カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

すべては後半のためにある   サユリ(完全版)

2024-09-26 | 読書

サユリ(完全版)/押切蓮介著(幻冬舎)

 もとは1,2巻あった漫画の合本の上加筆されたものらしい。夏なのでホラーものを紹介されたものを読んで、手に取ることになった。
 念願のマイホームを手に入れて、引っ越してきた家族があった。海の見える大きな家だが中古物件である。この機会に父の両親も呼び寄せて、一緒に住むことになる。ところがこの家には何か問題があって、なにかの気配がしている。壊れたテレビは電源すら入らず、放置されている。そうして具合の悪くなる人が出たり、父親が心筋梗塞で亡くなったりする。間違いなく憑き物のある家なのだ。家族が次々に犠牲になっていく中、学校の霊感の強い女性が気にしてくれたりするのだが、何しろ自分には力が無い。どんどんエスカレートして訳の分からない犠牲者が増えていく中に、これまでボケていたと思われた祖母が、急に復活してイニチアチブをとるようになって、少年は勇気づけられるようになるのだったが……。
 前半と後半がまるで違う展開を見せるホラー劇になっている。後半の方が畳みかける展開を見せて面白い訳だが、おそらく前半は、そのカタルシスを得るための伏線ということになるだろう。読み終わってみると、本当にこんな話になるとは、まったく予想できなかった。怖がらせられると思っていたのに、なんとなく勇気が湧いてくるようないい話なのだ。いや、厳密にはいい話ではないのかもしれないけれど、そう思わせられるというか……。
 著者もあとがきに書いているが、確かに日本のホラーでは、犠牲者がやられすぎるばかりで、バランスが悪いのかもしれない。理不尽にやられたら、人道的には復讐しなければならない。まあそういうのは歴史をみても負の連鎖で、戦争が無くならない原因でもある訳だが、読み切ることができる漫画なので、それでいいのである。さらにものすごく恐ろし気な絵を終始見せられているにもかかわらず、そんな気分にさせられるのだから、実に儲けものである。妙なものを読んでしまったという読後感はあるが、それはもちろん満足感も兼ねている。まったく世の中の創作ものは、このようなものがあるから目が離せない、ということも言えるのではないだろうか。
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猫が好き、ってどんだけ物語   描描猫猫

2024-09-20 | 読書

描描猫猫/猫飼太陽著(KADOKAWA)

 副題「猫アレルギーだけど猫飼いたすぎ物語」。子供のころから猫好きが高じて、猫のことを考えながら生活してきた著者の生活を描いたもの。以前はそこそこ売れる漫画を描いていた時期があったとされ(そこのあたりも描かれている)、しかし忙しすぎて描けなくなり、一度筆を折る。猫は飼いたくてたまらないが、なんと重度の猫アレルギーの持ち主だったのだ。しかしながらゆめちゃんという白猫と暮らしている様子で、どうして今このゆめちゃんと一緒になったのかという謎解きと共に、異常なまでの猫愛に満ちた猫生活満載の漫画ライフが綴られていく。
 猫愛に対する異常なまでのエネルギーが、いくらギャグマンガだとはいえ、笑えるけど恐ろしい展開を見せる。偏愛というのはこういうことを言うのではないか。いや、もちろん愛猫からも愛されているには違いないのだが、アレルギーがありながら猫に執着せざるを得ない姿に、何か見てはいけないものを見ている背徳感がある。いくら何でもお前はオカシイ。しかしちょっと分かるところもある。でもやっぱり行き過ぎだ。そんなことをして、人間としてまともに生きていけるのか? などとあれこれ詮索してしまう。もちろんギャグマンガである。それは分かっているし、ネタもあると思うのだが、猫を愛するというのは、おそらくやはりこうなってしまうものなのだろうか。本当に恐ろしい。
 とか書いているが、実際ほほえましく読んでいる自分もいたのだが、ちょっと僕が犬に対する偏愛のある人間であることも自覚させられるところがあって、そういうところもなんだか恐ろしくもあるのだ。僕は猫に対してはそれほどの情熱は持てないが(彼らは目つきが怖い時があるので)、犬に対しては、この作者と同じような感覚が確かにある。僕は飼っている犬が、例えば海で溺れそうになれば、おそらく躊躇なく飛び込むだろう。少なくともそのような感情は持っていると思う。そうしてそれはごく自然なことだ。愛犬はまだ若いが、彼女が死んでしまうことを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。実際に動悸も激しくなるようだ。考えても仕方ないので考えない努力はしているが、ときどき見上げられて見つめられると切なくなって涙が出てくるのである。そうであるから、そのような愛情を猫にそそぐ人がいるのはよく理解できるし、おそらくその為にこの漫画のように行き過ぎたことになっても、あるいみ不思議では無いのである。
 しかしながらこの漫画は、そのような異常な熱量での猫愛を描いただけの作品ではない。最後に驚くべき結末が待っているのである。そういう作品であることは、この漫画を紹介していた文章を読んで知っていたはずなのに、読み終わる寸前に実際に体験してみて、ちょっと椅子からずり落ちるような気分になった。いったい何ということだろうか。
 ということで特に猫に関心の無い人であっても、頑張って手に取って読んで欲しい。こういう作品があっていいものかどうかさえ、疑問を投げかける問題作だろう。まあ、面白いからいいのだけれど……。
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埋もれていた稀覯本の復刻ホラー   フランケンシュタインの男

2024-09-18 | 読書

フランケンシュタインの男/川島のりかず著(マガジンハウス)

 稀覯本として何十万かで取引されるようになっていたとされる幻のホラー漫画。復刻できたのは、著者の家族の消息がわかったからである(解説にあった)。著者は既に筆は折っており、故郷の静岡に帰り結婚して別の仕事をしていた。その後肺癌を患い亡くなった。本作は86年に発表されたもので、川島作品の中でも特に著名なものだった。夏になるとホラー作品の再評価と、あらたに紹介されることがある訳で、僕はそれで今作品を知った。なんとなく気になる画風で、今風の漫画では無いが、僕が中高生くらいの時に、確かにホラー作品は結構読まれていた覚えがある。少女漫画もホラーは多かった。書下ろし作品で、サイコチックな雰囲気が、また何とも言えないものになっている。
 勤めていた会社の女社長が亡くなり、仕事に張り合いを感じなくなっている男がいる。そんな中男は顔が黒くなっていてはっきりしない少女の幽霊を見るようになる。男は恐ろしくなって何もできない。精神科に行って先生に相談すると、その黒い顔をしっかり見るように言われる。そうしてその顔の少女のことと、過去の少年時代の恐ろしい出来事を思い出すことになる。そこにはいじめられてばかりいる気の小さな自分と、丘の上に住んでいるお金持ちのひ弱だが気の強い少女との恐ろしい関係があるのだった……。
 フランケンシュタインは、ご存じ継ぎ接ぎの人造人間であるが、少年は少女が絵にかいたフランケンシュタインに興味を持ち、自分で三日かかってフランケンの被り物を作る。そうして公園で遊ぶ子供たちをその被り物をかぶって脅かして遊ぶようになり、だんだんとそれがエスカレートしていくのだった。
 だいたいの行動が何だか異常で、はっきり言って何かのタガが外れている。そういうところが何とも面白いところではあるのだが、行きつくところは破滅しかないようにも思われる。しかしそうであったとしても、ちゃんと行き着くところまで行こうとする姿勢がみられて、そういうところが凄まじい気迫を持つ。高揚感があって、なんだかバットエンドなのに、いい話のような、妙な感慨を抱かされるのである。奇妙なものを読んでしまったということもあるのだが、こういう作家が後に埋もれて行き、死後に再評価されたのだ。そういった解説文も含めて、このホラー作品は現代によみがえったのだ。そうして僕のような人間も手に取って読んでいる。ちょっと面白い運命に加担したような、そんな気分にもなろうかというものである。
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回る卵はジャンプもする   ケンブリッジの卵

2024-09-12 | 読書

ケンブリッジの卵/下村裕著(慶応義塾大学出版会)

 副題「回る卵はなぜ立ち上がりジャンプするのか」。
 ゆで卵と生卵を見分ける方法は、特に裏ワザと断るまでもなく、手でくるりと回してみるとすぐわかる。ゆで卵なら勢い良く回り続けるが、生卵は不規則に揺れてうまく回らない。中身が固まっていないと、中心が揺らいでよく回らなくなるのだ。そうしてそのよく回る茹で卵を、両手を使った方がいいと思うが、交差させながら勢いよく回すと、立ち上がって回りだすだろう。多少コツは必要だと思うし、テーブルの広さにも気を付けなければならないが、立ち上がったゆで卵を眺めてみるのも、なかなかに愉快である。僕は昼にゆで卵を食べることが多いのだが、食べる前に儀式のように卵を回している。卵の形は様々だから、簡単にきれいに立つものもあれば、苦労するものもある。遊びと言えばそうかもしれないが、この現象を物理的に証明した人がいる。それがほかならぬ著者である。少し前まで知らなかったが、こんなに凄いことだったとは、ほんとに呆れました。
 難しい数式が書いてあるわけでは無いが、卵を回したら立ち上がることを証明する計算は複雑怪奇らしく、誰でも知っているし簡単に目にすることのできる物理現象であるにもかかわらず、これまで誰も証明することができなかった難問だったのだ。下村先生はケンブリッジに留学中に、この現象とかかわりがあってのめり込み、当初の目的では無かった研究にもかかわらず、モファット教授という偉大な研究者と共に(基本は下村先生が計算していることは、これを読めば分かるが)、この現象の究明に没頭する。そうして何故、多くの人がこの謎を目にしながら計算に成功しなかったか、という苦難の苦労をすることになる。この卵のような形の物体を回転させたとしても、そのうける摩擦の計算などを勘案したものであっても、簡単には立ち上がる解が求められないようなのだ。下村先生は何度も何度も計算をやり直し、何度も頭を抱え込む。モファット先生と議論し、時には疑問がさらに深まり、的外れではないかという疑念も浮かぶ。いい感じのアイディアも浮かぶが、そのままではやはり何かうまく行かない。そうしてやっと行けそうだという計算が成り立っていくが、それから派生してさらに高速の回転になると、立ち上がるだけでなく卵はちょっとだけジャンプしていることも突き止める。しかしその実験結果を目に見える形にするのがまた困難なのである。何年もかかって論文に書き上げ、権威ある科学雑誌へ掲載される道のりも長く遠く面倒も多い。それらの顛末を、ケンブリッジの素晴らしいキャンパス行事体験などを交えながら回想した物語である。
 題名がケンブリッジの卵というのは、基本的にケンブリッジ時代の体験記を軸に語られているからである。下村先生の日本の活躍ぶり(授業のやり方なども)も書かれているし、物理や化学というものの考え方を、楽しく紹介したものでもある。実際にはものすごい計算能力のある次元の違う人間であることは見て取れるものの、また英国で別の言語を操りながら苦労しただろうこともあるのだが、実に楽しそうに苦労をしている様子だ。一言でいうと、何か本当に純粋な驚きに満ちた楽しさなのである。目の前にある物理現象で、まだまだ計算上謎に満ちた出来事がたくさんあるという。そしてそれらはまだ、研究の題材にさえされていないのかもしれない。僕に証明できるとまではとても思えないが、少し子細に周りを見てみようという気分になることは間違いない本である。
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大切な時間を有用に使えるようにするには   あっという間に人は死ぬから 「時間を食べつくすモンスター」の正体と倒し方

