カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

久しぶりの出張 つつじが丘・仙川

2022-05-31 | 散歩
 大村は朝から曇りから雨脚が……。そういう中でのフライトであります。
 雲ばっかりで面白くないのでミステリ読んだり、ウトウトしたりしてたんですが、ふと窓の外を見ると。


 なんだか儲かった気分。やっぱり偉大な山ですね。

 という事で、二年半ぶりですかね。羽田到着。


 この時点でどこに行くかはっきり決めてなくて、交通手段もどうすっかな、と。でもまあ、バスは楽でも電車の方が安いんですよね、都心というのは。


 だから結局は新橋まで、って感じっすか。


 それと今回はどういう訳か、というか、パックの関係でしょうか。一応銀座のホテルですよ。見た感じもいいんですよね。チェックインにはさすがに早いんで、上着と荷物を預けることに致しました。


 そうやってアプリを開いて移動します。新橋だから銀座線、丸の内線、そうして京王線に乗ることになります。なんかいつもとあんまり変わりないけど、いつもとは行き先が違うのです。




 で、着いたのはつつじが丘。理由はおいおい。



 基本的に住宅街。後でわかるのだけど、住むにはいいところみたいですね。


 一応目的の場所は見ることが出来て、そのついでに案内板があって、武者小路実篤記念館がそばにあると書いてあるので、行ってみました。


 ここだよな。


 でも館内は残念ながら撮影禁止。実篤の戯曲である「人間万歳」を中心とする展示がありました。生原稿がさりげなくいくつも展示してあって、悪筆というか、かなり癖のある文字の羅列を見るだけでも迫力ありました。作家ってこんな感じに原稿書くんだな。編集の人、仕事大変だったでしょうね。


 最後にマンホールに書いてある実篤の作品。なかなかに素晴らしいです。実篤のこうした絵画と一言の色紙というのは、いくつか見たことがあったけど、おそらくここらあたりで書かれたというのがいいですね。


 記念館を出てすぐに通路があって、公園になってます。


 住宅街の中にうっそうと茂る森。という感じ。いったいここはなんだろう?




 この小さな森に小さな公道が通っているようで、また地価を下って次の森へ。


 そうして実篤の家にたどり着くのです。実はこの森の公園は、実篤の家の後を調布市が譲り受けて管理しているらしいのです。そうしてこの辺りは調布の断崖になっていて、仙川とつつじが丘の堺に実篤の家があったという事のようです。当時のことは知らないけど、こういうところに住んで創作活動をやろうと思った実篤というのは、それなりにやっぱりセンスがあるように感じますね。





 抜け出して仙川の方に出たらしくて、じゃあどこにあるかわからない駅に向かおうかな、という気になってきました。




 だんだん駅そばらしくなってきました。



 あった。これが駅でしょう。これは上手く言えないんですけど、だいたいの地図は頭の中にあったのは確かですが、あえてアプリとか見ずに駅を探すスリルが楽しいんですよね。ときどき大失敗しますけど。


 さて、これからどうしましょうか。

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犯人も刑事も謎を追っている   21ブリッジ

2022-05-30 | 映画

21ブリッジ/ブライアン・カーク監督

 元軍人の犯罪者の二人は、店に隠されている麻薬を盗む仕事を請け負い、実行に移す。ところが隠されている麻薬の量が尋常ではなく、さらにあまりに早く警察のパトロールが駆けつけてきた。何かがおかしいとは気づくが時すでに遅く、完全に囲まれ銃撃戦となる。元軍人である二人は戦闘には慣れていて、警官を射殺し、その場から逃走することに成功する。
 この捜査に当たることになった殺人課と麻薬課の男女の刑事がパートナーを組み、一晩だけマンハッタン島の橋を封鎖し、逃げた犯人を追うことになる。凶悪犯を追い詰める時間には限りがあるが、警官殺しの上逃走している犯人に対し、警察官らの士気は高く、壮絶な獲物狩りが始まったのである。
 最初からアクションの連続で息をつかせないが、この物語には、何か裏があることが示唆されている。逃げている凶悪犯は、何かの罠にはめられており、追っている警官は、警官殺しの犯人だから、自分たちで復讐のために殺してもいいと意気込んでいる。しかしこの事件の本当のヤマは、この逃げている犯人だけに解決の糸口があるのではない。いったいどうしたらこの事件のカギを解くことができるのか。それも犯人を追い詰めながら、ということになる。
 主人公の黒人の男の正義感もあるが、仲間である警察の中にも、何か不穏なものがある。訳は分からないが、凶悪犯を追いながら、必死で謎解きに頭を巡らしてく。犯人の姿は見え隠れしているが、元軍人の動きは想像以上に素早く、なかなかてこずって捕まえられない。そうして事件が闇に葬られるようなことにもなっていくのだったが。
 非常に出来栄えがよくて、ちょっとびっくりしてしまった。様々なクライムアクション映画をネタにもしており、これまで様々な映画を観てきた者にも、そのようなからくりを一緒に楽しんで見ることができるだろう。謎解きは容易ではないが、華やかなアクション展開の中に、少しずつだがヒントがちりばめられている。犯人側も警察側も、その謎を解こうとしながら逃げて追うのだ。プロットはよく練られているうえに、キャラクターも立っていて、バランスよく彼らの立場を理解することができるだろう。
 43歳の若さで癌で亡くなってしまったチャドウィック・ボーズマンの遺作となった作品でもある。アクションだけでなく深みのある演技(しかし改めて見ると、ずいぶん痩せているのである)をみせており、本当に残念に思えてならなかった。合掌。
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メニューの品数が多すぎる

