カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

没入感のあるシリーズものを観るべきだ

2020-04-30 | なんでもランキング

 家にこもっている人もいると聞く。それはそれで不健康なことではあるが、今は体の健康より、精神面の安定を図る目的の方が先んじているらしい(そういう考えこそ根本的に無知による間違いだけど)。現代風にはゲームをすべき時かもしれないが、それが性に合わない人もいるだろう。テレビをだらだら見ていてもいいことは恐らくない。それに今は、精神的にもそれは結構危険であろう。
 せっかくだからこの機会にテレビ・ドラマをまとめて観るというのもいいだろう。もともとそういう楽しみの仕方をやる人も多いのだろうけど、なんとなくそういうことには長けていない人もいそうな気がする。かくいう僕自身がそうであるから、うまく勧められるものが無い。ツイン・ピークスなんてどうか、なんて薦められても、ピンとくる人がどれだけいるのか。
 ということなんだが、出来るだけその世界に没入できるものが良くて、その没入感が続くものがさらにいいのではないか。あまりまとめてやると食傷気味になる可能性も無いではないが、ちょっとくらいそうなってもいい作品というのはある。
 というわけでテレビでも再放送やってたりするが、この機会に観るべきは「コロンボ」ではないか。コロンボ・シリーズは、もともとテレビ・ドラマだったようで、初期のころと中盤後半と、脚本から監督から、なんもかんも違う。ピーター・フォークがずっとやってるってだけこのことで、そんなに一貫性のある話でもない。ずっと見ているとそういう突っ込みどころも面白いのではなかろうか。
 ついでにだけど、古畑任三郎シリーズも一緒に楽しんだ方がいい。パロディとしてよくできているし、独立しても面白い。
 コロンボほどたくさんは無いが、ゴッドファーザー・シリーズもいいと思う。この作品群がなぜいいのか、そうしてその水準がなぜ保たれているのか、じっくり味わってほしい。最後だけはちょっとだけ評判が悪いが、僕は嫌いではありません。マフィア社会で生きるのはまっぴらごめんだけれど。
 スターウォーズもたくさんあるけど、僕は古い人間で、ハリソン・フォードが出なくなったあたりから興味なし。実際に面白くも感じない。というわけで長くなったからと言って、やはりお好きにどうぞなんである。
 さてさて、日本にはとんでもなく長く続いたシリーズはちゃんとあるわけで、しかし我が家に限って言うならば、それでも完全に見飽きてしまったのが「男はつらいよ」シリーズである。これも必ずしも一貫性が無いところがあったりして(博の実家とか←つれあいから指摘があって訂正します。最初は博の父は北海道の大学教授だったので北海道からやってくるのだが、定年だか退職後に故郷の岡山に戻ったのだろうということだった。なるほど、完全に僕の勘違いと思い込みがあるようだ。というわけで、この話は特に矛盾はない。博の兄や姉たちの話だと、岡山で育ったらしいことは分かる。その後博の父は、北海道の大学の職を得たのであろう)、長く続くと作品というのは、違った成長をするものなのだということが分かるだろう。後半になると、さすがに寅次郎本人の失恋だけだと哀れすぎるようになり、満男に頑張ってもらったりしている。寅さんのようなヤクザなら、多少は付き合えるかもしれないが、しかし寅さんの恋愛のやり方は、やはりかなりまずいと思う。というか考え方の根本に、全く納得はいかない。それでも名作なのだから凄いのであって、しかしもう実は我が家では、通算1000回(←これもつれあいから訂正あり。実際には800回くらいだそうだ。二百回も鯖読んじゃった。すいません)に届くくらい見返しているわけで、もう僕自身はほとんど観る気もしなくはなっている。そういう事情はあるんだけれど、人に勧めるとなれば別の話である。そんなに頑張る必要も無いけど、お楽しみくださいませ。
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キャディラックと共にある人生(最後は捨てるが)   真夜中の虹

2020-04-29 | 映画

真夜中の虹/アキ・カウリスマキ監督

 自殺した父からオープンカーのキャディラックをもらう。幌の閉め方が分からず、真冬でもオープンカーのままで疾走する。とにかく寒そう。お金は強盗に取られ無一文であるが、ある時車を止めている場所に戻ると、駐車違反で自分の車がキップを切られているところだった。取り締まりをやっている係員の女(婦人警官ではなさそう)をそのままくどいて難を逃れるが、彼女には子供がいて、(彼が言うには)手間が省けて家族になる。ある時、いつぞやの強盗を見つけて殴りかかると、それが通報されて警察に捕まってしまう。仕方なく脱獄し、せっかく逃げるので国外逃亡することにするのだったが。
 まあ、そういう話なんだが、奇想天外だけど、それなりにスジが通っているとはいえる。いや、そうなのかは意外なはずなんだが、そうなってしまうので面白くていいのである。幌が閉まらない車だと、北欧の冬には都合が悪い。しかしかっこいい車だし、乗ることに執着してしまうわけだ。もともとそういう不合理がありながら、彼はそういうことに自ら付き合うことで、波乱の人生を楽しんでいるかのようだ。しかしながら、これが後半のしょうもないギャグの布石にもなっているわけで、思わず呆れて笑ってしまう。本当に笑ってしまう人生そのものの象徴である。バカらしくて泣けてくるくらいだ。
 これだけ変な話をこしらえてしまうと、日本だと単に馬鹿にされるだけだろう。しかしこの監督作品は違う。何か不格好だけどおしゃれであり、洗練とは真逆の珍道中が、気が利いているのである。それにちゃんと面白い。いわゆるハマる要素がたくさんある。世界的にヒットするのはそのためである。
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トランプ大統領と伝説の日本人ギャンブラー

