カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ゴットハンドと言われる男(たち)

2023-03-31 | ドキュメンタリ

 古美術品、骨董品は、経年劣化による傷みが生じている。なかには割れた茶碗や花瓶など、接着して修復してもなお、美術品として価値の高いものさえある。しかしながらその修復のされ方によっては、少し残念さの残るものがあるというか、もっと良い状態にしてそのものの良さを再現することのできる人たちがいる。さらにその修復の技術の高さから、あたかも修復したことさえ分からなくなるようなこともできるらしい。
 そのような業界では知られた人たちかもしれないが、修復後の美術品などは、博物館や美術館所蔵のものなど、以前はあえてそのことが明かされぬまま展示されているものが多いのだという。さすがに現在は違うということだろうが、特に古い年代物であれば、そのものとの形のままであることが望まれるのは道理である。
 その復元師が繭山浩司という人なのだが、弟子に息子が居り、二人で作業をしている様子だった。繭山の父も伝説の復元師であったようで、いわゆる親子三代にわたる復元師家族なのである。
 その作業自体は非常に地味で根気のいるもので、元の接着断面を剥がし。接着の材料や、その時に削られた形状を保ち、ごみや付着物を徹底して排除する。薬剤も使うが基本はピンセットやカッターナイフや、その他もろもろの細かい工具を使ってそぎ落としていく。そこまでで何日も費やすこともあるようだが、あくまでそれからがスタートで、欠けた断片を埋め、もしくは継ぎ足し、釉薬のように見える薬剤を塗り、文様を施していく。経年劣化した色使いまで再現し、その違和感はほとんど分かられない。少なくともテレビで見ている僕には、そもそもどこがどのように欠けていたのかさえ、よく分からなくなるのだった。
 繭山は子供のころから工作のようなものが好きで、修復の道も自然に入ったという感じだった。親の姿を見ていたというのもあるのかもしれないが、そもそもがそのような細かい作業自体に愛着を持って取り組めるような性格の人のようだった。
 ものづくりの人達と共通するところもあるのかもしれないが、しかしその何かが違うようなところもある。創作の領域に入っておりながらなお、そうではない仕事師という割り切りのような感じもする。ここでは既に有名になって仕事がずっと舞い込んでいるもののようであるが、基本的にはプロの人たちから、それなりの報酬の分かる人から、依頼が来るものであろう。こういう作業工程を見ていても、量的にやれるものは限られていそうである。
 普通であればこのような美術品の修復というのは、素人目には見た目の修正でもあることから、少し取り繕いというか、まがい物とまではいかないまでも、何かいかがわしさのようなものを含んでしまうのではないか。しかしながらこのような修復であれば、むしろその修復という作業を経たうえでの作品の価値というものが、さらに高まるような感じでもあった。繭山の修復を経た器であれば、美術館に展示してあるものの価値が上がることもあるのではないか。とにかくおみそれしました、という感じなのであった。
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渋谷、坂を登る

2023-03-30 | 散歩


 地下道を通って表に出ると、そこは銀座だった。


 やっぱり外国人も多くて、銀座だよな、って感じっすかね。今月は二回目かもしれないけど、近年あんまり来てなかったからよく分からないんだけど、戻ってるってことなんでしょうか。


