リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

資本主義先行体制の規定性(その2)

2023-11-25 16:40:03 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。今日は曇って寒い。昨日の昼間は薄いカーディガンで十分だったのに。明日はもっと寒いって。東京地方の行楽地は今が一番紅葉のはずなのに。私はなにかとあって、紅葉狩りはいってないけど。まあ、東京も平坦な場所はこれからだから。お近くの大きな公園なんか気晴らしによろし。火曜日またあったかいそうです、昼休みとか行けるといいね。
 
 当方、いつも秋になると赤い実を楽しみにしていた他人んちのザクロの木。もうすぐ破裂して赤い種実が出てくると思ってたら切り倒されてしまいました。なんだよ、いったい。
 ザクロなんて東北以北の人はご存じないよね、うちは半分熊本だから生家の庭に柘榴の木があって(常連の方用:いろんなものが生えてた)、気が向くと齧ったりしました、が種ばかりで美味しいものではありません、が黄緑の葉に赤い花や実が映えて綺麗なものなのです。
 が、切られてしまって。
 人の心がすさんでるね。ちょっと前は秋になると黄色い実を楽しみにしていたレモン畑が宅地分譲地になって。そんなに金が欲しいか。まあ柘榴の幹は枯れかけてたから、倒木対策かもしれないけれど。
 
 意味ないけど、生家にビワの木もあって、『犀のように歩め』なるgooブログ(11月21日付)に、「ゆりかごの唄」の挿絵が貼ってあり、昔見てた歌絵本の挿絵によく似ていて懐かしかった。(あれ、なんかの無断借用ではないかしら。藤城清治ふうの。)はいいんだけど、枇杷の実が揺れるゆりかごって、物覚えの悪い私の相当古い記憶、、前書いた記憶も絵本だったけど、記憶が絵本化している。

 もひとつ個人もの。
 ベランダ用のサンダルが上下に分割してしまって、買い替えにいつも行く安売りの靴流通センターに行きました。さてそこの最低品上下一体サンダルはいくらで売っていたでしょう?
 500円? 10年前だね。900円? 5年前だよ。今は? 2000円。
 びっくり。引き返そうと思ったけど、他に買うあてもなく。仕方ないので買いました。
 いまどきってサンダルってはかないのかね。店頭の安売り売り場には、スリッパみたいな甲カバーがついたやつばっかし。もっと雨はけ(?)の良い便所サンダルがいいのだ。だいたいサンダルごときが店の最奥、リーガル製品の前で売られてるというのも想定外でした。
 左翼も時代錯誤ですが、私のような保守も時代から落ちております。負けるもんか。


 では、本題。先週の続き。長い長い。ふつうの方は温かいものを食べて明日の良い秋の日をお楽しみください。
 続き入るよ。
 さて、まず第1に、マルキストないしマルクスの言う「生産様式」とは、「支配様式」のことである、という認識です。
 奴隷制生産様式だ? 読者諸君、奴隷とは平民「あなた」のことです。ギリシアであれローマであれ、「奴隷」なる者の人数推定は、歴史学者に言わせれば、ギリシア・ローマの平民という名の地主階級と同数以上の塊です。その奴隷Aにとって、「きみんとこの生産様式は主人が奴隷の君らを使う生産だよ」などと言われて納得するか。いいや納得しない。生産してるのは俺たちだ。それはマルキストないしマルクスの、エリート臭プンプンの醜い表現です。奴隷にとってこの時代の生産は「われわれ的生産」です。ただ単に、自分が働かされる仕方が、奴隷的支配なのです。
 「封建的生産様式」? いつだってマルキストやらウェーバリアンやらは神様のように偉い。当該時代のやっと「奴隷」時代から逃れた平民Bにとって、年貢をとられるこの生活は彼らの支配者の待遇である「封建」ではない。「年貢的」支配様式です。あるいは「封建領主的」支配様式、といえば穏健な表現でしょうか。
 もちろんこうした支配様式について「引っ張り犂(スキ)型生産様式」とか、「車付き犂型生産様式」とか、現象的生産方法で呼ぶのは勝手です。
 いずれであれ左翼を標榜してきた歴史学者・経済史学者たちは、もうほとんど死んでいるとはいえ、ほんとうに恥ずかしくないのでしょうか??
 なお、呼び名を変えればいいと言っているわけでもなく、これらの支配様式が継起する、などと隈には考えられません。

