カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

選挙の時間は早く流れる

2022-06-30 | net & 社会

 選挙は、大勢は既に決した様相が見えてきた。実際はやる前からかなりの部分は「分かっていたこと」だったのかもしれない。選挙としての争点がよくわからないこともあるし、皆が戦いにくい状況にあったのかもしれない。争点があったとしても、何かそれ自体がどうしたの? という感じもある。本当にたくさんの人が選挙戦を戦っているが、地方区では、いまだに誰が出ているのかを把握できるほどに盛り上がりがあるわけではない。そうしてつぶしあいがなされていることになり、一人が安泰にあるわけだ。僕は選挙にはかかわっているので、選挙前から何度も候補者の話は聞いているけれど、だからと言って今回が盛り上がっている風ではないことくらいは分かる。いつもの人たちがいつものように真面目に集まってきて、そうして生存確認をしているような感じなのかもしれない。それがこの国の選挙の真の姿であるにせよ。
 ともかく、参議院選という事もあり、長崎県といっても広いので、選挙カーが頻繁にまちを流れていくという感覚も薄い。僕の住まいや事業所の問題もあろうかと思うが、今のところ選挙カーの声が静かに遠くに聞こえたことがある程度である。誰だったのかさえよくわからなかった。そういえば選挙が始まってるんですよね、と聞かれることがあるが、はて、それは確信をもって僕がその通りと答えていいものか。いや、いいんだけど。
 それでも名刺を配り、ポスターを配布して、自分の時間はそれなりに使った。協力のお願いもそれなりにしているわけで、忙しいのに大変なのである。知り合いの中には対立候補側を押している立場の人もいるし、そういう時にはお互いに大変ですね、と苦笑いになる。別段けんかをしている仲ではない。この期間は協力できない間柄になるだけのことである。しがらみがあるのでこうなっているだけのことだから、人間関係としてどうこうなるものではない。
 それにしても比例区である。これが大変なのである。これはいろんなところからグイグイくる場合がある。八方美人にならざるを得ないものもある。しかしながら僕は、立場上はこれも推している人がいる。ふだんはちゃんと発言しているが、これが同じ業界でも違う人を推している人もいるわけで、大変なのである。どうにかならないか、それでも食い下がってこられる。うーん、でも立場があるんですよ、立場が。
 僕が推さざるをえなく推している人は、いわゆる間違いない人である。人物が立派すぎるくらいだ。だから自信をもって、という事は言えるのだけれど、遠い人たちに向けてこれをうまく説明するには骨が折れる。内心早く終わらないものか、とは正直に思う。少なからぬ得票をちゃんと獲得したうえで、という事にはなるが。
 しかしながら選挙としては時間が足りない。それもよくわかる。十分な準備と時間を使って選挙をやっている人なんて政治家にいるのかは疑問だが、そういう中でしのぎを削るのが選挙期間である。そうしていつかは時間が切れる。忙しい方が、その時が来るのも早く感じられるのかもしれない。
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事実は小説より……   愛すべき夫婦の秘密

2022-06-29 | 映画

愛すべき夫婦の秘密/アーロン・ソーキン監督

 1950年代にアメリカで一世を風靡したテレビ・コメディ番組があったらしい。そこで大人気だった夫婦タレントの当時の出来事を、あたかも一週間で起きたようにアレンジし直してドラマ化した映画。
 タレントとして人気を博し、夫は音楽家でもありプロデューサーとしての能力も高い。女優の妻は、美人女優としても、そうしてコメディエンヌとしての才能も非常に高い。ただし、過去にある問題を抱えていて、スキャンダル化すると業界から追放されるかもしれない危機を迎えていたのだった。
 戦後のアメリカ社会には、反共産主義に偏りすぎ、あたかも魔女狩りのように、思想統制が当たり前になった社会であった。そこにはたとえ過去のことであろうとも、いわゆる過ちを許さない偏狭な世界になり果てていた。そういう中、着実にキャリアを積みながら、さらに大きなチャンスをつかもうとしている人気タレント夫婦が、その私生活も含めて、どのようにしてこの危機を乗り越えようとしたのか、事実をもとに見事に演出がなされている。もちろん映画なので、完全なドキュメンタリーとしての史実に忠実かどうかは分からない。しかしながら、基本的にはこのようなドラマを持った人間が、アメリカで人気者だったということが分かり、実に感慨深いものがある。アメリカの時代とそこで活躍した人の悲劇と必然のようなものがあって、娯楽だけでない意味深さがあるのではあるまいか。
 会話劇において、何かちょっとしつこい感じもあったのだが、これもちゃんと伏線になっていた。驚くべき隠し技のような演出をもって、まさにエンタティメント的にものがたりの終焉を迎えるが、なんと二段底がある。女の人って凄いなあ、という感じである。いやいや、それだけ洞察力があるということも言えて、見事なのである。お楽しみください。
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少年には友情が必要だ   飛ぶ教室

2022-06-28 | 読書

飛ぶ教室/エーリヒ・ケストナー著(光文社古典新訳文庫)

 ドイツのギムナジウムという寮のある学校が舞台。日本と制度が違うのでちょっとわかりにくいところがあるが、9年制で10歳から入る学校のようだ。この作品は古典的な名作だから何度もドラマ化もされているし、それこそ世界中で愛されている不屈の友情物語の代表格である。しかしながら何となく読んだことは無くて、はて、実際はどんな話だったっけ? という事ですでに持っていたものをパラパラめくっていたらいつの間にか読み終わってしまったという感じだ。
 上下関係や、他校との軋轢などもありながら、友達のパワーバランスが絶妙で、そうして個性がちゃんと際立っている。そのうえで何より素晴らしいのは、そういう生徒をしっかり理解してくれる先生がいることなのである(そんなことありえないではないか!)。
 飛ぶ教室というのが何なのかはよく分からないが、そういう演劇をクリスマスの出し物として練習している5年生のグループがいて、邪魔をする上級生がいるものの、それを遣り込める勇気ある人間もいる。そうして他校の生徒と対立する中で大活劇をやらかし、勇気を試す者がいたり、過去の友情が復活する人もいたりする。短いストーリーにそれらの要素が縦横に絡んで、何とも言えない友情を味わう構成になっている。ちょっと出来過ぎという感じもしないではないが、まあ、古典なんで仕方ないでしょう。いろいろなことは起こるけれど、多感な少年時代の貴重な時間は、このように過ごされなければならないのである。
 そういえば女の子は出てこなかったんだな、という事が後から気づかされるが、それは恋愛物語が全くないからである。少年といっても日本でいう中三か高一というくらいの感じで、まだ子供なのである。それくらいの女の子ならセックスしてもいいかもしれないが、男の子はまだしてはいけない(たぶん)。高潔な正義や、仲間や友情が何より大切だが、クリスマスは親が恋しいのである(要するにまだ子供)。そういうバランス感覚は、時代を経ても変わらないものがあるからこそ、読み継がれている古典なのだろう。
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ボクシング青春群像劇   BLUEブルー

2022-06-27 | 映画

BLUEブルー/吉田恵輔監督

 ボクシング映画。とはいえ「ロッキー」なんかとはかなり違う。あるボクシングジムに集まっている人のそれぞれの事情物語かもしれない。
 長年ボクシングの指導をしているが、自分の成績は冴えないボクサーがいる。後輩のボクサーは、ボクシングの後遺症のようなものに悩まされながらも、めきめきと頭角をあらわして日本チャンピオンの挑戦者までのし上がっていく。そういう中、パチンコ屋で働いている同僚の女の子の気を引きたいだけのために、ボクシングを習いに来た青年がいた。ジムにはほかにも、自己流だがそれなりに力のありそうな不良青年もいるのだった。
 後輩の才能のあるボクサーには、共通の知人でもある献身的な彼女がいる。ボクシングの後遺症を心配して、出来ればもうボクシングをやめて欲しいと思っているようなのだが、日本チャンピオンの挑戦権というまたとないチャンスの前に、彼はボクシングをやめるなど、とても考えられない状況である。
 それぞれの人間には試練がいろいろあるわけで、努力の人だけが必ずしものし上がるとは限らない厳しさがある。また、ボクシングという競技にのめり込んでいく中で、ただ勝つだけでなく憑りつかれていくような思いが強くなっていくということなのかもしれない。
 確かに過酷な競技であるボクシングジムの、あるある事情のようなエピソードもたくさん見られる。ダイエット目的の主婦も昼間にやって来るし、先輩後輩もあるが、やはり勝てない人間は、なんとなく馬鹿にされる。階級もあるのだろうが、その段階の強さというのが、何よりの価値観なのだろう。さらにジムとしても、出来れば強いボクサーを育てたい。他の事務だってそれは同じだろうから、強いことを隠して当て馬のようなボクサーを探しているところもある。勝負を受ける受けないの駆け引きや、興行としてのボクシング業界の事情もあるのだろう。
 最終的には、恋愛物語だったのかもしれないな、というところもある。そこのあたりは、そんなに成功してないような気もしたが、まあ、最終的にはそれでもボクシングは止められない、ってことなんでしょうかね。格闘技なので、強くなっても恐ろしい世界なんだろうな、とは思いましたです。
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日本人は甘い

2022-06-26 | 

 日本食は砂糖をたくさん使う、というのを紹介した番組を見た。要するに、外国の料理の多くは、あまり砂糖を使わない、ということらしい。一般的に日本食はヘルシーだと信じられているが、そのことを知ると外国人は何か裏切られたような気分になるらしい。また外国の料理というのは、基本的に食後に凄まじく甘いものを食べて〆るという風習があり、メインの料理などを甘くすることは考えられないのだろう。
 日本の料理に砂糖が使われ、要するに甘い味付けが好まれる理由は、それはそれなりにいろいろある。もともと砂糖は贅沢品であり、日本にそもそもふんだんにあるものではない。琉球の時代の沖縄にはあったかもしれないが、それを輸入できる財力のある人間は、そう多くはなかっただろう。要するにおもてなしとしてたいへんに贅沢なものを食べてもらう、という考え方がまずはあったようだ。庶民にまで砂糖文化が広がっていく過程で、そのような客人を迎える時など、あえて砂糖をふんだんに使った料理でもてなした、ということもあったのではなかろうか。田舎料理などは、甘いほど良い、というところもあるようだし、これはもう日本に根付くおもてなし文化の表れとも考えられる。実際隠し味のように言われる調味料の多くは、砂糖であったりもする。お菓子のような甘さではなく、風味をはっきりさせたり、コクを出したりする味付けとして、砂糖というのは和食に欠かせないものなのかもしれない。
 さらにもう一つ重要なのは、日本はしょうゆ味というものがベースにあったからだと言われている。砂糖と醬油を合わせると、調味料として絶妙な相性の良さがあったということが大きい。醤油というのは万能であるが、それだけだと個性が強すぎるということもある。そもそも出汁などをベースに醤油で味を調えるようなとこがあり、醬油のみで味付けをするには、ちょっと味が強すぎるのである。そこに砂糖が混ざると、さまざまな料理にも合うということになったのかもしれない。肉でも野菜でも、砂糖と醤油が混ざった味付けをすると、それだけでもう和食という感じもする。海外でも日本のたれや照り焼きなどの料理がそれなりに定着しているとも聞くところである。多少の好き嫌いはあろうけれど、万人受けする味付けであることは間違いなかろう。
 和食というものが単独で食べられる料理というのは、今やかなり高級という印象もある。結局はいろんな料理が混ざった中に、和食的なものもある、というのが、一般的な庶民料理ではなかろうか。そういう中で、日本の家庭で砂糖の消費が特に多いのであれば、あまりヘルシーではないともいえるかもしれないが、結局よその国では、デザートなどを合わせての総量で日本をしのぎそうな気もしないではない。まあ結局両方が混ざっている日本という文化や環境というものを考えると、特によその国よりいいということは、言えなくなっているのかもしれない。
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好きなものは大切に   彼女が好きなものは

2022-06-25 | 映画

彼女が好きなものは/草野翔吾監督

 高校生の安藤は自分がゲイであることを隠して生活している。社会人の年上の彼氏もいる。ある日書店をぶらついていると、クラスメイトの女高生三浦がBL漫画(ボーイスラブ、男性同士の同性愛を描いた少女漫画)を見ているのを発見する。彼女はBL漫画愛好家というのを、周りにひた隠しにしている。それでこれをだれにも言わないで欲しいという約束を取り付けられ、どういう訳かダブルデートをしたりするような仲になっていく。
 安藤も自分がゲイであることには葛藤があることと、彼氏にも家庭があることを知っているので、女の子と好きあってみる体験もいいのかもしれないと考えたのかもしれない。さらに三浦の安藤に対する思いというものが、だんだんと本気になってくるのも理解しているのだったが……。
 いわゆる普通ではあるが、それなりにイケている男子生徒の秘密が、いくら時代性が在るとはいえ、カミングアウトなんてとてもできない状況を描いている。問題は非常にシリアスで、しかもごく自然である。理解している人も中にはいそうな感じではあるが、だからと言ってどうしようもできないことだ。周りの人間も巻き込んで、高校生という時代の残酷性も見事に描き出している。友人たちにしてみると、何か勝手に裏切られたような気持にもなるのかもしれない。そうしてそういう感情に対峙して、さらに絶望が深くなるのだ。
 近年の恋愛ものの多くは、必ずと言っていいほど同性愛関係を扱うようになった。いわば当たり前になったわけだが、しかしそれほど成功しているものばかりとはいえない。この作品は、掘り下げ方も見事だし、ゲイの生徒の葛藤を、実に見事に描き出している。そうしてその男に恋してしまった女生徒の立場も、正直に描いている。こういう作品があることで、啓蒙としての役割は大きく進むことになるのではないか。それに大事なことだが、観ていて非常に楽しめる構成も見事である。最近の作品では、出色と言っていいと思う。
 この暴力的な日本社会で生きていくにあたって、ほんとに切なく、そうしてすがすがしささえ感じさせられる、いい作品である。
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投票率はあげられるが

2022-06-24 | net & 社会

 投票率を上げるにはどうしたらいいか、というのをテレビでやっていた。ほとんど使い古されている疑問という気もするが、実際日本の選挙の投票率は、どんどん低くなっている傾向にある。僕なんかは毎年何らかの選挙で疲れているので、選挙自体をもっと減らしてほしい派なんであるが、今のままで投票率なんてものが上がるわけがないことは身に染みて分かっているので、不毛な感じでどよーんとしてしまうだけだが、まあ、いい方法があるんなら、やってみたらいいとは思う。選挙制度を変える方がいいというのはどうしてもあるにせよ、どうせ誰も変える気なんてものは無いので、これも不毛だ。少なくとも記名式はやめて、マークシートにしないかな。ネットもやるべきだろう。それと無投票は信任性を持たせるとか、いろいろありそうだけど、それは別の機会に考えよう。
 まあ、そうであるにせよ、今やれることで曲りなりに効果の在りそうなものはいくつかはあるらしい。選挙に行くと何かもらえるとか、何かのサービスを受けられるとか、そういうのはいろんな自治体や、いろんな団体がやっているようだ。ちょっとくらいは意識が上がる人もいるという。そんなら継続してやっておくれ。あんまりいい筋ではないが、やらないよりましである。
 面白いと思われたのは、子供に選挙のやり方や実践をさせるというのがあった。これも多くの自治体や学校でやっているはずだが、紹介されていたところは、生徒で選挙で選ばれた人たちが作った政策を、町だか市だったかがちゃんと採用する制度になっていた。そういうことに関わっていた生徒たちは、その後も選挙には当たり前に行くらしい。当事者意識が違うということだろう。出来上がった政策のなかみにもよるし、程度問題だとも思うが、そもそも自分たちで考えたことがまちに生かされるというのは、ダイナミックに政治そのものだから面白いのだろう。まちの議会で政策提言をやっている議員さんというのはほとんどいないだろうから、そういうまちなら住んでいて面白いことにはなるかもしれない。しかしながらほとんどの自治体は、そもそもその住人がまちの政策に関心があるなんてことはファンタジーだろう。選挙にもいかないのだから。関心のある一部のひと人というのが、関心があるからよい提言を持っているとは限らないし、失礼ながらいい判断のできる人とも限らない。それが政治のむつかしさそのものである。そんなことは僕なんかが信用できないことと同じことである。そういう人が政治にかかわると皆が困るでしょ。
 選挙権を持っている人がそれを行使しないのだから、そういう人の選挙権は剝奪したらいいとは思う。三回続けて行かなかったら、選挙権失効とかいいですよね。まあ、そういうのはちゃんと批判する人がいるので、怖くて提言する人がいないだけのことだろうけど。しかしながらいかない人を削減して、行く人のパイで投票率を割れるから、着実に投票率は上がるはずである。剝奪や失効したからと言って、また自ら申告するなら戻せばいいだけのことである。関心ないんだから、そういう方法を調べようともしないだろうけど。
 投票率が下がるのは、それなりに成熟した社会なら当たり前だ、という話もある。政治に関心が無くても社会が成り立っているのだから問題が少ないし、現代というのは幸福な時代だということかもしれない。もっともそれでも戦争が起こったり、バランスの悪い社会のひずみにあって困っている人もいることだろう。政治の力なしに、それらの改善は望めない。政治の力があっても、どうにもなりそうもないものも多いけれど、それも含めての政治である。政治以外で解決しようとする社会の方が不健全なので、問題がありながらとはいえ、それでいいのである。
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夢を(信じて)あきらめないで   ノクターナル・アニマルズ

2022-06-23 | 映画

ノクターナル・アニマルズ/トム・フォード監督

 今は芸術関係の仕事をやっているか何かして、それなりに成功している様子。夫も事業をしているが、こちらは少し調子が悪いのかもしれない。高級車に運転手付きの生活だが……。そういうスーザンは何かもやもやとした挫折感のようなものに付きまとわれていて、後に明らかにされていくが、生きていくうえでの幸福感に飢えているという感じかもしれない。彼女には学生時代に一度結婚した夫がいて、そうして奇しくもその前夫が書いた小説が手元に送られてくる。もともと不眠症でろくに寝ていない中、夜にその小説に読みハマっていくのだったが……。
 小説の物語は、おそらく別れた自分たちの境遇をヒントにしたバイオレンス作品になっている。テキサスのめったに車の走らない高速道をノロノロ走る車がいる。追い込そうにも道をふさいで前に出られない。しばらくそういうやり取りをしていたが、やっと道を開けられ追い越すと、妙な感じの複数の若者がこちらに笑いかける様子が見える。後部座席で怒った娘が中指を立てると、その車が猛然と追いかけてきて、煽り、そうしてついに車が接触してしまう。その後は車を停めるように幅寄せや車自体をぶつけてくるようになる。たまらず路肩に寄せて停まると、タイヤがパンクしているから交換してやると言われ。その間車から降りるように言われ、そうして妻と娘は結局彼らの車で連れ去られてしまうのだった……。
 小説の中の物語は、当然今のスーザンたちの置かれている現在においても比喩として語られているはずのことらしい。以前あんなにも愛した夫だったし、彼の才能に賭ける生き方とともに、自分も自分の才能にかけて芸術の作家の道を歩むべきだったと考えている。何しろ母のトラウマのようにブルジョア生活を送ってしまった自分に対しての嫌悪感も抱いている。自分らしく生きるという選択を、自分は選び取ることができなかった。そうしてその象徴である元夫のバイオレンス作品は、まぎれもなく彼は作家としての腕を磨いてきた現在があるのである。
 ラストシーンはかなり分かりにくいが、観るものが勝手に解釈していいものかもしれない。復讐劇であったとしてもいいし、ある種の架空性を含んだミステリともとれる。またそれは死を暗示するものなのかもしれない。僕には分かりえないが、ここまでで十分に心を動かされる映画では無かっただろうか。田舎って怖いな、とは思いましたが……。
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睡魔と戦う、今を頑張る

2022-06-22 | HORROR

 糖尿病予備軍と言われて早や何年、なのかさえよく分からない。10年にはなるんではないかという感じもするが、どうだろう。だいぶ前に内科の先生に叱られて、そういう先生の言うことなんて聞きたくないと反発を覚え、死んでやる、とまでは思わないまでも、ふてくされてそういうものを気にすることをしなくなったのだが、一応定期的に血液検査をしている身なので、自然に血糖値というものを目にする。それで、今は優しく僕に甘い先生であるにもかかわらず、このままでは専門医に紹介しなくてはならない、と言われ、かなりビビッている。これまでは予備軍の範囲だったが、半年を越えて空腹時で126mlという数字になっている。ちょうど予備軍を越えているのだ。これはたいへんにまずいことになっているということは、理解できているはずだが、自分ではおたおたするだけで、どうしようもないような動揺を覚えている。ダイエットを始めて25年くらいは経過しており、痩せたりすることもたまにはあったけれど(それでも肥満だけだど)、今は加齢が進んでいる為なのか、そう簡単に痩せないという実感を伴っている。昼食を抜いたり、油ものを避けたり、野菜から食べたり、よく噛むふりなどを実践しているが、そんなことをしてもそう簡単に痩せられるものではない。間食はしないし、本当に食べる量は減っているが、体重が減るのは週に50グラムから100グラム程度だ。増えるのは一晩で1.5キロくらいは簡単にいくのに、不思議なものである。
 しかしながら季節の所為かな、とも考えていたフシがあるが、急に眠たくなるのだ。朝の通勤時に眠くなるというはあんまりなかったはずだが、ものすごい睡魔に襲われることがある。車を止めるべきだと思うのだが、眠くなるとそういう判断もうまくいかない。たいへんに危険である。昼飯のついている会議や、検食もあるし、しかし昼食をぬいている時もあるのは不可解だが、昼過ぎも眠くなる。いつのまにか寝てしまっていて、いびきをかいている自分の声に驚いて起きたりする。なんということだ。手や顔を洗える状況なら、すぐにそうする。それとなく廊下をぶらぶら歩いたりする。これってひょっとすると血糖値スパイクというやつか? 夜も飲みながら夕食後、録画ものを見ているときに、いつの間にか寝ている。あっと思ったら寝ている。いや、寝ているからあっと思うのか。ものすごく急激な睡魔である。ドーンと来て意識を奪う感じだ。恐ろしい。
 ということで、僕は飲んでいるときはあんまり寝ることは無かったのだが、ひょっとするとこれからは居眠りをしているかもしれません。ご了承のほどを。
 いや、そういう話では無くて、やはり頑張らねば、という話であった。今が正念場のようである。
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佐々木伝説再び   佐々木インマイマイン

2022-06-21 | 映画

佐々木インマイマイン/内山拓也監督

 同級生に、みんなを盛り上げるために服を脱いで騒ぐ男がいた。彼の同級生は大人になり、俳優を志しているが、なかなか芽が出ない上に生活もうまくいっていない。そういう時に以前の同級生と再会し、あの勢いで盛り上がっていた佐々木との日々を思い出すのだった。
 現在の何かうまくいかない生活と、生徒時代の青春が錯綜して物語が進む。何があっても佐々木がいれば、精神的に盛り上がって楽しかった日々。そういうものに憧れもありながら、佐々木のように吹っ切れない自分がもどかしい。しかし時は流れ、あの盛り上がり男の佐々木も問題を抱えていることを知るのだった。
 青春物語としての雰囲気はいいのである。プロレスを見て興奮する少年時代のような、何か熱気のこもった熱い高ぶりのようなものがあった。まぎれもなくあれは青春で、今も若いには違いないが、あの頃のようにはなれない。葛藤しながら頑張っているつもりなのだが、歯車がかみ合わないまま、このままどうしていいか分からない。当時の同級生とふと出会ったことから、過去とのつながりが再び浮かび上がり、現在の生活とも絡み合っていく。むしろ当時は佐々木の方が、芸能世界へ出ていくのではないかという感じだったが、佐々木は冴えない生活に落ち込んでいる。彼は他人を盛り上げたかもしれないが、自分は盛り上がれないで苦しんでいたのだ。そうして歯車は狂ったまま……。
 ずいぶん前評判のいい作品だと聞いていたので、そのような期待もあって観ていたのだが、実はそんなに面白いというような話ではない。そういう青春もあってもいいかもしれないが、騒がしいから楽しかったわけでもなかろう。個人が違う生き方をしていくのは当たり前の話なので、過去は過去で頑張っていくしか無かろう。目の前には未来しかないのだから。
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面白がれるか分からないが、スゴイです   ジャリおじさん

2022-06-20 | 読書

ジャリおじさん/大竹伸郎えとぶん(福音館書店)

 いわゆる絵本。でもまあ、著者が大竹さんなので、内容は普通ではない。ちょっと芸術的に過ぎるので、知らないで見ると、なんじゃこりゃ~、という感じであろう。なにしろ知っててみても、そんな感じだから。
 大竹伸郎(しんろう)は、ちょっとしたブームなのである。だいぶ前にやはりテレビで見たことはあったのだが、今回もまたテレビで紹介するものを見て、ぶったまげた。僕は芸術というのをそんなに理解している部類ではないのだけれど、大竹伸郎は、そういう概念がどうなのか、というまだ未知のところを歩んでいる感じだ。かといって必ずしも無茶苦茶なのではないし、しかし何かが整っているということでもないかもしれない。面白いのか面白くないのかさえよく分からない。でもだんだん眺め続けていると、これは何か作品としてそれらしいような気がしてくるのだ。実に不思議である。
 そんな人が書いた絵本なんで、子供が見て喜ぶものなのか、そもそもが疑問だ。しかし子供が思いのままに書いていくとこんな感じにもなりそうだし、しかしやっぱりむつかしいんじゃないかとも思える。なんでピンクの塊がワニなのか謎なのに、それが必然のようなことになってしまう。困ることは無いのかもしれないが、困らないではない気もする。
 そういう絵本なんだが、ちゃんとストーリーらしきものがありはする。物語は成立するというか、オチが一応ある。これをオチとして認められない人がいるとしても不思議ではないが、一応オチである。それがそれなりに面白くないわけではない。僕らもそんな風に生きていけたらいいのかもな、という教訓も得られるかもしれない。得られなくても、知ったことではないのだけれど……。
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とにかく弾がたくさん行き交う   キャッシュトラック

2022-06-19 | 映画

キャッシュトラック/ガイ・リッチー監督

 現金輸送車の従事する人間には、一定のスキルが必要なようで、その試験ではたいした成績では無かったとされる男の乗ったトラックが強盗に襲われるのだが、優れた戦闘能力を発揮して強奪を防いでしまう。この男には謎めいた過去があり、現金輸送車の会社ごと強盗をするという元軍人組織と対峙することになるのだったが……。
 主演がジェイソン・ステイサムなので、激しいアクション活劇映画になっている。あちらは拳銃国家なのでふつうにドンパチやるわけだが、防弾チョッキをしていてもちょっとした隙間から被弾してしまうほど激しい銃撃戦をやっている。それに機関銃で人を撃つと、とてもじゃないけど普通の人間は耐えられない。ジェイソン・ステイサムを除いては……。
 そういう訳で、そういう部分は荒唐無稽なアクションとはいえるが、リアルっぽく人が死んだりすることもあって、お話の展開としてはそれなりに手に汗握る。そうしてこの物語が、壮絶な復讐劇であることも知ることになる。そういう意味ではミステリ要素もあるのである。敵味方にも通じる人物がいたりして、人間ドラマも見られる。それはもうてんこ盛りである。そういう仕組みづくりが上手くいっている娯楽作だとはいえるが、お金を奪ったら、ちゃんと使った方がいいような気もしないではない。そういう人物がかっこいいってことなんだろうけれど、一応悪人なので、ダークな部分があった方が僕としては面白かったのにな、と残念であった。どういう意味か分からないだろうけど、観てのお楽しみである。
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浮世の義理はつづく(生きているので)

2022-06-18 | つぶやき

 しがらみのある世の中にあって、ブログで自分の心情のはけ口にしていることも多いのは確かだが、やはりなんとなく気が引ける事情というのがあるもので、全部のことを書けるわけではない。そのことがストレスになるということでは無いにせよ、やっぱりなんだか面倒だな、という気分は残っている。そんなものには触れず近づかず、放って置くに越したことはないが、しかしそれも生活の一部であり、避けて通ることは許されない。
 僕は現役で仕事をしている身であるけれど(それで収入を得ている)、自分の本業だけを日常で行っているとは言い難いものがある。むしろその本業以外のことがあんがいに忙しく、収入を得られない仕事の量の方が多いのかもしれない。いわゆる社会的な役割というのがあって、それでも充てられる仕事というのがあるのである。
 例えばでいうと町内会のようなもので、しかし僕のやっているのは町内会の仕事ではないのだが、業界の仕事であるとか、それに付随するあれこれである。ボランティアと言ってしまえば、そんなことも要素には入っている場合もあるが、たまに交通費等の支給もあるものがあって、それは収入には違いないにせよ、やはり必要経費であり、僕の時間を費やして得たにせよ、家族を養うような収入ではない。しかしそれはそれなりに重要であることであったりもすることがあり、誰かがやらなければならない仕事であることに変わりがない。しかしながら、正直に言うと、僕があえてやらなくてもいい仕事である可能性も高いものばかりである。世の中にはそのようにこのような仕事を捉えている人もいて、十分にその資質を備えておきながら、又はむしろそのような仕事をして欲しい立場にありながら、そのような仕事を固辞する人も少なくはない。恨み節っぽくなってしまうが、彼らの方が賢いのであろう。僕にはとてもそれはできないし、そういう人間になりたいわけでもない。なれたらいいかもしれないが、あこがれる存在ではないことも確かである。
 結局、逃れられないことをあれこれ考えることは、あまり建設的ではない。逃れられた仕事というのは、つまるところ自分の責任を果たせなかったことであったり、自分の能力の届かないことであったかもしれない。単なるめぐりあわせであった可能性はぬぐえないが、めぐりあわせというのは、つまるところ運命的なものと考えるよりない。
 何を言いたいかはっきりしないものを書くとこうなってしまう。でもまあ、なんとなく整理できました。それなりに期限を切って、頑張って参りましょう。
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人生は調子に乗ったものの勝ち   ビルド・ア・ガール

2022-06-17 | 映画

ビルド・ア・ガール/コーキー・ギェドロイツ監督

 女子高生のジョアンナは、小太りで容姿にさえず学校では目立つ子ではないが、文才があり大のロック好きで、音楽雑誌のライターになるべく単身ロンドンへのぼる。最初はあるロックスターが好きすぎて単にファンとしての駄文を書いてしまい失敗するが、その反省のために辛口ロック批評のスタイルを確立し、ただむやみに音楽的に頑張っている人々をこき下ろして大人気になるのだったが……。
 主演のビーニー・フィルドスタインが「ブックスマート」のぶっ飛んだ優等生役をさらにまた過激にしたような演技で笑わせるコメディ映画になっている。これもまた現代的な多様性の問題なのかもしれないが、いわゆる普通に可愛い子ではない女の子が、過激なことをして堂々と主役であるという設定である。以前ならそういう役柄の女の子というのは、ちょっと痛いというか、それ自体が喜劇ということだったのかもしれないが、これらの映画はそうではない。エキセントリックに変ではあるものの、アイドルのように可愛くなくても、等身大の女の子として、ちゃんと周りからは認められているのである。そうしてヒロインとしても堂々としている。卑下したところはみじんもなく、それでも自分は可愛いと言い切っているという感じかもしれない。そういうところでは笑うのではなく、ちゃんと変なことをしているから笑うのである。説明は厄介だが、日本人の僕にはちょっと不思議である。
 でもまあ、そういう変な社会的な正しさというのが現代なのである。それをわかったうえで楽しめばいいだけのことで、そういう態度が大人なのであろう。
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調べたら、マツカレハというらしい

2022-06-16 | HORROR

 他人の痛みは分からないものだが、相手の痛覚が自分には無くて助かる。僕自身が痛いだけでも困るのに、他人が痛がっているものまでこちらが痛みを感じてしまってはたまらないではないか。だから他人の痛みなんてものは分からなくていいのである。僕は基本的には冷たい人間というか、そういうあたりは冷めているところがあって、正直にありがたいことだと思うのだけれど、戦争映画やホラー映画などをみていると、多くの人が痛がって、その上で死んでいったりする。創作だから仕方が無いが、気の毒には思うけれど、ときどき自分でなくて本当に良かったな、と思う。あんなに痛い経験はしたくないものである。(演技とはいえ)
 そうではあるが、人間というのは共感する力があるので厄介なのである。他人の痛みは本当には分かりえないが、痛がっている様子を見て、自分もその痛みに共感するところがある。僕は注射が嫌いだが、他人が注射をしている場面でも相当嫌な気分になる。新型コロナワクチン接種風景がテレビなどでも頻繁に紹介されたわけだが、これはもう一種の嫌がらせのようにも感じていた。中には注射をして万歳しているような人もいた。あれは変態ではないか。いや失礼、プレイの人は、もっと痛い方がいいのかもしれない。
 玄関から駐車場にかけて、ちらほら毛虫が這うのが目に付くようになって、毛虫嫌いのつれあいがたいへんに怖がっていた。僕もそんなに好きな方ではないが、飛び上がるほど嫌いではないので、何か道具があるのであれば、毛虫くらいは対処ができる。そうやって数日は、その辺に這っている奴をホイホイ板か何かにのせて、向かい側の畑などに身柄を移していた。しかしながらそもそもこの毛虫さん達は、どうしてこうもわき出してくるのか。原因は他でもなく僕のうちの庭にあるはずだが……。そう思ってしばらく見まわしていたのだが、ある木を見てぎょっとした。松の木がほとんど枯れているではないか。近づいてみてさらにギョッとする。ああこれだったのか! 枝にはびっしりと毛虫の行列がたかっている。まだ青い部分が少しだけ残っているのだが、そういう部分以外には本当にびっしりと毛虫が枝に張り付いている感じである。知り合いの造園業者に電話すると、なんとかいう薬を掛ければいいというが、まあホームセンターに行けば、それらしいのは買えるだろうということだ。確かにそりゃそうだ、ということで薬剤を買ってきて、盛大に毛虫に掛けまくった。
 毛虫さんたちは最初は少しばかりもぞもぞしていたが、そのうちせわしなく這いまわり、枝からボトボトと落ちるものが現れだした。そうして別の場所に移動するものがいる。これはこれで大変になってきて、トレーのような容器に動くものを移して、これまた向かいの畑へどんどん運んで行った。薬剤がかかっている毛虫は、それなりに苦しくなってきたのか、グルグル回転したり、要するにもがき苦しむ者たちがいる。数が尋常じゃなく数百匹がそのようにうごめきながら苦しんでいる様子である。気持ちが悪いのもあるが、この大虐殺をしている張本人が僕自身なので、なんだかさすがに心が痛むのである。何の恨みもない毛虫たちを、僕はこのように苦しめて殺している。おそらく将来は蛾になって空を飛んだかもしれない生命の未来を、根こそぎ奪ってしまったのである。
 その後雨が降ったりして、木から落ちて苦しんでいる毛虫たちのことを無視して数日していたのだが、ふと近づくと、ほとんど死に絶えた集団の中にあって、わずかに動く個体がいるのである。なんという生命力だろう。しかしながら長時間苦しんだかもしれないことを思うと、本当に心が痛んだ。積極的につぶすなどして殺生することなどとても僕にはできないが、せめて早く死んでくれたらと願ったのである。どうか安らかにお眠りください。合掌。
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