◻️48『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)(1866)

2020-10-09 07:59:41 | Weblog
48『岡山の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、美作改政一揆)(1866)

 それからもう一つ、1866年(慶応2年)旧暦11月24日夜、冬の寒さが増しつつある時、全国の「世直し一揆」に呼応した一揆が、美作の地でも起きた。

 思い起こせば、美作(津山)の歌人、中村延子は、「改政一揆」として、こんな連作を詠んでいる、これを最初に紹介しておこう。

 「呵借なき藩政に起ちし幕末の改政一揆の加茂谷を訪ふ」「この寺の鐘かき鳴らし峠にて峠にて振る火を合図に起ちし一揆か」「自らを強訴の発起人と名乗り出し行重直吉の墓に詣でぬ」「過酷なる賦課に耐へかねし農民の慶応三年の一揆の跡追ふ」「三年続く不作に年貢の一割増賦課に起ちたる農民一揆」「つぎつぎに増えし一揆勢二千人三つに分れ津山を目ざせし」「百三十年前狼藉を受けし大庄屋門の坂戸の修理跡あり」「一揆勢三百人の炊出しをなして狼藉免れしを聞く」「十一か条の嘆願書認め直吉は一揆の首謀者と名乗り自首しぬ」「数人の死者の出でしも三日目に美作改一揆終りぬ」(心象短歌会「心象」2000年9月号より)


 しかして、この美作全域を巻き込んだ大規模な一揆のことを、「美作改政一揆」と呼ぶ。もしくは、これが勃発した東北条郡行重村(現在の津山市加茂)の地名をとって、「行重村一揆」(ゆきしげむらいっき)とも呼ばれる。この一揆の最初ののろしは、同日、東北条郡行重村(ゆきしげむら、現在の津山市加茂)において、はじめは「真福寺の鐘」を鳴らすのを合図に、同村野猶吉、政之○、光次郎ら10人くらいの規模であったのが、翌25日朝から津山城下城下に向かって道を進むにつれ、沿の村落を煽動するのであるから、一揆勢はどんどん増えていく。
 京都大学の黒正巌の筆による「作州の農民騒動」には、その時の模様がこう描かれている。
 「勝南郡川邊村に至り、光次郎等は一千余人を分かって英田倉敷村に向かはしめ、自分は他の農民を率いて津山城下に侵入した。藩士佐藤嘉吉等は懇諭して津山に入らないように力めたが、勢いにはやる農民達は之を聴かない。藩士は大橋門を鎖して侵入を防いだ。農民は津山町の東端林田町に入るや、手当たり次第に酒肴を掠めて飲食し、銃卒を罵詈して止まぬ。甚しきは宗を露はして「撃てるならうってみろ」などと叫び、石を門に投じて破壊せんとし、天地も響けと喊声(かんせい)を挙げる。銃卒は切歯して憤慨し、発砲して遂に光次郎等数人を○した。古市左近、大島兵蔵等は救恤(きゅうじゅつ)すべき事を述べて退散せんことを諭した。之で農民の勢も多少阻められたのであるが、其夜暮らし木村より来たりたる農民と合するに及びて再び勢を得、付近の富商七十余戸を破壊した。藩政府も遂に武力を以て之を鎮圧した。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 彼らが立ち上がったのは、なぜであろうか。その理由の主な一つは、この時の百姓総代、直吉(なおきち)が津山に出向き、津山御役所宛てに差し出した嘆願書に窺える。それには、低姿勢の文体ながらもこうはっきりと記されてあった。
 「恐れ乍ら書附けを以て嘆願奉り候事
一、御領内村々総百姓中嘆願奉り候其の意趣者
一、御年貢御蔵納三斗五升計切之事附り、御刎俵直シ人足御差留之事
一、當寅御年貢引下ケ之事附り、関門入用御断之事
一、以後御出馬これ有りし候共、若党槍持ニ百姓ヲ御連被りし成候儀御断之事
一、当寅献納金難渋人之分年延之事
一、御検見之節壱合以下之毛御免之事
一、御蔵米似セ俵゛川下之毛御免之事附り、御登米之外津留之事
一、近来新規之御運上御免之事
一、諸役人依怙(えこ)之沙汰御吟味之事
右拾壱ケ条之御趣御取調之上、格別之御仁知を御許容成下為被候ハバ莫大之御慈悲、百姓一同有難き仕合ニ存知奉り候。此の段宜敷様仰上下被ル可キ候。以上。
慶応二年丙寅十一月。東北条郡行重村西分百姓総代・直吉、印。津山御役所」
 これにあるのは、年貢の減免の願いばかりでないことであって、4項にあるのは藩主出馬に当たり、百姓を「槍持ち」に連れて行くことにつき、そのような事はやめてほしいとの要求なのである。具体的には、「長州征伐」(第一次は1864年(元治元年)、第二次のものは1866年(慶応2年))への出兵に人夫(にんぷ)をかり出さないことを狙っているのだろうか。そのほかにも、新規の運上は御免被りたいし、年貢米の検査に当たる役人の不正があると思われるので、諸役人による依怙贔屓(えこひいき)を吟味してもらいたいことも盛り込まれている。『津山領民騒擾見聞録(つやまりょうみんそうじょうけんぶんろく)』によると、この「加茂谷強訴」の発起人の代表格である直吉は、この後神妙に立ち居振る舞い、「郷預け」を経て、牢獄に投じられたことになっている。
 そればかりではなかった。まるで乾いた薪に火を点けたときのように、短期間のうちに美作全域に農民一揆が広がり、また加速していくのはよくあることで、この東北条郡から津山への一揆勢の行軍につられたのか、津山城下の西からも一揆勢が押し寄せてきた。同じく黒正巌の筆を借りると、同氏はこう述べておられる。
 「然るに26日には美作西部に於いても農民が暴動した。即ち大庭郡古見村の農民は先ず久世村を襲ふて商家を破壊し、さらに津山城下を襲はんとして中北村(久米法条郡)に至る。農民の数三千に及ぶ。中北村の中庄屋久山直助は農民を迎へて曰く、若し之より津山城下に逼らんとならば、先ず自分の家を破壊せよ、自分の家を破しない以上は、断じてこの地を通過せしめないと叫び、先ず酒○薪炭を備へて之に興えた。然るに農民達は一揆の数が多いからお前の薪炭で足るものかといふ。直助は既炭がなくなれば門舎、倉庫、家屋順次にたいてしまえ、心配には及ばぬと答へたので、流石の農民達もその意気に感じて敢えて前進しなかった。内藤氏の代官柴田順平、大庄屋安藤善右衛門(坪井下村人)等直助を助けて退散を諭したので、遂に十二月朔日に至って農民は退去し、事平ぐ。
 この外にも土岐氏の領邑(りょうゆう)たる英田郡の農民も亦騒動したのであるが、間もなく鎮圧せられた。」(黒正巌『作州の農民騒動』:京都帝国大学経済学会編『経済論叢』第22巻第4号、1926年刊)
 翌1867年(慶応3年)の正月には、当時津山藩の所領であった小豆島の土庄町(とのしょうちょう)と池田町(いけだちょう)でも農民一揆が起きた。美作では、これらを過去の一揆と区別して「改政一揆」(それゆえ、美作でのものは「美作改政一揆」、小豆島でのものは「小豆島改政治一揆」など)と呼び慣らしている。

(続く)

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