カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あまりにもひどい暴力と復讐劇   ナイチンゲール

2024-02-29 | 映画

ナイチンゲール/ジェニファー・ケント監督

 夫と赤ん坊を殺された上に、本人は強姦され殴って殺されたと思われた女性は、実はなんとか死を免れていた。あまりのことに復讐を誓い、アボリジニのガイドを雇って、この卑劣な軍人を追って山に入るのだった。
 どうも映画のテーマは、オーストラリアのアボリジニの迫害について描きたかったようだ。胸糞が悪くなるような暴力の数々が、単に人間を貶めるためだけに行われる。そういうことを行ってきた英国人の歴史を暴く、ということなのだろうか。差別意識があって人を殺すという実情が、こういうことなのだろうか。とにかく平然と差別的に、時には無差別に、そして唐突で気まぐれな暴力と殺人描写に、ちょっと唖然とする思いで映画を観ることになる。相手を殺すだけの復讐劇で、本当にいいのだろうか。もっと復讐として、残酷にこれらの蛮行を行った人々は殺されなければならないのではないだろうか。そういう精神的な葛藤を抱えながら、被害者の救済を待つのだった。
 愛する夫を目の前で無残に殺され、赤ちゃんが泣いてうるさいから、振り回されて壁にたたきつけられ殺される。自らは乱暴に後ろから犯されて、殴打されて気絶する(彼らは殺したと思っていたが)。復讐心に燃えるのは当たり前である。しかし相手は軍人で、やはり銃をもって戦うよりほかに無さそうだ。ガイドは差別されているアボリジニの青年で、しかし後々分かっていくが、仲間が次々に白人に殺されて、内面では反抗心を持っている。さらにアボリジニの一族でも、誇りをもって戦う部族の青年である。また、地理にも当然強く、白人に支配されている地域は、もともとアボリジニの住んでいたものなのである。
 やっと復讐のチャンスを迎えるが、女は意外な行動を取って、物語は一見どうなるか分からなくなる。そこからなんだかわからないが詩的な感じにもなり、歴史の哀しさが増す。まったく妙な映画である。白人にもわかっている人間は居て、しかし彼らを助けることはできない、ということなのかもしれない。
 変な映画だけれど、賞を取ったりして、妙に感心させられるところがあるのかもしれない。確かにオーストラリアの負の歴史を知るということはできるのだが、そういう悪い個人がいたかもしれない、ということのようにも感じられる。こんな変な人が軍人としてのし上がること自体が、組織としての腐敗であろう。身分制度というのは、西洋も日本も、同じように残酷であるということはよく分かるのではあるが……。
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困惑のはた迷惑   逃げた女

2024-02-28 | 映画

逃げた女/サン・ホンス監督

 まあはっきりいうと、映画的にはたいした作品ではない。なんだろうな、これは? と言ってしまっていいかもしれない。しかし本編はものすごく評判がいい。そういうのはなぜかという事を、考えなくてはならないのかもしれない。要するに、思わせぶりで、そういうことに頭を悩ませたい人には、ある程度の感慨がある作品だという事だ。普通の人、もしくはある程度考え方のわかる人には、これは素直に駄目な映画だという事が分かる。ある程度分からないのならともかく、これではいい感じに撮ろうと思っている作意が見え見えなのである。もう少し考えてくれたら、名作になるかもしれなかったのに……。
 簡単に行ってしまうと「王様は裸じゃないか」ということなのだ。僕はそれを言えるが、言えない人が一定以上いるという事なのかもしれない。それが現状だから、こういう映画が存在できる。かなりひどい出来栄えだが、それでも思わせぶりなのである。意味なんてほとんどないが、予算のせいでこうなったのかもしれない。しかし、何かの権力なのか政治力なのかがあるのかまでは、知らない。こうした映画がつくられて、一定の流通にのる。それは自由世界なのでいいのだけれど、つまらないものの時間の再生産をするだけのことであって、有害なのである。目が覚めて欲しいけれど、ちょっと浮ついたような一定の人々には、とてもその意味すら理解できないことであろう。
 まあしかし、僕自身は、これはそれなりに不機嫌になりつつも、一応は最後まで観てしまった。思わせぶりだけれど、必ずしも謎の修練は無いにしろ、それがキーになっていることは分かる。小津の映画など、日本にもたいしたドラマ性の無い名作はある。あれはあれでいいのだから、皆は認めてみたはずである。まあ、超娯楽作品を期待した当時の一般の人は、多少は迷惑したとは思われるけれど、なんとなく感慨深いものがあったはずだ。もうほとんどの人は死んでしまったことだろうけど。僕らの青春に、そういう不幸を増やす必要はないのである。でもまあ、恐れ多くも、これがそんなような作品になることは無い訳で、ただ単に同じ時代に生まれてきてしまって、運が悪かったのか、はたまた良かったのか、困惑するよりないのかもしれない。
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保護したけど誘拐犯。被害者なのに人を傷つけること   流浪の月

2024-02-27 | 映画

流浪の月/李相日監督

 原作小説があるらしい。映画がどの程度原作通りなのかは知らない。
 公園で雨に濡れたままの少女と出合い、家に帰りたくないというのでそのまま保護というか連れ帰り、しばらくともに暮らしていたが、結局誘拐として捕まってしまった大学生がいた。時は流れ誘拐された少女は大人になり、付き合っている男とも結婚間近の様子である。結婚相手は過剰に束縛する傾向があり、女はそれを嫌ではあるが、愛の一種として受け入れていた。時には暴力に及んだとしても。ところが元誘拐犯は、近所でしゃれたカフェを営んでいて、偶然女は立ち寄り、再会してしまうことになる。男には既に付き合っている大人の女性がいて、立場上なのか無視しているが、元少女の女は、しだいに元誘拐犯の男に近づいて行って……。
 少女を事実上誘拐したことになっている男は、ロリコンのためにそうしていたらしいことは、科白等の関係で示唆されている。しかし現在付き合っている女性とは、性的な関係を結んでいないことも後に分かる。一方の誘拐された女は、家庭に事情があり性的な虐待を受けていたために、それから逃れたいがために、その時は男に保護(誘拐)されていたのであった。その後もその心の傷の為か、男性と付き合いこそすれ、性的な関係は、どうしても嫌々で仕方なくなのであった。さらに暴力的な男との付き合いを、余儀なくされている(運のようなものか)。要するに流されて、何も抵抗できない。実はそんなに好きでさえなく、求められているから応えようとしている、受け身だけの心情なのだった。
 見ていて、そういう設定に多少イライラさせられる。僕は何度も書いているが、基本的に人間的なバカは嫌いなのである。設定には心の傷があって逆らえないことは示唆されているが、被害を受けるのは気の毒なことだと同情はするものの、その被害を受けているにもかかわらず、それを助長するような事ばかりして、脇が甘い。結局多くの人を巻き込んで、傷つけているようなものである。ある程度分かりやすい演出が必要だったのかもしれないが、もう少し仕方なさのような、罠のようなものに引っかからないといけないような気分がしていた。男の方も最後に明かされる事実を考えると、仕方ない面もあるようにも思うのだが、それでもやはり、これだけ長く付き合う人には、どこかで打ち明けるべきだろう。それができないから物語になっているとはいえ、人間的にはそのために、他の人を傷つけすぎているようにも感じられる。そのような加害者であることでの罪深さが、このような悲劇を生んでいるのかもしれないが……。

 ※ ぜんぶは観ていないが、特典映像でカットされた場面などの解説を交えたものがある。これはまた別に論じられなければならないものだが、映画は実は撮られた映像を、監督以外の人間が、どのようにカットするかでかなり意味を変えてしまう作品なのである。監督にはそれを撮った思い入れが強すぎて、自分でカットすると名作にはなりにくい、と言われている。そういうことを考えるには、いい資料と言えるかもしれない。
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押さえられない感情の恐ろしさ   二日月

2024-02-26 | 読書

二日月/山岸涼子著(潮出版社)

 短編集の8作目らしい。というか、この出版社での取りまとめということか。もうずいぶん前になるけど、文庫版の1、2作は読んだと思う。当時何故か恐怖漫画にハマっていて、それで読んだのだと思う。山岸涼子は怖いのである。今作品集は、いわゆる純粋にホラーでは無いのかもしれないが、しかしやはりかなり怖い内容だ。女の情念に満ちていて、それをある意味素直にあらわしているということなのかもしれない。恋愛はあるが、相手のことというよりも、ほとんどがそれを見て感じている自分自身のことだ。そうであるのに、なんだか凄まじいことになっている。それは人間の感情として素直なものなのかもしれないが、その素直さというものが、邪悪に満ちているというか……。そうしてなんだかやはり、ハッピーにはなりえない感じが残るのである。
 男も嫉妬しないわけでは無いが、こういう漫画でみる限り、女の嫉妬というものとは、なんとなく違う感じもする。いや、基本的に同じはずなのに、違うように感じられる。ともに嫉妬とは恐ろしい感情だとあらためて感じさせられるが、その個人的な苦しみのようなものが、より深く根深い。時には死んだ後にまで続いていたりする。そんなことはありえないはずだとは分かっていながらも、あり得ることもあるのかもしれない。実際にそういう事があるということを、この漫画で知るはずである。フィクションだが、それは事実なのだ。そうでなければこの恐ろしさが、本当に伝わるはずが無い。読んでいて本当に怖くなるのは、そういう感情に届くものがあるからである。
 短編なので、それぞれの話は独立している。まったく違う話でありながら、なにかそれぞれが、共通して共鳴しているようなものを感じる。それは女としての情念であり、激しい感情である。表面的にはおとなしくふるまっている人にも、心の中にはそのような葛藤がある。そんなことはひどく当たり前なのだが、その当たり前を、普段はあまり意識していない。そうしてそう簡単には分かりようがない。山岸涼子の漫画を読んでいると、そのような意識していなかった当たり前を、強烈に意識せざるを得なくなる。そういうあたりが、本当に上手い作家性ということになるだろう。恐ろしいけれど、みるのをやめられない。そういう自分に気づいて、余韻の残る作品集である。
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一途な愛はファンタジー   愛なのに

2024-02-25 | 映画

愛なのに/城定秀夫監督

 若い男が店主をやっている古本屋に通う女子高生が、万引きの振りをする。捕まえられて名前を書かされるのだが、それは店主に自分の名前を知ってもらうためだったという事が分かる。その上に、手紙を渡して求婚までしてくる。女子高生に求婚されて戸惑いまくることになるが、彼女は案外平気で真剣なようで、手紙は増えていき、常連として本屋に居座る。しかし彼女を好きな男子高生もいて、彼女が好きだという古本屋の店主が許せず、ぶんなぐってしまうのだった。
 一方古本屋店主の男は以前好きだった女にフラれており、その子は今度結婚することになっていた。しかしその結婚相手は、結婚式場の結婚プランナーの女と寝ているのだった。繰り返し情事を繰り返し、体の関係を諦められない様子だ。そのうち浮気がバレ(その相手は、嘘をついてプランナーとは別の人ではあるが)、妻候補は激しく動揺し、自分も同じように浮気をして、その気持ちを理解した上に、二人がやり直すチャンスを作ろうと目論見るのだったが、その相手が他ならぬ、以前告白してきた古本屋店主なのだった……。
 なんでそうなるのか、というのは多少理解に苦しむが、思考実験的にはアリである。ふつうの中年に差し掛かる青年は、何もしないのに女子高生に激しく愛されたりしないし、将来の夫が浮気したのはショックだとは分かるが、その為に自分を好きだった過去の男とセックスしたりはしない(たぶん)。ちょっと感情がずれた先に傷みがあって、それは要するに傷つけられるのである。結局昔自分を好きだった男に抱かれることで、あることが分かることにはなる訳だが……(しかしそんな理由ってあるんだろうか?)。
 未成年者と性交をすると、たとえ同意の上だとはいえ、淫行などの罪なるらしいが、この話では性交にまで至らない。そもそも相手もそれは望んでいない様子だし、そういう感じで相手をしているわけではない。むしろ拒否していたのだが、繰り返し告白を続けられ、いわばほだされていくことになる。その先にも落とし穴は待ってはいるが、男がこれをやるとさすがに問題がありそうだが、女子高生なので許されているのではないか。まあ、思考実験ではあるけれど。もっとも男たちの多くは、こんな感じの押しかけ女房を理想としているのではないかとも考えてしまった。いろいろ振り回されるかもしれないが、なかなかにいい気分じゃないか。
 そういう訳で、妙な展開は多いけど、設定としては楽しめる構成の勝利、という恋愛コメディとなっている。「猫は逃げた」と連続で観たので、さらに面白さが倍増した。ただし、セックス場面は多いので、親とは一緒に観ないようにしましょう(僕くらいのものだろうけど)。
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人生にモテキはつきものか   モテキ

2024-02-24 | 映画

モテキ/大根仁監督

 原作漫画がある。テレビドラマ化もされているらしい。実は本棚を見ると、僕もこの漫画は持っている(未読)。なんか激しいオタクの男が描かれていて、苦手だと思って読んでなかったようだ(じゃあなんで買ったのか、はミステリです)。
 モテない自意識過剰のサブカルオタク系の独身男性が、どういう訳か普段はとても相手にさえしてくれないような美女と、なんだかいい関係になったような感じになって、自意識が爆発して、しかしうまく行かないようなことがあると、自責の念とともに羞恥心にさいなまれる展開のコメディである。映画では、一人だけ性交渉を結ぶ(この女性はなんだかかわいそうである。麻生久美子が演じているけれど)ものの、後はチューのみで妄想が続くので、そういうのを笑ってしまおうという訳だ。森山未來が眼鏡をかけてオーバーアクトで演じているものの、彼は個性的だがそんなにブ男ではないし、そんなにオタクっぽくも無いので、なんだかそうかな? という気もしないではない。コメディなんで気にしてはいけないのだろうけど。
 確かに男視点で一方的に女性を見ている感じがあって、長澤まさみ演じているヒロインは、オタクが好む可愛い女性の典型のようにも感じられる。こういうのは女性であるけれど二次元的で、なんだか女性ですらないような感覚が僕にはあるが、そういうあり得無さが、この物語を一貫して貫いている。サブカルとしての挿入歌がミュージカルにもなっていて、なるほどその時代はそんな感じか、とも思うのだった。
 モテキが来るのにも、それなりの理由が必要そうな気もする。もちろん偶然が重なってそうなってしまうような恋愛があってもいいけれど、勘違いかもしれなくても、それをどうするのか、というのが実際の面白さだろう。恋愛には多かれ少なかれそういうドラマを内包しているはずで、たとえそれが見合いであったとしても、二人にはドラマが生まれるのである。もっとも自意識の過剰な、それでありながら性的にも満たされない男性にとっては、魅力的な女性を前に、さらに過剰な精神になるのは当然である。うまく乗り切れない若者がいたとしても、何にも不思議など無い。でもまあそういってしまうと、やっぱりドラマにならないのかもしれないですけど……。
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いわゆるダブル不倫の行方   猫は逃げた

2024-02-23 | 映画

猫は逃げた/今泉力哉監督

 倦怠期というか、離婚の危機を迎えている夫婦がいる。夫も妻も共に不倫をしていて、それぞれの愛人との関係も悪く無い訳だが、夫の不倫相手は、妻とちゃんと離婚をしてもらいたいと考えて、秘策に出ることになる。だいたい雑誌でスクープ写真を撮るのが専門の人のようで、そのようにスキャンダルを暴くのが得意なのだ。しかしその目論見を、漫画家をやっている妻の編集者兼愛人にみつかり、不思議な共犯関係になっていくのだった。
 夫の不倫の腹いせに妻が浮気をするという話はありふれているが、しかしこれらの関係は、割合にバランスよく上手く行っている。ただし最後にはそれなりの修羅場があるのだけれど、そういうところも妙な居心地の悪さがあるものの、ちゃんとしたコメディになっている。そもそも演出そのものが、ゆるいけれどコメディなのは分かるようになっていて、セックスシーンはリアルなのでポルノチックではあるものの(だから僕は老齢の母親とこれを観ていて、何度も見るのを中断せざるを得なかった。だって恥ずかしいじゃないですか)、なんだそんな風になるんだ、と笑いながら感心してしまった。深刻なところはあるのだけれど、男女の関係というのは、まあ、そういう風にゆるくやってもらうと助かることはあるかもしれない(男視点だけれど)。もちろん女性としてこれでいいのか分からないので、そう思ってしまうのかもしれないが、なんとこれがハッピーエンドになってしまうのだから、凄いと言えば凄いことなのである。
 ところで猫なのだが、猫がいなくなって、二人にとっては絆の象徴である存在なので、戻らなければ破綻するということと、戻って来てもどちらに親権があるのか、という問題がある。確かにそうなのかもしれないとも思うが、やはり猫である。ここではいなくなった明確な理由があって、そういう考えに必ずしも沿えないが、やはり結末への理由にはなっているかもしれない。ここを許せるかどうかで、ちょっとした感情の思い入れに対して、この人たちの行方に納得するかどうか、違いが出るかもしれない。少なくとも僕は、なんとなく許しがたい気もしたけれど、どうなんでしょう。それはそれで一途な思いとして、許してしまうのだろうか。まあ、面白い仕掛けや考え方ではあったのだけれど。
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運命は遺伝するか   運命

2024-02-22 | 読書

運命/国木田独歩著(岩波文庫)

 著者が一躍注目を集めることになった短編集。とはいえずいぶん古い話なのだが、独歩が数え年36歳の時出た作品集で、二年後に亡くなるのだから晩年の作という。明治の人の文章なので老齢の人が書いたと言われれば、そうかもしれないと感じられるほど熟達の名文という感じである。一行一行がこなれているうえに、なにか神々しくも格調が高い。それでいて特段かしこまらず平易に書かれていることも見て取れて、現代人でも難なく読める。そうでありながら、やはり現代人には書けない名文であることはすぐに理解できるだろう。何しろ詩的な味わいがあって、何の気なく物語があり、しかしそれなりに意外性もある。日本語の文章というのは、このような美しさがあるのだと、改めて心打たれるのではあるまいか。
 短編集なのでそれぞれ物語に違いがあって、当然ながら内容も違う。しかし「馬上の友」「画の悲しみ」は少年の友情もので、深い感動を覚える。おそらくその為に、多く人が推薦する名短編と謳われているのだろう。「運命論者」は妙な味わいがあり、さらに「酒中日記」は恐ろしい話だ。漱石が絶賛したという「巡査」は、読んでみるとそれほどかな、という疑問も無いでは無いが、なにか落語的なユーモアがある。そうして最後の「日の出」に至っては、全国の小中学生はもちろん、志を持とうと考えるすべての人の必読の物語では無いか、と思わせられる。これを読んだら、早起きをしたくなる人が続出するに違いない。
 また、この文庫には宗像和重という人が解説を書いているが、これを読めばだいたいの独歩の事とか時代背景なども存分に理解できる。特にネタばらしがある訳でもないので、先に読んでも差し支えないだろう。
 今の自分の視点から独歩を思うと、はるかに年齢が下であり、しかしどこか不運がにじんでいて、早世した儚さがある。また生きているときには、たいして儲かってもいなかったかもしれない。死後に名声を得たとして、それがいったい何になるのか。まあ、これを読む側の人間としては、こういうものが残っていることに多少に意味はあろうが。ゴッホなどは生きているときに一枚の絵も売れなかったのだから、それを思うといくぶんましという事か。そんな余分なことを考えている俗な自分の事の方が、問題であるには違いないが……。
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やはり許してしまうのである   パディントン2

2024-02-21 | 映画

パディントン2/ポール・キング監督

 2がついていることからも分かるように、熊物語続編。古美術屋で飛び出す絵本を見つけ、100歳の誕生日を迎えるおばさんにその面白い絵本を買ってやろうと考えたパディントンだったが、何せ少しばかり高価な本らしく、買うためにいろいろと仕事をやってお金を稼せごうと悪戦苦闘することになる。ところがある日、この絵本を謎の泥棒が奪ってしまう。パディントンは泥棒を追いかけて捕まえようとしていたのに、濡れぎぬを着せられて警察に捕まり、盗んだ絵本が見つからないまま、実刑を喰らうことになるのだった。
 丁寧な言葉遣いをする割りには、相手にひどいことをしてしまう熊のパディントンの冒険活劇コメディである。記録を読んでみると、前作ではあんまり気に食わなかったようなことを書いている僕であるが、最近観たマッシブ・タレントの中でニコラス・ケイジがやたらにこの映画を観てうっとりしているので、まあ、続編なら観てもいいか、と思った訳だ。
 そうして前作とは、実はそんなに違わない演出(監督さんが同じだし)にもかかわらず、確かにこういう調子にノッてみている分には、だんだんとその楽しさが分かって来る映画ではあった。こういう世界観は、なかなかに難しいものがあるのは分かるけれど、しかしそういう世界観なんだから仕方ないじゃないか、と達観してみると、いわゆる英国的なユーモア満載の展開と言えるかもしれない。ちょっと下品で行き過ぎてるくせに、そういうブラックなところを受け入れることができる寛容さと大人ぶった態度の加減が、英国文化なのだ。ビートルズなんかもそんなところがあって、アメリカ人をはじめ諸外国の人は、そんなふざけた若者に魅了されたのかもしれなくて、もともと変なことを言う人々ばかりの集団にあって、更にさらりと羽目を外してしまう笑いを楽しむ映画なのだろう。それも児童文学的に、というおまけつきである。
 刑務所に捕まってからこわもての受刑者の中にあって、熊の魅力で皆の信頼を勝ち取る展開から脱獄を果たすわけだが、そういうあたりに英国的な精神性の豊かさのようなものが見て取れて、妙に感心しつつも面白いものだな、と思う。ひどい事ばかりしているのに、皆はそれを許さざるを得ないのである。何しろ相手は熊で、最初は皆怒っているのだが、認めてしまう訳だ。熊であることは、純粋さと才能を兼ね備えているのである。
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身分は違っても情事はできる   帰らない日曜日

2024-02-20 | 映画

帰らない日曜日/エヴァ・ユッソン監督

 住み込みメイドの年に一回の休みの日があって、その日は雇い主の家に気兼ねなく自由なのだが(それでも朝の給仕を済ませてからのものである)、ジェーンは天涯孤独の孤児で、帰る家が無い。読書でもして自由に過ごすつもりだったが、近所の富豪の息子に呼び出されて、逢瀬で情事にふけることになる。しかしながらこの富豪の青年は、既に結婚と見合いをすることになっていたのだった。そうしてそれだけでなく、悲劇に襲われることにもなるのだった。
 映像美の世界と、何やら文学的な情景を楽しむ演出らしい。基本的には男女の性愛の物語というか、単に隠れてセックスをしたというお話かもしれないが……。時代背景もあり、身分違いの情愛を描いているともいえる。だから悲惨だという事でもなくて、富豪の家で、隠れて自由にふるまって、裸でウロウロしたりする。いちおう日本の検閲があるので、下半身にぼかしがあるのだが、男性のペニスも写っているし、文芸ポルノのような鑑賞方法も可能かもしれない。しかしながら、実のところそんなにエロ映画ではないので、中学生ならともかく、そこまで緊張してみる必要は無いだろう。そんな注意が必要でさえないかもしれないが。
 どうも今は作家になっている老女の若い頃の回想録のようである。若い頃は孤児で貧乏でメイドをしていたが、今は作家として活躍している。しかしながらその若いころの体験が、忘れがたく運命的なものだったということなのかもしれない。実際その一日に影響があったとはいえるだろうけど。
 金持ちだろうけど、にやにやしてタバコばかり吸っている青年のどこに惹かれたのかはよく分からないし、ほとんど遊びに行っていきなりというか、そのままセックスしてしまうのはどうかと思う。その後もその家でウロウロして準備してある食事をつまんだりする。隠れたあり得ない逢瀬の、禁断の一日の顛末ということなのだろう。面白くないわけではないけれど、そういう身分の違う恋なのか、遊びなのか結局よく分からないのだった。
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それでも雨は降らない   渇きと偽り

2024-02-19 | 映画

渇きと偽り/ロバート・コノリー監督

 ベストセラー小説の映画化だという。オーストラリア映画で、まさに彼の地の渇きの大地が舞台になっている。
 干ばつが続いて乾ききっているまちで、作物は不作になり人々は苦しんでいた。そういう中で一家心中したのではないかと思われる男の友人だった警官が、葬式にやって来る。彼は元々この町の出身で、やはり同級生の女の子の謎の死をめぐって20年もまちを離れたままでいたのだった。親友だった男の父親から、なにか引っかかりのあるこの事件を解いてくれと頼まれ、周辺の事情を洗っていくのだったが、もともと20年前の事件も絡んで、街の人々は刑事に対して、必ずしも友好的でないのだった。
 刑事の男は、過去に死んでしまった同級生に恋心を抱いていた。彼らは男女4人組の親密な友人同士で、それぞれが付き合っているというより、互いに親密としか言いようが無かった。しかしながら女の子の死をめぐって、仲間同士は互いをかばって偽証を続け、男は結果的に父親とともにまちを離れたという事情があった。さらに今回亡くなった親友の死についても、一家心中するほどの苦しい財政事情とも考えられない。そうではあるが、彼の一家も交えて殺さなければならない理由ある人間は、まるで見つからない。ちょっとした事情で疑わしいのは、あるいは当時から親密な4人組のもう一人のシングルマザーの女性かもしれない。久しぶりに再会してみると、当時のまま、親密な空気がながれていて、当然当時の事件のことも、フラッシュバックして蘇ってくるのだった。
 記憶の断片をたぐっても、どうしても当時の不可解さを解くことはできない。さらに今直面している事件も、到底納得できない。葬儀に出席するだけのことが、長期休暇を取ることになり、まちの人間から嫌われながらも、まちにとどまり続けている。それでどうなることかも、分からないままなのである。
 不思議な時間の流れがあって、保守的でずいぶん昔に追い出された人間に対しても敵意をむき出しにしている人々の中に、居心地が悪いまま過ごしている。しかし何もわからないまま、このまちを後にすることさえできないのだ。そうして唯一残った親友ともいえる女性とも、とうとう喧嘩別れしてしまうことになる。もっともこれが事件解決の糸口にもなるのだけれど。
 不思議な時間感覚と、渇きの大地の保守的なオーストラリア人の感覚を味わう映画と言えるかもしれない。いちおう全部謎解きはできるので、そういう意味ではすっきりするかもしれないが、余韻が引っかかるのも間違いない。ちょっと悲しすぎるかもしれないし……。
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皆でゾウ使いになろう   心のゾウを動かす方法

2024-02-18 | 読書

心のゾウを動かす方法/竹林正樹著(扶桑社)

 ナッジというのは、肘でつつくという感じのものだのだという。わかりにくいかもしれないが、おい、お前の番だよ、とか、やってみろよ、という感じの誘導をあたえるものかもしれない。そういう風にして促されると、行動に移せる場合がある。それもそもそも自分がやろうと思っていることであっても、そのような促しがあってこそ動けるという人の方が、むしろ多数かもしれない。自分の望んでいる行動でさえ自分の促しの仕掛けが必要だとしたら、そうした促しの方法を使って、自分をもっと簡単にコントロールできるようになるかもしれないではないか。そういう事に気づいてもらうために、ナッジの仕組みを知るのは悪く無い。
 そもそもやろうと思っていることをそのままやれたとしたら、ずぼらな人間などいなくなるし、皆勤勉になって、誰もが成功者になっていることだろう。ダイエットは成功し、禁煙も成功し、医療費は削減されているかもしれない。しかし現実はそうなっていない。すべての行動がナッジによって動かされているわけでは無いが、まだまだナッジの働きが生かされていない分野はたくさんあることだろう。そうではあるが、少なからぬ人々は、知らず知らずにナッジに従っているかもしれない。自分自身もそうだろうし、好ましく人を動かしたい場合も、ナッジを有効に使いながら生活に生かしていく方が、断然面白くなりそうなのだ。
 アイディアとしては、それなりの驚きの発見もあるのかもしれないが、基本的には順序だてて考えていって、人の意見を取り入れて行けさえすれば、誰でもできる事ばかりである。ちょっとしたヒントやコツは必要だけど、それは本書を読むべし、である。目から鱗が落ちるというよりも、自分の思っていることの確認であるかもしれない。しかし人間というのは、自分のことが分かっていそうであっても、実際には本当にはわかり得ていない。これを読んでいて感じたことは、まさにそのような自分だったかもしれない。そうしてそのような自分自身を見直して、自分にナッジをかけてみたくなる。何しろ自分自身のゾウこそが、本当の自分自身の姿なのであるから。
 全体において数パーセントの変化に過ぎないものかもしれないが、それでもそれだけの変化をもたらすことで、世の中はだいぶ変わっていくかもしれない。既に世の中には多くのナッジが潜んでいる。確かに悪意のあるものだってある訳だけれど、それを知っていれば防げるかもしれない。基本本書では悪意のあるものはナッジとは呼んでいないが、促されるヒントにおいては、利用はされているはずである。そのような賢さは、自分自身で磨く必要がある。是非とも面白がりながら、新しいナッジを発見していこうではないか。
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部屋のカーテンはしましょう   仕立て屋の恋

2024-02-17 | 映画

仕立て屋の恋/パトリス・ルコント監督

 フランス映画。原作小説があるという。子供にも馬鹿にされ、友達もなく人に好かれない頭の禿げた男が仕立て屋で、その腕は悪くなさそうだが、孤独である。彼は夜に電気もつけずに音楽を聴きながら、とおり向かいの高層アパートに住む女の部屋を覗いている。女の着替えなどはもちろん、その私生活をほとんど知っていると言っていい。ある日女の恋人が、血の付いた衣服を持って帰ってきた晩のことをも当然見ていて……。
 少女が殺された事件を追って、刑事はずっと仕立て屋の男を疑っている。彼は前科もあり、いわゆる変質者めいている。どこか潔癖なところがありながら、女に好かれない自分を嫌悪しており、確かに一種の異常性があることも、映画を観ているものには分かる。しかしながら男は、向かいに住む若い女が好きなので、事件の真相を明かすつもりは無いし、覗きがバレてしまっても、そのまま女が近づいてくることで、自分の思いを遂げようと考えていることが後に分かっていく。
 まあ、形骸化されたというか、いわゆるステレオタイプの気持ちの悪い男が、女に好かれるはずのない行動を取りながら、しかし女の愛を勝ち取ろうとしていくことになる。事件の絡みがあるので、それなりに有利性もあると言える。もちろん、映画的な仕掛けもあるので、それらの駆け引きを観ながら結末へと展開していくわけだ。
 やや極端な人物造詣ながら、考えてみると、皆なんだか善人とはいえない人ばかり、という感じだ。フランス人がそうなのか分からないが、男以外の人たちだって、十分に変なのではないか。女の恋人は論外にしろ、刑事の捜査も疑問があるし、女自体が怪しすぎてどうにも、という感じがした。まあ、自分の好みを混同してはならないが、自分の行動をさておいて、抗えなくなるように誘導されてどうするんだ、って感じかもしれない。それが無いと物語は面白くならないのだが……。
 フランス映画全体に言えることだが、彼らは極端にスケベな人々なのであった。
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彼女が本当に壊したかったものは?   ペトルーニャに祝福を

2024-02-16 | 映画

ペトルーニャに祝福を/テオナ・ストゥルガル・ミテフルカ監督

 北マケドニアで親と同居している独身32歳のペトルーニャは、おばさんの紹介である縫製工場の秘書の仕事を求めて、面接に行く。大学は出たがずっと定職には就けず、アルバイト(ウェイトレスなど)をたまにやる程度だったようだ。少しきれいな服を着て面接に臨むが、その工場の人事担当の男は妙なやつで、小太りで仕事の経験もなく容姿も今一つのペトルーニャをあからさまに馬鹿にし、欲情するような女でさえないとささやきながら、スカートの下に手を伸ばしてきたりする。いい女じゃないからそれくらいするようでないと採用しない、という意味なのだろう。当たり前だが、ペトルーニャは拒否し、出ていく。怒りもあるし、自分の置かれている境遇のあまりの不遇さに頭が混乱してしまったペトルーニャは、ちょうどまちの宗教的な祭りに遭遇する。その祭りは、男たちだけが競って、主教様が川に投げ入れた十字架を奪い合う、という儀式を行うものだった。どさくさに紛れて、その場面に成り行きで混ざりこんでしまうペトルーニャは、そうして十字架が川に投げ入れられたちょうどいい場所の近くに居た。とっさに川に飛び込み、男たちが奪い合う間をかすめ、十字架を手に取ることに成功する。それは多くの観客の見守る中で起こった事実で、あくまでもルールは最初に手にした人に、その十字架の権利があるものであるようだ。しかしながら歴史的に女が参加した例がなく、女が十字架を手にしたことも当然無かったのであった……。
 祭りは大混乱に陥り、その騒動の中、ペトルーニャはスルスルと抜け出して十字架をもって家に帰ってしまう。宗教的祭りは地域を挙げての大スキャンダルとなり、地元テレビも報道に加わり、ペトルーニャは伝統文化を破壊する邪悪な女として、その関係者の憎悪の的となってしまう。一方で女性テレビリポーターは、女性の権利と自由思想などを根拠に、たとえ伝統であろうと、差別的な考えのまま頑なにしか物事を捉えようとしない男文化を、批判するのだったが……。
 男たちの方が力が強いのだから、最初は十字架は簡単に奪われてしまう。しかし多くの人の目の前で最初に手にしたのは、まごおうことなきペトルーニャであったことは間違いないのだった。彼女が十字架を奪ったのではないのであれば、警察は逮捕して捜査はできない。あくまで任意だがペトルーニャは拘束され、不毛なやり取りを警察所内で過ごす。伝統的にはあり得ない冒涜だが、現代社会の男女の権利の前には、これを法的にさばくのは難しい問題のようなのだった。
 なかなかに変なものだが、結果的にこうなってしまった以上、誰もペトルーニャには逆らえない。暴力で解決するには、それを取り締まる側の内部での問題になりそうだ。言葉ではペトルーニャは男たちに脅され罵倒され続けつばまで吐きつけられるが、実はペトルーニャは社会に対して怒っていて、更にそれなりにインテリで、しかし夢見る乙女でもあるのだ。彼女の願いとは、権利だとか反抗だとかそういう事ではなく、もっと切ないものに過ぎないのである。
 妙な映画で、変なコメディ作品だと思えるが、こういう笑いもあるんだな、という感じかもしれない。旧ユーゴスラビアの抑圧された社会の名残のある中の、笑いの質のようなものがあるのかもしれない。それなりに民主的なところが見て取れて、日本だともっとペトルーニャは厳しい立場に置かれることだろう。勝手な裁量で十字架も奪われてしまうのではないか。伝統というのは、もともと男女を分けた差別的なものが長く続いて根付いていて、すでに差別なのかどうかさえ分からなくなってしまったものが多い。そういうものをすべて破壊するのは単なるテロだけれど、このようなテロの場合は、何かしようがあるのではないだろうか。まあ、日本では無理でしょうけどね。
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失った記憶と消えない悲しみ   林檎とポラロイド

2024-02-15 | 映画

林檎とポラロイド/クリストス・ニク監督

 何か記憶をなくす人が頻繁に出る世界があるようで、男もある日突然記憶を失ってしまう。医療なのか国なのかの支援体制があるようで、記憶を失った人向けに何かのプログラムが課されていて、男は淡々とその指示に従う生活を始める。過去の自分がそうなのか、何故か林檎が特に好きだというのは気づいて、毎日林檎を食べ続ける。そうしてプログラムに沿って指示されたことをやり、そうしてそれを記録にために写真に撮る。その写真の撮り方がポラロイドで、男の生活は林檎とポラロイドなわけだ。邦題はそういう事でつけられたのだろう。
 記憶をなくす人はこの男以外にもどんどん出てくるようで、そういう人たちは発見されると救急車で運ばれて、男と同じように、奇妙なプログラムをこなすように指示を受けるようだ。基本的に治療はできないようだし、記憶が戻ることは無いと告げられる。もっともそれは手違いで、ひょっとすると記憶が戻るよすがに、これらのことをやっていく人々もいるのかもしれない。
 後半はネタバレになるので書けないが、これらの行動に対して、男はちょっと違う行動を取るようになる。伏線は張ってあるが、男には最初から悲しみにあふれた心を抱えていたものと見える。それと記憶というのは、重要に結びついている。
 ギリシャ映画のようで、街の風景も独特だし、どことなく乾いたトーンが作品を貫いている。男の行動には、ちょっとしたギャグを交えてのユーモアに満ちたものだが、男を取り囲む境遇が、やはり奇妙であり、それに巻き込まれた男が哀れでもあるのかもしれない。変な映画ではあるが、そういう気分的なものを楽しんで観るのであろう。楽しめないかもしれないけれど……。
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