2024-08-29 | 読書

あっという間に人は死ぬから 「時間を食べつくすモンスター」の正体と倒し方/佐藤舞著(KADOKAWA)

 著者は統計のプロと称して様々な世の中の事象を解説するユーチューブで、40万のフォローを得ている人である。一般的に「サトマイ」といわれている。プレゼンの上手い人という感じもあって、ポイントの解説も裏付けと共に、いわゆるなるほど、と思わせるものがある。改めて書籍の方も読んでみた感じでは、やはり展開のさせ方というか、構成が上手いという印象も受けた。内容は基本的に目標を立てて自分は何を実行するのか、というハウツー本であるが、その目標を立てるべき自分の価値観の考え方だとか、それらを運用するための改変の仕方などを解説している。特徴的なのは、おそらく著者がこれまで教訓的に納得した先人の言葉をふんだんに入れていることで、なかなかに機智に富んだ気分を味わうことができる。それでいて難しいことは書いてないので、理解も促進できるであろう、という考え方なのではなかろうか。書名からも分かるように、こういう言葉の選び方と考え方を実践することで、いわゆる掴みの上手い考え方も学ぶことができると思われる。さらに日頃のユーチューブ政策などの話の組み立てについても、基本的にこのような本の展開のさせ方と共通するところがあるように推察される。いわばそれは成功の法則でもあり、バズっている現実を解説しているともいえるのかもしれない。
 実際内容は多岐にわたっていて、自分本位のクズみたいなビジネス書が氾濫する中にあって、それなりに有用な感じもある。読み返ししやすい構成もあるし、実践の仕方も分かりやすい。読んだ後に再読できるように工夫してある訳だ。
 また人生への向き合い方まで書いてあって、それはある意味哲学的だ。人生には避けられない苦痛があり、自分で変えられることだけに集中し、受け身でなく自分の主体的なかかわりを重視し、時にはストレスなどの苦痛を成長の糧にすべきというのだ。なるほど、その通りかもしれない。そういう哲学を知っただけでも、これを手に取った価値は十分にあったというものである。苦痛は自分には必要なこともある訳だ。マゾ的にではなく、ある意味でその後の快楽のためにも有用なものかもしれない。達成感とか成功とか、というものにとっては。
 確かに何もかもポジティブに生きていくから、何もかも良い方向に行くとは限らない訳だし、ましてやその後成功するとは限らない。むしろそういう事が、逆効果になっている場合だってあるだろう。これまで、ほとんど信仰に近い形で、仕事をすべきだと諭す信用できない人ばかりが持て囃されてもきた。そういう時に、あんがいまともなことを言う人が、統計学を根拠に語るようになったわけだ。そういう新鮮さを含めて、動画とはまた違う形で付き合ってみても、有益さが増すというものである。
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壊れそうな繊細なバランス感覚   きらきらひかる

2024-08-27 | 読書

きらきらひかる/江國香織著(新潮文庫)

 なんでこの本を僕が持っていたかは謎だが、手に取って読んでみると主人公の一人の名前が「睦月」だった。僕の愛犬の名前と一緒だ。もっとも睦月ちゃんはメスで、この本の睦月さんは男性でホモである。睦月は医者で、妻の笑子は精神不安定でアル中のようだ。紺という大学生の恋人もいる。
 元々二人は、そもそも結婚なんてする気は無かったのだが、親から言われて見合いをして、その時にそういうことを正直に言い合ってみて、それならというので結婚してしまった。しかしながら、両親からは(睦月の親は睦月のことは知っているのだが)、子供を作って欲しいという圧力がある。笑子は当然そのことでかなり不安定に陥ることになるが、何しろ夫は同性愛者だからどうにもならない。人工授精という方法も模索するのだったが……。
 精神の不安定さで奇矯な行動を繰り返す笑子に対して、睦月は辛抱強く献身的にふるまう。そもそも睦月は、本当にそんなことのできるやさしさのある人間なのである。笑子は女性なので、いわゆる性的な相手はできないのだが、夫としては、出来すぎているほどの理解を示している。しかし、その優しささえも、かえって笑子を傷つけてしまうこともある。笑子は、どうにもならないことを知りながらも、睦月のことが好きでたまらないのだ。そうして、この奇妙なバランスを保っている紺も含めての三角関係のある夫婦生活があるからこそ、なんとか持ちこたえながら、生きている、ということなのだろうか。
 読みながらその危ういバランス感覚に、なんだかくらくらする思いがする。恋愛小説らしいのだが、笑子の病気のことが気になって、こちらも情緒が不安定になる感じだ。心配なのだが、僕ならとても耐えられそうにない。それにこういうのは、支えるからどうにかなるものでもないような気もする。しかし壊れてしまうと、それはそれでもっと大変なことにはなってしまうだろう。こういう生き方しかできないというのは、それだけでつらすぎて気分がもたない感じなのだ。当人たちには楽しい時間もあるようなのだが……。
 いわゆる感性が繊細な人たちの、やり取りを感じ取る小説なのだろうと思う。なかなかに奇妙な会話が繰り広げられるが、それがちゃんとかみ合っているのかも疑わしいのだが、それぞれの立場で(主に笑子と睦月だが)相手を見て、そうして考えてはいる。そういうところは悲痛さもさることながら、コメディ的でもある。その場に居れば笑えないのは間違いないが、読んでいると笑えるのである。やっぱり変なのである。本人たちは、そういう事が分かってもらえないことも、確信して分かっている。そこが、客観的には可笑しいのであろう。まあ、切実ではあるんだけれど……。
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かなり痛烈な温暖化キャンペーン批判   太陽の科学が予告する 二〇四〇年寒冷化

2024-08-25 | 読書

太陽の科学が予告する 二〇四〇年寒冷化/深井有著(学術研究出版)

 さらに副題「脱炭素キャンペーンの根拠を問う」。となっている。内容的には表題の通りなのだが、別段胡散臭いものでは無い。そもそも僕が子供のころには、地球は寒冷化に向かっているとテレビでは結構報じられていて、僕らは雑誌などで寒冷化の世界を知り、おびえていた。寒冷化する世界を描く映画なんかも結構あったのではなかったか。まあ原因は、核戦争だったり別のものだったりもしたが。しかしながら実際に寒冷化すると予想する学者というのは一定数いて、地球というのは10万年周期で温暖化寒冷化を繰り返しているのは事実であって、それが人間の実感と(寿命というか)相容れずわかり得ないものがあるのは確かそうなのである。二酸化炭素による温室効果というのは、それはそれで事実ではあるが、それが長期の気候に及ぼす地球規模の影響への見積もりが、現在は大きすぎるのではないかという疑念は、そもそも多くの人(まともな気象学者)が言っていることである。長期の天気予報さえ当てるのは至難の業であり、事実上無理がある。数十年単位の温暖化というのは、誤差の範囲である可能性はぬぐえない。ただし、それが間違いだったらどうなるのか、ということはあるにせよ、そもそも今の温暖化を、人類は止めることなどできはしないのも事実だろう。そもそも無理な問題の上に、科学的でないジャーナリズムとしてのキャンペーンがあって、温暖化問題は人類の必須科目になってしまった。要するにこれは誰かの利益のための政治運動であって、科学の範疇からかけ離れているという事でもあるのだろう。
 寒冷化に備えることの方が大変だというのはありそうだが、今は温暖化騒動である。日本は無理難題を押し付けられ苦しんでいるが、アメリカも中国も温暖化対策には取り組まないことが確定している中にあって(彼らが主原因であるはずなのに)、そういう事実がどうであろうともう関係が無いことは間違いない。ふつうに目の前にある資源を活用して、人間的な営みを取り戻すことの方が重要だろう。まともな経済学者も言っている通り、地球を冷やすよりまず自分の頭から冷やすべきなのだ。
 ともあれ現在の状態を放置したとしても、実際に自分が生きている将来にわたって、人類がとことん困ることにはなりそうにない。二酸化炭素が増えることは、植物にとっては生育を助けることになるので、人口増の地域にとっては、必要なことでさえあるという。いったんは温暖化してもらった方が、人類にも地球にも優しいということなのであろう。

※ しかしながらこのくそ暑い毎日にあって、こんな本を紹介したところで、何か説得力に欠ける感じがするのも確かである。結局人間の実感というのは、判断を誤る原因であるという事なのだろうか。
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書いて生きていくということ   私の文学漂流

2024-08-13 | 読書

私の文学漂流/吉村昭著

 著者の半自伝的物語。大きな病に苦しめられた若い頃の事や、ずっと書き続けていきながら、生活の中に苦しみもがく姿が素直に描かれている。一定の高い水準にありながら、運もなく4度の芥川賞候補に選ばれるも、すべて落選(一度は選ばれているようにも見えるのだが、非情にも覆る)。それでも生きていくよすがとして書き続け、なんとか作家として生きていけるようになったのかもしれないところまで描かれている。吉村の妻は同じく作家の津村節子で、夫婦で小説をあきらめずに書き続け、後に津村の方が芥川賞をとることになる。そういう夫婦間の実際のやり取りや、心情なども描かれている。執念というか、凄まじいものがありながらも、坦々と素直にそのありようが描かれていて、本人は自分のことをすねもののように言っているけれども、何か人間的には、むしろ大きなものを持っている人のように感じられる。もっとも生活がある中で、十分に苦しんでおり、そうでありながらその人間性を保っていることに、驚くべきものがあるように感じられる。不安を抱えながらも、葛藤をしながらも書き続け、時には兄弟との義理も果たしながら、なんとか自分自身で地を這いながらも、執念深く生き抜こうとする。結果的には夫婦で支え合って成し遂げていく、人生観のようなものを感じさせられた。
 しかしながら、小説を書いたとしても、人に読まれるということがここまで難しいことなのだという事を、いやというほど考えさせられる。小説家というのは、書きさえすればそれはそれなりに小説家にはなれるのかもしれないが、小説家であり続けることは、実際に容易なことではない。それはつまるところ読まれなければならない訳で、読まれる前に評価もされる必要がある。それが文学賞というような登竜門であるわけで、しかしその門をくぐっても、さらに書き続けなければならない。吉村は、その門をくぐること無くして(目指していた門という意味では)、自分の道を切り開くことに奇しくもなった作家さんなのかもしれない。
 非常に重たいものがある中で、さらに運からも見放されているような非業な状況下にありながら、なんとか自分の精神性を保ち、書き続けていく苦しみが、十二分に伝わってくる。しかしその重たさは、決して軽くはならないままにありながら、少しさわやかな読後感を残すのである。しみじみと、ジワリと、良かったですね、吉村さん。と言いたくなるような心情になる。僕はこれを出張中の電車の中で読んだのだが、込み合う人の中にありながら、ほとんど熱中してしまって、今自分が何処にいるのかさえ気にならなくなるような錯覚に陥った。もちろん目的地でちゃんと降りたのだから、自分は保っていたのだろうものの、凄いものを読んでいるな、という気分で読み進んでいたのである。これが作家の力量というものなのだ、というのがひしひしと伝わる文章力なのではなかろうか。やっぱりプロの作家っていうものは、凄まじい人なのであろう。
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建築から見える日本人のエゴ   日本の醜さについて

2024-08-03 | 読書

日本の醜さについて/井上章一著(幻冬舎新書)

 副題「都市とエゴイズム」。日本人は集団主義で、協調性を尊ぶ民族だと言われている(いったんそういう前提ということにする)。しかしながら日本の建造物と、ヨーロッパなどの西洋の文化と比較すると、まったく違った様相が見えてくる。日本の無秩序で個性的な建造物と街並みに比べて、彼らのまちは整然と無個性に協調して建てられている。それは木造と石やレンガなどの素材だけの問題でもなく、戦争や震災によって破壊され再生されたものであっても、結果的に違った様相を呈しているのである。彼らは破壊されても過去と同じものを建て直し、同じ風景を再現し、古くなって使いづらくなったとしても、中身だけを改装して、何百年も使い続ける。日本は戦争や震災が無い世であっても、古くなれば建て直し、鉄筋コンクリートであっても、数十年で建て替えるのである。そこには日本の個性やエゴがむき出しになっていて、社会的に協調する西洋社会とは別のものを露呈させているのである。
 他にも、本場ケンタッキー・フライド・チキンのあるアメリカには、カーネルサンダースの人形は店舗の前には無い(日本から送られて置いているところはあるらしいが)。道頓堀の看板などが象徴的だが、日本の派手なデコレーションのある看板装飾などは、子供が喜び、親を連れて呼び込む仕組みを許容している。西洋人の道徳には、そのような姑息さを良しとしない協調性があるようなのだ。それはあたかも彼らの集団主義と日本の個人主義を、象徴的にあらわしている。
 しかし著者は、そのような建築物に対する執着に似た歴史に連なる人間の考え方のようなものに、日本の協調性の無さのようなものに、何か醜さを覚えているようすだ。それがこの本の題名にもなっている通りで、彼はいくら震災や戦争で破壊されても過去のままの街並みを再建させようとする、例えばイタリアなどに心酔している。それらの建物は、人を酔わせる魅力を放っている。そこに行かざるを得ない、観るべき建造物だからである。残念ながら、日本にはそれらがあまりにも少なすぎる、ということなのかもしれない。
 日本人論の多くは、この本でも語られている通り、実際には間違いだらけなのだが、日本人は外国人から無個性で集団的だと思わせられているに過ぎない。幻想を受け入れ、むしろそれをアイディンティティのようなものにしながら、実際には自分のエゴをさらけ出し、協調性を見出すことができない。それが現実なのである。
 ちょっと不思議な感覚に陥る人がいるかもしれないが、面白いので体験的に読んでみてはどうだろうか。
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元々いきなり世界性がある作家   もういちど村上春樹にご用心

2024-07-23 | 読書

もういちど村上春樹にご用心/内田樹著(文春文庫)

 村上春樹に関する論考集。村上春樹が素晴らしいという思いを、さまざまな角度で論じられている。元は著者のブログで書いたものを下敷きにしているようだ。著者の内田先生は、村上春樹が日本の主論壇で正当な評価がされていない感じに不満があるようだが(実際村上を無視するものを含め、明らかに嫌っている日本の古くからの批評家はそれなりにいる。もちろん嫉妬している人も含めてかもしれないが。批評家のすべてがそうとは言えないまでも、作家になれない批評家というのは、それなりに存在する。村上はそのような批評家を過去に何度もあざ笑っている。要するに村上自身も不満があるということなのだろう)、村上春樹は確固たる世界的な評価の高い世界文学者である。そうして実際にその文学性は、驚くほどに世界水準で抜きんでている。いったいそれは何故なのか。それは、読むもの一人一人に対して、実は私のために書いている物語なのではないかと思わせるものを、村上が書ける作家だからなのである。そうして日常のことを書きながら、異界の世界へ出入りして、そうでありながらそれなりに訳が分からない。
 村上春樹のそのような描写の解釈であるとか、テーマ性であるとか、音楽であるとか、料理であるとか、アイロン掛けであるとか、父性の不在や、邪悪な不条理性なども論じてある。なるほどね。それらは僕らを虜にして離さない、村上春樹の魔術のそれぞれである。なんだか最近は、ノーベル文学賞を受賞するほぼ確実性について盛り上がっている感もあるけれど、それもどうだかよく分からない感じになっている。昨年久しぶりに長編小説が発表され、もちろん小説としてはベストセラーになったものの、これまでの村上作品のように爆発的には売れなかったようにも感じられた。村上春樹は国民的な作家であるだけでなく、繰り返すが全世界的な作家であり人気があるが、普通の男にはできないことをさらりとやり遂げて、しかしながらそれを何とも思っていない風を装っており、嫉妬される。そういうことを繰り返して、毀誉褒貶が絶えることが無いのである。
 僕もご多聞に漏れず中学生からの読者で、おそらくコアな村上ファンだ。何度もファンレターのようなものを書き、それらに媒体を通してお返事も頂いたこともある。当時は感激し、それらは家宝にしている(たぶんあると思うが)。村上春樹についてわからないことがあったら、ご用心を読んで、さらに混迷を深めてほしい。
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洗脳から逃れて自由に生きる   「集団主義」という錯覚

2024-07-19 | 読書

「集団主義」という錯覚/高野陽太郎著(新曜社)

 副題「日本人論の思い違いとその由来」。日本人が集団主義的だというのは、いわば常識化している言説である。僕はそうではないと知っていながら(これまでもその説は怪しいというのは聞き及んでいたので、完全には洗脳されていないと思っていた)、これを読むまでは、本当には知らなかったことを知った。日本人が集団主義でないことを、これでもかというほど実証している訳だが、それでも集団主義だという思い込みは、海外からも日本人からも抜けてはいない。その謎がどうしてなのかも証明してある。証明しているが、それでも呪縛から抜けることが、簡単でないことも解説してある。それほど根深い問題が、間違いなのに完全に流布している。それが日本社会であり、西洋人の思い込みだ。何でもステレオタイプに理解すると話が早い。そうであると認める方が、お互い分かり合えると誤解できる。それほど思い込みというのは厄介なものだ。それを思い知ることは、人間として生きていくためには必要なことのように思える。必要なことなのに、それを備えていない人間の方が多数である。それを絶望するか、はたまた喜ぶべきか、読んで確かめてみるべきだろう。
 実を言うと、そのような洗脳から逃れられない日本人論を、喜んで納得して読んできた個人の歴史もある。ブログを見返してみると、昨年も日本人の働き方を論じた西洋人の本を読んでいた。その内容をそれなりに正確に理解したうえで、今思い返してみると、その実証的な調査に基づいて論じてある論旨は、ある程度間違いであることにも今気づかされた。彼女らの考えのもとに間違ったバイアスの認識があるので、日本人を誤解していただけだったのだ。ちゃんとした学者の研究なのにこれだから、日本人論は難しいのである。おそらくちょっとした正確さをもって日本人を見ている外国人は、コンマ1%も居ないことだろう。
 もっとも同時に、例えばアメリカ人が日本人に比べて個人主義的か、という問題がある訳だ。正しい答えとしては、ちゃんと実証すると、日本人とアメリカ人は、同じ程度には個人主義的ではある。むしろ日本人の方が少し個人主義的なのだが、誤差の範囲かもしれない。今のアメリカの大統領選前の雰囲気を見ても分かる通り、アメリカ人というのは、非常に集団主義的な人種でもある。様々な人種が混ざり合い、アメリカとして団結するためには、個人主義だという価値観を持ちながら、集団主義的に物事を把握していかなければならないようだ。個人主義的な日本人の目から見ると、かなり奇異なる光景なのだが、そのことに気づかないほどに熱中して集団主義を邁進しているのである。そうして彼らは、個人の自由を犠牲にして自分たちを保護し、ひどく差別的な政策を自己正当化していくのである。彼らに個人主義的な価値観が少しでも残っているのなら、そんなことにはなり得ないのである。
 それでも日本人は、これからも集団主義的であると信仰してはばからないだろう。ほとんど馬鹿みたいだが、それが洗脳というものである。もっと自由に生きていきたいなら、迷わず読むべき必読書であろう。
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進化にとりつかれた人々の営み   進化のからくり

2024-07-07 | 読書

進化のからくり/千葉聡著(講談社ブルーバックス)

 副題「現代のダーウィン達の物語」。その副題の通りの内容なのだが、ダーウィンの進化論に魅せられて生物のことが好きなったというよりも、さまざまな生物の不思議を確かめていくにつれて、その基本的な考え方の骨組みにもなっている進化論に思いをはせるようになる研究者たちの行動を記録しているという感じだ。現代の科学的な調査の方法の前に、生き物には向き合わなければならないし、その生き物たちと出合うためには、人間では侵入しにくい過酷なジャングルのような場所へでも厭わず出向く必要がある。生物は様々なところに住んでいて、さらにそのさまざまな場所に適応して進化し続けているのかもしれない。そうして進化の過程において、時代の変遷において、近隣の仲間と交雑したり、離れていってしまったりする。形を変える過程で、そこに住む捕食者などの影響を受けて、派手になったり地味になったり、大きくなったり小さくなったりする。また捕食者のみならず、寄生虫によっても運命を変えられるのである。
 著者はカタツムリを専門とする研究者だが、そのカタツムリのみならず、さまざまな研究者と互いに貝などの研究をするうちに、進化論としてどのような進化の形をとったのかという論文ができて、そうしてその内容について国際的に激しい論争になっているトピックを紹介している。自然を読み込む方法や考え方において、時代を重ねるごとに新しい見地が見いだされ、そのことで激しい論争を繰り返してきた歴史があるのだ。そうしてそれらの発見においては、熾烈な研究の争いがある。誰が先にその研究成果を上げられるか、時間と戦いながらも、手を抜くことなく広範に物事を捉えながら、研究は進めていかなければならない。それは単に研究費用を獲得するというような、矮小な競争なのではない(それももちろん大切なんだが)。人間の根源的な好奇心をもって、なんと好きというだけで、この世界で頑張っている人々がいるのである。それも基本的には優秀な頭脳の持ち主ばかりで、あまり合理的とは言えないながらも、研究に魅せられていくのかもしれない。まあ、スポーツをやったりサーフィンやったりあちこち移動したり、という楽しみはあるのかもしれないが……。
 この本を読んで進化論の歴史、とりわけ日本のそれについても一通り認識を新たにすることができた。それというのも僕が進化論や、動物などが好きな理由の一つが、若い頃に今西錦司の存在を知ったからかもしれない。偉大な先生だったから、日本にはその弟子たちも偉大な人が多い。サル学なんかでは、その系譜は今に続くのではないか。しかしながら若い頃に読んだそれらの説というのは、バッサリと現代では切り捨てられてしまっている。そういう事もちゃんとこの本ではふれてある。ああ、やっぱりそうだったんだな、と改めて思う訳である。
 それにしても進化論をめぐって、今でも世界中の学者たちが研究を重ね、珍しい進化の不思議について、新たな論文が書かれているはずである。何しろいまだに謎が解けていない分野もたくさんあるのだろうし、検証の必要なものだってごまんと眠っているだろう。そういう複雑さの統合のようなものが、まだ欠けているものがたくさんある進化論の姿なのかもしれない。英語で言えばエキサイティングな現場が、そこら中に広がっているのが地球なのである。神は細部に宿る。研究者が感じているのは、そういう事なのではあるまいか。
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カタツムリを探してみよう   歌うカタツムリ

2024-06-25 | 読書

歌うカタツムリ/千葉聡著(岩波書店)

 副題「進化とらせんの物語」。生物進化を考えるにあたって、スター的な存在の生き物がいる。それがカタツムリである。カタツムリは非常に多様な生き物だからである。住んでいる場所で、山であるとか谷であるとか、その形状ごとに同じ種でも形や色やその他の特徴が違う。カタツムリを子細に調べることで、さまざまな進化の議論が展開されてきた歴史がある。そうしてそのような議論の証明や考え方に、カタツムリそのものが答えてきた壮大なドラマがあるのである。
 そんなカタツムリに魅せられた研究者たちの戦いの歴史を軸に、その考え方の解説がなされていく。環境に適応して違いが出ることから、適応的な進化をするとする立場と、それでも時間の経過などで偶然に進化するとする立場とが、激しい論戦の戦いを展開させてきた。また、その説明に適合する状況を、カタツムリは提供しているように見える。だが一方で、その説明に合わない状況も時折見つかる。天秤が揺れるように、歴史の上で両者の軍配が、揺れてはまた逆に傾いていく。そうして時には人間の仕業で、絶滅に追いやられることもある。人間は神の領域に、踏み込んでいくような愚かさのある存在なのである。
 そのような研究者たちの系譜に、著者である研究者たちもその知見を積み重ねていく努力を日々行っている。過去の亡霊やあたかも呪いのようなものと戦うべく、現代もその論争は続いている。ただし、新たな統合的な行方も示唆されている。著者はどちらが勝者だという考え方よりも、その二面性を統合して考えることを進めているようである。それらの研究の上に、新たな発見や知見が生まれるのであるから、一見過去の誤りに見える研究であっても、無駄にはならないということなのかもしれない。
 進化論というのは、DNAの発見や過去の化石なども含めて、実験や観察や歴史も含めて、実に総合的な見方を必要とする学問である。そうしてそれは、生き物だけの不思議を解くだけでなく、物理法則や地球の在り方や宇宙に至るまで、実に様々なものを語ることにもなる。そうしてそれらを語る存在として、カタツムリは重要な位置に居続けているのである。身近でありながら壮大な物語の世界に、魅せられること請け合いの良本である。
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眠れない人のことを考えて眠る

2024-06-23 | 読書

 村上春樹の短編「眠り」を再読した。きっかけは書評家の三宅香帆が紹介していたから。本棚を見ると「TVピープル」もあったのだが、何故か「全作品1979~1989⑧短編集Ⅲ」の方に収録されている方を読んだ。こちらは村上春樹自身が、これらの作品を書いた状況をメモした文章もある。村上はこれを「ダンス・ダンス・ダンス」を書いた後、小説は何も書けなくなった時期を経て、翻訳をたくさん書いてはいたが、ともかくその後に書いた短編なのだという。ローマで、まちの陽気な人々を見ながら、このような眠れない人のことを書いた。
 あらすじにすると単純で、ある日眠れなくなった主婦がいて、それも不眠というのとは違う、別に眠れなくても平気であり、しかし不安は抱えながら、ひたすら読書をして、日常生活を送って、プールできっちり泳いだりする日々を描いている。著者は何の寓意もなく書いたと書いているが、なにかの寓意を感じさせられる物語である。ブランデーを飲みながらチョコレートをかじり、ひたすらアンナ・カレーニナを読むのである。それも三度も繰り返し。昼は夫と息子の世話をし、食事を作り洗濯をし買い物をして、夕方プールで一時間きっちり泳いで、さらに読書をする。体は締まって若返り、それに比べて夫の寝顔はだらしなく見え、息子にも将来は愛情が薄れるだろうことを予感する。そうして夜に車で外出するようになり、ホラー体験をする。
 いったい何の意味があるのか僕にはさっぱりわからないのだが、おそらく女性の持っているある種のまわりの不理解に対する孤独、のようなものを描いているのではないか。夫は悪い人間では無いし愛してもいるが(セックスにもこたえられる)、決定的に自分を理解している人ではない。そうして息子は、その夫に似ているのである。それは、実際は耐えられないほどの問題ではないのだが、しかし決定的に欠けている何かである。世の中の妻の悩みを代弁している、あるいは表現させている小説なのかもしれない。もっともそれは勝手な寓意の読み違いかもしれないが……。
 確かに何か恐ろしい物語なのだが、そういう風に考えているだろう妻がいるかもしれないというのが、男である僕の感じる恐怖感かもしれない。妻は夜には寝ているようだけれど。
 もっともそういう感じのことは、大げさに考えないのであれば誰にだって当てはまりはするものである。それが作り物である小説の持っているリアリティであり、真実である。そういうものを発見させられて考えさせられる。そうではない人もいるのだろうが、身につまされるというか。しかし人間であれば僕らは寝てしまう。それで平和が戻ってくるのであれば、さらにいいのであるのだけど。
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グルメ旅行のはずが、深淵なる二人の世界   台湾漫遊鉄道のふたり

2024-06-19 | 読書

台湾漫遊鉄道のふたり/楊双子著(中央公論社)

 時代設定は昭和13年の台湾。日本の統治下におかれた状況だが、いわゆる軍事的な物語とは少し違う。この物語の作家は、設定として若い日本人作家の青木千鶴子である。書いた作品が映画化され、日本はもとより台湾でも評判になる。その為に台湾で講演の旅をすることにして、その通訳に現地の若い女性(国語教師だが、結婚を前に辞しており、堪能な語学の才能のために抜擢された)の王千鶴があてがわれることになる。千鶴子は自由奔放な性格で、背も高く大変な大食漢である。というより、食に対する獰猛な執着がある。対する千鶴は、頭脳明晰なばかりではなく、料理も上手で、あらゆる台湾の食事情にも通じでいる超人である。この二人が台湾の美食を食べつくす旅の物語かと思いきや……。
 基本的には美食というか、おやつというか、台湾の習慣や風景を交えての二人のやり取りを楽しむ物語だとはいえる。台湾のまちと共に売られている様々な食べ物がふんだんに出てくるばかりでなく、その素材から調理に至るまで、実に楽しく紹介されている。それをあたかも妖怪のごとく食べつくす千鶴子の様子も、実に愉快なのである。
 しかしながら実は、そういう物語がこの小説の主眼ではないのである。ほとんど美食食べ歩きの描写が実際に続きながらも、千鶴子と千鶴の感情の駆け引きが、それこそしつこいまでに克明に繰り返されるのだ。こういうのを百合小説だというとは、僕は知らなかったのだが、引き込まれて読みながら、男である自分の神経の鈍感さに思い至らざるを得なかった。相手の表情や、目の色や、ちょっとした言葉のあやなどを、彼女らは実に何度も何度も考え思い起こしながら会話をしている。そうして相手の本心が分からないことを悟っている。そんな芸当は到底僕には及ばないしできないし、そもそもやったことが無い。分かっていないことを確信しながら相手に探りを入れて、時には直接的に問いただして、しかもその答えで相手がまだ心を開いていないことを悟るのである。小説ではそれができているが、実世界で僕らがそれをできるわけがないじゃないか。
 最後まで読んでみて、この物語の設定そのものにも、細かい仕掛けが仕込んである世界観であることが分かった。なるほど、どっぷりそういうものに浸れるように、考えつくされているということなのだろう。それをどう思うのかは日本の読者には、多少いろいろあるとは思うのだが、いやいや、これは傑作でしょう。僕は確か角田光代が新聞書評で取り上げているのでこれを買ったように思うのだが、手に取って本当に引き込まれてしまった。グルメ小説でこんなに熱中するなんて自分でも不思議だな、くらいで読んでいって驚かされたのだから、たいへんに貴重な読書体験になった。それに最初から百合小説だとわかっていたら、手に取ることすらしなかった可能性が高い。自分の見識の狭さを、改めて反省した次第である。世の中は広い。面白さというのは、さらに広い視野の向こうにある、ということなのだろう。
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