 道をふさぐようにして立っているギンザシックスの真ん中に、道が通ってるんですね。

 
 行けるんならくぐってみましょう。


 その先が今回の宿でした。銀座のど真ん中のホテルは初めてかもしれない。


 荷物を置いてそそくさと移動。


 最初のお上りさんの時代から、もう何度も来てる界隈になんだけど、やっぱり何にも僕とはなじみの無いところです。


 こういうところで働いたり呑んだりしてる人たちっていうのも、僕にはなじみが無いからでしょうね。


 そうしてガラッとオフィス街になって、新橋なんだな、と思います。


 今回は、銀座線下ってみますかね。


 で、出てきたのは渋谷。噂には聞いてたけど、どこも工事やってんなあ。こんなまちでも再開発やるんですね。


 でも今回は直接渋谷の街散策が目的では無くて、考えてみると逆方向はあんまり行ってなかったな、ということで歩きだしました。宮益坂を登っていきます。


 ビルの隙間に鳥居があって、奥が御嶽神社です。道の反対側なんで行きませんでした。


 ガソリンスタンド先あたりが一番高いところかな。こんなビルが建ってない頃には、天気が良ければ富士山が見えたそうです。


 ちょうど道が交差して変則五差路になってました。


 この道の地下に銀座線と半蔵門線の両方が走ってるはずなんですよね。


 岡本太郎の「こどもの樹」です。やっぱりヘンテコですね。
 こどもの城という建物は、閉鎖中でした。



 有名な丹下健三設計の国際連合大学。


 で、青学ですね。駅伝、頑張って下さい。


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OSO18というヒグマの存在

2023-03-29 | ドキュメンタリ

 多くの家畜被害を出しているヒグマを追ったドキュメンタリーを観た。4年間で牛が31頭殺され、32頭が負傷。2頭が行方不明になっているという。これらを襲ったのは一頭のヒグマと考えられている。それがOSO18(おそじゅうはち、と読む)である。
 北海道のオソツベツという場所で最初の被害があったことと、その足跡が18cmであるとされることからOSO18と名付けられた。非常に頭のいい個体らしく、姿を見たものはいない。罠にもかからず、ハンターの包囲網にもかからない。被害は年々増えていくが、襲った牛をろくに食べることもせずに殺し、時には傷つけるだけで、まるで殺戮を楽しんでいるかのようである。家畜の被害総額は膨らみ、自然環境を生かした放牧が危うくなっている現状があるようだった。
 ところがである。このヒグマを追っていくと、だんだんとその意外な姿が明るみになっていく。狡猾で頭がいいのは間違いないが、当初は18cmと言われていた足跡は16cmであり、特に巨大な個体ではないことが分かる。楽しんで殺戮しているという訳ではなく、以前にハンターから被弾を受けて、非常に用心深くなっているために、ちょっとしたことでも逃げてしまい、ちゃんと食べずに放置しているのではないかという。
 しかし肉食への執着があり、襲撃を止めることができない。その理由は、保護されているエゾシカが増えすぎており、事故などで死骸が放置されて(また、ハンターによっては駆除した死体を放置するものもいるらしい)いるものの肉を喰らったヒグマが、その味を覚えて家畜を襲うことがあるという。また、家畜のえさとして栄養価の高いデントコーンと言われるトウモロコシの栽培が盛んになっており、これはヒグマも好んで食べるとされる。トウモロコシの背丈は高く、畑の中に入られるとヒグマの姿が隠れる。そうして家畜との距離が近くなることもあり、被害のリスクが高まっているという訳だ。
 要するに、人間の行いによって、このようなモンスター・ヒグマを誕生させているというのである。牛を飼っている農家にとっては、経済的被害を含め、憎むべき存在であることは確かだろうけれど、そもそもは人間側の都合によって、肉食の習慣の無かったヒグマの本能を目覚めさせ、目の前に餌をぶら下げておびき出しているようなものなのかもしれない。
 人間は自然を破壊して、自分の都合の良い環境を作り出し、その中で快適な生活を送っているものかもしれない。しかしそれは、そもそもの自然界においては、やはり不自然なことなのである。そうして限りなく自然界との接点が近づくと、人間にとって不都合とされることが勃発する。人間という生き物自体は自然由来だが、人間という生き方は自然との共存の拒否の上に成り立っているのかもしれない。
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雄叫びは何と言っている?

2023-03-28 | 雑記

 野球見ていると、大谷投手が何か叫びながら投げている。甲高い声で、いったい何と言っているのだろうか。
 コロナの影響があって鳴り物応援の制限なんかがあってるようで、中継では様々な音が聞こえるようになった。それはかえってスポーツの臨場感のようなものを高めているようにも感じられて好ましい限りなのだが、それでもやはり最近は観客も増え声援も大きくなっている中にあって、しかし大谷さんのお声はそれなりに大きい。概ね気合入ってんなあ、という歓迎の雰囲気があるのだが(大谷さんは何をやってもいいという世間の風潮を形作っているスターだし)、しかしこの投げるたびに出る雄叫びというのは、ちょっと異質なものを感じさせられる。男にしては声域が高いし、まったく同じことを言っているようにも聞こえない。「おりゃー」といってようにも聞こえるし、「にゃー」と言っているようにも聞こえる。「きえー」と言っているかもしれないし、そもそも単語以前のものなのかもしれない。
 スポーツでは卓球なんかが激しいわけだが、あれは選手同士が近いので、威嚇するようなものと、ちょっとした流れのようなものを声によって引き寄せよう、というような習慣があるのではないか。もっとも打ち終わってから何か言っていて、自分で自分にはっぱをかけているたぐいかもしれない。
 雄叫びと言えばなんと言っても室伏広治なのだが、あれは単に力の無駄遣いという気もする。あそこまで投げた後に言うのであれば、投げる前にもっと力を込めるべきなのではなかろうか。
 テニスでも雄叫びをあげる選手が多い。ボールを打つタイミングが相手に分かるので、それでいいのかな、とも思う訳だが、まあ、みんなやってるのでそうなってるだけではなかろうか。シャラポワは自然に声が出るので恥ずかしがっていたと言われるが、ほんとに自然に出るものなんでしょうか。
 実際野球で考えると、マー君も時々言っていたし、ひょっとするとメジャーの選手では普通のことなのかもしれない。要するに日本人はこういうところもおとなしいということかもしれず、スポーツの国際化の流れにおいて、日本人が変わってきた、ということも言えるのかもしれない。祭りも掛け声はつきものだから、そもそも日本人にできないことでは無かろう。そうすると、日本のスポーツは、もっとうるさくやっていい分野なのかもわからない。
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善人が透けて見える悪人   グッバイ・クルエル・ワールド

