カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

著者が十分変な人だが、世界や日本が面白いということも理解できる   異国トウキョー漂流記

2016-08-31 | 読書

異国トウキョー漂流記/高野秀行著

 アフリカのコンゴに謎の怪獣を探しに行く計画を立てたせいで、現地で通じるとされるフランス語を勉強するために、日本で不思議な舞踊をする集団の中のフランス女性を先生として習いに行く。ちなみに彼女は先生としてはまるでやる気は無いが、金はとるので必死で勉強し、さらにその仲間たちとの英語での雑談でいろんなことを学ぶことになる。
 さらにやはりコンゴ国内で広く使われているリンガラ語を習うためにコンゴ人を探す。コンゴ人は見つかったがリンガラ語には文字が無いらしい。仕方ないから、似たような音に対応するアルファベットで文字を作ることから学ぶことになる。
 さらに探検ばかりでせっかくの日本の彼女から愛想を尽かされそうになって、その彼女をつなぎとめるために一緒にスペイン語を習いに行く。この先生は教えることは非常に上手いのだが、肝心の彼女との関係の方は…。
 父親とギリシャに行った帰りに知り合ったペルー人との交流や、中国現地で中国語を習ったことのある先生の息子との交流(日本に仕事で来日したのだ)。コンゴで世話になった上にその人の著書を翻訳したことがあった為に、日本でも連れて歩いた珍道中の話。イラク人の日本語を覚えない半亡命中東人との関係。スーダンからやってきた盲目の野球解説者(もちろん野球を見たことは無い)との野球観戦記。などが記されている。
 日本に来た外国人が英語が上手いのは、外国人同士がコミュニケーションするために日本に来てから英語を勉強する場合が多いという事実に驚いてしまったり(結局日本で初めて英語を覚える人は多いらしい。でも日本語はあんまり覚えない人が多かったりする。ちなみに日本語が話せる人もいるので、日本語が難しいためだと考えがちな日本人には注意が必要だろう(日本語が特に難しい言語であるというのは、日本人だけがもっている幻想である)。単に日本語を覚えるインセンティブより外国人同士コミュニケーションをとるために日本という国での英語の必要性が高いということを言いたいのである)、外国人と一緒に東京を歩いていると、外国人目線でのトウキョーが見えてくる感覚もわかるような気がする。東京に住んでいながら渋谷のことは興味なかったり(というか知らない)、アメリカと敵対する中東人は実はマクドナルドが好きだったりする。外国の僻地や奥地は探検でどんどん行ってしまうのに、日本では三畳の間で暮らす極貧生活を送っていたりする。
 まあなんというか普通に無茶な話が多いが、大いに笑える。こんな日本人がいるんだな。でもまあ、外国人の間でもそれなりに浮くだろうから、国際人というのはなかなか難しいものである。いろんな失敗も素直に書かれているし、しかし普通ならもっと大失敗しそうな危機的な状況を何とかすり抜けていくスリリングさもある。言語のことをいろいろ学べるということでは無いが、しかし言葉を習得する実際がよく分かる。ある意味で大変に実用的な気もするが、しかし同時にそんなことを気にせずに笑い飛ばしてもいいだろう。面白かったが、本当に感心することしきりの凄い本であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長生きして見届けたいもの

2016-08-30 | Science & nature

 人工知能やロボットなどが人間を脅かすという話は、古くて新しい話である。子供の頃にはそのような話はごまんと読んだ。漫画だけでなく映画も多い。SFの定番だし、将来的にはそのようなことが現実化するという予想は実に当然のことのように思えた。
 最初の頃は、それでも先の話だった。海外で、チェスのとコンピュータの勝負で人間が負けたと話題になった時も、囲碁や将棋は複雑で、人間が脅かされるのはまだ時間がかかると言われていた。近年になるともうそんなことは本当に過去の話になり、今やプロであっても普通に負かされるようなことが起こっている。特に頭の良い(特殊なものだが)人たちが、コンピュータに負かされる。それは話題としては確かに面白くはある。もうすでに人間が太刀打ちできない領域も発見されているかもしれない。
 さらに最近は、芸術の世界でも人工知能は活躍の場を広げている。レンブラントのような絵をかくAIもいるし、小説を書くものもある。芥川賞の最終選考に残る程度くらいのものは書けるのではないかとも言われている。もっともそれらは模倣がもとで、また、人間がある程度の手を加えているとも言われる。そもそもそのようなものに価値が無いという話もあり、人間の側の心理の複雑さも思わせられる。
 聞くところによると、コンピュータが描いたとは黙っておいて絵を鑑賞させると、多くの人はその素晴らしさを素直に賞賛するという。ところが一転して、最初からコンピュータが描いたものだと教えたうえで鑑賞させると、皆、まだまだ何かが足りないなどと勝手な理由を言うのだという。要するに芸術のレベルであっても、すでに及第点であるのは間違いなかろう。
 将来的には人間の仕事のほとんどを、人工知能などが代替して行えるようになるだろうとは予測がされている。多くの人間はそのことでお払い箱。要するに失業するという話になるのが定番だ。人間しかできないような技能のない仕事にしか就けない人間に、価値などないということなんだろうか。
 まあ、現実的にはそうなるかもしれないという可能性はある。しかしながら経済活動でいうのであれば、そのような人工知能を持つものと利用するもの、さらに消費する兼ね合いにおいて、やはり人間が仲介している関係があることを考えると、時間の空いた人間が、まだまだやることを自由に考えることになるだろうとは思われる。仕事でなく、上手く遊ぶ人間にこそ価値が出てくるとか、そういうことの方が現実的だろう。まあちょっと様子見は必要だろうけど。
 人間を支配する人工知能というホラーもある。しかしながら人間よりも合理的な判断の出来る人工知能であれば、人間を支配したり虐殺したりする合理性は何だろう。人間の側がそのようなプログラムを悪用する可能性は無いではないが、恐らく人間をそれなりに無視した方が、というよりそもそもの問題として、われわれに関心を抱くような可能性の方が低いのではなかろうか。バラ色かどうかは不明だが、そのことが今より悪いとは限らない方が、確率としてははるかに高そうである。まあ、人間の側がどのように反抗するのかは(勘違いが元だろうけど)見ものだろうけれど。
 最大の関心は、その将来が遠いか近いか。何しろ見届けられないことには答えが分からない。まあ、その為だけに長生きしてもつまらないかもしれないが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