 そもそも奴隷制とは、小範囲の戦争により、定住的生産よりも人的強制労働のほうが生産性の良い時代の人民支配様式です。その時代の定住農業支配がすでに優勢になっていれば、そこでの「奴隷の確保」は、小規模となり、「奴隷制」とは呼ばれない。無理やり奴隷制という教条主義者はいますが。
 それに対して封建制とは、土地生産性の増大に伴う広範囲の定住的秩序の安定化により、必須消費物資が土地からの上り(アガリ)で賄われる地域での人民支配の形式です。
 ついでにいえば、絶対王政とは、商品経済の浸透により小国家的人民支配が崩れたときの、支配者同士の支配争奪の結果です。

 それぞれの支配様式に移行するにはそれぞれの規定性が指摘されるでしょうが、筆者は、(筆者だけではないと信ずるのですが)そんな昔の事態など把握できないのでここに記そうとは思いません。

 元に戻って、第2に、生産物を必需品、便宜品、奢侈品と分けるならば、人は、資本主義とは便宜品のシステムであると知らなければなりません。
 人間は、行為の先にその行為しなければ手に入らないものを求める。
 資本主義は必需品はこれ以上いらないまでの発展の後に生ずる過程です。しかもその生産物を、民衆は各人が「同様に」求めるのです。同様でないモノは、たとえそれを億万長者が買おうとも、それは資本主義体制外のモノです。つまり、資本主義商品とは腹がくちてから生産される物品であり、「資本主義だから豊かだ」と資本家とその手先が騒ぐのは、そもそも資本主義とはそうした段階である、という生産力過程の表現にすぎない。それが「奢侈品」でないのは、そこであるモノを人がみな所有可能であれば、それを「奢侈」とは認識できないからです。
 便宜品、それは誰にとっても自分の使用下にあれば自分の安楽が上昇するものです。これを他者と協働して入手せんとするのが、行為の側面からみた資本主義のシステムです。

 ついで第3に、資本主義とはグローバルなものです。「どこかで」便宜品の生産がなされていれば、その「どこかから」時代は進んでいく。資本主義は交易の体系なのです。

 そう見極めればあとは簡単です。

 こうした事態の根本的規定性は、生産力の増加です。
 ただし、社会構造上での生産力の増加とは、生産共同体から離れて、自らの力の産物を、必須消費物資と交換できるようになった人間の部位の増加に「過ぎない」。当初においては、生産共同体こそが、生産力の足を引っ張り、人間の自由の足を引っ張る根源だったのであり、ようやく商品経済の進展の中で、生産共同体がそのおこぼれにあずかろうとする行動をとるようになるのです。つまり、生産力の増加に伴う、交易の重要化、とまで言って、資本主義の規定性が具体化する。
 
 さて、資本主義は商品経済ですから、「交易」が萌芽的に必要です。
 交易が商人と貨幣・紙幣の存在を生む。貨幣には社会科学上は何の謎も存在しない。
 交易自体は、そのための方法的便宜を進行させるでしょう。「道」を含む交通用具です。これは頭のどこかにメモするだけでよいでしょう。
 交易自体はもちろん通時代的に存在する。それぞれの個人の必要物資獲得のための交易です。
 これに以下がプラスされる。
 
 まず、消費必需品生産の剰余が集積される国家(複数)です。
 すなわちその剰余労働力の存在と、その労働力を行使して便宜品を生産させ得る統一国家であり、他方で当該国家支配者の奢侈消費物資欲求を刺激し、交易によってかなえさせてくれる他の統一国家です。
 ということは、統一されるべき小国家が必要でもある。一人で突然大国家を制御するなど、ありえない。
 その小国家の存在のためには
1 貯蔵可能な地域消費物資の存在
2 支配者の元への消費物資の集積≒税
 が必要です。   
 ついでこれら複数の小国家を武力的に支配しうる統一国家が必要なのです。
   
 ここで、当該統一国家に便宜品生産の条件がなければ交易には至らない。消費必需品は他国の統一国家では「間に合っている」からです。これが間に合っていなければ、交易ではなく戦争が生ずる。
 
 この交易の条件の中で産業技術が生まれる。そして伝播浸透する。
 この技術発達についても自然的過程と把握すればよいでしょう。「いやそれは人間の主体的能動性を無視している」といった評はありえますが、そんな事情は行為者の将来の想定の条件にはなりはしないからです。

 さて、この交易という条件は、十分条件ではない。交易は国家間の物質的「繁栄」をもたらすが、そのままではいつでも消失しうる生産条件です。
 「消失しうる」とは、そうした国家支配者の行動は「自由」だからです。彼らは彼らの観念世界に生き得る。観念の赴くまま、財産=労働力を放蕩し、あるいは他国を侵略し返り討ちにあい、それはすべて支配者彼の恣意なのです。これに付き合う者は人民ではなく、彼の官僚だけなのだが、それでも敗れれば「国」が滅ぶのです。
 
 資本主義の先行要件の交易条項とは、人民の商人の存在への需要です。 
 すなわち、まずは、人民による消費の主体的欲求の存在です。
 もちろんこれは行為論的観念部位の問題です。第3者的には、それを可能にする生産力段階。あるいはその段階を出現させる諸自然条件と言い直せる。
 つまり、なんらかの理由により、包括人民の消費物資生産に剰余が出て、そこに割り当てられるべき労働力に「空き」が出ること。
 この何らかの理由とは、理論上は消費物資生産力の増大であるが、現実には、生産力はそのままでも強奪的に剰余物資が確保され、ともかく結果として、余剰人員がでればよい。
 ここで包括人民とは国家においてで彼らに反乱されると困る範囲の人民のことです。
 次いで、その剰余労働力人民が生産する便宜消費物資が存在すること。
 そこでの生産力に応じた、便宜物資のことを指す。人間は、自己の常態の安逸と、自己の労働の減少を目指すが、その対象のことです。
 ここに、商品のやり取りが生ずる。生じたやりとりは周囲の人民の欲求を刺激し、雪だるまのように増大してゆく。
 
 これが、国家支配者とその係累にとどまらぬ、生産の必要の発生と発展です。

 まとめましょう。
 第1に、支配者の存在形態、支配者が統一的に君臨すること。これは教科書では交易の便宜という観点から書かれるが、ではある王権が公益を保障すれば資本主義はなるか、といえばそうはなりません。ポイントは、これにより国家構成員の利害が一律化するところにある。ロシア帝国のように、統一部位とその他の一括部位に分かれても、その統一的部位において発展する。
 
 第2に、支配者の消費物資の獲得形式、国家構成員が行う技術的生産による余剰物資が既に確保されていること。第3者的には、生産力問題ともいえる。これは武力的獲得剰余であっては意味がない。隣国からかすめ取るといった仕業です。
 
 第3に、行為論上は支配者とその行為共同性体の消費物資への対応、つまり、支配者と行為共同性を同じくする、集合性、貴族群、官僚。あるいは観念的に同一の水準を有する他国家支配者の存在です。彼らが剰余消費物資に同様の欲求を見出すことです。これは「自由なる」支配者の意志の問題、といっても社会心理学的には必然的な心理的傾向、の問題です。そして第3者的には、同様の生産様式国家間の交通の発展といってもいい、が、結局、偶然の話です。

 ここで、およそ社会科学上の立言の意味は、これを将来の想定に適用するところにあります。
 この場合、規定性の内容は、第1に生産力の進展と、第2に人民の行為共同性の意義と、第3に支配者の行為共同性の意義です。
 したがって、次の生産様式もこれらの規定性に何かが追加されたものになるでしょう。
 何かとは? それには資本主義の別の側面、崩壊の側面を見なければなりません。


当日追加;(ふつうはpsですがあまりに怒りが。)
「借り人競争のカードに「黒い人」 生徒が抗議しても教師はレク続行 沖縄本島北部の中学校」(沖縄タイムス)
 人はどんなバカにでもなる権利はあるが、人非人になる権利はない。ところでなんだ、沖縄って。この教師、クズの最南端だ。(日本には極北という言葉があるのを知ってられるといいのですが。)
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