カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

神戸ポートアイランド

2017-07-31 | 散歩
 今回の出張は神戸。空港から近いところですぐに着いた。





 ポートピアホテル。中も立派。






 時間があったんで泊のホテルに荷物を置きに行く。もう滝のような汗。神戸は暑うおますな。



 研修会場はこんな感じ。ピンボケだけど、この後ぎゅうぎゅうの人となった。



 昼飯は牛丼。どうも和牛だったようだけど、神戸牛だったのだろうか? 旨かったけど少なかった。でも油が多かったのか、後でどっかり来る感じはありました。





 研修の一日目終了してホテルに帰る。懇親会もあるんでちょっとの休憩。



 窓から見える風景。




 部屋は不必要に広かった。







 宴会終えて、会場ホテルを見上げる。なかなか立派です。



 二次会焼き鳥屋。いろんな人とごちゃまぜで飲んで、しかし11時閉店というので、コンビニ寄ってまた部屋のみした。箸が入ってなくて残念だった。




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以前は冷戦というのがあったのだよ   ブリッジ・オブ・スパイ

2017-07-30 | 映画

ブリッジ・オブ・スパイ/スティーブン・スピルバーグ監督

 冷戦時代、アメリカ在住のソ連スパイが捕まり裁判になる。米国民が嫌悪するスパイの弁護をすることになる弁護士は、非国民扱いされるだけでなく、家に銃弾が撃ち込まれるなど、危険な状態になってしまう。陪審員での裁判では勝ち目がないが、裁判官を何とか裏で言いくるめて、死刑から懲役30年を勝ち取る。その後ソ連を偵察中に迎撃されて捕虜になった米兵を救出するために、このスパイとの人質交換の交渉をベルリンの壁が築かれて間もない東ドイツで行うことになる。ちょうどこの東ドイツに囚われてしまった米国人学生も一緒に救出したいと考えるようになり、弁護士の男は難しい交渉を一人で行うことになるのだが…。
 淡々と逆境の中にほぼ一人で立ち向かう男の姿を描き、法とそれなりの屁理屈で一部の人々を言い負かしていく様が展開される。絶望的ともいえる中で、よりどころとしている法に則った考え方で説得してしまえる社会がなかなか面白い。確かに一理あるが、何しろそれらはひとの命にかかっている。政治的な思惑がその都合と上手く合致すると、大きく人を動かすことになる。最終的に愛国心の強いソ連人スパイは、どうなったか分からない。実話をもとにしているというから、今の時代ならひょっとすると分かるのかもしれないが。
 重厚で恐ろしい話だが、国同士がケンカしていると、いろいろとひどく迷惑をこうむる個人がいる。結果的に米国人が助けられる話だから成り立っているのだろうけれど、米国の社会が正しいという話ではない。そういうさじ加減や視点というのが見事で、スピルバーグ監督の正義感というのが、よく表された作品になっているのではなかろうか。よく考えてみるとこの時代の再現も素晴らしく、必要以上に金がかかっているのかもしれない。東ドイツの人やソ連の人たちがこの映画を今見たら、どんな感想を抱くのだろうか。
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都会の蜂は健康的

