カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

凄まじく素晴らしい作品群   悪意

2019-06-30 | 読書

悪意/ホーカン・ネッセル著(東京創元社)

 5編組んであるので短編集であるが、最後の一編以外はそれなりに重厚な物語構成になっており、日本のいわゆる短編集とは違う感じだ。二段組でもあるし、読みごたえがある。先が気になって仕方なくなるので、この長さでないと我慢できないかもしれないが。
 殺人事件が主で、いわゆるミステリ作品なのだが、文学作品としてたいへんに優れているのではないか。今はノーベル文学賞は休止しているようだが、このような作品が受賞するべきではないだろうか。大げさに聞こえるかもしれないが、それくらいものすごく上手い文章だし、構成が見事なのである。人間心理が描けていて、適度のユーモアがある。独特の皮肉も効いていて、思わず唸らされる。それでいて面白くて読むのがやめられない。こんな作品にはめったに出会えるものではない。なぜ日本ではこれを含めて二冊しか翻訳が無いのだろうか。
 厳密にいうと人を殺してはならないわけだが、人を殺すにもそれなりに理由がある。それを正当化するという意味ではなくて、ある程度納得ができなければ、その殺人自体が宙に浮いてしまうことがあるのではないか。いわゆるミステリ作品の中には、そのトリックを成立させるためだけの殺人というのがあって、謎解きのゲームとしてはそれで面白さがあるというのは分かるのだが、どうにもその殺人自体が納得できなくて、残念に思うことがある。人を殺したいと思うようなことを考えたことが無い人間であっても、作中人物に思いを寄せることはできる。それが読書体験の醍醐味であって、自分とは全く性格も境遇も違う人物が殺人に至る精神性を、読みながら体験できるというのは貴重なのではないか。または殺した本人でなくとも、その周辺の人の気持ちになれるのだ。それは必ずしも幸福なこととは違うのだが、激しく心を惑わされることにはなる。それが文学体験でなくて何であろう。そういうものを文学性の高さだと考えるのは、まっとうなことなのではないか。
 娯楽作品だから格が低いというのは、単なる歴史的な偏見である。人間が何かを学ぶ知性があるとしたら、この作品の文学性を理解できることにもつながることだろう。
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堅粕、吉塚2000年通り

2019-06-29 | 散歩
 今回もバスにて移動。夜に懇親会のあっとです。


 バスセンター。昼過ぎではあるけど、腹は減ってないです。散歩するしかないっしょ。


 とりあえず地下移動しましょう。


 荷物もあるんで、ホテル行ってみようかな。今回は筑紫口の方なのです。


 時間的には早かったにもかかわらず、ちょうど部屋は空いているとのことでチェックインができた。荷物だけ預けようかと考えていたのでラッキーだった。ちょっとだけ部屋で読書して、外気の暑さを勘案していたが、やっぱり少しばかり時間に余裕があるんで、歩いてみるかと思い直した。


 特に当てがあるわけではない。適当に30分くらいまっすぐ歩いて、それから左へ曲がろうと考えた。
 御笠川。


 このあたりは曲がった都市高速が入り組んでいる。




 やっぱり日差しが強くて、日影が無いかな、と思うようになった。思っても無いものは無いのだ。


 当初思っていた30分は変更して、建物が低くなってきたので曲がることにする。何しろ日影が無いからだ。


 吉塚2000年通りって書いてあった。


 特に特徴は無いというか、日影が少ないです。


 この調子だと、会議前に汗でドロドロになりそうだったので、やっぱり戻ることにしました。


 とにかく時間帯が悪いんでしょうね。日影を探すにも、無いものは無いのです。


 それでも少しでも建物よりの日影側を歩きます。以前寅さんの映画で、電柱の日影ごとに休憩しながら歩く場面があったよな。その気持ちよくわかるです。



 努力は実る、か。予備校のキャッチフレーズだけど、なんとなく今の僕を応援してくれているのではないでしょうか。


 ライオンもクマさんもいた。


 だいぶ駅そばに戻ってきたみたいだな。


 橋げたの下は、日影が大きくていいですね。


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なるほど家族とは血ではないな   万引き家族

2019-06-28 | 映画

万引き家族/是枝裕和監督

 最初からスーパーで万引きする親子の場面から始まる。日雇いとパートと同居する親の年金(ほかにもユスリのようなこともやっているようだった)、さらに家出娘なんかも同居する不思議な家族の様子が描かれる。さらにどうも虐待を受けている疑いのある少女も家に連れ帰って生活を始める。なんだか疑似的な家族を形成しているようで、その原因も徐々に明らかにはなっていくが、この疑似家族こそ、精神的には本当に絆の強い感情を持っているらしいことも分かっていく。しかしながらお父さんと呼べないままに万引きを繰り返す息子は、妹となった少女にまで万引きをさせることに、どうしても納得がいかないのだった。
 東京に暮らす最底辺の人々の暮らしを描くというのも目的にありそうだが、そうした暮らしの中にあって、本当の愛情を持った家族とは何なのかを問うてもいる。むしろ中流でちゃんとした収入のありそうな若い夫婦は、家庭内暴力ですさんでしまい娘に普通の愛情を注いでいないように見える。少年の過去はあいまいだが、拾われる理由もそれなりにありそうだ。この夫婦の子供にしては賢すぎる感じも、何か学歴的には高い夫婦のこどもだったのかもしれない。
 それなりの説得力はあるのかもしれないが、とても不思議な感じの映画である。これだけすさんだ人々が共同で暮らしているのだから、もう少しすさんだものがあるはずだと思うのが常識的な描写のはずが、万引きをはじめとする様々な反社会的集団でありながら、お互いに穏やかに、なんとなく助け合って、認め合うのである。しかしながら戸籍の問題などもあるので、このままでは子供が学校に行けるわけが無い。病気をしても、保険証なども作れないのではないか。もっとも家で勉強できない奴が学校に行くんだという理由は、その通りだと思ったが。
 賞を取ったから優れた映画であるとは必ずしも言えないが、安藤サクラをはじめとする役者の演技と、情景を映し出すカメラの凝ったアングルなどを鑑みると、これで賞を取れないわけが無い作品であることが分かるはずである。聞き取れない口の動きで何かをいう場面があるのだが、おそらく何を言っているのか、観ている人の感情で分かるようになっている。外国人にわかるわけが無い単語の発音だろうけど、分かる人にはわかるはずだろう。そういうところが、何より名作なのかもしれない。
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大統領が何代目かに合理的意味は無い

2019-06-27 | ことば

 アメリカの大統領で、例えばリンカーンが何代目かを英語でなんというか? というのはたびたび聞く話だ。あんがい難しいということもあるから問になる。しかしながら実際的にあんまり意味は無くて、そもそもアメリカ人は何代目かの大統領なんて気にしないという。あえてそのような順番は数えてもいいけど、いわゆる日本語的な何代目というつながりで、立場を捉えていない可能性の方が高い。ちょうど10代目だからひとつの節目であるとか、まったく意味が分からないことなのかもしれない。確かにそんなのたまたまのことかもしれないし、今の時代性とは何の関連も無い。大統領は代々築かれてきた地位なのではないのだろう。
 しかしながらこれには日本の首相も同じであって、何代目かなんて日本人の僕らもたいして気にもしていない。安倍さんが何代目なんて、知っている方が少数派だろう。さらに日本の首相は重複もあるから、やっぱり時間の上での順番でしかない。アメリカに比べてずいぶん多いということはあるが、これも実力主義で昇りつめたというような地位ではないような感じもあるので(権力闘争で勝った人ではあろうが)、仕方ないのである。僕らの直接投票する選挙で選ばれるわけではないし。
 しかしアメリカの大統領が何代目かというのは、実は就任した時など日本のメディアは、たいてい報道しているようだ。だからトランプさんが45代目であることは、それなりに知られていると思われる。これは日本人は知っていることだが、アメリカ人は知らないことである可能性が高い。
 日本人が気にする何代目かというのは、例えば天皇などはそれが言える。これは多くの人が気にしていると思われる。おそらくそういう連続性に意味を見出す人が多いからだろう。アメリカの大統領は天皇とは違う存在かもしれないが、しかし日本人の多くは、それに近い畏敬の念を、ひょっとすると米国大統領に抱いているのではないか。トランプさんは日本の報道機関からは嫌われている存在なので、そんなに敬意は払われていないようだけれど。
 他にも何代目と数える役職のようなものは結構ある。そういう連続性に、未来までの可能性を見出すような心情があるようにも思う。続くことだけが目的というのは、目的としては問題がある考え方だと思うものの、平和や安定を好む深層心理のようなものが、この何代目という考え方を支えているのかもしれない。
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ルソーはただの税関史ではなかった   楽園のカンヴァス

2019-06-26 | 読書

楽園のカンヴァス/原田マハ著(新潮文庫)

 日本とアメリカのアンリ・ルソー研究家の二人が、スイスの大富豪に呼び寄せられる。ルソーの最晩年に描かれた「夢」に酷似する「夢を見た」という作品をめぐって、真贋どちらか判断をさせるためだった。さらにその判断をするために、一日に一章ずつだけある物語を読まされる。全部で七章あるらしく、その物語を読んだ最終日に絵の判断を下さなければならないルールである。勝った方には、その絵を自由にしていい権利を与えられることになるというのだったが…。
 話の始まりは普通のホームドラマというか、後に壮大な話になる予感を感じさせられるような展開ではないのだが、話がスイスに飛ぶと、一気にストーリー自体が爆発する。まさに息もつかせぬ展開なのである。もともとの物語の真贋すら知らない読者にとっては、この物語自体がフィクションなのか史実なのか分からなくなってしまうのである。ひょっとするとルソーそのものの新事実が明かされているのではないか。またその周辺の人物、例えばピカソの謎さえも明かされているのではないか。
 面白いという噂は聞かされていたのだが、これが日本人の書いた日本の作品だということが、なんだか不思議にすら感じさせられる。こういうスケールのエンタティメントは、まさに今までは、欧米の作家の専売特許であるように思っていたのであろう。聖書をはじめとする壮大なスケールの真実を描くことは、日本の文化には無いことではないか。そんな風にも考えていたのかもしれない。
 美術館は嫌いではないが、だからと言って絵画文化ということに対して、たいして興味はなかった。そんな人間であっても、この物語に描かれているミステリーに関して、興味を抱かぬ者はいないだろう。いわゆるしてやったり。お見事なのである。
 著者は当然絵画に関する仕事を歴任後、作家になった人らしい。そういう知識の裏打ち無くしては、決して描けない作品であろう。改めてルソーの作品のファンになること請け合いである。確かにルソーの作品は変な絵かもしれないが、この小説を楽しんで読んだものは、絵の素晴らしさも同時に理解できるようになることだろう。
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最近の驚きネタ(ジャニーズ)

2019-06-25 | 雑記

 タレント事務所のジャニーズというのがあるのは知ってはいた。たのきんトリオがそうですよね。それくらいは僕だって知ってる。でも最近ひそかに驚いたのは、社長のジャニーズさんというのが日本人だと知ったことだ。正確にはジャニー喜多川さんっていうんだね。顔も日本人っぽい人でさらに驚いた。
 確かにアメリカ生まれで、それで英語もできるんだろうけど、僧侶の息子であるともググって分かった。だから何だ、という話だろうけど。
 いろいろ噂はあるんだろうけど、表に出てきてどうのこうのするようなことが少ないために、謎が多い人なのではないか。僕も何か聞いてたんだろうけど、外国人の人が日本のエンタティメントをプロデュースする際に作った組織がジャニーズだと漠然と思っていて、だから本場のアメリカ人が、日本の主に男の子たちにダンスを教えてるんだと思っていた。それでまあ、気に入った子は自分の愛人にしたりするんだと思ってた。そんな話を聞いたことがあるんじゃないかな。まあ恐らく誤解のもとは、そういう変な話だけ理解していたせいだろうけど。
 でも僧侶の息子なんだな。まるで笠智衆じゃないか。まあ、だから何だということだが、ダンスはできるんだろうか? ググっていると、何か病気でもしておられるのだろうか。その先のことはさっぱり分からないのだが…。
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何のために正義はあるか   ももえのひっぷ

2019-06-24 | 読書

ももえのひっぷ/コージィ城倉著(日本文芸社)

 全4巻の漫画。舞台はどこかの山の中にある田舎町。ダム建設の是非をめぐって町長選挙が行われている。ある夜半、賛成派と反対派の小競り合いの中、もみ合いになって反対派の町長候補が頭の打ちどころが悪く死んでしまう。ところがこの町長と瓜二つの人物がいて、替え玉として選挙に出ることで賛成派と反対派が合意してしまう(ここらあたりが漫画だからできることだが)。これには様々思惑の合意があるためだったのだが、そもそも田舎町の雇用問題を含め、ダム建設が無ければ、まちの将来は無い話だった。しかし建設を推し進めていたはずの建設会社には、ダム建設が中止になってもよい裏の事情があったのだった。そのようなミステリが絡む中、町議候補の奥さんがたいへんに魅力的な超人で、男なら誰もが抱きたい(そのためだったら何でもすると思わせてしまう)という衝動を起こさせる天然ボケの人物だった。この色気の問題が、さらに様々なミステリに絡んで展開するエロ・コメディということになるのかもしれない。
 こういうのが青年漫画なのだ、と言ってしまえばそれまでかもしれないが、そもそものミステリの構成がそれなりに複雑にうまいこと仕組まれていて、いわゆる名作感のある作品になっている。人もたくさん死ぬし、クマも出てくる。時代を超えた因縁もあるし、国際的なことも絡んでいる。色気の中に人間ドラマも濃厚で、展開も息をつかせない。まあ、実際のところ、そりゃないでしょ、というのはたくさんあるんだが、漫画なんだから仕方ないじゃん、と思わせられるのかもしれない。
 酒を飲んでいて、ある人から勧められて買ったらしいことは覚えている。なんで勧めてもらったのかは記憶が定かでないが、メモに書名が書いてあって検索したら手ごろだったから読んでみたのである。確かに面白かったのではあるが、本当にいったいなんでこれを勧めてくれたのだろうか。エロの要素はたくさんあるのは確かだったが、実はたいしたエロ作品ではない。おそらくなのだが、このミステリの展開そのものが、僕が読んで楽しめるという考えのもとに勧めてくれたのだろうと考えられる。僕がそんなような作品を欲していると話したんだろうと思う。そういう意味ではありがたいことだった。
 ただし、終結に至る展開は、多少慌ただしくまとまりが無い(無理にまとめられたというか)。何らかの事情で連載が中止になったかして、このようなことになったのだろうか。もしくは話が広がりすぎて、ちゃんとした理屈でまとめるには、このように説明するよりなかったのだろうか。これだけのことをやろうとしていた割に、という印象が最後に残るのは、なんとなく残念だった。さらにこの桃肢さんという人物がたいへんに魅力的なのは分かるのだが、実際のところこの人の考え方というのが、今一つ筋が通っていない気もした。もっと流されやすい人物ならともかく、これだけ誘惑がある中で、自覚も多少ある様子でありながら最終的にバカであるというのは、男性の側からの考え方であるように思う。要するに都合がよすぎる感じである。これだけのことがあると、もっと人間関係は壊れると思うので、そういうのを丁寧に描くと、また作品の感じが変わったかもわからない。まあ、それが青年漫画かもしれないのだけど。
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鯖くさらかし岩

2019-06-23 | HORROR

 時津町に「鯖くさらかし岩」というのがある。三十何年か前に車の免許を取ったときに、何故か見に行った。僕はバイクの免許は先に持っていたので、何度かこの岩を見に行った覚えはある。というか、そんなに頻繁に見に行くわけないが(時津に友人は住んでいたが)、妙に印象に残っていて、ドライブするならこれを見てみようと思ったのではないか、と推察する。バイクだと主に一人だが、車だと複数の人と一緒に見ることができる。複数の人と鑑賞する喜びを分かち合うには、この岩が最適だと判断したのではないか。
 「鯖くさらかし岩」というのは、要するに奇石で、巨石が崖の上にあって、見た目が落ちそうにしているが、落ちていない状態の岩なのだ。魚商人が、この岩が落ちてくるのを怖がってこの道を先に行くことができずに、商品の鯖を腐らしてしまった、という逸話があるらしい。そのような昔話は、いろんな地方にもあるらしいので、以前の日本人のおおらかさを伝える定番話かもしれない。また、ひょっとすると逆の見方もあって、鯖という魚はそれほど扱いが難しいものだ、ということを言いたい可能性もある。臆病者には、売れる商品ではないのだ。
 ということで見ると楽しい岩である。ただし、時津のこの場所はたいへんに交通量が多く、さらに近くに適当な駐車場が無い。また道からの角度によっては、ちょっと見にくい場所である。車でサーと通り過ぎるときに注意を怠ると、簡単に見逃してしまいかねない。
 そろそろ「鯖くさらかし岩」があるよ、と心の準備と予告を怠ってはいけない。そうして一瞬、見えた? とお互い確認しあって、ちょっとだけウケる。単にそれだけである。
 でもそうまでしてみた割に、さっぱりウケの悪い人が居る。だから何? って感じかもしれない。そうすると、やっぱり何か悔しいというか寂しいというか、そんな気分を味わうことになるだろう。
 幸い時津・長与には、買い物など遊びに行くところも増えたように思う。あくまでそういうついでがあって、楽しむべき名所なのかもしれない。
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東京と若者のリアルは終わった    映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ

2019-06-22 | 映画

映画 夜空はいつでも最高密度の青空だ/石井裕也監督

 最初に映画、と断ってあるのは、原作が最果タヒの詩集であるからのようだ。原作詩集は未読だが、最果さんの詩は雑誌で読んだ記憶はある。失礼ながらほとんど意味は分からなかったが、現代の詩というのはそういうものかな、とは思った。
 さて、映画の方だが、いわゆる労働者階級の人間と、やっぱり労働者階級なのかという看護婦さんとの恋愛談を中心にして、彼らの生活そのものを活写したもののようだ。筋は一応あるが、そういう意味ではあんまり明確に筋を追うような映画ではない。だから面白いような作品でもないが、雰囲気を楽しむという感じはあるかもしれない。俳優さんたちは一応メジャーな人たちが中心だし、商業映画ではあるんだろう。
 こういうのを見ていると、まあ、そういう若者はいるかもしれないな、と思う反面、現代日本では、このような若者像を描くのが、難しくなっているのではないかという疑いである。それは東京でのリアリティはあるのだろうが、僕らのまったく知らない世界である限定の話のようにも見えるし、いわゆる貧困問題というようなものでも無いような気もする。セーフティ・ネットが十分だとかそういうことを言いたいわけではなくて、今時このようなものに苦しむ人がいるとしても、あまり同情的にみるような人は少ないだろうし、それが社会的な意味のあるメッセージとして受け止められるものなのか、多少疑問に感じる。生きる希望が無いとか、そういうことでもない気もするし、実際この話は、ささやかながら、あきらめない人を応援もしている感じだ。いろいろあるが、しあわせだってあろう。まあ、そういうことを言いたいわけでもないのだろうけど、なんとなく難しい。ちょっとした閉塞感は、そりゃあるんだろうけど。
 ということで、こういう話なら、東南アジアか、ひょっとしたら韓国あたりだと、もう少し伝わり方が違うかもしれない。日本だと、やっぱり何かが終わっているんじゃなかろうか。実際のところそうじゃない人は存在するだろうが、それと東京が上手くリンクしない。そんな印象を受ける微妙な作品のような気がした。
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我々は弱く卑屈だ

2019-06-21 | culture

 カルロス・ゴーンさんが保釈されたときに少し話題になったが、裁判所は逃亡の恐れや、証拠隠滅の恐れが無いことから許可したという。日本の検察等の捜査や拘留の方法は、海外(とはいえ要するに欧米)のそれとは違うらしいのだが、このような処置は異例のことだったという。日本人なら平気で長いことぶち込んでおいて平気でも、外国人だと外圧が怖いということだろうか。
 米国と中国は貿易に関して激しく争っている感がある。米国が関税をかけると、中国は報復として応じる。いわゆる険悪な雰囲気としては報道されるところであるが、株価などで過剰に反応しているのは日本であって、かなり売られすぎている水準になった。もちろん上海などでも株は売られたりするが、あんがいその後買い戻されているようだ。米国もしかりで、下がるが、しぶといという感じである。保護貿易はお互い損するはずだという報道は、当然のように流れているし、長期的には当然そうだろうけど、その割にはおとなしいわけだ(日本を除いて)。
 そうしてこれが日本と中国だったりすると、おそらく中国では日本製品の非買運動など激しい展開がみられるはずなのだが、今回のことで米国製品をどうかしているというような話は聞かない。中国人は、あんがい米国が好きなのではないか(日本とは違って)。
 日本人も中国人も、何か欧米人にはコンプレックスを持っているらしいな、とは思う。それだけ彼らの強い時代が長かったからだろうけど、いまだにやはり弱い立場にいるせいもあるんじゃなかろうか。弱い人間が卑屈になるとは限らないが、やっぱりなんとなく卑屈なんだからしょうがない話である。
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極地で苦しむ葛藤コメディ   南極料理人

2019-06-20 | 映画

南極料理人/沖田修一監督

 堺雅人主演。もとはエッセイなんだそうだ。南極観測隊の料理人として赴任することになり奮闘するのだが、何しろ男ばかりだし、極地で軟禁されているような生活の中、様々なストレスに見舞われて、皆が変な精神状態になって、それをどのように克服していったのか、というような話なのかもしれない。僕は若いころに南極に行ってみたいと思ったことがあったが、これを見ていると行かなくて(行けなくて)良かったな、と思った。相当な研究課題があるとか、ミッションがあるとか、絶望がある人間でないと、務まるものではなさそうである。映画的には(またはエッセイ的には)面白いのかもしれないが。
 そのような極限状態にあると、やはり最大の楽しみは、食事、ということになるのかもしれない。料理人としては、だから責任重大である。そのような任務に就くきっかけになったのは、単なる事故による代理だったようだ。また、妻や娘などを残して任務に当たらなければならない。まずは自分自身が相当にきつい筈だ。だから他の隊員たちの要求には、時には耐えられなくなるような思いになる。しかし仕事なんだからやるべきことはやる。無いものは工夫して作るよりない。食事は日に三度あるわけで、その繰り返しはいつだって規則正しくやってくる。そういう日常のことが、南極をあらわす表現にもなっているのである。
 少ない人数とはいえ8人の男たちのキャラクターは、それぞれにたいへんに違う。ひとまずは善良なのだろうが、一緒に暮らしていくには問題のある場合も多々あるのだろう。それぞれに苦しんでいるが、助け合わないことには、やはり生きていけない。割り切りもあるだろうし許容もあるだろう。まったく恐ろしい世界だと思う。目的はあるだろうが、耐え忍んで任務終了を楽しみに生きるよりないだろう。そうして日常を、できれば楽しむことなんだろう。
 これが南極だから許されるというのはあるかもしれない。途中で日本の子供と通話できる場面があるが、子供の質問に答えて南極の魅力を語ることが何もできない。宇宙だったら皆が憧れて感心する場面だろうが、南極はまったく違うのである。苦労しているのに苦労しがいが無いのである。
 それでもいろんな国が南極に行く。人間というのは、何か悲しいものを持っているのかもしれないな、と思うのだった。
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犯罪を助長させる考え方

2019-06-19 | HORROR

 ゲートドラッグ(ゲートウェイドラッグともいう)という考え方がある。大麻やハシシなどのソフトドラッグが、より強いドラッグ(麻薬)の使用につながる入口、または入門であるという考えである。麻薬規制の理論にもよく用いられる考え方なのだが、実証されているわけではない(研究はされているが)。また、この考え方から、煙草がそのようなものであるという理屈もあったり、その後飲酒なども、次のステップになるという理屈の展開として使用されることがある。もう何でもあり、という無茶なものだが、こういう考え方が、一定の人の支持を受けることは間違いなさそうだ。または、恐怖をあおる材料として、有効なのかもしれない。
 この考え方が間違っているのは、人間の複雑な多様性を無視していることだろう。ビールを飲んでいる人が、必ずしもウイスキーを飲むようになるとは限らないわけで、そういう段階というのが、一方方向の指向性を形作るものではない。また、漫画の表現をもって犯罪を誘発するなどの議論も、きわめてこのような飛躍理論的な解釈と相性がよさそうである。
 ただし、一部の指向性のある人にとっては、そのような道筋が当てはまるように見える場合があるのも事実だろう。ヒトラーが、疲労回復のためのビタミン注射から、段々とエスカレートしていって麻薬を摂取し、のちにジャンキーになったように、個人的に置かれている立場によっては、精神的に依存する方向が、そのような道筋をたどる場合はあるだろう。いわゆる特殊すぎるケースであっても、依存しやすい道筋や、背景が相対的に絡んでいる可能性はあるのだろう。
 要するに麻薬であるとか酒を飲む前の人間性に、いくらかの問題が潜んでいる可能性がある。またはその人の置かれているストレスの状態というか。また、年齢(体力など)によっても影響するものは違うのではないか。そういうものを関数的に勘案しないことには、そのようなゲート的な役割を論じることは不当だろう。
 結論としては、ダメな人は駄目であるということか。それでは言い訳出来ないので、精神的につらいので、助け舟を出しているわけではあるまい。ある意味では、犯罪などをしてもよい理由として援用される危険もある。ゲートドラック理論などのようなものは、より危険度の高いものへの依存を、却って助長させる可能性の方が高いのではないだろうか。
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熊本帰り

2019-06-18 | 散歩
 ホテルの部屋からの眺め。今日は天気が崩れるそうですよ。そんな雲行きですね。


 シャワー浴びて、朝飯を食いに行きます。


 料理けっこう良かったですよ。太平燕とかカレーとかいきなり団子とかはパスしてもこれだけあったです。


 で、食後の散歩。



 白川沿いを上ります。


 妙なアパートの屋上ペントハウス。


 通勤も始まってますね。


 何となくおなかの不安が出てきて、遠くには行かないことにしました。




 実際は7時くらいだったから、通学はボチボチってかんじですかね。



 身支度整えて、しばらく本読んだりテレビ見たりしてました。僕は早い時間の交通機関の移動は大変危険なので(おなかの調子があって)できないのです。ほとんど命がけになってしまいますので(意味は分からんでしょうけど)。
 しかるべき時間調整して、バスの時間に合わせて移動します。


 実際もう何度も来てるんで、このあたりは何度も歩いてる感じします。


 あんまり広くない通りを好んで歩くんですが、そうすると結局おんなじところだったりするんです。


 まあ、だけどそういうところは歩いて楽しいのでいいのです。


 なんかぽつぽつ落ちてきたぞ。



 この間も通った藪ノ内通り。


 オークス通りっす。


 熊本城も見えます。



 電車通りにでましたね。


 熊本にはあちこちに、おてもやんが居ます。


 無事にバスに乗れました。

 途中休憩しながらバスの旅で帰りました。お疲れさまでした。


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二年間、熊本になりそうです

2019-06-17 | 散歩
 今回はバス移動です。そうしたら忘れ物が。先ほどまでいた人たちは福岡に行ったようで、あの中の一人だったのでしょうかね。僕は外にいたんで分からなかったんですよ。気の毒ですが置き去りです。


 僕はりんどう号に乗っていったのでした。


 途中都合二回休憩します。安全のためですので(たぶん)のんびり行きましょう。まあそれでも列車乗り継いでいくより10分くらいは早いようですけどね。


 着いた。通り筋。熊本です。



 この日は猛暑。というか、日本全国どこ行っても今は暑いみたいですが。


 下水道敷設記念碑というのがあった。確かに大切ですからね。


 宿泊予定のホテルの目の前ですが、あえて遠回りします。


 白川でオカリナかなんか吹いている人が居て(向こう岸)、そのしらべがのどかに響いてきて、素晴らしかったです。まあ、暑いわけですが。



 やっぱり手続きだけして荷物預けて、会場ホテルまで遠回りして向かいます。


 白川公園。


 警察署。


 信号渡って。


 香川商事のでかい看板通り(勝手に命名)。


 突き当りはうなぎ屋と見西寺。


 電話しながら歩いてたら上通りに出た。


 事前打ち合わせがあるとかで、ここからはすぐに会場ホテルに向かいました。
 会議も滞りなく終了して懇親会。途中トイレに入ったけど、ここのホテルは何でも立派でした。女子はあんまり見る機会無いだろうから、特別公開します。



 その後二次会はスザンヌのお母さんと妹さんの店、キャサリンズ・バーという立ち飲み屋に行きました。まあ、流行ってるみたいで何よりでした。安いですしね。
 ということで夜も更けて解散! お疲れさまでした。




 コンビニ寄って帰ったみたいですね。


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学校に探偵は要らない、と思う人、読みなはれ   いじめと探偵

2019-06-16 | 読書

いじめと探偵/阿部泰尚著(幻冬舎新書)

 学校で起こっているいじめの実態を、探偵という職業を通してレポートしたもの。いじめられている子供や家庭の問題から、当然ながらいじめを行っている加害者のことも書いてある。また自殺やレイプなど深刻な問題や、このような問題が起こる学校という環境についても詳しい。ほとんど知らないことだらけだったので、本当に目から鱗が落ちた。
 いじめ問題に探偵が出てくるのに違和感のある人もいることだろう。それどころか嫌悪を覚える人もいるのではないか。学校の問題に外部の人間が介在してもいいのか。そんなことを思う教育界の人もいるかもしれない。実際にそういう論調を聞いたことがあるような気もする。
 しかしながら、場合によっては、探偵が重要な役割を演じている問題もそれなりにありそうである。実はこの著者の探偵さんは、いじめ問題は親や学校が少しでもやる気になれば、9割方はなくすことができるのではないかと考えているようだ。家出や売春や、その筋の子供を扱った犯罪組織などが無い限り、探偵を使う必要もないかもしれないと考えているようだ。そういう立場であっても依頼は来ているわけだし、実際にいじめ問題に学校が本気になって取り組んでいるところは、ほとんどないという。一体どういうことなのか。
 「いじめ」というのは、「恐喝」「強要」「暴行」「傷害」「売春」「損壊」「強盗」などを言い換えているだけの言葉であると指摘している。大人が行えば明らかな犯罪行為だが、子供が学校で行うと犯罪でなくなってしまうのだろうか? 少し考えてみるまでもなく、そんなことはあり得ない。いじめを放置するということの意味は、犯罪を助長しているのかもしれないのである。そうしてその現場である学校の先生は、実は多くの場合いじめの事実を知りながら、放置しているに過ぎないようなのである。何故ならいじめに気付いて、少しでも動いてくれるだけで、いじめはなくなるからである。探偵の仕事の多くは、実は先生に動いてもらう(逃げるのをあきらめてもらう)ためにあるのかもしれないのである。少なくともこの本を読んでいる限りは、そのことが明らかである。
 繰り返すが、本当はいじめ問題の多くには探偵は必要ないそうだ。いじめを専門とする探偵が言っているのだから間違いなかろう。しかし今の学校の環境と先生たちの存在が(要するに大人たち)、学校に探偵を必要とするようにしているのである。結構これは、現代人の必読書なのではなかろうか。
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