カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

リクエストで分かる皆の気持ち

2024-03-15 | 音楽

 ワールドロックナウが、3月いっぱいで放送終了になるという。97年から放送していたというから、27年の歴史に幕が下りるわけだ。DJの渋谷陽一が病気療養中ということであるが、何の病気でどういう状態かは不明のまま、続行が困難と判断されたのかもしれない。代わりに今は伊藤政則が留守番で番組を務めているが、渋谷さんが戻らないまま、代わりが最後までということになる。伊藤さんの番組運びは、それはそれで大変に楽しいものだけれど、どうにもわびしい気分に陥ってしまう。ワールドロックナウの終了後は「洋楽シーカーズ」という番組に鞍替えするとのことだ、大貫憲章が加わってというから、伊藤政則と掛け合いでやるものなのか。詳細は追って、ということになる。
 考えてみると僕は二十代後半の、わりに放送の始まる最初のころから聴いていたことは間違いない。実のところ前身とまでは言えないかもしれないが、同じくNHK-FM番組のサウンドストリートは、中学生から二十歳前くらいまで聴いていたのである。最初は木金の二日間渋谷さんが担当していて、洋楽も邦楽も扱っている番組だった。結局金曜一日になり、何故か終了していた。十代の終わりは忙しい時期で、金曜の夜にはもうほとんど聴けてなかったかもしれないが、ときどきはカセットテープに録音して聴いていた。僕はこれ以外のラジオ番組を聴くタイプではなかったし(好みの傾向でない音楽を聴くほど心が広くないのだった)、歌謡曲は飲み屋で聴くカラオケしか聴いたことが無い。テレビの歌番組は小学生までで、それ以後は日本の流行歌とはほとんど縁がない。もちろん、ぜんぜん知らない訳では無いが、興味が無いというか。通勤は毎日1時間はCDか、この録音した番組を聴く。そういうのを何十年と繰り返してきた訳だ。そういうものから一旦は強制終了がかかる訳で、これを何と言っていいのかよく分からない。もう僕はあとそうしないうちに、死んでしまうのではなかろうか。
 渋谷さんの紹介する音楽の傾向が、必ずしも自分とぴったり合っていたわけではない。ヒップポップなんて歌詞の分からない日本人が聴いても仕方ないし、前衛的なダンスミュージックも耳障りだった。リクエストはあったのだろうが、何十年も前から、基本的には渋谷さん自身が気に入っていたものだけを受け付けていたのではないか。以前は月に一回リクエスト特集というのがテーマを決めて行われていたので、そういう時は皆リスナーは張り切ってリクエストを書いていた。普段はそんな風に、渋谷さんならかけてくれるという曲を考えないと放送に乗らない。自分の好きな曲を選んではならないことくらいリスナーは知っていたので、リクエストで何回も聴いたことのあるラジオネームの人くらいしか、リクエストしていなかったのではないだろうか。
 それというのも、伊藤さんにDJが変わってから、実はだいぶ前からのリスナーだという人の、リクエストが増えているように思う。リクエストを出すことがリスナーとしての存在意義だとまでは言わないが、こういう場面が来ないことには、なかなかメッセージを送ろうとまでしないだろう大多数の番組ファンがいる筈で、結局僕も一度として葉書やメールをすることは無かった。一度だけ、番組へのメール受付をすべきだという意見を送ったことがあるのだが(10年くらい前だと思う。その後最近はフォーマットがやっとできた)、それは無視された。いわばそのような保守的な部分を含め、歴史のある番組だったのである。
 最後になって番組リスナーの、実に多彩で見事な選曲に唸ってしまう思いがする。みんな多かれ少なかれ同志であって、そうして渋谷さんの申し子だ。気分は沈んでしまうものがあるにせよ、切り替えて楽しまなければ、という思いのみである。どうか元気になって下さい。
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少し楽しみが減り、しかしホッともする

2023-12-21 | 音楽

 渋谷さんが病気療養してしまって番組はどうなってしまうのだろうかと心配していたが、療養は一応長期になるということなのか、代打として伊藤政則さんが番組を仕切るようになっている。最初は思いっきり、なんというか、リクエストなんかも、ずいぶん昔だったら渋谷さんもかけたかもしれないストレートなものが多くて、のけぞってしまった。ツェペリンはもちろんかかるし、ニール・ヤングにスプリングスティーンである。翌週はピンク・フロイドもきた。確かにそうなのだろうが、あえてそういうリクエストでは、あんまり直球じゃないものをかける傾向のある人だったように思うし、かえって代弁者としては良かったのではなかろうか。少なくとも、聞いている僕らには、届いた。しかしまあ、年末特集というのは、やはり無い事なんだろうな。残念である(※ところがその後、大貫憲章と伊藤正則二人でやることに決定した)。
 中村さんの報告にもあったが、グラミーのノミネートは、ほとんど女性陣が独占しているという。まあ、そうだろうな、という年ではあった。ずっとテイラー・スイフトが何枚ものアルバムをヒットチャートに乗せたままでいたことと、アメリカ経済を引っ張ってもいるとさえ言われる巨大なツアーを組んで、ものすごいお金が飛び交ったという。とにかくスケールがでかすぎるわけで何が何だか分からない。ずいぶん昔からいる人のように思うけれど、最初はまじめで清楚な感じすらしたけれど、今はもうマドンナよりも女性を象徴する存在かもしれない。すでにカントリーはやってないようだし。マイリー・サイラスは街中でもなんとなく聞こえていたし、シザはやっぱり聞きやすいし、印象に残る。そうして今は何でもロザリアになってしまった。まだ若い子だけど、なんとなく成熟したような曲を書く。そうしていい意味で予測ができない。でもまあ僕としてはボーイジーニアスが、一番ロックっぽいところあるように感じて好感がもてる。僕ら男に対して歌っているわけでは無いのだろうけど。
 でもまあ特に総括したいわけでもないし、グラミーに興味もない訳だが、こういうものに賞がつくというのは、やはり何らかの思惑でもあるのだろうか。売れている人にさらに何かやらなくたっていいようにも思う訳で、例えばボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったりすると、かなりシラケる。そういうのとらなくたって彼は素晴らしいので、上からやるようなことをすることは無いのである。グラミーがどうなのかは、やはり分からないが、でもまあ授賞式にいたっては、皆嬉しそうにして感謝しているようである。泣いている人もいるかもしれない。そういうのをみていると、やっぱり茶番めいてもいる。そうか、感謝する場を与えるという意味では、売れた人に言ってもらいたいのかもしれない。
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曲を飛ばしながら聴くアルバム

2023-11-25 | 音楽

 なんとなく目にとまって、ひさしぶりにジョン・レノンの「ダブルファンタジー」を聴いていたのだが、ああそういえばこれ、あんまり聴いてなかった理由を再び思い出した。
 このアルバムの背景として、当時としては、子育てのために活動を休止していたジョンだったが、長い間休んでいた後に、満を持して活動を再開する期待感と共に、最高の形で「スタンディング・オーヴァー」で始まる訳だが、その次にガクッとずっこけることになる。オノヨーコなのである。日本語で「抱いて、ダイテ、だいて……」と繰り返し色っぽく歌われる訳だが、どうにもこうにも人前どころか一人で聴いていても恥ずかしくて落ち着けない。そうやってジョンとヨーコの曲が交互に入っているのである。
 買った当時最初の一回だけは通して聴いたと思うが、その後はヨーコの曲をわざわざ飛ばし飛ばし聴かなければならなくなった。そういうのってちょっと面倒なのである。オノヨーコは元日本人の女性として、そうしてジョンのパートナーとして、世界的にも有名で、そうして日本でも最初はちょっと誇るべき女性という立ち位置だったはずなのだけれど、日本のジョンのファンの少なからぬ人たちからは、なんとなくスルーされているわけだ。いや、はっきり言って、かなり疎まれていたはずである。そうしてこのアルバムは、ジョンがそのあと殺されたという衝撃と共に、ジョンの曲以外と共に、ちょっと葬られてしまった感がある。思い出すにはあまりにつらい。
 僕なんか中学生で、やっとビートルズでもはっきりとジョンの足跡をたどるようなことと、そのロック性に目覚めたときだったので、もうオノヨーコの声を聴くのが嫌だった覚えがある。当時はビートルズは、はっきり言って古典で(今の古典感とはちょっと違うのである)、新しいものがたくさんある中、神格化した部分では聴かれたが、それはほとんどレットイットビーか、抱きしめたいか、イエローサブマリンであって、ジャーナリズムの思い出だった。今はもっとひどくなった部分はあるけれど、ジョンのロック性はむしろ封印されてしまった。時々はイマジンであって、コールドターキーがかかるなんてことは無いのである。
 でもまあオノヨーコを落ち着いて聞いてみると、その構成においては、ジョンがそれなりに色付けして遊んでいることも見て取れる。変な声で歌も下手だけど、なんとなく本人が持っている芸術性のような方向も分かる気がする。勘違いかもしれないけど……。東洋的で神秘的で、そうしてちょっと変な前衛的なところが、ジョンのこころを捉えていたことは間違いなさそうだ。まあ、今後もこのアルバムを聴くときは、やっぱりヨーコの曲は飛ばしながらという作業は、必要になっていくのだろうけれど……。
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ひっくり返して聴く意味

2023-11-08 | 音楽

 ツェッペリンのレーベルが75周年ということで、アルバムの四枚目(実際には名前はないアルバムだが、フォースシンボルズ、とか単純に4と言われている)がリイシューされて再販されている。アナログのレコードで透明なやつらしい。日本がどうなっているかはよく知らないが、英国などではアナログのレコードはまた聞かれるようになっていて、若い人でも買うんだそうだ。もちろん僕は、中学生の頃にこのレコードは買っていて、黒い奴だが今も持っている。もっとももうプレイヤーは動かしてない(倉庫にしまい込んでいる)ので聞くことはできないが、CDも持っているし、おそらくだがリイシュー版も探せば持っていると思う。僕はコレクターでは無いのでもう買うつもりは無いが、もちろんファンだから、こういうニュースを聞くと心躍るものがある。ピンクフロイドなんかは、また当時のアルバムが今ヒットチャートに躍り出たりしているわけで、古典ロックであっても、現代で根強く再評価されるだけでなく、若い人でも聞くようになっているのである。もっとも知られているロックの名曲ともいわれている「天国の階段」が収められているツェッペリンのアルバムなので、こういう事になっているのであろう。
 ところで今となってはサブスクで一曲のみをピックアップして聴かれることがほとんどなんだろうけれど、以前のアナログ盤というのは、A面とB面に分かれていた。CDの登場でそれすら忘れられていると思うのだが、ツェッペリンのこの4枚目のアルバムというのは、いわゆる前衛的な曲と構成になっているのが特徴になっていて、A面の展開と、B面の展開ははっきりと分かれている。A面の最後に最高の形で「天国の階段」を聴くことによって、B面の何やら難しい局面へと、レコードをひっくり返して臨むことが大切だったのである。ツェッペリンに限らずだが、ビーチボーイズのペットサウンズだとか、ビートルズのサージェントペパーズなんかも、そういうアルバムの構成を、凝りに凝って作られていて、そういう意図も理解しながら聴くことによって、我々はロックの理解を、哲学的なものに高めていったのである。まあ、当時はよく分からないながらも、勝手にそんなことを考えていた、ということではあるのだけれど。だからCDで古いアルバムを聴くようになって、ずいぶんと印象が変わってしまって、もうあのような意図を読み取れることが少なくなったことに、違和感を覚えたものなのである。いやもう手間はかからないので、それはそれで元に戻るようなことは無かったのだが。
 ということで、単に昔のことを言っているだけのことなのかもしれないが、アルバムというのは曲順も大切だし、構成も大切である。ベスト盤もいいかもしれないが、出来ればその時に、彼らがどうしてそういう事にこだわって作ったのか、ということに注力しながら聴くということも、大切なのでは無いだろうか。
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姉御シンガー好き