2017-07-29 | 雑記

 パリのビルの屋上で養蜂をやっているというのを見た。ビルの上の再活用というのだろうか。理由はいろいろあって、しかし養蜂は特に都合がいいのだとか。
 ビルが建っている場所は都市部だから、なんだか勝手に意外な気がするのかもしれないが、蜂にとっては、特にいい場所だという。都市部にはあんがい花がたくさんあるのかもしれない。それもそうだが、蜂自体の健康状態がいいのだという。田舎の蜂より体調がいいというのはどういうことか。まず、環境がいいというのがあるらしい。外敵が少ないのがいいという。他の競合相手が少なく、独占度が高いというのもいいらしい。もともと棲んでいる自然環境で無いところから連れてこられたにもかかわらず、蜂にとっては理想郷になっているということだろうか。
 すぐに人間のことも考えてしまうが、都市部の人間と田舎の人間の健康比較はどうなのか。あんがい都市部に住む方が、健康度は高いかもしれない。僕の場合は出張で行くが、車をあんまり使わないのでよく歩くようになる。そういうところは健康的には思える。
 しかしながら、蜂には競合相手や天敵問題が一番の要因とあるが、人間の場合は人間の都合で都市をつくる。都市部は、ある種の行う仕事の効率化でそうなっている。しかしながら、いくら社会性の高い生物である人間だからといって、あんまり集まりすぎている場合はどうなのか。ストレスの問題もあるし、効率重視は、やはり健康的に思えない。人間には、もっと適度のようなところを考える必要があるんじゃなかろうか。経済活動をやらなければならないというのはあるが、インフラを集中させて効率化というのは、その中の人にとっては、少し無理を強いられる気もする。
 蜂にとっては、大自然の方が環境的に厳しいということだろう。人間にとっても、その大自然で生きることは困難そうだ。だから都市部は、人間の住みやすい環境を作っているともいえる。棲み分けて、あまり人間が近寄らないから、自然は残っているのかもしれない。そうしてむしろ人間が住めない極地でしか、本当の野生が残っているとはいえなくなっているかもしれない。
 人間を都市に押し込めることで、他の生き物がハッピーになるかもしれない。都市化は人間の効率化だが、そこから出られない人を自ら作ることも、大きな視点でみると、棲み分けでお互いの為になっているかもしれない。
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ウサギにも自由な職業を!   ズートピア

2017-07-28 | 映画

ズートピア/バイロン・ハワード リッチ・ムーア監督

 ディズニー・アニメ。草食動物と肉食動物が共に暮らす世界。そんな中初めてのウサギの警察官が誕生する。最初は駐車違反の取り締まりしかやらせてもらえないが、連続行方不明事件が発生し、2日で解決しなければクビになるという奇妙な条件で捜査に挑むのだが…。
 アニメでそういう設定なんで仕方がないが、要するに動物の元の素性があって、体力などに力の差があるわけだ。そこで自ずと職業が限定されるらしい。これは人間社会のメタファーでもあるが、しかしよく考えてみると、肉食系は結局何の肉を食っているか不明だし、少し偏見が強いような気もする。ウサギと一緒にいるキツネも重要な役柄だが、これなんかは野生の特性というより、西洋社会の偏見による動物への決めつけでしかない。だから了解が早いというのは分からないではないのだけれど、僕には少し底が浅いようにも思われた。
 しかしながらそうはいっても、物語自体はそれなりに練られてはいる。肉食動物は暴力の象徴だが、その凶暴性のために、大衆である草食動物の不審もかってしまう。しかしこれは実は陰謀であって、大衆を操作する指導者が仕組んだ罠でもあった。筋書はやはり人間社会のメタファーに見事にハマってはいる訳で、これに感心する人もいるに違いない。子供向けというだけにとどまらない作品に仕上がっているという訳だ。
 日本のキャラクターとは微妙に違うデザインを楽しむ、というのはあるかもしれない。日本のアニメは、もともとディズニーなどの絵を手塚治虫らが真似をしてこしらえてきた歴史があるのだが、段々とその姿を変えていって、今では全く違う世界を形成しているように見える。だから日本のアニメの初期は、むしろディズニー作品などになんとなく似ている訳だが、結局原点から発展した形となると、やはりそれは米国に生き残っているのではないかとも感じた。それは文化的な土台の違いだろうけれど、改めてこのような絵をみていると、本当に違うものだな、と思う訳だ。考えてみると、物語の在り方も、ずいぶん以前から繰り返し語られるアメリカン・サクセスの原点に忠実である。自由の枠のようなものが、ひょっとすると彼らを制約するものとして存在するのかもしれない。
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メスキートの薪とステーキ

2017-07-27 | 

 テレビでアメリカのステーキを食っているのを見た。たぶんテキサスなんだろうけど、車で何時間もかかる辺鄙な場所にもかかわらず、多くの客でにぎわっていた。旨いものの集客は凄まじい。
 肉自体はアンガス牛といわれるもので、特に特別では無いらしい。しかし肉に独特な匂いがついた絶品牛のバーベキューステーキが売りらしい。
 調理には種も仕掛けも無くて、特に重要なのはメスキートと言われる薪を使っているとのこと。メスキートは豆の木らしいが、乾燥した土地に育ち、6メートルほどになるという。この木を薪にするのだが、何年も乾燥させたものを使うことが大切という。火加減は肉にキスする程度。焼け具合を直接手で触って確かめて、デリケートに焼いていくようだ。炭と違って薪だから、火加減が難しいのかもしれない。
 ググってみると、キャンプ用の薪として普通に輸入物が手に入るようだ。キャンプの薪として人気があるようだ。特に調理用ということでは無くて、キャンプファイヤーとして人気があるのかもしれない。やっぱり調理には、炭の方が火力が安定している。アメリカのステーキ屋の薪は、やはり乾燥のさせ方に特徴があったのだろう。
 しかしながら僕は、あんまりレアというのが得意でない。あちらの肉にはうま味が多いというが、赤みが多く分厚いステーキは、やっぱり歯が丈夫でなければいけないような気もする。日本の肉牛が何もかも最高とまでは思わないが、やはりその値段の違いくらいは、旨さに差があるようにも思う。確かに脂が多すぎるので、ドッカリ来てたくさん食べられる訳では無いが。
 しかしまあ、年に一度くらいは、奮発してステーキを食いたいとは思うようだ。そして希望としては少しくらいガッツリ食いたい。そのためにアメリカまで行きたいとまでは思わないけど、メスキートの薪は、なんとなく気になったのだった。
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田舎の恐ろしさに女一人で戦う   いしゃ先生

2017-07-26 | 映画

いしゃ先生/永江二朗監督

 昭和初期、山形の山村の村長をしている父から頼まれて、村の医者を務めることになる。まだ医者になったばかりの26歳である上に、女性に偏見の強い時代であることで、村人にはなかなか溶け込むことができない。東京には付き合っている青年がいる様子。とりあえず3年だけはと、ひとり奮闘するのだったが…。
 とにかく本人に自信が無いのに、役目が非常に重いというのがある。それなのに、医療に対する不信感が村人にはあり、医療は金がかかるということと、祈祷師の方がまだ信頼があるような考え方の中で、安心して医療に掛かれるように説得することから始めなければならない。明らかに入院させるべき人が、自宅で苦しみながら死んでいく。それでも人々は、医者に体を見せることに頑なに抵抗する。お金はいらないと言って、ひたすら家に出向いて診察を試みるが、思うように処置をすることすらできない。やっと病院へ運ぶ手立てが整っても、吹雪の中、搬送中に患者が死んでしまう。
 そのようなまどろっこしい状況を何度も経験する中で、村医としての自覚が徐々に芽生えていく様子が丹念に描かれていく。おそらく実話か何かが元になっているようで、伝説的な女医の生涯を描いたものなのかもしれない。
 子供の頃には、田舎の様々な偏見を描いたドラマというのはよく見たものだが、現代になると、そのような演出のものはずいぶん減ったように感じる。僕が観なくなっただけのことかもしれないが、こういう偏見と闘う姿を描いたものは、実に久しぶりに観た気がする。しかしその描き方に一定の距離感があって、そのような馬鹿げた考え方に対して、一定の理解を持ちながら苦しむ個人の姿を描くということに、専念した演出になっている。要するに現代人の忘れた視線を監督がよく理解しており、映画としてたいへんに見どころの多い作品になっているのではなかろうか。やや地味ではあるが、大人の鑑賞に堪えうる佳作と思う。それでもあんまり観る人はたくさんいるとは思えないが、だからこそあえて観るような奇特な人のための作品かもしれない。
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人付き合いの下手な人から付き合い方を学ぶ

2017-07-25 | culture

 ぱらぱらと本を読んでいたら、「浪費家は金銭を与えたがり、能無しは助言を与えたがる」と書いてあった。なんとなく上手いことをいっているという雰囲気はあるが、どうなのか。要するに為にならない助言はいらないというのはよく分かる。しかし金持ちがため込んで使わないより、ちゃんと浪費してくれた方がいい。金が無いのに配るという人は、本人や肉親は困るだろうが。しかしながら周りにいる人が、それで助かる場合もあるのではないか、という気もする。いや、そんなに義理も無くたくさんもらう必要が無い、というのは分かる。しかし、何か困っているような時にそんな浪費家がいてくれたら、それは良いことでは無いか。いや、単にくれるだけなんてことを本当に信じてはならない、ということなら、理解できるが。
 この本は、他にもなかなか妙なことを書いている。例えば「信条を曲げない」という項目がある。内容は「熟慮の末にもう人に本を貸すのはやめようとか、ワインはこれだけの量しか飲まないと決めたなら、たとえ実の父親に説得されても、最初に決断するに至った動機が有効であるうちは撤回してはいけません(抜粋)」とある。そういうのはそもそも信条の問題なのか、という疑問があるのと、人間的に妙に狭量だ。
 また「決まり文句は控える」という項目では、光陰矢のごとしということわざは間違いであり、光が基準より早くなるのは不可能と説き、そのように感じられる人は、いつもより睡眠時間が長かったか、ぼんやりしていたからでしょう。という。そして、決まり文句を聞くとうんざりするし、無意味で白々しく感じる、のだそうだ。重傷で床についている人に「お元気そうで安心しました」と言い、どんな子供にも「年のわりに大きいね。それにお父さん(お母さん)にそっくりだ」などと声を掛けるような人を非難している。いったいこの作者の身に何が起こったというのだろう。
 これはアドルフ・F・クニッゲという人が書いた「人間交際術(イースト・プレス)」という本で、ヨーロッパで100年も読み継がれた処世訓のようなものだそうだ。当時の人々には役に立ったものかもしれないが、現代では驚くほど当てはまらないことが書いてある。そうであるから、このように的の外し方が暴投過ぎて笑える、というのはある。ほとんどの日本人には馬の耳に念仏のようなお題目だけど、これも日本人に翻訳されて読まれることがあるのだろう。需要としてこんなことに感心する人がいるなんて、僕にとってはとても不思議だ。世の中というのは、やっぱりシュールである。
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顎が似ているのは親子の所為だ   ペーパームーン

2017-07-24 | 映画

ペーパームーン/ピーター・ボグダノヴィッチ監督

 ライアン、テイタムのオニール親子の共演した伝説的な名作ロードムービー。当時9歳のテイタムが煙草をスパスパやる場面だけでも、時代性があって非常に貴重だと思う。今観てもその滑稽さと味わいがにじみ出ていて、輝きは失せていない。
 知り合いの葬儀(おそらく性的関係のあった女性)に出ると、身寄りを失ったその娘を親戚の家まで車で送るように頼まれる。本人は詐欺まがいで聖書を売りつけるセールスマン。妙な組み合わせの珍道中にあって、怪しい男にだんだんと父親めいた感情が芽生えていく物語。子供側としても、恐らく母と性的関係にあったこの男のことが、父親だったらいいのに、と思い描くようになる。それはロマンチックな感情では無く、どうも信用できないチンケなおじさんながら、どこか憎めないところがあって、自分と顎のところが似ているハンサムな男だからだろう(だから母親もこの男と寝たのかもしれない)。段々と詐欺の息も合っていき、ある意味で順調に旅を続けていくようになる。そんな矢先、少し大きな取引に目がくらんで、危ないヤマを踏んでしまうのだった。
 テイタム・オニールと言えば、後にテニスプレイヤーのジョン・マッケンローと結婚し、3人の子をもうけた。さらになんとなく広末涼子が似ているとされ、男好きのする顔付の第一人者という感じかもしれない。僕は子供の頃から彼女の顔を見ているので、アメリカ人の活発な少女の典型的な顔だという認識があったように感じる。父のライアンも名作映画に多く出演した二枚目俳優で、せつない顔付をすると絶大な魅力がある。撮影時には既に両親は離婚していながら二人は親子出演をし、大成功を収めた。確かに今見ても、そういうゴシップも効いていながら、内容的にも非常に光るものがある素晴らしい作品である。
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ケナインとはどんな生き物?

2017-07-23 | ことば

 警察犬のことをK-9ということはなんとなく知っていた。まあ、暗号みたいなものかも、と思っていたし、確か映画にもなっていた。麻薬捜査など特殊任務のこととも関係あるんだろう、くらいにしか思ってなかった。しかしながら英語ではdog以外にも犬のことをcanine(ケナイン)というらしい。音で略してK9という訳らしい。だから警察犬に限らずK9でいいということなんだね。まあ、日本語に犬という言葉があるんだから、わざわざそういう必要も無いけど。
 しかしながら犬のことはワンちゃんと言ったりワンコと言ったりする。ペットとして飼っている人がほとんどだろうから、可愛い方がいいのかもしれない。いまだに猟のために飼っている人なんてほとんどいないだろうし。橇の為なんて人もほとんどいないだろうし。
 以前巨人軍の仲畑選手が、王監督のことを陰ではワンちゃんと言っているという話があった。親が台湾の人だから王はワンで愛着を込めて言っていると本人は弁明したらしいが、まあ、ばれたものは苦しいですね。でもまあそんな古い話どうでもいいですか。
 しかしながら犬といっても徳川五代将軍の時は「お犬様」だったこともあるし、中国皇帝しか飼うことが許されなかった犬なんてのもあったようだ。もっとも罰せられても飼う人はいたようで、あんがい取り決めは大らかだったのかもしれないが。
 人間の場合でもイヌといわれる場合があって、警察のイヌと言えば警察と通じているような卑怯な感じがあるかもしれない。他にもスパイのように情報を嗅ぎまわる場合もイヌ呼ばわりされたりするようだ。ことわざの「犬も歩けば棒にあたる」だって、犬のようにかぎまわっていると(余分なことに首を突っ込むと)、棒でたたかれるような酷い目にあうぞ、という戒めである。
 犬が吠えるのを「ワンワン」というが、英語ではBowwow(バウワウ)というのを習った。でもよく考えてみると、大きめの犬はそんな音で吠えているようにも思う。ご近所の保育所の園児が散歩しているが、犬がいると、先生が「わんわん」と教えている。子供が素直に犬のことを何というのか、なんとなく知りたい気がする。一度ワンワンと憶えて、もう少し成長するとイヌと言ったりケンと言ったりすることを再度習う訳で、人間の子供も大変だな、と考えたりします。
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面白くないが評価の高い下品作品   M☆A☆S☆Hマッシュ

2017-07-22 | 映画

M☆A☆S☆Hマッシュ/ロバート・アルトマン監督

 あまりの出来の悪さに脱力してほとんどまともには観なかった。まあ、その程度の映画だけど、これだけくだらないと、何か意味がありそうに見えなくもない作品。実際カンヌでパルムドールも受賞した。まったく(当時の)外国人には、映画を観る目が無いということだろう。
 マッシュというのは野戦病院の意味だという。朝鮮戦争のさなかの前線側にあるテントの病院で、外科医たちが延々と悪ふざけを講じる姿を描いている。怪我をした兵隊がどんどん運ばれてきて血だらけで苦しんでいるが、手術をしてもしてもとても終わらない。何しろどんどん新しく撃たれてやってくる訳だから。そういう救いの無さを悪ふざけでやり過ごしているということだが、制作当時はベトナム戦争のさなかだったということで、メッセージとして反戦ということを皮肉を交えて表現したのが、いわゆる高い評価の原因だろう。要するにきわめて政治的なことなので、作品の出来とはそもそも何の関係も無い。いや、あえて低予算でくだらないからこそ評価された訳だから、やはり政治的にはそれなりにあざとい作品かもしれない。
 でもまあある種のインテリが、こういうくだらないものを評価したいという気持ちは、少しは分からないでもない。いくら口角泡を飛ばして批判しても、世の中どうにもならないことは多々あるものだ。何しろ相手側は聞く耳を持っていないと思われる。何をしても徒労に終わるならば、その批判している精神自体が、何とてもくだらなく思えてくるのではないか。自分の力ではどうにもならないし、かといって事態が変化するとも考えられない。まともな人ならそこで黙るより無いが、やっぱり黙りたくもない。それなら自分たちの身内だけでも気分が良くなる方法は無いか。要するに憂さ晴らしに相手側を人格的に攻撃するしかない。それは極めて下品なのだが、今はそういう精神性に陥っているのだから、その原因を叩くにはそれくらいしかやることが無い。そうしてそのようなことを実際にやっている人を持ち上げてしまう訳だ。現代にもそんな人たちはたくさんいて、だからそういう人たちにとっては、面白くないが持ち上げざるを得ない作品というのが、これだったということなんだろう。
 まあ、面白くもなんともない訳だが、一緒に腐して暇をつぶすにはいい映画かもしれない。僕は仲間ではないけど、そういうのを俯瞰してメタ視力で楽しむことにします。
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名監督は名選手の中の一握り

2017-07-21 | 雑記

 名選手名監督にあらずというが、スポーツ界の指導者の多くは、いわゆる名選手と言われた人が務めている場合が現実として多い。野球の世界もそうだし、サッカーもそうだろう。日本的な相撲においてもそうであって、もともとの条件として、ある程度活躍した人でなければ務められない地位が監督ということであろう。
 もちろん、なんとなく言いたいことは分かる。そのような名選手の中でも、地味だった人が、あんがい指導者として優れている場合があるという期待が、巷間にはあるのではないか。選手として残念だったとしても、指導者として花を咲かせることは出来る。そういう美談は、話の組み立てとして好かれることかもしれない。また、選手として華々しいスターだった人が、監督指導のような、細やかで地道な努力を、他人に施すことができるのか。選手としての力量が、時には自分を犠牲にしてまで決断を強いられるような立場をまっとうすることができるのだろうか。そうして、選手の時のように輝いていた人が、監督のような指導者ではあんがい地味になるという印象もあるのかもしれない。しかし、選手より目立つ監督が、そんなにいいとは思えないけど。
 もっとも監督になった時に、すでに現役時代の活躍を忘れられているような人もいる。実際に選手としてはたいした記録も残せず、人気も無い(しかし人望や政治的には手腕があったのだろう。監督になれたのだから)、という人も居ないではない。日本では珍しいが、実力主義の米大リーグには、結構そんな人はいるようだ。しかし多くの場合、たとえ現在が地味に見えたとしても、現役時代はそれなりに目立った活躍もし、怪我などで惜しまれて引退し、人望があってコーチなどに招聘されたような人だからこそ、後の監督になったりしている。当たり前と言えば実に当たり前で、指導者同士の信頼や連携も必要だし、ある程度の指導経験や客観的な手腕がなければ、やれるわけが無いのだ。特にプロの世界になれば、組織的にも巨大になってくる。そのような世界で、まわりに目配せしながら人を動かすことは、誰だって容易には出来ることでは無いのだろう。さらに結果がついてこなければどうにもならない訳で、ダメな時期でも見通しを立ててフロントを説得できる政治力も持っていると考えられるところである。
 さらに一番重要だと思われるのは、指導を受ける立場から考えることも必要だ。その世界の実力がたいしたことが無いと分かっている人に、一流と自分で思っているような選手たちが、本当についていくものだろうか。いうことを素直に聞くことがあるんだろうか。できればその世界でも憧れられるような人から、直接薫陶を受けるような体験をしてみたいというのが、人情ではないか。そういう人から認められたいからこそ、さらに努力や研鑽を積む。そういう心情は、選手じゃない人でも理解できるのでは無いか。
 要するに指導者はやはり、名選手が圧倒的に名指導者になりやすいことは間違いなかろう。名指導者になり切れなかったような場合も(結果が伴わなかった)あるという意見は残るかもしれないが、その監督時代の事情は複雑で、政治的に辞めざるを得なかった人だっていたことだろう。少なくとも名選手で無く名指導者になるような人こそが、もの凄く珍しい訳で、選手として才能が開花しなかったような人は、素直にその世界から離れていく方が自然なのではなかろうか。機会さえ少なく実際に実在の人物さえ少ない幻想の印象が、この言葉を形作っているような気がしてならないのである。
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気取ったジャズで無く、泥臭くドライ   ラウンド・ミッドナイト

2017-07-20 | 映画

ラウンド・ミッドナイト/ベルトラン・タヴェルニエ監督

 50年代のパリ。ジャズを巡る友情映画。名演奏で鳴らすサックス奏者のデイルは、しかし酒に溺れてしまうタイプのようだ。見かねて一ファンであるが、その演奏に心底惚れてしまった男が援助する。しかしこの男もそんなに金を持っている訳では無い。金は無いが無理に援助し、そうして夜になるとその演奏を楽しみたくて仕方がない。このままではラチがあかないので、サック奏者はアメリカに渡ることにするのだが(もちろん援助を受けて)…。
 お話の筋で引っ張っていくようなものでは無い。名演奏と、その演奏される店や時代の雰囲気を味わう映画かもしれない。かといって、やっぱり演奏をライブで楽しむというものでも無く、ミュージック・クリップでもない。やっぱりそこは映画なのだ。
 ジャズの魅力は今一つ分からないのだが、この映画のジャズ世界は、確かになかなか魅力的だ。演奏される曲は渋いし、じわじわ盛り上がるのは確かだ。客も奏者も、一体になって楽しんでいるのがよく伝わる。酒におぼれている姿は褒められたものでは無いが、それすら、やはり音楽のスタイルとして、何とも馴染んでいる。そういう生活自体が、ジャズ的というかなんというか。
 麻薬のようにのめり込む世界が、そういう快楽が、音楽にはある。魔力だが、しかしそれを一定の距離がありながら、親しく映像化している。人々は必ずしもスタイリッシュでカッコいいとは言えない人々なのに、しかしジャズをやっているとたまらなくカッコよくなるのだ。まったく人間は面白いものだな、と思う訳である。
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避けて平穏を取り戻すトランプの国

2017-07-19 | net & 社会

 いくら近しい間柄のこととはいえ、連日トランプ大統領の報道を目にする。選挙の時もいろいろあったけど、就任してもいろいろある。いかにアメリカという国が堕落していったのかという話もあるし、いかに危険になったか、というのもある。しかしながら一番多いのは、いまだに国が分断されて議論が立ち行かない姿である。反トランプ派は、連日デモを行いトランプ政権を批判し退陣を求めている。その周辺には中指を立ててこのデモを中傷する人々が取り囲んでいる。直接衝突して口角泡を飛ばして罵り合っている。反トランプ派の言い分は、寛容を忘れ人種による差別を行うトランプ派はヒトラーのようなものだという。その言い分にトランプ派は、自由な発言と安全を守らない反トランプ派はヒトラーのようなものだという。どちらもヒトラー派になっているのはどういうことだかよく分からないが、絶対悪というレッテルをお互いに貼り合いたいという意味なんだろう。
 そういう中にあって、トランプ大統領のニュースを一切流さないメディアの紹介がされていた。どうしても大統領関係のニュースを流さなければならない場合も、トランプという言葉を抜いて、大統領とだけ紹介する。トランプという文字と音を完全に排したラジオや記事を選択して接することで、平穏な精神を取り戻すことができるという。そうして少なからぬ人が、そのようなメディアをあらかじめ選ぶような動きが着実にある様子が紹介されていた。人々に笑顔が戻り、イライラが減ったのだという。
 賢いんだか馬鹿なんだかよく分からない様子だが、そのような精神性が人々を苦しめているということだろう。嫌なものを目にしないことが、何かの解決につながることは無いが、事個人の平穏に置いては、意味のないことでは無い。また、直接政治参加しないことこそが、実は民主的な手続きであるともいえなくもない。既に選択は済んでいるのだ。
 さて、ポピュリズムの先進国アメリカは、そんな姿になってしまった。ほとんどの国でポピュリズムで無い場所は無いかもしれないが、やはり極端な対立を好む先の現実的な話なのかもしれない。ニーズに供給が柔軟に応える、したたかな社会でもあるのかもしれない。
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笑えないコメディの見本のような作品   ヘイル、シーザー!

2017-07-18 | 映画

ヘイル、シーザー!/コーエン兄弟監督

 最初にコーエン兄弟の映画好きであることを告白しておくが、さて、この映画に関していうと、これはもうサッパリ訳の分からない面白くない映画だった。短くいうと感想以上!って感じだけど、まあ、以前のハリウッド界が共産主義を嫌ってて、それを茶化した映画らしい。いろいろ変な人が出てきて、わざわざ下手な演技をする。そういうのが笑いのツボに入ると楽しめるのだろうが、ちょっとオタク過ぎる設定に、やっぱりついていけなかったのだろう。何しろ設定の時代はおそらく僕が生まれるちょっと前くらいだろうし、モデルになっている人物のことはまるで知らない。共産主義の何が悪いのかもよく分からないし、しかしそれでいて資本主義の何を守るべきかもわからない。時代に翻弄され消えて行った人たちは、後に検証され知られるようになったということは何かの話で聞いたことがあるくらいで、米国ハリウッドの闇史に光を当てながら、ギャグにしているという屈折感は、日本人の多くにはほとんど関係のないことではなかろうか。まあ、それも映画なんで仕方ないが、次回作に期待いたしましょう。
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フェイクの現実化は非現実である

2017-07-17 | 時事

 最近のニュースを見ていて思うのだが、いわゆるフェイク・ニュースは、今までも時折流れていたわけで(今となってそうだったな、という覚えのあるものはたくさんあげられるだろう)、しかしどうしてまた、特にこんなことになってしまったのか。あたかも、ほとんどそのために、何を信用していいのか、戸惑う人を見てしまう(特にネットの混乱は凄まじい)。また、現時点で限りなく疑わしいことが、一方で既にフェイクで確定し、一方でまだ究明にほど遠いと、極端な捉え方をされている。そうであるのに、また新たな情報について、後から分かりそうなほどにゆがんだものを、平気で操作した上で報道する事態が続いている。偏った放送局(等)のみのことで無く、皆一様に似たような姿勢があるようにさえみえる。まさかとは思うが、報道の方が、自らフェイクを自認せずに、偏ったと分かっている状態でもなお、暴走しているようにも見える。これはもう、もともと報道にそういう体質があるということを、自ら示しているというか、何か一方的に何も考えていない姿勢に迷いが無くなっているようにさえみえる。
 そのような怪しさは、もともと感じていない訳では無かったけれど、極端なものは、いわば週刊誌やワイドショーだけの世界のものであって、それを好む、いわば趣味の人たちの井戸端でのことに過ぎなかった。だからいくら中立公正のNHKなんていう嘘っぱちであったとしても、内容すべてに目くじらを立てている訳では無くて、おおむね寛容に眺めているところがあった。たとえ嘘が混じっていようとも、だいたいの感じを掴むためには報道が必要だし、そもそも個人では情報を得るために仕方のないところがある。
 ところが特に政治の世界に顕著にあらわれているようだが、この嘘らしいことを元に、政治そのものの動きがマヒするような事が起こっている。いや、それは過去にもあったが、それよりももっと行き場のないままに、ただ混乱して収拾がつかないだけのことにとどまっているように見える。内閣の支持率などを見ても、危機的領域になったとしても、だからその反対の行き場である支持も同時に下がる。替えが無いのに首を斬ると、上には何が乗るのか。そもそもそれは、人間の顔なのだろうか。
 いわゆる大人といわれる人の行動は、実際の選挙などには、少しばかり変化が加わって影響が現れるものだった。リアルな選挙運動での話を聞く機会も個人個人があったであろうし、コミュニティの中で政治的論壇が各所にみられた為だろう。ところが今はそのコミュニティが分断し、たとえ選挙を中心とした集まりがあったとしても、その根拠としているものを、報道に求めている人が多いのではないか。しかし特に若い人などが、義憤に駆られて選挙にまで行くとも思えない。だから投票率は低いままでありながら、テレビの批判のままに、いわばフェイクの実現のために、現実が追いつこうとしている。現実はフェイクのみでないから、それで先(いわゆる明るい未来)がある訳では無い。何しろよりどころにしている根拠が間違いなのだから、それを修正して正しさは求められない(不可能だ)。結局世の中というのは、どんどん逆説的に幼稚化しているということなんだろうか。
 さて、それでも、そういうことを正義のように暴くように見せたとしても、だいたいのところでは、カマトトぶった論調に過ぎないことくらいは、多くの人は知っているはずなのである。それが良いとか悪いとかいう話では無くて、誰だって真実を知りたいという欲求だってあるけれど、突き詰めると自殺するか嘘をつくしかない立場の人たちを、いくら吊し上げても仕方がない。そんなことは知らないとでも言いたげに、いつまでもじゃれて遊びを止めない子猫のような感じかもしれない。でも子猫じゃないから、いつまでもやっているとだんだんつらくなるものではないか。相手のことでは無くて自分のことがやりきれない。
 そういうものが、感覚として無くなっているとも考えられないか。だからいつまでも、自分の体の外での出来事として、吐き出しているだけの感覚なのではないか。
 さてしかし、逆張りのタイミングはいつなのか。それが分かれば勝負師として一流なのではあるが…。
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