2023-03-27 | 映画

グッバイ・クルエル・ワールド/大森立嗣監督

 ヤクザの資金集積所がラブホテルの一室で行われている。そこに謎の強盗集団が拳銃で押し入り、根こそぎ資金を奪ってしまった。やくざの裏金なので、彼らは警察に届けないことを知ってやっているわけだが、ヤクザにもメンツがあり総力を挙げて強盗団を探し出すことに躍起になっていく。強盗団にも当然問題があって、仲間割れなどをして問題が膨らんでいくのだった。
 ヤクザは頭が悪いので、精神論で犯人を捜そうとするという設定なのか、ヤクザに関係のある刑事が関わって犯行団を追う展開になる。ヤクザと裏でかかわりのあるらしい刑事は、静かに聞き取りをして(だから聞かれた方は正直に話すということのようだ)、だいたいのあたりを付けて事件を追っていく。犯行団の方は、要するにヤクザ崩れと、借金苦のような人などが混じっている。それぞれに事情はあるが、せっかく大金を手にしているが、その後の生活は上手く行っていないようだ。刑事とラブホの受付をして事件に巻き込まれた青年と、事件に絡んでいた若い女が犯行団を追い詰めていくことになるのだったが……。
 まあ、なんかの映画のオマージュのようなものがあるのかもしれないが、ちょっと外している感じもする。科白があまり生きていないというか、ところどころ俳優と合っていない印象を受ける。意外性のある布陣もあるとは思うが、友和さん以外はちょっと苦しいところがある。善人が透けているというか、凶悪なところに嘘があるというか。悪くない雰囲気をもって展開されていくのだが、そういうところで惜しいので、ちょっと膝カックンを食らうということだろうか。エロとかグロとかの部分が、中途半端に省略されているので、うわー酷いな、というところがいきがったまま、ほんとかよ、となってしまう。そこまで描く必要が無いという判断かもしれないが、せっかくの悪人たちを描くには、大切なことなのではなかろうか。
 映画の世界では、簡単に死ぬ人と簡単に死なない人がいるわけだが、そういう生き残りの理由というものも必要な感じがする。そこに説得力が無ければ、やはり生きた人間が演じている物語にはならない。つまり、作り物なのである。もちろん映画は作り物なのでそれでいいこともあるが、悪を描くのであれば、そこは残酷に描いて欲しかった。結局割引を多くして観なければならない作品、ということになってしまったのではないだろうか。
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睦月ちゃんがやって来た

2023-03-26 | 睦月ちゃん

 なんとなく雰囲気でお気づきの方もいらっしゃるのではないかと思われるが、また犬を飼うことになった。
 一年半にわたりペットロスの状態が続いていて、とてもまた新たに犬を飼うなんてことはできないという精神状態にあったのだが、出会いというのがあって、トントンとお話が進み、ワンちゃんがうちに来ることになった。最初は亡くなった杏月ちゃんに面影が似ているという理由だったのだが、やはり実際は違う訳で、どんどん違うことが増えていったのだけれど、今はそれがかえっていいというか、まあ当たり前なので、それ自体がいいという感じなっている。
 そういうことはおいおい伝えていこうと思うが、そのまったく違った新生ワンちゃんの名前は、睦月ちゃんということにした。つまりもう一月から一緒に暮らしているのである。
 名前はつれあいがつけた。略して呼ぶと最初は気に入らない様子だったが、やっぱり「むっちゃん」とか「むっきー」とか言ってしまう。来たばかりのころは、前の杏月ちゃんの名前である「あづ」ってつい言ってしまっていたが、いつの間にかめったに言い間違えなくなった。そうしてそれはそれで寂しくも感じられなくなってきた。睦月ちゃんは、間違いなくもう家族になっていて、かけがえのない新たな存在になった。家に帰るのも楽しみになっているし、いまだに心配なこともある。そのような新生活というものを、また紹介していきたいと思う。
 先に、まだまだ心配なことから。犬種はミニチュア・シュナウザーなのだが、骨格が結構たくましく、家に来た時からすると体重は既に二倍以上の5キロ近くになった。もうこれ以上大きくならなくてもいいのにな、と思うが、成長するものは仕方がない。しかし大きくならないことを密かに祈っているのである。まあ、大きくなっても受け入れるのだろうけれど……。
 それと未だにトイレの失敗が続いている。つれあいが甲斐甲斐しく処理するが、成功と失敗で毎日ワイワイ言っている。これって本当に覚えるようになるのだろうか。なるかもしれないし、ならなければ何か対策を抜本的に考える必要があるかもしれない。でもまあ、困るけど楽しいです。
 噛み癖が激しいのも困っている。これは別項目で書こうと思います。今はもう、手が傷だらけになってしまった。街中でいまだにアルコール消毒があるのでだが、痛いので嫌になっている。
 だんだんと感触は良くなっているものの、いまだに散歩はできないでいる。睦月ちゃんは、外が怖いらしい。最初はブルブル震えるだけで一歩も歩けなかった。土のところだと草などをクンクンしておしっこをしたりすることもあったが、コンクリもアスファルトも苦手のようだった。今は家の周りなら少し歩くが、すぐに立ち止まり、無理に引っ張ることもできない。継ぎ目が嫌なのか、ヒビが怖いのか。それとも車の音などが嫌なのか、鳥の声もだろうか。分からないが、立ち止まるとしばらく動けなくなり、その後動くことも無いでは無いが、基本的には座り込む。風が吹くと顔を向けるが、歩くのはダメである。
 そういったことを繰り返していて、心配の方が大きいが、期待もしている。早く一緒にお散歩して(そういえば、杏月ちゃんとの日々は、主に散歩に記していたかもしれない)みたいのである。一緒にお散歩する楽しみを共有できるなんて、まるで夢のような感じだ。これからは、その経緯について書いていけたら素晴らしい。今は、そう考えております。
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「消滅集落の家族」

2023-03-25 | ドキュメンタリ

 というドキュメンタリを見た。田舎暮らしを紹介するものはそれなりにあると思うが、これだけチャレンジングなものはそうないものではないか。場所は秋田の山奥で、すでに12年もの間誰も住んでいなかったという場所である。自給自足の理想を求めてやってきた男性が最初のようで、その後それを見に来た女性と一緒になり、二人の娘ができる。映像的にはのどかな家族の記録のような感じなのだが、すべて自分たちの力だけで生きていく姿というのは、やはり大変そうだな、ということなのだった。
 徐々に明らかにされていくが、彼らはもちろん理想を求めて、自分たちも納得の上でこのような生活を楽しんでもいるのだが、同時に子供の将来のこともあるし、すでに長女は小学校にもあがっている。テレビも無いし、携帯の電波も届かない。冬場は特殊な車でないと、閉鎖されてしまうだろう。要するに、さまざまな生活の場面において、苦労を苦労として受け止めており、悩んでもいる。対照的に娘たちは、無邪気に山あいの生活のうるおいそのもののようにしている。
 僕は生まれながらに田舎生活をしてきた人間である。大人になってさらにもっと田舎の生活の中で、仕事もしてきた。おそらく父の理想のようなものがあったのだろうと思うが、子供のころから田舎で暮らしていると、田舎の良さというものは分からなくなっていく。別段都会の生活に憧れるということも無いのだが(何しろ知らない)、漠然と嫌だという気持ちは積み上がっていくのである。特段酷く重労働をさせられたわけでは無いが、何かと子供でも仕事があり、ちゃんとしたことも無いのではあるものの、動物などもいて、とにかく面倒なのである。犬だけは好きだったけれど、鶏や牛や馬などの動物は、結局そんなに好きになれなかった。しかし死ねば悲しくなり、悲しい体験だけが積み上がっていく。そんなものではあると割り切りはしていたと思うが、ほとんどそんなこととの無縁の生活こそが、人間的な生き方のようにも感じていた。それこそが誤解ではあったのだが、人間の感情というのはそういうものなのである。
 もちろんこの消滅集落で格闘しているこの人たちとは、格段にレベルの差があるとは思う。僕の体験は、基本的に機械化していたし、ここまでストイックでは無かった。父や僕は収入源があったわけだし、農業を失敗しても路頭に迷うものでは無かった。馬は観賞用のもののような感じであったし(誰も乗らない)、牛は適当に育てたら屠殺してもらってみんなで食べた。鶏は卵を取り、産まなくなれば殺した。
 まあ、僕の話はいいのだった。とにかく消滅集落の生活には無理がある。彼らの持っている理想は素晴らしいし、実際彼らはその良さを分かっており、そうして地道に生きている。しかしそれでも、その無理を続けても、やはり消滅するものなのである。だからこそ悩んでいるのであろう。
 それでも人として生きるとは何なのか、改めて考えさせられるものではあった。無邪気な娘たちがどうなったかまでは分からないが、やはり気になりながら観終わったのだった。
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長崎市役所新庁舎登ってきた

2023-03-24 | 散歩
 某会議が長崎市で行われることになってて、やって来ました(この時期はほとんど毎日長崎市に通ってる感じですけどね)。会議のちょっと前に到着しましたので、散歩がてら散策しますか。
 安豊(やすとよ)稲荷大明神。小さな祠ですが、名前は立派な神社であります。


 行くあてなくさまようつもりでしたが、どうしてもこのでかい建物が目に留まりますね。
 もと公会堂があった場所に、長崎市役所が移転してきました。元の場所からちょっと下がってきたという感じですが、何しろ長崎で一番の高層ビルのようで、かなり威圧的でもあります。19階建て、90.86mなんだそうです。
 1月にできてから見学者が多くて、エレベータではかなり待つんだという噂があったので、最初は遠慮して行かなかったんですが、会議の都合で間の時間が空いたので、再度やって来ました。もう落ち着いて並んでないよ、と聞いたからです。


 でもまあ、実際はそんなに人は並んで無いにせよ、なかなかエレベータはやってこない感じでした。19階あるんで各フロアの移動で人々がそれぞれ利用することを考えると、そう簡単にやって来られないということなんでしょうね。
 それでもいつかはやって来て、19階まで登ることができました。
 おお、やっぱり見晴らしいいわあ。
 新大工、諏訪神社方面。左奥に西山のダムも見えますね。


 右手山に見えるオレンジの建物が瓊浦高校かな。
 中央に中島川。谷から登って日見峠のトンネルへと続いていくのでありましょう。
 こうしてみると、この辺りはマンション(集合アパート)だらけって感じですね。


 中央に諏訪神社。周辺は緑も多いですね。
 中央左奥が立山公園に東校。ずいぶん高いところに通学してるんですね。あの辺りのバスは、道が曲がりくねってて大変そうですよね。
 下って左手手前が、長崎歴史文化博物館ですね。


 山の上が日昇館。
 中央の観音様が福済寺かな。
 手前に桜町駐車場と、元市役所ですね。


 長崎港。出島方面。


 南側が空中庭園になってました。おばちゃんたちがくつろいでたり、背広姿の見学者なんかもいました。他の行政の人が視察に来てたんでしょうか。


 奥に女神大橋。香焼の造船地帯なんでしょうか。


 中央が賑橋かな。とすると、左側がはまんまちですかね。


 ビルでほとんどわかりませんが、観光通りがあって、さらに奥に新地があったりするのだと思います。


 ぐるりと戻ってきて山すそに鍛冶屋町、寺町というかんじでしょうか。


 真下を見ると電停があって、これは以前は公会堂前だったものが、市役所前に駅名が変わっているそうです(そりゃそうだ)。
 そして市民会館であります。


 一階に戻ると、市役所って感じなりますね。こういうデザインは、各市町共通といいますか、あんまり変わらないですね。お疲れさまでした。



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ダニの食べすぎには注意を

2023-03-23 | Science & nature

 ダニの大きさは0.3㎜。肉眼ではほとんど見ることができない。なのでいるのは分かっているが、意識することもほとんどないものと思われる。人などの動物が暮らしているところには必ずと言っていいほど、ダニも一緒に住んでいる。ダニの多くは、人間の抜けた髪の毛などを食べている。人が生活することにおいて、ミクロの様々な人間由来のごみが落ちていく。そのようなものの何かを、ダニは食べて生きている。
 またダニはたいへんに種類の多い生き物のようで、そのように人間由来の食べ物を求めてきたダニを食べるダニもいる。家にいるダニの種類は見つかっているだけで130種ほど(外にはさらに種が多い)。そのほとんどはヒョウヒダニの仲間で、9割方はそういったものである。彼らは場所を住み分けるようにして(中にはそのダニを狙って食べるわけだが)、家の中で暮らすことに適応しているのであろう。
 人間とダニは、いわば共生している関係であると言えるのだが、人間にとって厄介なのは、このダニが増えすぎると(またはダニの糞などが増えるからかもしれない)アレルギーなどが発症する場合があることだ。また冷蔵庫以外に保管している食べ物においても、一定量のダニが付着している可能性が高い。洗わずに口に入れる(例えば食べかけの袋のお菓子など)ようなものには、大量のダニが付いている場合があるという。それと気づかないまま、たいていダニと一緒に食べているともいわれる。ちょっと前に、使い置きのお好み焼き粉に大量のダニが発生していることに気づかず調理して食べてしまい、その家族が食中毒のような症状を起こした事故さえあった。日頃のお腹を壊す原因は、あんがいダニの食べすぎかもしれない。
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エスカレータ右空け問題

2023-03-22 | culture

 先日久しぶりに東京出張に行って、複数回電車を乗り継いだ。僕の移動時間は通勤時ではないし、いわゆる混んでいる時間帯では無いが、それでも電車から降りてのエスカレータの前は、長蛇の列になる。第一人が多いのだからそうなるのだけれど、東京地方の人々は、暗黙のマナーのようなものがあって、いわゆる右のスペースを空ける習慣がある。エスカレータを歩かないで登る人は、左側に詰めて並ぶので、その順番を守るために行列がさらに長くなるのである。うっかり右側のスペースに入ってしまうと、あきらめて歩いて上るか、又はこの列の最後尾に並び直すよりない圧力を感じる。ごくたまに右側に立ち止まっている人もいることはあるのだが、何か障害のある人であったり、外国人風であったり(アジアンですね)高齢の人であったり、荷物の多い人であったり、そうしてヤクザな人であったりする。しかしそんな人はものすごく少ないので、正確に確認したわけでは無いが。
 右側を開けるのは、おそらく急いでいる人に対する配慮なのだろうと思われるが(実際他国でもおおむねそういう傾向はあるという話は聞いたことがある。必ずしも厳密に守っているのかまでは知らない。また急いでいる人は大声で、「通してくれ」というような人がいるらしい)、確かに急いでいるらしい人は一定数いそうだが、この並ぶのが面倒で歩いている風の人の方が多いように感じる。並ぶほど悠長では無いが、ほんとは急ぐほどではない程度の人が一定数いるのではないか。電車に乗り遅れるかもしれない人は明らかに走っているが(だからそういう場合は下りのエスカレータですね)、電車を降りてエスカレータを登るような人には、そこまでの切迫感は感じられない。
 そもそもエスカレータを歩くのは危険なのでやめろ、というアナウンスを聞くこともある。また前にも書いたが、エスカレータは両方に並んだ方が効率がいいわけだし、またバランスの問題で、メンテナンス的にも機械の故障や摩耗も少なくて済みそうだ。片側に並ぶのはマナー以前の問題で、考えすぎている配慮に過ぎない。本当に急いでいる人は、あんまり人が使っていない階段があるのだから、そもそもそちらに行けば済むのである。それこそがマナーとしては正しい方向性を感じさせられる。
 博多のビルのエスカレータで、混雑時には詰めて乗るようにプラカードを持った警備員さんが促していたことがある。建物の外まで行列がはみ出すことになったり、店内の移動者が上手く回らないほどの混雑だった。その時はそのような誘導があったので詰めて乗ったのだが、僕はたまたま左側だったけれど、右側に若い女性が並んで立っていた。非常に気合の入った外出の格好をされている方で、僕はその少なからぬ圧力に、たじろいでしまった。前も後ろも横にもそのような状態になると、効率よく運ばれていることは分かるにせよ、なるほどお隣の特殊性というものはあるのかもしれない、と感じられたのだった。
 エスカレータの右空け問題は、ひょっとすると日本人的には、知らない人と並んで立ちたくない心情も含まれている可能性があるのではないか。右側を急ぐ人の配慮で定着したわけでなく、自分は一人で落ち着いていたいという自分配慮の表れかもしれない。そうすると、マナー問題で人を動かすのは、少し困難性があるかもしれない。
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パンダは静かに暮らせない

