カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ということで、不在にしております。

2013-03-31 | 音楽
radio bar 'sky full of holes' 'Fountains of Wayne'


 実は今日から台湾に行っているはずなんですよね。これは自動更新なんで時間差があるんですが、せっかくだから結構楽しんでいる自分が現在進行形で存在すはずなんであります。おみあげ話は後日として、みなさん、僕の旅の安否はともあれ、良き日でありますように。
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古典の新しさを観る   丹下左膳余話・百万両の壺

2013-03-30 | 映画
古典の新しさを観る
丹下左膳余話・百万両の壺/山中貞雄監督

 のんびりしているというか、それでいてかなり滑稽というか、ふざけているようでいて、人情的であるというか、妙な味があって、それでいて現代的に洒落っ気があるという変な名作コメディである。
 基本的に落語のようなお話なんだけれど、百万両の価値のあるという壺をめぐって、まわりの人間がいろいろと翻弄されていく。知っている人と知らない人がいるコントラストも面白いが、妨害が入るその理由もなんとも間抜けな感じである。人も死んで深刻な事態になっても、どこか飄々としている。しかしその裏では信頼や愛情や人間の深い感情も、ちゃんと読みとれるようになっている。コメディといったが、なかなかそのあたりも面白いお話しという気がする。
 そういうこともありながら、やはりなんでこのような見事な演出というのが、その後日本映画の本流にならなかったのか、ということが不思議に思える。このような機微が段々と分からなくなっていく世論的な背景があるのではなかろうか。ハリウッドの映画にしても、過去の作品にはこのような洒落っ気のあるものは結構見られるのだけれど、現代的になるにつれ、段々と単純で大げさなものになり下がっていくようにも思える。西洋にしろ東洋にしろ、時代は段々幼稚化していくような流れなのかもしれない。
 もっともその時代の人が、この表現をよく理解していたのかどうかは、今となってはよく分からないことで、やはり分からなくなっている背景が、そのような演出への要望となったということなのかもしれないのである。それでいいという多数派の意見なんかを聞いている弱い人間が多くなると、やはり世の中というのは単純にならざるを得ないということなのであろう。
 それにしても、そのように優れた演出であるからこそ、実は多くの人がこの映画を忘れないということにつながるのである。やはり、残るというのはそのような価値を見出せる人のつながりのなせる業である。名作や古典というのは、しかし観られるという機会が、やはりどうしても少なくなりがちであると思う。どういうきっかけがあるのかという出会いが必要で、時折強制的にでも、いや定期的にでもそのような機会を作るという取り組みは必要なことかもしれない。そうして現代的にもその価値は再評価されていくに違いなくて、その影響を受けて、また新しいものが生まれていくのであろうと思う。
 まあ、堅いことを抜きにしても、普通に楽しめる映画なのだから楽しんだらいいのである。そうして、やっぱりこんな映画を観たいな、という思いを新たにしていくことが、大切なことなんだと思った訳である。
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来るべき次の人たち、いでよ   幼年期の終わり

2013-03-29 | 読書
来るべき次の人たち、いでよ
幼年期の終わり/アーサー・C・クラーク著(光文社古典文庫)

 いわずと知れた古典的なSF名作。たぶん本棚を探せばもう一冊は出てくるはずだ。しかしながら何となく読んだ記憶が無い。少しくらいは読んだかもしれないが、たぶん全部は読まなかったのだろう。理由はその時の自分に聞いてみなければわからないが、今回はすんなり読了したことを思うと、気分が乗らなかっただけのことだろう。
 古典とはいえそんなに古臭いお話では無いし、もっと哲学的なお話かと思っていたが、わりあいとっつきやすいお話ではないかとも思った。まあ、ある意味ではいろいろと想像力を刺激されることも確かで、妙にあらを探したくなったり、別の展開が可能かどうか考えてみたりしながら読んでしまった。そういうところが古典的名作と言われるゆえんなのであろう。
 今となっては様々な物理的な法則がいろいろと未来を予想させることを手伝っているといえるが、人間の想像力もどうして、未来の形としてはそれなりに予測的なことを考えることも可能であろう。必ずしもそういう性質だけの作品では無いのだけれど、宇宙から異星人が来るとしたら、空間の移動能力の差があるのは確実だから、必ず地球人の能力よりもはるかに優れた文明をもっていることは間違いない訳で、その上何かの使命をおびてくるだろうこともあって、このような物語が、あながち的外れなものではないという気はする。
 しかしながら、最初は一種のユートピア小説風の、地球規模の平和な世界の構築が描かれる訳だが、しかし時代を越えて、物語は次の展開を見せていく。そのあたりが観念的と言われることになったのだろうけれど、特段そのようなことを気にする必要もない気もする。物語としては、なるほどそうなってもいいのかもしれないとさえ思わせられるのだった。人間がはたしてそうなるのかというのは、つまるところよく分からないとしても。
 さて、進化の過程で現在の人間の姿があるとすると、これからの人間は、さらに進化をするということは言えるだろう。どのような姿や能力を持つことになるのかというのは、多くの人が考えているはずである。見た目はどんどん幼児化しているので、子供のまま成人になるということも考えられるし、顎が退化してすべて二重あごになるなどという話もあるが、はたしてどうなのか。
 どうも進化する過程で、ある程度同時にその種が変わるようであるということは分かっていて、しかし同時といっても時間的にはそれなりに何万年とかそれ以上の時間を必要とするのではないかという話もある。例えばイエス・キリストだとかお釈迦様だとか、もしくはレオナルド・ダビンチだとか、まあ、誰かは分からないが、非常に能力が抜きん出ているように思えるような人間というのは、実は次の世代の人間の姿かもしれないとも考えられている。最初はポツポツ現れている歴史上の人物かもしれないが、それがいつの間にか僕らと入れ替わってしまうのではないか、ということらしい。
 能力として有望なのは、やはりその優れた知力であったり、一種の超能力のようなものではないかと考える人もいる。テレパシーが使えるとかものに触れずに動かすことができるとか、段々オカルト的なことを楽しく想像してもいいかもしれない。宗教的な奇蹟はだから、本当なんだという話もある訳で、まあ、そこまで付き合うかはともかく、我々と違った能力があるらしいことは間違いあるまい。そして、その能力については、旧人間の側からすると、恐らく理解できるものではない可能性も高いのであろう。
 実はそのような話は、特に日本ではサル学というのがあるから、ずいぶん以前から議論のある話であるのだが、これを西洋的な視点から考えると、このような小説になるのではないかということも思った。つまりやはりちょっと文化的に宗教的な感じもする。でもまあ未来の人間像がある意味で一緒であるという方向性は、やはり面白いと思う。
 そういう次の人間を見てみたいと思う反面、もうすでにその機会は僕の世代では難しいのかもしれないということも分かりかけていて、なんだか残念だという気もする。もちろん、今日明日にもオーバーロードが地球にやってくるとしたら、少しはその望みもかなえられるかもしれないのだが…。
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安さがリッチさを実感させる訳で

2013-03-28 | 散歩

 出張中でも昼は何となく街をぶらつくことにしている。早飯食った後だけど、飲食街ではさまざま呼び込みの声を聞く。都市部というのはどこも競争が大変だ。
 近年とみに目につくようになったのは弁当かもしれない。500円というのもあるけど、大抵400円350円とか。中には200何十円というのもあるようだ。さすがに安いなあと思いながらやり過ごす訳だ。
 場所によって微妙に違うものの、ランチの食材と別に弁当を作る店が増えているのかもしれない。さらにオフィスが近いという環境もあろうが、店だとせまいという事情でもあるんだろうか。
 何かの番組でやってたけど、サラリーマンのランチ代というのは二十年前は740円くらいだったものの、現在は510円を切っているということだった。二十年前はたぶんピークということだろうし、バブルというのを差し引いてもその差230円というのはさすがに大きいとは思う。皆さん大変なんですね。という訳だ。
 しかしながら考えてみると、だいたい昔は昼飯代というのは、やはり高かったんじゃないかという気もする。いわゆる円高にともなうデフレの影響で、お金の価値があがった所為で、500円程度で昼ご飯を食べることが可能になっているということだろう。その間実際に所得が減っているということなら深刻には違いないが、いわゆるエンゲル係数として食費が減っているのであれば、リッチになっていることと同じである。店側としては苦しさに変わりないという主張もあるかもしれないが、消費者としてはその分所得が増えたことと同じである。
 僕自体の実感としても、ランチの金額がさがったおかげで、若いころに比べると大抵リッチになったという実感がある。若い頃はきびしかったよね。今は都会でも二三百円あれば弁当が食える訳で、なかなか食いっぱぐれるのも厳しくなっているということだ。
 あとは精神的余裕が付いてこないことには楽しくない訳で、こういう国だからこそ、文化的にもっと金をつかって欲しいものだ。もっとも不遇だったからこそサブカルが栄えるという話もあるから、またややこしくなるのだけれど…。
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再構築されて残る映画   桐島部活やめるってよ

2013-03-27 | 映画
再構築されて残る映画
桐島部活やめるってよ/吉田大八監督

 評判のいい映画というのは警戒の必要なものもあって、観た人の思い入れが強すぎて、傑作であるが故の一人歩きがなされ過ぎている場合があるということである。しかしながらこれを見てすぐに思ったのは、やはりそれは仕方のない作りだということだった。羅生門的な視点のズレを利用して、一つの出来事をいろんな角度から検証し直すという、ある意味でよくある手法を用いられているにもかかわらず、やはり斬新な語りのような雰囲気を醸し出している。その上抽出されている人物像が、あるある大事典的な思い入れ可能な生きたキャラクターばかりだというのが大きい。僕のような世代の違う人間にとっても、何となく聞いたことがあるような会話と人物の造形があって、それはそのままファンタジーだということは分かっていながら、感情的な青春が蘇る気分というものを体験できた。それだけでも素晴らしいということは言えて、恐らく若い人たちにとっては、極めてリアルな映画体験になっているのではなかろうか。
 普通に考えると桐島的な人物の周辺にいる人間こそが、やはり学園的には変わらないヒーロー・ヒロインである訳だが、物語もその流れを踏まえながら進んで行くのだけれど、周辺にいるオタク達の存在の方が、段々と逆転して行くさまが一番の見どころと言えるかもしれない。いや、結局は何となく悲しさも残るのだけれど、しかしそのリアルさというのは、単なるサイドストーリーを越えているという気がする。もちろんその思い入れの無い人もひょっとするといるのかもしれないけれど、さらに僕自身の体験からして、オタク組とは一線を引いているところはあるのだが、しかし、やはり、仲間としての青春の形はそこのあたりにあるはずだという感覚はあった。
 考えてみると日本社会というのは残酷なところがあって、いわゆるスポーツが出来てイケ面で、多くの人に一目置かれているような人間が、社会に出て同じようなヒーローであり続けられることの方が稀である。違う世界において自分のポジションを確立させる必要があって、そういう人間の方がハンデを背負って生きていかざるを得ないところがある。つまり大学から就職ということの方が人生の運命を決めているところが大きくて、それは公平なことである半面、一部の人の大きな挫折の物語でもあるのではないか。
 映画自体はそのようなことを言っている訳ではないが、しかし学園生活を好き勝手に闊歩しているように見える人間の方が、その実、やはり空虚なままであったという事実も浮き彫りにしている。何かに熱中してカッコ悪い人間の方が、やはり実地に生きていたということコントラストがある訳で、陰にいた人間が桐島のおかげで表に出てしまっただけのことで、本当の物語は今も現在進行形で繰り広げられているに違いないのである。
 説明は最小限だが、このような映画の作りこそ、日本映画の将来を切り開く方向だという気もするし、いや、むしろこの方法はタランティーノ達が日本の過去の映画から学んだものを再構築したものであるとも言えて、さらに多くの他国の映画人も、この映画に刺激を受けて自国の環境で再構築するに違いないと思う。映画としての影響力のありそうなものとして、いわゆる残る映画というものであることは間違いあるまい。
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学べることが多い人たちのようだが

2013-03-26 | ことば

 「さとり世代」という言葉があるのだとか。例えば車やブランド物に興味が無いとか、海外に行こうとしない内向きだったり、恋愛に淡泊なんだとか。まあこれはいつもの釣りだからふーんと言っておいてもいいんだけど、やっぱり実感や共感の伴う人もいるんだろうね。まあ、若い人でそのような態度というのが一定数いるのは至極当たり前のことみたいだけど…。
 そういえばと思うのは、最近ご年配の人によくそういうことを聞かれるなあ、と思い当たったりはするのである。僕を若者のサンプルに入れること自体何かおかしなことには違いないが、確かに僕は服には興味が無いし車なんて何でもいい。恋愛はもうしたくないし、海外はともかく日本のことを憂いているところはあるかもしれない。
 でもまあ、実情としては、服に興味を持ってもいいんだけど、何かと今更時間をかけるのが面倒というだけだし、基本的に他人からどう思われようといいという生き方をしようと若い頃に考えたからであるから、一種の思想である。もしくは自意識過剰の産物だろう。車だって現実的に時間を割くのが二の次になっているだけのことで、将来は分からんよ。バイクだって好きだしね(たぶん)。恋愛の方は新しいのが嫌なだけのことだし、それに今があるからいいじゃないですか。海外は留学してたくらいだから興味はあるのだろうけど、結果的に日本の良さを再発見したのかもしれないしね。ああ、でも別にさとり世代じゃ最初から違うんだろうけど。
 昔から若い男がガツガツしてたなんてたぶん幻想で、中年あたりの人々より気遅れしてたようなのが昔から存在する訳で、そういう自分を合理的に演出しているだけのことだろう。実際に人間社会では若いだけでは男はどうにもならん訳で。まあ、それでも自然に恋愛はしているのが当たり前で、そんなに深刻になる必要がそもそもあるまい。むしろそれを隠せるだけしたたかになっていたり、すなわちチキンハートだったり、学習しただけのことだろう。誰もが自分が可愛い訳だろうしね。
 問題はやはりご年配の人たちがそう誤解したりだとか、実際に2ちゃんから広がったということで、若い世代の象徴的な姿に思いたいということの方が、何かがあるということだろう。消費不況を説明したいのかもしれないし、単に非難したいということかもしれない。でもまあ、普通に不毛であることには変わりない。
 年配の人でも団塊の世代などというのが代表的だろうけど、そういうレッテル通りの人が団塊にいるのかというと、あんがいそうでもないんだけどね。まあ、無責任な年頃になっているだけのことなんではなかろうか(これこそ偏見)。
 まあ、仮にそうだとしても、さとり世代というのが本当に居るとしたら、ずいぶん賢くしあわせな人達には違いない。人間欲があるから面倒なことが起こる訳で、長い年月を経て欲を捨てる人生を歩んで行くわけである。それでもなかなか欲が捨てきれずに苦しむ訳で、人生の最初の頃にその達観が出来るというのは、得難い経験であるということではなかろうか。
 学べるものがあるとしたら、やはりそういう若者からということを言いたい訳ではなさそうなのが、他の世代の悲しさであろう。
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髪も染まってきたねえ

2013-03-25 | culture

 春になると道行く人たちの髪の毛がいろいろカラフルになるようだ。桜も咲いているし、春の日差しにうかれている人が増えたのか、というとそうでも無いらしい。よく見ると自転車に乗っている人なんかもいて、要するに高校を卒業したばかりの人々ということのようだ。さらに進学が決まった人という意味もあるらしい。中には金髪もいるし、形容しづらい色になっているのもいる。正月にもそういう人々はいるが、服装からしてそういう人でも無いようだ。まじめだけど、デビューに備えているということなんだろうか。
 一方で、就活とかが始まると髪を黒くするらしい。つまり髪を染めるのは、一種の学生であるという信号でもあるかもしれない。もしくは自由人というようなことなんだろうか。僕なんかも長髪にピアスあけてたクチだから同類なのかもしれないが、はっきり言って当時の気持ちは忘れてしまった。まあ、ちょっとした反社会的な気分と、やはり大人社会のめんどくささへの拒絶という意味はあったかもしれない。それとやはり同世代への同化だろうね。それはそれで楽しかったかもしれないし苦しかったかもしれない。若いというのはそれなりにそれだけでつらいことだし…。
 引き続き学校の先生というのは大変なんだろうなあ、と思う訳だ。消費者としての学生がいて、そうしてその背後には親がいる。髪を染めていることに同意していることは間違い無くて、そうしてだから、ものわかりがいい子だから就職時には黒くなる。そんな子たちが自主的に成長するもんなんだろうか。
 いや、モラトリアムだったね。そういう意味ではやはりいい時期なのかもしれない。要は金で時間を買っている訳だ。ある意味で一斉に髪を染めるという行動が、彼らの素直さを表している。そういう時期を経て、多少ひねくれた大人になってくれると、それなりに混乱した楽しい社会が待っているという訳だ。
 そういう意味では、実は髪がおとなしい子こそ変なものをもっている可能性があるのかもしれない。世の中というのは見た目よりずっとややこしいものなんだろうね。
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気になってたけど諦めた件

2013-03-24 | 音楽
Kings of Leon @ Mary (Jimmy Fallon)


 なんだか楽しそうなんだよね。ベースが変な弾き方してるのも面白いです。


 ところで、ある人達との会話の中で「アメトーク」という単語の意味が分からなかったのだが、何となくアドバンテージをみていたら次の話題になってしまい聞きそびれてしまった。
 後日ふと思い出して、別の人に、ところで「アメトーク」って何? と聞いたら「雨上がり決死隊のトークだから、アメトーク」と教えていただいた。しかしさらに「???」であることに変わりは無いのだが…。
 でも、もう特にその先は知りたくも無くなってしまった。
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ひとのことを笑う段か

2013-03-23 | 雑記

 役員改選の時期である。一年で一番嫌な時期といっていいかもしれない。一難去ってまた一難。そういうことの繰り返し。いっそのこと、なんて根負けすると数年、時には10年単位で面倒なことになる場合がある。世の中外野人生がいちばんである。というか、そういう人がいい人である場合の方が少ないが…。
 ともかく、別にいいのであるけど、よくないと思うのは、一所懸命画策してこれを避ける人物がいるせいかもしれない。自分としてやれることは別段やってもかまわないのだけれど、つまるところ気持ちよくやりたいだけのことかもしれない。そういう気分をぶち壊すのが、ずるく立ち回るように見える人物かもしれない。理由はいろいろあろうけれど、客観的にそうすべき人がそうしないから、そうすべきでない人が苦労をする。人生逃げればいいってもんじゃないだろう。
 さらに人事というのは、やりたい人間にさせても上手くゆくとは限らないことだ。やって欲しい人にやってもらうということが大切で、誰にやって欲しいかというのは実は相対的に目星は付いている。おそらく、本人にも自覚があるはずだろう。
 さてそういう訳で、おさまるところにおさまらない場合はどうするか。暫定的にやるしか無かろう。または順番にやりますか。順番というのはもっとも非民主的手段だ。つまり日本はホントに民主主義が根付いて無いな、と思うのである。しかし心の中で、北の将軍様たちを笑っているはずだ。結局面の皮の厚い人々の寄り合い所帯というのが、現実なんであろう。
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自国だけの問題ではないけれど

2013-03-22 | ことば

 諸外国で日本人がよく訪れるところでは日本語の案内が見られるはずである。よく見ると誤字があったり、そもそもの文法が間違っていたり、なかなか意味の分からないものがあったりして、それなりに楽しい。まあ、楽しいうちはいいかもしれないが、ひょっとしたら却ってそのような表記による実害というのもあるかもしれない。
 言語が広がりを見せるのはこのような経済問題だが、日本語の広がりよりも将来的には英語や中国語という分野のものが影響は大きいだろう。特に英語は既にそういう言語になってしまっており、恐らく、いちばん乱れた表現が日々生み出されているに違いない。以前の日本製品の英語表記がおかしいというのは英語圏のジョークにはよく見られた現象であったが、日本以外の国でもおかしな英語を大量に生産していることであろう。
 研究分野などでは英語でコミュニケーションをとろうという動きは以前からあったようだが、その結果英語を添削するという作業が必要になっているようである。多少変な英語でもいいのだけれど、研究者すべてが英語が上手い必要は、当たり前だが最初からあるわけがない。仕方がないので添削してもらうより無いだろう。英語が堪能な日本人の研究者の英語が完璧すぎて、本人の研究では無いと疑われるケースもあるのだという。上手く書き過ぎてもいけない訳で、日本人の英語が駄目だと嘆いているくらいでちょうどいいのかもしれない。実際のところ若いうちでなければ他の言語の習得がむつかしいのは脳の機能であることは証明されていて、日本人の能力の問題なのではない。自分の言語で無いのなら、最初から適当に上手くなる程度がいいということのようだ。
 将来的に世界の言語が英語化してしまったり、また中国語化してしまうというような事は極めて考えにくい未来だ。むしろメジャーな言語は分離化していく傾向にあり、将来的には乱れた(たとえば)英語こそ本来的な実用のものになるということだろう。英語圏の人だけが妙に感じるものが主導権を握るという可能性がある訳で、何がおかしいなどと言っている人の方が取り残されるような、妙な逆転現象が来るべき将来像という気がする。
 言語の将来性はつまるところおそらく経済問題である。日本語が無くなるとしたら、経済をおろそかにしたツケということになるだろう。今は日本語の発信のものであっても、広く世界的に翻訳されるようになっている。日本の考え方はそれなりの興味を保っているというべきなのだろう。将来的にはそのような力をどのように維持するだとか伸ばすのかということを考えたり心配すべきであるようで、言葉の面だけを取り上げて杞憂しても始まら無いのではないだろうか。
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カマキリみたいな人もいるにはいるが

2013-03-21 | 雑記

 小学生のころからメガネをかけている。高校生の時に運動部だったのでコンタクトにしていたが、結局メガネに戻ってしまった。コンタクトは便利だけど、まあ、段々とメガネでもいいかなと思ったのかもしれない(忘れた)。
 そういう訳で習慣としてメガネをかけることは特に苦にしてない。メガネが無いと生活が出来ないので、ほとんど体の一部である。例えば銭湯のようなところでも、洗っている以外ではメガネが無いと移動が出来ない。方向性が決まると外しても何とかなるかもしれないが、見えない状態に慣れてないので、いつまでも我慢できない感じかもしれない。
 そういう訳で、たぶんだけれど、僕のようなメガネ人間にとって意外な憧れというのがあるんではないかと思う。それは他でも無く、サングラスなのである。
 目が悪い人間がサングラスをかけると、本当に見えなくなってしまう。つまり近眼人間は、おしゃれとしてサングラスの選択が現実として出来ない。もちろんコンタクトなら可能だし、いわゆる近視対応のサングラスを作るという人もいるかもしれない。しかしながらタモリのような人ならそれでもいいかもしれないが、サングラスというのは、一時かければいいという、いわば帽子のようなものである。裸眼の性能の悪い人は、よほど身の危険を犠牲にしない限りサングラスは不適当なのである。
 サングラスをしている人が特にカッコいいと感じている訳ではない。おしゃれという側面もあるが、実用の面でかけてみたいという思いがあるのである。メガネの上からかぶせるようなやつがあるにはあるが、何となくかさばる感じがして気に食わない。せっかくメガネに慣れているのだから、普通にかけるようなのがいい。
 それというのも、日中にけっこうまぶしくて涙が出るのである。白い服の人の後ろにいる状態もつらい。朝日も嫌だし夕日も嫌だ。冬は比較的ましなんだろうが、強い日差しの時はつらい時がある。軽い吸血鬼の気があるのか分からないが、元気に外にいるというのがつらいのかもしれない。まあ、いつも部屋の中にいたい訳でもないが…。
 最近はマラソン・ランナーなどでサングラスの人が増えているように思う。たぶんテレビの影響で、苦しい表情が表に出るのを嫌っているんじゃないだろうか。苦しいことをしているので仕方ないが、テレビや写真というのは残酷なところがある。走りたいが表情を見られたくないというのは人情ではあろう。
 そういう表情を見られたくないというような心情にある訳ではないが、一時逃避にサングラスをしている人というのは多いのではないかと推察する。人ごみで一人になる状態は、ひょっとするとサングラスの演出にあるかもしれない。人も寄せ付けづらいし、自分も孤立できそうだ。
 目を見て話をするというのは、あんがいつらいことだったりする人もいるのかもしれない。近視の人は、そういう圧力とも日々戦っているのである。いや、もちろんサングラスに何の縁も無く生きている人も多いのだろうから、メガネかけだけの苦悩では無いのだろうけれど。
 たぶん選択できないという思いと、無理してまでそうしたくないという思いのバランスが悪いのだろう。サングラスをしている人はそう多い訳ではないのだけれど、やはりその特殊性を楽しんでいることは間違いなさそうに思える。老後にレ―シックでもやりたくなったら選択肢の一つに加えることにしよう。
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片付けるには必要な日

2013-03-20 | 音楽
Butch Walker Performs "Temporary Title"V005212878


 アコースティック版。これはこれでなかなかいいですね。

 世間がどうなのかは関係ないけれど、普通に日勤ということを悲しく思わない必要はあると思う。つまり、やはり関係無いと思わなくてはならない。代わりにどうかすることが出来るかはともかく、やれることをさくさくやる。やはり、必要な日なんだという思いを強く持とう。はい、自分自身に言い聞かせている訳です。皆さんごきけんよう。
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心は亡くなるのだろうか   二週間の休暇

2013-03-19 | 読書

二週間の休暇/フジモトマサル著(講談社)

 「忙しいという漢字は心を亡くすと書く」などという話は、ある程度の忙しい人なら誰でも共感のあるものだろう。それが実際に忙しくて聞く耳が無ければ、それがどうしたであるが、つまりやはり忙しくても心を亡くしたくないという願望が我々にはあるらしい。いや、実際忙しくてたまらない時には、悲鳴をあげて逃げてしまえればどんなに楽かな、などと夢想する。そういう時間は他人の目からは自由だから、それくらいはしたって何もかまうことは無い。しかしやはりそれなりに無駄で、忙しさをやりくりするよりほかに無い。それが心を亡くす行為なのかどうかというのはよく分からない。少なくとも妙なことにかまっちゃいられない。そういう行為を心が亡くなっていると形容することは可能かもしれない。でもまあ、忙しい時に無理を言いなさんな、という気もしないではない。
 しかし、忙しいから余分なことをするというのはありがちである。学生さんなら試験勉強のときに他のことに集中してしまったりの経験はあるだろう。掃除してたり引っ越しなんかの時も、本を読みふけったりしてしまう。忙しいのにあんがい時間はある。いや、事実として本当は無いのだけれど、それでも嫌なことからは逃避したいだけのことだろう。気持ちが張っているので、嫌なこと以外ははかどってしまう。本当に嫌なことは、もっと限られた時間でやっつけてしまいたいものなのかもしれない。
 たいして忙しくない人が「忙しい忙しい」と慌てふためいているということもよくある。能力の問題として非難したい気持ちもあるが、たぶん忙しいと思われたい願望というのがあるのだろうと思う。もしくは本当には忙しくなんかなりたくないから、防衛線を張っているということなのだろうか。もちろん本当に能力の無い人であるならば、その忙しそうな人に物事を頼むような危険なことはたぶん誰もしない。仕方なく危なくない仕事を少し回すような余裕のある時なら別であるが…。

 実は最初から少し病気なのかな、という感じはしていた。しかし、これは病気の話なのではない。不思議な話ではあるが、本当にファンタジーというだけのことなのかはよく分からない。ふと忘れていたことが忙しいさなかになぜだか復活して、膨張して世界を構成したということなのかもしれない。それは物悲しいことでもあり、どこかしあわせなことだったのかもしれない。そして、恐らく自分の何かは再生する。
 忙しさというのが自分を救ったのか、むしろ忙しさを救うためにそのような能力が芽生えたのか。そんなような事を考えてしまう。忙しくても、たぶん本当に心は亡くなりはしない。漢字の成り立ちはどうあれ、忙しいから人間の感情が死んでしまうことなんか無いのではないか、と僕は思うのである。
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ごった煮オールスター戦   アベンジャーズ

2013-03-18 | 映画

アベンジャーズ/ジョス・ウェドン監督

 この手の映画では誰がどの程度活躍するのかというせめぎ合いも見所の様なところがある訳だが、バランスという点ではアイアンマンが抜き出ている感じもして、ひょっとすると興行順で役割を決めるということもあるのかな、などとも考えた。いや、興行順なのかどうかは実は知らない訳だが。
 というか、実際にはキャラクターにはほとんど馴染が無い訳で、個性的と言えばそうなんだけれど、日本のヒーローものと比べると、格段に画一的だしデザインもよくない人々がアメリカではウケるらしいというのはよく分かる。彼等はこの程度で満足するんだろう。というか、やはりどこか対象をある程度子供に向けるという偏見から抜けられないのであろう。日本も子供への視点もあるにはあるが、それだけではとてもやっていけない事情というのがあるのかもしれない。却って分かりにくいものも多くなっているのだけれど、やはり米国と比べると格段に違う姿になってしまう。そういうところが僕のような素人には面白いと言えば面白い。どうでもいいだけになるほどと思うのかもしれないが。
 これは他のヒーローものにも共通の疑問ではある訳だが、悪の目的というのも、何となくしか納得のできないものが残る。彼等も相当なリスクを背負って侵略を試みようとしている訳なのだが、それでいったいどうするんだろう。王様になって人々がひざまずいて、それで終わり? 出来なかったら苦痛を味わうというが、最初から悪玉の大将がやればいいのにな、とも思う。実はたいして野望を抱いていないというか、破壊が楽しいだけの方が説得力があっりすると思うのだが…。
 もちろん整合性の大切な物語なのではない。やたら派手だが、それはそれでいい。むしろそれは多くの人が望んでいるだろうことだから、まっとうな表現に終始しているということは言えるかもしれない。協力して出来ることと戦略が良く分からないだけのことで、物事を考えていくより行き当たりばったりの方が、正義の勝つ方程式ということなのかもしれない。
 それにしてもスケールの大きな戦いであるはずなのに、結局局地的なご当地ヒーローであることに最後まで気付いていないところが、やはりアメリカというところの懐の狭さだと思うが、興行的には世界的にOKということなんだろう。やはり賢い環境は彼らの作り出している世界観なのであろう。
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やっぱり旬の人はちがうね

2013-03-17 | 音楽
Jake Bugg - Lightning Bolt - Official Video


 と、思います。

 ところでそんなに久しぶりでも無い人と打ち合わせする機会があって、「なんかだいぶ肥られましたね~、どうしたんですか?」と言われた。
 なんというか、どうした、ということを上手く説明する言葉が見つからなかったです。
 でもまあ、ふつふつとある種の闘志のようなものが湧いてくるのも確かで、そう言われるのはありがたいことです。ほんとに。
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