2020-04-28 | 境界線

 アメリカは大統領予備選をやってるんだなあ、と眺めていて、ふとそういえば数年前トランプ本をいくつか買って、ちょっと読んで放り出していたのを思いだしてパラパラやっていると、柏木昭男という日本人が登場してきた。伝説のギャンブラーといわれる男のことである。
 柏木は豪州のホテルで29億勝ったといわれ、世界的に知られたギャンブラーだった。主にバカラをやるらしく、一度に日本円で3000万円程度賭けるらしい。そういう高額で遊ぶギャンブラーは、宿泊費などは全部ホテルもちであるらしく、もちろん多くのカジノが彼を招聘した。大負けすると経営にも響くほどの金額が動くが、そのぶん大勝するうまみも感じていたということだろう。
 トランプはカジノ併設のホテル経営をしているので、柏木との勝負をビジネスととらえていたようだ。トランプと柏木の勝負は実際にあって、一度目は、約9億円ほど柏木が勝った。しかしこの時は、ツキに対して様々なジンクスを重んじる(多くのギャンブラーは多かれ少なかれそうかもしれないが)柏木が、ちょっとしたことで腹を立てて勝負を途中でやめて、そのまま日本に帰ってしまった。勝ち逃げされて大損したトランプは、これではあきらめがつかなかったようで、何度も誘い出して、結局二度目はトランプ(のカジノ)が15億ほど勝ったのだという。さらにトランプは、ギャンブル界では御法度らしいが、このようにして勝ったことを吹聴したために、公の場で目立つことを嫌った柏木がリベンジを果たせなかったともいわれている。しかしさらに柏木は他の場所でも度々目撃されていたとも言われていて、つまるところツキに見放されて、あちこちで負けていた可能性が高そうだ。
 柏木という男は、そのような伝説的なギャンブラーとして名を馳せていて、モデルとしての設定で映画にも(彼に扮した俳優だが)使われているらしい。目立つようなことを嫌っていたようなのに、たいへんに有名になったのだから、皮肉ではある。でもそんなギャンブラーは目立って当然で、実際柏木はギャンブルに負けると派手に怒って暴れる等の奇行もあったようで、ちょっとアレである。
 さらにさらに、結局は自宅において滅多刺しの惨殺という結末でこの世を去った。日本での不動産売買や金貸しなどで財を成したわけだが、ずっと評判は悪く、多くの人の恨みを買っていたともいわれる。犯人は捕まっていないうえに時効らしいし、恐らくは借金の見せしめで殺されたのではないかとの憶測もあるようだ(他の人に、返さなければ柏木のようになるぞ、というわけだ)。
 教訓めいたことを言いたいわけではないが、度を越したギャンブル癖は、結局は身を亡ぼすというのは明確なことではないか。有名ホテルから招待されて、スイートルームもタダで使用できるといっても、その使用料をまかなえるだけギャンブルでカモられる客に過ぎないからである。まあ、そういう人生が楽しいのなら、勝手にやってもらえばいいだけのことではあるけれど…。
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興味のある概念なら頂戴しよう   散歩する侵略者

2020-04-27 | 映画

散歩する侵略者/黒沢清監督

 数日いなくなっていた夫が帰ってくると、別人のようになっていた。そうして地球を侵略しに来た、などと妙なことを言う。妻はイライラしながらも、そんな夫を放ってはおけないのだった。同時期、一家惨殺事件の重要参考人の娘であるとか、その取材をやっていた雑誌記者と同行するやはり侵略者だという若者の珍道中の話も同時進行する。政府もこの流れをなんとなくつかんでいて、この宇宙人たちはいったいどうやって地球を侵略するというのだろうか。
 まあ、妙な話で、いわゆるSF映画には違いない。キャストは日本の俳優的には豪華布陣だが、ちゃんとした特撮が凄いわけではなく、チープである。もちろん、それが黒沢映画でもあり、狙い通りなんだろうと思われるが、実際とんでもないことが次々起こっていくわりに、世界はそれなりに平穏である。僕ら地球人としては、とても平穏ではいられない事態のはずなんだが、どうもこの人たちは頼りなく怪しくて、しかし要所要所は凄かったりして、なんだかちぐはぐである。人間の考えている様々な概念を奪うというが、それが実際になんで侵略に必要なのかは、よく分からない。そもそもなんで侵略しようとしているか、彼らもよく分かっていないのではあるまいか。
 そういう映画なんだが、これが面白くないわけではない。先に前田敦子のプロモーション映画のようなものを観たせいか、こちらの方が黒沢的に断然合っている設定であるのは間違いない。要するに面白いわけで、結末がどうこうというより、観ている時間そのものが面白い。俳優たちも設定に合っていて、ノビノビしている。たぶん面白がっているのだろう。基本的には学芸会のようなお話なんだが、だからこそ気楽に楽しめることになっている。深刻に考えることは何にもなくて、しかし侵略も頑張って成功してくれないかな、なんて気分にもなっていく。人類が困るところを見てみたいじゃないか。
 結果的に長澤まさみがたいへんに重要である。見終わってみて、彼女がいちばん凄かったということがよく分かる。僕は彼女を怖いと思ったが、それは彼女が大変に魅力的だからということと同義でもある。宇宙人も、たぶんそのことに気づいたに違いないのである。
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犬・殺されるのについていけるか?