13歳の通過儀礼   魔女の宅急便

2016-08-29 | 映画

魔女の宅急便/清水崇監督

 ジブリのアニメでは無く実写版。監督さんは「呪怨」などのホラー映画でも有名な人。というか同じ名前だったんでまさかと思ったが、まさかだった。まあ、ギャグの映画も撮るらしいので、こういうのも撮ってみたかったのかもしれない。
 父親は普通の人間らしいが、母方の血筋が魔女らしい。箒に乗って空を飛べるほか、歴代魔女によってはいろいろ魔法が使えるという。正式な魔女になるために13歳になると一人で一年間修業の旅に出なければならないシキタリであるらしく、少女は愛猫を伴って見知らぬ街に飛んでいく。魔女の分布にはばらつきがあるようで、見知らぬまちでは、空飛ぶ少女は知られていない。当たり前だがちょっとした騒ぎになるんだが、どういうわけかすぐに馴染んでしまう。そのまちで一人で食べていく(実際にはパン屋に厄介になっているわけだが)ために宅急便の仕事をやるわけである。
 まあ、後はそれなりにお決まりの騒動があって、どういうわけか飛べなくなってしまってどうなるんだろう、という危機に陥ったりする。
 ハリウッドとは違ったゆるい特撮が続くが、緩いのでそれなりにファンタジーっぽくはある。しかしながらオープニングの一連の場面に比べて、中盤からは普通のまちが舞台になって、主人公の恰好などがなんとなく浮いた感じの印象になる。そういうあたりはアニメとは違った中途半端さがあるが、時をかける少女のようなSFとは違うファンタジーということで、そういうゆるさを甘受する精神は必要かもしれない。
 特にどうということのない作品だが、このような成長物語は、いわばファンタジーの定番で、大人が考える成長物語として、望ましい形がそこにあるということは言えるかもしれない。それだけ健全ということかもしれないが、逆にいうと、本当に親元を離れて、厳しい環境に子供を置くような通過儀礼は、成長段階に必要だったと考える人が多いということかもしれない。今さらバンジー・ジャンプをするわけにはいかないけれど、今の若者にとってこの修行が何にあたるのか、考えてみるのもいいかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疲れにはクエン酸

2016-08-28 | 掲示板

 疲れが取れないというか、けだるいというか、そんな日が続くことがある。年齢的に仕方がないとは思うものの、疲れたまま諦めて過ごすのも癪である。結論を言うと休むことが第一であるが、そんな分かり切った結論で納得してしまうのは、未熟な人間としては難しいことである。何しろ寝ても疲れが取れない感じすらする。ちゃんと寝てないだけという現実を無視できるほど、気分というのは傲慢だから、要するに、休憩する以外で、積極的にできることは無いかと考えるわけだ。手っ取り早く言うと、だから薬とかサプリのようなものが売れるということだ。
 そういう話題の中で比較的信用できそうなものに、クエン酸というのがある。考えてみるとこれは結構若いころからなじみがあって、僕は小学校4年生からサッカー少年だったので(しかし中学生は野球と陸上、高校生はハンドボールだったけど)、疲れたらレモンを摂るといい、ということはよく聞かされていた。毎日意識して食べるというようなことはしなかったけど、特に夏場の練習とか、試合の時などは、お母さんたちが砂糖に漬けたレモンの輪切りなどを持ってきてくれていた。高学年になるとませた女の子が、これを作ってくれるようなことがあった。もちろん僕にではないのが残念であるが、もらった友人などから、自慢なのか本当に全部食べるのが億劫だったのか分からないが、分けてもらって食べたものだ。甘くて酸っぱくていいもんだな、という記憶がある。
 クエン酸は疲れに効くというのは、実際に根拠が無いわけではないらしい。体の疲れももちろんだが、何か集中して物事にあたったり、要するに頭を使うような疲れに対して、それなりに効果が期待できるらしい。要するに運動以外のけだるいような疲れでも、気休め程度かもしれないが、悪いとは言えないかもしれない。これだけ摂ればすべて解決みたいな極端な態度を取らなければ、信じてフラシボー効果まで獲得するのは合理的である。
 ということで、さすがにレモンを丸かじりということはしないまでも、酸っぱいものでも食べてみるか、という気分になっている。酸っぱければ何でもいいということでもないが、酸っぱくても口にするくらいの心構えでいいのではないか。それで多少は気分が良ければそれでいい。もっとも疲れてるんだから、早く一日が終わってくれるのが一番いい。結局ある程度集中していると一日が早く終わるような錯覚があって、それであれこれ忙しくて困る、ということの繰り返しなんではあるけれど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マジックの種まで証拠から分かる   汚れた超能力・刑事コロンボ

