カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

嘘が無いと書かれていたら

2019-07-31 | ことば

 誰かがある人の文章をほめていて、その理由に「書いてあることに嘘が無いから」というのを見た。それを僕はメモしていた。詳しい状況はほとんど忘れてしまったが、どうしてこれに引っかかった自分がいるんだろう、と思う自分がいる。
 嘘のない文章が好きだというのは、嘘のある文章が嫌いな可能性を示唆している。少なくとも彼は、書かれてある文章に、嘘か誠かの判断を下している。本当のことが書かれていれば好ましく、嘘であれば好きではないという、基準がそこに示されている。
 文章を読んで、嘘か誠かわかる場合というのはどういう状況か。
 その場に立ち会った第三者か、もともと知っている事実が書いてあったか。そういう検証的な何かの作業が、後から加えられたか。
 おそらくなのだが、この場合の嘘が無いという感じ方には、そういうことを指して言っているようではない。自分自身が彼の言葉を信じられるという立場を、示している可能性の方が高い。そうして信じられるような、いわば実直な書き方そのものをほめているのかもしれない。
 僕が引っ掛かった一番のことは、自分が信じたいとか、信じているような信念のようなものに対して、共感のある場合もあるんじゃないかと思えたからだ。たぶんそうなのだと思うが、真実を語る同志の考え方を、自分自身が称賛したい欲求があるのではないか。
 そういう場合の真実というのは、実証的である必要は必ずしもないかもしれないが、しかしながら嘘のバイアスのかかった可能性の方が高くなるのではないか。すでに価値観として自分自身が信じているものの証言は、あえて検証の必要なく真実といってしまいやすくなるのではないか。
 要するに、嘘が無い文章と紹介されている文章を目の前にすると、にわかには信じてはいけないような印象を持ってしまうと感じる。そこには少なくとも、検証もされていないが真実であると信じてほしいことか書かれているのではないか。第三者としては、それを生で受け取ることが危険なのではないか。
 警告文でない文章が、かえって人を警戒させてしまう。本人の強い願望は、得てして人の目を曇らせてしまうこともあるのではなかろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨のような映画   天気の子

2019-07-30 | 映画

天気の子/新海誠監督

 異常気象なのか分からないが、東京は連日雨の設定である。そういう東京に家出して出てきた16歳の少年と、強く願うと局所的に晴れにすることができる少女(年齢は秘す)との恋愛劇である。家出少年を成り行き上かくまっている怪しい中年ライターの事務所以外は、この子供たちとは敵対する大人社会しかない構図である。ヤクザな人が結構出てくる大人社会東京という世界観の中で、子供として恋愛を貫けるかどうかというようなお話のようにも感じる。そういう意味では非常にストレートで、実際それ以外にどうなっているのかは、ちょっとよくわからない展開である。特に人物にある家族の描き方が、非常にあいまいに分からない。そもそもなんで少年は家出したのだろう。しかし個人的な物事だったことで、東京の運命はドカンと変わってしまう。これが世界系というやつなのか。
 正直な感想としては、以前の新海監督に戻ってしまったな、という感じ。だから素直な作りになっているということかもしれないが、前作の複雑な展開と謎解きとどんでん返しの面白さが、ほとんど削られてしまった。興行作品なのでヒットすればいいとは思うが、どうなんだろうか。まあ、今後も観ることにはなるんだろうから(日本の代表的な監督になったことだし)先も長いのだが、こういう作品もあっていいということにしておこう。
 ということで個人的にはいろいろと残念な展開で、特にストレートな思いがありながら、破滅に向かう急な妨害展開なんかが絡んで、ちょっとイライラさせられる映画だった。もう少しやり方があるように思うが、そうしないと一般的には面白くないのだろうか。映像美として映画館で観るべき映画だとは思うものの、いわゆるそれはプロモーションビデオ的な素晴らしさであって、物語の面白さは半減してしまった感がある。僕の期待はそういう展開の面白さにあったのだろう。これだけのことができれば、世界は変えられるのは当然だと思うが、しかし、それでも地味である。まあ、全体的なスケールは小さくは無いんだけど。
 しかしまあ、映画館はそこそこの入りという感じ。それこそ今の日本は、ある意味で劇的に変化したのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若い人との関係はむつかしい

2019-07-29 | 掲示板

 同世代の営業の人と一通り話を終えて雑談になる。よくあるのは部下を育てるむつかしさなど。部下に限らず人を育てるのは簡単なことではなさそうだが、事、仕事を覚えてもらおうとするやり方については、それなりに労が多いということか。で、近頃の若者は…、という話になったりして、まったく僕らはもう若者じゃないんだな、などと思うとともに、そうなのかな、とも同時に思うのだ。
 それというのも、以前の僕らなら、という話かもしれない。以前は放っておかれて、それなり失敗しながら、仕事は覚えたものだ、とか。飲みに連れられて(奢ってはもらったが)それなりに説教されながら教えてもらったとか。まあ、そういう思い出は無いではないが、それはたいしていい記憶とも思えないし、確かにそういうことが今はやりにくいというのも分かるが、だからもう本当に仕事に支障が出てるんだろうか。
 確かに今は、最初のレクチャーにはそれなりに時間を使うようにはなっている。ある程度仕事の標準化が進んでいるというか、マニュアル的にどのように教える、という手順もそれなりにできている。むしろ以前はそんなものが無かったから、人によっての指導がまちまちで、時折混乱があったと思う。それではいかんだろうということで、このようなことに段々と変わってきたように記憶する。それでも完全にマニュアル化できないものも確かにあるし、実際そういうことを全部やろうとすると膨大で、教えている端から忘れ去られてしまうだろう。しかしそれでも失敗はあるもので、僕らだって教わったすぐに間違ってしまったりもしただろう。本当に放っておかれたような人もいるのかもしれないが、最初から大した戦力でない新人が、失敗するのは当たり前である。教えてもらおうともらえまいと、そういう経験が過去にあるのは当然である。今の若者が失敗しないわけは無かろうし、失敗が無いように見えるとしたら、上司が見落としているだけではないか。
 また、飲みニケーションが減ったのは、部下との関係だけではない。我々も忙しくなって、またはそれなりに事情があって、部下とだけ飲んでいるわけにも行かなくなっている。毎回奢っていても、家庭の事情が許さない場合もあろう。古き良き時代というが、あの頃の新人とベテランの給与格差のようなものと、さらに家庭環境はだいぶ違うだろう。
 また、職場の仲間とだけ飲んでいるような、狭い範囲での仕事の慣れあいで、多くの仕事が片付く時代ではない。そんな悠長なことで生き残れるような会社って、恵まれているに過ぎないのではないか。また、おそらく魅力も無いだろうし。
 そうして正直に言うと、そんなに意見が合うわけでない違う世代が、一緒に飲んでいて本当に楽しいのか。今は部下に飲むのを断られて、実は上司も助かることもあるんじゃなかろうか。飲み会の席でなくとも、言いたいことは言っていいいのだし、そのやり方は、紳士的にできるのではなかろうか。飲んでよくわからない話を何時間もしていて、結局なんとなくわからないまでも分かったような気になっていた時代と比べて、より正確に素面で物事を聞かされた方が、人間の理解は深まるのではなかろうか。
 まあ、僕の場合は、相手がどんな世代であろうと、僕がいつも一方的に話しているだけのことだから(若いころから)、そういう苦労を知らないだけなのかもしれないが…。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の田舎は恋の場所   青夏 君に恋した30日

2019-07-28 | 映画

青夏 君に恋した30日/古澤健監督

 漫画原作があるらしい。さらに題名はアオナツと読むという。青春よりもっと青くて熱いのだそうだ。しかしセイシュンと読むのだから、セイカと読んだ方がより整合性があると思うが。まあ、造語に文句言っても仕方ないか。
 東京の女子高生が母の実家である田舎に夏休みの間だけ遊びに行く(弟と一緒だが、とりあえずあまりお話とは関係ない)。そこで地元のイケメン高校生と知り合って、恋に落ちるのだったが…。
 伏線で、東京で主人公に思いを寄せる男も当然いる。原作が少女漫画なので、この男がいい奴である(たぶんそれは重要)。他にもいい奴はたくさん居て、ライバルの色っぽい年上の女さえ、そんなに悪い奴ではない。物語の上では、もう少しバトルがあったほうが良いとは思うが、一定のいい奴ぞろいなので、平均値をそろえる必要があったのかもしれない。
 ものを引っ張り合ってお互いが倒れこんだり(少年漫画なら胸に手が触れたりするはずだが、少女漫画なのでそんなことは無い)、浴衣で花火を見に行ったりする。要するにそういう場面はたくさんある。主人公は当然ある種の天然があるけれど、中盤ではすでに自ら告白するし、それなりに積極的である(いわゆる受け身でないのは、標準的ではないかもしれない)。しかし、事情があるにせよ、男の方が煮え切らない。やきもちを焼く癖に、言葉に出して思いを伝えることをしないのである。田舎者だからだろうか。
 何となくキャストがお話に合ってないような印象もあった。若いんだけど、高校生じゃないような感じだろうか。他のドラマなどに印象の影響があるのかもしれない。タイムリーに見たら、そんな印象は変わったかもしれないが。
 こういう青春物は、観ていて恥ずかしいから面白いというのはあるのだが、もう少し恥ずかしさに踏み込んでも良かったかな、と思った。それぞれの態度が、どこか大人なのである。青春より青く熱いのなら、もっと青臭く恥ずかしく、そして激しいくらいでないといけない。もう元には絶対戻れないのだから、二度と出来ない体験をしてくれなくちゃいけない。
 まあ、ほとんど何もない夏を経験するのも、青春かもしれないですけどね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛行機に乗る前は不快

2019-07-27 | culture

 飛行機のチケットは自分で取るわけではないから、空港に着くまで航空会社のことはよく確認してない。最近はスキップサービスというのがあって、搭乗手続きをすっ飛ばして手荷物検査を受けることができる。まあ、それでも煩わしいのではあるが。ずいぶん前から出張日時などが決まっていると、事務側としては早々にチケットを手配してくれる。経費的に節約ができるようだ。ただし、割引とかなんとか受けられる代わりに、時間の変更などができなくなる。予定を変えるな、と注意される。だから言われた時間にだけは記憶するか、ちゃんとメモしている。そうして自分が決められた枠に収まると、自分の意志でないような気分になる。
 しかしここで問題が起こる。航空会社がどこか確かめられるのである。ポケットからチケットらしくない紙を何重にも折りたたんでしまいこんであるものを取り出す。航空会社のマークをちゃんと確認出来たらそれでいいが、これがなんとなくめんどくさいのである。機械にQRコードというのをかざしてチェックするのだけど、それさえ出せたら問題ないという考えがあって、その面だけを表面にして折りたたんでいるからである。まあ、だいたい決まった時間帯だから、この間乗ったと思われる会社の名前をいうと、機械が間違いだという(それを見た係の人が、むむっとした顔をする)。一瞬何が起こったかお互いにわからないが、僕が申告した会社とは違うということらしい。行きと帰りが違う会社であることも普通で、これで思い違いもする。そういう短期記憶というのは、保持するのが難しいのである。
 黄色い薄っぺらい紙が機械から出てきて渡される。これに搭乗口の番号などが記載されており、席の確認などが改めてできる。そうして最近は搭乗の順番がグループとして示される。飛行機というのは差別的な乗り物で、会員(航空会社のメンバーカードをもっているとか)などを優先して乗せるようなことをする。またはファーストクラスの人などを、先に乗せるのだろうか。介助の必要な人を先に乗せるのはまったく精神的に構わないことだけれど、これが妙に感情に触る気がする。金さえ出したら偉いのか。などと卑屈な気分になるのかもしれない。
 また混雑回避とか言って、後部座席を優先させたりする。窓側の人を先に、というのもある。アナウンスとこの黄色い紙で案内しているのだから、あとは乗客に任せるという態度である。
 しかしこれがそれなりに怪しいのである。順番を守って後の方で乗ると気づくが、そうでなさそうな人が先に乗っているような気がする時がある。もちろん僕の思い違いかもしれないが、そのような優先手続きということに気づかないでお乗りになった人が居そうなのである。間違いに関して僕は寛大であるから、その乗客を非難する気分にはならない。そうではなくて、間違いをミスリードしてしまうシステムを改めようとしない航空会社に反感を持つのである。
 ということで、飛行機はいろいろと気分の悪い乗り物ではある。早くどこでも新幹線で行けるようにならないかな。でもまあ実際はそんなに便利でもなさそうだし先のこと過ぎるし、僕の必要な人生の時間には間に合いそうにない。佐賀の人には悪いが、この顛末のことを考えると佐賀の人にも毒づきたくなる。人間関係を悪くするようなことが立て続けに考えさせられることになるわけで、つくづく残念なことである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ものすごくハードルが高い   よのなかルールブック

2019-07-26 | 読書

よのなかルールブック/高濱正伸監修

 一応絵本なのかもしれない。絵は林ユミ。文章もそうなのかもしれない。何しろ著者でなく監修である。よくわからないが、花まる学習会という組織があるらしい。テレビでおなじみ、とおびに書いてある。何のことやら…。新聞の書評か何かで紹介を読んだのだと思うが、副題に「メシが食える大人になる!」とあって、おそらくそれが気になって買ったのだと思う。多少騙されたが、もちろん内容はいいことが書いてある。説教臭い人生訓には違いないが、教訓としては悪くない。「あいさつは大きな声でまっすぐに。」というような行動訓もあるが、「どうしてもつらいときは、逃げる。」というのまである。「親より長生きする。」というような目標なのかどうかわからないものもあるし、「見た目ではなく中身で勝負する人になる。」なんていう、どうしていいのかわからないものもある。ただし、押しなべていえることは、守るのは大変に難しいことばかりである。何しろいい言葉ばかりだから。
 守れないから目標だとするならば、そうかもしれない。目標は遠くにあって思うもの。だからありがたいのである。全部守れるような人が居たら、大人というより、聖人君主であろう。
 メシが食える大人というのは、金を稼ぐということなのだろうと思う。しかしながら不思議なことに、金を稼ぐ方法は、まったくと言っていいほど書いてない。いや、目標をもって頑張ると、結果的にそうなるということかもしれないが、いい人になって人から稼いでもらうという方法なのかもしれない。それは賢い生き方の一つかもしれないが、やはり難しいことに変わりは無かろう。
 こういうのを見て思うのは、やはりこういうものを素晴らしいと思う人が居るからだろう。総合的に考えると、こういう教訓を生かしてなすべきは、自分の言葉で目標を立て直すことだろう。これらの言葉は、自分の中から見出してこそ本当だ、と言っているはずだからである。
 いや僕は、借り物の言葉であっても人様の言葉であっても、それはそれでかまいはしない。だから本を読んだりもするし、人の話も聞くのである。面白いな、とは思うけど、大人にならなければほとんど意味など分からないだろう。子供時代は、こんなことを考えないで、のびのびとして欲しいものである(これも偏見だが)。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プラスチックを海に放置させない為に

2019-07-25 | net & 社会

 投棄されるプラスチックごみの影響が懸念されている。特に海洋に流れ出てしまったプラスチックごみは深刻で、分解されるのにモノによっては数百年という単位で時間がかかるし、プラスチック自体が小さく分解されて、誤って魚などが食べるなどして、二次三次的に被害が拡大することもあるという。大手の食品メーカーなどには、プラスチック製品を削減することでイメージ戦略を打っているところもあるし、大衆的なニーズとして、それなりに認知と市民権を得た考え方になっているのではないか。
 このような考えに基づいて、プラスチックを使わない生活をしたらどうなるか、という実験的なレポートをしているTVディレクターもいた。結果的に大変苦労するが、消費生活をするうえで、たとえプラスチック製品以外のものを買おうとしても、パッケージにプラスチックが使われているなどして、完全排除が事実上できないようだった。食べるものが限られ、買えるものが制限され、不便で時間がかかり、大変な労力を費やされる。
 それでも啓蒙活動としては必要なことであったし、その広がりが無い限り解決は無いという論調であった。それはその通りかもしれないし、ショッキングであった。
 実は先日寅さんの映画「男はつらいよ」で、伊藤蘭がマドンナの回を観たのだが、彼女がコンビニでバイトしているときに、商品を包んでいるのが紙袋だった。昔は紙の方が当たり前だったんだな、といまさらながらに思った。この映画は当時映画館で観たのだが(田舎なので完全にタイムリーな公開だったかは怪しいが)、その頃コンビニができたてで、東京大阪くらいにしか本物のコンビニのない時代だった(セブンイレブンは長崎には無かった)。だから普段はスーパーなどで買い物していたのだろうけど、紙袋だったかどうかの記憶はあいまいだ。しかしその頃からビニールの袋が出だしたというのは、間違いなさそうなんだけれど…。
 事態は本当に深刻だとは思うが、それは何より難しい社会にすでになっているからだ。システムとしてのプラスチック生活が、人間の社会そのものを構成しているように見える。以前は紙だったものでもプラスチックにとってかわったのだから、プラスチックにとってかわる代替製品が出ない限り、決定打とはならないだろう。制限をかけたり、リサイクルなども同時進行としては大切だと思うけれど、それはあくまで啓蒙であったり心がけのようなものであって、主流にはなりえないだろう。中にはこれで食っている人もいるわけで、プラスチック排除の為に、生活が脅かされる人々もいるはずなのだ。そうなるとその人々の生活を不安定にすることなしに、目的の達成はあり得ないということになる。経済を優先しなければ、結果的に人の命を脅かすことになるのだ。多くの人は何かロジック的に勘違いしがちだけど、経済を優先することは、ほとんどの場合人の命に優しい社会なのである。
 プラスチックを使わない代わりに何を使うか。頭を使っても分からない人には、イノベーション的な発明以外に道は無い。それらに頼るしかない人間という存在の為に、この流れが投資の対象になる可能性が必要だ。要するにプラスチックより経済効率が良くて、なおかつその発明にはリターンがあることだ。大衆や政治にその力は無いと思うが、どうだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かなり痛そうでつらいが   レッド・スパロー

2019-07-24 | 映画

レッド・スパロー/フランシス・ローレンス監督

 ジェニファー・ローレンス主演作で、彼女のキャラクターが重要な作品。ロシアのスパイを描いているのだが、ほとんど英語なのに彼女はロシア人に見えるからである。
 もとはバレリーナだったが、ケガをして引退。しかし母も含めて暮らしていかなければならない為に、叔父の勧めるスパイ養成所に行く。そこで女として諜報できる訓練を受けたのち、アメリカのスパイをしている人物を見つけるためにCIAの男に接触するのだったが。
 前半の養成所の閉塞感ある描写は嘘っぽいが、だんだんと物語は真実めいてくる。誰をだまして誰を陥れようとしているのか、それすらもなんとなく明確ではない。国家の重大な機密が何なのかもよくわからない。一応エロのシーンも豊富にあるが、エロとしてはよくわからない。むしろ拷問などのグロいものが印象に残り、観ていてかなりつらい。ほとんどマゾ映画である。
 英語圏の映画はどうしても英語にこだわってしまって、せっかくのロシアの世界観が壊れているようにも感じる。米英の有名な俳優が出ているので違和感がにじむのである。叔父役のほとんどプーチンの物まねの人と主人公の女以外は、あんまりロシアらしくない。一定の緊張感が続いて、映画的にはいい感じではあるのだが、僕のように英語圏以外の人間にとっても違和感があるのだから、英語圏の人には、ほとんどこれは欧米物語に過ぎないのではなかろうか。まあ、そうしないとヒットしないのだろうけど。
 原作の小説があるらしいので、語らない彼女の考えている意味というのは分かる人にはわかるのかもしれないが、映画を見ている分には、クールすぎてわかりにくいものが多かった。最後の拷問で二転三転の裏切りがあるが、その必然とチャンスというものは、僕には蛇足にも見えた。最初から素直に行動しても、意味としては同じではなかろうか。
 とにかく気持ちが悪いので、刺激が強すぎるのが苦手なら観るべきではないだろう。しかしながらスパイものとしての緊張感が好きな人は、それなりに評価されるかもしれない。主人公は精神的にたいへんに強いが、アクションとしては特に強くはない。そういうところは、なんとなくリアリティがあって、いいのかもしれないとは思った。こういう生き方は、まっぴら御免ではあるけれど。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまさら踊れはしないけど

2019-07-23 | 音楽

 踊りは得意ではないが、嫌いなわけではない。僕らの若いころにはディスコというところがあって、お金がなかったので簡単に行ける場所ではなかったけれど、ともかく踊りに行くことはできた。また、特にディスコでなくても、踊ったりする人はいたような気がする。僕らは日本人でシャイなんだけど、バンドとかを聞いていると体をゆするくらいはする。アルコールが入ったりすると、踊っても別にいいじゃん、ということくらいはあったかもしれない。
 ところでそういう場合には、ダンスミュージックということになるのか。同級生にはテクノが好きな奴がいて、YMOが一番踊れると信じているのがいた。そういう気分があったのは知らないではないが、僕の本当の仲間というのは、ちょっとそういう人たちとは違っていた。ダンスミュージックで踊らないわけではないが、ちょっと仕方がない、という感じもあった。何しろ僕らはバンドマンで、そういうのは演奏したことが無い。普段はまったく聞かない分野だったのだ。
 ということで、僕のダンスミュージックはストーンズのミス・ユーなんである。またはプリンスのダイ・フォー・ユーとか。いや、そんなこと言うと何でもありだな。まあ、そのようなヒットソングがかかると、踊りたくなるくらいいい気分という感じだろうか。
 でもやっぱり踊れないな。いつの間にかそんな機会を逸してしまった。かといって盆踊りも得意じゃないし、たぶん誰も誘ってくれないしな。誘ってもらっても困る気もするし。
 というようないじけ方をしても仕方ないが、この間レッチリを聞いてたら、自然に体が動く気がした。こういうのだったらいいのかもしれない。なんといっても馬鹿っぽいし。カルフォルニアには行ったことないけど、良いところかもしれませんね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同じくらい好きな人が二人いたらどちらを選ぶ?   ブルックリン

2019-07-22 | 映画

ブルックリン/ジョン・クローリー監督

 50年代、アイルランドの片田舎でろくな仕事も無く辛抱しながら暮らしている女性が、姉の援助を受けてニューヨークへ旅立つ。しかしながら慣れない暮らしにホームシックになり苦しむ。心配した神父さんが学費を出してくれて、夜学で簿記を習う。同時期にイタリア移民の男性と知り合い恋に落ちる。新たなしあわせを掴んだと思われたところに、遠い故郷で姉が急死してしまったという知らせを受けるのだった。
 どうもブルックリンはアイルランド人移民の多い街らしく、そのようなコミュニティを頼って移住する一定の人々がいるようだ。そういう中でのアイルランド女性の、真のしあわせというものを考える映画なのかもしれない。大変に優れた映画であるとまず思うし、観ていてものすごく楽しい(悲しいもあるが)。若い人の恋愛って、観ているだけで本当に楽しいのである。さらにまじめでおとなしい女性が、恋に落ちて楽しくなるのを見て、楽しくならないわけが無い。
 主演のシアーシャ・ローナンの魅力も素晴らしい。僕は西洋の女優さんにはあんまり興味ない方だと思うが(日本人の方が断然きれいだと思うし、僕が日本人だから当然身近な東洋人の方が魅力的だ)、この人の可憐で美しい感じは、ちょっと特殊な感覚があった。おとなしいが芯も強く、賢そうなのだ。まったく顔立ちは日本人とは違うが、日本的な美的センスではなかろうか。
 しかしながら、これはたいへんに考えさせられる映画でもあると思う。このストーリーで本当にいいのだろうか? いや、そういう話があってダメだというわけではない。この映画は基本的に、女性が自分のしあわせの為に、男性を二股かけて選択する物語なのだ。そうして実は、どちらとも本当に好きであることには変わりなく、その恋の強さよりも、自分にとっての環境を優先させた結果が、人生を決めるというものなのだ。
 この結末の方が僕は好きだが、賛否があろうと思う。倫理観としてはどうなのか。また、本当に賢い選択なのかどうかも、背景からは疑問も漏れそうだ。しかしながら、女としては(女としてだけではないですね、すいません)一人の人と結婚するよりないのだから、ものすごい決意の表れでもあるのだけれど。
 まあ、面白いので観て考えてみてください。おそらく僕は男だから(さらに個人的な経験値もあるかもしれない)、このような感想になってしまったけれど、女の人には必然的な映画かもしれないです。そういうところが、男が女性を恐れる最大のところだとは思いますけどね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クローン犬を飼いたいですか?

2019-07-21 | 境界線

 クローン犬ビジネスというのがある。飼い犬のDNAからクローンを作って、再生させるというもの。だいたい1000万円くらいといわれていたが、現在は550万円くらいまで下がったという。要するに需要が増えて供給サイドのコストが下がったのだろう。
 飼い犬というのは特殊なものである。家族同然と感じている人も多いことだろう。しかしながら犬の寿命は10数年。家族として暮らしていける時間は、そんなに長くはないのかもしれない。失った悲しさを補うため。また、失う前から準備して注文する富豪はたくさんいるという。飼い主の反応はおおむね良好。中には、また注文し続けるという人もいるのだという。何匹もクローンだらけという人もいるらしい。
 クローン犬は、厳密には、遅れて生まれてきた双子のようなものである。体験することも違うし、当然そうすると記憶も別だ。きわめて性格が似る場合が多いけれど、基本的には違うきょうだいなので、別の人格(犬格)である。共に暮らしてきた犬が、延命しているわけではないし、また、それらの飼い主との体験を共有していた個体とは、別の存在である。
 また、クローン技術の問題もあって、実は一匹のクローン犬の為に、複数匹の別の個体が存在することが多い。注文する飼い主に渡される一匹の陰に、他に複数匹の存在があるのが普通なのだ(どのように処分、またはその後の行き先までは分からない。少なくとも僕は知らない)。
 要するにこれは、たいへんに悩ましい倫理問題をはらんでいる。需要と供給だけの、ビジネスとしての話だけではないはずなのだ。しかしそこをどうにかするような法整備はなされていないし、現実を前に、そのような議論が生まれているわけではない。先に技術が生まれて、急激に需要を満たしている。また、それだけ望まれているのだから、当事者たちが問題視していないということもありそうで、さらに特定の金持ちだけの問題ということも、一般社会への関心まで広がらない原因かもしれない。
 決定的に何かがおかしいと感じるが、そういうものを無視できるくらい人間というのは傲慢なのではないか。金があれば家族を買える。本当は、ペット問題の根底を揺るがす問題なのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとなく真剣みが足りない   終止符(ピリオド)

2019-07-20 | 読書

終止符(ピリオド)/ホーカン・ネッセル著(講談社文庫)

 小さな港町で連続殺人が起こる。首を鉈のようなもので、ほとんど切り落とされるというような無残な殺し方で、当然小さな町は騒然となる。とぼしい手掛かりしかなく捜査はまったく進展しない中、首切魔は第三の犯行に及ぶのだった。
 スウェーデンでは有名なミステリーシリーズの邦訳である。もちろんそんなことを知っていて買ったわけではない。現在この作家の新作が話題になっているが、単行本は高価だったから、試しに以前のものを買ったというセコイ結果である。まあ、そのおかげで楽しめたのだが(新作の方は紹介済み。あまりに面白かったので、先にあちらを紹介したが、実は読んだのはこちらが先だった)。
 文体というか、展開がアメリカもののそれとはずいぶん違う。会話がしゃれているというより、そもそも皮肉っぽい。訳者のあとがきでは、スウェーデン人というのは、そもそもそんな感じなんだそうだ。長く厳しい冬が、そうさせるのだろうか。確かに北欧のミステリを別に読んだことがあるが、そういう感じと似ていなくはない。物語は遅々として進まないというか、本当に手掛かりが見つかっているものか、展開からはほとんどわからない。刑事たちは、それでもなんとなくのんびりしている感じもある。ワインを飲んで食事をし、チェスをしたりしている。
 ところが後半本当に終わりごろ、物語は大きく動く。なんのつながりもなさそうだった連続殺人が、実はあるつながりがあることが分かるのだ。それもそれを解いたであろう意外な人物が、たいへんな危機に陥ってしまった後である。ある意味でその説明は、捜査の刑事たちが行き着いたものではないが、その謎解きのための仕掛けも見事であるとしか言いようがない。まあ、だからこそ欧州では読まれる作品なんだろうけど。
 ミステリは雰囲気が違うので面食らうかもしれないが、これも文化的な違いである。日本のマスコミなら、もっと騒いで物事を妨害するに違いないが、あちらの人々は、ある意味でおとなしい。なんだか違うなあというのが随所にあって、比較文化論みたいだ。まあ堅苦しい話ではなく娯楽なので、楽しみながらそういうものを知ればいいのではなかろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

炎を見ている

2019-07-19 | 雑記

 日本の家に暖炉のあるところは少ないが、いわゆる寒い地方などでは、薪ストーブを焚いているような家もあるかもしれない。山小屋の別荘など、楽しみで、あえてそのようなものをしつらえているところもあろう。火を直接燃やした方が暖房として暖かいというのはあるだろうが、現代人の目から考えると、これは多くの場合くつろぐ演出として欠かせないものとなっているのではなかろうか。憧れとしても、なかなか分かりやすいゴージャスさである。
 炎を眺めているだけで、心が落ち着くというのは確かにあるようだ。揺らめくものをただじっと眺めている。そういう時間そのものが、何かとても満ち足りた気分にさせてくれる。何か考えてもいるかもしれないが、何も考えていないような気もする。ああ、こういう時間が自分には必要だったんだなと改めて思い知らされる。今の時間が本当にしあわせかもしれないと思う人もいるかもしれない。
 波を見ている、というのもあろう。よせては返す波をただ見ている。音も大変に心地いい。いつの間にか何時間でも、その場にたたずんで眺めてしまった人もいるのではないか。
 それらはそれで、たいへんにいいことかもしれない。そのような体験ができた人は、確かにしあわせであろう。しかしながらそれは、少しばかり病的だったかもしれなくて、要注意かもしれない。何故ならすでに満ち足りた人生を送っている多くのこどもは、こんな時間は退屈なだけだろう(中には興味を示す子もいるだろうけど)。自分だけがしあわせならそれはそれで構わないことだけれど、自分を見つめる時間が不足するほど、ストレスが溜まりきっていたのかもしれない。
 まあしかし、そういうことが分かっただけでもたいへんに結構だ。眺めていれば治療効果もあろう。そうして何か大きなストレスにも、負けない精神がはぐくまれることもあろう。妙に憧れてしまうだけで実際に体験ができないことより、どれだけしあわせなことだろうか。それはちょっとした悲しさと隣り合わせにあるだけのことであろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形は不思議なのだ   形態学

2019-07-18 | 読書

形態学/倉谷滋著(丸善出版)

 今や進化論を疑う人なんて(一部の宗教家以外)いないのではないかと思われる。しかしながら、その進化のスパンというか、時間的な変化というのは、人間が過ごしている時間軸に対してあまりに長い物差しであるので、実際のところ、今いる生き物の形を観察して(またはその個体を使った実験をして)類推するよりない。要するにどうしてこういう形になったのかという理由までは分からない(考えてなったものなのかどうか知らないし)までも、もとになった形から変化しただろうことは分かるかもしれないのである。実際に分類上の生き物の仲間のようなものは分かる(というか、そういう歴史がある)ので、そのもとになるような生き物も、分類上分かるかもしれない。そういう膨大な資料をあさって、そうして子細に細胞レベルまで時には拡大して観察し、その進化の歴史を読み解こうとする試みがなされている。
 新書ではあるが、なかなか手ごわい内容ではあった。それなりにけっこうボリュームがあるというか、難しいものは難しいのである。しかしながらゲーテの時代からこのような形態学があるという発見もあり、目から鱗ものもある。当たり前かもしれないが、もとになる形の制約があって、そのものが形を変えるのが進化の歴史だ。天使の羽のように、想像して何が別のものがニョキニョキ生えてくるような進化というものはあり得ないようで、おそらく人間などがまた進化していくとするならば、天使のような形態にはなりえないのである。
 僕は特に昆虫ファンではないが、昆虫の擬態などをみても分かるように、その環境に影響を受けて、長い時間の中で進化を遂げているらしいことは理屈では分かる。しかし、そういう適応のようなものが、必ずしも環境のみで、いわば考えをもってなされているのかどうかというのは、それなりにミステリーである。いまだに進化論の論争のようなものがあるのは、どうしての意味が分からないものがかなりあるからであろう。意味は分からないまでも変化した歴史は必ずある。そういうものは形としては残されていない部分もあるだろうが、それを分からない人間の見方があるせいではないか。かなり分かりかけていることは間違いあるまいが、そういう意味ではまだまだ途上なのである。そしてそこにかける学者が、それなりにいるのだろう。僕らは眺めて想像して楽しんだらいいんだろうけど、学者にはその根拠を求めた探求の旅があるに違いない。それを傍目で確かめるのは、娯楽なのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家出に神など助けてくれない

2019-07-17 | net & 社会

 家出をするのは男も女も変わらないようなものであるように考えてしまうが、実態はかなり違う。特に子供の家出というのは、それなりに深刻な事態に陥りやすいという。それもはっきり言って女の子問題である。
 家出をする子がどこに行くものかは正直言って知らないが、ふつうに考えるなら知り合いの子の家であろう。一晩くらいなら分からないように匿う場所を、提供できるネットワークくらいあるかもしれない。しかしながら長くなると面倒にもなるだろうし、いる方もいづらくなる可能性はある。それで家に帰るならいいだろうが、金があるなら別に方法がとれるだろう。ネットカフェのような事実上の安易な宿泊場所もあるだろうが、親がそれなりに真剣に探している場合なら、かえって足がつきやすい場所かもしれない。それにいくら安価であるといっても、収入無しに何日も泊まれば、資金はいずれ底をつくだろう。大人なら公園に住み着くような人もいるのかもしれないが、子供なら少し危険かもしれない(大人でも危険だろうけど)。また、季節も関係しそうである。
 女の子が厄介だというのは、家出娘を匿うネットワークが複数存在するからである。ネットを検索すればすぐにわかるはずだが、「神待ち(救いの手を差し伸べてくれる、という意味らしい)サイト」というのがあって、家出を専門に仲介するところである。まあ、ほとんどはバッタもんというか、事実上プロの売春サイトの別名だと思われるが(見た目がそのまま売春である)、いわゆる援助交際をさせて、宿泊もさせるということも可能ではあるようだ。本当に神心をもって少女を匿う男もいるのかもしれないが、かえってそういう男は信用ならないものだろう。匿われる方(家出娘)の方こそ、それは割り切ってのことになるのかもしれない。そうするとお金も入るわけで、家出は長期化できる。また、そのまま職業に事実上なっていくということだろう。
 もっとも古典的な家出であるなら、数日間で帰ってくるのが当たり前(もしくは数時間)である。一晩行方知れずというのは、それなりにおおごとである。それを許さない家庭の子であれば、そもそも家出などしないだろう。
 さて、実際家出してしまう子というのは、いないわけではない。そうして数日で戻ることになったとしても、事態は深刻になっている可能性もあるわけだ。一度そのようなネットワークになじんだ子は、そこの期待から逃れるのが難しくなるようだ。子供は安易にいなくなる場所を探しやすくなった半面、そのハードルが下がった分、危険な領域が身近になっているのかもしれない。住んでいる場所にもよるのだろうが、大人社会は恐ろしいということは、教育上教える必要があるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする