カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

すっ飛びすぎて乗り遅れる   ブレット・トレイン

2024-03-30 | 映画

ブレット・トレイン/デビット・リーチ監督

 伊坂幸太郎原作の小説を、あちらの人々で解釈し直して映画化したもの。新幹線内での殺し屋・ヤクザ・マフィアなどの激しい抗争を描いたものだが、はっきり言ってバイオレンス・コメディである。とにかく連続した派手なアクションとギャグで、物語を繋いでいる。しかしながら原作もそうなのだが、複雑なプロット展開があって、さらに緻密な伏線が至る所に張ってあり、時間の経過とともにそれらが明らかになる仕組みである。そういうものを楽しむ作品であるが、日本人である僕らは、この日本での出来事でありながら、その荒唐無稽さとド派手なぶっ飛び方に、唖然とするよりない。銃もふんだんに乱射されるが、これだけのことが起こってお話が収斂されるはずが無いじゃないか。
 でもまあ、そういう変なところばかりを見ているだけでも、なるほど、外国人が思っている日本的なものってこんな感じなのか、という比較文化的な面白さも無いではない。ひどい勘違いの連続で、実際の新幹線とはずいぶん違うのだが、ほとんど外国人ばかりだし、日本人も日本人らしくさえない。真田広之だけが、ちょっとだけ日本的なのだが(当たり前だ)、考え方は日本的では無い。何を言っているかわかりにくいことだろうが、とにかく混乱しているので、そんなに正確に何かをわかる必要などないかもしれない。
 運の悪い殺し屋をブラピが演じているわけだが、彼は運が悪いというよりも、ものすごく強運を持っていることが分かる。本人の単なる勘違いなのである。そこが笑いどころのはずなのだが、なんとなく笑えないのは、ブラピ自身がそんな役になり切れていないからだろう。彼の醸し出すオーラのようなものがあって、最初から彼は死なないだろうことが分かっている。それではこの物語において、面白くないのではなかろうか。他のこともそうなんだけど。
 要するに何かが滑っていて、それが修復されないで進んでしまう。そういう映画なんだからそれでいいはずなんだが、なんだかなあ、という気分があるのかもしれない。面白いところがたくさんありながら、ノレない自分が置いてけぼりにされているような気分になるのかもしれない。これはもう仕方ないことなのだけれど……。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人は変な趣味の人が多い

2024-03-29 | 時事

 ジャニー喜多川がふだん演歌を聞いているらしいと聞いて、思わず笑ってしまったことがあったのだが、考えてみると、そんなに意外性がある訳でもないようにも今は感じられる。彼は男の子には興味があったのだろうが、音楽としてポップソングというか、そういうものにはあんがい興味が無かったのかもしれない。それで実業家として成功する訳であるから、物事を好きだという方向性の活かし方は、多少の専門性とは外れるものであってもいい、ということなのかもしれない。もちろん、今となっては、それでよいということが言えなくなっただけの事ではあるが。
 小澤征爾も亡くなったが、彼も意外なことに、時に演歌を聴くことがあったという。なんでそれはまた、という気がしないでは無いが、音楽的に息抜きというか、そういう気分のようなものと、やはり世代的な気分のようなものがあったのかもしれない。また、ボストンにいるときに聴いていたといわれ、日本の郷愁が欲しかったという事も考えられる。本当の理由はわかり得ないが、クラシックを中心とする音楽の専門家が、演歌を聞いてはいけないわけではない。そこの乖離は感じられはするものの、そんなものだというのは、あり得ることなのだろう。
 しかしながらやはり、音楽的な趣味として、受け入れづらい分野というのは個人にはありそうで、オールラウンドに何でも聴くような人の方が、少数派なのではあるまいか。アメリカ人のくせにカントリー・ミュージックが嫌いという人もいるだろうし、ヒップホップが嫌いな黒人だっているだろう。人はそういうところがあるから、面白いともいえる。
 演歌嫌いと言えば、日本では何といっても淡谷のり子がいる。「着てはもらえぬセーターを 涙こらえて 編んでます」「なんて馬鹿じゃないの!」って言ってました。確かに馬鹿な女で辛気臭い。うんうん、気持ちわかるわあ、って人達含めて、なんとなくクレイジーである。そういう破壊力のある実感をストレートにあらわす人が、幽霊のような調子でシャンソンやブルースを歌ったのだから、音楽人というのは本当に変な個性の集まりだと、改めて思う訳であった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不屈の精神とつるはし   SISUシス不死身の男

