カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やってはいけなかったことが発見された!

2023-07-31 | 時事

 連日ビッグモーター騒動。最初は何のことかと思っていたが、いろいろ解説してくれる人が多くて、というか、今の話題がこれ中心になっていて、どんな話もビッグ関連になっていく感じだ。皆さんなじみのある会社であるらしいことと、それなりに思うところの多い問題なのかもしれない。
 面白いと感じるのは、僕は新聞くらいしか情報源が無いが、メディアのほうは怒っているニュアンスが強いのであるが、一般の人というか、僕の周りで教えてくれる人の反応は、結構面白がっていることである。ずいぶんへんな会社があったもんだなあ、と僕が言いうと、たいていの人は「いやいや、これ、どこでもやってるでしょ!」というのである。さすがにここまでやってた会社は特殊な感じだとは思うものの、皆さん最初から織り込み済みで信用してなかったのか? そういう反応に二次的に驚いているのだが、そうするとこれは、やはり他にもあるある問題であると考えてもいいのかもしれない。
 僕は一度だけビッグモーターには行ったことがある。多良見店だったと思う。それは単純に車を見に行ったのである。広い敷地にたくさんの車が置いてあるんで、見本として見に行ったというのがある。現物を確認して、知り合いの業者に頼んでその車種をオークションで買ったのである。利用してすいませんでした。若い店員さんの感じも良くて、マニュアルで鍛えられてるなあ、と思った。たぶん歩合制なのではないか、と思った。
 しかしまあ、このような中古車販売店は、値段が高いことは情報としては知っていて、最初から買う気はなかった。いろいろオプションがついてきて、場合によっては新車より高いともいわれていた。しかし客は、ここで喜んで買うのだ。そういうのって面白いな、とは感じていて、人というのは、やはり対面情報に価値を見出しているのかもしれない、と考えていた。
 今回の騒動で、この会社は相当のダメージを受けているはずである。自業自得じゃないか、と言われればそうかもしれないが、この影響で大きく利益を得るところがあるはずである。必死でたたいているところは、そういうところを考えているのではないか。
 また、先に紹介した、「どこでもやってる」のではないか、という感じ方というのにも、おそらく根拠がある。せっかく修理をするのなら、ちゃんと保険を使いたいと考えている顧客がいるのではないか。そういう要望と、会社の利益は相関する。そこに普通は保険会社は立ちはだかるものだが、そこにも顧客獲得の誘導が働いたとすると、まあ、納得しやすい。ことは案外単純なのである。だからその分かりやすさとして、辞任した社長の発言は信用されないわけで、しかし認めると裁判でひどく負けるという将来のことを考えると、ああ言うよりない、というのも分かっているのだ。
 要するに茶番であるわけで、やっぱりそうだったんだな、という通りのことが、次々に明るみに出ている訳である。そうして街路樹が枯れていたりして、行政まで絡んだような問題になった。もっと叩いて懲らしめなければ、という事である。大衆の快感のために、ものすごく適当な存在が立ち現れている。やくざ国家日本の、見本のようなやっちゃった会社が、今崩れ落ちている過程にあるのであろう。
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相手は僕のことを本当には分かっていない

2023-07-30 | ことば

 最近スポーティファイで音楽を流して聞いたりもしているのだが、僕は無料版を聞いており、ときどきこの無料版から有料に変えるように宣伝が入る。宣伝でかかる音楽は同じだが、ふつうにアナウンスがあり、より快適で便利な音楽を楽しむにはバージョンアップしてお金を払え、と迫るのである。時間的には数十秒なので毎回我慢して聞かないふりをしているのだが、ある時、このアナウンスが英語になった。僕は英語の語りはほとんど聞き取れないが、宣伝であることと、バージョンアップのお知らせであることは分かる。ああ、そうか。僕は洋楽ばかり聞くからである。日本語の曲を検索したことは、たぶん一度もない。
 しかしここでさらに疑問が浮かぶ。検索は日本語で行っているからである。好きなバンドや人物を探す折に、ひらがなでやってもちゃんと目当ての人を探してくれる。それは僕が書く日本語を理解しているからで、基本的にはパソコン上の、こちら側には日本語話者がいると相手が認識していい材料である。ところが相手側が、英語で対話を迫ってきた訳だ。聞いている音楽は洋楽ばかりだから、可能性として英語話者であるかもしれないと考えた、というよりも試してみた、ということか。それもこれまでずっと、日本語の問いかけにはまったく無視を続けている。それは単にそんなに大きなメリットでもない(携帯にダウンロードするなどすれば別なのだろうが)ものと、僕が考えているから無視しているだけであって、日本語が分からないからそうしているわけではない。しかし繰り返しアナウンスしていて、聞いているのが英語なのだから、という理屈も推理も成り立つ。なるほど、相手はたぶんAIなのである。これが現代の文明の利器を使っている、現実をあらわしているのであろう。
 ところで僕は、チャットGTPもそれなりに使ってはいる。何文字でどういう文を書け、とお願いして例文を書いてもらうことがそれなりにあるからだ。出てくる例文は間違いだらけだから、それらの内容の年代などを調べ直して訂正し、そうして僕なりの文体に直して、ささっと相手に送ってしまう。そういう事ばかりでは無いにせよ、とっかかりとして文章を作るには合理的なものを感じている。相手が嘘ばかりつくこと以外は、こちらの方が専門的なことについては知識が上だし、相手の嘘をつきやすい部分というのがあって、これは適当に書いてるようだというのは違和感を感じるし、実際に簡単に間違いは分かる。今のところマスコミはAI脅威論ばかりだけど、彼らはいったい何に怖がっているのだろうといつも思うのは、現実のAIの馬鹿っぷりにいつも付き合わされているからかもしれない。それは人間の方が優秀だという優越感で言っているのではなく、あくまで道具なので使いようだ、ということに過ぎない。電卓の計算能力が明らかに僕より上だと認めていても、何の脅威も感じないことと少し似ている。それでも、もとになるそれらしい文章の土台は、目の前に甲斐甲斐しく提示してくれるし、後で調べ直して修正する手間があるとしても、もともと自分の書く文章であっても、普段から推敲していることに変わりない訳で、まあ、違和感のかけらもない。ちょっとだけ便利な面があるかもな、くらいで使い分けて遊んでいるだけで、願わくばもう少し学習してもらって能力を上げて欲しいということだ。それにはっきり言って、文章はかなりへたくそである。誤字もそれなりにあるし、質問の内容を正確には理解すらしていない。しかしその考え方の過程は面白いものがあって、そのような態度を楽しんでいるのかもしれない。
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歩く時間が待てない

