カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

聖地の当時の様子を見る   トキワ荘の青春

2022-04-30 | 映画

トキワ荘の青春/市川準監督

 漫画家の聖地ともいえるトキワ荘で、まだまだ卵時代の若き日の漫画家たちの姿を、主人公に寺田ヒロオを据えて描いた作品。すでに漫画家の巨匠であった手塚治虫と入れ替わるように、藤子不二雄の二人が上京してくる。先輩漫画家として居住している寺田ヒロオが、世話をするわけである。そのようにして、漫画家として新人賞などを受賞してはいるだろうけれど、漫画雑誌も黎明期にあり、皆生活は不安定である。まだ芽が出ていない赤塚不二夫や石ノ森章太郎なども、苦しい生活の中やり繰りしている。そうしてみんなで苦労しながら生活して頑張っていく中にあって、徐々に売れるものと売れないままのものとに、残酷に運命は分かれていくのだった。
 淡々と描いて当時の漫画に賭ける若者をあぶりだしているのだが、今となっては大変に著名である作家と、やはりそうでなかったものが、どうしてそうなったのか、なんとなくわかるようになる。ただし説明は少ないので、出版社に振り回されながら、本当に苦悩の連続で、食うや食わずの者たちを支えていたのが、兄貴分の寺田だった。その寺田も家族の理解の無いまま、静かながらも必死に漫画を描いている。しかし寺田には頑固なところがあって、それなりに売れはしているものの、雑誌社が求める新しい漫画というものに抵抗も感じており、自分の描きたいものにこだわりを持ち続けている、ということらしいのだった。
 ちょっと以前の作品で、当時は無名だったが今は大活躍している俳優が多く出演している。そういう意味で、改めて結果的に豪華キャストであることで知られる作品である。映画としてはあまり商業的なウケを狙ったものではなさそうで、たいした盛り上がりのあるストーリーにはなっていない上に、説明がほとんどなく、かなり意味が読み取りづらい。寺田は後に筆を折ることになったことは、後世の人間は知っているし、石ノ森の姉は後に死んだことなども知られた事実だし、赤塚は後に大ヒットメイカーになるわけだし、しかし、つげ義春がトキワ荘に出入りしていたことなどは、あんがい意外だった。そういうオタク的な面白さが無い訳では無いにせよ、本当に地味な作品なのだった。
 僕自身もコロナ禍という言葉がまだ始まっていないコロナ初期に、トキワ荘を見に行った(二年前だ)ということもあって、改めて気になっていた。残念ながらすでに現物のトキワ荘は今は無いのだが、少し離れた場所に新しいトキワ荘が再現されている。そうして当時の漫画家たちが活躍した足跡を、まちづくりとして地域全体で盛り上げようとしていた。静かな住宅街だけれど都心に近く、漫画家の卵たちは出版社に通いやすかったためにこの辺りに住んだ(もちろん最初に手塚がいたせいだけど)、と言われている。ひょっとすると今も、この辺りで漫画を描いている人間はたくさんいるのではないか(あこがれの地だし)。今はどこに住もうとあんまり関係は無いのかもしれないが、聖地としてそうあって欲しい気もするのだった。
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買えない本でも読んでみる

2022-04-29 | 読書

 新聞にも書評はあるし、ほとんどの雑誌には書評欄がある。情報誌も読むが、ほとんど出版社の本の宣伝雑誌というのもある。ネットでも紹介してくれるし、書評エッセイはよく読む。田舎町に住んでいて、まともな書店など無い環境だけれど、目にふれる本の環境ということでは、それはもう膨大なことになる。さらに最近は図書館にも通っているので、背表紙で書名を眺める楽しみが増えて、これも快楽の一つかもしれない。実際の中身で失望することがあるとしても、手に取らせる文字の魅力は何とも言い難い。
 図書館で思い出したが、ネットなどで購入するのを躊躇する内容を、確認するという意味でも重宝している。そんなに値が張らなければ気にせずクリックできるけれど、時には数千円しているものは、目次くらいは確認しておきたい気もする。いろいろ事情はあるにせよ、もともとあんまり刷られていないけれど重要とされる本というのがあって、ちょっとだけ確認したいだけなのに、高額になってしまっているものは少なくない。たまに廉価版が出る場合もあるが、やはり日本ではあまり著名な人では無かったり、翻訳者も地味だったりすると、せっかくの名著がうずもれてしまうことになる。そういうものだとはいえ、ちょっともったいない話である。
 そういう訳で最近だとシニシズム批判の本を借りたのだが、これがかなりの大著である上に内容も難解でとっつきにくかった。しかし図や絵もあったりして、時間を気にしなければそれなりに楽しい。原文はドイツ語だろうけど、これだけのものを訳そうと考えるだけでも、大変な労力だろう。他に読んでいる本もあるがパラパラと格闘して、まあ諦めた部分も多いけど眺めることができて有益だった。今は戦争もやってるけど、僕らは何もわかってないことをわかっているふりで傍観してはいけない。そういうことがさらなる暴力を生み出すことになるのかもしれない。しかし今は1万円以上する本だろうから、そういう大切なことは、誰もかれも簡単には読むことができないだろう。もちろんこれを買った人もいるはずで、そうやって最後まで読んだ人であれば、今の世の中を正確に憂いて意見を言ってもらいたいものだ。我々個人にこのような状況に何かをできるものではない、という考えもあるかもしれないが、だからと言ってロシヤの蛮行はどうにもならない、などと言ってみたところで始まらない。どうなるか分からないことであっても、自分の考えをもって注視していくこと。それだけでも何らかの影響力を持つことができるかもしれない。少なくとも何もできないからと言ってこの状況を単に皮肉って傍観しているよりも、ずっと人間的に生きていくことができるのである。
 まあ、そういうことを読書しながら考える。埋まっている本は、誰かに読まれることを、そうやって待っているはずなのだ。
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嘘をつきたくてついたのかどうか   嘘を愛する女

2022-04-28 | 映画

嘘を愛する女/中江和仁監督

 移動中地震にみまわれ、具合が悪くなって動けなくなったところを、親切な通りがかりの男から介抱されて知り合う。それがきっかけで同棲をはじめ5年の歳月が流れた。いよいよ親と会うことになったが、待ち合わせ場所に男は来なかった。困惑して家に帰ると警察がやってきて、男がクモ膜下出血で倒れたと聞かされる。さらに男の免許証は偽造されたもので、住所以外名前などすべて偽物だと聞かされるのだった。昏睡中の男の正体を知りたくて、私立探偵を雇い、自分も一緒に男の謎を探る旅に出るのだったが……。
 最初から謎がありそうな仕掛けはあるが、相手が昏睡状態にあることから謎を解くカギが見当たらない。一度は諦めかけるが、男が集めていた古いフィギアと、パソコンで書いていた小説をもとに、それらしいエピソードとつながりのありそうな場所が瀬戸内の灯台にありそうだと見当をつけ、現地に行くことになる。二転三転なかなか核心にはたどり着けないが、意外な事実は分かることになる。
 長く付き合った男が偽造した人物だとわかる物語は(または女が)、これまでにもいくつか思い当たるものがある。また実際に身元を隠して暮らしている人間の過去が暴かれるようなものも、それなりにある。このような謎解きは、意外であればあるほど感心する訳だが、たいていは犯罪と絡んでいることが多いのが特徴だ。さて、この話はどうなるでしょうか。
 ということでミステリめいた展開は面白い訳だが、探偵との絡みなどは、実際仕事をしている人と若い女というのは、こんなことになるものだろうか? という感じはした。また、男は何故小説を書いていたのかは、なんとなくそうかもしれないが、今一つ腑に落ちなかった。しかしこれが無ければ謎は解けない。そういうものと思うしかないのかもしれない。
 ということで面白い感じはするけれど、惜しい気もする物語だった。観ながら期待しすぎてしまったのかもしれない。
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都会人は詰まるのが嫌い

2022-04-27 | net & 社会

 田舎の暮らしは不便だという話はよく聞くのだが、我々世代にとってはあまり関係はない。何しろ車が一人一台の世代だ。運転ができない人にとってはひどい状況になるけれど、田舎の車のある生活は実に素晴らしいものである。自由だし、便利なのである。都会で暮らしたことはないので、実感としては知らないが、電車で移動しなければならない毎日というのは、考えただけで何か窮屈で、いくら待たなくていいくらい頻繁に電車が来ると言われても、はっきりと不便である。田舎の人が都会を恐れるのは、そういう窮屈な印象が一番大きいのではないか。
 僕が出張などで都心に行って思うのは、やはりいろんな人がいるだけでなく、いろんな暗黙ルールがたくさんあって煩わしいな、という感じかもしれない。人が多いので仕方ないのだけど、並び方も店によって違ったり(だいたいアウトラインはよく見ると分かるようにはなっているが、これが初心者にはあんがいむつかしい)、だから常連のような人以外の人が戸惑ったりしていると、本当に多くの人が舌打ちをする。最初はこれに驚いた。舌打ちをする人なんて、ドラマとか漫画の世界だけのことだと思っていた。田舎で舌打ちをするような人間は、学校の先生くらいのものである。一般の人は、ほとんどそんなことをしない。しかし都会では電車の中でも飛行機の中でもコンビニでも立ち食いソバでも交差点でもあちこちで舌打ちする人がいる。お前らはラッパーか。とにかく、滞留要素が起こることに、人々は敏感にならざるを得なくなっているにかもしれない。
 しかしだから都会人が冷たいのかというと、実はそんなことはないことも知っている。僕は田舎者であることに何の抵抗もないので、分からないことは身近にいる人に頻繁に聞くことにしている(もちろん若い頃より図太くなったということもあるかもしれない)。急いでいる人を無理に呼び止めるようなことをしない限り、都会の人というのは実によくものを教えてくれる。分からないときは交番の場所なんかを教えてくれる。牛丼屋の出入り口を間違えたら、丁寧に入り口はあちらですよ、と促してもらったこともあるし、食券販売機でもたついてしまって、悪いと思ってお先にどうぞと順番を譲ろうとしたら、いえいえ待ちますからと言って、そのうえでやり方を教えてくれた人もいた。居酒屋のカウンターでタッチパネルの使い方がよく分からないでいると、隣の兄ちゃんがやってくれたこともある。基本的に助け合い精神のようなものを持っている人が多く、またそういう環境にあるためか、聞かれたらたいていの人は丁寧に教えてくれるのである。もちろんそうでない人もいるんだろうけれど、田舎の人間よりは助け合いが当たり前の社会なのではないか。
 田舎の人間関係のわずらわしさがあるじゃないかともいわれるが、これは長期に地域で移動しない条件下のものであり、今は長屋ではないとはいえ、都会にも下町のような場所はあるだろう。何十年もそこに住み続けるのであれば、当然知り合いもできるだろうし、それは田舎とか都会の問題ですらなくなる可能性もある。知り合いがいない状態の孤独も、山の中過ぎて寂しいのも、あんがいあんまり変わりがないのじゃないか。日本人がどうだというより、外国でも同じようなことになるのではあるまいか。
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イチゴって色々意味があるんだね   いちごの唄

2022-04-26 | 映画

いちごの唄/菅原伸太郎監督

 生徒時代の憧れの女の子と共通の友人の命日にばったり出会う。当時は話を交わすような間柄では無かったが、思い切って話してみると、いろいろと会話が弾む。そうしてまた来年、同じ日に会う約束を取り付けられた。亡くなった友人と女の子には共通の様々な謎が実はあり、亡くなった理由も女の子との関係が強かった。昔と現在の事柄がいろいろと錯綜して物語は進んでいく。そうして年に一度会うという二人にも、これまでと違う変化があるのだった。
 友人と女の子は孤児院で出会った友達だった。その後女の子は貰われていき、中学生まで疎遠になっていた。再会したが、過去のことを隠していた女の子は、話しかけることさえしなかった。しかし友人はそ知らぬふりをしてくれていた。そうして暴走する車から彼女をかばって死んでしまったのだった。
 そのような過去のわだかまりが解けないまま、彼女は苦しんでいた。そういう中に主人公の男と出会い、他にもさまざまなことが絡みながら、過去を清算させていくのである。
 主人公の男は、食品加工工場で働くまじめな青年だが、明らかに何か問題があって、友人さえできないさえない男という設定である。だから憧れだった女の子への強い思いがありながら、その告白はなかなか出来ないということなのかもしれない。しかしながら年に一回の出会いで、そういうものが容易に発展するものではない。携帯電話のある時代に、なかなか難しい設定ではあるまいか。会話劇もなんとなくもどかしく、ちょっとイライラするかもしれない。なんとなく現実離れしているというか、そんな印象も受けた。
 この映画でもラーメン屋の青年として出演しているミュージシャンの峯田和伸の歌詞から、物語を組み立てられたのだという。いちごの唄というのは、ビートルズのストロベリーフィールズとも関係がある。そうして故郷のそういう場所とも関連があるという仕掛けである。組み立てられ方は凝っているようだけれど、そのための物語だからこうなったということは分かるけれど、果たして成功しているのだろうか。それに今時イチゴ畑ってこんな感じなのかな、などとも考えてしまった。まあ、これが青春ということなのかもしれないが……。
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移住は何処に。

2022-04-25 | net & 社会

 職種はある程度限定されるとはいえ、テレワークが当たり前になって、事実上どこに暮らしていても働ける時代になった。そうならなければならなかった理由はともかく、そもそもいずれはそうなるものだと言われてはいたものの、前倒しになったということかもしれない。そうしてそれなりの時間が経過して、果たして多くの人が田舎に移り住んだのかということになると、本当にそうなったのだろうか。
 それというのも、都会の生活の息苦しさから逃れて、自宅でのびのびと仕事をするというイメージが何となくあって、都心から離れて仕事をする人が増えるのではないか、という話がずいぶん聞かれたものだからだ。実際に移り住んだという話も随分聞くのだが、しかし身の回りを見渡してみて、そんな人がいるのかしらん。
 いや、二三はそういえば知っているが、いわば別荘みたいな感じなのか、いつも住んでおられないようなケースしか知らない。またはまちおこしの地方自治体勤めのような人だったりするような気もする。本当に都心や都会の仕事をつづけたまま移り住んできた人ってどれくらいいるのだろうか。
 確かに企業によっては、都心の高い賃貸事務所を引き払って地方都市などに移転したり、社員が常時通勤するわけではなくなり、小さい事務所に間借りし直したりする動きがみられるという。では都心のオフィスの賃貸料が大きく下がったのかというと、必ずしもそんなことはないようだ。もちろん賃貸料を下げて別の企業を誘致する不動産もあることだろうけれど、やはり空きが出たら新しく入る企業はあるのではないか。そもそも人気があるから高い値段でも入る企業がいるわけで、そういう企業が数社抜けたとしても、新たな借り手はいるのではないか。
 また地方などに移転したり移住したりする人が増えたと言っても、実際には東京であるなら関東圏の県であろうし、さらには県庁所在地などの小都市部であろう。徳島などに移住して話題になったところも見た覚えはあるが、むしろ珍しいので繰り返し取り上げられ話題になったのではなかったか。いわゆる本当の田舎といっても、本当の過疎のまちなどにはやはり人は移り住まないし、よっぽどの変人でなければ移住はないはずだ。過疎のまちが活性化するほどのことは考えづらく、あくまで少しの人が移り住むだけで、本当に珍しいことだろう。
 なんだかどよーんとすることを書いてしまったような気がするが、結局は、そこそこという街や、やっぱり何らかの生活の上で、文化的で住みやすいところでなければ、難しい話だろう。そういうところは、そもそも人が減り続けているようなことはこれまでもあまりなかったり、何か住むことの魅力が誰にでもわかるところであるだろう。つまるところそういうところでなければ、テレワーク以外の生活のメリットがない。地方の厳しい現実がどうにもなりそうもないことは、今後も引き続き変わりそうにないのではないか。
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今の時代では作られ得ない名画   愛と悲しみの果て

2022-04-24 | 映画

愛と悲しみの果て/シドニー・ポラック監督

 裕福だが未婚のカレンは、金のない男爵で友人のブロアに結婚を持ちかける。この便宜上の結婚で心機一転し、アフリカで農場経営に乗り出そうという計画なのである(彼女はデンマーク人)。そうして実際に東アフリカに渡り先に準備していたブロアのところまで行くと、彼は彼女のお金を使って、コーヒー農園の開拓に手を出していた。アフリカに渡っている主に英国を中心とする白人社会の連中との付き合いもあるが、彼女は現地の黒人たちを使って、まだコーヒーの木が育っていないコーヒー農園とともに、酪農事業も軌道に乗せようとする。便宜上の結婚であったが、ブロアの良いところにも気づき愛するようになっているのだったが、しかしブロアは浮気性で、いつも家を空ける生活が続いていく。そんな中、現地で出会った白人のハンター(象牙などを売るのだろう)のデニスと恋に落ちていくのだった……。
 数々の賞を受賞した名作映画とされている。第一次大戦前後の時代背景と、欧州人のアフリカにおける植民地開拓という実情も描き出した点が、当時の高い評価につながっていたのかもしれない。今となっては差別的なところに平気なので(それが歴史というものだから、僕は批判しているわけではない)、かなり貴重な映画的な演出だと思われる。主演のメリル・ストリープとロバート・レッドフォードが、中年なりに若く素晴らしい演技をしている点も、この映画の魅力である。実際は浮気なのだが、正当に何の良心の呵責もない。夫のブロアはデニスの友人でもあるのだが、何の断りもなくこんなことをしたと非難されても平気で、「(お前には断らなかったが)彼女には断りを入れた」と開き直るのである。まあこの二人寄りの話なので、それでいいのだが……。
 実際には西洋の植民地主義によるアフリカ大陸の侵略を背景にしているが、アフリカの自然の美しさと、そうして西洋人が彼らよりの教育などの文化も伝播した功績のようなことも表現していて、これも現代ではとても正当化できない演出である。ハンターにしても象牙や貴重な野生動物を殺しまくったことで得た利益であり、現代ではとても肯定できない犯罪行為である。しかし彼らはアフリカ大陸から奪えるだけのもの奪い、自分らの享楽の糧にしてしまった。そうしてこのような美しい映画までこしらえてしまえるほど、無邪気で罪深いのである。
 でもまあ、ライオンに襲われそうになったり、突然飛行機乗りになったり、スリルもあり冒険も楽しい。もちろん恋愛劇もいいし、悲しい物語も余韻を残すものである。あんまり現代人の上から目線で観ないことにすると、やはりこれは名画のままなのかもしれない。
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努力というものの本質   ルックバック

2022-04-23 | 読書

ルックバック/藤本タツキ著(集英社)

 漫画。ジャンプ+というネットの雑誌なんだろうか、そこで発表された後瞬く間に数百万という閲覧数を記録したという。その為なのか、ネットでたまたま見かけて、途中まで読んでしまって、続きが気になり、ネットでなく紙媒体を買ってしまった。
 小学生時代、学年新聞に4コマ漫画を連載している藤野という女の子は、活発な性格ながらその漫画を周りから褒められ、得意になっていた。そういう時先生から不登校の京本という女の子にも漫画を一緒に載せていいか、と頼まれる。そうして実際に上がってきた原稿を見ると、小学生にしては驚くほどの画力を持つ存在であった。一瞬で激しいショックを受けた藤野は、その衝撃と嫉妬心のようなもので、これまでの運動や勉強のすべてを放りだして、漫画を描くことに集中するようになる。そうして全身全精力をつぎ込んで描いた作品は、やはり京本の絵には及ばないのだった。そのような現実に失望して、結局6年生の途中でペンを折ることにした。その後卒業式になって不登校の京本のところに卒業証書を届けるように先生に言われ、彼女の家に行くが、そこで京本からファンだったと告げられ、舞い上がってまた漫画を描き始めることになる。書いて書いて書きまくってお互い画力はぐんぐん伸びて、高校生で二人で共作するようになり、大手出版社の漫画賞を取るようになり、事実上プロの道筋が見えてくるようになるのだったが……。
 実は僕も小学生のころに学級新聞に四コマ漫画を連載していた。評判になるというか、それなりに褒められて四コマ以外の漫画も描くようになった。どういう訳か新聞全体の記事まで他の部員を差し置いてすべて書くようになり、結果的に文章の方も褒められて有頂天になり、漫画を描くより文章を書いた方が楽だと思うようになって漫画はやめてしまった。でもそれよりもギターを弾いて女の子にモテた方がもっといいと思うようになり(そんなことでモテはしなかったが)、漫画も文章も新聞もやめてしまったということだが、それはこの漫画とは関係ないか……。
 でもまあ、そういう青春の激しさのようなものが詰まっている漫画で、このあらすじの後に大きな事件が起こる。まさに衝撃的で、ちょっと前に起こった京都のアニメ放火殺人事件のようなことが起こってしまう。そこで漫画の人々はいったい何を感じ何をするのか、ということがこの漫画の大きなテーマである。これはもう読んでもらうよりなく、漫画の表現を実に大胆に描き出して、この人間のサガを見事に表現している。本当にスゴイです。
 自分のやりたいことというのは、よき理解者があってこそ本当に伸びるものなのかもしれない。本当にわかっている人がいるからこそ、自分自身の力ももっと伸ばすことができる。努力というのは孤独なことだが、それを続けられるには強力な意思が必要だ。本当に好きなことであったとしても、それを続けるのは簡単なことではないのだ。
 漫画って素晴らしいな、と思える。ちょっと悲しすぎる話だけれど、読んだ人はおそらく、そのように感じるはずなのである。
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暴力団は暴力に弱い   孤狼の血LEVEL2

2022-04-22 | 映画

孤狼の血LEVEL2/白石和彌監督

 原作は柚木裕子だが、お話は映画版オリジナルだという。しかしながら前作の設定の続編になっていて、主人公は前作で助演をしていた松坂桃李である。暴力団の抗争が激しい架空の地(恐らく広島あたりだろうが)に、非常に狂暴だった男が刑務所から出所する。男は特に世話になったと思っている刑務官の妹を無残にいたぶり殺害する。そうして、一定の協定を守って平和に暮らしていた暴力団のパワーバランスを、強烈な暴力でもって崩していくのだった。そこにこれまでのやり方が通用しないと考えた丸暴刑事が、自らヤクザ的なやり方で組織と対峙していく。しかしそれは警察内部との対立も意味し、孤独と危険を併せ持つ無謀な戦い方だった。そこに引退間近の刑事が相棒になってくれるのだったが……。
 とにかく狂暴なヤクザの役を鈴木亮平が怪演していて、それを見るための映画、という感じになっている。ほとんど化け物で手が付けられない。ヤクザの仁義ともほぼ無縁で、単に残酷に暴れることのみを目的に生きているような男なのである。最初に明確な一般人の殺人を犯しており、そもそもその為に警察の捜査本部が組織されているわけだが、警察はあるメンツがあって殺人の犯人にたどり着けない。そうしてヤクザ内部の抗争が、ほとんどこの凶暴な男の暴走のために滅茶苦茶になってしまうのだ。
 ヤクザ同士の戦いにおいて、ほとんどいじめに近い暴力で他の組長がいたぶられたりして、正直言ってヤクザも可哀そうに思えてしまう。金銭的に成功しているヤクザの組が、そのヤクザの格や上下関係と関係なく、ヤクザ的な暴力の前に次々に壊滅させられていく。数的な優位性などもほとんど関係ない。それよりも残酷で狂暴で手が付けられないからこそ、理屈が通らずに屈していくのである。まさに理屈より暴力。それは破滅的だからこそ、一時的には無敵なのだ。その場限りであれば、その場の人間は理性があるので、立ち向かうことができないということだ。なんだか今の社会情勢のようではないか。
 やたらに気持ちは悪いが、凄いものを観てしまった、という印象は残る。しかし続編を作ることができるのだろうか(そういう話があるのかは知らないけど)。
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電池を替える日々

2022-04-21 | 掲示板

 他人に頼まれてボイスレコーダを引っ張り出してみると、電池が切れていた。そういえば持っているだけであんまり使っていなくて、いつのまにか長期間放置していたかもしれない。それで電池が自然に消費されてしまったという感じか。
 今年になって、いくつかの電池を交換している。僕はいまだにMDウォークマンをFM電波で飛ばして車で聞いているので、まずこれが一か月ちょっとくらいだかで切れる。単三電池一本。時にはCDも聞くのだけれど、通勤で聞く程度でもそれくらいの頻度で交換しなくてはならない。
 置時計の電池も替えた。単四二本。これは電波時計。しかし事業所の部屋の配置関係のためなのか、いつも置いている場所では電波を拾えない。時々窓際においておくと、何やら表示点線のようなものが動き出し、自分で時刻を合わせている。けな気だ。壁掛けの電波時計は電波のアンテナ表示がいつもOKと出ている。これの電池は年に一回くらいではないか。記憶にないくらいあまり交換した覚えがない。これが単二二本だったかな。
 腕時計の電池は年に三回くらい替える。ボタン式のリチウムバッテリ、CR2430。この電池が売ってなくて、ネットでまとめ買いしている。しかしときどき電池の置き場所を忘れてしまって、また買ったりする。そういう訳でまだこの電池をたくさん持っている訳で、あと十年くらいは電池の心配がないはずだ。
 そうして万歩計が3,4か月に一回交換。CR2032。なぜ電池の持ちが一か月程度違うのかは謎だが、これがランダムに切れる。そういうのが分かるのは、僕がメモ魔だから。目安の時期に手帳に「そろそろ」などと書いてある。でもいつも切れてしまってから交換する。切れてしまった時間帯に歩いた歩数が記録されないのが口惜しいので、今度からは切れる前に交換するんだ、と交換したすぐには思う。そう思って手帳に予定時期を書く。その繰り返しである。こういうところの精神的なせこさが、自分でも好きではない。
 万歩計については、もう20年くらい三代にわたって同じものを使っていて、すでに生産中止なのだが、愛着があって変えてない。生産中止なのにネットでは売っているのである。メーカーではもう取り扱ってないのだが、販売店には在庫があるということなのだろうか。ともかくそうだけど、実は何度も別の万歩計に変えようとか、いっそのことアップルウォッチにして、総合的に記録を取るのも面白いかもしれないとずいぶん考えたこともある。しかしこれまでそうしてないのは、今まで記録されたものの蓄積と、この独立して万歩計という潔さのようなものが、考え方としていいというのがまずある。そうしてアップルウォッチだが、これが頻繁に充電する必要がありそうだというのが、なんとなくネックなのだ。携帯電話だって毎日充電しているのだから何の問題もないはずだが、万歩計機能を知りたい腕時計で何が悪いのか、自分でも自分自身に説明しづらい。けれど結局はそんなに魅力を感じないところなのである。基本は万歩計機能であって、あとの記録はプラスαだ。そのための数か月に一度の電池交換のわずらわしさの方が、やっぱり負担がぜんぜん軽いということなのだろうか。
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煮え切らない男とは付き合うな   ナラタージュ

2022-04-20 | 映画

ナラタージュ/行定勲監督

 原作小説があるらしい。基本的には映画化だが、いくらか違うところもあるのだそうだ。
 大学生の泉に、高校の演劇部の先生から電話がかかって来る。演劇部員が足りないので、助っ人で手伝ってほしいということだった。他にも数人呼びかけられた仲間たちが集まって、再び高校の演劇部の練習をすることになる。実は泉は演劇部の先生である葉山のことが好きで、葉山は事情があって妻とは離れて暮らしている。そうして二人は卒業式にキスを交わしていながら分かれていた。惹かれあっているものの妻とは別れられないらしい葉山への想いを持ちながら、やはり離れるべきだと考えていた泉は、同じく演劇の手伝いに来ていた小野から告白もされており、その感じの良さにそちらと付き合うことにするのだったが……。
 まあ、あまり好きになれない男ばかり出てくるのだが、そういう男を好きになってしまった女の不幸が描かれている作品かもしれない。何しろ事情があるだろうにしろ、妻とは別れられず、気持ちのはっきりしない先生はずる過ぎて、ひどいのではないか。相手は高校生の女の子なのに、キスして思わせぶりなまま別れてしまう。大学生になっても長く諦めきれない思いが残ってしまうのは、これは罪なことである。そういう思いが残りながら、好かれるのならば、ということで最初は優しそうな小野と付き合うが、この男は嫉妬に狂って妙なことになっていく。ある意味で当たり前だが、嫉妬後の行動はあまりよくない。これはやはり付き合っていけないだろう。
 しかしながらこの恋愛劇は、お互いの気持ちを確かめる言葉が少ないような気もした。言葉だけがすべてじゃないし、そういうことが分かればいいのだから、気持ちが確認できることが示唆さえすればいいのだが、それがあまりはっきりしない感じなのだ。だからこうなってしまうということなのかもしれないが、そこに恋愛としての相手に対する甘さのような、隙ができてしまうのではないか。そういうところがはっきりしないまま一方の気持ちの方が強くなってしまうと、必ず歪みが生まれていってしまう。そういうものが、さらに心を傷つけていくのではなかろうか。
 そういう話なのだ、ということであるならば、それは成功している。何かもやもやとしたものが残るのは、その所為だろう。美形の男たちを好きなるということがそういうことであるならば、それは仕方がないことなのだろうか。
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次の言葉は控えている(のかどうか)

2022-04-19 | ことば

 最近は何でもかんでもホームレスって単語に置き換えられていれば良いような風潮になっていて、テントのようなものを張っている人だとか、一応小屋のようなものを組んで住まいのようにしている人なんかも、おしなべてホームレスになってしまった。特にそれらの人からの抗議が無いのかもしれないが、何か勝手に気を使ってそういっているような感じもする。そういう気の使い方をして表現したものが、適当なのかどうかは、つまるところよく分からない。無難、というところなんだろうか。
 しかしまあそうなってからそれなりに長い時間が経過したにもかかわらず、やっぱりいまだに違和感をもってしまうのは、どうしたものだろう。ホームレスって言葉を使って、かえって馬鹿にしてるような気分を読み取ってしまうからではないか。
 もちろん以前はふつうに馬鹿にしても良い風潮があって、乞食だとか浮浪者だとかは、それなりの侮蔑の気持ちがこもった人が実際に使っていた。しかしながらそうだけれど、当時の爺さん婆さんのような人にとっては、そういう言葉しかなかったから、別段差別的な意味を伴わない単語としても使われていた。文脈とか語感から、そういうものは感じ取ることができて、ああ、何か事情があるにせよ、ある程度の困り具合と距離感が、そこには感じられるものだった。それ自体もあっさり否定してしまったようなホームレスは、ただ単に距離ができただけのような気がしないではない。そうしていずれはこの語感に差別感を嗅ぎだして、別のもの置き換わりはしていくのだろう。
 先にそういうことを別の機会に書いていて、そういえば別にルンペンってのも以前は普通に聞いたものだけどな、と思い出した。Lumpenと書くようだが、この度改めてドイツ語だと知った。ボロ切れなど意味らしくて、要するにそういうみすぼらしい服装というような見た目をさして使っていたのだろう。僕は田舎暮らしなので、そういう人のいない世界(要するに田舎では何のつながりのない本当の孤独な人は、道端などには居なかった。しかし本当に住居としてはどうなのか? という小屋に住んでいる怪しげなおじさんはいた。途中で役場の人などに連れていかれたのではないかと推測するが……、本当のことは今となっては知らない)に住んでいたので、読んでいる漫画などで存在を知っていたのだと思う。でもまあ公園で酔っぱらって寝ている人はたまに見ていて、今考えるとアル中とか精神系の人だったかもしれないな、とは思う。近寄ると怖そうなので、あまりかかわりを持ったことはなかったけど。
 それで何気なく類語の中に英語のloafer ってのを見つけた。ローファーって靴のローファーである。僕の通っていた高校の靴がそういう種類の奴だったので、何も考えてなかったけど、デッキシューズの上等な奴をそんな風に言うのかな、程度にしか思ってなかった。そんなことも知らずにこれまで生きてきたのか。というか調べろよ当時の俺! バカ。って感じっすかね。
 このローファーってのが紐靴でないから、怠け者、プー太郎、さぼり、浮浪者、といったような意味のようなのだ。これってカジュアルなニュアンスがあるんで、なんかホームレスってのよりいいんじゃなかろうか。まあ結局横文字に逃げてる感じは付きまとうけど、次の候補として控えていてもらおう。控えのまま出番ないかもしれないけれど……。
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青春と過去の影   アオハライド

2022-04-18 | 映画

アオハライド/三木孝浩監督

 原作の少女漫画があるようだ。女子の仲間から嫌われるのが怖いために、なんとなくガサツな性格を演出して学園生活を送っている女子(双葉)がいる。そこに中学時代に突然転校して会えなくなっていた田中君と出合う。田中君はずいぶん大人びているように見えて、さらに過去の田中君とはずいぶん違っている様子だ。田中君との付き合いの中、新しい友人も増え、双葉は自分の性格を取り戻していくが、いわゆる女子の仲間からは外されていくのだった。田中君との新たな付き合いを取り戻す中、田中君の空白の日々も徐々に明かされていくことになるのだった。
 まあ、少女漫画なんだよな、という展開。ものすごくいい男から好かれている反面、男には問題があって、その過去からも安易に逃れることができない境遇である。そこに新たな恋のライバルが現れたり、友情があったり、なかなかの青年に好かれたりする。純粋な思いは持ち続けているものの、影響を受けて心揺れ動くわけなのである。
 これでも若い頃なのだろうか? 東出昌大が出ていて、いくら何でも学生としては大人すぎるなあ、という感じ。でも男としてははっきりしなくていけ好かない奴だ。こういう人間は人類の敵かもしれない。
 まあ他にも高校生としてはどうかな、という人はいないではないが、おおむね青春時代なのかもしれない。今時の現役の人々のことは知りようがないけれど、役者さんたちが演じる学校生活というのは、あんまり勉強もしてないから(でも頭のいい人はいる)全体的にとても楽しそうである。
 主人公の女の子は、ヒロインだからみんなに好かれる自分である。ガサツで男の子には媚びないことで、グループの仲間でいられるという設定なんだけれど、当たり前だが女優さんの器量というものがあり、そういう立ち位置が難しい感じに思えるのである。これは仕方ないのにあえて言っているのであって、少女漫画のヒロインを実写でやる場合の大きなハードルのように思える。以前なら眼鏡をかけさせて、外すと「可愛い」というのができた。しかしこの子は最初からかなり活発で目立っていて、別段男子に媚びる必要なくモテる段階に立っている。いちおうお話の流れでお約束理解するより仕方ないところがあって、どうなんだろうな、という感じだろうか。かといって可愛くないヒロインに一番に感情移入などしない訳で、本当にこういうのは難しい問題のように思える。学園モノ以外はそんなに気にならないのに、どうしてそんなことを感じてしまうのだろうか。
 ということで、面白いが、期間限定かもしれない。
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日本の中で不幸になって日本人であること   JR上野駅公園口

2022-04-17 | 読書

JR上野駅公園口/柳美里著(河出文庫)

 前の東京オリンピックの前年から出稼ぎで東京に来ている男は、さまざまな困難に陥り上野駅周辺での路上や公園生活者となっていく。男を取り巻く周りの人間にも、個性的だが悲しい過去を背負った人がたくさんいる。男は奇しくも天皇と同じ年の同じ日に生まれた。息子も皇太子と同じ日に生まれている。偶然ではあるが、何か象徴的な運命めいたものを男は感じている。しかし息子は故郷で亡くなり、そして時を経て故郷の福島は震災に見舞われてしまうのである。
 上野公園周辺は天皇家の公式行事などが行われるたびに、いわゆる山狩りと言われるホームレス一掃活動(強制撤去)が行われる。公的で公共の場所に居座って生活している人々を排除するのも、行政などの立場からすると致し方ない面もあろうかと思うが、そういうタイミングで行われていることから、天皇に配慮して、いわば見えなくしているということも言える。また東京オリンピックなどの国際的なイベントが行われるようなときも、訪れる外国人を気にしてのことなのだろうか、やはり強制撤去が頻繁に行われるようになるという。そういう現実とを織り交ぜて、この小説はつむがれていると考えていいだろう。小説だがルポでもあるような、問題提起の物語なのかもしれない。
 話はずれるが、僕も中学生の時に初めて東京に遊びに来て上野へ行った。当時はぎりぎり70年代だったかもう80年代だったのかという感じで(中学何年生だったのか、どうしても思い出せないのだ。また、小学生だった可能性すらある。なぜだかその数年間で何度か東京大阪京都など、僕一人だけ連れて父は出張に出ていたようなのだ)、上野公園にはたくさんの浮浪者がいた。今でいうホームレスだが、当時は乞食とか浮浪者とか言っていた。物貰いをする人もいたが、多くはただ佇んでいたり寝てたりごみをあさったりしてたので、浮浪者というかんじだっただろうか。正直言って最初に見た時は驚いたが、じっと見ていても何をするわけでもないし、僕の方がむしろ無視されていた。この人たちはなんだろう?と父に聞いたかもしれないが「いわゆるルンペンだな」と父は言ったような気がする。ルンペンってなんだ? と聞くと、まあボロを着てるって意味かもしれんな、という感じだった。そうしてそれらは後にふさわしい言葉ではないとされ、ブルーシートや小屋などに住んでいる人もいるにもかかわらずホームレスと言われるようになった。後の時代にまた不適当だということになると思われるのだが、まだ一時はホームレスということになるんだろう。
 という訳で、おそらく今も上野公園にはたくさんの人がそのように暮らしているのかもしれない。東京は許容の街であり、行き倒れの人が必ずしもいないわけではなかろうけど、そうやっていても暮らしていける人を抱えることができるという考えもできる。田舎はそういうことを許さないだろうから、居ないだけのことかもしれないが。
 ということで、天皇制の直接的な批判という訳ではなかろうが、日本人として生きていることと、このような裏に潜んで暮らしていかなければならなくなった人々のことを、かなり痛烈に浮き彫りにした見事さのある小説になっている。そんなに気負わずに読んでいたが、何か凄みのある小説を読んだなあ、という不思議な感慨を得ることができたのだった。
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優しいのかいいかげんなのか分かりにくい人々   そして人生はつづく

2022-04-16 | 映画

そして人生はつづく/アッバス・キアロスタミ監督

 3000人が死んだと言われる1990年のイラン地震のあと、キアロスタミ監督自身が、自分の映画に出てくれた少年たちの安否を尋ねて回ったことがあるらしい。その体験をセミ・ドキュメンタリーのような感じで、映画として撮り直した作品だそうだ。主役の監督役は普通の役人さんだというし、もともとこの監督の役者さんたちは普通の人々みたいな人が多くて、一応大まかな科白はあるのだろうが、その時のことを自分の言葉で語らせているような雰囲気がある。実際には震災後にしばらくして映画にしているのだろうから、復興風景としての演技はありそうだ。それにしても荒廃した風景が続き、人々はがれきの片付けなどに忙しい。崩れた商店の軒先には、壊れた冷蔵ショーケースの中にぬるいコーラが売られていたりする。
 映画は淡々とそんな風景の中の小学生低学年くらいの息子と、運転をする監督の何気ない会話を映している。大渋滞がから抜けると、やっと目的の村の付近らしいところまでやって来る。そこで休憩しながら、被災した人々の生の話に耳を傾けることになるのだった。
 はっきり言ってよく分からない内容だが、あんまり明確に意図を語るものではないし、そもそも物語の説明を放棄している作品かもしれない。ひどい震災の後、たくさんの人々は死に、そうして甚大なる被害の前に、人間は何もなすすべはなかった。神様の論議もあるが、大人たちは割合に冷ややかかもしれない。むしろ生き残った人々は、現実は現実として、今生きていることと、これから生きていこうとすることに前向きなように見える。ちょうどワールドカップが開催されていて、家もなくテント暮らしなのに、誰かがアンテナを高台に引いて、みんなでテレビ中継を楽しもうともしている。食べるものもろくにないのに、あっけらかんとした明るさのようなものが、そこには見える気がする。
 彼の作った他の映画との関連で、場面場面においては、また別の意味を読み取ることも可能なようだ。ずいぶん前に彼のほかの作品は見ているが、それに比べると、事情もあってのことだろうとは思うが、ストーリー性は乏しい。もともとそんな作風だとしても、まあ、キアロスタミ監督なんだし、仕方ないよな、ということだろうか。
 楽しい映画ではないし、キアロスタミ作品を知らない人にはハードルが高いとも思われる。これはいったい何なの? 今時のドキュメンタリーだって、もう少し詳しい説明的な視点を入れるんじゃないの? と思われたのではないか。しかしこれが、この監督さんの作風なんですよ、としか言いようが無い。そうして、なんとなく、そういう感じでいいのである。ご了承ください。
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