2024-03-28 | 映画

SISUシス不死身の男/ヤルマリ・ヘランダー監督

 フィンランド映画。ナチスのならず者戦車部隊が、フィンランドの壮大な不毛の大地において、ソ連などと戦っている最中と思われる。そこにつるはしを持った大量の金を掘り当てた爺さんが通る。ナチスは暇つぶし程度に爺さんとかかわろうとするが、この男が実はとんでもない戦闘能力を持つ人間で、一人で一部隊と対峙して格闘を繰り広げる、というバイオレンス・アクション映画である。
 賢い犬とウマと連れ立っているものの、ろくに武器を持たない上に、地雷原に踏み込んで逃げ場がない、と思われる窮地に陥る。そこからがアイディア勝負と荒唐無稽な展開が続いて、実際は何度も死んでいるはずだとは思うがなかなか死なず、水の中でも縛り首でも何でもござれでジタバタする。とんでもないはずなのだが、それがそれなりに突き抜けた演出になっていて、笑えるが、感心する。傷つきながらも這い上がり、何度でも立ち上がって戦い抜くのである。それも崇高な思想のようなものを、持ち合わせているような人物ではない。おそらく自分中心で世界を捉えていて、金をめぐって楽をしようという企みさえ垣間見える。もっとも敵のナチスも、金は欲しくてたまらない訳で、両方の陣営で自己中の戦いを繰り広げるのである。捕らえて性的に弄ぶだけで連れまわしている女たちも交えて、壮大な活劇が残忍にも展開されていく訳で、これが何で痛快なのか考える暇もなく、タイトに映画はまとめられている。まったく恐れ入った快作と言わねばならない。ひょっとすると後世に残る名作になるのではあるまいか。
 戦場の過酷さもあるものの、皆汚れてきたない身なりで黒ずんでいる。人の命などみじんも尊重して無いし、そういうあたりが麻痺してよく分からなくなっている人間ばかりである。戦争の悲惨さを反映させた反戦ものでもないし、かといって誰かのかっこよさを賛美するような娯楽ものでもない。誰も愛すべきところが無い(犬だけは賢く可愛いが)にもかかわらず、なにかそれだけで突き抜けた爽快さがある。つるはしという武器も想定外だが、それで飛行機とも戦うのだから、見事なものである。そうして実は圧倒的に相手を制することができないまでも、一瞬の機転と運をもって、不屈の精神を発揮させるのである。もうあっぱれなのである。笑ってしまうしかないではないか。
 ということで、映画賞が無くても傑作は評価されるはずである。実情どうなんでしょうかね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の焼き肉も多様化した文化らしい

2024-03-27 | culture

 日本にも焼き肉屋はたくさんあるけど、たいていは朝鮮半島にルーツのあるようなものだとばかり思っていた。もちろん、基本的にはそういう歴史のある店が多いのも確かなのだろうけど、それでも日本の焼き肉店は、それなりに独自性があるものなのだという。韓国から来た観光客も、日本の焼き肉店で結構楽しめるのだそうだ。
 それというのも、基本的に韓国の焼き肉店は部位による専門店が多いのだそうで、それもやはり豚肉中心のものであるらしい。もう韓国に行ったのはずいぶん前のことだし、記憶が定かでないところはあるけど、確か焼いたバラ肉をハサミでジョキジョキ切って、サンチュと言われるレタスなんかに巻いて食べた。前菜が辛いものばかりで目が回るような感じもあったけど、やっぱり本場のものは旨かった記憶がある。日本にも韓国風焼き肉店はたくさんあるんだろうけど、あちらの唐辛子は何か風味のようなものが違う感じはあった。雰囲気もあるんだろうけど。
 そういうわけで、日本の牛タンなどから始まって、牛を中心とするタレに付けた焼肉というのは、それなりに新鮮なものがあるらしい。また日本というのはあんがい焼肉においてもご当地のものが結構あって、北海道などはジンギスカンだろうし、仙台は牛タンばっかり見るし、大阪もゴーグル付けて焼いて食べる店なんかもあったし、ホルモン専門店なんかもあちこちにあるし、名古屋はやっぱり味噌だろうし、熊本なら馬も食わねばならないだろう。ちょっと調べたらほとんど際限なく出てきそうなくらい、実に多様なものがごまんと出てくるだろう。地元の焼き肉店であっても、やっぱり店によってそれなりに特徴がある訳で、考えてみると、確かに焼き肉文化はそれなりに多様である。焼肉とは違うがすき焼きなんかも、やっぱり肉を食う王道のような気もするし、いわゆるバーベキュー文化というのもあって、キャンプの定番だ。そうなると肉のみでなくなんでも混ざってたりするんだけれど。
 しかしまあ、日本でも牛肉はやはりそれなりに高い訳で、若い頃に肉を食いたい思いがあっても、それなりに金をもっている時じゃないと行けなかった思いがある。もしくは焼き肉を食べに行ったら、しばらくは財布が寂しいということになったものである。それでも勢いで食べに行くこともある訳で、もっぱらホルモンばかり食っていた。ロースとかカルビが世の中に存在しないと思い込んで食べていた時期もあったかもしれない。そんなことばかりしていると、たまに高い肉を食べると胃がびっくりして受け付けなくなるのかもしれなくて、まあ、ああいうのはたまに少しでいいのだ、などと思っていた。いつの間にか年を取ってしまったということなんだろうけど……。若い頃に金を持っているのもあんまり良くないような偏見もあるが、持っていても焼肉をたらふく食べたものなのかはよく分からない。そうでなくてもそれなりに成長著しく太ってしまったので、もう制限するよりないのだろう。
 しかしながら評判のいい店というのはたいていものすごく込み合っていて、活気があるのはいいのかもしれないが、そもそも気楽に入れないということにもなりつつある。田舎はともかく、都市部の焼き肉屋は、庶民的な店であっても敷居が高いのである。
 そういう訳で、実際はあんまり焼肉には行かなくなってしまったのだが、居酒屋にも肉料理はある訳で、実はそれほど困ってはいない。ちょっと取り残されてしまったのかもしれないけれど。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校生には荷が重すぎる立場   スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