2023-09-22 | 音楽

 僕の子供のころの女性ロックシンガーと言ったら、なんと言ってもジャニス・ジョプリンなのだが、実のところ僕が知ったころには既に死んでいた。しかしながら名残はあって、ちょっとした女性ボーカルのコピーバンドなんかは、実にジャニス的な歌い方をする人も多かった。とにかくかっこいいので真似たいわけだが、そう簡単にはジャニスにはなれない。あくまでジャニスっぽくなっているだけなのだった。でも、みんな頑張ってはいたな。
 でもまあ外タレのボーカルは、高いキーの人が結構多くて、日本人の声帯とは何かが違うのかもしれないとは思われた。だから男性ボーカルの歌であっても、女性じゃないとそういうキーが出ない歌ばかりという感じになって、コードを変えてみたり苦労した。僕ら少年はまだ未熟なので、そう簡単にコード変換ができない。いろいろ頭を使ってすっかり疲れて、もっと簡単な曲を選ぶ傾向にあった。思い切って低いキーで歌うと感じが出なくて、かえってかっこ悪いのだった。
 別段アイドルということではなかったし、どちらかというと姉御なのだが、はやっていたのはクイッシー・ハインドだった。これはロックシンガーとしても素晴らしかったのだが、曲の構成が良かったという感じもある。プリテンダーズというのは適当にあんまりうまくない感じもあって、そういうところがパンク的なロックの要素がある訳で、ポリスなんかは実は超絶に上手いのに、レコーディングでは適当に下手な粗削り感を出すのに苦労していたりしたものだが、プリテンダーズは頑張っても上手く聞こえないのだった。
 それからしばらくしたらシェリル・クロウなんかが出てきて、これはかっこいいなと思って、ちょっとコピーなんかもしたりしたものだが、友人ウケはあんまりよくなかった。何故だったんだろう、それなりに売れてたはずなんだが、それは僕らの方面のことではなかったのかもしれない。今はちょっとカントリー歌手みたいな感じになっていて、もともとそういう素養のあった人だったということなのかもしれない。アメリカというのはそういうところがあって、あのテイラー・スイフトだって、出はカントリーだったはずだ。日本で民謡歌手がロックを歌ったりするとかなりの違和感であろうが、あっちはそんなことは無いのだろう、って、やっぱりずいぶん違う比喩かもしれない。
 で、カントリーということになると、僕は何故かジェイフォークスが好きで、カレン・グロットバーグというおばさんの歌が、またいいのである。あんまり姿は知らないので声だけということだけど、僕は姉御シンガーが好きなのかもしれない。
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そろそろ移行時期なのは分かっているが……

2023-07-16 | 音楽

 僕はもっぱらMDに録音した音楽を車で聞いているわけだが、やはり最近のアプリには関心が向かないわけではない。パソコンではミュージシャンの曲を知りたい場合ユーチューブ検索が普通だけど、アマゾンでもその他でも、いくらでも検索方法はある。そうしてそのようにして検索していくと、やはりそれなりの未知の領域というものへの紹介のような機能があって、しかしそれなりに関連のある分野なので、面白いのである。
 しかしながら面白いからと言って、いつまでも遊んでいる場合ではない。それが苦しいところではあるのだが、さて、近年よく聞くところによると、いわゆるアプリを用いて音楽を聴くのが主流になっているらしい。僕のような聞き方は、いささか古いスタイルという事らしく、いまだにCDは購入しているし、繰り返すが、MDで曲を編集してパーケージ化している。そういうのを繰り返し気が向いたら聴いている訳だ。それでアプリで検索して聴くのもこのようにやってはいるが、これをパソコン以外でやることに移行すべきか否か、ということになる。理屈としてCDを買うよりも、そのようにアプリで聴いた方がはるかに得であるということと、いくらでも検索可能なので、自分なりの編集も簡単で、いつでも聴けるではないか、という疑問が投げかけられる立場なのである。
 そうなのかもしれないな、とは思ってはいて、僕が聴く種類のパッケージの中にも、既に現在手に入りにくい分野のもの(要するに古い)が結構あることと、そういうのは実に高価になっていたりして、いまさら買ってまで聞かない。さらにアプリで検索すると、そういうのがあんがい見つかったりすることもあったりして、それなりに驚く。一億曲あまりが検索可能だともいわれており、なるほど、売っているものより、はるかに充実した世界になりつつあるということなのだろう。
 本当はまったく面倒くさいことなのではないはずなのだが、実はそういういものに移行する気分が面倒なのである。そっちの世界が魅力的だと言われ続けていると、別段意固地になっているわけでもないのに、既におおかた間に合っているのに、わざわざ移行すべきなのか? と、疑問に思ったりするのだ。
 しかしやはり迷っている自分がいる。それというのも、車で聴くためのMDプレイヤーは既に作られていないので、中古品を買っているが、これが三代目であることと、録音を編集するミニコンポは二台持っているが(これは説明が難しいが、使い分けているのである)、そのうちの一台については、MDを取り出すエジェクトの調子悪く、数十回ボタンを押さないとMDを取り出せなくなっている。たったそれだけの修理のために電気屋に持っていくのがめんどくさいが、再度購入となると数万円は飛ぶ。そういう気分がまためんどくさい。だから取り出す時には、数分間に渡って数十回ボタンを押し続けている。正直言って、こんな生活は何とかしたいところなのだ。
 広告を気にしなければ、アプリを使って検索するのは、とりあえず今は無料である。しかしもっと充実して自由に検索出来て、曲をさらにストックさせるためには、定量料金制に移行すべきかもしれない。そうすると、もうCDを買うわずらわしさからは、解放されるのかもしれない。車では、ブルートゥースで飛ばせばいいのだろう。それは分かっているが、いまだに悩み続けているところなのである。
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その気にさせるキンボウゲ(?)

2023-05-26 | 音楽

 そもそも僕は古いソウル・ミュージックを好んで聞いていたわけではない。だからアトランティックの音楽と言われても、やっぱりその代表をツェッペリンだと思ってしまうくらいだ(だってレコードに記されていたんだから)。しかしそれは僕の子供のころの今の姿であって、若者はいまを生きているのである。
 それでもRC(特に清志郎は)古いソウルミュージックを愛し、それをルーツにしていることは分かっていたし、そういうものの下地なしに、僕の好きな音楽は無いのだという自覚はあった。それでもラジオ(テレビでは僕の流行ではありえなかった)でかかる音には今の流行が求められたし、ビートルズはクラッシックとして聞いていたが(何しろまだジョン・レノンは現役だったし)、流石にプレスリーは既に古典だった。
 古典的なソウルミュージックを面白いと思ったのは、だからそれらのミュージシャンの、カバー曲だったかもしれない。なかにはカバーだと気付かず(ビートルズやストーンズなど)聞いていたものも多かったのだけど、それとわかってて面白い、というのは多かった。
 衝撃というのには大げさだけど、そういうものに元ニューヨークドールズのデビット・ヨハンセンのBuild me up buttercup. があった。ファウンデーションズが歌っていたということまで詳しくは知らなかったが、それなりに聞いたことがある子供っぽい曲だと思っていたのだが、あの激しいロッカーのヨハンセンが軽快に歌っていて、なかなかいいのである。まあ、面白いものだな、と思って耳に残っていた。
 時は流れてファレリー兄弟の「メリーに首ったけ」というというバカ映画の傑作があるのだが、楽しく観終わってエンディング・テーマで、またしてもバターカップが流れたのである。なんだか感激してしまって、その後サントラ盤まで買ってしまった。結局この曲が僕は妙に好きなだけかもしれない。
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いい曲というのは再生産かもしれない

2023-05-23 | 音楽

 村上レディオでスガシカオがゲストで出ていて、二人でアトランティック・ソウルの話をしていた。実に面白かった。まあ、僕は特にアトランティックとモータウンなどを分けて聞くというようなことは無かったので、この番組でかかった曲は、知ってる曲がほとんどだったけど、新鮮に思えた。アレサ・フランクリンはあっても、ダイアナ・ロスは無いのである。そういわれると、そうなのかって感じだけど……(そういう具合にレーベルを気にしたことは,日本人には、ほどんどないことでは無かったのではなかろうか?)。
 村上春樹はもちろん日本を代表する音楽オタクだから詳しいのは当たり前だけど、スガシカオもまたやたらに詳しいのである。音楽談義はこうでなくちゃね。
 誰もが知っているパーシー・スレッジの「男が女を愛する時」は、実はホーンセクションの音などが少しずれてたりしてたので、ちゃんとしたのを録り直したのにかかわらず、何かの間違いで直してないほうがレコーディングされてしまった。しかしそれがそのまま受け入れられ、大ヒットしてしまった。それだけでも凄い事なのに、この曲の影響力はそれだけに終わらなかった。
 さらにこの曲がモチーフになって、プロコル・ハルムの「青い影」になったらしい。確かにそういわれてみると、よく似てますね。すごい。今まで気づかなかったけど、この曲をうまい具合に解体して、作り直したのはよく分かる。
 さらにだけど、この「青い影」をモチーフにして荒井(松任谷)由美が「ひこうき雲」などの曲を作ったというもの有名は話である。番組では語られなかったけれど、そういう土台になった歴史というのは、僕らが体験したはずのことなのである。
 音楽というのは、もしくは文学もそうかもしれないが、記録としてはこれからも残る可能性はあるとして、しかし極めて同時代性のあるものかもしれない。多少古いものであっても、体験しなければ分かりえないものなのだ。再体験というものがある可能性はあるにせよ、やはりそれも時代性なくしてはほとんどありえない体験である。すでにずいぶん昔の話になりつつあるものであっても、それは僕らが生きているレンジの中にあるのである。
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作品がすべてだと思いたいだけ

2023-02-25 | 音楽

 それにしても最近はよく死ぬな、という感じだ。ロック高齢化問題という背景があるので当たり前だけれど、要するに僕らの若いころに聞いていたちょっと先輩たちが鬼籍に入るお年頃になったのである。ただ、だいぶお久しぶりで忘れていた人ばかりだった頃とは違って、今もそれなりに活動していたりするから、ちょっと驚いたりするのかもしれない。昔の名前で出ていますが通用するのは、昔の名前を憶えている人が生きているからである。要するにもう少ししたら、僕らもその後を引き継ぐのだろう。確かにそう考えると、寂しいな。
 そうして過去を思い出したりするんだが、思い出すついでに知らなかったこともずいぶん知るようになる。自分の記憶違いも見つかるし、あんがい当時考えていたことと違う印象が、新たに生まれたりする。当時はネットも無かったし、買える雑誌も限られていた。ラジオでもそこまで詳しく解説は無かったと思う。そういう意味では、ある種純粋に曲だけを聞いていたのかもしれない。その曲とその時の青春の情景とともに。
 作家などでもいわれることだが、人物よりその人が生んだ作品こそすべてだ、という考え方がある。ミュージシャンも基本的にはそのように考えたいという気分はある。だから多少素行の悪い面があろうとも、たいがいのことは目をつむって、次に生まれる作品を楽しみにしているし、素晴らしいパフォーマンスを期待している。それで十分じゃないか。
 そうなんだけれど、いわゆる著名になっていくと、パパラッチというか、私生活を含めたゴシップの方が、人々の関心を集めていく。そうしてそのような情報をたくさん知っているからこそ、さらに上級のファンになっていくようなところもある。あの曲はすでに別れたあの子のことが書かれている、という話はごまんとある。今だと有名人同士付き合っていて、その恋愛の情景をそのまま歌詞にしていることで、さらに爆発的に売り上げを伸ばす女性シンガーもいるほどだ(あの人のことですが、複数いるな)。そういうリアリティこそが作品の面白さをさらに引き出し、そうしてアイコンそのものを引き立てていく。実際のところ生きているのに伝記が書かれ、さまざまなメディアに露出するゴシップこそ、今を生きている僕らの生活の糧になっていくようなところがある。作品がすべてである著名人なんてものは、それこそが理想的な幻想に過ぎないのではなかろうか。
 しかしながらその人のことを本当に知りえることはむつかしい。いつまでもその距離は縮まらない。集めるのはその人の周辺の情報のみであり、その人の生のものではありえない。偶像化された人物は、その人そのものではありえないのである。
 結局は曲に向き合って、同時代性と自分の記憶をたどるよりない。自分が生きているからこそ曲が聞けるのであって、この先のことなんて知りうることもできないのだから。
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哀愁のジェフ・ベックよ、永遠に

2023-01-18 | 音楽

 ジェフ・ベックが亡くなった。ショックと言えばそうだが、78歳ということだから、ロックスターなので長生きだろう。昨年もツアーやったり他のプロジェクトの録音があったり活躍している様子だったので、意外性はあるにはあったが、亡くなるにはおかしな年齢ではない。
 日本では過去に世界三大ギタリストの一人としてジェフ・ベックの名前があった。今もそういう名称が残っているとする古いファンもいるだろうが、いわゆる新しいブルース・ロックの世界の黎明期においての存在感のあった人だ。影響を受けたかもしれないギタリストはそれなりにいるはずで、僕より少し先輩の人はまねしている人も少なからずいた。まあピックを使って弾いてはいたが。たいてい「悲しみの恋人たち」であり、僕が中学生くらいの時は流行っていたのである。
 僕自身もいくつかアルバムは持っていたが、当時はインストルメンタルの曲が多くて、あんまり熱心には聞いていない。ちょうど80年代のアルバムだったということもあってゼア・アンド・バックはよく聞いていた(探せばワイアード、ブロウ・バイ・ブロウなんかは持ってると思う)。時代もあるんでエレクトリック・サウンドの、いわゆるコテコテ泣きのギターでなかったのに、それなりに町で流れていた印象がある。
 その後も来日していたようだし、ファンも多かったと思うが、いわゆる大ヒットを飛ばすような感じでは無かった印象がある。とにかくいつまでも伝説的なレジェンドであり、息の長いプレイヤーだった。しかし相当な変人であるという固定的な印象もあって、わがままにステージをすっぽかすような人だとばかり思われていた。体調を壊したとかいう理由でツアーが中断したりということもあったと記憶するが、それも過去の噂だったかもしれない。ネット時代になっても演奏する映像はそれなりにあって、やはりライブでは精力的に活動を続けていたようだ。クラプトンも神格化されているが、ジェフ・ベックも我が道を歩んでいるという感じだろうか。
 少しジャズっぽい方向もあって、ジェフ・ベックと組んでいる人たちの演奏能力も高いという感じだった。だからからか、それなりに即興でライブを膨らませていくような弾き方をしていたのではなかろうか。体形も変わらず維持していたようだし、地毛かどうかは知らないが、少し短くなったとはいえ長髪だったし。妙なところで急に盛り上がるくせに、情緒なくパタリと演奏が終わったり、まあ、独特なセンスではあった。
 僕としては三大の残るもう一人の動向が気になっていたけれど、結局ジェフ・ベックのように精力的に活動をすることもしないので、こればっかりはいまだに残念だ。ジェフ・ベックは本当にギターを弾くのが好きだという感じがして、羨ましいのだった。どういう思想の持ち主なのかはまるで知らないが、もちろんそんなことよりギター・プレイである。放っておいてもおそらくギターを弾き続けるような人だったに違いなく、幸運にもファンが根強くいたので、最後までお金を取ってプレーし続けることのできた人だったと言えるだろう。それこそが彼の素晴らしさで、そのすべてであろう。
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音楽は振り返ってなかった(2022年)

2023-01-10 | 音楽

 まったく今頃になってという感じで人には言えないのだが、ビリー・アイリッシュが良かったりする。先日ラジオだったか雑誌だったかで、ラーキン・ポーが、ふだんはビリー・アイリッシュなんかを聞いててサイコー、なんてことを言ってるそうだった。僕はラーキン・ポーはスライドギターも楽曲スタイルもものすごくいいと思ってたのに、音は極めておじさん臭い曲をやっている若い彼女らは、やっぱり女ごころを歌うビリーのことが好きなんだな、と思ってあらためてなんとなく聞いてたら、なるほどすごく良い。女心の分からない後期中年男の心だって捉えるんだから凄いよね。そもそもウィスパー・ボイスで歌う歌い方そのものがあまり好きではないのだが、ビリーならもう許すしかないのかもしれない。
 でもまあふだんはギターロックの方がいいし、時には超絶テクニックもいいかな、と思ったら、ポリフィアを聞いててまた驚いた。なんと「アイウエオカキクケコ」と一応日本語を歌ってる。借りてきて歌ってる(フューチャリングっていうんだっけ)ボーカルの子が日本にもルーツのある子らしい。ただそれだけのことなんだが、そういえばロザリアだって「ヘンタイ」って日本語で歌ってたぞ。PVでは露出の多い女の子だが、曲はいいのではなかろうか。
 スーパーオーガニズムのボーカルは日本人だから、ちょっとそれっぽい発音の英語のように聞こえるが、日本語で歌う訳ではない。曲の合間にちょっと日本語が入ってはいるが……。別段日本語ブームというより、そんな感じの不思議な音ってことなんだろう。
 一方大ブレークしているリナ・サワヤマになると、もうこれは日本人だからというのはちょっとした見た目のファッションだけであって、完全にレディー・ガガにも勝つぞって感じになってる。本人はアバみたいなことも言っているようだが、それは俺には分からん。多少古い方法論かもしれないが、王道でグイグイいっているところは、ほとんど日本的ですらない。でも、それがいいんだけどね。
 実は昨年はベルセバもマーズボルタもウィーザーもスウェードもミューズもトッド・ラングレンもレッチリもZZトップもスプリングスティーンもアルバム出した。デデスキも出したしね。おじさんとしては、ずっと平穏な気持ちで居られたよ。みんな年を取って老いていく。ロックってそういう音楽になったな。だって時代性だから。年取ると趣向が変わるってすいぶん先輩に言われたことあるけど、あれは完全に嘘だったな。
 で、最後にそれなりに昨年を象徴するものとなると、1975とウェットレッグだったかな。とも思う。いや、そうじゃなかったって人も多いことは分かってる。僕が聞いてて、なんとなくだけど、今年はこんな感じだったなって思うだけだし、ほんとは力を抜いてイージーライフの方が好きだけど、注目度ってことでそう思うのだろう。
 ということで、今年も楽しみであります。
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選曲は、あまり悩んではいけない

2022-10-20 | 音楽

 先日の飲み会の時に、隣のテーブルで歌っていた二人の妙齢の女性が、ほとんど80年代歌謡曲を選曲していた。僕らのグループは、一人だけ少し先輩がいて、あとの二人は僕より15以上年下の男女のいる4人だった。それで、なんとなく隣のテーブルと交互にカラオケ合戦、のようなことになってしまった。
 素直に考えると、隣の人たちと、僕には融和性がある。何しろ僕が十代に聞いていた曲ばかりだから、僕もその頃のことを思い出せばいい。正直に言って得意な曲も多いし、かつて歌ってきたのだから悩む必要など無いだろう。
 しかしここで、我らが切り込み隊長は、いきなりサブちゃんの「祭り」を選曲した。これは盛り上がるけれど、数的な優位性のあるこちらのテーブルが、隣を抑圧する可能性が高い。そうして実際に適度に下手さ加減のある歌声と、我々の合いの手は絶妙に店の空気を揺らしていった。勝負なのかどうかわからないまま、勝ちにいっているような雰囲気だ。しかし先輩はかなり酔っていた。盛り上がるとともにふらふらと隣に向かっていき、その一人に手を差し伸べ、なんと立ち上がらせて踊り出した。「祭り」は踊ってもいい曲ではあるものの、何か二人は絡み合って、変なチークのような手の回し方になっている。
 お隣は大人の女性ということもあって、いったん下手に出たということかもしれないし、適当にあしらったのかもしれない。そうして聖子ちゃんを歌い、明菜を歌っている。なかなかの熱唱だったりもする。はっきり言って歌い慣れていて、上手いのである。
 僕らの若手男子は、なぜか「北酒場」を選択する。これも微妙に音程がずれていて、しかし盛り上がる。隣とは協調しているのかどうか、まったくわからなくなる。僕は酔いが回る一方だ。まずい。これはなんだか、まずい。ここはチェッカーズなのか、サザンで行くべきなのか。それとも沢田研二だろうか。
 それでどういう訳か、アン・ルイスの「グッバイ・マイ・ラブ」にしてしまったのである。80年よりはるか前になってしまっただけでなく、相手の土俵すぎる。それに科白が英語である。完全に字幕に追いつけなかった。なんというか、うーん、という感じと、敗北感を勝手に味わってしまうのだった。
 まあ今日はカラオケはいいかな、という気分になっていると、わがグループ最若手女子が宇多田ヒカルの「ファースト・ラブ」を歌ったのである。店に並んでいるグラスが、共鳴して揺れているのではないかと思われるほどの、透明感のある圧倒的な歌唱力である。お前いったい何者? って感じである。おそらく僕らに合わせて精一杯古い曲を選択したのではないかと思うのだが、しかしそれは、隣の女性たちもいったん我に返るようなものであった。感嘆の声とともに、称賛の拍手がしばらく続いた。
 ということだが、その後も何もなかったかのように歌は歌われ、遅くなったので店じまいだと言われ、タクシー呼んでお開きとなった。僕としては、帰ることができたのが、まずは喜びだったけれど、やっぱり選曲は考えすぎないようにしなくては、と思ったのだった。それが今後に生かされるかどうかは、まだわからないのだけれど。
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多様性と時代は巡る

2022-05-03 | 音楽

 今巷間では、ギターロック復活というトピックで盛り上がっている。なんのこっちゃ、という感じもしないではないが、本当にそういうことなんだろうか。
 ラッパーだったマシンガン・ケリーは、ギターを持ってパンクロックのようなことをやっている。ライブに来たファンが、ギターを弾くロックというのは初めて見たというんだよ、と語っていた。どういうことかというと、今はヒップポップとかばっかりで、ギターロックを聴くことも見る機会も何年もの間なかったからだろうという。ほんとにそんなものなのかな。
 僕はヒップポップは聴かないし(まあ、普通の同世代日本人よりは聴いているかもしれないが)、ヒットチャートにも興味がないから、本当の今の流行りというものは知らないのかもしれないが、いわゆる今でも聞いているロックのほとんどは、昔から今までほとんどギター・ロックばかりである。だから世の中がそんなことになっているなんて印象は露ほども感じていなかった。今だってラジオでかかっているのはウィーザーだったり、レッチリだったりするし、最近はブラック・キイズがまた何か出したな、という感じだし、それらはちゃんとヒットしているはずなので、ギターロックを聴いてない人々の存在の方が稀有な印象を持つんだが……。しかしまあピンク・フロイドが新譜を出したりして(これはウクライナ戦争があったからだけど)、世の中信じられないようなことが起こり得るんだな、ということは感じている。
 でもまあオリビア・ロドリゴが長い間ヒットチャートに残っていて、ちょっと昔っぽいポップ・ソングが流行るものなんだな、とは感じていた。でもこれは今時の多様性ともおそらく関係があって、父親がアジアンのようだし、ビーバドゥビーもサラミもそうなんだという。ミツキは日系が混ざってるようだし、スーパーオーガニズムはボーカルが日本人だし、最近は星野源もかかわっている。ジャパニーズ・ブレイクファーストは名前からして日系かと思ったら韓国だそうだ。そういう感じじゃないと流行らないということはないかもしれないが、いわゆる多様性が具現化した現象であって、人々が素直に偏見などを感じることなく受け入れられるようになった、ということは言えそうだ。
 ギターロックとは関係ない話にはなったが、時代が回転して先祖返りするようなことはあるようで、そういうものが若い人には新しく聞こえるのだということであれば、そういうものですか、とちょっとだけ驚いて見せても良い。というか、それなら一緒に聞きましょうよ、という気分になってもいいかもしれない。
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ロックの時間の流れは未来とは限らない

2022-01-31 | 音楽

 何がきっかけだったのか今となっては思い出せないが、ロバート・クレイが聞きたくなった。持っているはずだが、探すのがめんどくさいな、と思ってアマゾンを開いてみる。中古だと安いけれど、これは海外版かな、時間がかかりそうだ。どうしようとか思いながらよく見てみると、購入履歴2回と書いてあるではないか。前にも探すのが面倒で買ってしまったに違いない。自分のことながらしょうがない奴だな、とは思うのだが、すると2枚あるので探せるのではないか、ともひらめいた。ふつうそれが先に思うことであるべきだが……。
 で、探してみた。CDというのは小さいので詰めて重ねて保管してしまう。だからいろいろとひっくり返してみなければならない。アルバムの雰囲気というか、だいたいの感じは記憶してるけど、いろいろひっくり返すと他のアルバムも当然目に入る。引っ越しの時に昔のアルバム(この場合は家族などの写真のことだが)を発見して見ハマってしまったように、あれこれこんなのがあるな、などと感慨にふけってしまったりして、なかなか進まない。ちょっと休憩して結局ユーチューブでスモーキング・ガンだけ聞いたりしていたら、ありました。ちゃんと持ってたよ(当たり前だ)。
 で、聞いているのだが、やっぱりいいですね。CDをひっくり返したついでにベックのアルバムとかニール・ヤングなんかも掘り出して聞いたりして、なぜかレッチリもトゥールもファンカデリックも一緒に聞いている。まったく一貫性が無い。でもまあ一気に昔に気分が遡る。僕はそんな時代があったのだ。
 録音しておいたラジオ番組を通勤の時に聞いていると、コステロとニール・ヤングの新譜だってさ。前の週グリーン・デイの昔の音源やキング・クリムゾンなんかも新譜が出てたって紹介してた気がする。今はいったいどんな時代なんだ。やっぱり結局ロックっていうのは演歌のような感じで昔の人が聞いている分野なんだろうな、って改めて思う(※)。新しいのはノバ・ツインズがいいと思うが、これもなんだか古臭い感じがするもんね。若い人には新しいのかもしれないけど、知らないだけのことだろう。まあ最近はそういう話ばかりで、ヒップポップなんかもメロディがついて昔っぽくなってるし、もう何が何だか分からない。世界は時間軸としては混沌としている。まるで量子力学だな。

※ 実際演歌は僕の子供のころくらいから始まった分野なので、そう古いものではないらしい。いわゆるロックより新しい、歴史の浅い分野なのだ。
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今年は古くて新しい人が多かった(音楽)

2021-12-22 | 音楽

 今年のことだったか記憶があやふやだが、最近ドゥービー・ブラザーズの新譜が出て驚いて聞いてみて、その古めかしさも日本の歌謡曲っぽさも屈託がなく、呆れてしまった訳だが、そういえば今年はだいたいにおいて古い人がたくさんまた出てきたな、と思ったのだった。
 まず、ポール・ウェラーが新譜を出していた。この人は元々むしろパンクでは無かった人だというのがよく分かる感じで、まあ、好きなことをまだやれるしメロディは綺麗だし、いいのである。あんがいコンスタンスに曲は発表しているポール・マッカートニーも良かった。なので本当に驚いたのは、マイケル・シェンカーだった。まだ生きていてのか! とも思ったし、借金は返したのだろうか? とも思った。しかしあんがいまともなので、やはり凄いのである。そうしたらアリス・クーパーも元気なのだ。これはちょっと驚いた。これもちゃんとしてるし、古臭いだけではない。そうしたらウィリー・ネルソンまで出てきた。まだしっかりしている。あきれるね、まったく。当時はまったく熱心に聞いてなかったけど、ジョン・メイヤーは聞いてしまった。泣きのギターだというのはそうなんだけど、古臭いまま若ぶるわけでなく若々しくしている。こんなに日本の歌謡曲みたいだったのか、と改めて思うのだが、やっぱり80年代辺りは、結構境界があいまいだったのかもしれない。ロバート・プラントはまたアリソン・クラウスと一緒に歌っていた。これはもう完成された芸である。そうして僕らは遠くを見る目になってしまう。もうすべては終わってしまったのだ。そういえば、チャーリー・ワッツも亡くなって、しかしストーンズはツアーをしたという。昔のストーンズの曲が、なんとなくラジオから流れてもいた。日本でも追悼していたのだろう。そうしたら最近デュラン・デュランも新譜が出て、ちゃんと新しいバンドみたいな顔をしていた。なんとなく気恥ずかしくて人には言ってないが、ジェフ・リンズELOはちゃんとアルバムを買って聞いていました。昔は全然好きじゃなかったのに、僕も感傷的になったのだろうか……。
 新しめの久しぶりというのもあって、最初はジェイク・パグだった。もうギター一本で歌うスタイルではないらしい。フー・ファイターズもちゃんとしている。元気がある。やっぱりドラムがいいですね。グレタ・ヴァン・フリートもメジャーな貫禄がちゃんとついていた。素晴らしい。それで実は本当に驚き目立ったのは、グリフ・リースである。なんだか宗教じみていて、ほんとにこの人こういう感じのまま生きているんだな、と感心した。いいんですよ、これが本当に。
 昨年から今年の流れとしてはビリー・アイリッシュなんだろうけど、オリビア・ロドリゴが出てきて、今年の顔になったという感じだろうか。そういえば彼女が崇拝していると言われるテイラー・スイフトもロードもいい感じの、そうして野心的な曲が流れていた。やっぱり才能は枯れていない。世界的にはマネスキンだったのだろうが、いや、下品で面白いので僕は好きです。
 サウス・ロンドンの流れでソーリーは少し古くなって、ブラック・ミディが出てきてドライ・クリーニングが出てきて、最後のブラック・カントリー、ニュー・ロードが流れをかっさらっている感じになった。でもちょっと鼻につくんだよな、新しいのは。でも、こういうのがウケるというのは、やっぱりそういうのがいいという層のようなものがしっかりしているのだろう。
 楽しく驚いたのは、ザ・リンダ・リンダズで、日本の影響力が世界的にも根付いているという感じがして、いいのである。でもまだキッズで可愛いからだろうけど。
 最後に素直に今年でよかったのは、ビーバドゥービーであったりする。一曲で消えるのかとも思ったが、案外いい曲が続く。最後になってアデルが出てきて、さすがである。聞かせる。昔っぽくなって素晴らしかったのはブルーノ・マースとなんとかかんとかで、なんだかマービン・ゲイの時代のかっこよさをもっと明るくしたようで、心地よい。実はふつうは女の人たちが聞くんだろうけど、ケーシー・マスグレイヴスも聞いてました。僕はこういうの好きなんです、なんでだろう。
 でも本当に一押しはアミル&スニッファーズでした。もう、最高。古いのを若い人がやっているだけで大好きです。で、本当にかっこよかったと思っていたのは、ザ・ブラック・キイズでありました。結局僕はギターサウンドが好きなんだろうね。新しい頭にはなかなかなれないものなのです。
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