2022-05-29 | 

 メニューを見て注文するのに時間がかかる。特にランチの時に迷うようだ。それというのもメニュー表があるせいである。いちおう渡されたのを眺めていると、いろいろとあるのである。最初から最後まで眺めるだけで時間がかかってしまう。ふと周りを見回すと、皆は僕を待っている。すでに何を注文するか決まっている様子だ。そういう場合は諦めて「日替わりランチ」と言ってしまう(もちろんそれがあれば。なければカレーかスパゲティ・ナポリタンだ)。日替わりランチの内容がなんだったか知らないが、来てのお楽しみである。
 つれあいと店に入ると、さらに圧力を感じる。僕のつれあいは、ほとんどの場合店に入る前から注文を決めている様子だ。それというのも何を食べたいかを明確にしてから店を選んでいる可能性もあって、一応メニューを眺めている前ぶりはあるものの、食べるものは決めている場合が多い。初志貫徹である。例えばそれがうどん屋であれば僕だってそれなりに短時間で決められるが、そういう専門的な店でなければ、やはりメニュー次第ではないか。特にランチはほとんど一種類を選ぶことになるわけで、選択肢が狭い。夜の居酒屋だと、店主に何か見繕ってもらって飲んで待っていればいいが、ランチの店は選んだものしか持ってきてくれない。だいたい何か食べたかったかもしれないな、という思いはあるが、メニューを見ると選択肢が広がってしまって、自分はいったい何を食べたかったかわからなくなってしまうのだ。
 もちろん予算もあるんだが、昼間っからそんなに高級なレストランに入ることなんてまれだし、財布にはだいたい三千円くらいは持っているはずだ。持ち合わせがないときに店などにはそもそも入らない。そうなると、ほとんどの店のランチ・メニュー(場所にもよるが)の中の一品は、注文可能なのである。これはありがたいが困ったことなのである。僕の食べたいものは、誰かに決めてもらいたいものである。
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あきらめの境地を鍛える   バクラウ 地図から消された村

2022-05-28 | 映画

バクラウ 地図から消された村/クレベール・メンドンサ・フィリオ、ジュリアーノ・ドルネリス監督

 何かの陰謀なのかよく分からないが、南米のある地域があって、その場所そのものが閉鎖されて、住民や地区が無かったことにされようとしているらしい。政治的な動きのような感じもするが、選挙のために演説に来る小太りの青年は、村人に支持されていない。この町の長老が亡くなって遠くから帰ってきたものもいるが、この状況に戸惑いながらも、町の人間としてこのままとどまろうということかもしれない。不穏な空気はさらに進み、実際に被害を受けるような人間も出てくる。町を守るために不良グループとも共同して,私設の武装集団から身を守ろうとするのだったが……。
 最初から最後まで、正直に言って何を言いたいのかよく分からない作品。南米のものだし、何か時代背景として事件のようなものがあったのかもしれない。流れは不穏だがだらけているし、説明は足りないので、その意味するところがよく呑み込めない。最終的には村人が頑張ってハッピーってことかもしれないし、まったくそうでないかもしれない。孤立しても皆で協力し合って困難に立ち向かっていきましょう、ってことかもしれないし、まったくそうでないかもしれない。いったい何なんだこれは。
 解説かなにか読んでみようかな、と後で考えたのだが、そういうのをわかる人がいたとしても、映画としてそれを語ることの方が大切なような気がしてやめることにした。たまにはそういうのを探って楽しい場合もあるんだが。これの場合、必ずしもそうしたところで僕の心が満たされることはないのではないか。
 武装集団に襲われるが大反撃を果たす、というくだりに何か比喩的なものが隠されているというのは、考え方の一つである。どうにも解せない暴力を受けることがあろうとも、相手に悟られずに準備を怠らず、しっかり反撃したら勝てる、ということだろうか。唯一、そういうところが映画的な見せ場にもなっていて、逆に言うとそれ以外はかなり残念なのだった。まあ、妙なものを観てしまったと諦めるより仕方ないではないか。
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面白くて人に教えたくなる   英語独習法

2022-05-27 | 読書

英語独習法/今井むつみ著(岩波新書)

 知っていることが認識されない暗黙の知識を「スキーマ」というらしい。そういうまとまった英語的な前提を理解しないことには、その言葉の本当に意味する感覚は分かりえない。それは日本語でもそうで、我々はそういう意味の塊を知らず知らず理解しているので、「てにをは」の使われ方が間違っていることを、論理的に語ることができなくても、正確に使うことができる(たまに怪しい人もいないではないが)。だから英語を勉強するということは、そういう言葉の塊の膨大な知識を理解する必要がある。そうであるがゆえに英語が思ったよりむつかしいと感じている日本人は多いのだろうし、ある程度の勉強をしないことには、そもそも扱えるものではない。
 でもまあ程度というのがあるのであって、自分の思う必要度において勉強すればいいのである。それはそれで険しい道かもしれないが、思い立ったら最初はちょっと頑張ってやったうえで、あとは根気強く少しずつでも続けていくことが、つまるところ英語を理解するというまっとうな勉強法なのだという。さらに近道(聞くだけとか)をして楽に勉強できるという触れ込みの英語学習法を説くものは多いのだが、本当にそれで理解できるなんて言う考え方が不思議なだけであって、やっぱり苦労して引っかかりながら理解する方が、言葉の理解には必要なのであって、そういう苦労して覚えた言葉だからこそ、その後も忘れることも無く、ちゃんと使える身についた言葉になるということなのである。
 そういう実際には合理的な勉強のやり方を、懇切丁寧に論理だてて解説している。英語を流暢に話せるようになりたいという欲求は分かるが、自分の能力に合わせて学習する手立てとしては、文章を理解し、それを書けるようになるよう練習する方が、実は合理的なのだ。言葉を理解する上では、相手の話すペースに合わせて、その一回性で言葉を扱う方がはるかに難しい訳で、ある程度の語彙がたまったのちでなければ、多くの場合上手くいかない。やはりその前のやるべきことをコツコツ積み上げていくよりほかに、合理的な勉強というのはあり得ないのだろう。会話に果敢にチャレンジすることが無駄とは言わないが、実はもっと楽する方法は、急がば回れである。
 いやいや、実際は簡単でないからこそ、自分なりに興味を持った単語や引っかかるものを深く理解するやり方を、工夫してやることが肝心なのだ。またそのためのツールというものが今は実にたくさん備わっている。またそれらはネットでタダで使えるのだ。そうしてこのような本だってある。また好きな英語の映画なども繰り返し見ることができる。結局は熟読吟味して深く理解することこそ大切なのだから、好きなものや興味あるものを題材に選んだ方が、飽きが来ない。なるほど英語話者というのは、そういう考え方で世の中を見ているのか、という驚きのようなものがたくさんあって、僕らのような日本語話者にとって、英語の勉強そのものがたいへんに楽しい題材なのだと理解できるだろう。
 本当にたくさん線を引いて、行きつ戻りつして楽しんで読めた。面白いので人に聞かせたくなる知識が満載である。居酒屋うんちくネタ本としても、大いに有用な本だろう。また再読必至の備蓄本である。
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カンボジア人とアメリカのドーナツ関係   ドーナツ王のアメリカンドリーム(ドーナツキング)

2022-05-26 | ドキュメンタリ

ドーナツ王のアメリカンドリーム(ドーナツキング)/アリス・グー監督

 カンボジア難民としてアメリカに渡り、そこで食べたドーナツに感動し、そのままその店で修行後ドーナツ店を展開し、大富豪になった男のドキュメンタリー映画。上映された作品だが、僕はBSドキュメンタリーで観た(ラッキー)。
 前半は壮大なサクセス・ストーリーになっていて、実に爽快だ。カンボジアの内戦で命からがら国外へ逃げてたどり着いた先のアメリカで、家族を抱えていかに生きていくか、という瀬戸際生活を送っている。そういう中にありながら、テッド・ノイという男は実に明るく屈託がない。彼自身も過去を語るし、彼のことを知る人間は本当にたくさんいて、それぞれが彼の過去や現在のことを語ってくれる。テッドとその家族は、今の時代からは考えられないくらい必死で働き、そうして働いたからこそ、アメリカ社会でアメリカの代表的な食べ物であるドーナツを売りまくり、大手のドーナツメイカーを退けて成功していく。そうして更にテッドの偉いところは、そのドーナツを作る技術をはじめ、必死で働いて地域で支持を得ていくビジネススタイルを、他のカンボジア難民の同胞に伝授し広げていくのである。そうしてカリフォルニアという地域において、ドーナツといえばカンボジア人の店であるとされる一大産業を築き上げることになる。そのようにして大成功し、大きな車を買い世界中を旅し大豪邸に住むようになるが、そうやって贅沢をするかたわらでもカンボジア人を支援し続け、政治の世界でも大物政治家を後押しするような人物にのし上がっていく。カンボジア人の多くからも慕われ、まさに人生の絶頂まで上り詰めていくのだ。
 しかしそのようにドーナツ王として大富豪になったテッド・ノイには、ある大きな落とし穴が待ち受けていた。そうして彼は、その落とし穴から抜けられなくなってしまうのだった……。
 ホントにこんな人いるんだな、とまったく呆れるやら感心するやら。まさに人生はジェット・コースターである。普通のサクセス・ストーリーは「努力の人、えらい。」で済んでしまって、どこか胡散臭いのだが、いや、テッドもどこかそういううさん臭さも持っているけれど、実に人間くさくて、憎めない奴なのだ。今は爺さんになっているけれど、いつもニコニコしていて、大きな失敗をやらかした後であっても、そうして多くの人を巻き込んで迷惑な奴なはずなのに、相変わらず好かれている様子なのだ。かなり悲しい物語のはずなのに、そういうものを引きずっていない感じもする。愚かでありながら、その人間としての明るさのようなものが、いまだにカンボジア人がアメリカで生き抜くヒントのようなものを提示している。競争の激しいアメリカ社会にありながら、本当にサクセス・ストーリーは生き残っているのである。
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僕の名前を選んだ話

2022-05-25 | 母と暮らせば

 僕は六人きょうだいの三番目の次男坊である。僕らの名前は上の三人まで(つまり僕まで)祖父が付けたと聞いている。親孝行のつもりだったのか分からないが、孫ができて喜ぶ父を断ることが、両親(特に父)にはできなかったのだろう。さすがに下の弟から父が付けたらしいので、きょうだいの名前の系統が、ここからがらりと変わってしまう。別に誰からつけられた名前だからという意識は普段感じられるものではないだろうが、客観的に見て、やはり上の三人の名前の方が古くさい感じがしないではない。
 という前提がまずあるのだが、僕の名前の話に関するものは、母の定番である。最初、僕の名前とされていたものは、今の僕の名前とは違うものだった。実は僕には一つ違いのいとこがいるのだが、その名前が第一の候補だったというのだ。それを母がどうしても気に入らず、今の僕の名前に変えてもらったのだという。そうだとしたら、なんとなくいとこに気の毒な印象をもつものだけれど、たぶん、そうやって暗にいとこの境遇を非難している可能性すらある。母は基本的に人の悪口しか言わない。
 さらに、そうやって母が認めた名前だからこそ、僕の名前が素晴らしいということにもなる。僕にはそんな価値観というものがよく分からない人間だから、きわめてどうでもいい話に過ぎないが、母が選んだと言っても単に今はいとこにつけられている名前と、今の僕の名前と比較してのことであって、確かに今は自分の名前になじんでいるのだから、特に変えたくもないというだけの話で、どっちがいいという特徴が特にあるわけでもない。どちらかというといとこの方が珍しく、僕の方が平凡である。さらに名前の系列というのがあって、僕の兄の名前と、僕の名前というのは系列立ってもいる。どちらも祖父の名前の一部が使われていて、共通である。いとこの場合もそうではあるけれど、いとこの名前を使った場合には、身内でない限り客観的には、共通性が分からなくなってしまう仕掛けが施されているのである。
 何が言いたいかというと、おそらく母の言っていることは嘘に過ぎない。祖父の性格は知らないけれど、きょうだいとして孫の名前を考えた時、僕の今の名前である方が絶対的に自然なのである。また、母親の話でまったく嘘の含まれていないものなど考えられない訳で、母はこの話を自分の能力の伴う美談として捉えているのだけれど、僕はこの話が嫌いである。それは僕の名前が平凡だということとは関係が無く、単につまらないものであると自覚させられるような気分にさせられるからである。
 なぜそうまでして母は僕の名前の仕掛けに、嘘を馴染ませたいのだろう。それは一種の支配欲のようなものなのかもしれない。そうしておそらく当時の家というものの支配から逃れて生きたかった、嫁に来た境遇への恨みかもしれない。そう考えると気の毒なところが無い訳ではないが、実のところ長男の嫁でありながら実家暮らしをするわけでもなかったのが事実である。また、自由でわがままだった母が、家というものに縛られて生きてきたと考えるのは浅はかである。母の本質というものを見誤ってはならない。母の言う昭和の女の境遇というのは、おそらくテレビドラマの世界を見てそう考えていただけのことであって、母の実際の体験などではない。母は親戚の人間からは(そうして他の多くの人からも)好かれてはいなかっただろうから、そういう意味ではつらく感じられたことが無かったとは言えないが、ちゃんと反発して喧嘩しただろうことも間違いなさそうで、はっきりと親戚の者たちは母を怖がっていた。そういう中でも、なんとか立ち回っていたというだけのことで、今となっては付き合う人など一人も残ってはいない。もっともだいぶ死んでしまった訳だけれど……。
 しかしながら僕の名前には、その間違った由来が付いたまま、誰もその真実を語ってくれる人がいなくなった。もうどうでもいいことではあるのだが。
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認知症スリラー演技合戦   ファーザー

2022-05-24 | 映画

ファーザー/フロリアン・ゼレール監督

 おそらく認知症になった父親の視点でとらえた物語。娘夫婦は父と一緒に暮らしている様子だが、最初は父の暮らすアパートのブロックに、娘夫婦がやってきた風に見えているが、しかし話は逆転して、父の方が何らかの事情で移ってきたようにも見える。認知症が進行していて、いったいどちらが真実なのかよく分からない。分からないが、その混乱ぶりと父の体験が、観ているものには分かるようになっている。
 名優と言われるアンソニー・ホプキンスの演技が光る、という感じになっていて、その周りの俳優たちも、その名演に引っ張られるような感じもあってか、なかなか皆さん頑張ってるな、という感じだろうか。要するに演出の方が、演技を高めることに注視していて、そういう演劇世界を楽しむ作品だということだろう。
 認知症の世界の不条理というか、それで周りの人間が振り回されることになるということなのだが、今見ている場面が、いったい現実のことなのかどうなのか、ということにかなり不安定な気分になる。何か仕掛けがあるらしいとは示唆されているけれど、それは一方的に父の認知症のためなのだろうか、それとももしかすると、認知症を理由に、周りの人間が落とし込めているのではないか、などと考えてしまう。そういうスリラー的な要素で謎解きの興味を持ってみていると、それはやはり人間ドラマであって、人間が老いるという現実を捉えた悲しい物語ともいえるだろう。娘にとっても事情はあるし、しかし家族ということにも、やはり事情があるということだろうか。
 この物語の原作者が、そのまま脚本を書きメガホンを取っている。この話の思い入れがそれだけ強いということかもしれない。それにしてもアンソニー・ホプキンスは現在84歳(この映画の撮影時は81歳だったのかもしれないが)ということで、これだけ科白回しの多い作品にもかかわらず、やはり見事ということだろうか。どうしたら認知症にならないのか、観ている人の興味は、現実の人間にも向けられることになるのではなかろうか。
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僕という匿名性

2022-05-23 | 雑記

 僕の名前は、いわゆるありふれていて平凡だ。漢字で書いても字画が少なく、13画程度で書かれてしまう。雑に書いても認識しやすく、上手に書いてもあまりかっこよくない(習字など手で書いた場合)。さらに名字もありふれすぎているので(九州ではあまり多くは無いのだが)、同姓同名の人がたくさんいる。新聞を読んでいて同じ名前の人が殺人などで捕まったりするのを何度も目撃している。有名人もいるし、もちろんそうでない人もいるだろう。
 免許証の更新の時に年齢が違うのでおかしいな、と思っていたら、同じく来ていた同姓同名の人のものが間違って僕に渡されていた(僕よりかなり年配の人だった)。仕事で必要な資格試験の時もそういうのがあって、僕の生年月日と違う資格証明書が送られてきたことがある(もちろん、交換してもらった)。
 名前の漢字が間違った宛名で郵便が届くことはしょっちゅうで、僕は事業所の代表もしているので、困ったことにそういう郵便が大量に日々届いている。だいぶ以前は訂正するように先方に伝えていたこともあったのだが、これはもうきりがないし、考えてみると、違う漢字に変換されるワープロも悪い訳であって、送ってきた人だけの責任ではないような気もする。まあ届いたのだからいいのであって、そもそも名前なんて記号である。ということで開き直って、もう気にさえしてない。
 食事の予約を取っているのに、違う人がすでに店内に案内されていたこともある。店で名前を書いて待っていると、同じ苗字の人が続くこともある。もうびっくりもしないが、違う名前を使うという訳にもなかなかいかない。何しろ自分の名前なんだし。
 名字だけならそういう事故が起こりかねないのでたいへんに危険だが、しかし一方で匿名性があるともいえる。世の中には変な人がいて、僕のようなありふれた名字をかたって、日常の匿名性を保っている人もいるようなのである。ネット上ではハンドルネームを使うように、友人間など以外では別の名字であるという人がいて、そういう時にこのありふれたものを使うらしい。なるほど、とは思うが、実際に僕のような立場の人もいるので、まぎらわしいことである。ただでさえありふれたものなのに、さらに汎用性があって増殖しているかもしれないことを思うと、ちょっと気持ちが悪いかもしれない。いや、ほんとは気にしてないんだけど……。
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止まった時間は取り戻せるか   半世界

2022-05-22 | 映画

半世界/阪本順治監督

 何か事情があって仕事を辞めた同級生が、田舎のまちに帰ってきた。同級生で友達だった三人の男たちがいるが、帰ってきた仲間を受け入れることで、だんだんと三人の境遇が明らかにされていく。地元で結婚して親の炭焼き小屋を継いだ男は、しかし一人息子がいじめられていても何もすることができない。同じく親の営む中古車販売をしている男は、独身のままだ。帰ってきた元自衛隊員の男は、海外派兵に行った折に、何か心の傷を負ったらしく、離婚もしているようだ。彼は友人に誘われるまま山で炭焼きを手伝うようになるのだったが……。
 何かの社会批判のようなものがあるらしいのだが、ストーリーを追っていく中で、そのことは上手く伝わってこない。田舎暮らしは大変だとか、そういうことでもないような感じだし、以前からの友人たちが、何かどこか遠慮がちに中年になりながら、新たな付き合いを始めたということなんだろうか。後にある一家にとっては大きなことが起こるが、それがどういう意味なのかは僕にはよく分からなかった。大変なことには違いないが、それが物語としての意外性や、又は必然とは、そんなに関係が無いようにも感じられたからだ。演技合戦として楽しむ話かもしれないが、そういうものが上手くいかされているわけでもない。ちょっと中途半端な物語かもしれない。
 僕自身は田舎に残って生活している身の上である。同級生だった友人の多くは、残念ながら地元にはあまりいない。ぜんぜん居なくなったわけでもなかったが、つまるところ盆や正月に帰って来る友人と一緒に、そういう時期にしか会わない。だからこの映画の設定のような感じというのは、分からないわけではない。すでに亡くなってしまった友人もいるし、その後境遇が変化したものもいる。それでも変わらない田舎の生活というものは、あるのかもしれない。
 映画では何が言いたかったのかよく分からないが、そういう生き方の問題というのは、多かれ少なかれ、同級生のそれぞれの運命を変えてしまっているかもしれない。そのまま子供のころからの延長で、今の現在が運命づけられているわけではないのだが、お互い確認することも無く、止まった時間は、忘れられたまま生きてきたのかもしれない。以前の友人と会うと、そういうことを思い出すこともあるのだろう。そうして僕らは老人になっていくのである。誰も抗うことなど、できない相談なのである。
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戦争当事国以外でも大きなシフトチェンジが起こる

2022-05-21 | HORROR

 圧倒的な軍事力の差があることが明白と思われていたロシヤとウクライナであるが、だからこそ数日でウクライナが降伏するというシナリオが成り立ち、ロシヤは軍事侵攻に及んだと考えられる。そういう判断なしに今回の蛮行が決断されるはずがないと考えることが合理的だろう。誰もが納得することとしては、命よりも大切なものはない。僕らは生きているからこそ今のすべてを認知できる。つまり、ウクライナの多くの人々は、命より大切なものがあるからこそ抵抗し続けているということになる。国家間の戦争というのは、改めてそういうものだということを証明している。最初から勝てる戦いでは無い状況であっても、不合理には負けられない。ゼレンスキーという普通ではない政治家が誕生した背景は、こうなると必然的でもあったかもしれない。
 そういうことに伴って西側からの軍事的な支援がある。もちろんそれで三か月も持ちこたえているわけだし、それなしにはここまでは戦えはしないけれど、それでもそれを使って戦っているのは生身の人間であるわけで、ウクライナ人でなければ戦えないともいえる。外国の人でもそういう心持のある人間はいるかもしれないが、そう簡単な道理にはなれないだろう。実際にまだNATOに正式に加盟する前だったとか何とかいうもっともらしい理由をつけて、むしろ武器等の供与で勘弁してくれ、という国ばかりではないか。痛みを伴う制裁を科しているということもあるが、完全に止められない事情のある国だってある。一日に千億円あまりの金額がいまだにロシヤには流れているとみられ、もちろんそれが戦費を支えているわけだ。
 しかしながら、ロシヤには核兵器等のさらに強力な軍事的な脅威がある。他国が参戦しない理由は、つまるところ核の脅威である。もともとウクライナも核兵器は持っていたが、核拡散の国際協調とNATO加盟なども視野に入れ、自らの核兵器は放棄した経緯がある。皮肉なことに持ったままだったらロシヤは軍事侵攻しただろうか。これをもって核拡散を防ぎたい向きには納得したくない事実だが、絶対に軍事侵攻はしなかっただろう。事実NATOとアメリカは、軍事的に反攻していない。長期的に見てプーチン・ロシヤである限りは、経済的には勝負がついたけれど(それ以外に選択が無かっただけだが)、核と資源国である大国ロシヤが滅びたわけではない。ただしプーチンは今年70歳になり、ロシヤの男性の平均寿命は68歳である。ポスト・プーチンなら、また違うシナリオが成立するかもしれない。
 今回の戦争で明らかになったことは、例えば中国が台湾に軍事侵攻してもアメリカは動かないだろうということであり、それは日本であってもそうだろう。中東やアフリカの国々もそれは理解した。経済発展なしに国民の個人の幸福は無いし、国家の繁栄もないが、独裁者や権力者の立場はそうではない。要するに自分の命を民主的な大衆から守ることと、自らが馬鹿である限りは、核を持ちさえすれば生き延びることができる。この答を前にして、それなりの立場の国々がどのような選択をするのかは、かなり明確なのではなかろうか。
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孤立した子育ては大変だけど   ロスト・ドーター

2022-05-20 | 映画

ロスト・ドーター/マギー・ギレンホール監督

 この作品は非常に評価が高い芸術的な作品なのかもしれない。しかし僕が正直に感じたことは、なかなかの雰囲気は持っているものの、はっきり言ってしまうと、とても傑作とは言い切れない。視点として斬新だというのも分からないではないが、言いにくいことをいったからと言って、それが必ずしも偉いわけではない。確かに心が乱されるようなところがあるので、佳作くらいのところではないかと思う。世間の評価は高すぎるのではないか。
 こういう映画を過大に評価しすぎると、むしろかえって駄作が増えるような予感さえする。言いにくいことを、ことさらジェンダー的な告白として描けばいいと思われるのも、映画的にどうなのだろうか。近年はそういう流れに傾き過ぎていて、実社会がかえってわかりにくくなりつつある。そういう害悪のあるものを含んでいる作品でもあるわけで、これが理解できないと大人としてはどうなのか、という試金石にもなりかねない。そういう社会的な正しさの中にあって、いわゆる一時的な流行に乗っているだけの作品かもしれないではないか。
 バカンスに来ている中年女性には、過去に何かあったらしいことは見て取れる。長椅子で横たわったり、何か調べ物のような(おそらく大学教授のようだ)ことをしている。バカンスの海岸だから、家族連れや団体が来ているのだが、そういう騒々しい連中にうんざりしている様子だ。そしてその中で、女の子を連れている若いお母さんに目が留まる。自分の過去の子育てのことが思い出されるらしい。若いお母さんがちょっと目を離したところ、女の子が行方不明になってしまう。海岸での人々は騒然となる。そんな中女性は思い当たるフシがあり女の子を見つけ出すが、同時にその騒動の中、女の子が大切にしている人形を盗んでしまうのだった……。
 中年女性は、若い頃に二人の子供を育てるのに、同じく若い夫の協力もあまり得られず、自分のキャリアも捨てきれずに、たいへんに苦労をした。はっきり言って、子供は邪魔で仕方が無かった。そういう苦々しい過去があって、ある事件を起こしてしまうのだった。自分としては仕方なく犯してしまった過去の過ちと、現在のバカンスでの若い母親との対峙において、心が揺り動かされているようなのだ。その過去と現在の自分を描きながら、女性が自分らしく生きることと、子育てをしなくてはならないリスクをあぶりだしたものである。
 問題提起としてのそれは、成功はしているのかもしれない。しかしながら、そうでありながら、なんとなくお話は中途半端に思わせぶりに終わってしまい、つまるところ何を言いたいのかはよく分からない。そういう訳で観ているものは放り出されてしまい、ちょっと唖然としてしまう。いい感じは保ったまま映画は進んでいくし、いい感じは保ったままエピソードも揃っている。しかしながらこの女性の個人的な思いが強すぎるきらいがあって、物語の流れにはそんなに説得力はないし、独善的だ。犯罪者が、その正当性を間違った考えのまま主張したとしても、それを受け入れることが難しいのと、ほとんど同義である。聞いていることはできるが、同意はできない。惜しいのだが、おそらくそういう思いの方が強くなりすぎて、成功していないのだ。女の人のつらさが、個人的な特殊な姿になりすぎているのかもしれない。多少はお気の毒だとは思うのだけれど……。
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ひし形の力強さ   夢(ビジョン)を描く技法

2022-05-19 | 読書

夢(ビジョン)を描く技法/杉万俊夫著(東京図書出版)

 副題「ネアカに集団を変える」。集団を変える方法には二つある。一つは現在の問題点を洗い出して、改善する方法。もう一つはどうなったらいいな、という夢を抱いて、そのために何をするか、ということ。この本は一つ目はとりあえずおいておいて、二番目の方法だけを取り上げて、いわば「夢ビジョン」の実現の達成の仕方を説いたもの。なんとなく自己実現啓発本のような印象を受けるかもしれないが、実際には人間の集団力学を基礎に置いた、学問的な取り組みのトリセツに特化した本のようだ。薄いのですぐ読める。
 具体的なトリセツなので、実にシンプルである。ひし形の図形に主体者を左に書いて、対面上の右側に今やっている(取り組んでいること)を書く。上にはそれをやるための道具(ものでもいいし制度でもいい)を書く。そうして下には、それを行うためのモットー、チームメイト、そして役割分担を書く。たったそれだけ。
 もちろん書き方があって、モットーは、それを実行するにあたって、どうあって欲しいという願いのようなことを書く。この考え方が大切なようで、いわばこれが夢実現のカギのようなものかもしれない。そのモットーをチームメイトに共有してもらうことで、その横にある役割分担をしっかりと楽しくやってもらうことができる、という感じだろうか。今やっていることをよくするために、集団がしっかりと動きやすくなり、結果的に夢実現ができるということになるのだろう。
 非常にシンプルなのだが、そのシンプルさゆえに力があるのかもしれない。実例もいくらか示されていて(というかほとんどその説明)具体的にどう進んでいくのかということも分かるようになっている。
 また、夢と夢想の違いも大切なようだ。ただ単に金持ちになりたいとか、人に具体的に内容を語ることができない(というか自分だけのことですね、そうなったらいいかもしれないけど)ものは夢想であって夢ではない。例えば仕事で、もっと今作っているものを売って社会貢献したいというようなことなら、人に語ってわくわくできる。そういうものをビジョンと言っているようだ。またそういう夢の語り方について、具体的になるように、段階的に行きつ戻りつしてひし形の図形を変えていってもいいという感じだろうか。
 確かに一般的な集団は、反省は得意だが、そういうネクラ的な改善ばかりしているのかもしれない。それは否定されるべきことではないが、いわゆる前向きな方向性ではないのかもしれない。やり方はシンプルすぎるくらいで、ほんとにそれでいいのかな、という気もしないではないが、まあ実践する、ということに特化するなら、このような方法というのが集団を動かすのに都合がいいのかもしれない。ネットでも考え方を解説したものがあるようなので、興味ある人は覗いてみてはどうだろうか。
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勘違いの先に現実が合流すると   机のなかみ

2022-05-18 | 映画

机のなかみ/吉田恵輔監督

 なんとなく二部形式になっていて、前半は家庭教師で可愛い女子高生の担当になった若い男が、その魅力に惹かれて虜になり、彼女がいながら心が引っ張られていくことになっていく。後半は、その女の子の実際の生活のありようで、時に家庭教師の男に気のあるそぶりをしてしまったように見える顛末が描かれていく。前半は、だいたい痛い感じなので、後半は、やっぱりそうなんじゃないかということが分かっていいのだが、それはそれで問題はあるという内容かもしれない。
 今や吉田恵輔監督は時の人なので、その過去作を観ておこうという僕のような人間は多いのではないかと思う。できればその初期の非凡さを読み解こうという訳だ。
 それで物語が交差する出来事が起こるが、そこで大きく話がクロスするとともに、非常に困った状況に、皆が同時に追い込まれていく。いったいどうなってしまったというのだろうか。お互いに立ち尽くすよりない状況になり、ごたごたとして父親は思わず娘を殴ってしまう。血だらけで泣いている娘は……。
 これはコメディだとは思うだが、映画的にも、この困った状況の緊張感というのが、それなりに素晴らしい。おかしいが笑ってはいけない。そうして簡単に片付けてしまっても、後々大きな遺恨が残ってしまうのが確実なのである。なるほど、これだけを見るためだけに、だらだらしたものに付き合わされてきたんだな、と初めて分かる作品かもしれない。
 その後も、一応顛末としてお話は続くものの、家庭教師の男はそれでいいかもしれないが、女子高生の場合はなんだか救われないような気もしないではない。こういう男とのこれからのやり取りなんて、子供だった今の時代と、これからもそう大きくは変わりそうにないからだ。そういう意味では明暗は分かれたが、それがハッピーなのかどうか、観る人にゆだねられたということになるのであろう。
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ガチャ切りなんてどうでもいい?

2022-05-17 | culture

 知らず知らずやっている習慣に、電話の話が終わったら、先に指でフック(っていうのかな?)を押して通話を切ってから受話器を置く、というのがある。いわゆるガチャ切りの音をさせない配慮なんだと思うが、どうして僕がそんなことをやっているのかは不明だ。誰に教わったという記憶もないし、うちの職場はガチャ切りで有名な先輩が事務所を仕切っていた伝統があるんで、先輩方の指導ではない。でもまあいろんな人からオタクの事務員さんはぶっきらぼうだしガチャ切りだし注意した方がいいよ、と苦情は受けていたんで、勝手にそういうことを配慮した可能性はある。そういう注意は受けても事業所でどうこうしましょう、という話し合いをしたことは、結局なかったんだけど。
 何しろ僕はガチャ切りが失礼だとは、みじんも思っていない(まあ、ひどい感じの人はいるな、とは思ったことはあるけど)。むしろガチャ切りが失礼だとか、相手が電話を切るまで待つのがマナーだとかいう人間の方を信用してない。そういうのを大切にしている会社や事業所の価値観というのは、企業倫理としてどうしたものか、とさえ思う。そんなことよりも、ちゃんと仕事しましょうよ、お互いに。
 という感じだったんだが、テレビで外国人がふつうにガチャ切りするというのをやっていた。少なくとも番組を見る限りでは、ガチャ切りしない外国人なんていないようだった。電話でがちゃんという音が相手に伝わると失礼ではないか、と日本の側が言うと、まあ、相手が慌てていたのかな、とは思う、とのことだった。それにこれはそもそもの問題だが、日本人は相手が切るまで待つという奇妙な行動を取るので、あえてガチャ切りの音を積極的に聞いているだけのことである。外国人というのは、お互いに用件が終わったら電話を切るので、お互いがすでに受話器を耳に当てさえしてない。だからガチャンと電話を切ったところで、お互いが相手のガチャ切り音を聞くというのがまれなのである。電話というのは用件が終わったら切る。そういう心掛けがしっかりしているので、仕事と同じで内容を重視してまじめにやっている証拠ですらあるかもしれない。
 でも自分はそうしていないじゃないか、と叱られそうなんだけど、要するにめんどくさいのである。僕は相手のガチャ切りは気にしないけれど、相手がそうではないことをすでに知っているのである。今はスマホなのでほとんどの場合ガチャ切りというのは無くなっていると思われるが(だからそういう変なことを気にする悪しきマナーはすたれると思うが)、いまだに古い人間が働いている社会に生きている限り、最低限のトラブルを避けているに過ぎない。名刺の受け渡しだとか、身だしなみだとかそういうこと以前に、仕事においては仕事の内容に真摯に向き合って、それを高める努力をすべきだ。もちろん、自分なりに考えてそうやっている人はそれでいいだけのことで、要するにそういうことを強要することに仕事の内容をシフトしている日本社会が嫌いなだけである。日本がダメになっているとすれば、つまるところそういう考え方なのかもしれないとさえ思う。
 でもまあたかがガチャ切りだけど、これが嫌で相手先の取引をやめた、という会社の社長さんを知っている。日本社会はそれなりに恐ろしい。やっぱり外国人に教わる謙虚さが無ければ、日本は難しいのかもしれない。
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