2023-07-29 | 散歩

 長い雨の降る日が続いていたがようやく明けたようで、むやみに湿気で蒸すような感じから解放されたはずなのだが、しかし今度は日差しが強すぎるのである。日光に照らされているだけでも、汗ばんでくる。そういう中でも歩こうというのは酔狂じみていて、そうして馬鹿げた行為のようにも思える。自分だけの問題なのだが、他人に見られたくもない。あの人は何をやっているんだ。いや、歩いている姿は確認できるに過ぎないが、スポーツとして歩いているわけではなく、ただ普通の格好をして、いつものように散歩している。それがどうにも都合が悪いというか、いたたまれないような悪事を働いているような、そういう自意識を喚起させられるのかもしれない。要するに暑すぎる中で散歩をするのは、なんとなく非常識めいているのである。
 犬の散歩にしても、これだけ暑くなると、やはりなんとなく気の毒だ。外に出る欲求にこたえているように見せかけて、虐待めいたことをしているのではないかという不安に駆られる。事実しばらくして草むらなどを興奮して嗅ぎまわっていたにもかかわらず、動きを止めて舌を垂らす時間が増えてくる。もうやってられないことなのだろう。無理をしないで帰るとするか。
 そうしてひたすら日の陰るのを待つのである。夕方以降を待つのである。朝早くてもいいのかもしれないが、早起きはそれだけで負担である。そうであれば、待つより仕方ないのである。
 しかし5時を過ぎた夕方になっても、そんなに期待したほど涼しくないのである。むしろまだ暑いのである。太陽は西側にあるとはいえ、まだ水平線よりは高い。これでは夕方とさえ言い難いのではないか。なんでいつまでもノロノロしておられるのだろうか。よっぽど自転が遅くなっているのか。誰に聞いていいかどうかわからない設問である。そうであってもいつまでも待っていられない。夕方を逃すと夜になり、また別の予定が待っている。そうなる前に歩かねば。
 そうすると結局、暑い中を歩かなければならないことになる。待つべきは、秋ということになるのだろうか。
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僕はつぼ焼きが好きです

2023-07-28 | 

 サザエは、日本では1万年くらい前から食べられていたとされる。どういう訳か朝鮮半島や日本列島などの東アジアにしか生息していないようで、主に日本の食材として海外では有名なようだ。というか、そういう事情もあって、よその国ではあまり食べられない珍しい食材なのかもしれない。
 もっとも日本のサザエの特徴であるトゲのあるものが珍しいようだ。日本ではトゲのあるものとないものは、長らく環境によって違うのであろうと考えられてきた。荒い磯にあるものは流されてもトゲがあるので、どこかに引っかかるなどしてトゲが発達した、といわれていた。しかし実際にトゲのあるものとないものは混在していて、雌雄によって多少の味の違いはあるものの、トゲのあるなしで味が違うとは考えられていなかった。ということと、環境説と遺伝説が混在して、サザエとはそういうものだ、ということになっているのかもしれない。
 ところが実際にはトゲの無いサザエは中国よりも南海などには居るようで、品種がちょっと違う。瀬戸内とか波の少ない内海に多いとされるトゲの無いサザエは、そのような南海サザエと遺伝的に近い可能性は無いのだろうか。品種が違うと考えている人は他にもいるようで、ヒメザザエとして別に売ってある場合もある。百科事典などで調べてみたが、そこのあたりはあまりはっきりしない。やはり同じ磯に混在している為であろう。
 サザエは比較的高級食材の一つだが、長らく食べられてきた大きな理由は、たくさん取れるからである。千葉などの地方では、サザエがふんだんに取れ、以前は肉の方が貴重だったから、サザエカレーが名物になったともされる。取れすぎるので、いろいろ工夫して食べられているということだ。また、硬い食感と相まってかすかな苦みと甘みが混在した独特の風味が、長らく愛される日本の味ともいえるのかもしれない。
 刺身でも美味しいと思うが、やはりサザエはつぼ焼きにして食べるのが一番だろう。考えてみるとかなり残酷な食べ方だが、サザエの方も一度漁協などの水槽で休ませて、獲ったばかりのストレスを取って元気にしたものを食材にしているものが多いのだそうだ。さらに残酷なことだが、結局人間はそのようにして自分の欲望のために、生き物をいじめぬいて美味しく頂いているのだろう。合掌。
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昔の人は悪かった   神阪四郎の犯罪

2023-07-27 | 映画

神阪四郎の犯罪/久松静児監督

 原作小説があるらしい。法廷劇で、過去に何があったか、法廷の合い間に劇が挿入されて物語は進む。神阪は雑誌の編集長だが、横領の上愛人との無理心中(愛人だけ亡くなる)をしたために、法廷に掛けられている訳だ。雑誌社の社長、著名な評論家、雑誌社の女社員、神阪と親しい女性歌手、神阪の夫人がが、それぞれに神阪の悪事や過去の行いについて証言していく。それに合わせたエピソードも交えて語られる神阪の姿は、小心者で狡猾で、しかし女にもてる面があり、かいがいしく世話しながら、お金を使い込んで徐々に破綻していく被告人そのもの現在である。
 ところが物語が一変するのは(それぞれの証言でも微妙に発言のずれはあるものの)、神阪本人が弁明に至ってからである。それぞれの人々が勝手に神阪を語る事実には、それぞれの都合が混ざっているのであり、決して事実はそうではなかった、という反論である。世界ががらりと変わって見えていくのである。
 多くの人が当たり前のように感じるのは、他でもなく日本映画の金字塔「羅生門」っぽさであろう。事実というのは、語る人の視点だけあるのであって、一つの純然たる客観的なものなど無い、という真実を突き付ける物語なのだ。
 さて、しかし、劇中の若き日の喜劇俳優森繁久彌の演技が、何とも言えない味のあるものなのである。卑屈な演技から堂々たる答弁まで、本当に神阪が多重人格であるかのような使い分けである。そうしてその神阪のすべての顔が、森繫として確立している。
 僕の若い頃には森繫は非常に持ち上げられた名優としての大家だったが、当時はほんとにそんなもんかね、くらいにしか感じていなかった。なんとなくワザとらしい演技にしか、僕には見えていなかったからだ。しかしながらこの映画を観て、認識を改めざるを得ない。大変に失礼いたしました。ほんとに上手い俳優さんだったんだね。すんません。
 ということで、古い映画であるにせよ、見事な娯楽作品である。昔の日本人は、ほんとに汚い心の人が多かった。それを見るだけでも、ずいぶん面白い体験である。日本人って短時間で、こんなに変わってしまったのであった。
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生き方というのは、自分のやっていること   編めば編むほどわたしはわたしになっていった

2023-07-26 | 読書

編めば編むほどわたしはわたしになっていった/三國万里子著(新潮社)

 誰の紹介で手に取ったのかは忘れたのだが、ちょっと前に読みかけているにもかかわらず、人と会う時にこれ面白いよ、と貸してしまった。ふつうはそんなことはしないのだが、話の展開でそうなってしまったというか、読み止しだったのでちょうど手元にあって、お話をしている相手の方が、「読みたい」と言われたのだった。表紙の写真も外国の人形のもので、なかなかにいい感じだったのが、あまり本を読まないというその人の興味にも触れたのかもしれない。それでしばらく忘れていたが、小さなお菓子と共に僕が不在時に返却されていた。そうしてその時はまた別の本を読んでいて、しばらく忘れていた後にまた手に取ったわけだ。あとはほとんど夢中というか、しかしやっと読んでしまえた。
 そういう訳なのだが、短いエッセイが集まった本で、いつ読んでもかまわない構成になっている。しかし一つ一つに明確なつながりはないものの、自分語りというか、家族語りというか、そういう一連の三國さんの歴史のようなものが分かるようになっている。一種の長編小説であるかもしれない。旦那さんとの出会いも分かるし、子供のころの様子も分かる。家族も、その間の付き合い方も分かるし、三國さんの本業らしい編み物のこともわかる。しかしそういう事でありながら、お話は実に小説的な感じがする。文章が美しいというのがまずあるのだけれど、一つ一つの物語に、小説を読んだような余韻が残るのである。いわゆる、文章に引き込まれながら読んでいて、しかしある種の感慨とともに、自分のこともあれこれ考えてしまうことになるからだ。三國さんの体験は、それなりに特殊だし、そうして非常に個性的な人である。そうであるのだけど、憧れもあるのかもしれないけれど、ちょっとした汎用性のようなものがあって、まるで自分も似たような体験をしたような気分にさせられるのかもしれない。そんなことは無いはずなのに、懐かしいような、そういう感慨に浸る読書の時間である。
 本分は編み物作家さんということらしいのだが、この文章を読む限りでは、作家としても生きていかれることになろう。ちょっとした中毒性もある文章で、そういう事もあるんだなと思いながら、啓発されていく。ちょっとそういうことを自分でもしてみたくなるような、小さな発見に驚かされて、感心する。本当にこういう才能の人っているんですね。なんとなく会ってみたい人です。
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よどんだ湿地の池のように   ブルー・バイユー

2023-07-25 | 映画

ブルー・バイユー/ジャスティン・チョン監督

 定職に就けず、場所を借りてタトゥー彫りで生業を立てているらしい韓国移民の男は、シングルマザーの白人米国人(看護師のようだ)と暮らしていて、新たに子供が生まれそうである。彼女には警察官の元カレがいて、どうもこの男に問題があったために別れて韓国男と付き合うようになったいきさつがあるようだ。男はバイクが好きなようだが、以前にバイクを盗んだ罪で二度服役している。そうしてまたお金に困ると、以前の仲間とともに高級バイクを実際に盗んだりする。物語としてはどうしても弁護料の資金がいるので仕方のないことのように語られるが、さて、どうしたものだろうか。
 このお話は、一種のドキュメンタリー的な告発の意味があるらしく、監督(主演も脚本も兼ねている)も韓国系の米国人ということで、米国に養子縁組をして移民として暮らしている人の多くは、何か法的な不備があって、大人になってから強制送還されるということが増えていて、そのことの不条理を訴えているものである。実際に他国の生まれであったとしても、幼い頃に米国に渡り養子縁組で一旦米国人になったはずなのに、後になって手続きが良くないので母国に強制的に返されてしまっても、本人は英語しか話せないし、母国には家も無いし知り合いも何も無いのである。さらにこのお話のように、曲がりなりにも愛する家族との暮らしがある。引き離された上に、二度と米国へ入国を許さないということになると、その家族がまた会うためには、強制送還された国へ米国人が移民として移住しなければならない理屈になる。実際にはそんな選択はしないだろうから、引き離されておしまい、なのであろう。
 そういう悲劇の物語なのだが、はっきり言っていろいろと不備がある。そういう境遇に置かれた移民の状態が、この男のように非常に不安定なのは分かるのだが、そのために犯罪を繰り返すなど、やはり社会を脅かす存在として米国社会が観ているらしいという背景が上手く描かれていない。さらに元カレの警察官と友人が、不当な暴力を繰り返しており、そのための不利益によって司法が動かされていることに、かなりの疑問を感じる。今暮らしている事実上の妻にしても、肝心なところで、男を見放すようなことを繰り返している。寄ってたかって男をいじめているようなもので、ふつうに男はそのような暴力を公的なところに持って行って戦った方がまともにお話は進むはずなのに、まったくそんなことさえしようとしない。基本的に皆不真面目なのである。これではちゃんとした不条理を糺す主張があったとしても、そもそもの問題点を自分たちなりに解決しようとしていないで、疑問などが膨れ上がってしまい、呆れるばかりである。悪いのは米国社会というよりも、元カレを含む警察官であり、差別や偏見でまともな職を提供しない、もしくはその努力を続けない移民にあるのである。
 そういう事でかなりの失敗作だと思うが、米国社会におけるアジアンの哀しい立ち位置というのは垣間見えて、なるほどな、とも思うので、それなりに惜しい作品かもしれない。ブルー・バイユーというのは、そういう歌もあるということらしいが、米国南部にあるよどんだ水池のようなものを指しているらしく、ちゃんと流れに乗れない移民たちの立ち位置を暗示している、と考えていいだろう。自国でも事情があり上手く行かなくて、米国に渡っても上手く行かない。そういう人に愛の手を、ということなのであろう。
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僕は命令に従いたい

2023-07-24 | 掲示板

 特に見たくもないと思っているものから観ている気もする。というか、強いて今見たいと思うものが、そう思う気持ちが、あまり無いのかもしれない。しかし録り貯めている録画時間はどんどん増えるし(時々整理して消してるけど)、ネットフリックスもアマゾンプライムもリストの数は増えるばかりだ。もちろん最初は嬉しい悲鳴のようなものがあったのだけれど、増えすぎてしまうとかえってそれらの圧力のようなものが薄れていき、要するにあきらめの気持ちが強くなり、もう全部見るのなんて物理的にはかなり難しいものであることを悟り、観たかった欲求まで奪われてしまうのかもしれない。
 それで録画リストを眺めて観始めるのは、大体5分とか、細切れの時間の合間をぬって作られたような番組で、要するに料理番組とか、子供向けのものとか、ミニ・ドキュメンタリみたいなものになる。観ていると楽しいので、特に文句があるわけでは無いのだけれど、そういうのを観始めると、あらためて、そういえば特集ものがあったな、とか、大自然や動物も見たいかもな、とか、科学番組とか宇宙物も見たいな、と思うのである。そうして、やっぱり映画観ようかな、とも思うのである。
 で、今度は映画のリストを見ると、やはり量があるのでパラパラとリストを眺めている間に、やっぱり録画物から先に見てもいいかな、とか思い直したりする。これはもう自分が優柔不断なところがあるというのはあるにせよ、ほとんど病気である。あなたは何を見なさい、という命令を下す人がいたならば、今の僕なら素直に従うに違いない。そうして実際に、そういってくれる人を求めてもいるのかもしれない。
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匿名だから行われることもある

2023-07-23 | net & 社会

 精子提供者を知りたいと考えている人の、活動をとりあげているものを見た。不妊治療で精子提供を受けて生まれた子供が成長し、自分の本当の父親(実際には精子の無かった父親とともに育てられている)である精子提供者を知りたい、という事であるらしい。しかしそれが現行では許されないのは、精子提供者はドナーとして匿名が守られており、その条件をもとに精子提供に至ったという経緯があるからである。その多くは当時の医学生と考えられていて、すでに今の生活もあるので、本当の子供だからという理由でその人が自分の存在を知ることを、どのように捉えているのかは知る由もない。
 そうではあるが、そうやって生まれてきた子供としては、自分のルーツのようなことを知るという最小限の願いであり、その取り決めを後で変えることができないか、という純粋なものであるようだ。また、そのようにして育った子供の多くは、実際にそのように自分の由来である片方の親のことを、強く知りたいと思うようになるものだという。アメリカなどにもそのような事例があるともいう。最初から匿名でない条件で精子提供をするようなケースもあるのかもしれない。そのことでのトラブルがあるのかないのか、そこのあたりははっきりはしなかった。
 また、そのように精子提供で子供を持つ母親の例もあげられていたが、そもそも父親が誰であるかというような問題を子供に教えるつもりなどみじんもなく、自分もその精子提供者がどのような人間であるのかさえ知る必要が無い、と考えている人もいた。そうであるからこそ、子供を持つことが出来た、という事でもあるのかもしれない。
 なかなかに悩ましい問題なのだが、最初の取り決めであるならば、それが誤った考えであるということにならない限り、それなりにむつかしい問題だろう。ただ、そうやって生まれた女性が言っていたことだが、「自分のことなのに、周りの人の方が(平気で)妨害するし、意見で押さえつけようとするのが分からない」という。しかしこれは、最初の取り決めを破ろうとする行為であると考えるならば、十分に暴力的なことにつながっていて、気持ちは分かるし、そういう境遇の悩みであることはそうだろうとは思うものの、提供者の方を守るべき問題の方が先にあるという気はする。それは本人には残酷なことであるのかもしれないが、子供が生まれるというのは、そもそもそのような残酷さを含んでいるものとも考えることが出来る。親は選べないともいうが、親だってそのような子供になることは選んではいない。あえて恨むとするならば、子供が生まれない境遇にあった両親(もしくは母親)という事になり、それが間違いであったと、問うべきではないか。それは、子供が生まれない人には、子供を持つべきでない、ということと、結果的には通じるものがあると知るべきだろう。その人の生まれてきた機会を奪うべき問題なのか、とも通じるので、自分にも矛先は向けられているのである。だから社会が反応しているので、個人の問題に口出しを出しているという事なのではないのであろう。
 しかしながら有名なスティーブ・ジョブズも、本当の父親を捜したが見つけられなかったというし(彼の場合の父親は精子提供者ではないが)、実際問題として彼女以外にも多くの人が、そういう境遇にはあることだろう。個人の問題だから、その他の人は関係ないともいえるが、悩みの多くは個人の問題である。この問題は暴力的な仕打ちではないものなので、さらに事を難しくしている。匿名でない精子提供のドナーという問題を創ればいいと思うかもしれないが、そういう人に問題が無いかということも考えるべきだろう。
 また、現在は医大系の病院などでは、ドナーが不足して(このような問題が顕在化したからだろう)公式な精子提供による不妊治療が滞っているともいわれるし、逆にネット上では、そのような現状をぬって自分の精子を売買している人も少なからずいるともいい、結局はその利用者が増えているともいう。そういう状況が望ましいものかも、検証が進められるべきであろう。
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目的を誤ると、誤解しか生まれない

2023-07-22 | HORROR

 安倍元首相が殺されて一年ということで、改めてこの事件を取り上げる特集が多かった。日本はテロによって大きく世論が動く国だと思うが、このことで何かが大きく変わったかはよく分からない。それほど不可解というか、テロという殺人が成功したにもかかわらず、その意味はほとんど無かったということが明らかになり、人々は単に分からないことに戸惑い続けた一年になってしまった。結局悪の権化である統一教会の問題が一番取り上げられることになり、そういう意味では山上という人間の思う通りに世の中は動いてくれたわけで、本人の意思はストレートに社会に伝わった可能性は高い。もっとも本当に火種だった山上の母には何の影響も無かったので(むしろさらに祈りを深めているともいうし)、狂った人には何をしても一緒なのだ、ということに過ぎなかったのかもしれない。それがこの事件の一番の徒労を感じさせられるところである。
 しかし犯人の山上に対しては、少なからぬ人が共感を持っていたことも明らかになった。山上はモンスターである母親から、宗教という背景をもって苦しめられ、自分も崩壊してしまった訳だが、いわゆるそのような毒親に苦しめられている子供たちである人々が、やはりそれなりの数として存在し、山上の逆恨みや動機に対して共感してしまう、という現象が起きたようだ。山上の減刑を求める署名が集まったり、山上への差し入れや、現金まで送る人もたくさんいるという。それは単なる勘違いであるだけでなく、ほとんど意味さえないことなのだが、山上のような境遇にあるからこそ共感してしまうという感情を抑えられない人々が存在するということと、そういう人たちがこの機会を利用して声をあげるという行動に出たとも考えられる。家庭の問題はかなり個人に帰するところが日本にはありすぎる可能性もあって、そういう部分というのは、改めて考えるべき課題であるとは思われる。安倍さんは浮かばれないことだけれど、もしもそういう毒親の存在を許さない社会への契機となるのであれば、それはそれで進めてもらいたいとも思う。
 ただしこのような世論というのは、あくまでも勘違いに過ぎない。山上の苦しみと、自分の置かれている苦しみは、何の関係も無いからである。さらにそういう事に何かの共感や期待を寄せることは、関係ないことを契機にそうやっているということを考えると、非常に危険な考え方であることを知るべきである。山上が嫌っている宗教的な妄信のようなものと、ある意味で同じものがあるのも付け加えていくべきだ。要するにそのような動きは、関係ないものから勝手に自分たちで意味を作り出して形を作ろうとする人間の危ない癖のようなものである。こういうことは前に起きた秋葉原通り魔事件でも見られた社会現象だが、あの時も派遣社員の待遇などの問題と、メディアは何とか絡めて事を大きくしようとしていたが、犯人にはそんな意思などみじんも無かったことが明らかになった。基本的にはテロや殺人などの大元は、単にわがままや偏見や自分本位で勝手な妄想にすぎない。痛ましい事件に悲しむことはできても、それらに共感などして社会を脅かすことの方が罪深いのである。
 山上の自分本位の妄想のために、母親や宗教と何の関係も無かった政治家が殺され、ましてや家族や支援者など大勢の人々の幸福までも奪った。それこそが最大の問題なのであり、そのことから目をそらすことしかできない人間の多いことに、この国の最大の問題がある。山上は、ちゃんと母親を殺すか、韓国に行って教祖を殺すべきだったのである。もちろんそれは、犯罪というくくりの中では悪いことだが、ちゃんと正当にそういうことがやれたならば、皆は芯から共感したことだろう。少なくともそんなこともやろうとしない山上は、単なる大衆を拒否できない政治家という弱いものを、もてあそぶヤクザのようなものである。そんなこともできずに目標を誤った卑怯者だったというのが、一番の真相だろう。減刑などもってのほかで、どのような刑であれ、最大の負荷をもって処すべき愚かさに反省すべきであろう。少なくとも、家族には謝れよな、ノータリン。ってことだろう。
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努力は変えられる可能性のあるものにある

2023-07-21 | culture

 日本人の働き方改革の必要性というのは、僕の若いころから言われ続けていることである。それくらい根深い問題があるようだし、それくらい絶望的な問題でもあるのかもしれない。今でいう国際比較の生産性の低さというのがあるけれど、それなりに自分たちは優秀なのでは無いかと思いながら働いているだろう日本人にとって、どうしてもなんだか納得のいっていないものがあるのではないか。しかしこれは日本の労働時間から生まれている生産性の低さはゆるぎない事実であって、生産性が上がらないまま日本で働き続けても、なかなか豊かになれないということでもありそうだ。しかしそれでも何かわかり得ないカラクリがあるのではないかと考えている人が多そうなのは、日本人は勤勉で働いているはずだという錯覚があるのではないか。
 しかし、日本人の多くもうすうす気づき始めている人もいると思うが、日本人の多くは、生産性を実際に上げる努力はあまりしてないことがあると思う。自分のやるべき仕事があまり明確ではないし、実際に何を求められているかの範囲が広すぎて、今日は何をやるべきで、どこまでやればいいのかさえよく分かっていない人が多いのではないか。そうしてそういう働き方をしていることが、仕事としてそれなりに重要だとも思っているのではないか。実際にはほとんど何も生み出していない事務仕事をする人が多くなって、しかもそういう人の人数は増えていく。仕事のための仕事が多くなって、実際に金銭的な利益を得る仕事をしている人が、下働きのような状態になっている。入ってくるお金の分配先がお金を産まないのであれば、生産性が上がる訳がない。事務仕事の必要性は無い訳では無いが、生産性を本当に支えているのは生産現場にあるはずである。もちろんそれを外注にして書類上利益が上がるように跳ねていってもいいのかもしれないが、そうやって例えば売れ続けるような商品がこの先も生み出せていくのかという問題になると、なかなかに難しさがわかるのではないか。もっともモノだけを売るのが商売では無いのだけれど、そういう総体としての生産性のまずさが、日本の社会にははびこっているのではないか。
 例えば就業時間内に勝手に帰るのはまずいかもしれないが、時間が来て帰らないのも、実のところそれと同じくらいマズイ事ではないのか。しかし帰りにくい実情があって、たったそれだけのために帰らない人がいるとしたら、それは仕事以前の問題である。そうはいっても現実に帰りにくいということはあって、それは個人には改善できる問題ではない。それではいったい誰が、そのことを改善してくれるのだろうか。
 つまりはそういう事で、改善すべきことが目の前にあったとしても、個人が努力してそれを変えようとしていないのである。そうであるならば、おそらくほかの問題であっても、改善の余地がありながら、改善が簡単にはなされていないのではないか。
 自分たちの問題を自分たちで変えられない社会で、何かを本当に良くして行けることが可能だと言えるのだろうか。それは、そもそもが不可能な挑戦なのではないか。いや、挑戦さえしていないだけのことなのだが……。
 たぶんみんなは分かっているのである。諦めているのである。何をどうすればいいという問題以前のことが、日本人を苦しめている。自分を苦しめていることに、もう少し前向きになれないのだろうか。
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社内で必要とされるのは「雑談」らしい

