カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ワクチン接種してみた(一回目)

2021-04-30 | 掲示板

 ミック・ジャガーとデイヴ・グロールが組んで曲を発表した。なかなか軽快で楽しい仕上がりだ。映像を見ると、デイヴがドラムを叩いている(当たり前なんだけど、僕が知らないだけかもしれないが、そんなのってひさしぶりなんじゃないの? で、この曲のリードギターとベースもやってるようだ)。なんでもこれ、リモートで作ったらしい。ミックジャガーもギター弾いててかっこいいのである。なんで二人が? という興味がまた、巷で盛り上がるのではなかろうか。
 で、二人でやった理由は、コロナに関しての陰謀論に対して、抗議というか、そういうものを馬鹿にしているということらしい。ワクチンは危険だ、とかいうのに、お前ら頭おかしいんじゃないの? という感じのことらしい(推測だが)。
 まあ、なんでも思ったことに対して抗議して曲にして発表しちゃうってところが、それだけでもロックって感じなんじゃないでしょうか。
 ということで、僕も一回目だけどワクチン接種した。僕としては抗議とか何とかいう思想なんてものは持ち合わせてないが(コロナに対して言いたいことあるけど、日本人だし立場があるのでちょっとしか言いません)、立場上はやっておかないとね。でもまあ、ウチの事業所に限って言うと、これはもう精神的には絶大な影響力があったことは間違いない。巷間では、遅いって批判もあるようだが、日本でワクチン開発したわけでもないことだし、さらに膨大な数をこなさなければならない事情もあるし、それにこれは日本の行政が関与して行っているので、時間がかかるのは当たり前のことである。ま、待ってる人にしてみれば、待ち遠しいだろうけどね。
 注射自体はブスっとやる割に、ほとんど痛みは感じない。まれに痛かったという人がいるらしいが、数十人の人から痛いという言葉は聞かれなかった。ウチの事業所では、インフルエンザで大騒ぎする人もいるんだけど、今回はそれは皆無だった。僕は射される瞬間を注視していたが、それでも刺していることすら実感がなかったくらいだ。で、ワクチンの液が管を伝わって流れて入ってくるのは少しだけ分かったかもしれない。一瞬だけど。その後の観察時も先生と雑談なんかして和気あいあい。二日前の第一斑の接種の人で、その後高熱が出て休んでいる人がいたので、せっかく先生がいるので電話してどんな様子か聞いてみた。38.5℃ まで熱が上がったらしいが、吐き気等他には特に異常はないらしい。若い女性にそういう人が多いとは言う。実際その人はうちでは一番若い人である。
 その後僕はウェブ会議に出ていて、ちょっと画面がふらつくな、というのはあったが、だいたい僕はインフルでもめちゃくちゃ具合悪くなるので、そういうのと比べると、そういえばって程度なので、楽勝でした。
 でもその後仕事を終えて家でシャワー浴びてごろごろしてたら、腕に何か当たると痛みを感じるくらい腫れていた。翌日ももっと腫れて、腕を上にあげると痛い感じだった。ま、副反応があるというのは、ちゃんとした反応も期待できるということにしておきましょう。
 で、改めて影響が大きいと感じるのは、連日コロナ報道がある中で不安を訴える人が少なからずいるわけだが、これがピタリと止みました。ほほー、ワクチン凄いな。精神的にも効くわけだ。でもそれに比例して、外出に連れて行ってくれって要求が強くなって居ります訳で、これはもう、どうにか策を考えなければなりません。ということで、皆さんごきげんよう。
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社会人とお金の勉強

2021-04-29 | HORROR

 主に若い人に向けて読んで欲しい100冊を選んだわけだが(もう何冊も入れ替えての選別、大変でした。ほとんどバカですね)、特に社会に出て生きていく中で、必要と思わる知識というのは数が多い。特にそういう中でも自分の身を守るという意味で知っておかねばなならないものは、なんといっても金のことではないかとも考えられる。
 いちおう100冊の設定からは、読みやすい(中には骨のあるものも混ざったが)を考慮したし、安価で簡単に手に入るものがいいとも考えた。さらに漫画と小説は外した。
 しかしちょっと引っかかってしまったのは、読みやすく、深い理解の可能な作品が、一つあるのだった。
 それは他でもなく
「ナニワ金融道」青木雄二(講談社)
 なのである。
 90年代だったと思うけれど、僕はかわぐちかいじと青木雄二は、漫画だけど例外的に読んでいた。それは面白いからというのが何より基本だけれど、何度読んでも考えさせられるからである。そうしてそういう深い部分にひたって、大げさに言うと、まだ何者でもない自分のことを考えるのだった。
 人がお金を欲しがるのは、それは生活の必需品であるばかりか、欲望でもあり、現在や未来などの時間でもあるからだ。実際は単なる紙切れに過ぎないが、そのことで人の命も奪うことができる。お金というのは、人間が信じている観念の具現的なものである。そうしてそれが共通して価値を持っている。そんなものを扱う人間らしい道具であって、だから人間にくっついている生き方そのものにもなりうるのである。
 漫画はなんとなくへたくそだし、バックに描かれている看板その他は、限りなく下品だ。こんな漫画を読むなんて信じられないと思われるかもしれないが、そう思う方がまっとうだとは思うが、読み進むと、これがこの世界観でなければ、どうにもなんとなくしっくりこないことが理解できるに違いない。この漫画的な世界こそ、本当に人間を描いているリアルな世界なのだ。
 ナニワ金融道の作者がその後亡くなったことにより、続編らしい作品もそれなりにある。また、その事務所出身の作家の描いた「カバチタレ」も面白い。基本的な世界観も相通じるものがある。
 少し毛色は違う作品かもしれないが「闇金ウシジマくん」というのも、そのような世界をもっとバイオレンス化した作品とも捉えることができるんじゃなかろうか。僕は全部読んだわけではないが、こちらもなるほど勉強になるな、という作風であった。やっぱりお金の勉強は、漫画の方が向くのかもしれない。
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新入生や新社会人に贈る、生きていくうえで読むべき100冊

2021-04-28 | なんでもランキング

 春になるといろんなところで、新入生や新社会人に対して、読むべき100冊、なんて企画が目に付く。そういえば、若いうちに読んでおくといいかもしれないな、という本はそれなりに実際にあるようだ。制限のあるGWのようだし、この機会に読書というのも悪くないだろう。
 定番とされよく紹介のされている「思考のなんとか術」とか、「理科系の作文なんとか」とか、または、人生訓や哲学もいいけど、そうかなあ、とも思う。また、ビジネス書の類の、仕事術やライフハックといわれるものも、まあ、お好きにどうぞって感じもある。僕は実際そういうのを山のように手にしたし、現在もやっぱり買ってしまうけど、そういう実用をうたったものというのは、あんがい大して役に立つようなものではない。
 若いころは特にだけど、若いころに限らずともいえることは、読んで面白いが一番である。もちろんだから、そういうものを選んだ。100に限ったので、思いついた別の2,30冊くらいと番外もできたが(もちろん時間をかければ他にもどんどん出てくるかもしれないし)、それはまた別の機会に。漫画や小説も、一応は外した。
 週に2冊ずつくらい読めば、一年で全部は行けるだろう。しかしながら、おそらく面白くなってくるはずで、その著者の他の書物も読みなくなるに違いない。そういうことも含めて、目の前の一冊を楽しんで欲しいと思う。そうして、絶対にこれらは生活に役立つだけでなく、生きていく考え方にも影響を及ぼすと思う。
 また、できる限り手に入りやすい新書や文庫になっているものを選んだが、そうではないものも少し入った。もっとも今になってみると、かえって安く手に入るのではないか。ほとんど数百円で読めるという意味でも、素晴らしい買い物ではないだろうか(著者には申し訳ないことだが)。

1 生物と無生物のあいだ 福岡伸一(講談社現代新書)
2 涼しい脳味噌 養老孟司(文春文庫)
3 本が好き悪口言うのはもっと好き 高島俊男(文春文庫)
4 虫のいどころ  奥本大三郎(新潮文庫)
5 ココロの盲点 完全版 池谷裕二(講談社ブルーバックス)
6 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 米原万里(角川文庫)
7 箆棒な人々 竹熊健太郎(河出文庫)
8 日本的思考の原型 高取正男(平凡社ライブラリー)
9 チェンジング・ブルー 大河内直彦(岩波現代文庫)
10 「超」整理法 野口悠紀雄(中公新書)
11 科学の目科学のこころ 長谷川真理子(岩波新書)
12 決断科学のすすめ 矢原徹一(文一総合出版)
13 努力論 斎藤兆史(中公文庫)
14 辞書はジョイスフル  柳瀬尚紀(新潮文庫)
15 新解さんの謎  赤瀬川原平(文春文庫)
16 もてない男 小谷野敦(ちくま新書)
17 うるさい日本の私 中島義道(新潮文庫)
18 読書家の新技術 呉智英(朝日文庫)
19 ねこの秘密 山根明弘(文春新書)
20 世界屠畜紀行 内澤旬子(角川文庫)
21 古代マヤアステカ不思議大全 芝崎みゆき(草思社)
22 青春を山に賭けて  植村直己(文春文庫)
23 転がる香港に苔は生えない 星野博美(文春文庫)
24 村上朝日堂 村上春樹(新潮文庫)
25 壇流クッキング 檀一雄(中公文庫)
26  ミカドの肖像 猪瀬直樹(小学館文庫)
27 おかしな二人 井上夢人(講談社文庫)
28 日本語練習帳 大野晋(岩波新書)
29 言語の脳科学 酒井邦嘉 (中公新書)
30 心理学で何がわかるか 村上宣寛 (ちくま新書)
31 日本人の英語 マーク・ピーターセン(岩波新書)
32 ピーター流外国語習得術 ピーター・フランクル(岩波ジュニア新書)
33 学びとは何か 今井むつみ(岩波新書)
34 翻訳百景 越前敏弥(角川新書)
35 7か国語をモノにした人の勉強法 橋本陽介(祥伝社新書)
36 からくり民主主義 高橋秀美(新潮新書)
37 経済学的思考のセンス 大竹文雄(中公新書)
38 系統樹思想の世界 三中信宏(講談社現代新書) 
39 あきらめない練習 植松努(大和書房)
40 知的生産の技術 梅棹忠夫(岩波新書)
41 寝ながら学べる構造主義 内田樹(文春新書)
42 自由をつくる 自在に生きる 森博嗣(集英社新書) 
43 99,9%は仮説 竹内薫(光文社)
44 脳の中の幽霊 V・S・ラマチャンドラン(角川文庫)
45 お金の現実 岡本史郎(ダイヤモンド社)
46 恐怖対談 吉行淳之介(新潮文庫)
47 火星の人類学者 オリバー・サックス(ハヤカワ文庫)
48 ラーメンと愛国 速水健郎(講談社現代新書)
49 胎児の世界 三木成夫(中公新書)
50 いじめと探偵 阿部泰尚(幻冬舎新書)
51 内なる外国ー「菊と刀」再考 C・ダグラス・ラミス(時事通信社)
52 不機嫌なメアリー・ポピンズ 新井潤美(平凡社新書)
53 殺人犯はそこにいる 清水潔(新潮文庫)
54 ピカソは本当に偉いのか? 西岡文彦(新潮新書)
55 フェルマーの最終定理 サイモン・シン(新潮文庫)
56 いつまでもデブと思うなよ 岡田斗司夫(新潮新書) 
57 鉄砲と日本人 鈴木真哉(ちくま学芸文庫)
58 年金は本当にもらえるのか 鈴木亘(ちくま新書)
59 宇宙からの帰還 立花隆(中公文庫)
60 がんー4000年の歴史(上下) シッタールタ・ムカジー(ハヤカワ文庫)
61 地方消滅 増田寛也(中公新書)
62 マックスウェーバーの犯罪 羽生辰郎(ミネルヴァ書房)
63  バナナと日本人 鶴見俊輔(岩波新書)
64 子供より古書が大事と思いたい 鹿島茂(青土社)
65 無意識の構造 河合隼雄(中公新書)
66 デフレの正体 藻谷浩介(角川新書)
67 ゾウの時間ネズミの時間 本川達夫(中公新書)
68  笑うカイチュウ 藤田紘一郎(講談社文庫)
69 やさしさの精神病理 大平健(岩波新書)
70 記憶の肖像 中井久夫(みすず書房)
71 生き延びるためのラカン 斎藤環(ちくま文庫)
72 忘れられた日本人 宮本常一(岩波文庫)
73 ”子”のつく名前の女の子は頭がいい 金原克範(洋泉社)
74 王様気取りのハエ ロバート‣S・デソヴィツ(紀伊国屋書店)
75 一勝九敗 柳井正(新潮文庫)
76 国会議員の仕事 林芳正・津村啓介(中公新書)
77 「しがらみ」を科学する 山岸俊男(ちくまプリマー新書)
78 演劇入門 平田オリザ(講談社現代新書)
79  西條八十 筒井清忠(中公文庫)
80 ルワンダ中央銀行総裁日記 服部正也(中公新書)
81 論文の書き方 清水幾太郎(岩波新書)
82 宗教なんて怖くない 橋本治(ちくま文庫)
83 愛の空間 井上章一(KADOKAWA)
84 ソウルの練習問題 関川夏生(集英社文庫)
85 私の國語教室 福田恆存(文春文庫)
86 分類という思想 池田清彦 (新潮選書)
87 時刻表二万キロ 宮脇俊三(角川文庫)
88 自分の中に毒を持て 岡本太郎(青春文庫)
89 やちまた(上下) 足立巻一(中公文庫プレミアム)
90 流れる星は生きている 藤原てい(中公文庫)
91 魔羅の肖像 松沢呉一(ちくま文庫)
92 牛を屠る 佐竹光春(双葉文庫)
93 多数決を疑う 酒井豊貴(岩波新書)
94 ひと月9000円の快適食生活 魚柄仁之助(飛鳥新社)
95 横井軍平ゲーム館 横井軍平・牧野武文(ちくま文庫)
96 意識とは何か 茂木健一郎(ちくま新書)
97 漫画と人生 荒俣宏(集英社文庫)
98 百言百話 谷沢栄一(中公新書)
99 発想法 川喜多二郎(中公新書)
100 免疫の意味論 多田富雄(青土社)
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面白いことを言うと怒られるのだろうか

2021-04-27 | 時事

 イギリスのアカデミー賞の助演女優賞を受賞したというユン・ヨジョンと言う韓国人の女優のインタビューで 「お高くとまった人々として知られている英国人に認められとてもうれしい」というような内容の発言をしたという新聞記事を読んだ。家で購読してるのは毎日新聞で、その文には続けて「私は何か間違えたと思う」として、ユンさんはのちにこの発言について謝罪、したらしいことが書いてあった。なかなか面白いユーモアのある事を言って、しかしそのことが英国内で批判されたのかもしれないと読んで思った。
 後日ネットで、同じことを報じる記事を読んだ。ところがそこでは、ユンさんのインタビューのこのユーモアは、絶賛されていた。少なくとも謝罪したなどということは一切書かれておらず、このユーモアのあるスピーチは、他の作品で賞を受賞した監督などからも支持をされたようなことが書いてあった。
 二つの記事を読む限りは、真相は全くわからないし、一体どうしてそういうことが起こったのか、ちょっと考えにくい。少なくともこの発言には、注目が集まったらしいことが見て取れる。そしてその後も何かあの発言がどうだったかというようなことも、話題にはなったかもしれないとは思われる。
 はっきりしているのは、いや、ちゃんとはっきりはしていないが、毎日新聞の方には、韓国女優に対する悪意があるのに対して、他のニュースではそれがないということだ。それは韓国だからそうなのか、そこまで言えるかはわからない。少なくともアジアでない人がこのような発言をしたとしたら、何の批判の対象にもならないだろう。そんな気もする。そもそも英語でこれだけのスピーチができるというのは、日本人には少ない。台本にあるのなら別だが……。 何しろユンさんは英国で学んだ経験もあるらしく、それだけこの韓国人の女優さんには、英国文化を理解したうえで発言されていたらしいことも分かる。
 しかしながらお国批判というのは、それなりにむつかしいというのは分かる。自国民が自分の国を皮肉っていうのは比較的いいのだが、それ以外はあんがい厳しかったりする。アメリカや中国が相手国を何か言うのとは、ちょっとニュアンスが違ったりする。でもまあ韓国と英国である。そこのところは、どうなんだろう。
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時空も何もかも超えた男女関係   今宵、212号室で

2021-04-26 | 映画

今宵、212号室で/クリストフ・オノレ監督

 ちょうど(たぶん)セックスしているときに、若い浮気相手の相方が帰ってきてあわてて隠れていたが、途中でなんだか馬鹿らしくなって(もしくは裸で外にいるのが寒くなって)姿を現して服を着て帰ってしまう(浮気はバレてしまうのだから、この浮気自体を破局にした、という意味か)。シャワーを浴びていると夫が帰ってきて、脱ぎ捨てた服を洗濯しておこう、ということになる。すると服の中からとりだした携帯が頻繁に鳴る。見るつもりなんてなかったのだが、何度も何度もしつこく鳴る。それでふと見てみるつもりになると、それらは妻あてに送られてきた、強烈な愛の言葉の連ねてあるメールなのであった。
 やっと妻の浮気を悟った男は、問い詰めるが、しかし反省のかけらもない妻の態度に、悲しみのあまり一人になりたいという。しばらく部屋の中で一人になりたいという意味だったと思うが、妻の方は荷物をまとめて、住んでいる高層アパートの向かいに建っているホテルの、自分のアパートと向かい側にある部屋をとる。そうしてその窓から夫の様子をうかがうのだったが……。
 ここで不思議なことが起こり、その部屋の中に、出会った頃の夫であるリシャールが、若い姿のまま現れる。そこからファンタジーになるのだと思うが、なんとその男とセックスに至るのである。その後その部屋に、リシャールと出会った頃彼が付き合っていたとは聞いていた女まで現れる。そうしてそのピアノの教師だった女は、今部屋で泣いているらしいリアルなリシャールの部屋に会いに行くというのだった。
 不思議なことが起こることを受け入れれば、なんともスリリングな恋愛展開劇である。それにしても浮気な女のようで、それも先祖代々そういう家系のようで、女がその気になると、セックスの相手は膨大になるということなのだろう。夫は結婚して20年間一度も浮気してないと答えるが、妻は即座に「嘘つきね」と応じる。結婚生活を続けるには必要なことだった、と開き直るわけだ。まあ、これも女の方がやるから面白く自由な表現ということなんだろうけど。
 確かに面白く、そういう関係があってもいいという思いはする。でも実際はめんどくさいから、そういうことは起きないのだろう。現実はファンタジーではないわけだし。
 それにしてもわけわからない人も出てはくるし、お話の性質上死んだはずではないかという人もいるし、少し整理は必要かもしれない。レズ関係もあるわけで、それはショッキングだが、自由のためにはそれは本当に必要なことだったのだろうか。まあ、ここまでくると、それもいいといえばいいけど、結局収拾という意味では、膨らませすぎだろう。
 ところで主人公の奔放な女性を演じているのは、キアラ・マストロヤンニで、あのマルチェロ・マストロヤンニとカトリーヌ・ド・ヌーヴとの娘なんだそうだ。役柄ということもあるが、しょっちゅうおっぱいは出しているし、おしりも出して全裸の場面がやたらに多い。何しろ服を脱いでは着ているので忙しいが、面倒なのかあんまりブラや下着までつける時間もない様子で、いわゆる熱演である。外は雪景色なので(夫も半ズボンだけど)、あちらの人は寒さに強いのかもしれないな、と思った。僕ならすぐに風邪をひいてしまいそうだ。でもまあ、年増になった女性が、その年のまま魅力的であるという表現ができる人もまれにも思えるし、そういう意味では、やはりフランス女優とフランス映画の偉大さがわかる作品といえるかもしれない。
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睡魔と戦い痕跡を残す

2021-04-25 | 掲示板

 またしても睡眠障害がきている。とにかく眠たい。運転はかなり危ないし、何か本を手に取るのも危ない。活字をちょっとでも追うと、たちまち眠くなる。退屈な話もだめだし、会議や電話も厳しい。講演会なんかがあれば、もうそれは死の宣告だ。
 しかしながら、厳密には眠くなるだけのことで、実際に眠ったりなどはしない。何しろ本当は、本当に眠ってしまうくらい眠くはない。何かをすると眠たくなるだけのことで、実際には睡眠に落ちるほど眠たくない。眠くて仕方がないからと思って、だからちょっとだけ仮眠をとった方がよさそうだと思って、机でうつぶせになったり、椅子を並べて横になったとしても、そうした瞬間に、一気に目が覚める。そもそもは眠くなんかないのだ。しかし眠気はあってもやもやして、なんだかイライラするんだけれど。
 そういえば痛み止めを飲んだかもしれないと思った。麻痺の薬も飲んでいる。そうした薬に眠たくなる作用はあるんだろうか。痛み止めにはありそうだ。そもそも麻痺の度合いがきつい時に、併せてちょっと飲んでみようかなと思う。痛くてたまらないということはないが、気になってたまらないということはある。またいつもの範囲よりも麻痺の痛みが広いような気がする。場所が違うだけでなく、激しくも感じる。そういう訳で試しに飲んでみても、しかしそんなに変わらない気がする。だったら飲んでも飲まなくても一緒のような気もするが、一応処方されている分くらいは飲む。効いても効かなくっても、もはやどうだっていい。医者にかかっているというだけでいいのである。それに飲まないとなくならないし。
 眠たいという話だったが、駆け足とか色々やっていると、ちょっとぐらいは眠たくはなくなる。スクワットもいい。だけど心臓がドキドキいって、正直に疲れる。疲れて眠くなるのもどうかと思うし、だいたい怠惰な性格だから、そんなことばっかりをずっとやりたくない。疲れると休みが必要なので、危ないのではないか。
 眠たいんだからと思ってペンを下向きにして作業してみた。そうしておいて頭の回転が緩くなると、ペンが机の上にコトンと当たる。資料とかいろんなものの上に赤いペンの先がちょこんとつく。これは僕の一瞬の居眠りの痕跡だ。別段そういうものを残そうと思ってやってるわけじゃないが、この一瞬失われる意識とゆれる身体の行為の確認というのがみて取れる。この一瞬寝てしまうっていうのが、自分ではなかなかよくわからない。読んでいる箇所が飛んでいるとか、やっている場所がわからなくなるというのは分かっている。しかしそれがどれくらいだったかは、よくわかっていなかった。そうしてそういう状態になると、そういう状態がすでにどうだっていいような気分になっており、意識的な把握が難しかったのだ。だから、あーなるほどこういうふうに寝てるな、ということが分かると、それだけでまあ安心と言うか、そんな感じである。で眠気が取れるかと言うと そんなことはなくて、そういう事を数十回繰り返してるうちに、ハッと思って、眠気は終焉する。不思議だがそうなのだ。一定の眠気の放出が済んでしまうと、今度は覚醒の時間がやってくる。そうしたらしめたもので、そのままちょっと頑張ればいい。また睡魔が襲ってくるあいだぐらいは。
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悪人こそ大衆を救う   薬の神じゃない!

2021-04-24 | 映画

薬の神じゃない!/ウェン・ムーイエ監督

 強壮剤などのちょっと怪しい薬売りをしている男のもとに、インドのジェネリック薬を手に入れてほしいとの依頼が来る。白血病の薬は正規の物がたいへんに高価で、患者が続けて購入するには大変な負担があった。しかし中国の規制は厳しく、薬価法の違反は重罪とされていた。もともと金に困っている身だったので、リスクはあると思いながらも、金儲けのために輸入に踏み切ることにする。最初は売ることに苦労するが、購入負担に苦しんでいた患者はたくさんおり、徐々に多くの人から頼られるようになる。いわゆる金儲けにも人助けにも成功したかに見えたのだったが……。
 実際に中国で起こった事件を題材にしているらしい。中国国内では空前の大ヒットとなり、社会現象化となるような反響があったようだ。実際に内容も面白く、そのうえで大変に考えさせられるものがある。ムロツヨシ似のチンピラのような怪しい男が、正義感のかけらもなかったくせに、苦しむ人々を前にして、一度は逃げ出すものの改心するようなところがあって、それが人々の共感を得るのだろうと思われる。人間関係もよく描かれており、取り締まる警察側にも、苦悩があることも見て取れる。そのような映画観を構築しながら、エンタティメントとしても楽しめる作りである。中国映画だからと言って敬遠していると、映画を見る楽しみを一つ損なうことになるだろう。
 今時主人公がこれだけ煙草をプカプカさせている映画も珍しい。もちろんチンピラ風の個性をあらわすための演出なのだが、欧米や日本などは、その前に自主規制してそういう演出を控えるところだ。そういう意味では、まだ中国には、(社会の現状を考えると皮肉なことに)自由な表現が許されているといえる。この物語のように、共産党の強権的な規制のもとに様々な困難のある国であることは、ステレオタイプ的に我々は理解しているはずだ。しかしながらそのことについても、表現としてこのように映画化ができるということも、同時に考えなければならない。もっとも過去の事件だからできたということもあろうが、一時期アメリカでもそのような社会性のある映画がたくさん撮られたように、ジャーナリズム的な自由がある国であるとか、そのことに規制の少ない国であることが、最も重要だと思う。さらにそういう作品が中国本土でもウケる、ということになると、大いに事情は変わっていくだろう。
 さて、実際の中国は、この現実をどう捉えているのだろうか。こちら側だけの視点では、わからないばかりか、単に偏見を募らせるだけである。社会の変革というのは、内から湧き出なければ、本当には成立しないものだと思う(日本は外圧じゃないと無理そうだけど、まあ、それは置いておいて)。映画には、その可能性を秘めたものがあるのではないだろうか。
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暇になって時間が足りない

2021-04-23 | HORROR

 寝る前になるとなんだかイライラして寝付けない。単に不眠症というのではない。眠剤(導眠剤)を飲んでいるので、不眠症じゃないといいきれないところがあるが、そういう意味ではない。とにかく何かをやっていない、何かは済ませていない、やることができなかったetc、そういう思いが湧いてきてイライラしてしまうのだ。原因ははっきりしている。時間が足りないからだ。少なくともそういうふうに自分が思っているからだ。
 実はこれは、コロナ禍と関係がある。コロナの関係で多少は時間の余裕ができて、自分の時間と言うか、少し自由度のある時間そのものが生まれるような感じになっている。時間のやりくりに忙しかった時は、暇になった時のために何をしようか、ということを考えるのは、割合普通のひそやかな楽しみであった 。そのために、空いた時間の準備と称して、いろいろ本を買い込んだり、見たい映画をメモしたり、そして家では、様々な番組を録画しておいている。すべては時間ができた時に、ゆっくりとそれらを消費して楽しむためである。
 本を買い込んでいても、 時間がなければ読むことはできない。そういう分かりきった状況で本が溜まっていっても、それは仕方のないことである。残念ではあるが、無理なものはしょうがない。ところが少し時間に余裕が出てくると、手にとって読んでもいいような時間が、しばしば生まれる。そのまま読んでしまえばいいものの、そういえばあの本も、そしてあの本だって今のうちに……、なんていうぐあいに、いろいろ四方八方に 手を伸ばしてしまう。そうやって読み止したままの本は、どんどんどんどん積み上がる。そもそも今までも読んでいなくて積み上がっていったんだが、少しは読んでいるものがさらにそれに加えて積み上がる。少しはといっても、それがどれくらいかというと、もう少し突っ込んだ方がいいかもしれない、というぐらいは少し読んでいる。もうすでに先が気になる段階に入るぐらい読んでいるので、これはもうどうしても最後まで読んでしまいたいという思いも強くなる。しかし今読み込んで片づけていったとしても、やっぱり全部読むことは、いくら時間ができたからといって、ほとんど不可能である。これまでも4,5冊同時に読むということは日常的には普通の事だったが、そうしながら別に拾い読みする本の半分以上は断念しても、仕方がないなという程度だった。しかし今はざっと考えても2.30冊は同時進行で読んでいる。ふつうは三四十センチの本のタワーが二つくらいで持ちこたえていたのに、このタワーが何か所にもそびえてくるようなことになってきた。もう、こうなってくると、ちっとも読み終えることができない。本文の末までたどり着けるというような、そういうレベルには無いのである。
 これは録りためているテレビ番組でも同じことで、もともと僕は一週間ぶん見たいと思うような番組は、予約録画する習慣がある。NHK と教育番組と BS 放送である。 Amazon プライムでも見ようと思っている映画もためているし、定期的に送られてくる DMM からも見たいと思っている映画をなん十本と予約してある。強制的に届くものは少し優先度が高くてコツコツ見ることになるが、そうすると最初から見ようと思って録画してるものが、後回しになったりする。一応最小限という感じにはしてるつもりだけども(面白くなさそうだと見切ったらすぐ消去する)、そもそも忙しい時には、これらを全部消化することは、もともと不可能だった。ところがコロナ禍になって、当たり前かもしれないが割合普通に家に帰ってくるようになった。録りためたものとか準備したものを、自由に見ていいような気がする。チャンスのような気がする。実際結構コツコツとみている。一所生懸命消化して見ている、という感じかもしれない。でもそもそもが、多すぎるのだ。家にいる時間中録画を見るといったって、そうであっても時間は有限で、限界だってある。新聞だって読むし、トイレにも行く(この時本は読める)。つれあいと一緒に買い物に行ったり、愛犬と散歩にも行く。そういう風にしてうっかり外に出ると、母がその隙ををついて「男はつらいよ」を見てしまう。そんな母だが、休みの日なんだから先輩(僕のこと)の好きなのを自由に見ていいよ、と、以前は僕に気遣って言うこともあった。しかし今は、そんなことはめったになくなってしまった。母としては、僕が見る録画番組を見るのが、大変に辛いのだ。何しろわけわからないようだし、そもそも面白くない 。僕が見るのは料理番組とかドキュメンタリーとかニュース解説とか旅や冒険だとか科学番組である。 妙なバラエティも見ているけど、もちろん民放のものではないし、そんなに笑いがでるようなものは見ない。僕にとって面白いは、僕の個人的な面白さを感じるものであって、家族揃って楽しいようなものは少ないのだろう。たまに落語や講談などで一緒に楽しめるかな、と思うものもあるけど、母としては、落語はお気に召さないようだ。
 要するに家にいる時間は、録りためてある録画物などを、寸暇を惜しんで一所懸命見なければならない。そういう風にして頑張ってみているにも関わらず、いつの間にか寝なければならない時間がやってくくる。酒を飲んでいれば、多少は諦める気分も早いが、休肝日にはそれができない。何とも言えない焦燥感と、自分の無力感のようなものが襲ってきて、最高にイライラした気分になる。グラグラやかんの水が湧いているようなもので、何度も大きく深呼吸をする。メモ帳にイライラした気分を書く。そして改めてその馬鹿な自分を見つめ直す。
 そういうわけで、分かっているのである。精神病のうつになるような前段階が、このような過剰な感じだろうなと思う。発症しかかっているのである。僕に必要なのは選択であって、そしてあるいは削除である。何が要らないのかというのは難しい問題だけど、目の前にあるものをとりあえずは大きく減らして、選択肢自体を減らさなくてはならない。そうして一つずつを片付ける。できればその一つに集中できるようにする。そうして済ませることができた自分を褒める。と言うか充実感に浸る。 やる前とその時とその後。そういう循環を取り戻さなければならない。時間ができたことでこういうことになってしまうなんて、改めて人間というのは厄介だなあと思うのである。
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フェチでオタクで美しい   ラストレター

2021-04-22 | 映画

ラストレター/岩井俊二監督

 どうも自殺したらしい姉の葬儀の後、その姉に同窓会の案内状が届いていたことを知る。姉の死を知らせようとするためという理由で、妹はその同窓会に出席する。ところが同窓会なんだから何年も皆会っていないし、姉妹だから瓜二つという設定なので、姉の同級生たちは人気者だったという姉と間違って妹を歓迎する。戸惑うが、そのまま否定せず、壇上でスピーチまでする。そこで、隣のテーブルに一人で佇んでいる男がいる。後にわかるが、主人公の女は、実際はその男に会いに来たのだ。同窓会の途中にもかかわらず会場を後にすると、男は追いかけてきて、そうして連絡先を交わして別れる。妹はその後姉に成りすまして、一方的な手紙を男に出すのだったのだったが……。
 うまく言えないが、一応そういうことで、実は似ている誰かと違うだれかを間違ったままに相手が存在している、という状況を作りたいのである。しかし、女優さんたちはまったく違う顔つきだし、回想の時には、一部違う俳優になったり(年齢が違うので当たり前だが)、かなり印象がちぐはぐで、脳内翻訳をうまくやらないとついてはいけない。でもなんといっても岩井ワールドなので、いわゆるハマると、なるほどな、というオタク的にいい気分になる映画なのだと思う。そういうお約束を超えていける力があるので、この監督の映画は共感を呼ぶのだろう。僕も正直言って、場面場面は好きかもしれない。これだけ突っ込みどころ満載で、オタク的で少女趣味的なフェチズムとエロもたくさんという作品にもかかわらず、そういう趣味がみじんもないおじさんである僕が、そういうファンタジーに酔えるものがある。さすがである。が、映画としてはどうなんだろう。
 要するに、まったくリアリティはないのである。こんな人たちは、世の中に存在しない。しかし、そんな世界があったらいいな、はアリなのである。それを実現させようと、愚直にできる作家が、岩井俊二という人なのだろうと思う。実在の本人は、年をとっても長髪で、しかし山下達郎のように変ではなく、童顔でハンサムである。おそらく実際に女にもてそうな感じを漂わせているし、そういう語りのできる人だ。しかし、映画はかなりオタク的で、フェチで気持ち悪いはずなのに、美しいのだ。そこが凄いのである。
 ほめてるんだか貶しているんだかわからない感じになったが、実際のところ僕もどう考えていいのかよく分からないのである。そういう複雑な気持ちにさせられる映画なのだから。
 ただし、僕はこんな手紙のやり取りを本当にやられたら、怒り狂うくらい納得いかないと思うけどな(たとえ自分でなく、そういう話を聞いただけだとしても)。皆さん、どうなんでしょう。
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食べ物批評はほどほどに

2021-04-21 | 

 そば食いのことを書いていて思い出したけども、食べ物の事を色々小うるさく言う人が増えたのは、それなりに理由はあったと思う。一番の理由は中年男性の多くが、何か自分を威張らせられるようにするアイテムとして、食べ物が選ばれた可能性がある。何しろ旨い不味いなんて誰でもわかることだが、その理由なんてことになると、結構複雑だ。それとバブルとの終わりという時代に、「美味しんぼ」という漫画が大変にヒットした。食べ物のうんちくを色々言って対決して、傷ついたり傷つけあったりする親子喧嘩漫画だったが(こういうのって巨人の星とかスターウォーズなんかと同じ図式である)、確かにこれでモデルとされる北大路魯山人のような、超美食家をなどに憧れを抱くような変な人々が増えた可能性がある。魯山人はともかく、食べ物で酔狂をするというのは歴史的にあって、洋の東西を問わずそのような逸話はごまんとある。食い物というのはこだわろうと思えば際限なく深みと広がりのある世界のものであって、きりがない。一人一食分現在の価格にしても数百万円かけて毎日食事していた中国の皇帝は、それでも食い飽きて何か旨いものはないかと所望した。
 ところで中年男性の方だが、実際は誰もがそんな魯山人たちのようなお金持ちではないから、たいした酔狂ができるわけではない 。で、やれることといったら、適当に飯屋に入って自分たちが食う飯についていちゃもんをつけるぐらいのことだ。一緒にいる仲間の内でワイワイと、何かで仕込んだうんちくを開帳する。それが素晴らしい事だと本人は思っているかもしれないが、多くの人にとっては、聞けば聞くほどシラけることだろう。適当に聞き流しているのに、まだまだ自慢は続く。時には耐え難く食べているものをけなしたりする。せっかくそれなりに旨く召し上がっていたものの、だんだん面白くないだけでなく、ほんとうに不味くも感じられてくる。じゃあ、お前が最高にここでうまいと思っているものを注文したらいいじゃないか。そうして出てきたものを食って貶してやったら、大いに店の主人に嫌われてしまうのがオチである。
 そういう不幸な夜を幾晩も経て、さて、そんな輩は減っているのか言えば、そんなこともなさそうだ。食い物は批評から逃れられない。それは批評家の能力とは関係がないのだから、たまらないのである。
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分け入って読む知的な喜び   学術書を読む

2021-04-20 | 読書

学術書を読む/鈴木哲也著(京都大学学術出版会)

 専門的に細分化されて研究の進む学術の世界にあって、その先鋭的な成果を求めるあまり、立ち位置を見失ったり、専門外との相互の考えを知らなくなってしまったり、単純化してかえって深みのないものに終わってしまう危険があるのではないか、ということを指摘した内容になっている。全体的な歴史を知ることや、哲学的な古典を読むことの大切さはもちろんのこと、自らの知識におごることなく、専門以外との対話することによって、却ってその見識は深くなっていく。そうして分かりやすさを求める世の中にあって、その考え方に陥穽してしまって、本当の研究のあり方が見えなくなってしまう危険も説いている。そのようなジャーナリズム的な価値観を気にしたり評価したりする、一見進歩的な欧米研究のくだらなさも見事に切り捨てている。そうして多読よりも精読を奨励して、多少むつかしくても楽しい冒険的な読書の醍醐味を見事に解説した本である。
 大学の出版会からの本だからと言って、とっつきにくいものではない。値段も安く薄いし、表紙の絵は沢野ひとしのユーモラスな雰囲気である。しかし文字の数に反比例して、内容がないわけではない。少なくとも読書を普段している者にとって、または研究などにいそしんでいる者にとって、改めて今やっている読書を見直す契機になることだろう。またブックガイドとしても有用で、これを読んだら本代としての出費が増えることだろう。さすが出版会の関係者である。
 実際の話として、学術書といわれるものは、発行部数も少ないわけで、それなりに高価なものが少なくない。専門分野でもない人にとっては、手に取ること自体がそれなり難しい。何かの本を読んでいて、参考文献などで目に留まって、そういうきっかけなどから興味を持つなどしない限り、なかなかそれらの本に巡り合えるものではない。しかしながら本は、リファレンスすることに意味のあることも多くて、思い切って買ってみる(図書館でもいいが)ことが大切でもある。多少身の丈に合っていなかったり、歯が立たなかったりもするんだけれど、読み進む知的好奇心にあらがえないような楽しさを味わうこともあるわけだ。完全に理解するためには、もう少しその分野の勉強が必要かもしれないが、それでもその一端を検分することによる喜びは、読書の最大の魅力かもしれない。出会った本に向き合うということに改めて真摯になれる、また、そういうことを後押ししてくれる本なのであった。
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蕎麦を食う人は、うるさい人が多いのか

2021-04-19 | 

 先日蕎麦の特集と言うか、蕎麦を食べることについての番組を見た。蕎麦にはいろいろ作法があるらしくて、そういったことをいろいろ語り合っている。面白いといえば面白かったのだが、なかなか面倒くさいことだった。蕎麦に関してのうんちくを、人々がこんなに語りだすようになったのはいつからだろう。そば打ちの哲学というような本は以前から目にしたことがあったので、ここ最近の新しいトレンドというようなことではないだろう。ただし江戸時代からそうだったかというのは、ちょっと僕には古すぎて検証しづらいことであるし、さらに日本人として自信のなかった明治時代にそういうこと言ってるとは考えにくい。やっぱり昭和も戦後になって少しずつ世間が明るくなっていった後に、何かとうるさく言うような人が出てきたのではないだろううか。 
 僕の子供の頃の記憶では、蕎麦屋で蕎麦湯を出すような店はなかった。まあ厳密に言うと蕎麦屋として単独の店がそもそもなかった、っていう感じかもしれない。あくまでうどん・そば屋であったり、大衆食堂の店だった。 あちこち食べ歩くようになった10代の後半ぐらいに、蕎麦屋で蕎麦湯を出すような店に当たって、噂には聞いていたが、それはこういう感じなんだなぁと感心した。なぜ蕎麦湯の存在を知っていたかというと、ほかならぬ父の話に聞いた記憶があるからだ。おそらく父の学生時代のことなのかもしれないが、腹が減っても金がないので、ざるそばを食べて、それでその後店に頼んでたくさんの蕎麦湯を出してもらって空腹を満たした、などという話なのだった。また、何か旅行の時だったろうか、場所まで思い出せないが、蕎麦屋で蕎麦湯が出てきて少し飲んだ記憶がある。子供だったから蕎麦湯がそんなに旨く感じるわけでもなし、そんなに感心もしなかったのだろう。
 今ではふつうに蕎麦はポピュラーな食べ物ではあるが、いわゆる関東的な蕎麦というのは、やはりそんなに古い話ではない。そもそもあの黒い出し汁というのが現れたのは、そんなに昔ではない。高校生の頃に、少年時代は福岡で暮らしていたという友人が、黑い出汁のうどんやそばを食べたい、といっていたのを聞いたことがある。気持ちの悪いことを言う奴だな、と思ったことだった。だから福岡あたりには、すでに関東あたりから出張するような人を相手に、それらしいものを出す店があったのかもしれない。
 少し記憶は飛んで、しかしやはり二十代の初めか途中くらいに、何故か関東に行くようなことがあって、初めて一人で立ち食いソバに入った。そうして出てきたなんとか蕎麦に黒い醤油の匂いの立ち上るものを食して、たいへんに困惑した。空腹は確かに満たされたが、ああいう不味いものは、金輪際食うものかと思った。それから蕎麦というのは、一時の間、たいていザルで食うようになる。
 でもまあ人というのは変われるもので、確か広島だかそういうところに遊びに行った折に、蕎麦好きという人がいて、一緒に蕎麦を食べたのだったが、その人が蕎麦をうまそうにすする姿を見て、過去の蕎麦からの呪縛からとかれていくのを感じた。なるほど確かに蕎麦というのは旨いものだったのだ。単に僕は、いろんな余分な偏見にさらされて生きてきて、その事実に気づかなかっただけなのだ。
 まあ、むつかしい話なのではない。僕は庶民的な蕎麦も好きだし、サラリーマン的な蕎麦も好きだ。そうして少し背伸びして食べる蕎麦だって、少しくらいは楽しめる年ごろになったのではないかとも感じている。だからちょっとしたうんちくにも、少しは首肯できる気分にはなれる。言っている人がよっぽど気障でない限り、という条件はあるにしても。
 でも基本的には、食べ物はその範疇において、自分の好きなように食べるに限る。僕の母は素麵でも蕎麦でも、どっぷり漬け出汁に麺を浸してから食べている。いわゆる無粋で、粋のかけらもない食べ方をするのであるが、それが好きなのであろうから、それでいいのである。僕は威勢よくズルズル啜るが、これができるようになってそんなに長いキャリアがあるわけではない。せいぜい二十数年といったところだろう。だから何も威張れるものなど、持ち合わせていないのである。
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なんというダメ映画なのか   デジャヴ

2021-04-18 | 映画

デジャヴ/トニー・スコット監督

 テロリストによってフェリーが爆破され、多くの犠牲者が出る。その捜査において、爆破前から殺されていた可能性のある女性も発見される。妙な監視システムがあって、過去数日間において関連場所において映像記録が一度だけ見ることができることになっている。ここからはSFなっていって妙な理屈になっていく。そうして時間をさかのぼって犯人を追うだけでなく、今度は時空を逆らって、このテロ事件を阻止できないかと模索するようになるのだった(つまりタイムトラベル)。
 製作がジェリー・ブラッカイマーで、ああ、やられた、と思った。この人、どこかふざけているとしか思えない映画ばかり作るのである。爆破事件で犠牲者がたくさん出る中、指を切断され、爆破前に殺されたとみられる女性の死体が見つかる。ところがこの死体が、やたらきれいに傷んでいない。要するにきれいなままの女優さんを見せたいわけで、おぞましい死体としては映像化しないのである。一気に観るものは冷めた気分にさせられるのだが、それも構わずテンポよく物語が進む。しかしSFのくせに、理屈よりも強い感情で人を動かした方に現実が近づいていく。暴れたもの勝ちである。そうして肝心なところでモタモタして、事が大きくなるうえに、せっかく事前に準備していることも台無しにして派手にドンパチやりだす。そうしてタイムトラベルの同じ人間の存在に関するパラドクスを無視して、ハッピーエンドになるのである。もう、やってらんないよ。
 それにしてもこれくらい人の感情を逆なでするような展開のお話であるにもかかわらず、ブラッカイマー製作映画は一定以上ヒットする。人を馬鹿にしているようで、世の中に迎合しているのである。僕はインテリではないが、こういう現実を前にすると、大衆というのはバカの集まりである証明にしか見えない。頼むから、みんなには目覚めてもらいたい。
 確かに爆破シーンはド迫力だし、演技としての人間関係以外は、娯楽作として悪くないようには見えるのである。でも内容はダメダメなのだから丸つぶれのはずで、だからここまで感情を逆なでされるのである。そういう人はたくさんいるはずなのに、どうして泣き寝入りしなければならないのか。いや、単純に宣伝が上手いだけの話かもしれないけど、観てしまった自分が残念でならない。
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マスク会食と予防接種前

2021-04-17 | net & 社会

 会食自体が少なくなった昨今。そうではあるが、少なくなっただけのことで、無くなってしまったわけではない。ということで、この間はマスク会食というのをやった。
 これは政府等の主張を取り入れてやるべきだという話ではないので、そのスジの人には期待にそえませんので、最初から悪しからず。
 で、やる前の気分としては、はっきり言って馬鹿らしかったんだけど、これをしなければならないと主張する人はいるんで、仕方がなかったのである。でもこれはやはり人によるというのがあって、やかましく言う人というのはやかましくいえる人に対していうだけの話で、僕はしっかりマスクをしろといわれる方だが(まあ、僕はそんなターゲットになりそうな人、というのは分かるでしょ)、そういう人がおしなべてそのほかの人にもいう訳ではない。そもそもそういう声掛けがなされる会合だからといって、だからしない人は最初から全然しない(ある意味、えらいですけど)。だいたい食べてマスクして話すというのはもうすごぐリスクがあって、慌ただしいしいちいちマスクを手で触るので、感染リスク自体が跳ね上がる上に、ものすごく不衛生である。もちろん感染防止には何ら意味はない。いってみれば、ただのポーズである。もっとも、少しだけ意味があるとしたら、本当に感染者がいて、その人に症状があって、一切食事もとらずにこちら側の方向も見ないでいてマスクをしているならば、いくらかは……、ということくらいかもしれない。でもそんな人が実際にそこにいるだけで、多分どうやってもアウトだろうけど。
 で、酒を飲んでくると、強いてそういっていた本人も馬鹿らしくなってくるのだろうと思うが、だんだんとマスクをつける頻度が落ちていく。まあこちらとしてもポーズに過ぎないから、してもしなくてもどうだっていいんだが、そう主張する人自体がマスクをしなくなる姿を目の当たりにしていくと、馬鹿らしさが増大してやけ酒っぽくなっていく。だいたい誘われたのはこっちの方だよな。なんでそんな人に限ってこんなことにこだわるんだろう。 だから言わんこっちゃないだろうという気分にはなるが、もちろん言わない。まあ何とかにつける薬はないからである。
 でもそういう人の話を聞いていると、割合真剣にはそういうことに過敏であることがわかる。そうして本当に恐怖におびえている(だったら僕らを呼ばなければ、とは思うが。いや、厳密にはそういう集まりを主宰してくれ、と人に頼むのだから、巧妙である。そうしてその会に自分は呼ばれた、という構図を作るわけである)。一体何がそんなに恐怖感のもとになっているのかなと疑問に思っていたら、やっぱり根本はテレビのようである。確かに底が浅い話ばかりだな、と感じていると、案の定そういう情報源しかない人との話というのは、根本的に利己的に自分だけの恐怖なのだ。現実が見えていないというのは、現実でないものを見るからである。自ずとバランスが崩れていく。 
 職場でも予防接種の日程が決まって、いざ実施ということになっているが、やっぱりテレビをたくさん見る人に限って、予防接種はしたくないと言う。注射をするのが怖いというのは、痛いからではないそうで、注射をするとあちこち不調がでてきて死んでしまうからだと言う。なんじゃそれは。しかしながら程度問題はともかく、コロナが怖いという人にはそんな矛盾があって、しかしその矛盾に自らは全然気づかない。まったく不思議なことである。
 確かに日本は予防接種をしていなくても、予防接種をしている国よりはるかに感染者は少ないわけだが、そういう事情からすると、抜本的な効果という意味では、今現在予防接種をしたからとって、いわゆる感染の拡大防止につながるということにはなりそうにない。なぜならそもそもが、流行していないからである。そういう根本がありながらも、個人の感染防止には、やはりその時期限定という意味では、予防接種には意味はある。だから感染すると厄介な人の方を優先的に、予防接種は進められている。よっぽどのことがない限りは、つまるところ感染すると危険性のある個人としては、予防接種はしたほうがいいということになる。まあしかし、そんなことを言っても、恐怖心を持っている人に対しては、洗脳されているわけだから、全く不毛な問題に過ぎないわけである。
 しかしながらここにきて、さらに身近に感じられる人は感じられる環境にもなってきたらしい。昨年よりはだいぶ表面的に落ち着いているそぶりを見せている人は多いが、彼らが標的にしているのはやはりテレビの中の都会の人たちで、そっちがなんとかしないからこっちだって大変なんだよって言っているようだ(大意)。まあ、そんなこと言っても統計的な人口の差があるんだから、ほんのちょっとの数の増減を根拠にしても仕方がない。だとしたらそもそも地域によって大した差があるわけではなくなるから、さらに怖くなってしまうのだろうか……。
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ブロンソンの出稼ぎ時代   夜の訪問者

2021-04-16 | 映画

夜の訪問者/テレンス・ヤング監督

 観光客相手の釣りなどで商売をしているらしい個人船長のジョーのもとに、無言電話がかかってくる。そうして夜中に家にやってきた男といろいろあって、結局ジョーはその男を殺してしまう。死体を隠して帰ってくると、また二人の男が家の中で待っていた。実はこの男たちは、ジョーが以前刑務所に入っていたころの仲間で、ともに脱獄したのだったが、ジョーが裏切って置き去りにして、結局彼らはまた捕まってしまった。当たり前だが、そのためにジョーを恨んでいるのだった。それで、復讐もしたいだろうが、その時の償いのようなことで、また、麻薬取引の仕事をジョーにやらせようとしている。さらに妻と娘が人質になっており、ジョーはしぶしぶ取引に応じることになるのだったが……。
 チャールズ・ブロンソンがフランス語を話しており(多分吹替)、ちょっと米国の映画と比べると、テンポというか間合いのようなものが違って、ユーモラスな感じが漂っている。以前日本人なんかも吹替アクションで香港映画に出ていたことがあったが、要するにそんな感じなのである。
 プロット(いろんな出来事が起こって、とにかくスジが複雑である)の説明が厄介だが、家族を人質に取られているのに、相手のボスの愛人を逆に人質にして取引したり、カーチェイスをしたり、せっかく相手を倒したのに、そのまま放っておいたり(だからまた逆襲される)、なんだか途中で疑問符がたくさん出てくる。しかし、そういうアクションに緊張感はないわけではなくて、娯楽作に徹した作り、ということなのかもしれない。でもまあ、今時こんな筋書きの映画なんて、とても企画が通りそうもないのだが、それが時代ということなのだろう。
 時代といえば、チャールズ・ブロンソンの男としての脂の乗り切った時期でもあって、ピチピチのTシャツに筋肉がしっかりついていて、それでいて髭面でかっこいいのである。うーん、マンダム、なのだ(そんなの知ってますか?)。もちろん、そういうのが懐かしいな、と思って僕は録画しておいたのだろうと思う。映画としては、大した出来栄えではないけれど、そういうファンにとっては、見ておいて損はない作品ではなかろうか。実際面白くないわけではなくて、その変な展開そのものが、なかなか味わいもあるような気がしないではない。ふつういくら悪人であっても、人を殺したり、倫理的に踏み外したことをしておいて、でもかっこいいから正義であるような内容なんて、なかなかもう作られはしないだろう。
 でも、我らがブロンソンだから、それでいいのである(たぶん)。
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