2020-04-26 | Science & nature
 書こうと思っているのはチャウチャウのことだが、同時にコンラート・ローレンツのことも書かねばなるまい。というか彼の著書は持っているのだが、いつも読んでいて挫折する。翻訳のせいにすると気の毒かもしれないが、独特の言い回しがあって僕には読みにくい。ユーモアたっぷりに書かれているのだが、あまり笑えないというか。しかし頑張って飛び飛びくらいは読んでいる。少し文章が古いが、ああなるほど、そういうことね、というような内容がある。やはりこの筋の元祖なのである。動物行動学っていう分野は一時日本でも流行ったが、最近はなんだかちょっと聞かない。トレンドが変わったのだろうか。ローレンツはノーベル賞も取ったのだけど、今考えると、ちょっとのどかな感じもしないではない。
 さてそのローレンツ先生だが、実際は様々な犬を飼ってはいた。しかし特に愛した忠実な犬に、チャウチャウをあげている。チャウチャウ犬というのは中国原産として知られている。日本人が聞くと大阪弁の否定慣用句のようで滑稽だが、中国語ではチャウチャウとは言わない。どういうわけか外国語ではチャウチャウのようで、それをそのまま日本では発音で使っているのだろう。チャウチャウ犬の特徴としては、一般的に愛嬌のあるつぶれた丸っこい顔であるものと思われる。ところがローレンツ先生の時代のチャウチャウは、もっともオオカミに近い犬種とされていて、結構獰猛で荒い性格であったようだ。あの顔つきもつぶれた様子ではなく、尖ったマズル(鼻面)をしていたらしい。今のように愛嬌のある丸っこくつぶれたマズルになったのは、人間が観賞用に繁殖していった結果なのだ。
 さらにチャウチャウ犬は、実は食用犬としても用いられていた歴史もあるようだ。それで太りやすい体質のかけ合わせもなされたということらしい(さすが中国!)。しかし、恐らくなのだが、人間との付き合いの長い犬というのは、多かれ少なかれ人間の都合で食用にされていた歴史はある。使役的にお供として使われる(例えば犬ぞりの様に荷物を運ぶとか、狩りをするとか)うえに、人間の窮地になると食べられたということだろう。現代人の目からは残酷な印象を受けるだろうが、そのようにして人間は住むところを開拓したり、放浪したりしたのだろう。
 さて、ローレンツ先生の飼っていたチャウチャウには、実に歴代のものが何匹もいた。もともとローレンツ先生の飼っていたシェパードと、奥さんの飼っていたチャウチャウが結婚し、その混血を何代か飼っていたのだろう。
 その中で特に忠実だったと書いているのが雌のスタジで、ローレンツ先生以外にはまったくなつかなかった。その当時ローレンツ先生は、たびたび長期で家を空けることが多かった。従軍や捕虜になったりしたせいである。帰ってくると狂喜していい犬だったようだが、先生が家を空けると悲観に暮れ、他の人間には関心を示さず、それどころか、家出してよその家畜を襲ったりして野生化したらしい。あまりにひどくなった時には手に負えないと判断され、とうとう動物園に預けられてしまった。そうして残念なことに、空襲にあって亡くなった。その間6年だったというが、ローレンツ先生と暮らしたのは、正味3年くらいだったのではないかといわれている。
 犬というのは、飼い主には忠実だという性質がある。それが人間との強い絆を作るわけだ。もう今はほとんどの場合食いはしないけれど、たとえ食われる運命であっても、なついてくるのである。こういうのは、人間同士のつながりよりも、ひょっとすると強いものがあるんじゃなかろうか。
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陽水の詩は、やっぱり凄かった   井上陽水英訳詞集

2020-04-25 | 読書

井上陽水英訳詞集/ロバート・キャンベル著(講談社)

 陽水の詩に魅了される人は数多い。素晴らしい、というのがまずはあるのは当然だが、しかし妙である。時々ふざけすぎているのではないかと感じるし、また、これはいかにも適当すぎるだろう、とも思う。そうして頭を抱えたくなるほど、意味不明に思えるものもある。いったい何なのか、これは。しかしそう思えても、陽水には憑りつかれてしまうものなのである。僕は若いころにはみじんも興味なかったが、しかし遅ればせながらそうなってしまった。そうしてそういう事情を知りたいと思っていた。半生的な物語なども読んでみたし、陽水を語るドキュメンタリーめいたものも見た。だいぶわかった気もするが、そうなのだろうか。陽水という人物自体も妙な人だけれど、音楽に対する姿勢だとか、もちろん書いている詩に対しても、なかなか厄介な人のような気もする。
 ロバート・キャンベルは日本に来て、生活もだが、日本語にもそれなりに苦労した跡が見える。それは外国人としては当然かもしれないが、苦しみながらも日本を離れることなく、そうして闘病してまでも、陽水を聞いている。この人は、音楽自体に深い造詣を持っていて、この書かれている日本語の美しさも含め、その考察は深く詩的である。そういう背景がまずあって、個人史としてのキャンベルさんと陽水がまざりあい、独特の化学反応を起こしていることが見て取れる。それを読んでいくことで、日本の世の中のことも分かるし、何と、この陽水の詩が分かるような気になっていくのだ。日本語では完全には分かりえない日本語の意味が、英語を通して頭に理解されていく。妙な感慨と共に、これが詩を味わうということか、という発見があるはずである。
 僕はこの本を、実に時間をかけて読んだ。実際にはキャベルさんの文章は、すぐに読んでしまったのだが、陽水の詩との対訳を、時間をかけて読むしかなかったのである。そうしておそらくだが、これからも時々繰り返して読むのではないかと思う。英語の勉強になるとかいうことも利点としてあるかもしれないが、これが言葉を味わう、詩を理解する、という行為であるからだろうと思う。多くの人が推薦している本であるが、恐らく手に取った人には、納得されることであろう。
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未来を語ることからしか未来は訪れない