2024-03-26 | 映画

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム/ジョン・ワッツ監督

 スパイダーマンであることを明かされてしまった高校生のピーター君は、世間の激しいバッシングを受けることになって逃げ惑う。冤罪を着せられ、これまでちゃんと戦ってきたにもかかわらず、敵方がやってきた悪事の数々の嫌疑をかけられてしまうのだ。しかしながら元はヒーローなので応援する側も当然いて、もう収拾がつかないほどの大騒ぎになる。正体がバレてまともな学生生活が送れないばかりか、恋人や友人も交えて、困った状況になったと言える。そこで魔術師に頼んで、人々の記憶からスパイダーマンの正体を無くす魔法をお願いする。その難しい魔術を実行中に、自らあれこれ変更を突然言い足したことで混乱し、さまざまな怪物をこの世に呼び出すことになってしまい、更に大変な窮地に陥ることになるのだったが……。
 いわゆるマルチバースの世界観を利用して、違う次元の世界の者たちを呼び込んでしまうことになるようだ。元の世界にもスパイダーマンはいて、そもそもこれらの敵とは戦う運命にあったものだが、基本的にはその世界で、この悪者たちは殺される運命にあったということのようだ。それではかわいそうなので、彼らを善人にして送り戻せば、物事は解決すると考えたピーター(現世スパイダーマン)は、さらにそれらを成し遂げるために奮闘することになる。
 世間的には評価の高い作品になっていて、ふつうはこんな作風のものはあんまり見ないのだが、気が変わってみて観たわけだ。まあ娯楽作なので面白くないことは無いが、なにか自ら窮地を招いている馬鹿さ加減があって、ちょっとついていけないところがある。善人なのはいいが、頭が悪いのは困るのだ。
 ちょうど大学受験の時期で、自分の所為で面倒な学生を取らなくなる学校の立場がある、という背景があって、実際に学校の先生に立ち会って説明することになる。そういう事で学生を取る判断をするらしいアメリカ社会の文化というのも垣間見えて、興味深い。日本とは根本的に受験のシステムが違うようだ。
 しかしながら、そもそもスパイダーマンのような能力があるのなら、それを活かして仕事をすればいいだけのようにも感じられる。勉強したり資格を取ったりするのは、能力がない人間の保険だと言われているように、能力のあるものはそれを使えばいいのだ。恵まれている人間は勉強なんてすべきではないのではないか。まあ、いいけど。
 という訳で、それなりの設定に凝っていて複雑な世界観を展開している作品と言える。評価が高いのは、それらの組み合わせがそれなりに破綻なく絡み合って、一種のハッピーさがあるためだろう。暇らならどうぞ、という程度ではある訳だが……。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スギ花粉を減らそう

2024-03-25 | HORROR

 この季節になると花粉症に苦しんでおられる方をたくさん見る。僕も年に十数回は風邪ををひくので、その苦しみは幾分かは分からないではない(ほぼ鼻風邪なので)。ひょっとすると何らかの花粉のアレルギーがある可能性はあるが、皆さんと同期性をもって発症していないので違うとは思うのだが……。ともかく、その苦しみのために、その患者の数の多さとともに、日本の生産性が低下するとも言われているほどである。他国にも花粉症は増えているのだが、日本のように杉や檜をむやみに人工的に植えている国は見当たらないので(昔の人はまじめだったのだ)、特にひどい状態であることは間違いなさそうだ。
 これをどうしたらいいのか問題は、実にたくさんの課題がある。そのほんの一つとして、そもそも飛散させている杉を伐採する必要がある。飛散を減らせば発症している人も幾分抑えることが出来る。もともと花粉症の人が増えているのは、飛散している花粉が増えているからという因果関係がある。戦後荒廃した山を早期に復旧させる国策として杉を植えたために、時を経て杉を中心とする花粉症が増えたわけだ。もちろん途中不幸なことに、その後木材価格が暴落し植え替えが進まずに、杉が成熟しすぎて、特にスギ花粉を大量に飛散させるという樹齢期になってしまっているという事もあるらしい。樹齢60年を過ぎると花粉の飛散が減るという話もあるが、それではあと何年待てば全体的な飛散量が減るのかというのはよく分からない。じつのところ樹齢60年の適齢期を迎えている杉は全国的に増えているはずなのだが、やはり価格のことがあるためか、伐採は進んでいないように思われる。材木は経済的な資産でもあるので、価格が合わないまま伐採されることは考えにくい。そうするとそれなりの金額をもって買い取るなどの施策をうたないことには、それは実現できないという事になるかもしれない。発症している患者の治療費と、それを負担する社会保険料の比較などをする必要があるのではなかろうか。
 それでも突然変異などで花粉を飛散させない、または花粉の量が少ない品種がみつかっているらしく、それらと植え替えることで、将来的には対処できる可能性が有る。そもそも山は雑木林として、杉のみに植え替えないことも必要である。杉は特に問題ではあるものの、実際の話他の花粉による花粉症もたくさん発見されている。その問題のほとんどが、人間が恣意的に単純な品種を植えるから起こることともされている。例えば街路樹などでも、実を付けないオスの品種のみ植える傾向もあって、やはり花粉を飛散させる原因になっている。人間が自然には極力かかわらず、都市計画なども極力人間の都合のみで判断しないことにより、花粉症は減らせる可能性が有るのである。そうなると極端な議論に、植物はメスのみの品種を植えるべきだという主張をしている人もいるくらいで、まったく人間というのは厄介なのである。
 という事で、この世から人間を減らすことで環境が良くなることだけは間違いがないようで、それまで花粉症の根本解決は無理なのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平然とものすごいのは仕方ない   イコライザー2

