カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

映画館が残るという事   浜の朝日の嘘つきどもと

2024-03-06 | 映画

浜の朝日の嘘つきどもと/タナダユキ監督

 福島のとあるさびれたまちの、もう閉じようとしている映画館に一人の若い女がやって来て、再建しようと奮闘する物語。女の過去には、映画をとんでもなく好きにさせた男運の悪い女教師との関係があって、女が孤独に陥った家族との闇があった。そういう彼女にとって、たとえ経営が苦しくなったとしても、一つの映画館が閉じられることは、堪えがたいことだったのだ。
 まあ、一種のファンタジーのようなものだが、映画の素晴らしさは、それを観るだけの問題ではなく、映画館というコミュニティを含めて、人が生きていくストーリーそのものにあるのだ、という思いがあるのかもしれない。
 しかしながら映画館というのは興行であり職業なので、いくら素晴らしくても、利益が続かないことにはどうにもならない。そこらあたりのジレンマがあって、彼らがやっていることは、本当に正しいのかというのさえ、ちょっとあいまいかもしれない。現実的に僕の住んでいるまちには、とっくの昔に映画館は無くなってしまった。ちょっと前の選挙では、特に若い人から、映画館を我が町に作るようにして欲しいとの、要望が寄せられている。それは少なくない声だということも知っているし、実感のある寂しさでもあるだろう。街の活気のバロメーターでもあるというか。しかしながら、そういう要望というのは、天から降って来て解決できるものではない。そういうものが欲しいと思うのなら、若い彼らが自分自身の手で映画館を作ればいいのだ。それさえやろうとしないバカ野郎ばかりいるから、このまちから映画館は無くなったのである。そうして興行的には、実際には地方のまちからも人を集めるような都市部にのみ映画館は集約され、個人の小屋は日本中から無くなってしまった、ということなのだろう。一部個性的な映画館はぼつぼつ残っているのかもしれないが、そういうものは、やはり個人の強い責任感のようなもので、守られているに過ぎないのではあるまいか。
 だいぶ脱線したが、この映画は単なるそういうノスタルジーのようなものである。しかしながら背景的には、なにか福島の復興のようなものと掛け合わせて作られているようで、そのような思いと、まちの映画館というものが、象徴的に重ねられているということなのかもしれない。多少甘さのある物語かもしれないが、その様な想い無しに、まちの映画館のようなもの、それは映画館のみの問題ではなく、そこに暮らす人々そのものの、復興のようなものは、果たせないことなのかもしれない。
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