2016-08-27 | コロンボ

汚れた超能力・刑事コロンボ/レオ・ペン監督

 国防省の超能力者のテストにインチキで受かっているマジシャンの男が、元マジシャン仲間だった(今は超能力者のトリックを暴く仕事をしている)過去の恨みを晴らすためギロチンのトリックで殺害する。自殺か事故に見える男の死だったが、当然コロンボは様々な証拠をもとにトリックを覆していく。そうしてついには超能力に見せかけているトリックさえも、自分自身が会得していくのだった。
 今作が新シリーズの最初の作品ということで、確かに旧シリーズと比べると、目新しさが見られることと、日本版の吹き替えが、小池さんから石田さんに変わったことでも話題になった。しかしまあ、言われないとすぐには気付かないくらいに見事な吹き替えであるとも思う。
 今の感覚からすると超能力は確かにオカルトだから、国が真面目に調べているような時代というのが既にかなり古い感じはするが、実際のところは、そのような現象が本当にあるのかどうかを真面目に取り合っているくらいに純粋なところのある時代だったともいえるだろう。むしろ最初から取り合わないとか、無視するような時代の方が、ある意味で人間的には冷たいのかもしれない。とはいえ、マジックの世界のトリックも、今は格段に進歩しているように見える。ほとんど超能力に見えるがあえて超能力とは言わないところに、本当は世の中にはもっと不思議なことが起こっても良いのではないかという期待さえ感じさせられるほどだ。でもまあ、普通は信じませんけど。
 マジシャン同士の戦いは、負い目のある方が一気に攻められ一方的に殺されてしまう訳だが、相手の心理も読み間違うほどの人々のトリックというのは、やはりコロンボの手にかかってはひとたまりも無く暴かれるということになるんではないか。犯人はいつものようにどんどん追い込まれていくが、なす術も無くユーモアを交えてやられてしまう。今回は結構悪い奴だったので、それなりにカタルシスはある。このような詐欺で生きていくより、刑務所の生活の方が、彼には居心地がいいのではないかと、勝手の想像したことであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すき焼きと父

