カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

親ガチャっていう人の不幸をどうする?

2024-01-31 | net & 社会

 親ガチャっていうのは、どういう訳かそれなり市民権を得たことばになった感がある。ちょっと前に流行った流行語というよりは、それを使って現代日本を語る人が増えているのだろうか。それだけ社会性がある問題とリンクしているという、一般的な感覚めいたものがあるのかもしれない。ところで実際のところ、元になっているゲームというのはまったく知らなくて、それが何なのかわからずに、最初はガチャポンに由来すると勘違いしていた。あれは生まれるので子供の方かもしれない。いや、どうなのか。
 僕らの時代は「頼まれて生まれてきたんじゃねえ」とか言って、怒った親からビンタされるというのがドラマの定番だったが、自分で望んで生まれてきたんじゃないのは親も一緒であって、それを親に言って言葉の暴力をぶつける意味だというのは分からないでは無いが、ふつうの親なら、お前に言われてもなあ、という残酷な感想が本音であろう。そんな不良なんか本来はいらないのだが、道義上仕方なく付き合っているだけのことだろう。しばらくケガをしない程度に、ほとぼりが冷めるまで出ていってくれたらいいのである。
 話がずれたが、親ガチャの問題は、要するに格差社会のことであるらしい。親の格差が子供に連鎖するという、いわゆる負の連鎖から抜け出せない底辺の生活がある、ということのようだ。そうかもしれない場合もあるようだが、実際にはそう底辺でもない世帯の子供まで、そのような感覚に浸っている場合もありそうなのである。むしろそういう高望みの人々に限って、親ガチャを言っているよう気がしないではない。
 実は格差社会というのは、長く平和が続いている結果であるともいわれている。戦争などの有事があると、格差なんてものが吹っ飛ぶ。日本で言えば、終戦すぐが皆底辺に居て、ある意味皆貧しいということでありながら、格差は少なかった。だんだんと時を経て、格差が開いて行って、現代にいたる訳だ。そういう意味では歴史的なものがあって、ヨーロッパの階級的なものとか、今の米国のような階層のようなものと、日本の格差はやっぱり異なるのかもしれない。日本の富裕層は、いちおう建前上貴族は居ないので、医療関係などが大半を占めるのであって、これは一種の階級と呼んでいいものかは分からないが、それなりの競争を経て(試験があるので)の結果ともいえるもので、そのことをもって問題視する人はまず無いだろう。
 そういう訳で、階層や階級としての格差ということではまず無くて、親の性格的なもの(子供への理解度のようなもの)や、離婚などの不遇さ、虐待などの逃げにくい体験などを、指しているものらしいのである。そのようにして子供時代を過ごす不遇全体を指して、絶望的な自分の境遇を呪う言葉の総称になっているということだ。
 そうするとさらに問題は、そのように感じて不平を言うことの一般的な感覚についてである。実はそのような境遇の人というのは、実数としては必ずしも限られた人々ではないようなところが、親ガチャの問題点のようなのである。家庭の問題は、今風に言うと自己責任というか、それなりに孤立したものがある。そうした隠されたものの中に、さまざまな不幸があって、子供がそのために虐げられている。子供の自らの力では、どうすることもできない。社会が悪いと言っても自己責任の領域である。そうであるならば、一番の原因は親そのものなのではないか。親が悪いから、自分は不幸なのだ。短絡的に言うと、そういう事だろう。
 さて、そういうことに気づいたのちに、自分の力でこれをどうにかすることができるようになるのだろうか。そのような仕組みづくりが、いわゆる親ガチャ問題の解決の糸口かもしれない。教育の時間はそれなりに長い年月と言えるが、その質は、初期の段階からの積み上げが、なんといってもものを言いそうだ。多少乗り遅れても大丈夫なようにすることが、可能なのだろうか。そういうことあたりにヒントがありそうだが、さて、どうしたものだろうか。
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かなり居心地が悪い対話   対峙

2024-01-30 | 映画

対峙/フラン・クランツ監督

 確かに映画なのだが、そのほとんどは、テーブルを囲んで座った二組(要するに四人)の夫婦の会話で成りたっている。設定としては、6年前に起きた学校での爆弾と銃を使った虐殺事件の、被害者の親と加害者の親が向き合って話をするというものである。事件の被害者は10人で、そうして犯人の少年も自殺している。
 当然被害者の親は大きな衝撃を受け、心の傷も深い。何故快活で何の罪もない息子が、殺されなくてはならなかったのか。ずっとカウンセリングを受け、6年の月日を経て、加害者の親と向き合うという段取りまでになったということだ。
 一方の加害者の親も、実際のところ息子がこれほどの事件を起こすとは考えていなかった。そうしてそれを止めることができなかったことにも、自責の念を抱いている。ただし、事件を起こしたとはいえ、その事件のさなかに自殺しており、親として子供を失った喪失感を抱えていることも事実だ。しかし世間からは激しく叩かれた上に、教会からミサを上げてもらう事すら叶わなかった。生活は崩壊し、そこに住むこともできなくなってしまったようだ。今は何とか生活は立て直している様子だが、事件において深く悲しみ傷つけられたことには変わりないようだ。
 会話は、当初から穏やかに進められていくが、お互いの言い分や、当時の背景となる物事も、だんだんと明らかにされていく。しかし不穏な空気が流れだすのは、実のところ事件を起こした少年の異常性を、もっと率直に聞きたいという被害者の思いに出てくる。そうでなければ、どうしてこんな事件を起こせたというのだろう。そうして、無残にも殺された息子が、ただ消えて無くなったということに過ぎなくなってしまうのではないのか。
 しかし加害者の親としては、ゲームに熱中する子供であったとしても、学校の成績は悪く無く、また、ゲームを通じての子供同士の友人もできて、多少の問題はあったとしても、まさか大きな事件を起こすほどのこととは、認識していなかったのである。言い訳をしたいということではない。しかしいじめられていたり、社交性のある子供ではなかったのは確かでも、子供に深い愛を感じていて、生まれてこなかった方が良かったとは、やはり考えられないということなのかもしれない。
 あまりに重たい状況だし、現実にこのような対面が成り立つものなのかどうかも分からない。少なくとも日本だと、一方的な謝罪の上に、加害者の親が何かを語ることすら許されるものではないかもしれない。そういう意味では、ある意味で寛大さと実直さの見える話なのかもしれない。そうして、大きなドラマが、会話の中から生まれてくるのである。
 演劇的な要素が強いのだけれど、しかし力のある物語である。観終わってみると、そういう事にしかなりえないのかもしれないとさえ思う。それはそれで、大変な葛藤なのだが……。
 骨太すぎて、かなり疲労する感じもした。是非とも体力の状態のいいときに、対峙して欲しい作品と言えるかもしれない。原題はMassで、宗教的なミサの儀式の意味が含まれているようだ。ちょっと意味は分かりかねるが、教会が舞台であり、宗教的な意味が無視できない題材であるのは、間違いないと思われる。あちらの人の感じられると思われる深い感動は、そういう素地の上であるのも、理解しておくべきかもしれない。
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暗闇を歩く

2024-01-29 | 散歩

 仕事から帰って夜の街を眺めながら歩くのが好きだ、という人の文章を読んだ。どんな夜のまちなのかは想像するよりないが、それなりのまち明かりがあるということなのでは無いか。
 先日ちょっとした飲み会に誘われてしかるべき店に行かなければならなかったのだが、妻の都合などもあって、ちょっとばかり早く着きすぎてしまった。相手もあることだし、そんなに気合を入れて早すぎる入店をする必要も無かろうと考えて、あえて店よりだいぶ手前(歩いて15分弱くらいか)で降ろしてもらって、少し散歩することにしたのだった。
 ところで地元事業所のある地域の、少し外れたところにその店はあって、国道わきを歩いても良かったのだが、歩道が全部あるのは向かい側であり、そうするとそれなりに車の量のある国道を、二度にわたり横断する必要が出てくるということだ。しかるべき限られた場所にある信号を、二度も渡るのが面倒である(田舎の人間というのは、信号を待つのが死ぬほど嫌いなのだ)。そういう訳で、ここはあえて山手の道を迂回してやろうと思って、坂道を上がったのだった。
 少し歩いてすぐに気づいたのだが、この山手の道が真っ暗なのである。恐ろしいほどの深い闇が、あたりを包み込んでいる。その日は曇り空で、月明かりもほとんどない。さらにその坂を登る道が、山影にもなっているのである。そうなると、アスファルトの道だとその黒さが闇に沈んで、ガードレールの白さが横に無ければ、ほとんど暗黒の道なき道になってしまった。
 真っ暗闇を歩いているというのは、いわゆる足元がおぼつかない、というのもあるが、ちょっとした浮遊感のようなものがある。歩いている自分がいるが、その場所を進みながら、歩いて進んでいるというより、なんとなくちょっと浮き上がったような、不安定な感覚がある。別段浮き上がって空に昇っているわけでは無いが、真っ暗な道を山陰の中、さらにその山に向かって登っている。その先には曇り空ながら、どんよりとした明るさの空がある。ちょっと明かりが見えるのは、その先にある高速道路の明かりだろう。
 とぼとぼというかてくてくというか、そういうリズムを刻んで、やっと尾根のような道に交差し、その道を平行に歩いて行って、さらに左に今度は下った先にちょっとした集落があって、そうしてその最後の二件前に目的の店があった。
 ほとんど真っ暗な中散歩して着いた場所で、僕らはワインを飲んで食事をした。そこはどういう訳かフレンチの店で、それなりに本格的な料理を堪能できる。そうして三人で三本ばかりワインが開いたころで、汽車の時間の都合でお開きになり、帰り道は店主が駅まで送ってくれた。こんな田舎だと、タクシーだって来てくれないのだった。
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反省しないから成功できる  パーフェクト・ケア

2024-01-28 | 映画

パーフェクト・ケア/J・ブレイクソン監督

 資産家の老人を狙って、その家族にも手を出せない後見人として法的に支配し、着実に金を巻き上げる悪徳商売をしている女性がいる。せっかくそれなりに長い間資金を搾り取れると踏んだ資産家が突然亡くなるなど、ちょっとしたトラブルに見舞われる。診療所の医師に頼んで次なるカモを探していると、大変な資産を持っているのみならず、天涯孤独な女性を見つける。認知症で自立生活が困難だとする診療記録を作ってもらい、老女を拘束し、老人ホームでも携帯電話を奪い薬漬けにして事実上監禁することに成功する。その間に彼女の持っている資産を売り払い、大儲けすることになる。しかしこの老女には隠された秘密があって……。
 最初は漫画チックで、胸糞の悪くなる悪徳女性の物語を見せられて嫌な気分になるが、途中でヤバい雰囲気なって来て、ああ、もう彼女もおしまいかと思って留飲を下げると思いきや、またもや意外なことになっていく、という物語。強い女性だからこそ、そういう行き過ぎた信念を持っているからこそ、世の中の荒海の中を泳いでいけるのだ、というサクセス・ストーリーになっていく。ただし問題があるのは、彼女は何処までもあくどい上に、何の反省もしないことなのである。だからこそ強いのであって、ある意味でこの物語の強いトーンにつながっている。
 もっともよく考えてみると、マフィアの方が勝手にいろいろとミスを積み重ねているような気もしないではなくて、そういうところは、まあ、ギャグとして見逃さなければならないのかもしれない。ヤクザらしい脅しをいくらかけられても怯まない強い女性がいるからこそ、オイオイ大丈夫か? と不安になりながらも痛快に感じられるということだろう。実際にどん底に陥ってからの強さは、嫌悪感がありながらもあっぱれなのである。もちろん、こんな女は、とても好きにはなれないが、男に好かれるようじゃ、成り立たない女性像なのである。だからこそ彼女は強くて、何処までも反省できないのだ。
 いろいろと問題がありながら、古典的な差別的ともいえるギャグがふんだんに含まれている。そういう事も、ある意味では計算づくで物語が構成されていて、これだけの社会的にも許されない悪事が重ねられた上に成功する女性を描いて、そうして成り立つようになっている。そうして女性であることが何より重要で、マッチョなランボーが成しえない純粋さのかけらもない人物が描けるのである。もちろん見ているときにそんなことは考えないのだが、これも時代のなせる業だということなのだろう。
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大騒動だが、ほんとに動くかは……

2024-01-27 | 境界線

 地元の選出議員が辞職することになって、記者会見がなされた。ちょっと前までは毎日のように顔を合わせていたので、なんとなく妙な感慨もある。失言したと言われる言葉も撤回して謝罪したが、誰に謝ったのかは実は僕にはよく分からない。失言したのは国民を馬鹿にしたわけでもないし、実際のしつこい記者に対して腹を立てたからだということのように思えるので、その記者に対しての方が自然だが、それで記事にできたので、書いた方はむしろ感謝しているのではなかろうか。まあ記者会見の内容云々する材料はあんまりなくて、結局謝ったということと、何かを守り通したということになるんだろう。政治はそういうものなんだな、ということを想像するよりない。
 少し遡って考えると、政治資金を集める必要が絶対的にある中で、それは良くないということになって、政党助成金が人数割りで配られるようになった。共産党だけは拒否しているのだが、それ以外の国会議員は、事実上政党を通じてそれは受け取っているという建前になっている。政治活動は、その範囲でやってはどうかということが暗にある訳だが、もちろんそれで足りないということを考えている人々がそれなりにあって、ふつうは政治献金でそれを補うことになるんだろうけれど、特定に企業が献金で名前が出た場合の顧客への配慮なんかもあって、より名前のでにくい政治パーティが開かれて、実質上そういう形で献金がなされている実態がある。だからそれ自体は何ら悪いことだとはいえないが、これで得た収入は会計に記載されなければならなくて、それを怠ったので良くないということになった。しかしながらこれまでも、不記載の問題はあり、指摘されたらミスを正すということで、起訴までされることは無かった。今回はその記載されていない金額が、多額である人々のみを起訴するという検察の方針が変わったらしいことにより、目だった人が問題になっている。その線引きはどういう基準なのか三千万円ともされていて、ではなぜ一千万円なら起訴されないのかはよく分からない。しかし大問題なのだということでは関心が集まっていて、自民党内の派閥勢力の解体にまで言及されるまでになった(※これを書いた後に、安倍派の離党を求める動きまで出ている。岸田さんは結構強硬である)。そうなると以前からの歴史的な政治スキャンダルの流れから見て、普通なら政党離脱で新党ができるとかいう事に発展するのだけれど、そういう動きをするリーダーが、今のところ見当たらない。それで派閥を解体して政治勉強会ができるとかなんとか言っていて、そもそもそんなことはできないとかは聞いている。政治は権力闘争なのだから、塊が無ければ一人が勝手に巨大になる必要があるので、やはり金を持っている人が偉くなる可能性が高くなる。金を集める能力だって、結局は自分が一番金を持っていて支払うのが特に安易なので、そういう政治家が求められることになるだろう。改革を推し進めたらするだけ、それだけ元々の権力を持っている人を強めることになるということになる。これを考えずに建前でつるし上げをするので、ますます助長させるわけである。
 なんとなくの感覚だが、すでに議員の数が多すぎると考えている人が多いようにも感じる。確かに人数だけ見ると多いけれど、じゃあ国会議員になれるチャンスのある人というのは、地元で考えてみればわかると思うが、まず普通の政治家を志す人々の中の、実に限られた人であることが分かるはずである。その上で、時期的な運もある。今回の騒動で議席が空くが、そこを埋められる人にも、実際にはいい条件のチャンスですらない。それは今水面下で議論されているはずで、その後の待遇を含めた事柄が選挙前に決まらない限り、実際には誰も埋められない筈である。さらに選挙自体も厳しい訳で、それは選挙そのもので選ばれているわけではない駆け引きなのである。
 やるべき議論はだから、それでいいのかどうかということなのではないか。献金なんかはネットのアプリのみを認めるとかして明確にするだけでも、そもそもの問題は消えそうだが(チェックが簡単である)、集まったからそれは悪いのではなく、単なるポピュリズムが進行したということになるだけかもしれないが……。もう政治なんてものは、吉本とかジャニーズが担えばいいのではあるまいか。もっとも国民のためになると考えるならば、チャットGPTなんだろうけれど、まだ現代人の感覚として受け入れられる土壌には無いと思われる。しかしながら要するに、人間のやることには、もう限界があるということである。
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この騒動に参加する?   マッシブ・タレント

2024-01-26 | 映画

マッシブ・タレント/トム・ゴーミカン監督

 今は落ち目になってしまって、酒でも失敗を繰り返している元ハリウッドの大スターがいる。いわゆるニコラス・ケイジが、主人公の落ちぶれスターであるニック・ケイジ役を自虐的に演じているコメディである。ファンでもあり往年のスターを使って映画を撮ろうとしているスペインの大富豪との絡みがあり、それを追うCIAからスパイをやって欲しいという依頼もあり、俳優とスパイという二足の草鞋を履くことになるのだったが……。
 基本的に落ち目になってしまったニコラス・ケイジの情けない姿を見て、笑ってしまおうという趣旨である。だからこそ、ニコラス・ケイジは終始情けない。もともとなんとなく可笑しみある俳優だが、映画界の名家コッポラ家の出で、数々のヒット作に主演したのみならず、映画賞も受賞歴がある。れっきとした大スターでありながら、実際にも近年はあんまりたいした役は演じていない現実がありそうだ。僕も近年見た映画では最悪ともいえるカラー・アウト・オブ・スペースや、マンディ地獄のロード・ウォーリアーにも主演していたことを知っている。なんでまたこんな変な映画に出なくてはならなかったのか。おそらく彼は実際に落ち目なのだ。
 そういう事で、映画は何ともちぐはぐなのだが、お互いの思惑もある中で、妙に物語は成り立っていく様子である。そういうバランスというのが、そのままコントになっていて、実際に犯罪組織は実弾を使って抗争を繰り広げていて、実は命がかかった演技を披露しているという構図になっている。ふざけているが真剣、という混同が見られるわけである。まあ映画なんで適当なんだけれど……。
 この映画はそれなりにヒットして、現実社会でもニコラス・ケイジは復活を果たしたともされている。そういうあたりも、映画の中の現実と非現実の混同とリンクしており、さらにこれを観た観客というか、我々の住んでいる現実社会とも、更にリンクした仕組みになっているということになる。ヒットしなければそんなことにはならなかったわけで、まさにこれは仕組まれた罠のようなものなのかもしれない。そういう事に参加するかしないか、それは観る人次第の行動にかかっているということになるだろう。
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仕掛はまだ見ぬ人への語り掛け   仕掛学

2024-01-25 | 読書

仕掛学/松村真宏著(東洋経済新報社)

 副題「人を動かすアイディアの作り方」。ひとのついやりたくなる行動の心理をついて、さまざまなものを円滑にできるようにモノのデザインを考えることはできないのか。そのようなことを研究しているところがあるらしくて、その研究成果というか、どんなことをどんなふうにしているのかということを紹介してある本。堅苦しい感じはまるでなくて、本文の文章それ自体もそれほど多くはない。実例が写真で示してあって、それがどんな目的なのも一目瞭然で、そうしてそれは人間のどういう性質を利用したものか、ということを簡単に解説してある。必ずしも万能とはいえないものかもしれないが、これまであった困ったことであっても、そういう仕掛けをすることによって、何パーセントという確率でもって、改善できるということが分かっているようだ。そうしてそういう仕掛けそのものを見て、おそらくだけれど、もっと別の困ったことだって、仕掛けのデザイン次第で良くなることがたくさんあるんじゃないか、と考えることになる。
 動物園で目の前に丸い筒が据え付けられていると、つい覗いてみたくなる。そうしてみた先には、動物のうんち(模型)が展示してある。注目してもらって、自然に学びの機会も増やせるわけだ。男性トイレの小用便器には、あえて的やハエの絵のシールが貼られるようになった。いわゆる的めがけて用を足す人が増えると、小便が便器の外に飛び散りにくくなる。きれいにトイレを利用してもらう工夫なのである(これは近年非常に増えた)。「トイレは綺麗に使いましょう」という張り紙よりも、こういう仕掛けの方が効果があるのである。
 人通りの少ない道脇に、小さな鳥居が建てられている。そういう場所では、以前多くのごみが捨てられていた。鳥居という神聖なるシンボルを前にして、物を捨てにくくする心理に働きかけているわけだ。ごみ箱の上にバスケットゴールのようなものを据え付けると、思わずごみをゴールに入れるように捨てたくなる(かえって投げて飛び散らなければいいが……)。そういうアイディアがふんだんに紹介してある(写真付きで)。
 そのようなアイディアは、一見遊びのようなものである。確かに発想は遊びに近い。そういう面白さのようなものが、人々の興味を引き、なおかつこれまで困っていたことの解決につながっていくのかもしれない。すべての人がそうなるわけではなさそうだが(中にはひねくれものが必ずいるものだ)、多くの人が、その発想に感心し、なおかつ楽しんで実行するようになるとしたら、これまで苦労してその犠牲にならざるを得なかった人が、いつの間にか救われることになるかもしれない。これまで行政が隅々まで禁止看板を立てまくって景観を壊していたものが、ごく自然なまま、看板を撤去することができるようになるかもしれない。これを読みながら思ったことは、そのような可能性のある未来像だった。
 仕掛けは、今は目の前にいない知らない他人に対してのアプローチかもしれないが、それは一種の対話のようなものかもしれない。こちらの思いを、その形を目にした人が一瞬で理解する。そういう共通の思いや共感のようなものが、もっと街中のデザインに生かされてもいいのではないか。そういうことを考えたい人には、是非とも手に取って欲しい本かもしれない。
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これが実話元だからアメリカンだ   アメリカン・ギャングスター

2024-01-24 | 映画

アメリカン・ギャングスター/リドリー・スコット監督

 イタリア・マフィアなどが中心になって麻薬取引が行われていたニューヨーク。そこに麻薬売買組織のボスの運転手だった黒人の男が、東南アジアで直接麻薬栽培組織から買い付けを行い、圧倒的に質が良く値段も安い麻薬を売り、大成功を収めることになる。しかしながらマフィアではない彼の家族である組織は、汚職警官をはじめ、様々な麻薬関係者に金を配り、身を守っていたのだった。一見カタギのような商売を続けながら、見た目は質素に規則正しく暮らしているようにしながらも、だんだんと麻薬捜査の目に留まるようになっていくことになっていくのだったが……。
 あくまでマフィアではなく、家族を使って麻薬ではあるが、地道な商売をやってのし上がっていく黒人の男なのだが、幸福な結婚をし、家族全体も潤い、有り余る金でもって生活が豊かになり、いわゆる絶頂期を迎えることになる。そうして彼は数百万はするだろう毛皮のコートを着て、ボクシングの最高の席を確保し観戦する。そこに麻薬組織を追って捜査を進めている検察の特捜班の目に留まることになってしまう。同時に麻薬捜査をしている警察の悪徳軍団にも目を付けられ、みかじめ料を要求されるようになる。転落の予兆である。しかしすでに多くの権力を手にしている男は、そういう汚職警察のやり口が気に食わない。マフィアも使いながら抵抗するが、ついに妻の命まで狙われるようになるのだった。
 独特の緊迫感があり、麻薬販売という悪の権化のような仕事をやりながら、ある意味で堅実な道を歩み、家族には尊敬をされる存在にのし上がる男の実話をもとにしている。もちろん映画としての脚色があるものなのだろうが、これが犯罪録として成り立つということに、驚きを隠しえない。悪の成り立ちもそうなのだが、なんと言っても警察にはびこる汚職の根深さにである。この映画が絶頂と転落の男の人生を描きながらも、一種のカタルシスのあるエンタティメントになっているのも、そのような物語性にある。犯罪組織を追っている検察の男の生き方にも、ある意味でアメリカン・サクセスの精神性がみられる。命を懸けてもやるべき仕事がある。それは、単に悪の撲滅のためだけでは無いのかもしれない。
 ちょっと古くなってしまった映画だが、デンゼル・ワシントンもラッセル・クロウも、ともに若く脂が乗りきっている。映画とはこうでなくちゃというノリも素晴らしい。そういう意味でも、職人監督リドリー・スコットの名作といいっていい映画なのだろう。
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ノレない自分と反省すべき偏見

2024-01-23 | つぶやき

 正月はなんとなくなのだが、たくさん映画を観て、たくさん読んで、という気分になる。たぶん毎年なる。しかしながらそれを実行しているのかは、結果的にはよく分からない。相性のようなものがあって、いいものに当たらない、という感じが続いた。ちょっと期待が大きかったのか「GUNDA」という豚とか家畜の映像の続くものを観たのだが、途中でどうしても寝てしまう。名作と名高いが、退屈するのは確かで、更に正月で酒を飲んだりしていて、堪えられなくなったのかもしれない。断念してもうすぐ配信が終わるというので「わたしは最悪。」を観たのだが、これも調子が悪い。途中でヒロインが取る行動に、違和感がぬぐえなくて、とても共感ができない。結局途中で寝てしまって、もう一度覚えている場面まで戻ってみたりするのだが、またこのヒロインが意味のない嘘を語ったりする。映画的には意味のあることかもしれないが、なにかげんなりさせられる、そうしてまた睡魔が来て……、観る気もなんとなく失せた。また別の配信で見切る機会があるかもしれないが、いったんは距離を置こう。
 それでは気分を変えてジャッキー・チェンだ、と思って「プロジェクトV」を観るのだが、これもなんだかちょっとノレない。アクションは激しい上に悪く無いとはいえるが、なんというか嘘臭い上乗せが多く、場面のカラーが特撮の多さの所為か、原色に近く不自然だ。ディズニー映画を観ているような妙な健全さがあって、これも見続けるのがつらくなってしまった。香港も、娯楽作はもうだめかもしれない。ネトウヨが喜びそうだが、中国の所為なのだろうか……。何か資本の要求がそうなってしまうのかもしれない。
 村上春樹の特集をやっている雑誌を読んで、村上春樹が傑作だと絶賛している安西水丸の「普通の人」を読んでみるのだが、ぜんぜんノレない。まったく面白くないのである。絵が下手とかいう以前に、悪ノリをしているのがバレバレというか。こういう身内的センスを笑うというのは、ときどきニューヨークの映画なんかではあるのだけど、そういうのを東京でもやってみようということになったのだろうか。都会的というのは同時に田舎臭い訳で、そういうのはやっぱり身内じゃないと面白く無いのじゃないか。同時に褒めていた佐々木マキの本も買おうかと思ったのだけど、値段もあって躊躇していたのだが、断念に変わった。これもまたの機会にしよう。それにしてもデジャヴ的に新聞で佐々木マキが登場して、彼が女でなく男であることを知った。どういう訳が何十年も前から佐々木マキは女だと思い込んでいた。これは反省すべき思い込みかもしれない。そういう風に脳内転換をして佐々木マキの絵をみていると、今はもう男が描いたとしか思えない。感覚というのは、本当に思い込みを排除できないものなのかもしれない。
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銃弾飛び交うアクション・スリラー   炎のデス・ポリス

2024-01-22 | 映画

炎のデス・ポリス/ジョー・カーナハン監督

 邦題はダサいが(原題はcopshop=警察署)、侮ってはならない。マフィアに追われる詐欺師があえて警察に捕まり拘置所に入るが、それを追って殺し屋も拘置所に拘留される。さらに別の殺し屋が警察署内で銃撃戦を繰り広げることになるのだが……。
 残忍な殺し屋が警察署内で殺戮を繰り広げるが、負傷しながらも立てこもり、拘置所に捕らえられている犯人らを守ろうとする婦警(日本の婦警とは、かなり違うけど)と、その詐欺師と、殺し屋のやり取りがメインである。まあ、筋書きは適当でかまわないが、とにかく科白回しもかっこいいし、アクションが延々と続いて見飽きない。あちらのガン・アクションは拳銃ならではの面白さがある。撃たれて負傷するものの、皆、なかなか死なない。簡単に死ぬ人はいるけれど、死なない人は生き残って拳銃を撃ちまくるのである。何を言っているか分からないだろうけど、それなら迷わず見るべし、である。
 アクションを楽しむ映画なのだが、なかなかに残酷な場面もあるものの、その展開が痛快である。何が悪で、しかし善がいいとも必ずしも言えない。こういうのは、映画を観ながらだが、勝ち負けのためにコロコロ感情が揺り動かされることになる。悪い奴だが、頑張って欲しくなり、それでも善にも頑張ってもらわなければならない。何しろ死んだらおしまいではないか。
 ちょうど最近見た映画のキャストが被っていたが(トビー・ハスがLAコールドケースにも出ていた。無名と書いたが、ジェラルド・バトラーはそれなりに有名かもしれない。失礼しました)、ほとんどはおそらく日本では無名の俳優ばかり。なおかつヒロインは黒人女性で、この人もおそらく僕は初めて見た。いわゆるセクシー女優ではないけれど、戦う女として、だんだんと魅力が増す演出である。あんまり強そうでない彼女が、負傷しながらもいいアクションをするところが、なんともかっこいいのである。最後もほんとに素晴らしい。最後に歌うのだが、英語なんですぐには歌えないが、一緒にハモりたくなってしまった。
 荒唐無稽で、とにかく無茶苦茶ではあるのだが、アクション活劇はこうでなくちゃ、という感じかもしれない。科白のやり取りにじっくり時間を掛けながらも、やるときはやるんだ、ということになるのかもしれない。何しろくず野郎ばっかりなんで、強い女が必要なのである。世の中もそのように、頑張ってもらいましょう(なにを言ってるんだか)。
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書いてみると落ち着くこと

2024-01-21 | 雑記

 なんだかちょっと書き過ぎているんじゃないか、という思いはある。でも書いているとなんだか落ち着くのである。忙しい合間にちょっとしたメモをしたためて、これはなんだかまとまりができそうだという予感があると、ちょっと単語を弄んでいく。そんな感じで書きだしたとしても、意外とそのままスルスル書けてみたりする。自分でも妙な感覚なんだが、そうしていると気分がいいかもしれない。いちおう推敲するのだけど、思い切って削ってみても意味は十分通じるな、と思うと、それはもうバッサリ切ってしまって構わない。むしろ付け足していくときりがないように文章は膨らんでいくもので、ときどき切らなくては仕方がない。そうやって切ったハッタをして、だいたい1000字くらいの塊ができる。また後日見返すことにはなるけれど、それでまた削って足してとやってみても、やっぱり千字ちょっとという感じだろうか。それより多くなりそうだと、別のテーマに発展して、そうしてまた別のワードを開いて書いたりする。そういうことを繰り返していると、もう来月の中旬くらいまで書いているものが溜まったりする。それはそれでいいんだけれど、その時に思う僕の気分というものは、今の僕の気分とは違うような気がして、不安になる。もちろんあんまりタイムリーなことを書かなければそれでいいので、特に普遍性を狙っているということは無いが、だからと言って生きているうちのことに過ぎない時代性が書いていることにはあるはずで、先のことなどあまり考えたくないのである。それに実際のところ、先のことなどまるで分りようが無いのである。気にならないということではなくて、考えても仕方ないと思うのだろう。
 それでも書いているというのは、やはり今の自分を知ることなのだと思う。自分の考えていることは、漠然とは自分でもわからない。映画を見たり本を読んだりして感想を持つと、それと同時に自分のことも考えている。僕はあの場面は感心しないとか、こういうことを書いてるけど、ちょっと違うんじゃないかとか、勝手に怒ったりするところは、やはり気になるところでもあるんだろう。同時にこれは面白いな、とか、こういう考え方や組み立て方があるんだな、というのを発見させられたりすると、心の底から嬉しくなってくる。そうしてそういう気分も書き留めておきたい。そういう感情が逃げ出したりしないことは分かっているんだけど、どうにもこうにも、そうしないと落ち着かないのである。
 年末年始というのは、どういう訳かいろいろと面倒なことが重なったりして、もちろん楽しいことも含めてあるのだけれど、まどろっこしくも書けない時間がある。そうすると、やはり何か吐き出してしまわないといけないような気分に襲われてしまう。しかしうっかり書きだしたりしたとしても、もう少しまとまる予感の前に時間切れで、次のことへ手を付けなくてはならなくなることがある。でもまあたとえそうであったとしても、その断片でも書き留めておいて後でみると、なんだかその時のヒントで気持ち的に片付いたことがあるかもしれないな、と思ったりする。全部のまとまりを欠けたとしても、それはそれでいいのである。自分の考えている全貌は、やはり自分では正確にわかり得ない。そういうことをがわかるだけでも、ずいぶん儲けものではないか。実際のところ、何が儲かったのかさえ、よく分からないのだけれど……。
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2大ラップ・スターは誰に殺されたのか  L.A.コールドケース

2024-01-20 | 映画

L.A.コールドケース/ブラット・ファーマン監督

 2パックとノトーリアスB.I.Gという二大ヒップホップスターが個人的に喧嘩したことが発端として、それら二人の確執がニューヨークとロサンゼルスという都市のギャングたちの対立へと拡大し、二人のスターはともに暗殺されてしまう事件が実際に90年代に起こった。この事件はさらに複雑で、黒人が安易に白人警察から射殺されてしまうという事件とも絡んで社会問題化し、警察の信頼の失墜ともつながっていた模様だ。アメリカは警察が誤って事件を起こした場合でも、民事の訴訟で警察という行政機関が債務超過に陥るような事態にも発展する国なので、これ以上財負担ができない警察組織は、たとえ人種問題が絡んだものと認識していても、ちゃんとした捜査をしないで処分を急ぐ傾向にあった(社会問題化させたくないため)。その為にかえって黒人警官がギャング組織と絡んで、強盗や麻薬などの犯罪とつながっているケースにおいても、見逃されるということが起こっていた。それらの事件を丁寧に捜査しようと一人の刑事が動いていたのだが、大きな思惑の中に、自由を奪われて、逆に窮地に陥っていくということになっていくのだった。
 過去の捜査をさかのぼって俯瞰して見ていこうとするジャーナリストの男と共に、現役時代に事件を解決まで持ち込めなかった元刑事との間とのやり取りをめぐって、この事件の全貌を明らかにしようとする。事実を題材にしたフィクションだが、ちゃんとモデルとなった人物もいるようである。
 僕も当然当時の二人のラッパーのことは知っていたのだが、何しろラップ界のことだから、日本人としては距離のある話だった。彼らのファッション・センスやスタイルというのは、日本人である僕には、とてもかっこいいものとは思えなかったし、なんだかその表現そのものも、むしろダサいとしか感じていなかった。自由であるのは構わないのだが、やたらに攻撃的で、仲間以外はぜんぶ敵という態度も、(彼らの受難が背景にあるとしても)どうにもついて行けないという感じだろうか。改めて映画でその当時の空気感というものをみるにつけ、アメリカはやっぱり大変だな、という印象は受けるものの、だから黒人が良いとか悪いとかいうよりも、やっぱり対立より対話だよな、とも思うのであった。その前に彼らは殺してしまうので、たちが悪いのだけれど……。
 映画としては、内容が複雑なことになっているのにひっかけ問題のようなものが結構あって、ますます混乱させられる。もはや正義対悪という図式すらよく分からない。簡単に人は殺されるが、それに見合う罪の償いは、いったい誰がやったというのだろうか。今もラップ・スターは、時にギャングめいた行動をしているようにも見えるが、この事件を脱皮するのに成功したのだろうか。今やヒップポップも、以前とはまるで違ったものにはなっている。アメリカの中の文化や価値観は、うねりながらも変わり続けているのかもしれない。
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何か時代の言葉が見つからない

2024-01-19 | ことば

 テレビを見てないわけでは厳密には違うのだが、いわゆるバラエティという感じのものは見てない所為もあるのか、会話の中で時折聞かれるタレントの名前とか、その関連らしい出来事にはずいぶん疎い。そういう僕でも知っていると言えば、やはり昨年のジャニーズ関連かもしれない。結局その後はどうなったのか、までを知らないだけのことで、さすがにいろいろあっているだろうことは、聞き及んでいたかもしれない。そうであるのに流行語などで「ジャニーズ」という単語が無かったように思うのは、なにか世の中の本当の流行ごとと関連する言葉と、流行というものには、なにか違いのようなものがあるのかな、という気はする。吉本の松本関連というのも勃発して、こっちもかなり悪質そうで、ちゃんとこういうことが議論の俎上に上がって、業界がこういう問題から払拭出来たらいいのにな、と思うのである。犠牲もあろうが、ちゃんと流れをつかんで欲しい。
 例えば阪神の優勝後にはじめて「アレ」というのを知ったのだが、ペナントでアレが騒がれていたというのは、一度として聞いたことが無かった。ニュースは見ているのに、アナウンサーは何を言っていたのだろう。むしろペナントとは関係のない大谷さんニュースは頻繁に聞いていて、もう忘れたが、変わった犬種の犬を飼っていることまで、当然のように知っている。調べればわかるはずだが、日本人と外国人のアクセントの違いで、実際の犬の名前とは別に外国語用の名前があるのだという。そういうことを飲み屋で詳しく説明してくれる人がいるのだから知っているのであって、やはりテレビを見たから知っているのではないのかもしれない。雑誌も読むのだから、そっち経由でも情報は入りそうだけど、そういうのは、やっぱりあんまり読まない気がする。いくらで契約したとかいうのも、やっぱりどうだっていい気がする。それよりも、そんなに大金を手にするのであれば、これからの活躍は難しくなる可能性の方が高くなるのではないか、という心配さえする。それでもいいのだという考えがあるのならそれでもいいが、スポーツ選手というのは、モチベーションが難しい分野であるはずで、これを失うことを恐れる方が、オオタニ選手本人にはいいかもしれないとさえ思う。もう本心での露出は難しいだろうが……。
 もう一人のすごい人である藤井クンについては、多くの人とおそらく同じで、そのすごさの本質はまるで分らないのだけれど、ただタイトルを取ったからというだけで凄いと信じているにすぎないまでも、凄すぎることは確からしく、これもいつまでもタイトルを取り続けなければそうでないのか、という問題まで、特に考えているわけではない。藤井君のような息子や孫がいたらどんなに誇らしいだろうか、という話題もあって、ひとというのはそういう感慨をもつものなのだな、とそういう人を観察して考えている。実際こういう人物がいないと業界が盛り上がらないということについては、業界人が一番妙な感慨を抱いているだろうことをつい考えてしまう訳で、おそらくだが切磋琢磨が激しくなっていくのではなかろうか。そうしてそれこそが、また藤井君を強くしそうである。
 実は昨年の流行語ことが書いてあるものをいまさらながらに読んで感想を書くつもりであったものが脱線ばかりしている感じなのだが、要するに何も実感するものが無いという虚無感があった。政治的には岸田政権は厳しいけれど、実質上それ以外の選択肢が無いという閉塞感と、自民党内部の抗争が別の形で出ているらしいという予感があるものの、それらしきものを掴んでいる人はあまりいない。いつの間にか遠いところで戦争をしていると感じているらしい日本人と、しかし明らかに欧米との対立軸で憎しみがぶつかり合っている構図がはっきりしながら、それでもどうにもできないでいる現実がある。もう少しそういうところを考えるべきが主体になっていいはずだが、根気が続かないのが世論である。そういう事こそが本当に恐ろしいことなのだが、それは僕自身も考え続けなければならないことだと、改めて感じているところなのである。さらに年明けて災害が続いている。なんだか妙な空気感が漂っているのだが、そういう気分のようなものでまた膠着するというのは、なにかさらに重たいものの幕開けでないことを祈るのみである。
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日本の少しお洒落な人たち   青葉家のテーブル

2024-01-18 | 映画

青葉家のテーブル/松本壮史監督

 元々は短編のドラマだったものを長編映画化したものらしい。料理上手の母親と息子、そしてその知人カップル(ちょい若い成人)が共同生活を送っているらしい。そこに母親の友人の娘が、しばらく居候することになる。息子君はほのかな恋心を抱くようだが、さて、どうなることやら……。
 母親と居候の娘の親は古くからの友人のようだが、今は著名でちょっとしたお洒落な店を開いて成功しているようすである。そうして以前に、何か二人には問題があったもののようだ。母親はその友人に会いに、店まで出向くことになる。
 特にドラマチックなことは、起きていないような気がする。淡々と、本当に淡い感じで物語は進んでいって、これはいったいどういう意味なのか、考えあぐねた。こういうちょっとした工夫をして、おしゃれに暮らすことができるというスタイルを提示しているのかもしれないし、あえてドラマ性というよりも、そういう感情の機微というものをなんとなく感じさせて、勝手に想像を膨らませる狙いがあるのかもしれない。観ている方は、楽しくなりそうな予感だけでそうならないので、退屈してしまうのだけど……。
 「サマーフィルムにのって」があまりにも素晴らしかったので、その監督である松本壮史作品である本作に対して、期待が大きすぎたのかもしれない。どうも短編ドラマ作品も、やはり何気ない日常にありながら、こじゃれた家具に囲まれて、おいしそうな料理を食べるというコンセプトもののようで、その後日譚として長編の映画も撮られたということなのだろう。そういう感じをそのままに観るべきものなのかもしれない。僕はそういう事情に親しんでいなかったから、その世界観そのものを、まずは理解する必要があったのだろう。
 バンドをやったりして楽しそうではあるんだけど、やっぱり僕らの青春とは別の次元の人々の話、という感じが終始した。それは当たり前すぎるほど当たり前のことで、普通なら違うからいいところもあるということなのだが、共感するという意味では、あまりにも遠い人々の話で、いっそのこと、本当に北欧に暮らす人々の青春だったら、もっと共感できたかもしれない。日本人としては、なかなかに難しいところなのである。
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捨てるより育てるにはどうするか

2024-01-17 | net & 社会

 高齢者がペットを捨てているという。要するに年を取って、これ以上ペットを飼えない状況になり、捨ててしまうのだ。もちろん身寄りが無かったり、引き取り手を見つけることができなかったり、ということもあろうし、病気でそのまま入院してしまったり、施設に入らなければならなくなったりして、捨てざるを得なかった人もいるようだ。伴侶が亡くなるなどして、一人で世話をできなくなった(育てるのに不安を抱えるなど)とか、とにかく猫などが飼ううちに増えすぎてどうにもならなくなる人だっている(こういうのが一番困りものだ)。可愛いし、最初はちゃんと飼ってはいたのだろうが、小動物とはいえ、犬や猫はあんがい寿命が長い。近年家の中で飼われることが当たり前になって、犬は寿命が延びたともいわれているし、猫は代謝の効率がいいのか、そもそも二十年くらい生きる個体は稀ではない。自分の寿命を勘案してみると、最後まで飼いきれるのか高齢者? という立場の問題になってくるのである。人間の寿命が延びたと言っても、必ずしも健康寿命とは違う場合もあるだろうし……。
 そういうペットを引き取って育てているNPO団体や、支援しているグループというのはあるにはある。しかしながらたとえそうでも、すべてのペットを引き取れる余裕などはないという。それほど捨てられるペットの数は多すぎる訳で、さらに仕方なく処分される命もたくさんあることだろう。いまさら野生で生きていけるようなものでもなさそうだし、人間社会の制約もあって、野生で生きる道など最初から閉ざされているに違いない。人間は、野生と共存できる生き物では無いのである。
 また、ペット共に入居できる高齢者施設もあるそうで、それはそれで新しい試みかもしれない。もっとも、ペットを嫌う他の利用者がいないとも限らないので、そうした線引きなどの問題はありそうだった。
 いずれにしても飼っていたペットを捨てる行為そのものは、身勝手のように見える。それほどペットというのは、飼っている人の所有物とみなされているからだろう。しかし同時に生き物で、その生死を飼い主の都合のみでどうこうするのは倫理に反する感じがする。そういう前提がありながら、人間にも寿命があり、健康や家族の在り方にも、それぞれ事情がある。そういうことをすべてクリアした人でなければ飼う資格がないということを、いったい誰がジャッジできるというのだろうか。
 悲しい現実を前にして、やはりこれは一定の金を掛けて取り組むべき問題ということにもなるかもしれない。税金という形で何とかして欲しいというのもあるが、しかし行政として、ペットと関係ない市民からまでも負担を求めることは、それなりにむつかしい面があるかもしれない。そうなるとペットを売買するときにお金が発生する訳で、そういう時に、価格とともに負担金を集めるということにもなるかもしれない。または、ペットを捨てる行為の前に、預り金を徴収するシステムを作るなどもあるかもしれない。企業協賛も必要だろうし、篤志家にアピールする啓蒙活動もいるだろう。そういうことを可能にしながら、受け皿を育てることを考えるべきだろう。保護犬(猫)運動もあるし、それらをどうするのかということを地道に考えないことには、捨ててしまう高齢者問題では、ものごとは解決しないだろう。もうそういう事をやっている人はそれなりにいるとは思われるものの、現状はそれ以上の数のペットの命がある、ということなのだろう。
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