2020-04-24 | 時事

 ポスト新型コロナの世界というのは、それなりの流行りである。当たり前か。そうしてやっぱり、みんな未来が知りたいということだ。
 すでに変わってしまった社会の変貌を見ると、これになぞらえて考えるというのが基本ではある。ありふれたことだけど、テレワークの可能性というのが、一番あたりがありそうだ。日本のビジネス慣行にはなじまないとされ、もう何年も検討されながら実現しなかった在宅勤務が、多くの業界でくしくも実現を見たわけで、東京一極集中問題も含め、ライフスタイルの根幹を変えうる可能性をもっとも秘めたものではなかろうか。これは地方にとっても、人々の感じている幸福感に関しても、大きな転換点になりうると思う。
 もう一つはちょっと懐疑的でもあるが、CO2の大幅削減の影響なんかも面白くはある。無視している人もいるが、何か都合の悪いことでもあるんだろうか。いや、あるに違いないが。
 これだけ世界規模で実際に大幅な削減がなされている現実をみて、どれだけの効力があったのかというのは、ぜひとも検証が必要なことだろう。いつまでもやっていると壊滅的だというのはあるが、そのためにある意味で本当に人類を救うことができるのかというのが実証されるのであれば、やはりこれも世界を動かす根拠にはなる。その根拠にもならないのであれば、ふつうに経済を回していいという根拠にもなる。まさに世界的規模で将来を決める、最大の決め手になるはずだ。
 このCO2排出の大幅削減については、検証できるだけの長期になる問題がある以外にも、ちょっと難しいことが見て取れる。もちろんそれ自体をいいことと断じているような単純なことを言いたいわけではないのだけれど、先に付随して良いことから述べる。それは、これに準じて大気汚染も幾分改善されてはいるはずで、呼吸器官の疾患が数千万人といわれている現代においては、多くの命にかかわる人の改善も期待されるということだ。
 しかし、ここからが面白くない話なのだが、それに伴う経済的な損失の影響で、失望・絶望・貧困のなどで相殺されるくらいの具体的な死者があるかもしれない。人の命か経済か、などときれいごとを言う人がいるが、経済は人の命をもっとも救うことから目をそらしているだけだ。もしくは単なる無知のために騙されているだけかもしれない。失業率と自殺には相関関係がみられるし、財政出動も経済に余裕が無ければ不可能だ(今は借金だけど、借金ができる余裕があるという考えであろう。もっとも先送りだから増税の余裕があるということもあるが、それを考えると、バラマキ効果は薄れてしまう。それに何度もできる話でもない)。社会保障は経済的に困窮すると不可能になるだろう。そもそも生活に困窮する人々が、他の人に関わる余裕さえ失うことは、理解できる話ではないか。経済を止めてでも人の命を守ることは、それ以上に人の命を削りかねない問題ということである。現在もある程度の犠牲の上でという自覚は少しくらいはあると期待したいが、それを上回る恐怖心に、誤って方策をとっている可能性もきわめて高い。感染者を減らすために人の命を犠牲にしてよいという理屈は、ふつうは通らない話なのだ。要するに今は人々のマインドが、普通ではない証拠にしかならないが。
 グローバリズムが機能不全になりかかり、その象徴として原油も安くなっているので、日本の製造業が回帰していって結果的に復活する、という予想も無いではない。それなりにいい未来像に見えなくも無いが、それがその後も続くのかというのは、やはり懐疑的である。その前にアメリカや中国が経済的な風邪や肺炎になり、日本が…、という経験則を思い出すべきだろう。
 もちろんポスト・コロナ世界で常識として語られているのは、コロナ前世界にはもう戻らないということだ。暖かくなると食中毒も気を付けなければならないわけで、飲食をはじめとするサービス業の形態は、安易な予測の範囲にあるわけではない。そういう現在に終息を願うという受け身だけでいい筈は無い。正常化は、時間とともに誰かの上に降ってくる幸運などではないかもしれないのである。
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住みたい憧れの地ではないが、夢の国かもしれない   イタリアン・シューズ

2020-04-23 | 読書

イタリアン・シューズ/ヘニング・マンケル著(東京創元社)

 スウェーデンの寒い冬に、入江の凍った海を割って水浴する。主人公の元医師は、そのような日課を自らに強いている様子だ。その男のもとへ以前付き合っていた女性が凍った海を手押し車を押して、40年ぶりという歳月を経て訪ねてくる。彼女は、40年前にした約束を果たしてくれと言ってくる。また、元医者は、何故医者をやめてこのような隠遁生活をしていたのか、物語を追っていく中で徐々にその理由が明らかにされていく。
 ミステリ作家として名高い著者だが、これは特にミステリ作品ではない。しかしながらそのようなミステリアスな過去の清算を、隠遁を決め込んでいた男はやらなくてはならない。妙な性格と、実際に行なってしまった自らのあやまちにあって、それに向き合うことをしてこなかった罪が、男にはあるのだろうと思う。しかしそのために、逆に男は心の平安のようなものを、生きていく人間らしさのようなものを、徐々に獲得していくことにもなる。もともと偏屈なものであったものが、さらに奇妙な人々と関係するにあたって、開かれていくことがあるのかもしれない。そうしてそのような物語の流れを読み進むことで、読む者に対しても、その人間らしさとは何かということを、考えさせられずにおかないのである。
 元医者の男の過去は、父親との関係などからも語られる。一人の人間の性格形成に関してのファミリーヒストリーは、必然として影響力があるのだろうと考えられる。そのうえで、彼はキャリアをスタートさせ、何か罪めいた運命を背負うまでになったのだ。結婚もしていたようだが、そういうものが破綻してしまい、そうして大きな運命を狂わせる事故も起こしてしまう。それが必然だったのかどうかは分からないが、この男だったからこそ、そうなってしまったのかもしれない。運が悪いともいえるが、それを呼び込んでしまうようなことも、彼にはあったのかもしれない。そうして島にやってきて、少ない人間関係の中で、名前のない犬や猫を、飼っているというか、共に暮らしているという感じになっていったのだろう。
 明るい話では無いが、暗すぎる話でもない。出てくる人たちは一癖も二癖もあって、それがスウェーデンなのだろうか。個性的であることに、それなりに素直に生きているのかもしれない。それで幸福かどうかはともかく、そういう生き方であっても、なんとか暮らしていける。そのままのたれ死ぬことだって可能だろうし、だからと言って、周りがやかましく干渉するということも無いのかもしれない。日本だったらほとんどファンタジーだが、それがありえる社会というのが、北欧にあるのだろうか。そもそものそういう環境が、我々日本人にとっては、かなりのミステリなのである。
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飲んでいるのは水が多い

2020-04-22 | 掲示板

 普段昼間に飲むのは水である。もともとは天然水の2リットルをもらったので飲んでいた。冷蔵庫に冷やしておいたので、コップに注いで飲んでいた。なくなって捨てようかとも思ったが、ちょうどそんなとき、外出から帰った折で、ペットボトルのお茶も持っていた。それでこれは組み合わせて使えると思った。以来、2リットルのボトルには、濾過機を使った水を入れて冷やして置き、しかるべき時は、空いたペットボトルに冷たい水を移して飲むようにした。これでコップを洗わずに済む。それなりに具合はいいようで、いつの間にかというか、それなりに続いた習慣になっている。
 季節にもよるのだろうが、いろいろ試してきた経緯はある。コーヒー豆も買い置きしているから、時々は自分でフィルターで濾して飲む。湯沸しポットをうまく使う術もマスターしているが、まあたいした技とは言えない。また職場の仲間がコーヒーメイカーも持ってきていて、昼時などはふるまってくれる時がある。そういうときもコーヒーを飲む。ただ、僕は数か月昼は職場で摂っていないので、皆と団欒する機会がそもそもなくなり、これはずいぶん回数が減った。
 外の会議なんかだと、ペットボトルが主流だ。ほぼお茶で、銘柄にはこだわりはない。見た目も緑っぽいものが多くて、もう少し個性があればいいのにな、とは思うが、まあ、これはサインとして、お茶であるということが定着したものなのだろう。コーラを飲むことはあまりないが、何かの間違いで年に数度はあるかもしれない。また野菜ジュースやオレンジジュースのことも、絶対に無いではない。自動販売機でコーヒーを買うことは、まずないけれど。
 職場にはお茶好きの人も一定以上いるようで、主に彼女らが居る時は、淹れてくれたお茶を飲むこともある。自分でも出がらしを飲むこともある。新たに茶葉を入れなおして飲むということはあまりしない。自分だけ飲むのに気が引けるせいであろう。
 最近は男女同権の観点から、客が来ても女性がお茶くみをするなどという習慣をやめた。というのは嘘で、いつの間にか客が来ても単にお茶を出さなくなっただけである。事務所に人がいないということもあるし、そういうタイミングで出せるような仕事中の人が、物理的にいないからである。客には申し訳ない事業所かもしれないが、僕の方はこういうのに慣れてしまったせいか、よその事業所で今も丁寧にお茶を出していただくとひどく恐縮する。しっかりして素晴らしいことだが、うちはその素晴らしさは復活しそうにない。
 ところで水をのむとトイレに行きたくなる。僕はこの500㎖のペットボトルの水を飲んで、四回くらいはトイレに行くようである。ある日これは頻尿ではないかと思ったのだが、ひょっとすると前の晩に飲んだものの勘案や、その他摂取する水分も他にある可能性はある。あんまり間食をする方ではないが、絶対にしないわけではない。そういえば、昼間の尿の方が比較的透明ではあるし、糖尿病などは、水を飲んだらすぐにトイレに行きたくなる、という話も聞いたことがある。僕はたぶん糖尿病予備軍のはずである。まあ、だから頻尿を思いついたのかもしれないが、だからといって我慢しては始まらない問題である。むしろこの程度の水の摂取でよいのかどうか、いつか検証してみよう。
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今は難しいかもしれないが、ウイルスに感謝しよう   ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!

2020-04-21 | 読書

ヒトがいまあるのはウイルスのおかげ!/武村政春著(さくら舎)

 ウイルスというと、恐ろしい病気と結びつけて考えるのが普通の反応だと思われるが、ほとんどのウイルスというのは、人間にとって無害なものである。もちろん、人間の方が有害なウイルスについて、その脅威から身を守るという観点から関心を持っているというのがあると思う。実際のところ、インフルエンザ・ウイルスなど、感染すると、それなりに厄介なことになりそうなウイルスは恐ろしいものである。しかしながら、そもそもウイルスの方が感染する宿主にとって毒になるというのは、エラーだということになる。ウイルスの生存戦略として宿主の細胞に取り込んでコピーを作るしかない存在なのであるから、宿主を痛めつけることをやるのは、そもそも自殺行為といっていいのである。ましてやエボラのようなものは、宿主を高確率で殺してしまうわけで、完全に間違って出来上がったとしか言いようのないものがいる。結局そういうウイルスは、長い目で見ると、滅びるよりほかにないものなのかもしれない(人間に殺されるか、人間とともに滅びるかだ)。
 ウイルスに脅威を感じるさらなる理由は、やはりその大きさにもあると思う。あまりに小さいために、肉眼で見えないばかりか、電子顕微鏡のように特殊なものを使わなければ見えないほど小さい。そこらじゅうにウイルスは満ち溢れているわけだが、それを人間は感覚として分かりえないのである。何とか自分を守ろうと考えて防護のためにマスクをしたとしても、そのマスクの繊維の隙間など簡単に通り抜けられるほどのサイズである。
 また、ウイルスと細胞を持っている生物との切っても切れない関係は(共存しているので当たり前だが)、生物の進化とも関係があると考えられている。実際にウイルス由来の進化の跡は、多くの場合説明できるようになっているらしい。さらに近年は巨大ウイルスの発見などもあり、生命誕生の由来まで、説明できそうなところまで研究が進んでいるようだ。ウイルスがいなければ今の我々は存在しえないし、また将来も生き続けられないようである。
 ウイルスに対する様々知識が身につくわけだが、ウイルス全般のことを知ることにはなっても、いわゆる脅威としてのウイルス観として読むとすれば、ジャーナリズム的に恐怖心を満たすために読まれる本ではないだろう。それがそもそものウイルス観であるはずなのだが、それすら理解しづらいかもしれない。まあ、そういうことを分かるためにバランスよい人間になるべきだとは思うが、果たして今の時期には…ということであろう。僕個人としては、それでたいへんに良かったが。
 ということで、落ち着いて楽しんで読むべき本である。もちろん、それだから有用であるし、ウイルスの写真などもふんだんにあって美しい本である。
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健全なる精神を取り戻す道筋のために   ほんとうの憲法

2020-04-20 | 読書

ほんとうの憲法/篠田英朗著(ちくま新書)

 副題「戦後日本憲法学批判」とある。戦後日本の憲法解釈の基本をなした東京大学法学部の学派の影響で、日本国憲法は大きく湾曲して理解されることになったという歴史をひも解いていく。日本国憲法前に国際法を前提に解釈すべきことは明白であったにもかかわらず、またそれらは連動しているからこそ解釈は意味を成しているのであるが、東大の権威的学派はそのことを無視し、または知らずに、その前にあるドイツの古典的な法解釈を持ち出して、独自に日本の憲法を解釈しようとしたことに基本的な間違いがあったようだ。さらにそういう不毛な議論が長年にわたって繰り返され、あたかもそのような解釈こそ王道的なものであるかのような誤解が国民にも浸透してしまった。国会答弁でも主要な議員が譲歩するようなことを繰り返し説明してしまった。戦争放棄と武力の問題は、超法規的なアクロバティックな解釈が、あたかも成り立つような、日本のガラパゴス解釈が生まれてしまったのである。
 日本国憲法は米軍からの押し付け憲法である、ということで、憲法を改正すべきだという議論がある。そうした背景は事実ではあるものの、国際法を守っていないとみなされ敗戦までした日本に対して、戦争放棄をうたった憲法9条というのは、少なからぬ懲罰的な意味合いは無いではないものの、国際法規を改めて順守するということを明確にうたったという点では、押し付けであろうと何だろうと有効ではないとは言えない。ましてやそのような背景があるからこそ、憲法九条が自衛隊などの戦力の保持を放棄するという意味合いでないことは明白で、もともと自国防衛のための軍を持っている他国と同じように、平和のための前提をもって防衛ができることも当然であると考える方が自然である。ものすごく変な国でない限り、他国の侵略のために軍隊を持っている国などそもそも地球上に存在していないのだから、日本だけが、わざわざロマン主義的な理想や空想をもってして、軍備を持たないと解釈してきた歴史の方が、クレイジーなのであろう。というか、そのように主張している一部の頭の中の問題かもしれないが。
 ということが素直に書いてあるわけだが、もちろん繰り返される誤解を解くためという観点からは、憲法の条文改正も可能であろうという立場である。神様が作ったバイブルならともかく、人間が作った決め事である限り、憲法であろうとも時代に即して議論して改正しようとする立場や考え方は、健全である。そのような自然で純粋かつ論理的な立場を取ろうと考えている人にとって、筋道の通った憲法解釈の手助けになる本であることは間違いなさそうである。
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つまらないから素晴らしい   旅のおわり世界のはじまり

2020-04-19 | 映画

旅のおわり世界のはじまり/黒沢清監督

 テレビの海外ロケ・リポートでウズベキスタンに来ている取材陣。幻の巨大魚のようなスクープを撮ろうとしているが、うまくいかない。日本人スタッフにとって、ウズベキスタンの人々は、調子がいいのか、あてにならないのか、よく分からない。ディレクターは金でなんとかその場をしのごうとするが(そうすれば、一応相手は要求を呑む)、だからと言っていい絵を撮れる保証は無い。主人公のレポーターの前田敦子を含め、日本人たちは険悪な気分のまま、スクープが撮れず追い込まれていくのだった。
 そのような不穏な空気をもって、一種日本人そのものを遠景で捉えなおそうとしているというような感じは、分からないではない。ウズベキスタンには、日本の予定調和的な合理性は通じない(あたりまえだ)。そうして実際彼らは親切心からか、相手に自分の願望を、結果的に嘘になるかもしれないという疑問無しに話してしまうのだろう(これは、日本人に対して外国人がよくやることだ。というか、それが国際標準の考え方であって、日本人はこの考えから著しく孤立していると思われる(と少なくとも僕は思う)。そうしてそのために日本人はエゴの塊に見えるのだ)。しかし、そういううわさを聞き付けた人がいて、面白いと思った日本のテレビ局の企画が立ち上がったのだろうし、特にこのディレクターはそれに飛びついて企画を推し進めたはずなのだ。結果的にウズベキスタンのことは何も理解することも無く、そうして日本人は傲慢さを増していってしまう。悪循環である。
 そういう中にありながら、携帯で東京にいる恋人と文字情報をやり取りするようなことで心の平穏を保っていた主人公の女性レポーターが、ウズベキスタンのまちで、何の目的があるのか分からないまま放浪する。
 はっきり言ってかなりの愚作ではある。黒沢監督にはそういうところがあるので、故意にやっているのかもしれないが、たぶん悪ふざけの一種なのだろう。そういうのを身内として面白がって撮るということを、映画人はたまにやる。現地の人と魚を捕るやり取りなど、網の形などから、冗談としか思えない。そもそもそんなんでどうにかなるはずが無い。そうして主人公が、山羊を放すというようなファンタジー的な企画を出す。それを皆が「いい」と思うこと自体が狂っている。それで痛いしっぺ返しのようなものを食らうが、現実は当たり前のようにも感じられるし、しかしラストの布石でもあるわけで、強引なんだか、訳が分からないんだか、不明である。また原発に対しても偏見的な発言をあえて入れたりする。何か基礎的な知識に欠ける人々が、映画を作ってしまったような印象を受けた。
 それでも鮮烈な印象を残して映画を観ることができるのは、ひとえに前田敦子のアイドル性である。前田がこういうニュアンスで歌を歌うと、世界が一変してしまう。最初からそうやっても良かったのかもしれないが、チャイコフスキーの楽曲が、前半ずっとつまらないからこそ盛り上がるように、アイドルの爆発力を最大限に引き出す演出なのかもしれない。要するにファンだったらいい映画、ということなのであろう。
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いいニュースと悪いニュース、どちらにしますか?

2020-04-18 | HORROR

 外国の映画やミステリ作品なんかではよく見る場面だが、相手に伝えたいことがあるときに「いいニュースと悪いニュースがある。どちらから先に聞きたいか?」と尋ねていたりする。いかにも民主的に相手の選択にゆだねるという手法を使った、シャレた言い回しであるのだろう。少なくとも日本では、こんな言い方は古来していない気がする。相手に伝えたい情報であれば、結局いうより仕方がない。それにこういう言い方をするということは、やはり何らかの精神的な苦痛があるという予告でもある。例えば誰かの死であるとか、ショッキングな事実があるとする。予感としてそのような情報である場合、本当は伝えないわけにもいかないながら、積極的に言いたいわけでもない。あなたが望むなら話すという転換をもって、お話しなくてはならないという形にしたいのかもしれない。
 どちらからといわれても、たいていはその悪い話を聞かないわけにはいかない、ということになる。特に死の予感であるとすると、気になっていたことでもあろうから。

「残念だが、ジョニーは死んだ」
「なんてことだ。逃げきれなかったのか…」男はがっくりと肩を落として、しばらく動こうとしなかった。そうしてようやく、口を開いていった。
「それで、いい方のニュースとはなんだ?」
「ほぼ即死で、苦しんだ形跡はなかったらしい」

 という具合に話が進むわけだ。

 ところで、気分が落ち込んでいるような時は、意識的にテレビや新聞を見ない、という方法が精神病理学の手法で取られることがあるらしい。ニュースというのは、基本的に悪いものをショッキングに伝えるものが多いせいである。気持ちが落ち込んでいるような人に、悪い情報ばかり伝えることは、さらに精神衛生上良いこととは言えない。特に病気の人にとっては、さらにその状態を悪くしかねない。よっぽど気分がいい時であっても、痛ましいニュースで気分がよくなるとは思えない。
 要するにそういうことを選択する力が自分の中にある人であれば、何とかなる場合もあるかもしれない。悪いループを断ち切りたいなら、思い切ってやるべき選択だと、覚えておくことをお勧めする。
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英語をできない理由にするな   努力論

2020-04-17 | 読書

努力論/斎藤兆史著(中公文庫)

 なんかほんとにこの書名の通りの本。著者は英語の先生で、英語の達人の本なんかで著名。ラジオで一度お声をお聞きしたことがあるけど、やっぱり英語の先生なんで素晴らしい英語の発音もしておられたと記憶してます。話し方はこの本の文体よりだいぶ柔らかかった印象があって、あとがきにもあるが、それだけこの本に対する思い入れのような、勢いのような、気合のような気持ちが出ているのかもしれない。
 人は志を立てて何かをしようと思うことが、一度ならずあるものではないかと思う。実際僕はそういうことは割に頻繁にある。多くの場合挫折するが、必ずしも挫折ばかりだったわけではない。成功談もあるし、もちろん失敗も多い。しかしながら振り返ってみると、確かにこの志を立てる、ということが、それなりに重要であることが分かる。最初が肝心というか、やはりその思いを強くする何かを自ら持てるかどうか、というのは、非常に大きい。挫折の経験などした人間が、再度思い立つなどの方が、より良かったりすることもあるだろう。そういう思いを強くするような志を立てることが、その後の努力のありようにも、ずっとかかわっていくことになるのではなかろうか。
 そうして最初に入門としてやっていく時期が、これがまた楽しいというのもいい感じではないか。たいていのことは、興味をもって、知識や技能が深まったり広がっていく最初の時には、楽しいという感覚があるものであろう。凄い先生や先輩に感心したりもするだろう。憧れや目標が、たとえそれが遠くにあろうとも、何かワクワクするようなファイトがわくものである。
 しかしそうやって面白くやっている時間というのは、あんがいと短い。道が長ければ長いほど、その道の途中は険しいものである。楽しいと感じていたそのものでさえ、何か退屈に思えたり、妙に難しすぎて歯が立たなかったり、または、その教えそのものを疑ってみたりもするのではないか。ここで、志の最初の気持ちに、再度戻れるかどうかで、挫折を味わうことになるのではなかろうか。他にも楽しそうなことは山ほどあるわけだし、このことを自分がやらずとも、実は誰かほかに適任の人もあろう。
 もちろんここを乗り切って先に行けたとしても、何度も何度も、このような山というか険しさというか、つまらなさというか、そういうものはいつでも襲ってくる。もともと何かをやるということは、そういうものなのかもしれない。
 この本には、たくさんの努力の手本たる恐るべき偉人たちが出てくる。ホンマかいな、と呆れてしまうくらい凄い。これが人間のなしうるところなのかさえ疑わしい、漫画的ですらある人々である。しかしそうであるからこそ偉人なので、凄すぎるのは当然である。しかしそれらの偉人たちは、例外なく努力の人であることだ。それを知って励みになるか、諦めるかは自由である。あきらめるのも、あるいはその人の道でもあろう。そのために役立つということが書いてあるわけではないのだけれど、とことん苦難の道を、そして型のようなものを、繰り返し繰り返し真似るような困難をあえて奨励しているこの本は、安易なハウツー本とは、はるかにかけ離れた存在である。だから素晴らしいわけだが、ついていけない人も多いのではなかろうか。それはそれで楽しい想像だが…。
 それにしても、やはり日本人にとって英語学習とは、ほとほと難しい分野なのだろうな、とため息が漏れてしまうのも確かだ。だからできない言い訳にしかならないのかもしれないが、せめて英語以外の道を歩む手助けにしたらいいのではないだろうか。
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自宅の電話に出ると詐欺しかない現実

2020-04-16 | net & 社会

 自宅のWi-Fiがつながらなくて、ルーターのスイッチをつけたり消したりしてずいぶん時間を費やした。いつもなら調子が悪くても、再起動でなんとかなってきたからだ。特定のサイトが工事中というのならわかるが、これだけ復旧しないことは稀だ。
 よく見るとモデムのPPPというランプが点いていない。よくは分からないが、そこでやっとプロバイダかもしれない、と思い当たった。そういえば何週間か前、プロバイダ解約をしたからだ。これもさかのぼっての説明が必要だが、光何とかという勧誘の電話があまりにも頻繁にかかってくるので、うちはNTTだからいいのだ、というと、「いや、だからそのNTTの契約なのです」と相手が言う。再更新という意味かなと思って、電話だけでのことではあるが(何しろ契約書は送られてきてない)「それじゃあ、それでいい」と言ってしまった。そしたらその契約に関してと称して次々にいろんな電話がかかってきて、どうも詐欺にあったらしいとは分かったが、新契約のキャンペーンに引っかかってしまったのだろうとは思っていた。どのみちプロバイダ契約は別にかかっていたはずで、要するにそういうことをまとめたものらしいということだけは分かったので、騙されたとはいえ後の祭りで契約したということらしい。担当者の話だと、今かかっているはずのプロバイダ契約は、いわゆる二重になるので必要ないから、それはご自分でご解約ください、ということだった。ふーん、分かったよ。ということで数か月忘れていて、改めてネットでいろいろ調べて(契約していたプロバイダの会社は、買収か何かされて名前が変わっていて分からなかったのだ。この世界は、本当に面倒だ)、そうして先月、やっと解約に至ったわけだ。これが原因というのは十分考えられるが、やっぱり詐欺だったのだというのは、さらに明確になった。何故なら、その担当と電話でやり取りしているときに、今のプロバイダ契約を切ったら、ネットが切れるはずだから、再設定する必要があるはずだ、と問い合わせたのだが、その時彼は(メモしていた紙を紛失してもう分からない。残念!)そのあたりは自動で切り替わりますので、お客さんは何もせずにそのままで継続してつながります、ってはっきり言っていたのだ。嘘八百である。
 ということで怒り心頭に発したわけであるが、なんとこの契約した会社がさらにどうにも思い出せない。だいたいこれっていつ頃のことだったっけ? 年末より前だったかな。うーん、だからメモも見つからないのだろうし、困ったもんだ。とにかく光を扱うNTTに電話してみた。
 担当者も、NTTを扱う業者が何かというのは教えられないんだという。そんなことがあっていいはずないじゃないか! とクレーマーみたいに当然苦情を言ったら、相手もしばらくうーんとか言っていた。試しにいくつか会社名を言ってくれれば、僕も思い出すかもしれないから、やってみてくれ、というと。ひょっとして、CLではないですか? というではないか。なんだ、分かってるんじゃないですか(わかるはずだと思う。その時同時進行で妻が請求書を見つけてくれて、それがまた違う会社名だったが、それを取り次いでいる会社の名前であるらしい)。実はその名前に覚えは無かったが、とにかくその会社の連絡先を教えてもらって掛けなおした。
 長くなるんでこれでもだいぶ端折って話を進めているんだが、実際そこにかけてみると、送られてきた契約書を見てくれという。だから送られてきてないというと、そんなことは無いという。だからもうそうかもしれないが(契約書と分かっていたら捨てる筈は無いが、ダイレクトメールがたくさん来るので、それに紛れて捨てたという可能性はゼロではないが)、とにかく手元にないんだから仕方ないじゃないか! というやり取りなんかがあって、IDやらパスワードやらを聞き出した(えらい!って本人だから当然だと思うけど)。そこでは解決しなくて、これはまた、別のカスタマーセンターに電話しなおさなきゃならないんだそうだ。だからまた掛けなおして、いろいろとやり取りしましたよ。結局モデムに直接ケーブルをつなぐ必要が出てきて、僕のパソコンではつながらないケーブルしか自宅になくて、翌日買い出しに行って再度電話しなおして、それでもなかなかつながらなくて、話している途中でトラブル・シューティングを勝手にかけていたら、いつの間にか通じていました! やったぜ、ベイビー。
 という顛末だったが、一応最初の契約時の営業者のせいでこのようなことになったのだから、社内でどうにかすべきではないかということは言った。が、そのように致しますという返事は無くて、すいませんの一点張りで、これはもうだめだな、ということは分かりました。もう自宅の電話にはほぼ出ていないので、二年したらよく調べて、契約しなおさないといけませんね(途中解約料がバカっ高くて、おそらくそれを主たる商売にしているのだろう)。
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