2023-07-20 | culture

 社員間のコミュニケーション・ツールとしてのアプリを、仕事にとりいれる企業が増えているというレポートを見た。アプリを開くとお題があり、たとえは昨日の休みは何をした? などとあるのに書き込みを入れるだけ、というようなものだった。しかしながらそこに書き込まれるものごとをネタに、いわゆる雑談に花が咲くことがある。部署の違う人間とのコミュニケーションが楽に取れるようになり、他の連絡事項などの時に雑談などが増えるのだという。
 他にも自動販売機で、二枚のカード(社員証?)が無ければ買えない仕組み(要するに連れ立って飲み物を買って休憩しようってことかも)になっていたり、出来るだけ社員間で円滑にコミュニケーションを取れるようにすることが重要だ、ということになるのだろう。
 以前ならこれは、社員間の飲みニケーション必要だ、というようなことがしきりに言われていた。僕はその真っただ中で育った世代なので、上司や先輩から誘われると、飲みに行かなければならない圧力にいつもさらされていた。しかしながら実際には(僕が)面倒な相手であることは明確だから、段々と誘われなくなるようにはなるわけだが……。
 結局時代は変わらないな、という印象を受けるわけだが、雑談くらい考えずにやれよ、って気にもなる。違う部署の人間とは簡単には打ち解けない、というが、まったく違う仕事をしていて接点が無いのなら、確かにそれを飛び越えて交流するには、一工夫はいるかもしれない。今はほとんどの人はタバコは吸わなくなったし、タバコを吸う人たちならば、部署を越えて顔見知りになったりもするかもしれなかった。まあ、それだけではあるが、何かの拍子にそれが役に立ったという話はよく聞くので、ちょっとした顔見知りくらいの関係は、社内でも必要とされるものではあるだろう。それがアプリであれば、それでもいいのである。
 僕は誰とでも仲良くなれるという自信満々の持ち主では無いのだけれど、自分の仕事関係ならもちろんだけど、仲間の事業所の人でも、それ以外でも、そんなに接点がなくとも、なにか用事ができたならば、ふつうに話をしに行ってとりなすことに、何の問題も感じていない。無差別にすべての人に均等に何かの情報をやり取りする術は知らないが、ある程度必要になった都度、必要ていどの付き合いの構築は、割合素直にすぐにできるだろうとも予想される。なんとなく気まずいとか、相性の悪い場合もあるのかもしれないが、おそらくだが、それでもその周辺の人と相談するだろうし、自分の目的がある程度明確ならば、それに苦労することはあんまりないと思う。
 しかしそれが問題だと考えている経営者が、ものすごく多いことも知っているし、実際働いている少なからぬ人も、そのような連絡の円滑さの無さのようなものに苦しんでもいるのかもしれない。だんだん言いたくなくなってきたが、それでもこれは、何かの方法があるという考え方を変えない限り、やはり上手く行かない問題なのではなかろうか。アプリはきっかけとしてはいいのだけれど、やっぱりずっとやり続けるためには、友人たちとの方がいいのではないか。こういう問題は、そういう問題なのではないか。
 コロナ禍でそれなり破壊されたのでホッとしている人も多いと思うのだが、飲みに行くのなら上司とよりも友達との方が良い訳だし、せっかく壊れたものをこの際元通りにすることなんてないと思う。じゃあどうするか、なのである。ちゃんと仕事しようよ、って話なのかもしれないんだから、まじめに防御するべきである。はっきり言っておくと、上司だって部下と行きたくない人の方が多いと思うけどね。そうしなければならないという強迫観念のようなものがあって、単に自分のことをわかって欲しいだけかもしれない。会社の中で自分のことを少しくらい話していたら、そもそもそんな無駄なんていらないんじゃなかろうか。
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怒りのアマゾン

2023-07-19 | つぶやき

 地元には事実上僕の探す本を売っている本屋は無い。職場のあるまちには、本屋が無いのが当たり前のまま時が流れている。若い人は本は読まないだろうけど、しかしこんなまちに住みたいはずがないとも思う。いらんお世話か……。本屋があるから人が留まるというのも根拠がなさそうだしな。
 ということで、当たり前にアマゾンで本を買う日々である。ほとんどは本を読んでいたりするときの参考文献とか、雑誌で紹介している本を探すことになる。すぐに買う場合もあるが、いちおうウィッシュリストに入れておく場合も結構ある。値段が高すぎる場合が多いのだが、そうしておいて一度図書館で借りるためである。中身を確認して、その値段でも持っておいていいかな、と思うと買う。線を引きたくなる内容だと、ほとんどの場合買う。図書館の本に線を引くわけにはいかないし、ぜんぶコピーする訳にも行かない。写真にとるのもめんどくさい。いや、書いていてそういう手もあったな、と今気づいた。しかしやはりそんなことしても、やっぱり読まないかもしれないな。
 問題は、このウィッシュリスト(お気に入り)がものすごく使いづらく改変されて、腹が立って仕方ないのである。アマゾンの本を検索すると、中古の値段も下の方に表示される仕組みになっている。もっともちゃんとクリックしないと送料がかかるかどうか、また、その送料がいくらなのかまでは分からない。100円と表示されていても送料が1000円であるような詐欺的な店も結構ある。そういう店の商品は、出来れば買いたくはない。そういう心情の人間と付き合いたくないからだ。しかし本は欲しいので、悩ましいところだが。
 そうだった、そのウィッシュリストの本には、以前は中古の価格も表示されていたんである。だから値段が安くなっているかどうかの確認をしやすかった。リストには常時50冊くらいはストックがあるから(あまり多くなると見るのが面倒になるので、ときどき削っている)、サーとみて、確認が可能だった。しかしこれができなくなったので、いちいちクリックして一冊づつ確認しなければならなくなったのだ。ものすごくめんどくさい。さらに一度確認すると、ウィッシュリストに戻るために、どういう訳か戻すボタンを二度クリックしなければ動かなくなったのである。馬鹿にしてるんだろうか? アマゾンにはお世話になっているが、この会社はどういう訳か頭のおかしい仕組みが好きな人が多い会社のようで、大体において仕組みが使いづらいものが多い。そうして更に改変されておかしくなり続けている。ぜひ対抗馬となるネット書店が台頭して、経営を圧迫して欲しいものである。馬鹿につける薬はないのだから。
 しかしながら、本を買うためにはアマゾンに頼らなければ生活が成り立たない。本当に恐ろしい世の中になったものである。僕は一つの会社に支配されてしまったのだ。自由な社会にありながら不自由を強いられている。それは会社に支配されているこのような状況のことなのであった。
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親子喧嘩はよしましょう   和解

2023-07-18 | 読書

和解/志賀直哉著(新潮文庫)

 作家である順吉は、どうも父親と折り合いが悪い。順吉自身がわだかまりを持っていることと、それに対して面白くないと思っているらしい父とが、お互いに何か意地をはり合ったようにして、すれ違いを繰り返し気の合わない不愉快をいつまでも醸し出している。そういう様子に周りの家族は、大いに迷惑し戸惑い苦しむ。しかし男とたちはそんな変なことをしながら、自分らはなんだかその不和に苦しみながらも、そういう関係を振りかざしているように見える。自分たちの権力を振りかざして迷惑をかけている事しか、自分たちには何もできないおこちゃまぶりなのである。
 そういう中生まれてきた子供は死に、そういうかかわりの中にも父の不和の影がもたげている。しかしまた子供ができて、今度は無事に育ちそうだ。
 そうした時間の経過と気持ちのわだかまりを抱えながら、創作も続け、引っ越したり移動したりする。東京と千葉あたりを行ったり来たりするし、東京の中もウロウロする。友人と会ったり父とは合わないが、家を行き来もする。そうして心境は変化をみせるようになり、祖母の見舞いの折にやっと感情的に平穏に面談ができるのではないか、と思えるようになるのである。
 確かに文章が上手いというのは、よく分かる書き方である(何しろ小説の神様と言われた人である)。感情の機微と、起こっている出来事との対比も見事である。そうして昔の人がそうであるのか、何かウジウジといつまでも思い悩み続け、それはそれで仕方ないとか言いながら、あんまり反省はしない。反省はしないがつらさもあって、それはつまり自己を振り向くことであり、子供のような狭量な心持の男ながら、少しづつ心を開くようなことになっていく。そうして和解して泣くのである。
 バカバカしいったらありゃしない話なのだが、これがまたどうにも名作めいた雰囲気を漂わせていて、そうしてこれが古典的な名作なのである。昔の人は、ほんとに子供っぽくて馬鹿だったんだな、とは思うが、大の大人がこれでも、女子供がそうだったとはいえず(彼女たちはそういう男たちを傍観しながら生活している)、なかなかに判断が難しいところである。たぶんこの人と父親がおかしいのであって、よっぽど見識が狭かったのであろう。和解したのは良かったけれど、それは単に自分の好き勝手な趣味の問題であって、もっと苦しんでも良かったのではないか。それくらい変で、馬鹿げた話ながら、時間つぶしにはなかなかに面白いのだから、不思議な作品だといえよう。
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才能が環境を打破する   ミッドナイト・スワン

2023-07-17 | 映画

ミッドナイト・スワン/内田英治監督

 新宿のニューハーフショーパブで働く凪沙だったが、育児放棄されている親戚の子供である一果を預かることになってしまう。おじさんに預けられると思っていた一果の方も、ニューハーフでいやいやの様子の凪沙の態度に大いに戸惑うのだったが、致し方無い。学校でもおとなしく友達も少なかったが、ふとしたきっかけでバレエの才能があることが認められ、ぐんぐん実力を伸ばしていく。しかしながらバレエを続けるにはお金もかかることもあり、怪しいバイトにも手を染めていくのだったが……。
 トランスジェンダーの元男性と、親からの虐待で自己表現が上手く行かない少女との不思議な交流と愛を描いた作品、と言えるかもしれない。境遇は非常に困難の多い不幸なものかもしれないが、一果にはバレエという大きな才能を発揮できる分野が見つかる。間違いなく抜きん出た実力があるのだが、環境の方がそれを許さない。それではどうするのか? ということで、トランスジェンダーの男は、髪を切って定職に就くようになるのだった。
 さらに先には様々なトラブルが待ち受けていて、非業の死を遂げるものもいる。不幸の連鎖は続いていくように見えるが……。
 確かにいろいろと難しいのだが、そのような境遇にならざるを得ない事情が複雑に絡んでいて、個人の力ではなかなか抜け出せないものがあるようだ。しかしこの映画の希望であるバレエの能力があって、そのような境遇でありながら美しい踊りが生まれる、ということが言えるのかもしれない。
 なんとなく偏見めいたものが渦巻く残酷な社会を描いていて、本当にみんながみんな、そんな人たちしかいないのか、という思いにもかられる。実際のところ世の中の偏見が根強いということを表現しているものと思われるが、これでは人間はとても生きていくことができない、ということなんだろうか。もしもバレエの才能が無かったとしたら、などとも考えてしまった。もちろんそういう美しい踊りの才能のある若き女優さんがいたからこそ、成り立つ物語なのかもしれない。
 世間的には俳優の草彅の演技ということなのかもしれないが、実際はあまり上手い訳ではないし、形骸化しすぎのようにも感じたわけで、元アイドルが演じる、あえて汚れ役のような意外性ということを、人々は評価しやすいのかもしれない。そういうものかもしれないが、そういうものではダメなのではないだろうか。
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