
88の1.19世紀末のロシアの農村
89.共産党宣言
90.フランスの内乱(ブリュメール18日など)
91.フランスの内乱(パリコミューン)
92.パリコミューン後
93.マルクスの歴史観察(社会科学の方法)
94の1.マルクスの『資本論』
94の2.マルクス・エンゲルスらの国際労働者協会の活動
95.ドイツの社会主義鎮圧法
96.帝国主義の始まり
97の1.帝国主義と南アフリカ
98.帝国主義とベルリン会議
99.ブラジルの独立
100の1.メキシコの独立
100の2.アルゼンチンの独立
100の3.パナマの独立とパナマ運河
100の4.その他の中南米諸国の独立
101.第二次産業革命1(19世紀~20世紀初頭)
102.第二次産業革命2(19世紀~20世紀初頭)
103.帝国主義と第一次世界大戦1
104.帝国主義と第一次世界大戦2
105.ロシア革命(1917~1919)
106の1.ロシア革命(内戦)
106の2.ロシア革命(過渡期の経済政策・ネップ)
107.国際連盟
108.アメリカのモンロー主義
109.ドイツのワイマール体制
110.世界恐慌1(その経緯と原因)
111.世界恐慌2(金本位制からの離脱)
112.世界恐慌3(回復過程)
113.有効需要の原理の発見(ケインズ1)
114.有効需要の原理の発見(ケインズ2)
115.有効需要の原理の発見(カレツキ1)
116.有効需要の原理の発見(カルドア1)
117.スペイン内戦1
118.スペイン内戦2
119.ファシズムへの道(ドイツ、~1930)
120の1.ファシズムへの道(ドイツ、1931~)
120の2.反ファシズム統一戦線へ
121.第二次世界大戦への道(欧州1)
122.第二次世界大戦への道(欧州2)
123の1.第二次世界大戦への道(アジア・大平洋)
123の2.第二次世界大戦(欧州戦線1)
123の3.第二次世界大戦(欧州戦線2)
123の4.第二次世界大戦(欧州戦線3)
123の5.第二次世界大戦(欧州戦線4)
123の6.第二次世界大戦(アジア戦線1)
123の7.第二次世界大戦(アジア戦線1)
123の8.第二次世界大戦(マンハッタン計画)
124の1.戦争の終結
124の2.平和を夢み戦いなど命を捧げた人びと(1)
124の2.平和を夢み戦いなど命を捧げた人びと(2)
124の2.国際連合など(1)
124の3.国際連合など(2)
124の4.国際連合など(3)
124の4.世界政府論
124の5.国際連合の安全保障の枠組み
124の6.戦後の国際金融体制1
124の7.戦後の国際金融体制2
125.戦後のインド独立1
126.戦後のインド独立2
127.戦後の中国1
128.戦後の中国2
129.戦後の中国3
130.朝鮮戦争1
131.朝鮮戦争2
132.戦後のアフリカ(アパルトヘイト(1945~))
133.戦後のアフリカ(スエズ運河国有化)
134.戦後の中東1
135.戦後の中東1
136.戦後のアメリカ大陸1
137.戦後のアメリカ大陸2
138.戦後の東南アジア1
139.戦後の東南アジア2
140.戦後のオセアニア
141.戦後の中東1
142.戦後の中東2
143の1.戦後の社会主義(ソ連のスターリン独裁)
143の2.戦後の社会主義(1950年のソ連経済)
143の3.戦後の社会主義(フルシチョフ時代)
143の4.戦後の社会主義(ユーゴスラビアの自主管理社会主義)
144の1.戦後の資本主義(アメリカ)
144の2.戦後の資本主義(産軍複合体)
145.戦後の資本主義(アメリカ以外)
146の1.ハンガリー動乱
146の2.ラッセル・アインシュタイン宣言
146の3.ソ連(フルシチョフ解任とコスイギン経済改革)
146の4.ソ連(社会主義国の経済改革の実際)
147.チェコスロバキア動乱
148の1.アメリカの公民権運動1
148の2.アメリカの公民権運動2
149.第三次産業革命1
150の1.第三次産業革命2
150の2.産油国と石油メジャーズ1(1945年~1960年8月)
150の3.産油国と石油メジャーズ2(1960年9月~)
150の4.産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)
151の1.キューバ危機(~1961)
151の2.キューバ危機(1962)
151の3.アルジェリア独立
152.ベトナム戦争1(~1966)
153の1.ベトナム戦争(1967~終戦)
153の2.中南米(1960年代)
153の3.ブラジル(1960年代)
154.ニクソン・ショック
155.スミソニアン合意
156.第一次石油危機1
157.第一次石油危機2
158.米中国交正常化
159.ロッキード事件1
160の1.ロッキード事件2
160の2.ウォーターゲート事件1
160の3.ウォーターゲート事件2
161の1.チリ革命と反革命(1969~1973年9月11日の大統領官邸攻撃開始)
161の2.チリ革命と反革命(1973年9月11日のクーデターによる反革命)
161の3.「超大国アメリカ」の内と外
161の4.第一次石油ショック
161の5.第二次石油ショック
161の6.イラン革命(1963~1980)
162.中国の改革・開放政策1
163.中国の改革・開放政策2
164.ソ連の社会主義改革(~1987)
165の1.東欧の社会主義改革(ポーランド、~1987)
165の2.東欧の社会主義改革(ハンガリー、~1987)
165の3.東欧の社会主義改革(東ドイツ、~1987)
165の4.東欧の社会主義改革(チェコスロバキア、~1987)
166.国境紛争(イラン・イラク戦争)
167.国境紛争(フォークランド戦争)
168.国境紛争(アメリカのグレナダ侵略)
169.スリーマイル島原発事故
170.チェルノブイリ原発事故
171.新保守主義(アメリカ)
172.新保守主義(イギリス)
173.1970年代からのコンピュータ産業の発展1
174.1970年代からのコンピュータ産業の発展2
175.プラザ合意(その経緯)
176.プラザ合意(輸出大国・日本への影響)
177.ブラック・マンデー
178.債務に喘ぐ中南米諸国(ブラジル)
179.債務に喘ぐ中南米諸国(アルゼンチン)
180.債務に喘ぐ中南米諸国(メキシコ)
181の1.ソ連の政治経済(1988~1989)
181の2.ソ連の政治経済(1990)
181の3.ソ連の政治経済(1991)
182の1.ソ連の社会主義の崩壊(クーデターへ)
182の2.ソ連の社会主義の崩壊(クーデター後)
182の3.ロシアの市場経済化1
182の4.ロシアの市場経済化2
182の5.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランド)
182の6.東欧社会主義の崩壊と市場経済化(未定)
183.中国の天安門事件(1)
184.中国の天安門事件(2)
185の1.中国の社会主義市場経済
185の2.日米半導体摩擦など
186.1980年代の米ソの軍縮
187.1990年の湾岸戦争
188.1990年代前半の世界経済、投資加熱の行方(1)
189の1.1990年代前半の世界経済、投資加熱の行方(2)
189の2.アパルトヘイトの廃止
190.アジア通貨危機(タイ、インドネシア発)
191の1.アジア通貨危機(韓国発~1997.11.21)
191の2.アジア通貨危機(韓国での結末)
192.20世紀の天文学(20世紀前半)
193.20世紀の天文学(20世紀後半)
194の1.2001.9.11アメリカ
194の2.2001.9.11はなぜ起きたのか
195.米英らによるイラクとの戦争(20002003.7)
196の1.米英らによるイラクとの戦争(2)
196の2.アメリカのイラク戦費
197.1990~95年の世界金融と円高・ドル安
198の1.1995~99年の世界金融とロシア金融危機(国債金融の視点から)
198の2.1995~99年のロシア金融危機(1997~1998.6)
198の3.1995~99年のロシア金融危機(1998.7~8.22)
198の4.1995~99年のロシア金融危機(1998.8.23~1999)
199.ドイツ再統一
200.仏独の歴史的和解
201.リーマン・ショックと世界恐慌(1)
202.リーマン・ショックと世界恐慌(2)
203の1.スノーデン事件
203の2.世界ですすむ経済格差の拡大
204.アメリカ経済1(2009~2017)
205.アメリカ経済2(2009~2017)
206の1.アメリカ経済(3)経済格差の拡大
206の2.『21世紀の資本』でみる欧米の所得格差の推移
207.中国経済1(2009~2017)
208の1.中国経済2(2009~2017)
208の2.欧州経済(2009~2017)
208の3.日本経済(2009~2017)
208の4.韓国経済(2009~2017)
209の1.その他の地域1アフリカ(2009~2017)
209の2.その他の地域2南アメリカ(2009~2017)
209の3.その他の地域3中南米(2009~2017)
210.その他の地域4ロシア(2009~2017)
211.その他の地域5北欧(2009~2017)
212.その他の地域6アフガニスタンなど紛争地域(1993~2017)
213の1の1.中東1
213の1の2.中東2
213の1の3.北朝鮮
213の2.南アジア(インド、パキスタンなど)
213の3.ドバイ・ショック
213の4.イラン核合意
213の5.民族主義の変遷
213の6.アフリカで帝国主義は生き延びているか(2012)
214.イギリスの国民投票とEU離脱に向けた動き
215.新興国などの核兵器開発
216.核軍縮の光と闇
217.広がる世界の経済格差
218.日本とロシアとの経済協力をめぐって
219.中国の外貨準備の変化
220.世界政府をめぐって

(作成中)

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◎176『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(輸出大国・日本への影響)

2017-10-16 19:08:37 | Weblog
◎176『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(輸出大国・日本への影響)

 円の対ドル相場の上昇はどのような影響を日本経済に及ぼしたでしょうか。円相場の上昇が26円/ドルから140円/ドルへと(260-140)/260=46%上昇したとしましょう。輸出は日本の輸出事業者Aと米国の輸入事業者B、また輸入は日本の輸入事業者Cと米国の輸出事業者Dとの取引としましょう。輸出入の金額はそれぞれドル建てで10万ドルとしましょう。
 まず輸出に付いてみると、260円/ドル×10万ドル=140円/ドル×18.6万ドルとなって、Aの円手取額が左辺の2600万円であったものが、円高後は140円/ドル×10万ドルとなるので、そのままでは差し引き1200万円の減収となるでしょう。
 Aは依然の円手取額を維持するには、輸出価格の引き上げは(18.6万-10万)/10万=86%とならねばなりません。この事例において、仮に輸出品の円建て輸出価格が日本側のコスト削減によって20%引き下げられたとしましょう。そうすると、2600万円×0.8=2080万円となって、140円/ドルの新相場の元でのドル建て輸出価格は、本来なら18.6万ドルに引き上げなければならないところを、14.9万ドルへの値上げに圧縮できることになります。
 そこでもし、この間に米国の同じ製品の製造コストが何らかの要因によってこれを上回って上昇するならば、当該製品の対米輸出競争力は減退するどころか、強化されるでしょう。もしこのような状況が日本の主要な対米輸出品について起こり続けることなるなら、このメカニズムはとめどもなく進行することになります。
 輸入についてはどうでしょうか。Cが輸入手形を決済するために必要とされる円資金は、円高以前は10万ドル×260円/ドル=2600万円でした。それが円高後には10万ドル×140円/ドル=1400万円となり、差し引き1200万円の円資金の節約ができます。
 もしCにとっての輸入採算、つまり仕入れ原価が2600万円とすると、輸入商品の国内販売価格を1200万/2600万=約46%まで値引きできることになるから、その分需要が増大する可能性が出てきます。あるいは、Dに対して2600万/140円/ドル=約86%までドル建て輸入契約価格の引き上げに応じられるでしよう。
 円の対ドル相場の上昇が我が国の債券市場に及ぼす影響としては、国内の企業によるドル建て債券の発行による資金調達が増えます。つまり、ドルなどの外貨に向かっていた資金が国内に還流して円での資金供給、つまり円での資金運用に向けられるのであるからドル売り・円買い→ドル安・円高になる→日本国内での債券の購入が増える→国内金利は低下への道筋となります。
 これに対して、今後円高が見込まれるのであるから円での資金需要、つまり円での資金調達は減少、代わってドルでの海外の企業や投資家による日本国内の資金調達、債券取得の動きが活発になります。これはドル売り、円買い→ドル安→ドル安・円高になる→日本国内での債券発行の減少から、この面からも国内金利は低下に向かうことになるでしょう。円高を好感して債券利回りが低下するというのもこの同じ文脈での出来事といえるでしょう。」

(続く)

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◎175『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(その経緯)

2017-10-16 19:07:30 | Weblog
◎175『自然と人間の歴史・世界篇』プラザ合意(その経緯)

 1980年代半ばからの、円高下の国際通貨制度についての国際協調について、丸尾(筆者)の説明にこうある。
 「80年代も後半になると、国際通貨制度をめぐる調整の動きが増しました。
 85年9月、G5(ニューヨーク)で、主要通貨の対ドル・レートの上昇が望ましいとの認識のもとに政策協調で合意しました。
 86年5月の東京サミットで。経済指標を勘案しつつ政策協調わ推進するため、G7を創設。G5も存続で、サーベイランス10指標を例示しました。
 86年9月、日米蔵相会議(ニューヨーク)で、米国が日本に内需拡大要求しました。
 86年9月、G5とG7(ワシントン)。日独が主導で成長重視の経済運営をめざす。
 86年10月、日米蔵相共同新聞発表。円・ドル相場はおおむね現在の基礎的条件と一致した水準であると言明しました。
 87年1月、日米蔵相会議(ワシントン)で、為替相場の安定を再確認。ドル安には共同介入も辞さずの構えでした。
 87年2月、G5とG7がパリで開かれ、G7にはイタリアが欠席。これ以上のドル下落は各国の成長に有害。サーベイランスの主要項目はインフレ率、成長率、国際収支、財政収支、金融情勢、為替レートであると表明しました。
 87年4月、G5とG7がワシントンで開かれ、2月のパリ合意を再確認。サーベイランスは各指標を政策調整にどう活用するかかを幅広く討議しました。
 87年6月、ベネチアサミット。為替相場の一層の変化は成長の逆効果との認識で一致しました。

(続く)

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◎179『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(アルゼンチンの1980~1990年代)

2017-10-16 19:03:22 | Weblog
◎179『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(アルゼンチンの1980~1990年代)

 アルゼンチンについては、どうであったのだろうか。この国では、1983年6月、アルゼンチンで1/1,000のデノミを実施する。通貨単位がペソ・レイからペソ・アルヘンティーノへ変更となる。1985年6月、アルゼンチンで1/1,000のデノミネーション(通貨単位の切下げ)が実施される。通貨単位がペソ・アルヘンティーノアウストラルに変更となる。1988年、アルゼンチンでハイパー・インフレ(急激な物価上昇)が起き、インフレ率が数千パーセントに上昇する事態となる。
 そして迎えた1991年3月27日、アルゼンチンは「兌換法」を公布し、以後11 年間に亘り維持することになる。これは、通貨ペソを1米ドルに交換することを保証し、固定相場制を採用するとともに、通貨の発行に外貨準備の裏付けを与えることで通貨の信頼性向上を図ろうとするものであった。米ドルとの固定相場を維持するようになったため、通貨ペソはドル以外の通貨に対してドルに連動して変動することになり、その当時強いドルを標榜する米国政府の為替政策の影響を引きづられることになったのは否めない。
 このような自国通貨ペソの高値推移は、貿易相手地域として大きな比重を占める欧州通貨に対しても起きていく。また、1991年1月には最大の貿易相手国であるブラジルの通貨切り下げと変動相場制への移行があった時には、アルゼンチンのペソはブラジル・レアルに対してもペソ高に転じる。これらは、アルゼンチンの輸出競争力を相対的に低下させ、貿易収支が赤字傾向を深める結果をもたらす。1992年1月のアルゼンチンにおいては、今度は1万分の1のデノミを実施する。通貨単位がアウストラルからペソに変更になり、米ドルとのペッグ制も始める。
 それからのアルゼンチン対外経済については、貿易の約3割を依存するメルコスール(南米南部共同市場)域内での貿易・投資がアルゼンチンの対ブラジル貿易黒字の増加を伴って拡大していく。このことで、1995年のメキシコ債務危機以降のアルゼンチンへの投資が増え、そのことで経済が発展させる役割を果たす。しかし、1999年初にブラジルが大幅な通貨切り下げを伴う変動相場制に移行してからは、アルゼンチンのブラジルへの輸出は転機を迎える。これに対し、1991年4月、アルゼンチンは1ドル=1アルゼンチンペソのドルベック制をとるにいたる。

(続く)

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◎178『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(ブラジルの1980~1990年代)

2017-10-16 19:01:42 | Weblog
◎178『自然と人間の歴史・世界篇』債務に喘ぐ中南米諸国(ブラジルの1980~1990年代)

 1989年、ブラジルは1/1,000のデノミを実施し、通貨単位がクルザードから新クルザードに変更される。翌1990年、財政破綻でブラジルがデフォルト(債務不履行)の事態に陥る。総額620億ドルは、国債破綻としてこの時期までとしては史上最大規模であった。1991年1月には、ブラジルでは通貨レアルの大幅な切下げが行われる。年率で約3,000%というハイパー・インフレを招く事態にもなる。同年3月には、ブラジルで預金封鎖が行われる。1993年、ブラジルが1/1,000のデノミを実施し、通貨単位がクルゼイロをクルゼイロ・レアルに変更となる。1993年3月、ウルグアイで1/1,000分のデノミが行われ、通貨単位がウルグアイ・ペソに変更となる。
 参考までに、この間のブラジルの債務の積み上がりだが、1992年末で1211億1000万ドル。1992年2月の主要債権国会議(パリ)において、公的債務のうち36億ドル強の繰り延べで合意しいた。1993年12月、日米欧の債権銀行団との間で350億ドルに新債務削減戦略(ブレデイ構想)を充てることで合意に漕ぎ着ける。
 1994年、その対外債務の積み上がりに喘ぐブラジルが1/2,750のデノミを実施し、通貨単位もクルゼイロ・レアルからレアルに変更する。1994年7月、ブラジルは、物価安定化政策「レアルプラン」を導入し、市中の通貨をすべて米ドルにリンクした新通貨に切り替えるにいたる。同月から1999年1月にかけて、ブラジルはドルペッグ制(目標相場圏制)に依る。このブラジルでのドルペッグ制採用により、ブラジルでは、1994年に2,700%であったインフレ率が、1997年には年率4.8%と沈静化に向かう。そこで、通貨当局は新通貨レアルによる通貨安定に動く。1997年後半に入ってからは、アジア通貨危機、そして1998年のロシア金融危機などの影響により、ブラジルにおいても外国資本の流出が発生し、だんだんにそれが増えていく。
 1998年秋、ブラジルの経済運営は「自転車操業的」と言われ、1999年1月までに350億ドルの資金が引き揚げられました。外貨準備は300億ドルに減少した。レアル下落の背景には、GDPの8%といわれる財政赤字があった。1998年11月、415億ドルのブラジルへの国際的支援がなされる。
 それからのブラジルの政策当局は、金利の引上げや財政の緊縮策などの対策を行なったが、それでも金融不安はやまず、1999年1月13日、ブラジルは、事実上の通貨切下げを打ち出す。その幅は、従来二重に設けられていた変動幅のうちの狭い変動幅を廃止し、広い変動幅を下限の比較で約7.6%切り下げるものであった。1月15日、ドルに連動してきた通貨レアルが事実上の変動相場制に移行する。1月18日、中央銀行がこれを正式に表明する。1998年11月からの国際支援の決定後にも資金の流出が続いていた。そのため、1994年から続けてきた「レアルプラン」を放棄せざるをえなくなる。
 この当たりの事情については、次の説明がなされている。
 「ブラジル経済は欧米などの投資を誘致し、外資系企業を中心とした成長を続けてきたが、その際の「決め手」になったのは、レアルをドルとほぼ固定させた為替管理であり、かも国内金利を高水準に維持することによって国際投資家にとりあえずの「ローリスク・ハイリターン」を保証したことであった。ところが、1998年秋の世界的な金融市場の混乱によって、ブラジルの「自転車操業的な経済運営」への警戒感が台頭し、99年1月上旬までに350億ドルの資金が引き揚げられ、外貨準備は約300億ドルへと急減した。」(「中南米の経済と西半球主義」)
 ブラジルの政策当局は、金利の引上げや財政の緊縮策などの対策を行なったが、それでも金融不安はやまず、そのため1999年1月にはブラジルはそれまでの固定相場制を放棄し、変動相場制へ移行する、その結果、レアルは大幅に下落する。これより先、1994年末には同じ中南米のメキシコが変動相場制に移行していた。

(続く)

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◎123の3『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

2017-10-16 09:54:07 | Weblog
◎123の3『自然と人間の歴史・世界篇』第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線・フィンランド)

 11世紀~12世紀になってキリスト教が伝来、東西キリスト教の角逐があった。1323年、スウェーデン・ロシア間の国境確定。このときフィンランドは、スウェーデンの一部となる。1809年、スウェーデンがフィンランドをロシアへ割譲する。
 1917年、ロシアより独立、フィンランド共和国が成立する。1921年、国際連盟のジュネーブ本部にて、バルト海に浮かぶオーランド諸島の帰属についてスウェーデンが国際連盟に提訴していた領土問題で裁定が出る。これは、いわゆる「新渡戸稲造裁定」ともいわれ、事務局次長であった新渡戸が取りまとめたことで知られる。これにより、領土はフィンランドに与えるかわりに、言語はスウェーデン、文化、風習は当地を尊重する、というものであった。オーランドに自治権を与え、非武装中立とし、総督を置くこととなる。
 1939年、対ソ戦争(冬戦争)。1941年~1944年には対ソ戦争(継続戦争)を戦う。

(続く)

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