2023-03-21 | 時事

 ちょっと前まで連日上野のパンダが中国に帰るというニュースを、ひっきりなしにやっていた。日本で生まれたのがいると聞くが、そういうのも帰っちゃうんですね。ちょっと不可解な感じもしないでは無いが、そういう決まり事なら仕方がない。嫁とか婿とかがこちらでいっとき住むことになって後に子が生まれたからと言って、やっぱり里帰りするといいだして子も一緒に帰るのは、道理かもしれない(そういう話かどうかもよく知らないが)。
 パンダは可愛いので好かれる訳だが、そうして好かれているのがいなくなると、やっぱり寂しくはなるものだ。変わらず中国で元気でいることだろうが、離れてしまうといつでも会えるわけでもなくなるわけで、情が移って悲しむ人が大勢いるのだろう。難儀なことである。
 パンダは何億というレンタル料が支払われてこれまで居たもので、その期間が過ぎたら返還するシステムなんだろう。レンタル料は延長できなかったのか。パンダがいることでの経済効果はそれよりはるかに多いという試算もあるらしく、それならまた借りたらいいのにな、と思うが、これもいわゆるパンダ外交というものが影響を受けているのかもしれない。国がどんな話し合いをしてパンダのレンタルを決めているのかはよく分からないのだが、その分仲よくしようということなら仲良くしていいのだけど、仲良くできない理由はパンダ以外の事情がありそうで、なかなかに難しい問題なのである。国との付き合いは、基本的には人間関係と似ていなくも無いが、内容的にはもっと複雑なので、分裂症気味なのである。
 ところで、パンダ外交があるのなら、どうしてゾウ外交とか孔雀外交とかは無いのだろうか。いやそれに似たようなことは無いではなさそうだが、パンダほど露骨に外交に利用するようなことが無いのではないか。何かの友好のしるしとして動物やら記念品などを相手国に送るようなことはあるはずなのだが、それはその時の関係者にはよく知られたことかもしれないが、やはりパンダほどのインパクトを持たないのかもしれない。それほどパンダというのは特殊かもしれないし、さらに中国は特殊なのかもしれない。パンダというのはその姿形が可愛すぎる上に、なおかつ希少なために、結局は人間に利用される。せっかく氷河期から生き残ったにもかかわらず、ひっそりと暮らすことの許されない存在なのかもしれない。
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ブログ更新スタイルの変更の理由

2023-03-20 | つぶやき

 お気づきの人も多いと思うが、普段はこのブログでは、だいたいいろいろな雑文と映画評を交互に更新するスタイルを取っていた(※1)。映画は毎日見ているわけではないけれど、二日に一本くらいは見ているかもしれない。そういうスタイルを取ると、どういう訳かそれで半月くらいのストックで記事をためておいて更新できるという余裕のようなものが生まれていた。出張もあるし会議も続くし移動も多かったりすると、まったく何も書けない日が続くことがある。書き溜めたものがあると、朝からもう一度さっと誤字などをチェックし直して(※2)記事をUPすることができる。これは携帯電話からもできるので、出張中でも可能である。
 このスタイルが崩れてしまった理由は、最近あまり映画を最後まで観なくなったということがある。観ている途中でやめることはこれまでにもよくあったのだが(※3)、若さがあるというか根気もあったので、つまらなくても頑張って観ていた。もうそういう気力がなくなってしまって、もういいや、という作品が増えているように感じる。いや、これは自分の方の問題なんだろうけれど……。
 映画を観てないもう一つの理由は、コロナ禍の終焉で迎えた年度末というのもある。ふつうに出張も復活したし、懇親会や交流会なども行われるようになった。要するに夜に家にいなければ、映画も観ないのである。
 さらに野球がある。野球の試合がこんなに長いなんて知らなかったが、とにかく23時頃まで試合が終わらないので、映画を観る余裕が無い。だらだらしないでさっさと進めて欲しいが、国際試合というのもあるし、ピッチャーの球数制限の所為なのか、間合いが長い。四球も多いし困ったことである。これまでは一応勝っているから報われているが、これが負け試合だとひどい気分に襲われるだろう。もう祈るよりないけれど……。
 また、録り貯めているドキュメンタリも多くて、ほとんど見てない。酔っぱらっているときは、観てないけどもういいやって感じでどんどん消していく。何しろ観てない作品が300本近くある。どのみち見るのなんて不可能なのだ。人生の残り時間は少ない。選択を減らすことが、第一なのである。

※1 こちらが勝手にしていることであって、そういうペースを気にしている人なんていないとは思うが、一応そういう形式をそれなりに守って何年にもなると思う。ただし出張散歩のものが連日続くという例外はあった。長くなりすぎると見るのもつらいだろうという勝手な配慮なのだが、これも連日続きすぎるとどうなのか? と勝手に思っていたわけだ。自分本位かもしれないが、そんなことを考えながら更新しております。
※2 見直しは適度にやってはいるのだが、ときどきこれに凝りすぎて何度も何度もやってしまうことがある。キリがないので適度にはやめることにしているので、基本的には朝からは文章の改変まではしないことにしている。
※3 途中で観るのを止めるのは,もちろん経済学のサンクコストを知ってから、というのはある。観続ける方が損失が大きいので、損失を減らすためには観続けないことの方が利益になるのである。その見極めは極めてむつかしいのだが、なに、感覚的にダメかもな、というのは経験値で判断するよりない。また、時間的な余裕が無くても観始めることはよくあって、途中まで観てまた明日、というのはよくやっている。映画などの作品は、最後まで見てないだけのことで、3本から5本くらいは途中までは観ている。あまり間を置くとそれまでのストーリーを完全に忘れてしまって、また最初から見直さなければならない。また、一度最後まで観てしまって、また最初を見直すなんてこともしょっちゅうやっている。我ながら効率が悪いなあ、と反省しております。
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ウルトラマンの時代は良かったな

2023-03-19 | ことば

 ちょっと前から気づいてはいたが、メールやラインのやり取りなどで、相手が「承知しました」とか「かしこまりました」などと書いてくる場合が増えている。それなりにつきあいの長い顔見知りや、完全に友達ならそれは当然あり得ないが、いわば仕事上のやり取りをしている人に、ぼつぼつそういう人がいるようだ。ほとんどが若い人だが、なかには僕の世代の人なんかもいるんで、会社なり、組織なりの決まり事にでもなったのだろうか、といぶかっていた。
 ところがなんとなく眺めていたネットの記事に、ビジネス・マナーのようなことを教えてくれるところがあって、そこでは上司や仕事先への了承の言葉遣いとして、「承知しました」が正しいと書いてあるのだった。「了解しました」は目上の人が、目下の報告などの際に使うもので、目下のものがそれを使うのは不適切なのだという。パラパラ見ていくと、そこだけでなく結構複数の記事にそうあるので、何かの陰謀を考える「正しい」ビジネス講座の組織があるのだろう。
 またしても日本語の乱れを発見したわけだが、その不適切だという感覚が、かなり威圧的な間違いであろう。ほとんどバカなのかな、とも思うが、実際バカな人間だから思いつく感覚なのであろう。まあ、丁寧なものいいかもしれないが、相手から承知されたりしたくないのが、普通の感覚であり人情である。そこまで前時代的に接せられると、はっきり言って気持ち悪いのである。
 しかしまあ、堂々とそう書く人がいると、やはり相手に失礼のないように接したいと考える人には、それなりの影響があるだろう。こういうのが害悪というのである。僕の若い頃には、「いつもお世話になっております」と言うと怒る年配の人がいたものだが(お前のお世話なんかした覚えはない、という訳だ)、いつの間にかこれもビジネス的には定着した(僕も残念ながら使うようになった)。他に適当な言いようが無く便利なんで、いいまわし的に席巻したのである。言葉にはそういう恐ろしいところがあるので、皆が承知しましたと合唱すると、それが正しくなっていくだろう。(間違った)敬語というのは、民主的な世の中を破壊していくのである。
 しかしまあ、そこまでして相手に気を遣うのは、知らないからというのがまずはあるのは確かだろうけれど、失礼のない接し方ということに、何か大きな価値観のようなものがあるためではあるまいか。それは相手のためであるという前に、自分への保身があるのではないか。ふつうに接して問題の無いものであっても、それを逆手にとって優位に立つような嫌な奴が増えたとか、芸能人のたわごとのようなお客様が神様であるというような神話であるとか、結局は事なかれ主義でその場だけ逃げ切ればよいという短絡さもあるのではないか。それが失礼だと言い出されると、確かに過剰な丁寧表現をやろうと思えば(このように)できるのであって、そちらへ最初から配慮しておくことで間違いなさを担保したい、ということにもなるのだろうか。そんな些細なことで引っかかって議論するよりも、過剰に丁寧にしてやり過ごす方が、落ち度が少なくリスクも少ない、ということにつながるのだろうか。
 やはりいくら言っても悲しい限りで、「了解しました」程度の了解度のあるつきあいを心がけるべきなのであろう。それにはやはり時間がかかる面倒も、これからは覚悟しなければならなくなるのだろうか。いや、すでにそんなことも気づかなくなってもいい年頃になってのかもしれなくて、相手にされない問題に過ぎないのかもしれない。
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おばさんが帰って来ていた

2023-03-18 | 母と暮らせば

 おばさんがペルーから帰って来ていて、僕の家にも一週間ほど滞在した。母の妹で、82歳になる。彼女はシスターなので、まだ働いているのである(仕組みは僕にはよく分かっていないが)。それで8年ぶりに帰ってきたのだが、数年に一度長期休暇があるものらしい。日本に帰って来ると、杉並にある本部というところに基本はいるらしいが、せっかくだからきょうだいのところに順次遊びに行ったりする。その一つとして家にもやって来たということなのだろう。
 今となっては、母の言っていることのほとんどの真偽は分からなくなっている現状があって、この機会におばさんから話を聞けることは、たいへんに貴重なものがあると思われた。何しろもう、そういう機会はこれからもありそうにないし、母の話はさらに混迷を深めるだけのことだろう。
 それで久しぶりに会って様々なお話を聞くことができたわけだが、まず安心したのは、まだまだお話がかなりクリアなものだったのがある。話し出すと長くなる傾向はあるものの、一応のお話の着地点のようなもの、いわゆるオチがあり、基本的にユーモアに彩られている。
 母の話は既に知っているものばかりであるのだが、しかしその構成の在り方は予測不能であることもあり、何の話のつながりがあるのかも不明になっていく。要するに話すために話しているのであり、話しかける相手も僕の妻に向けたものであり(何しろ僕はちゃんと聞いていない可能性が高い)、なのでかろうじて話しかけてはいるものの、独語に近いものである。何かもとになっているものがあるのだろうとは思われるものの、内容については自分の都合によって妄想に彩られているものであって、事実は何一つとしてない。いくら何でもそれは違うだろうと思うのだが、そもそも僕の話であっても知らないことなので、何を言っても仕方がない。妻はそのすべてを既に知っているので(要するに何度も聞かされて細部まで暗記している)、対象となる人の名前などをその都度訂正したりして、相槌を打っている。そういう時間を延々と過ごすのが家での時間だと言っていい。
 おばさんの話で助かるのは、だから知らない新鮮な話であるばかりか、聞いていてオチまであるのだから、素直に笑ってもいいのである。こんな時間なんて家の中でそんなにあるものではない。さすがに長くなりすぎると僕は少しつらくなる時はあったものの、妻は熱心に聞き続けていた。
 しかしながら実のところ肝心の結論を言うと、母の言っていることの真意というか、その頃の事実らしいもののことは、やはりわからないことが多かった。叔母と母は9つも年が離れているし、おばの記憶は、生まれた場所よりその後引っ越した先からのことのようだった。また事情があって母も仕事で離れたりなどあるようで、その近所付き合いの人と親戚の人などは入り組んでいるようで、母の話している固有名詞の人がいったい誰なのかは、やはり確証的にはわかり得ないのだった。
 まあ、そうではあったのだが、今となっては何かわかったところで、はやりどうかなるような話ではない。分かっても、僕らだけが知っている事実であり、何か語り継がれる可能性のあるようなものでもないのだろう。もう新しい歴史が生まれることも無い訳で、そのようにして母の育った事実というものは、どこかに埋もれていくものなのだろう。
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大食いは特殊すぎる

2023-03-17 | 

 民放を見なくなって久しいので、現在の状況は知らないのだが、今でも大食いタレントさんというのは活躍しているのだろうか。以前はたくさんいたので、今もおそらく需要があるだろうことは想像できるわけだが、やはりあれは奇人変人を見るのが楽しいというのがあるのだろうし、しかしやはり無理のあることをやっているには違いないとも思う訳で、ずっと変わらずに大食いをやり続けている人というのは、どれくらいいるものなのだろうか。
 普段はつい食べ過ぎて困る、というような思いをしているにもかかわらず、それはほかならぬ太るからであるが、実際のところ、限界まで食べているわけでは決してない。食べ過ぎて苦しくなるというようなことはほとんど無い訳だし、そういう臨界点に達するような場面はほとんどなくなった。正月に大勢で食べてまだ食べ物があるし、もう少し、というのはあるが、あれでも限界を超えるような食べ方ではない。それこそ若い頃にちょっと行き過ぎて食べ過ぎたというのはあるが、ほとんど冗談でやっている悪ふざけであり、あれも極限限界だったのか、よく分からない。記憶が定かでは無いが、鍋か何かを囲んでいて、ものすごく厳格で恐ろし気な年長者がいて、〆の麺を大量に注文して残さず食べろというミッションを課されたことがあって、死にそうな気分になりながら皆で必死に食べたことがあった。苦しくて拷問だったが、あんなことをさせて何が楽しいのか理解に苦しむだけのことで、もうそのような集まりに行くようなことは無くなったのだった。彼らももうだいぶん死んだことだろうし、平和になって良かった。
 ところで、そのように苦しいはずの大食いなのだが、実際それができる上に、さらにその上限を超えるような量を食べられるのが、大食いタレントである。何キロという単位の食べ物を、本当に食べきっているように見える。テレビなので、本当にトリックが無いのかは知らないのだが、仮に完全にそのようなことが無いというのであれば、やはりそれは尋常ではないことは確かだ。大食いの人は世の中に確かにいるが、僕の知っている人に、やはりあの全国レベルの人が存在するとも思えない。体を鍛えるように食べられるようになるものなのかどうかも知らないけれど、そのような次元の違う生き方をされている人たちなのではなかろうか。
 そのようにレベルの高いところで食べている人が、体質的に素直に太らないと言われていたりするが、やはり彼らも人間であることを考えると、それは人間性の否定になるのではなかろうか。というか、本当に毎日あの量を食べているのであれば、必ず太らなければ何かがおかしいような気がする。鍛えて量を食べられる人であることと、状態として太らないから体というのは、矛盾なくあり得ることなのだろうか。そもそも食べても消化しないとか、原理的にあり得るのだろうか。
 噂では、食べた後にすぐに出る人であるとか、そもそも吐くのだというのもある。それはおそらくありそうで、それなら少しは納得がいく。わざわざ手の内を明かすことは無いとは思うが、食べてしまったことと太らないことの矛盾には至らない。
 また大食いの人は、大会に向けて食べ方を鍛えてその日に臨み、それをピークにしていて、普段は穏やかにそんなに食べないというメリハリをつけているという話も聞いたことがある。逆にやはり普段からずっと食べ続けている人もいるとも聞く。いったいどっちが本当なんだろうと思う訳だが、それは自分が太ることとの関連性で、信用したりしたくなかったりするだけのことなのかもしれない。ただでさえ信じられない現実を目にし、さらに人間離れした体質であるなんてことに、疑いを持ってしまうだけなのかもしれない。
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