2016-08-26 | 

 すき焼きがご馳走であることに疑いは無いが、子供頃から好きだったわけではない。すき焼きの肉が旨いのは当然だけれど、そのついでにいろいろと野菜をたくさん食べさせられるという思い出がある。すき焼きのあの味の濃いダシだからご飯と一緒にかき込めばいいということなんだろうけど、もともとしょうゆ味がそんなに好きではない子供だったせいか、素直にそれらを食うというのに抵抗があったのかもしれない。
 なんとなく覚えていることは、すき焼きを関西風にして食おうと言い出したのは父だった。おそらくどこかでそのすき焼きを食って感心し、子供にも食わせようと思ったのであろう。最初に肉を焼いて、砂糖、しょうゆをかける。そのあとに白菜など水分の出る野菜をたくさん入れて、順次煮えてきたら卵につけて食べる。この白菜を入れた後にどんどん野菜の水分が溶け出して、黒い液体が鍋全体に広がるというのが、大変に不思議で楽しい。以前は割り下を入れていたので汁があるのは当たり前だったのに、汁が無いところに汁が生まれる鍋というのが新鮮で面白い。もちろん足りなければ後から肉も足すので、そうなると関東か関西かという区別はあんまり意味が無くなるような気もするが、ともかく、ふだんは料理など(鍋奉行を料理とするかはよく分からない)しない父が、その手順を説明しながら鍋の形にしていくというのが、嬉しいような気もした。あんまり父が家に居た記憶もないし、ましてやあんまり話をすることも無かったように思うのだが、すき焼きをするときの父は饒舌だったような気もする。うちではあんがい肉比率も多かった(今考えるとそれなりに奮発してくれていたのだろう)ので、そのあと野菜ばかり食べさせられてた訳ではないのだけれど、それなりに肉を食った後の子供の胃袋では、野菜をさらに食べるのはつらかったのかもしれない。しかし翌朝の肉は残っていないが、よく出汁のしみた野菜はあんがい美味しくて、これを白いご飯に染み込ませて食べるのは旨いと思っていたので、単に腹いっぱいなのにもっと食えという印象が、そんなにすき焼きが好きでは無かったかのような印象を残しているのだろう。
 ところで大人になると、このすき焼きはめったにしないものだということになっていく。何しろすき焼きにする肉というのは、やはりある程度のランクというか、格の伴ったものでなければ硬くて味が半減するのだ。学生時代は金がそんなにない割に、皆で出し合うのだからといって鍋をやりたがる。目当ては肉だがそんなに量は買えない。何しろ酒も一緒に買わなければ意味が無い。そうして買ってきた恐らく外国産だった肉ですき焼きをすると、子供の頃のすき焼きとはぜんぜん違う印象の鍋になることに初めて気づいた。それでも若いからある程度は美味しく思って食うことは出来たはずだが、さらに勢いで格闘して食うのだから味わっている暇も無く、すき焼きというのはあんがい難しいものだな、と思った。
 ところですき焼きにもいろいろあるらしいという話があって、家庭によると豚肉ですき焼きをするというところがあってびっくりした。それは厳密にすき焼きではないのではないかと疑いをもったが、関東などには普通にそのような地区があるらしい。失礼ながら最初は貧乏な家庭だとばかり思っていたが、恐らく豚の産地だとかそういう理由なのかもしれない。鳥でもすき焼きだと称するような妙なとこともあるらしいが、これは話のついでにそういう人がいただけのことなのかもしれない。いまだに信じがたいが、それではすき焼きとはいったいなんだろうという感じだろうか。
 でもまあ、しょうゆ風味の濃いダシで最後は玉子に絡めて食うものがすき焼きであるという感じはある程度共通かもしれない。本当に贅沢はこの卵を何個割って食べても良いというような家庭であるような気もする。気もするが、さて、本当は肉の方がたぶん高い訳で、これを気にせず買ってきて他人を呼んですき焼きをやろうと言える家庭こそ、本当に裕福といえるのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やはりそこは愛だろう   ぶどうのなみだ

2016-08-25 | 映画

ぶどうのなみだ/三島有紀子監督

 父が死にワイナリーや畑を引き継いだ兄弟のところに、謎の女がやって来て勝手に大きな穴を掘って、近所の人を巻き込んで謎の交流をするという話。一種のファンタジーなんだろう。
 広い土地があるにせよ、その土地で作物を育てて生活していくとことは、想像するだけでも容易であるとは考えにくい。しかし、限られた人たちにとっては、そのような生活は当たり前のものだし、そうしてそこでの生活を豊かに成り立たせるためには、ある程度の物語が消費者に伝わった方がいいとも思う。そういう方法としての映画ということであれば、むしろもっとすっきりした味わいがあったのではないかとは思った。その土地で育った葡萄で、良いワインが育つためには何が必要なのか。良質な考え方を持った人が集まると、そのようなことが可能になるんだろうか。いや、たぶんなるんだろう。僕はある意味でロマンチストなところは好きだから、そうあって欲しいとは思う。映画がそのような感じでないことはだから仕方がないが、でも、たぶんそのような感じは出したかったのではないかとは思う。しかし何かピントが違うところがあって、素直にそれを受け止めることが出来なかっただけなのだろう。ファンタジーであるのはかまわないが、そういうところに目覚めるようなきっかけというか場面というか、そういう感じがうまく分からない感じだった。
 土臭いワインという表現があったのだが、土臭いワインの味そのものは、必ずしも悪くは無い。恐らくまだ洗練されていない途上を表現したものと思われる。それはおそらく人間の側に足りないものがあって、ワインの味がそこに現れているということなのだろう。その足りない何かは、その人の苦労ということなんだろうか。それを旅の女は何故気づくことが出来たのだろうか。映画に期待したのはそういう感じだと素直に思うが、その答えは残念ながらうまく分からなかったということだ。好きな人は楽しんでくれ、というより他に、あまり言葉が見つからなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理解できるかどうかは既に関係が無い