2024-03-24 | 映画

イコライザー2/アントワン・フークア監督

 昼間はドライバーをしている元特殊捜査官のマッコールは、困っている人や何か危機的な状況に陥っている人を助けずにはいられない。時には海外にまで飛んで行って解決してやろうとしているようだ。絵の才能はあるのに友人たちと麻薬を売る仕事に手を染めそうな学生を助けたりもしている。しかしながら元上司のスーザンが、何か大きな組織のトラブルに巻き込まれて惨殺されたことを受けて、一人その強大な武装グループに立ち向かうことになっていくのだったが……。
 シリーズ第二弾になり、それなりのアクションのスケールアップを図る必要があったのかもしれない。いや、アップしたのかどうかはともかく、相手もこちらも、殺そうとする行動に容赦がないというか、冷酷というか、残酷である。今回は仲間割れの要素もあって、誰を信用していいかわからなくなるような場面もある。いわゆる心理戦でも、スリルのある仕掛けを組もうということだろう。血がたくさん流れ、復讐しないことには、そもそも収拾がつかないのではあるまいか。
 ハイテク機器も使いこなせるのが主人公で、今回も携帯やカメラを接続して、離れた場所でも人に影響力を与えることができる。助けるのは不可能そうだが、助けられるということだ。しかしながら実際には接近戦が得意であって、たとえ武器を十分に持っていなくても、接近した戦いならお手の物だ。そのようなアクションワークに見どころが多く、近年の特撮というのは、基本的にカンフーなどの武闘の経験が十分でなくとも、力強く鮮やかな格闘場面を描けるようになっている可能性がある。設定の主人公も、今は決して若くはなく、キレキレの動きではないはずなのだが、映画のアクションとしては、かなりの動きを見せている。もっとも必ずしも強くは無くなっているように見えて、実はものすごいというギャップを楽しむものなのかもしれないが……。
 戦いの中でそれなりに負傷するが、病院に運ばれる前に、ともかく何とかなってしまう。こういう流れはランボーのものを汲んでいるのかもしれなくて、痛いのだがやせ我慢しなければならない。そういうところも超人的で、しかし演出的には必ずしも嘘っぽくはない。まあ、本来ならたまったものでは無くて、そのまま不利に敗れてしまうのだろうけれど。
 ともかく、哀愁と自分なりの倫理哲学をたたえながら戦うというのは、ちょうど僕らの琴線に触れるかっこよさなのは間違いがない。漫画なんだけど点数が甘くなるのは仕方ないのである。そうして、次のステージへ行くのである。まったく仕方ないのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文章にはハラスメントがいっぱい

2024-03-23 | ことば

 「マルハラ」というのがある。主にSNSの文面で、文章の最後に〇で終わると、なんだか威圧的だったり、冷たく感じられる、というものだ。最近の若者にそういう感覚があるということで、ハラスメントのように揶揄された言葉だという。
 これについてはいろいろなところで、このことについて書かれているものを読んだ。というか、一斉にこの話題を上げるコラムやエッセイが雑誌などにあふれた。基本的には軽い驚きとともに、そんなもんかね、という世代間の断絶を言っているようだ。僕も最初にこれを言われたところで何にも感じなかったし、むしろそれを面白がって紹介している一方の世代の感覚の方が、気になるかもしれない。
 これはおそらくなのだが、逆にSNSなどで文章が延々に続いていくことに、違和感を覚える側の言説では無いのか。実は僕は若い人々のラインなどのやり取りの方が、恐怖感を覚えるのだ。複数の人で文章を打ち込んでいるときなど、「え」とか「それで」とか、相槌なのかどうか、文字を打ち込んでくる。絵文字のこともあるが、それらの促しに、単に「いや」とか「そうね」とか、ともに意味が行き詰っているようなこともある。それらのやりとりをずっと眺めていることは無いのだが、多少間が空いた後であれ、突然やり取りがまた活発になったりする。このタイミングが何だか変な生き物を見るような感じがして、とても嫌なのだ。
 そういう事もあったためなのか、もうずいぶん前から着信音は鳴らないようにしているし、そういうやり取りの最中であっても、自分の時間帯でない限り見たりすることも無い。そういう恐怖(というか面倒だ)に、嫌気がさしたためだろう。たとえ相手からの問い合わせであったとしても、もうすぐには返さないと心に決めたくらいである。
 でもこの話は、ちょっと胡散臭い。いわゆる若者、いわゆるZ世代、と言われるような人々を、理解不能なので攻撃したいような、そんな感覚の方が強いのではないか。若い人が〇くらいで恐れおののくなんて、その方がファタジーっぽいではないか。単に世代間の文章の書き方の違いに、ウザいな、と思うとか、あれっ、ちょっと調子狂うな、くらいは心の中で叫んでいるのかもしれないが、まあ、そんなものじゃないの、が主流では無いのか。ほんとのことは分かりえないが、それくらいはお互いに思うのが自然だろう。
 でもまあ実のところ、絵文字などを多用するSNS文章というのは、中年の人(特に男性)に顕著だ、という意見もあるようだ。(笑)とかいうのは、もうずいぶん古いが、これを使うのは中年だけだろう(当時始まった習慣だから)。今は(www)を経て、(草)だそうだが、まあ面白くもなんともない。怒ったような文章を書いて(笑)も何にもないから、ニュアンスとして、その文面や流れをもって可笑しい、というのが理想である。分かるヤツだけ分かればいいのである(文面で、すでに明らかなわけで)。そんなに気の小さなことでごまかすような心情の方が、なにかやましいことがあるようで、却って詮索される、ということに気づかないのだろうか。まあ、気づかないからやってしまうのだろうけれど……。ともあれ、〇の怖い奴は、一生怖がっている人生を歩めばいいだけのことだろう。相手のせいではなく、自分のせいなのだから。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疾走する青春から逃れられない   青の炎

2024-03-22 | 映画

青の炎/蜷川幸雄監督

 母親の以前の再婚相手である男がいきなり転がり込んできて、息子である高校生の青年は、いつも不機嫌になる。男は傍若無人にふるまい、酒を飲むばかりで何もしない。何もしないどころか、時折妹に危害を加えそうになる始末だ。このような男を受け入れる母親もどうかしているのだが、この家庭には事情もあるらしく、それは示唆されるものの、はっきりとは明かされない。青年は思い悩んだ末、緻密な計画を立て、男を殺す決心をするのだったが……。
 原作小説があるようだ。映画化に当たって、演出にうるさいといわれる蜷川監督下に、ジャニーズの二宮和也、アイドルの松浦亜弥などが出演している。という事は多少は話題になったはずだが、僕はまったく知らなかった。二宮はのちに俳優としてそれなりの地位を築くので、その片鱗が十分にみられる。いや、むしろ新人としては上手いのである。彼の映画だという事が言えて、二宮演じる高校生の苦悩こそが、この映画そのものである。
 周到な計画をもって殺人を実行するものの、落とし穴が待ち受けていて、青年は大変な窮地に陥ることになる。しかしながら機転の利くところがあって、これもなんとか乗り越えたように見えるのだが、さらにまた追い込まれていく。青年は逃れられない定めの中を、ただただ疾走していくしかないのである。
 友人関係も悪くないし、好きな女の子もいて、きょうだい仲も悪くない。母親は不可解だが、親子の愛も間違いなさそうだ。すべては転がり込んできた男が悪いわけで、平安を乱したものを青年は排除しなければならないような正義感があるようだ。それは大人に対しての反抗でもあって、先生に対してもとんがったところがある。まあ、誰にでもある思春期の反抗を、このような姿であらわしている訳である。なかなかに難しい年ごろを、みな通過しなければ大人にはなれない、という事なのだろう。
 勧められて観た映画なのだが、たまにはこういうのも観なければならない。それはすべて忘れてしまった感情だから、かもしれない。僕らは皆サバイバルしてきた、という事なのであろう。もう高校生になんて、二度と戻りたくないものである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

凄まじい格闘の研究人生   当事者は嘘をつく

2024-03-21 | 読書

当事者は嘘をつく/小松原織香著(筑摩書房)

 副題なのか「私の話を信じてほしい」とも帯に書いてある。修復的司法の研究をしている著者が、自らの経験を交えて、その研究に至る経緯を、いわゆる自分語りをしながら明らかにしていく。読んでいて正直に感じていたことは、性被害者が抱える感情の、複雑さと凄まじさと悲しさと、そして驚きであったかもしれない。「あなたには理解できない」という当事者からの言葉は、後に書かれているように、実際にはあなたにもわかって欲しい、ということかもしれず、ただ遮らず話を聞いて欲しいということなのかもしれない。廻りにいる支援者はしかし、そのことになかなかに気づけないもののようだ。理解したいがために、当事者を見せものにして、自分の立場から彼らを解説する。どう接していいかわからずに、その恐れもあっての事か、自分たちの視点で被害者を理解しようとする。そうして被害者の生の声を遮断してしまうのかもしれない。だからこそ、著者は加害者以上に、むしろそうした自分たちの側に立とうとする支援者に、怒りや牙をむける感情を持つようになる。何も知らない、表面的で誤解しているかもしれない人々よりもむしろ、そのような傍にいる理解者であるような二次的な加害者こそ、当事者を様々に苦しめる存在であり、おぞましくも恐ろしいものなのかもしれない。
 当事者は嘘をつくかもしれないというのは、実際に嘘をついているという事実かもしれないことを、直接的に言っているわけではない。当事者しか知らない、当事者しか感じ得ない体験や言葉というものは、当事者であってしても、自信をもって本当のことであるとは、言い切れないことかもしれないことを指す。それは十分には語りつくしえない問題でもあり、そうして時を経て、粉飾されるものが含まれてしまうかもしれない。しかし語るべき時には語らなければならないものでもあり、困惑を含みながらも語られてしまうものなのかもしれない。事実を語ることは、その事実そのもののはずであるが、しかしこと性被害という出来事について当事者が語るときには、そのような体験と共に自らの感情が複雑に絡み合ってしまうのであろう。事実を語りながら、自分の事実に自信が持てなくなるのかもしれない。
 時折哲学的な論考があったりはするものの、著者の体験的な成長物語というような側面もあって、後の水俣の研究に至る研究者としての当事者でない姿なども描かれていく。ケータイ小説にのめり込んで文章を磨いたりなど、ちょっと変わった試行錯誤もあったりして、なかなかに読ませる物語のようにも感じられた。
 ちょっと告白すると、著者はどんな顔の人かな、とネットで検索して見たのである。そういう自分の行為を考えると、こういう本を書いて、さらに自分が被害者であることをカミングアウトしている著者の立場を、改めて考えてしまうのである。僕の行為は、ある意味で暴力に近いものがあるのは確かで、そういう事とも、被害者は戦っていかなくてはならないのだ。格闘する研究者の姿をありのままに書いた本ということで、たいへんに貴重な研究入門になるのではないだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かなりの窮地には違いない   シャドウ・イン・クラウド

2024-03-20 | 映画

シャドウ・イン・クラウド/ロザンヌ・リャン監督

 極秘の任務と謎の鞄を携えて、女性の兵隊が爆撃機に乗り込んでくる。乗員の男たちは皆下品で女性を見下したゲス野郎ばかりで、若い女のことをみじんも信用していないし、心無い罵声ばかり浴びせてくる。爆撃機の下方についている銃座に閉じ込められ、上空の寒気に苦しめられながら言葉でいたぶられ続けている中、窓の外に何か異常な生物を発見するのだった。しかしながらこのグレムリンというのは架空の生物でもあり、女を馬鹿にする乗員の男たちは、そんなことを信じるはずが無い。そんな中日本軍の戦闘機が、襲撃をかけてくるのだった。
 舞台はニュージーランド上空のようだが、史実はもちろん、確かに荒唐無稽かもしれない。いちおうの謎があるのだが、それが解けたとしても、それからのアクションとのスリルの材料ということになるのかもしれない。延々と女性をいたぶる昔の馬鹿な男たちの言葉攻めが続いて、胸糞が悪くなるばかりである。反撃の要素はあんまりなくて、機密事項を守らなければ軍法会議だと脅すくらいしか手立てがない。そんなことが分かっている人間たちなら、そもそもそんな非道なことをするはずないじゃないか。
 基本的にクロエ・グレース・モレッツの主演と、彼女のちょいエロ魅力にオタクが参っている構図は、海外でも同じらしい(日本でも大変に人気がある)。戦う女としての彼女の素晴らしさはずば抜けている訳で、そこにちょっとした肌の露出があったり、負傷して苦しむ表情があったりして、そんな彼女を見て感動というか、心が和む人々が多いということなんだろう。監督は女性のようだが、そういうあたりの勘どころのために、この映画を撮ったのではなかろうか。
 そういう事での期待感が、僕自身にもあったのだろう。観ていて楽しそうになってきてから、その楽しさの中に、ちょっとアレっというようなずれもあった。謎が解けてからの彼女の動きは、急にひどく頼もしく強いのだが、それならもっと違った謎でもよかったのではなかろうか。そもそもの窮地において、彼女は自分自身で打開することも可能だったのではないか、という気もするのだった。グレムリンとの最後の戦いも、もう一工夫欲しいところだったし。
 ということで、ちょっと惜しいかな、という出来栄え。でも見てしまったのは、やはりクロエさんの魅力なんだろう。「キック・アス」が素晴らしすぎたのが、すべて悪いのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親子関係は殺さなければ逃げられない   母という呪縛 娘という牢獄

2024-03-19 | 読書

母という呪縛 娘という牢獄/齋藤彩著(講談社)

 河川敷に両手両足頭部の切断された、胴体のみの腐敗した遺体が発見される。すぐに近くに住む31歳の女が疑われ逮捕される。彼女は母娘二人暮らしのはずだったが、母親の行方が分からない上に、DNA鑑定で母の遺体であることが断定された。死体遺棄は認めたもののの、当初殺人は否定、その後発言を覆し殺人をも認め、二審にて懲役10年の判決を受け服役することになった。娘は既に31歳になっていたが、医学校合格を目指し9年の浪人生活後に看護科に学び、既に働きだしたばかりだった。娘が母を殺した動機は、激しい受験に絡む母娘関係の葛藤があった。その地獄のような日々の記録が、克明に明かされるのが本書である。
 いわゆる教育ママの行き過ぎた家庭生活の話なのだが、母娘関係の奇妙な深いつながりがあって、娘は従わざるを得ない牢獄と地獄の生活を強いられることになる。父親は仕事の関係もあるが、母親とはほとんど関係を断絶し、20年も別居しており不在だった。娘も高校生の後半ごろには多少の反抗も見せ、家出なども数回実施するが、その都度母の雇った探偵などの手段により連れ戻されることになった。母親の管理はまさに軌道を逸しており、激しい叱責や虐待が見られた。また、祖父母から支援や受験のための資金を得るために、奇妙な嘘を共同でついたりしていた。携帯電話などを通じたlineの文章のやり取りや、刑務所内から本人の手紙のやり取りなどから、その親子関係の激しい言葉の記録が明かされる。ちょっと現実のものとは思えないような地獄の日々でありながら、何故この関係が続いていかなければならなかったのか、考えさせられることになる。
 逃げられなかったのは、母娘関係だったからだろうか。娘は母からの長時間にわたる叱責に耐えながら、なにか精神に異常をきたしていたのではないか。成績の悪かったテスト用紙の改竄や、バスの回数券に偽造など、後にバレてしまうにもかかわらず(しかも犯罪が含まれている)、実に安易と言わざるを得ない偽装を、娘は繰り返す。これだけの苦しみがあるので、致し方ないとも思えるのだが、それにしてもあまりに計画性が薄い。母親を殺したことすら仕方がないような気もするのだが、バラバラにして遺棄して見つからなくする方法は正しい(あえてそういう方法があるのであれば、という意味である)とは思うが、肝心の胴体は、ちゃんと見つからないように埋めるべきだったはずだ。手足や頭は、ちゃんと業者が燃えるごみとして引き取り、処理されていた現実を見ると、なんとも中途半端である。母のラインの文面をまねて返事を書き、母の友達とやり取りをして、居なくなった後も偽装して分からなくなっていた(それが捜査上の証拠として、逮捕につながっていたわけではない)ことを考えても、やることがどこかちぐはぐである。見つかるべき事件として、露見したに過ぎない感じである。
 事件の猟奇性も相まって、非常に悲しいケースだが、ここまでの結末に至る経緯は、あるいは一般性があることなのではないか。いや、異常には違いなく、ここまではさすがにない話だろうとは考えられるものの、家庭内の虐待というのは、このような異常性を内包しているものが、結構あるのではないか。親子の関係というのは、残念ながら簡単には切れはしない。そのことが、この事件の原因の最大の問題点では無いのだろうか。
 恐ろしいドキュメンタリーだが、この問題は、まだどこかに隠れていることは間違いないと思う。そういうことを思うことが、また更に恐ろしいことなのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間は公正に扱われなければならない   イコライザー

2024-03-18 | 映画

イコライザー/アントワン・フークア監督

 昼はホームセンターで働き、夜には近所のカフェで静かに読書をする男は、カフェに来た若い娼婦と客同士の顔見知りである。娼婦なので時には危ない客も取っている様子だが、組織から抜けられずに、無理に客を取らされ、暴力事件に巻き込まれていることを知った男は、彼女を助けるために立ち上がるのだった。しかしながらこの組織は、実は国家的になロシヤ・マフィアであり、逆に男は、執拗に付け狙われる立場に追い込まれていくのだったが……。
 もとはTVドラマのものを映画化したものらしい。キャストの白人と黒人の違いなど、さまざまな設定は異なるようだが、自らの平等意識のようなものから、人間の不条理な状況を調整するようなところを演出しているものらしい。また、人間凶器としてのアクションも魅力の一つだろう。
 主人公は元特殊工作員で、ずば抜けた身体能力や知能を持っていて、たった一人で凶悪な犯罪組織と対峙できるような強さを兼ね備えた人物である。その設定自体は漫画的ではあるものの、映画としてそのあたりに人物造詣や、心理葛藤に至るまで、それなりに描かれていて、説得力は持たせてある。ちょっとした間の置き方のある演出なのだが、実際のところそういう部分こそが後のアクションに対するリアリティを支えていたり、カタルシスにつながる要素を持っているようで、観ていてだんだんと気分の盛り上がるものがある。いくら何でもあり得ないだろう、という言うようなアクション映画の多い中、同じあり得ないアクションを演じながら、違和感が少ないのもそのためである。むしろ感心してしまう訳で、科白の気の利いた展開ももちろんながら、ハードボイルドの在り方の提示の仕方が、非常に現代的な感じがする。娯楽作品には違いないのだが、映画としての厚みのようなものも同時に味わうことができて、後にこれがシリーズ化したのは当然のように感じられた。
 もちろん出来すぎているのだが、その出来すぎていたとしても、ただ単にかっこいいだけのヒーローでは無いのである。行き過ぎた暴力を使う際にも、その非道さを含め、何か内面に悲しさも秘めていることが見て取れる。事情があって俗世界から退いているにもかかわらず、見逃しておけないことが、自分自身の内面に残っている。そういうものを、自分の死の恐怖との葛藤がありながら、向き合ったのちに行動を決めているのである。そうなってからは、実に一直線なのだが……。
 素直に面白いので、続編を見ることにします(たぶん)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒人で探偵をする困難   ゆがめられた昨日

2024-03-17 | 読書

ゆがめられた昨日/エド・レイシイ著(ハヤカワミステリ文庫)

 田中小実昌訳。殺人事件に巻き込まれてた私立探偵のトゥイは、黒人差別の激しい南部の田舎町で、自分の身の潔白を晴らすべく、真の殺人犯を追うために奮闘する。しかしながら手掛かりは何も見つかる気配はなく、彼女から借りた金も底をつきかねず、大変な窮地に落ちていくばかりなのだった。そもそも探偵として雇われてある男を見張っていたのだが、その男が何者かに殺された部屋によびだされたところで、ちょうど警官に見つかったために警官をぶちのめして逃げてきた訳で、警察は血眼になって追ってきているだろうし、黒人である自分は、捕まれば電気椅子だろう。差別でろくに人間扱いもされないし、立ち寄ったドライブインで食事すら拒否される始末だ。金を貸してくれた彼女は、必死になって働いている自分を認めず、郵便局で地道に働くようにしか言わない。何もかも気に食わないが、しかしともかく犯人を見つけないことには、どうにもならないのである。
 当時のアメリカで黒人である立場が、どんなに困難な状況なのかということが、それなりのユーモアも交えながら描かれていく。いちおうハードボイルドミステリとはいえるのだが、その状況そのものが、スリラーとしてスリルに満ちている。しかしながらこれを書いている作家は実はユダヤ系のアメリカ人で、黒人ではない。この状況を描くために、あえて黒人の主人公を当時選んだということなのだろう。絶対的に不利な状況で、さらに面白くないことを言われながら、心の中では憤慨しているが、従わざるを得ない中で、時には反撃を仕掛け、そうして落ち着いて逃げる。まったくもっての世の中は不条理だらけだ。
 移動中にちょっと軽めに読もうと思って手に取って、それなりに夢中になった。こんな状況でろくに捜査なんてできそうにないが、出会った人々との奇妙な会話を交わしながら、一見的外れなことばかりになりそうでありながら、実は事件の核心に近づいていく。なかなかに見事な展開なのだが、やはり当時のアメリカ社会の人々のものの考え方だとか、風俗的な興味も十分に満たしてくれる文体だという気もする。日本語訳もなかなかにこなれているというか、日本人の会話ではありえないもののいいまわしを、見事にあらわしている。彼らは苦労はするけれどユーモアを忘れないし、非常に機転が利く。これだけの差別がありながら、そうでない人もちゃんと描いている。同性愛もあり、金やテレビ局の事情などもある。そうして黒人同士でも、社会に対する見方がいろいろあるというものだ。
 記録を見ると3年前の6月に古本で4円(送料240)で購入している。古いので定価でも320円と印字してある。なんでこれを知って買ったのか、相変わらず不明だ。そういう文庫本はたくさん持っているが、どういう訳かあんまり読まない。それなのに時々衝動的に昔のミステリを読みたくなるのはどうしてなのか、それは自分なりのミステリなのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命とは何か、という壮絶さ   ペルシャン・レッスン 戦場の教室

2024-03-16 | 映画

ペルシャン・レッスン 戦場の教室/ヴァデム・パールマン監督

 ナチス収容モノは恐ろしくて苦手なのだが、その恐ろしさが十二分に描かれている作品であるにもかかわらず、観た。そうしてしかし、恐ろしくおぞましい話ながら、観てよかったと思える作品だった。素晴らしいからである。
 ナチスに捕まった男は、輸送中に隣の男からペルシャ語の本を譲ってもらう(というかパンと交換する)。車から降ろされると、人々は次々に銃殺される。男はとっさに自分はユダヤ人ではなくペルシャ人だと偽る。それを聞いた兵士は、上官がペルシャ人を探しているということもあって、連れ帰る。その上官である将校は、たいへんに恐れられる人間でありながら、奇妙なユニークさのある者だった。実は元料理人で、戦争が終わったらイランへ行ってレストランを開くつもりだという(兄が住んでいるらしい)。それでおそらく二年くらいの間に、ペルシャ語をいくらか覚えておこうと考えたのだ。しかしながらユダヤの青年は、実際はペルシャ語など話せはしない。必死で架空の言語(単語)をこしらえて、この恐ろしい将校に教える毎日を送ることになる(昼の間は労働を強いられながらである)。架空の言語を勝手に作ればいいとはいえ、自分で作った単語は間違えずにずっと記憶にとどめておく必要がある。まさに命を懸けて、必死で単語をつくっては覚えていく毎日を送ることになるが、その単語を覚えるヒントに使われたのは、ほかならぬ囚人たちの名前だった。それだけ多くのユダヤ人が、捕らえられているという現実があるという事でもあるのだった……。
 いつ素性がバレて、殺されるか分からない緊張感がついて回る。捕まえたナチスの兵隊たちも、この青年がペルシャ人だとは誰も思っていない。一将校が恐ろしいために手をこまねいているだけで、様々な罠を仕掛け、男をおとしいれて殺そうとたくらんでいる兵隊もいる。ナチスの兵隊たちの間柄も、厳しい上下関係の緊張感からか、ユダヤ人をいたぶって殺すことに、なにかストレスを発散させるような気分のようなものを持っているようだ。それこそが戦争の狂気として、生々しく描かれる。しかし同時に奇妙なユーモアのような演出もあって、非常にブラックな笑いがところどころに仕掛けられていて、人間というものの心情の恐ろしさを見事に捉えている。その脚本の素晴らしさがあって、人間の命のゆらいだ行先を、実に巧みに表現している。ただ生きたいがために、必死でやり繰りをしている中で、ちょっとした人間関係の彩が生まれる。それが後に、決定的な生死を分けたりするのである。生き残るというのは、壮絶でありながら、且つ蝶が羽ばたいたというだけのほんの少しの偶然でも、簡単に左右されるものなのかもしれない。それがホロコーストで生き延びる、ということだったのかもしれない。
 間違いなくの傑作で、最後の最後まで見逃せない展開を見せる。そうして最初のシーンから最後のシーンまで、見事に完璧なつながりがある。これが映画だ、ということなのである。こういう題材がまだ、映画的に残っていたという奇跡が、また素晴らしいということなのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする