カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

運命とは何か、という壮絶さ   ペルシャン・レッスン 戦場の教室

2024-03-16 | 映画

ペルシャン・レッスン 戦場の教室/ヴァデム・パールマン監督

 ナチス収容モノは恐ろしくて苦手なのだが、その恐ろしさが十二分に描かれている作品であるにもかかわらず、観た。そうしてしかし、恐ろしくおぞましい話ながら、観てよかったと思える作品だった。素晴らしいからである。
 ナチスに捕まった男は、輸送中に隣の男からペルシャ語の本を譲ってもらう(というかパンと交換する)。車から降ろされると、人々は次々に銃殺される。男はとっさに自分はユダヤ人ではなくペルシャ人だと偽る。それを聞いた兵士は、上官がペルシャ人を探しているということもあって、連れ帰る。その上官である将校は、たいへんに恐れられる人間でありながら、奇妙なユニークさのある者だった。実は元料理人で、戦争が終わったらイランへ行ってレストランを開くつもりだという(兄が住んでいるらしい)。それでおそらく二年くらいの間に、ペルシャ語をいくらか覚えておこうと考えたのだ。しかしながらユダヤの青年は、実際はペルシャ語など話せはしない。必死で架空の言語(単語)をこしらえて、この恐ろしい将校に教える毎日を送ることになる(昼の間は労働を強いられながらである)。架空の言語を勝手に作ればいいとはいえ、自分で作った単語は間違えずにずっと記憶にとどめておく必要がある。まさに命を懸けて、必死で単語をつくっては覚えていく毎日を送ることになるが、その単語を覚えるヒントに使われたのは、ほかならぬ囚人たちの名前だった。それだけ多くのユダヤ人が、捕らえられているという現実があるという事でもあるのだった……。
 いつ素性がバレて、殺されるか分からない緊張感がついて回る。捕まえたナチスの兵隊たちも、この青年がペルシャ人だとは誰も思っていない。一将校が恐ろしいために手をこまねいているだけで、様々な罠を仕掛け、男をおとしいれて殺そうとたくらんでいる兵隊もいる。ナチスの兵隊たちの間柄も、厳しい上下関係の緊張感からか、ユダヤ人をいたぶって殺すことに、なにかストレスを発散させるような気分のようなものを持っているようだ。それこそが戦争の狂気として、生々しく描かれる。しかし同時に奇妙なユーモアのような演出もあって、非常にブラックな笑いがところどころに仕掛けられていて、人間というものの心情の恐ろしさを見事に捉えている。その脚本の素晴らしさがあって、人間の命のゆらいだ行先を、実に巧みに表現している。ただ生きたいがために、必死でやり繰りをしている中で、ちょっとした人間関係の彩が生まれる。それが後に、決定的な生死を分けたりするのである。生き残るというのは、壮絶でありながら、且つ蝶が羽ばたいたというだけのほんの少しの偶然でも、簡単に左右されるものなのかもしれない。それがホロコーストで生き延びる、ということだったのかもしれない。
 間違いなくの傑作で、最後の最後まで見逃せない展開を見せる。そうして最初のシーンから最後のシーンまで、見事に完璧なつながりがある。これが映画だ、ということなのである。こういう題材がまだ、映画的に残っていたという奇跡が、また素晴らしいということなのかもしれない。
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