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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

駄目だこりゃ

2007-11-30 | 雑記
 またある団体の会議。テーマはどのような研修を行うかについて。意見を求められたので率直に答えるが、まあ本当はそこのあたりはあんまりどうでもいいような気がしないではない。
 ここの組織は、出席率が近年かなり低くなっている。新規の加盟も頭打ちである。そこで魅力ある研修を行うことによって巻き返しを図らなければならない、と前回の役員会で決まり、今回の会議となったわけだ。
 まあ、それはそうなんだけど、そう考える時点でなんだかなあ、と思う。発想が既に駄目なんじゃないか。もちろん、ある意味では正論であって、そして無難すぎる考え方だ。皆さんそれなりに大きな事業所の経営者の人が多いのだけれど、考える内容は知れているな、というのが率直な感想。今まではそれでよかったんだということか。
 まあ、愚痴はいいか。
 出席率が下がった一番の原因は何か。本当はまずそこのところなんではないか。いつごろから下がりだしたかとか、もう少し具体的な材料が欲しいところだ。数値がまったく見えていない。印象だけで物事を判断するのが一番危険だ。
 確かに総会などを開いても、委任状の数のほうが出席者より多いらしいという惨状ではある。由々しきことだなあとは思うが、委任状とか欠席している人たちを仔細に見て見ると、ほとんどが既に70歳以上の人ばかりである。これは組織の老齢化が問題なのであって、誰もいう人はいないだろうけれど、誰かが代わってやらなければならない問題だろう。そのままでいいという組織であるとはずいぶん危険だなあと思うが、いらぬお世話である。
 そういうことで問題の本質はたぶんぜんぜん違うところだ。縦からこんなに魅力的な研修がありますよ、といわれてもたぶん人は集まらない。パンダだけでは駄目なのだ。ある程度同じ業界の人が多いにせよ、内容はそれなりに違うものが多い。横の連携というか交流がないことには、この組織が本当には強くならない。もう少し交流できる場を設ける必要がある。何もすぐ懇親会を、ということではない。
 新規加入促進であっても、すぐに事務局から通知を出すようにだとかいっているようでは本当には入会するわけがないので、ブロックごとによりあって事業所訪問するだの、行動を起こすべきだろう。そういう地道な活動を活性化することが、結局は早道なのである。
 まあ、大変だからみんなやりたがらないだけで、そういう人任せな人が増えると、益々動きが鈍くなっていく。今回の会議も会長はじめ、三委員会ある中で二委員長が欠席である。事実上これは死んでいるな、ということなんだろう。また、無駄な会議に出てしまったものである。
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餅つきは伝統行事か

2007-11-29 | 雑記
 PTAでもやるんだけど、近所の公民館でも餅つきがあるらしい。朝から散歩していると主催者らしい近所の爺さんから熱烈に参加の要請を受けた。この間のPTAの会議の折にも勧誘を受けており、そのときはなんとなく場を濁して逃げ切ったが、散歩で対面しながらだとなかなかきつい。何しろその日は暇である。無理に仕事を作って逃げることにしよう。
 別段餅つきが嫌だということではない。いちおう息子に聞いてみたが、ちっとも乗り気じゃないのだ。むしろ参加対象でない長男のほうが乗り気で、それはそれで困ったものだ。彼はその日は暇じゃないのにどうやって参加するというのだろう。そういうことなのに参加させてくださいといわれるのが困るのである。だんだんエスカレートして他の呼びかけまでお願いされるのである。そんなに参加者が少ないのかと尋ねると、大好評で50人とか90人とかに増えるとかなんだか怪しい矛盾したことを言う。それじゃ別に勧誘しなくていいんじゃないかとふと思うが、なかなか敵も引かないのである。話を聞いている杏月ちゃんはとにかく八方美人なので飛び跳ねて喜んでいるが、僕は口をもごもご言わせながら困りきっているのであった。
 話は違うがPTAの行事でも学校で餅つきを行う。僕は職場でも餅つきをするので、そんなに何度もする必要があるのか疑問だ。突然餅つきブームになっているのだろうか。昔のようにという言い方をされる人もいるが、昔はそんなに餅つきが盛んだったかなあ、と思う。僕は子供会などで餅つきをした覚えはなく、父の職場で餅つきをしたという覚えしかない。僕のうちは別段百姓をしていたわけではないが、みんなで集まって毎年餅つきをするのは慣わしのようなものだったのだろう。父の職場が変わっても当然のように餅つきが行われていたようだ。友人の話を聞くと、どこの会社も餅つきをしているわけではなさそうだったから、父の職歴の方が特殊であるのかもしれない。
 また学校行事だと、本来の餅つきの意義というものがなんとなく曖昧になってしまう。実施しやすいようにということだろうが、いろいろと手順を短縮する傾向にある。だいたいほとんどの先生や親達だって本当に餅つきをする気があるんだか…。
 餅つきをするんなら仕事納めの日なんかだろうと思うが、餅つきにふさわしくない日があるらしいとも聞いたことがある。僕の職場のの風習かもしれない。ともあれ鏡餅を作らないことには話にならないと思うのだが、学校では当然つくらない。餅つきは当たり前だが正月に関連する行事であるが、そもそも正月まで餅がもたない。本当にそれでいいんだろうかと少しだけ疑問がないではないが、行事を消化することに意味があるようで疑問を差し挟んでも却下されるだけである。最後に子供に餅を配ればいいのだから湯とり餅はなくしたほうがいいんじゃないかという意見があったが、担当する老人会の人が反対するだろうということでやはり続けられることになった。しかしながら本来は餅つきと湯とり餅はひとつの塊としてセットになった風習なのであって、誰かの意向で変わるものではないような気がする。まあ、今の餅つきはそういう伝統行事ではないということが、前提にあっての餅つきというイメージが先行して出来た新たな行事なのであろう。
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また格差が開くのだろうか

2007-11-28 | 時事
 賞味期限の偽装問題で新たにマクドナルドも、という報道である。まあ、そういうことが続くほうが僕には当たり前のことのように思うが、報道する方はそう思っていないらしいとは感じる。今後そういうことをしたマクドナルドの店舗では、かなり安全にサラダを食べることが出来ると予想されるが、客足は減るのだろう。自浄作用にさえならない。苦しくなると、またそういうことをするところが増えるだけなのに…。
 飲食店の厨房というのはそもそも信用できる場所なのだろうか。思い出話になるが、僕は今はつぶれてしまった某ファミレスでアルバイトをしていたことがある。働くこと自体は大変に楽しい良い思い出だったけれど、最初の頃はかなりたまげてしまったものだ。掃除するにはしてあるが、何よりその厨房の汚さ。大量に油を使うので、いたるところにこびりついて埒があかない。思わず「うわー」っと声をあげそうになった。
 そうして働き出したのだが、次々と驚くべきことが行われていて、ちょっと人間的にどうなのかという思いを何度もした。基本的に他人を信用しない人間になってしまったのもその時の経験が大きいのではないかとさえ思う。そういう意味では僕にとって貴重ではあったわけだ。
 いろいろと内部告発してみよう。食い物を床に落としても平気で皿にも戻して客に出すというのは、店長をはじめ当たり前の行動だった。不二家では三秒ルールがあったそうだが、まだそう考えるほうが良心を感じる。中には御飯のような、いわゆる固形でないものを落としても戻してしまう人もいた。個人差も多少はあるが、本当に当たり前だった。
 最初は当然のように皿洗いをしていたが、残飯を片っ端から捨てているとチーフに怒られた。何故かというともったいないからである。特につけたしで出してあるパセリとかミニトマトなどは、見た目OKでなんども再生されて皿に盛られた。僕は普段の生活では、それまでパセリまで残さず食事するスタイルをとっていたが、この時点からそういう行為が出来なくなった。パセリはあくまで飾りなのだ。人間が食ってはならないものだったんだ。そういう社会的事実をはじめて知ったのだった。同じく大好物だがトマトもかなり用心が必要だと知った。トマトは家で食べるべき野菜なのだ。
 厨房はそういう感じなのだが、喫茶部というのがあって、パフェなどは接客係の人間が作る。これもびっくりしたのだが、チョコレートなどつまみ放題で食いながら、さらには舐めながらつくるような人もいた。かなりオエッときて、流石に止めるべきだと抗議した。それで僕は甘いものはほとんどとらないので、僕がつくることが多くなった。衛生的に少しだけ改善されたが、食ったことのないものを味見無しでつくっていたわけで、写真どおりならOKというようないい加減なものだった。あれで本当に旨かったのだろうか。
 また、ファミレスにバイトに来る人間というのは本当にいろんな人がいて、かなり世間的にはやばいような人間も多かった。客から苦情が来るとその客の料理に唾などかけて出すようなヤクザなやつもいるには居た。僕は基本的に客として苦情を言ってはいけないということを学んだ。金を払っているのだから当然だという人は、どんどん苦情をいうといいと思う。知らぬが仏である。
 確かにひどいことばかりなのだが、これもひとえに環境の悪さだろうと思う。店長さんは今考えると若い人で三十台半ばの人だったが、子供が一人居て手取りで二十万程度と聞いてかなり驚いたことがある。学校を卒業したらウチに来ないかと誘われたときに、当てにされているという気がして怖くなり、バイトを辞めた。今で言うワーキングプアの道だったのかもしれない。安い店というのは当然給与も安いのだなと、はじめてその道理を理解した。
 ウチのフェミレスではないが、友人もいろんなところでバイトをしていた。時々そういう話をして盛り上がっていたので、どこの飲食店も似たようなものだったのだろうと思う。だから誰でもそういうことは知っていることだと思っていた。テレビでコメントを求められている人たちは大げさに驚いているが、とんだカマトトではないだろうか。それともバイトをしたことがないのだろう。
 バイトというのはけっこうずるいもので、あるチキン屋ではたらいている友人は、わざと多めにつくりすぎて、余った商品を持って帰って家族の惣菜にあてていた。両親は学校の先生だったので、貧しい家庭ではなさそうだった。正社員がずるいのでバイトも悪くなるというのではなくて、バイトが悪いので、だんだん正社員のモチベーションが下がるということも多かったようで、指示を受けたから不正をしたということではなく、自然とみんながやりだすということが多かったようにも思う。正社員のクセにバイトより能力の劣る人というのはいて、転勤で店舗を移ったりする正社員の方が、パートのおばちゃんの言いなりというのは、ごく自然ななりゆきだった。そういう意味では、少しばかり規模の大きくなったところのほうが、環境は悪くなるのではないかと思うのだった。
 しかしながら、人間は環境に慣れてしまう動物だ。今思い出すとほとんどホラーな現場だったが、当時はそんなに悪いなんてぜんぜん思っていなかった。当時は飲酒運転も当たり前の時代だったし、今とはまったく違う価値観だったのかもしれない。世間的には今の業界がとんでもないというような風潮を感じるが、以前と比べたら、だいぶん信用できる世の中になっているんじゃなかろうか。
 特にこのように法的に不正の摘発が出来るようになったということも大きいだろう。以前は悪いながらも自分の働く職場に愛着をもっていたろうから、不正があっても摘発するような行動に移せなかったのではないか。また、同時に自分の不利益になるのだから、考えて見ると摘発の意味が薄い。今はライバルの会社から要請されればホイホイ話す人も多いことだろう。テレビのインタビューに答えている人が金をもらっているのかどうは知らないが、自分の職場の様子を平気で話す感覚が、旧世代の僕には良く分からない。もちろん不正はいけないのだが、自分だって同類だろう。
 もうひとつは格差社会だとうたいだしたマスコミの影響もあるように思われる。格差の底辺にいると感じている人間が、妙な正義感を持ってしまって告発してしまうのだろう。確かにいくら働いても将来性が薄いような気がする。こんな会社は制裁を受けるべきではないか。当然ながらこういう摘発が小出しにされることで、消費者としての利益は少しばかり向上するとは思う。もちろん多くの企業が不正していることは周知の事実だろうから、少し改善していることは想像できる。しかしながらコスト削減をギリギリまで迫られて競争をしている以上、撲滅することなど所詮無理だ。ギリギリの線でコストを下げる行為のほうがはるかに自然な行為だろう。そうすると物品で下げられないなら人件費をいじるに決まっている。雇用で守られている正社員は益々減らされ、バイトの待遇も落とされるだろう。ワーキングプアは益々将来が暗くなるしかない。特に大企業の足を引っ張ることは益々格差を開かせることにつながっていく。生産性の高いところが賃金も上がるので、当然購買力も上がる。そうやって波及して経済はさらに良くなるのである。しかしこのままでは、大企業はリスクのあるところはどんどん外注に出して、外注でやるところが絞られていく。当然給与の差がでることだろう。社会的な利益と思われる行為が、社会格差を助長させていく。平均給与が格段に高いテレビ局などのマスコミが、格差社会を煽るような欺瞞をするから、歪みが大きくなるのではないか。大きな会社が不正をしないとニュース価値がないのは分かるが、あんまり驚いて見せないで欲しいとは思うのである。
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オヤジじゃなかったね

2007-11-28 | 時事
 香川の事件は素直に驚きましたね。違う人が犯人だったなんて…。しかしながら、同時になかなか怖い現象だと思ったわけで、これがいわゆる大衆のファシズム現象のようなものなんじゃないかとも思うのだった。和歌山のカレー事件や、秋田の畠山事件の流れからして、ほぼ確定的にマスコミが情報を掴んだ上で報道しているものと多くの人は思っていたのではないだろうか。あれで犯人じゃないと思わない人の方がどうかしている。つまりまんまとマスコミに騙されたわけだ。これも自己責任とやらで騙された人が悪いんだとか、犯人だと断定して報道していないとか、まことしやかに言う人たちが出てくるんだろうね。そういうのを厚顔というのである。僕のようにテレビをあんまり見ない人間が見てごらんといわれて報道に接した時は、ほとんど確定的に犯人扱いしているとしか見えなかった。終わって言うのもなんだけど、それでブログに書くのを止めたぐらいだ。誰だって思うことは、たぶん他の誰かが書いているだろう。
 書いているということでは、多くの人がフライングして、それで逆に叩かれたり炎上してたりしているんだそうだ。中には活動停止まで追い込まれたタレントさんもいるんだとか。矛先がそっちに行っているわけである。そういう意味ではマスコミも大衆も同罪という感じはする。確定していないことは慎重に考える姿勢は大切だとは思うけれど、この程度のフライングは大罪とはいえないだろう。むしろ素直すぎた反応ということに過ぎない。香川まで赴いて(それが仕事だけど)ほとんど「アンタ早く白状したら」とマイクを向けていた報道の人たちに罪があっても、見せられていた人たちに罪を擦り付けるのはフェアじゃないと思う。
 それにしても子供を殺されて気の毒ではあるが、あれだけの役者がいたことでこれだけの誤解も生まれたのではないかとも思うわけで、これはこれで罪深いなあとも思う。いらんお世話だが、もう少しまともな生活を送って欲しいものだと思わずにいられない。世の中のだらしない人々の代表選手のような感じの人なので、多くの人の非難の感情が湧き起こったのではないか。そんなに変わらない人も一緒になって怒っていたりしたかもしれないが、ああいう人がご近所にいると、それなりにみんな不安になるものである。なんか事件でもおこしてくれない限り、ずっと我慢してなきゃならない。そうして事件が起こったわけだから、喜んで怪しい情報をたくさん報道に流してしまったということもあったのではないだろうか。
 ともあれ、大衆は容易に報道に流されるということが証明された。とっぴな話のように聞こえるかもしれないが、たぶん日本が戦争に突入する時も、新聞社はこのように煽ったのだろうと思う。現在は軍部の暴走であったというような解釈をする人が多いようだが、そうした大衆の支持を受けて材料を整え戦争に突入していったのが、当時の政府だったのだろう。大衆の支持を受けて、望みどおり政治を行ったわけである。皮肉なことだが、今の政治のように世論にそっぽを向けている方が、平和な世の中なのかもしれない。
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雑誌を読む

2007-11-27 | 雑記
 最近は本を読まずに雑誌を読んでいる。普段雑誌というのは飛ばし読みしてあんまり内容を読んでいなかったけれど、このところ真剣に読み出して、なかなかとまらない。分厚いものもあって、それなりの読み応えだ。しかしながら当然のこと、いろんな文章スタイルがあって、いちいち頭の切り替えを変えなければならないのが厄介だ。多くの人は、この切り替えがうまくいっているのだろうか。そういえば雑誌を読んで苦労するという話はあんまり聞かない。僕の頭が固いせいなのだろう。
 いろんな人のコラムのようなものを続けて読んでいると、頭の中が多様化するみたいな気がする。自分自身の考えがまとまらないような、そんな感じだ。何より僕とは違う人格の人の考え方が、僕にすんなりはなじまない。一冊の本を読んでいる場合には、徐々になじんでいって、時々同調して自分の考えで本を書いているような錯覚を起こすような文章があるけれど、雑誌のような短さだと、なかなかそういう具合のなじみ方がしづらいのだろうと思う。
 翻訳記事を読んでいると、やはり考え方に違和感を覚える。記事を書く視点が日本人とはやはり違う。組立やユーモアはあちらに軍配があるが、決め付けすぎて狭い考えの場合も多い。分かりやすさという点で、そういう書き方が求められているのだろうか。
 いや、日本の雑誌の記事が相対的によいわけでもない。日本の記者は文章も下手で内容もないのに書き飛ばす傾向が強くて、レベルとしては海外の雑誌のほうが高いとは言える。週刊誌は話にならないレベルで、はっきり言ってひどい。
 それに比べると科学誌だとか専門誌の文章は流石にいいものが多い。一般向けというのが、どうも駄目らしい。一般の人は、本当にこんなひどい文章を求めているというのだろうか。現場が忙しすぎて、手を抜いているのだろうか。
 しかしながら経済誌などを読んでいると、いろんな意味で世間が良く理解できるような錯覚があって楽しい。世の中はこうなっていて、将来はそうなるのか、などと感心してしまう。多くのビジネスマンはこういう情報を集めて、仕事に生かしているのだろうか。みんな偉いものだなあと思う。
 特に「東洋経済」の石油関係の記事は保存モノだった。将来は100ドルどころではないらしい。グラフも充実している。将来本当にこの記事のようなことになるのか、怖いながらも楽しみというか、そんな気分だ。
 雑誌の付録も楽しい。年末なのでカレンダーがついていたり、CDがついているものなんかもある。今は音楽ライフが充実しているので、もう少し暇になったら聞くことにしよう。落語だけど…。
 聞くところによると、雑誌というのは売れなくなっているらしい。広告収入が減ると、すぐに廃刊に追い込まれるのだそうだ。だから実際の発行部数は水増しして公表するのだとか。広告主にアピールするためである。広告主も薄々そのことに気付きだして、広告を出し渋る。どんどん廃刊に追い込まれて、また同じ編集部で新しく似たような雑誌を作っているような循環で回っているのだそうだ。まあ、詐欺なのだから続かないわけで、しょうがない話である。しかし書く方はそんな偽装をしていて平気だという業界は、やはりそんなに将来性がないのではないか。
 それでもいろいろ雑誌をめくっていると、やはり大変に楽しい。今回は流石に婦人雑誌は手に取らなかったが、銀行などの待ち時間に時々手に取ることがある。まったく理解できないが、たまになら楽しめないではない。料理の記事を切り抜いてつれあいに見せたくなるときもある。彼女にも考えがあるので言うことを聞くとは思えないので、途中であきらめる。
 なんにしろ啓蒙されるということで、雑誌を読むのもちゃんとした読書なんだろうと思った。普段手にしない傾向の雑誌もけっこう読んだので、一気に見識が広まったような錯角に酔っている。きりがないのでほどほどにしないといけないが、これからも買うことにしようと思うものもいくつか増えた。年末は飽きるまで雑誌を熟読していこうと思う。
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これぞ、してやったり

2007-11-26 | 時事
 昨日行われたらしい高校駅伝の近畿大会で、男子は全国大会に出場もれした須磨学園が優勝してしまった。それも今シーズン最速タイムだ。現時点ということではあるけれど、全国一のチームが来月の全国大会に出られないというのはどういうことなのだろう。まあ、選考レースである県大会での勝負に負けたのだから仕方のないことではあるとは考えることは出来るが、全国大会でもこの記録が破られないということになると、ちょっとした珍事ということになるのではないか。
むしろ、県大会で負けたことによって、ものすごく奮起して臨んだ大会でもあったことだろう。負けたことで本当に強いチームが生まれるということだ。成功することだけが人を強くするわけではない。須磨学園は天晴れである。
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薬膳料理

2007-11-23 | 
 熊本旅行の帰りに薬膳料理を食った。食う前に講釈を30分ほど聞くのだが、これがたぶんソムリエ効果が絶大なのだろうと感じた。事実その後五汁を飲んだり、特別なタレで地鶏食ったり田楽食ったり薬草の天ぷらを食ったりしたのだが、ものすごく美味しく感じる。本当はあんまり旨くないお茶が、大変にありがたく体にしみこんでゆく。少し風邪気味な上に二日酔いだったので、余計にありがたく、美味しかった。説明にあったとおり薬ではないので、その後見る見る体調がよくなったりはしなかったけれど、心なしか気分がよくなったような錯覚があった。本当にありがたい。少なくとも、食事は大切なことにはかわりが無い。一食一食を大切に食べようという気にはなった。
けれども結局健康茶は買わなかった。地酒なんかもそのときは驚くほど旨くてついついお土産に買い占めるが、家で楽しみに飲んでみるとあんがいその旨さが再現されない。また、あの場所に赴くよりあの旨さの再現は無いものだろうと思うのである。
 もうひとつ理由があって、僕はそんなに健康趣向なのではない。むしろ健康に無頓着なのが健康法というような気分がある。人が健康のことを言い出すときは既にかなり不健康な状態なのではないかとさえ疑っている。不摂生を続けて体に良いわけは無いのは道理だが、不摂生が可能なほど健康的なんじゃないかとも思う。既に不健康な人は、不健康な行為が出来なくなっているのだ。
 日頃から気をつけている人は確かに偉いものだと思う。そういう行為は否定しているわけではない。しかしながら、原理主義的に健康を振り回す輩は迷惑だと思う。朝飯は必ず食えだとか(教育的意味だとわからないではないが)コレステロールが何だとか、自分の信仰を広げることに熱心すぎるのはかえって有害な話だと思う。自分がいいと信じている道は自分が全うして満足してくくればいいのだ。
 まあしかし、それでもまたあのおばちゃんの講釈を聞いて薬膳料理を食べに行ってもいいなあと思う。一時であっても、自分によくて旨いというのは、それはそれでしあわせだからである。体調がよくて気分がいいのが何より愉快だ。薬膳というのは、たぶんそういうことをいいたいのだろうと僕は解釈するのである。
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日本の歌なんだって

2007-11-22 | 音楽
 熊本に島津亜矢のコンサートを見に行っていた。まあ、いわゆる付き添い旅行である。失礼ながらぜんぜん知らない歌手だったが、ものすごく歌が上手いし芸達者で驚いた。エンタティメントの世界に疎いのだけれど、これだけの人ならやはり一定の支持を集めるということを感じた。僕のように演歌を聞くと具合の悪くなるような人間まで惹き付ける力があるのだ。確かにほとんど興味がない曲をずっと聴いていると疲れたけれど、ぐいぐい強引に展開するので、疲れながらも感心してしまった。またいくかどうかは分からないけど…。
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また、ひとつの区切り

2007-11-20 | 雑記
 ブロックの役員会と会員会議所会議が最終になってよかった。A水委員長から配信されてきた資料にも第何回というナンバリングでなく「最終」と銘打ってあった。予言は当たったのだ。
 さてしかし続けて開催された次年度は僕は参加できないので、時間をもてあましてサウナへ移動。こういうところは実はあんまり勝手が分からないのだが、ここは本当に大人の、それも男の世界。みんな黙って黙々と動いている。勝手知ったる者たちの楽園なのだ。料金も1800円でちと高いなあ、と思ったが、これはたぶん子供よ来るなというメッセージかもしれない。休憩で寝たりすることを考えると、十分に安いという考え方も出来る。
 僕は目が悪いので正確なところはわからないけれど、チンピラ風のあんちゃんから、漁師のようなどす黒いオヤジとか、ものすごくまじめそうなサラリーマン風の青年までさまざまだ。夕方から体が空いているという共通の怪しさがあるのみである。
 とにかくのみ続けと睡眠不足で疲れた体が、サウナに入ってさらに助長される。この更に疲れることをすることで、逆にリフレッシュするのだから不思議である。汗だくになって水につかると心臓がドクドクいって気持ちがいい。北欧の人が心臓麻痺をおこしてでもサウナに入るのは、この身の危険が気持ちいいからであろう。
 そうやって慣らした体に宴会のビールがしみこんでいく。人間はやはりおろかな生き物なんだなあ、と思うのだった。最後だったし、一年間お疲れさんということもあったし、酒はボチボチやっていたが、食欲の方が旺盛になって、おごってもらった佐世保バーガーを二つも食ってしまった。フィニッシュのラーメンは何とかパスして調整したつもりで、やっぱり二キロは違うのであった。目標達成まで、もう少し道のりが伸びてしまったようでした。
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必要なのは無謀な冒険だ

2007-11-19 | 雑記
 二日間「家族愛推進事業」100キロチャリソンにはまってお手伝いしていた。なかなかかっこいいTシャツとロゴだが、どうしてもチャリリンと読んでしまいそうだ。

 PTAの会合の折にお母さん方が噂話をしていた。こういう話は聞くともなしに聞こえてくる。
「ねえねえ、チャリソンって知ってる?」「ああ、案内きてたよね」「あなた参加しなさいよ」「無理に決まってんじゃない、100キロだってよ」「そうよねー、無謀な企画よね」「参加する人ほんとにいるのかしら」
 などと話している。うーむ。確かに大丈夫だろうか。僕はその企画したJCメンバーの一人だということを告白できなかった。
 しかしながらその無謀な企画にも22組の親子が参加してくれたのだ。それだけでも物凄いことのように思える。そして、参加した全員が完走してしまったのだ。
 確かに100キロだとか、西海橋だとかいう話が先に来ると、どうしても大変そうだとか危険じゃないかだとかいうことになるのかもしれない。僕だってそう思う。しかし、そういう何でそんなにしてまで、ということこそが、今は貴重だったんだということが分かる。チャレンジしたものだけが味わう感動があるのだ。それは、やはりちょっとびっくりするぐらいの冒険をしなければ手にはいらないのだ。
 必要なのは冒険心と、実際にチャレンジする第一歩なんだ。僕はみんなの冒険を目の当たりにして、僕の冒険を夢見ることにした。
ということで、仕事しようっと。
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英語を捨ててハッピーに

2007-11-16 | ことば

 あるブログに書き込みをして、なんとなく後悔している。分からない人にはわからない話があるんだった。係わらないほうがいいんだった。小心者で逃げてきたので、ここで小声で話します。
 その論旨はよくある日本人は英語ができないということを問題視していて、それは英語教師のレベルの低さにも問題があるんじゃないか、ということだった。僕としては、そうかもしれないが、そもそも一律に全国民(子供が)が勉強させられている現状と程度ということから、英語教師の質なんてそう簡単にあがるはずがないと思っているので、不必要に程度を上げすぎることも問題がありそうだと書いてしまった。まあ、それが当たり前の現実なんだと。そもそも日本人のすべての人に英語が必要になっているわけではないし、今後もほぼ確実にそういう社会にはならない。英語亡国論は、恫喝して辱めるための理屈に過ぎないわけだから、ほとんど無視しても何も起こらない。外国企業がすべての日本企業を買収したとしても、すべて日本語を禁止したとしても、恐らく日本人は日本語を話し続けるだろう。だって、生活には英語は不必要だから。
 しかしながらそういうまともな現実は、なかなか理解されるものではない。国際社会の競争に乗り遅れないためには、是が非でも英語がないと駄目らしい。英語ができないと出来ない人は差別を受けて、まともな職にもありつけなくなるに決まっているらしい。日本の優秀な技術は、英語がないとどうにもならないそうだ。そして最後には民族自体が滅びてしまうのだ。誰も日本語を学びたがる外国人などいないし、英語社会はどんどん拡大して世界をグローバルに席巻することは、事実として決定していることなのだ。
 なんだか凄いことが現実なんだなあ、と呆れて感心してしまうけれど、そんな夢みたいなことを考えているのは、たぶんほとんど日本人だけなんじゃなかろうか。
 どんなにグローバル化しても英語だけが席巻することは絶対にないと断言できる。言語というものはそういうものではない。前にも書いたが、英語を話す人口が拡大して、どんどん英語という言語の崩壊が進んでいるのである。むしろネイティブでない英語圏のほうが大きくなっていて、細分化が進んでいるのである。また、そうなっていく方が自然の流れで、もっと長い時間英語覇権が続くことで、英語から派生した別の言語が生まれても不思議ではない。ラテン語から派生してヨーロッパの言語が多様化したのは、至極当然のことだった。経済的な覇権の力で急激に勢力を伸ばした力強い言語であることは確かであるが、ローマだって滅びたことは歴史的事実だ。いや、英語はそういうことはありえないと考えるのは勝手だけれど、どんなにグローバル化しても、人間の住んでいる地域性は変わらないし、多様化することで生物というものは生き延びてきたのである。英語さえできれば差別されないというような単純な文化は、逆にものすごくもろい危険な思想なのではあるまいか。
 欧米人が英語だけで済む社会をつくりたいと考えているわけでもないと思う。そうなれば合理的に便利だとは思うかもしれないが、そう思っている人は多数ではないし、ただの傲慢な人に過ぎない。国際社会に詳しいわけではないけれど、今はむしろ複数言語を学ぶ方向のほうが自然なのである。英語はそういう場合の最大の選択先に過ぎない。国際社会は、英語のみの公式文章だけが採択されるとは実は考えていない。本当に大切な交渉は、自国言語以外のもので公平に実施するべきだというまともな考え方も存在するし、実際にそうしている現状だってある。確かに英語の普及は便利なので、仮に英語を使う場合も多いだろうが、英米と交渉するのに英語のみでの確認をしている国なんて、ほとんど日本だけでないか。まあ、事実上植民地なんだから逆らえないのかもしれないが、どっちが異常な行動なのかは考えなくても分かりそうなものだ。
 現在も将来も、英語亡国論は単なる幻想だ。必要な人は真摯に取り組めばいいだけの話で、他の人を巻き込まないで欲しい。英語ができなくても人格的に劣った人ではない。英語ができることで優越感に浸りたい人こそ、人格的にどうかしているじゃないだろうか。
 日本という島国で日本語のみでのほほんと暮らしているということが、悪いことのように思っている人が多いというのが不思議である。何でそんなことで罪悪感を持たなければならないのだろう。むしろそれって、ものすごくハッピーじゃないか。いつ出会うかもしれない外国人(何で英語圏の人と限定しているんだろう)に道を聞かれては困るから英語を勉強している、という主婦の人がいたけれど、それってかなり馬鹿げた考えじゃないだろうか。それに気付かないほうがアレなんじゃないか。
 今は英語の早期教育も非常に「まとも」に議論されている。しかし、王様は裸なんだと思うよ、僕は。いい加減、目を覚ましたほうがしあわせだと思います。
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歓びを歌にのせて

2007-11-15 | 映画
歓びを歌にのせて/ケイ・ポラック監督
 最初は何語で話しているのかちょっと混乱した。ドイツ語かな、と思ったらスウェーデン映画なんだとか。しかし英語の歌が出てきたり、なかなか言語の入り混じった映画で、翻訳は苦労したのではないだろうか。
 さて、最初は足早に話が進んで、この調子で深みが出るものか心配したが、どんどんとんでもない展開になってゆく。これがハリウッドや日本映画だったら、間違いなく練習に費やすスポ根的な展開になっていくはずだが、ぜんぜんそうならない。こんな練習で上手くなるなら、たいしたことないのではないかと個人的には思うが、映画の作りはそうは思わせないのだから流石である。むしろ危なっかしいが、妙に説得力がある。音楽に大切なものとは、たぶんこの映画の言っていることの方が核心であるようだ。
 いやむしろ、スポットを当てる視点がまるで違うからこそかなり深いところまでえぐることができる。まったくしてやられてしまって驚いた。
 中盤に非常に大きなヤマ場があるのだが、ひょっとするとこのまま終わるのではないかという高揚感があるのだが、ラストでもまた非常に高い位置での高揚感まで一気に引き上げてしまう。本当に心に響くような感動だ。僕はこの感動の仕方にかなり戸惑った。凄い映画を観てしまった。これはかなり良過ぎる。こんな体験をしてしまってもいいのだろうか。もちろんいいのだが、これは凄いことになっちまったよ、ということなのだ。映画というのは確かに芸術だ。この映画がまさに証明している。
 この映画の底に流れているのは、人間の本性であるバイオレンス(暴力)である。人間は、そのバイオレンスにおびえて生きている宿命があるようだ。その怖さに逃げ惑い、傷ついていく。たとえそれは暴力を振るう立場であっても同じである。暴力を振るう人間もまた、深く傷ついていく。暴力とはうまく同居することなどできないのである。しかし、そのバイオレンスから逃げている間は、結局その暴力を内包してしまうことになってしまう。バイオレンスと対峙する。それはある意味で勇気であろうし、ここでは音楽の力なのである。主人公は音楽家だから、必死で音楽をもって戦う。しかし同時に怖くて克服もできない。人間模様が錯綜して、少しづつ自分の中の恐怖心も解かれていくように思えたのだが…。
 ああ、結局最後まで駄目なのか、と一瞬思う。しかしこの不安な気持ちは、がらりと裏切られる。それにしても、ラストは見事だ。この解決でいいのかどうかは正直に言って僕には分からない。分からないが、僕も同時に見つけることができたはずだ。目の前にあったものを。耳を澄ますだけだと主人公は繰り返し語る。こんな凄い映画はめったにつくられるものではない。まだ、見つけていない人は手に取るように。そして自分で音楽を見つけてください。
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ALWEYS 続・三丁目の夕日

2007-11-15 | 映画
ALWEYS 続・三丁目の夕日/山崎 貴監督
 前の晩にK村君から失望する旨脅されていたので、けっこう不安な心境だった。続編映画が成功しないのは、期待が大きすぎるせいかもしれないし、つくる方のプレッシャーが大きすぎるせいかもしれない。続きものであっても、やはり独立した作品としてみる必要がある。
 しかしながら、そういう気分はやはり杞憂に過ぎなかった。のっけから持っていかれてすぐにその世界に入り込み、長さを感じさせないつくりだった。確かにお約束ということはあるけれど、それは期待通りだったし、特に裏切る必然もない。この世界に浸りきるあまり、もっと長くてもいいんじゃないかと思わされたほどだった。むしろこれだけ詰め込んだのに、よく整理されているのではないか。伏線の張り方も見事で、後で考えてもこういう展開になる必然が読めてよかった。時代考証や台詞回しでの間違いもないことはないが、別に勝手に30年代を素に再現しているだけのことで、映画の世界がこれなんだということが映画作品である。見事に世界構築がされている、ということが、このシリーズの最大の成功要因だろう。いや、もう完結したのだろうから、それでもかなり安心した。下手に傷ついて欲しくないような、大切な宝物を扱うような心境にもなっている。もちろん僕は体が痙攣するような号泣で、眼球と眼鏡のレンズの間にハンカチが挟まった状態で困難な鑑賞姿勢だった。困ったことだが、いや、それでいい。
 呉智英が書いていたことだが、この年代の何がよいかというと、公然と個人の力ではどうにもならない不幸が横たわっていることが何よりいいのかもしれない。現代社会には、不幸は個人の責任(であるかのような考え方であるし、ある程度事実であるし、出発点で不幸な人が少なすぎる)だ。しかし30年代の不幸は、個人ではどうにもならない。そして多かれ少なかれ、誰でも同じように不幸を抱えている。自分が不幸せだから、人の不幸のことを真摯に受け止め共感して考えることができる。
 今回は、前作には少し隠されていた敗戦後という背景も見え隠れする。戦後の日本の風景は、たぶん絶望的な壊滅だった。日本が占領していたフィリピンより、飢餓に苦しむ現在のソマリアよりもGDPが低い状態からの出発だった。日本の戦後復興は、人類の歴史の奇蹟であるといわれるのはそのためだ。日本人は、そういう奇蹟を体験したのだ。
 また、多くの人が押しなべてどん底から這い上がった平等感があったのではないか。早くから事業に成功して、既に極端に財を成した人もいるにはいたことだろうが、ほとんどの人は、そう背丈が変わらないまま徐々に成長を遂げていたのではないか。劇中にも特に貧乏な子供がいるということもあったが、少なくともスネ夫的な子供はいない。大人はみな忙しく、子供も何らかの生産活動にかかわらざるをえない。いや、生活者を担わなくてはならない。納得できなくとも、歯車として回る必然があったのだ。
 30年代がノスタルジックにいい時代だったとは僕は思わない。現代と比べてどちらがいいか選択すると、間違いなく現代の方がいいと思う。断面をいろいろ切ると、不幸の中身にはまったく救われないものもあるだろうし、残忍なものもあるはずだ。現在の断面の不幸とは、根本的に度合いが違うのである。僕はマスコミが煽るほど現代人の閉塞感は救われないものだとも思わないし、将来性がないとも思わない。いや、多くの人がそう思っていても、30年代の閉塞感より今の時代のほうが実は現実的な可能性があるのではないかとさえ思う。
 しかしそれでも、僕らはそういう不幸を実は本当には理解しえていない。不幸とは、しあわせを確認するための最大のスパイスだ。僕が号泣するのは、たぶんそのせいなのではないか。いやいや、苦労自慢してもしょうがないか…。この映画で泣く人が多い社会は、別に将来を悲観しなくてもいいんじゃないかと楽観的な僕がいる。映画館でのすすり泣く多くの声を聞いて、僕は日本人の強さを思うのだった。
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ラストスタンド

2007-11-14 | 散歩
 最近は朝の散歩と昼の散歩と二回の散歩をする日課である。近頃は雨がとんと降らないので、おおかた守っている。朝が40分から一時間。昼は50分。これでだいたい一万歩から一万二千歩。つまり90分ぐらいは意識的に歩かないと一万歩には届かない。消費カロリーは300キロカロリー程度なので、これで減量できているわけではない。歩くのはあくまで意識付けのようなものである。それに運動をすると、不思議と腹が減らない。歩きながら飯を食う習慣が無いせいだろうか。
目標が一日一万歩と漠然と決めたのでそういう具合になったわけだが、もう少しハードルを下げてもいいかな、と最近は思っている。そろそろソフトランディングして減量を終了したいわけだが、急に終了すると、それなりに影響があるだろう。合計で一時間程度にして、その分少し読書の時間を増やしたい。本もたまる一方なので、こちらの方の減量も必要なのだ。
 先日のPTAのような寄り合いになると、昼に弁当が配られる。朝飯も食いにいく。弁当なら半分か三分の一。朝はバイキングだから梅干と煮物、焼き魚二口。ざっとカロリーを計算しながら食うので400キロ以下なのだが、それでも二日間で二キロは増える。平日の摂取カロリーはだいたい1500キロ程度だが、イベント中は夜も二次会三次会と繰り出すので2000キロカロリーを超える。それでも普通の男性よりかなり少ない摂取であると思われるが、その程度でも効率よく吸収する体になったと言うことであろう。敵ながらなかなかやるもんである。まあ、それは困るが、そんなに気にしないでもいい。逆リバウンドで二キロぐらいはすぐに減る。二日で増えた二キロは二日で元に戻る。なんというか、ちゃんとトイレもその分たくさん出る。意地でも脂肪分に返還できるほど、本当に効率よくできているわけでもないらしい。
 まあ、着実に成果をあげてきたわけだが、もう少しでまた違った生活スタイルに変化させる。元に戻すわけではない。食わないことはそれなりに確かに苦しいことだが、苦しいから逃げるということではない。今の自分にあったものを模索するのである。太りだせば無理しているのだし、痩せだせば無理しすぎているのである。どちらも無理をしている状態なので、無理がないものを選択するわけだ。ちょうどいいがどういうものか、まだよく分からないのだけれど、やはり全体的に落ち着かせる必要があると思う。
 それでも早くも忘年会の予定がボチボチ入りだした。この異常な期間をどのように乗り切っていくかが、さしあたっての課題である。ソフトランディングといっても、決してソフトな問題ではない。まだまだ自分との戦いは終わらないということなのであろう。
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恋愛中毒/山本文緒著(角川文庫)

2007-11-13 | 読書
恋愛中毒/山本文緒著(角川文庫)
 読み出したらとまらなくなった。バスの中で具合が悪くなっても読んでいたのはこの本だ。なんという考え方だろう。僕にはちっとも分からない話だ。なんというか、まるで発想が違う。感受性が違う。恐ろしい。それでいて、読むのをやめられない。怖い怖いと危なっかしく読んでいると、最後はもっと怖くなって、思わず「うっ」と声がでてしまった。やられてしまった。すっかり引き込まれて、戦慄を味わった。これはすごい小説だな、と思った。571円か。安いもんだねえ。
 だいたい女の人の気持ちというものはよく分からない。女という文字がつかなくても、あんまり人の気持ちも分からないじゃないかといわれそうだが、確かにその通りです。僕のつれあいも、きっと僕のことは分かってくれない男と認識しているだろう。既にあきらめているかもしれない。文中「わがままでない男などいるのだろうか」という言葉あったが、男に限らずわがままでない人間などいないと思っていた。普段から我を通すというほどではないけれど、嫌なことはたくさんある。たいていは黙っているが…。そうであるからブログなどを書いているのだろうと思う。
 しかしながら、僕の怖いと思う人間の話は、女らしさということなのかもしれないと思った。女らしさは男の僕には、ものすごく魅惑的でありながら、同時にどうしようもないほど恐ろしい。逃げられはしないのである。あきらめているが、あきらめきれない。毎回ひどい目にあうので、普段はそんなに気をつけないが、気をつけないでも付け込まれる。気をつけてもだめで、無視してもだめなのだから、考えても無駄だと思っている。
 恋愛感情で共感を持つということもないではないけれど、男女においての恋愛感情というものは、やはり違うということなのだろうか。女の人は勘違いしているくせに我がことのように男のことを理解している。男というのは、本当はある程度理解しているくせに、分からないと感じている。その違いが大きいのではないか。特に長い間付き合っていって、かなり同化してくると、最後にはそういう不具合が軋みだすということなのではないか。
 それで必ずしも終わりではないのだろうと思う。僕は主人公の献身的な女らしさは、実は必ずしも女性的な属性なのではないかもしれないとも思っている。そういう人もいるのかもしれない、というに過ぎない。しかし、女性には共感を持つ人も多いという。なるほど、僕は理解できない。僕は相手が自分を好きかということは確かに重要だけれど、ウソでもいいのかもしれないとも思う。騙されていてもそれでいい。できれば長い間騙されていたいものだ。恋愛は相手がいるからできるものである。しかしながら、やはり自分自身の葛藤なのかもしれない。恐ろしいのは、そういう自分の弱さということなのであろう。
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