2016-08-24 | net & 社会

 SNSをやっている人の気がしれない、という意見を久しぶりに聞いた。いまだにそういう人がいることは忘れていたが、まあ、いても当然だとは思う。でもまあ本人がやらないだけの話だから話が交錯することも無いと漠然と思っていたのかもしれない。知らないことは無いことと同じである。しかし目の前にそういう人がいるわけで、じゃあやらないだけで済むことに、何か言いたいことがあるのかな、とも思った。
 しかしながら内容としては、何を食ったとか関係が無いし、意味が分からない、という程度だった。日記を晒すようなことも、とてもできそうにないということだった。何を食べたかなんて、意味が無いと言えば意味は無いが、それを見ている人には意味があるのかといえば、意味はちゃんとあるとは思う。それを見いだせるから、意味として伝えたり受けたりする人がいるから成り立つのがSNSだ。それを言い出すと、小説が書かれている意味なんてないし、なんかの研究をしていることだって意味は無い。たとえそれが人々の娯楽であるとか役に立つことであっても、意味を見いだせない人には意味が無いに過ぎない。意味が有る無いというのは基本的にそういう問題である。しかし、その先の言いたいことは分からないではない。そもそも人として意味のない人が発信する意味なんて最初から無いのだということであると、確かにそうだけれど、それを言っちゃおしまいであって、さらにそれを言うことで意味のない烙印を押すことにもなりかねないので、かえって危険な考え方であるように思われないではない。僕は単に平和主義者だからそう思わないというしかないだけのことである。知った人のおしゃべりの内容なんてものはたいして意味なんて無くてもかまわない。そういうコミュニケーションがあるというだけのことである。それがネット上にも、さらに意味の見いだせない他人の目の前にあたかもあるような状況だから抵抗を感じるのかもしれないが、電車の隣の席の人たちの会話が聞こえる程度のこととどれほどの違いがあるのかということもいえるような気がする。いや素性が分かったりするともいうが、そんなにネットを信用していいのだろうか。
 永井荷風は、最初は本当に断腸亭日常を発表する気はさらさらなかったという。もちろん死後に発表されたのだから、本当の気持ちなど分かり得ない。しかし、これは後日人の目にふれることもあるという意識は、断片的に感じられるということは多くの研究者が感じていることだろう。さらにそういう文章だからこそ傑作だとする評価もあるように思う。最初から読ませることを意識しないで書かれたままであれば(そういうところも多数みられるようだ)、決して傑作にはならなかったのではないか。もちろん永井荷風が書いたからという前提があるというのは分かる。他の人は同列ではない。だから他の取るに足らないブログなどのようなものは、そもそも別のものだから関係ないとはいえることは言える。しかしたとえそうであっても、人の目にさらされる文章というものがこれだけ大量にある意味というのは、恐らくまた時代が下った後になって、また誰かが発掘するかもしれない意味を含んでもいるだろう。まあ、ほとんどはあたかも消えてなくなるようなものだけれど。
 特段ロマンチズムでそういうことを考えている訳ではない。同時性に対しては、その時見られなければ終りであるが、ネット上の情報としては、これからいったいどうなっていくのだろう。これだけの意味のない蓄積が溜まっていくことで、もはや人間の扱いとしてはどうしようもないところに来ている感じはするものの、コンピュータにとっては、ひょっとして意味のあることになるかもしれないとも思う。もちろんそのために我々がこのようなSNSに参加している意識は無いが、実際にこれをあえて読める対象になっているのは、他ならぬ人工知能のみだろう。なんだかそういうことは面白いな、と思う訳だが、特段それを確かめるまで生きていたい訳ではない。ひょっとするとひょっとするかもな、という程度で、今はこんな風に書いてしまうだけのことなんだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寡作なのも仕方のない重厚なつくり   茶箱広重

2016-08-23 | 読書

茶箱広重/一ノ関圭著(小学館文庫)

 売れっ子の浮世絵師広重が死んで、弟子の重宜という男が広重のまだ幼い(12というが、数えだろうか)娘と一緒になり二代目を継ぐ。浮世絵というのは複数の人たちで(要するに売れっ子なので分業してたくさん描くのだろう。版画だからいろいろと作業もあるようだ)描くものらしく、その親方のような存在である。二代目はもちろん一番腕のある男だったようだが、筆が遅く、そうしてやはり独自のものを描きたいという欲求もある。そういう中で、元は同じ弟子だった者たちの不満もあるし、そもそもの女将さんも健在という複雑な人間関係の中で、まさに苦悩しながら絵を描き続けるのである。
 著者は絵の上手い漫画家である訳だが、さらに時代がかった作中の絵においても、実に凝りに凝っているのが見ていてわかる。まさにその時代の風景を、あたかも見て描いているかのような迫力がある。
 この作品以外にも短編が別に6篇収められている。時代物でない不思議な味の作品もあって、多様である。しかし共通するものがあるとすると、人間の心の複雑な変化を描写することかもしれない。良く分からない人間の心の内が、漫画で分かるのである。もちろん他にもそのような漫画はあるだろうが、特に一ノ関作品というのは、この表現に長けている。女心の分からない僕が、なんだかそれこそ分かったような気分にさせられる。なるほど、このように相手のことを考え、悩んで心を変えるような人々がいるのだろう。そういうことに気が回る人が、さらに繊細で迫力のある見事な絵をかく。その労力を考えるだけで、気の遠くなるような思いがする。
 収められている作品で、一番新しいものでも88年の5月発表だという。あらためてそんなに前なのかと思う。もともと時代背景が古いし、どちらかというと墨汁の量の多い絵柄の所為なのか、古いのか新しいのか分かりにくい。しかし近年復活して漫画賞を取ったことで話題になり、新作の絵柄を少しだけ見たが、少しすっきりした線になっているようである。もちろんそれも手にすることだろうけど、それにしても今度の復活後は、継続して活動を続けて欲しいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事実だけど自慢

2016-08-22 | 境界線

 事実だけど自慢に聞こえるというのがある。学歴などがその代表だが、東大卒が東大卒だというと、事実だから仕方がないが、これを親が言うとどうか。事実には違いないが、本人の実力とは違う。協力者として親もえらい、または遺伝的に偉いというばあいもあるだろうか。まあ、それはあるが、やはり語り方かもしれない。僕は地方に住んでいるので、そのような人は数えるくらいしか知らないし、そんなにお目にかかれないが、東大はともかく、長大でも九大でもいいが、時々は耳にする。まあ、自慢してもいいことかもしれないので、とりあえず「ほほう」くらいは言ってもいいかもしれない。
 学歴の場合その逆があるが、これを絶対言わない人というのもいて、かえって不気味という感じはする。まあ、どこ出身なんて話題になるのはそんなにないはずなのに、やはり時折耳にするのは、子供の世代がそのようなことに引っかかる時期でもあるせいだろう。
 映画のマルサの女だったと思うが、部下にキャリア官僚が付くことになって、その男がほんの数秒の会話ですぐに出身大学(とうぜん東大)を言うような展開になることを揶揄する場面があった。実際に仕事が出来るかどうかは別として、将来的には早く出世することはたぶん間違いなかろう。もともと出自くらいは知っているはずだが、やはり聞かされてしまう。そういう職場や人生というのはあるようで、まあ、嫌なものかもしれない。
 漱石の時代の学校では、そもそも学校が限られているので、特に出身を言わなくても、東大であるというのは分かるということが、やはり誰かの解説で書いてあるのを読んだことがある。当時の学生という身分が既に大変なエリートで、且つまわりにも本人にもその意識があったろうから、階級としての意味があったのかもしれない。でも漱石はノイローゼ気味になったりもしたようだから、個人的にはつらいこともあるんだろうとは思う。分かり得ないが、分からないではない。
 学歴でなくても、仕事上の地位というのもある。これも仕方のないことだが、同級生や昔の知り合いなどから、揶揄されることはある。そんなことはどうでもいいじゃないかと思うが、自分だけシラケても、逆に鼻に着くようなことになっても面白くない。嵐が去るのを待つという感じだろうか。しかし役職というのはやはり仕事にはある程度必要で、要するに話が早いというのはある。早めにどんな人か知っているととりあえず落ち着くというのはあるかもしれない。飲み屋では社長が先生になったり先生が社長だったりもするが、まあ、とりあえずそういうことで、というポジション確保が無いと話が進まないのかもしれない。
 これは学歴が高くなくて地位が高いといい、というのもある。いわゆる田中角栄である。学歴も地位も高いと、なんとなくシラケる。なんだこいつ困った奴だな、という感じか。病院の先生のような専門職ならともかく、学歴は高いけどあんまりえらくない奴は、なんとなく好かれるような気がする。まあ、ひねてなければさらにいいが、ひねてても可愛い気がする。まあ、とりあえず飲め、などと皆が陽気になる。学歴の高い人は、何かと大変である(もちろん低い人も)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろ離れてみているみたい  ヤンヤン夏の思い出

2016-08-21 | 映画

ヤンヤン夏の思い出/エドワード・ヤン監督

 題名からはのどかな映画のような印象をもたれるだろうが、もっとも激しい映画ではないのだが、何かそのようなひと夏の出来事といったお話ではない。ヤンヤンという男の子は出てくるが、その子の話も物語の一部である。いくつものお話が重層的に語られる群像劇のようでもあり、しかしこの家族だけの問題を取り上げたものでもない。一応話の流れとしてそれぞれのお話は独立しているようであり、絡んでいるようでもある。だからといって、何かお話の解決めいたものがあるのかというと、それもなんだか怪しい。カメラワークもなんだかずいぶん離れた感じの場面が多くて、それぞれの感情すらよく分からないこともある。そのような冷めた視点でお話を見せられるものの、何かちょっと不思議な感慨を覚えるのも確かである。平たく言うと、どうも感動しているらしい自分がいる。いい映画を観ているなという実感が、観ている間持続するのである。まあ、ちょっと長いのだけれど…。
 日本人の役でイッセー尾形が出てくるのだが、彼の演技というのは一般的に大仰なものが多いが、しかしこれが抑制が効いてなかなかいい感じに見える。彼の話す英語も、何か本当に彼の体に馴染んでいるような感じに見える。他の台湾の俳優たちにしても、その一人として知っている人はいないが、何かとてもその演技の人と馴染んでいる感じがする。劇映画だから演技だが、何かドキュメンタリーを見ているような、本当に様な感じということなんだろうか。皆、どこかぎこちないところがあったりして、そうして多くを語らず、さらになんだか臆病にも見える。夢のような話もあるし、ちょっとした大きな事件もある。人も死ぬし、涙もある。淡々としてそういう場面が続いて、映画も静かに終わる。観終わると、まあ、ヤンヤンはいい少年だったな、とも思う訳だ。ちょっと変ではあるけれど…。
 ということで要領は得ないが、はっきりと名作である。実はずいぶん前に一度見たことがあって、その時は僕の好きな映画としてこれの名前を友人などに話したことがある。何人かはそれでこの映画を観てくれたらしく、まあ、いい映画だったね、と言ってくれた。でもまあ、僕がこの映画を好きだなんて、意外に思う人もいたようだけど。どうして意外なのかは僕には分かり得ないが、もっとからっとした楽しい映画でも好きなんだろうとでも思っていたのかもしれない。もちろん、からっとした楽しい映画だって好きなんだから、それは誤解でもなんでもない。そうしてこういういい映画は、みんな一度は観てみたらいいだけのことである。面白くないと思う人も当然いるだろうけど、こういう作品こそ、映画の醍醐味という気もするのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦時報道の具体的代理例

2016-08-20 | 時事

 もともと夏の高校野球(当時は全国中等学校優勝野球大会。のちに全国高等学校野球大会と改称)は、大阪朝日新聞社が夏休みの記事枯渇に対応して記事を量産するために企画したものである。これが当たって、後から今度は大阪毎日新聞が選抜大会を春に企画した(1924年)。春がそのころ出来たばかりの甲子園大運動場(のちに甲子園球場)で開催したために、夏の大会も10回大会から甲子園に場所を移した。
 特に夏の大会はお盆の時期と重なることと、戦後の鎮魂の意味を見出すものであるとも考えてられている。いまだに球児は丸坊主で、今年も話題になったが、基本的に女人禁制であるのは、そのような思想が背景にあると思われる。そもそも大正時代の野球は戦争の戦意高揚のアナロジーであったことは明確だとされる。そのために野球用語は軍事用語の転用が多く、塁というのは基地・拠点さす軍事用語そのものである。牽制球で「刺殺」であるとか、ダブルプレーは「併殺」などともいう。「二死満塁」「本塁へ生還」というのも戦場の戦いそのものを表現している。戦場の中継を高校野球を通して報道するというスタイルは、基本的にいまだに受け継がれていると言えるだろう。
 以前村上春樹のエッセイで、高校野球の記事の無い新聞だったら購読してもいい(新聞報道で高校野球はうるさいという意味だろう)というのを読んだ記憶があるが、要するにそういう気分をいくらか嗅ぎ取っていたのかもしれないことと、やはり新聞の過熱する報道ぶりに辟易する気分を斜めに表現したものだろう。
 ところで今年のようにオリンピックなどと時期が重なることになると、例年の紙面にもまして、スポーツ欄は非常に華やかなことになっている。オリンピックも国家間の代理戦争的な意味合いが強い大会である。戦時中の新聞の雰囲気を現代によみがえらせることは既に難しいと思われているが、しかし基本的にこのようなスポーツの報道ぶりは、戦時中の空気と似たようなものがあるとも考えられている。特にオリンピックでメダルをたくさん取るような国は、何かときな臭い国が上位の常連である。まあ、少なくてもメダリストが英雄であるというのは、そのような理由があるということだろう。
 実際に人が死ぬわけではないから、これを平和の祭典というようなことをあえて言う人もあるが、平和というのは戦争と戦争の間の限られた時間の事を指す、という皮肉もある。人間の戦い好きの原点は、だからこのようなものに現れていると考えた方が自然であろう。まあ、面白いからいいですけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの世で出会っては困る人

2016-08-20 | HORROR

 三国志の武将で、曹操に敗れた後に病死し、惜しくも天下を取りそこなった袁紹という人物がいる。袁紹没後、袁紹の後継者がはっきりせず、三人の子らは分裂し、そこに付け込まれて袁氏(要するに一族)も滅亡したらしい。
 袁紹没後すぐに末っ子の母親(つまり後妻)の劉氏は、袁紹の寵妾5人をことごとく殺した。要するにやきもち焼きだったということらしい。死人があの世でまた袁紹と一緒になっては困ると思って、妾たちぜんぶ丸坊主にした後に顔に入れ墨をし、出会っても分からないようにしたという。息子の尚は、妾たちの家族もぜんぶ殺した。
 あっさりしているが、そこに凄まじさも感じる。それで気持ちが晴れたのだろうか。
 昔の権力者というのは、実に容赦なくたくさんの人を殺したようだ。もちろんあんまり殺さなかった人もいるけど、権力を持ち続けるためには、他の強い勢力をつぶすというのが常道ということだろう。殺されるより殺す側でいられることに越したことは無い。それが生きる道なのだから仕方がないと言えば仕方ないことかもしれない。しかしながらある程度歴史が流れて、やっぱりいつまでも殺してばかりではらちがあかないな、と多くの人が思ったに違いない。いまだに権力者の座が変わると前の人を蹴散らすような国はあるにはあるが、とりあえず殺さなくなった国に住めることはラッキーなことなのだな、というくらいは認識しておいてもいいのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

軽快で楽しく教訓的だ   ルビー・スパークス

2016-08-19 | 映画

ルビー・スパークス/ヴァレリー・ファリス、ジョナサン・デイトン監督

 十代で書いた処女作で天才といわれる若き作家は、極度のスランプと神経症で精神科医にかかっている。そこで精神科医に向けて何か書いてみろと言われて、夢に出てくる女の子のことを天啓を受けたような気分で書いていく。どんどん書けて気分も良くなるが、ある日その小説の中の娘が、本当に現実社会にあらわれて一緒に暮らし始める。最初は幻覚かと思って自分自身を疑うが、間違いなく自分が創造した娘らしく、素直に恋に落ちながら楽しく過ごしていくのだが…。
 ちょっとあり得ないファンタジーというか、日本の漫画のようなSF的な世界なのだが、夢の中で出てきた女の子ながら、都合が悪くなると自分自身が書いた通りにしか行動が出来ない。自分のことを愛してくれているらしいことは素晴らしいのだが、何しろ友人の少ないインドアの青年で、すぐに自分の世界に閉じこもることになる。そうするともともと自由奔放な性格の女の子なので、段々と自分から離れていくような行動をとってしまう。そうなるとやはり寂しくなり、いつの間にか自分の都合で縛るような文章を書いてつなぎとめていくことになる。女の子はだんだんと病的な行動が多くなり(そのような指令に従わざるを得ないためのようだ)ついには青年の方も自分の力を使い暴走をしてしまうのである。
 男の身勝手から生まれた女性が、それでも自分自身の都合ばかりでは生きていけないというのが、当たり前だけれど面白く考えさせられる。青年は身勝手だが、相手のことを思わないではない。もともとぞっこんに好きでありながら、相手の思うように気遣うことが上手くできないのだ。しかし実態は自分の創造した人物であることも知っている。ついつい自分の身勝手さが勝ってしまって、要するに独占するような文章を書いてしまわざるを得ない。一時期だけ有効にそれは働くわけだが、それでも段々と齟齬をきたしていき、エスカレートせざるを得なくなるということか。図らずもそれは普通のカップルが経験することと変わりは無く、まさに貴重な経験を積んでいくということになるんだろうか。
 ちなみに脚本を書いているのは、主演もしているゾーイ・カザン。あのエリア・カザン監督の孫らしい。主演の男性はこのゾーイの私生活でも彼氏らしい。とんでもない話ながら、非常に面白い。男性の欲望を女性が脚本化しているということにも考えさせられるものがあるのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道中ってホントにやりたいものなんだろうか   花宵道中

2016-08-18 | 読書

花宵道中/宮木あや子著(新潮文庫)

 江戸の吉原遊郭の中の物語。遊女の視点から恋愛を描くオムニバスのような形になっているが、山田屋という店の中の人をそれぞれ取り上げていることもあり、お話は重層的につながってもいる。さらに男女間のつながりにも歴史的だったり運命を思わせるような謎解きがあったり、いろいろ仕掛けがある。ミステリ中心ではないけれど、そのような読み方をしても楽しめる。著者のデビュー作らしいが、素人くささは微塵も無い。遊女の話なので性描写も多いし、官能的な物語も無いではないが、読み物として面白い上に、下手な文学作品より重厚な感慨も味わえるのではあるまいか。江戸遊郭ものには何の興味も無かったが、このような題材で興味本位な読者だけでなく、万人向けに料理した腕前はさすがという感じがした。
 遊郭というのは恐怖の閉鎖空間ということと、その時代の残酷物語の代表的なところだと思うが、しかし体を売るという行為をしかたなくしているにしても、まだ外の世界よりもましだという話もある。やはり人間は貧しさの中の残酷さというのが凄まじい訳で、軟禁状態で本当に自由な恋愛が許されていないとはいえ、飢えることのない世界で耐え忍ぶ方が、いくらかも救われるという人もいたのかもしれない。しかし、やはり飼われているような状態であるにしろそれは生身の人間で、時には重い罪と知りながら火を放つものもいるし、命を懸けて逃げ出す者もいる。もっとも遊郭でなくとも当時の民衆には階級があるのだから、人々はそれなりに不自由なことが実は人間としては当然だった訳で、現代的な苦悩ということとは必ずしも同じでは無かった可能性はある。文中にもあるが、煩悩としては遊女の方が少なく(望んでも無駄だし、そもそも外に出たいとか普通に暮らしたいとかシンプルなものにならざるを得ないという意味だろう)、その望むものさえわずかな希望としてもはかないものだったのかもしれない。
 そういうわけで、現代人にはきわめて分かりにくい心情だったであろう遊郭の女たちの心のありようであるわけだが、現代の小説なのだから、乱暴にいうと現代人が読んで面白くなければ娯楽たりえない。しかし資料として読むものとは別の意味でリアルが無ければ、やはりシラケるようなところもある。そういうバランスが難しいのが歴史小説というもので、実際には学者でないのでよく分からないのだけれど、最小限気にならない程度に良く調べられて書かれているのではなかろうか。こういう小説にチャレンジしたい小説家の心情というのは、だからその舞台を書ける程度の自信が持てるくらいの物事を調べる力もいることだろう。構成が面白いだけでなく、そのような才覚のよく表れた作品なのではなかろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする