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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

とにかく眠い私

2020-10-31 | 掲示板

 近頃なんだか眠いのである。車の運転中に眠くなるのは前からあったが、運転中でなくとも眠くなる。本を読んでいて眠くなることはあったが、本を読んでいなくても眠くなる。午後のセミナーなどで眠くなることはあったが、別段セミナーを受けている訳でなくても眠くなる。いつでもどこでも眠くなるわけではないようだが、それなりに頻繁に眠くなることがあるようだ。突然睡魔に襲われて首ががくんとなって、あっと思う。そういう睡魔という感じだろうか。席を立ってウロウロできれば、それなりに何とかなるが、ちょっと動けない、というか、まだその作業をやらなければならないような時に、なかなかその睡魔が去ってくれない。非常に困るし、厄介なのだ。
 睡眠不足があるのかというと、必ずしもそういうことではない気もする。眠りが浅いのかどうかはよく分からないが、そういう睡眠の質の問題なのだろうか。
 ちょっと早めに寝る機会があって、眠たいのでまあいいか、と思って、21:30分ごろに床に入った。朝方5時前くらいに一度目覚めたけれどすぐにまた眠って、6時前にもさらに目覚めたがまた眠った。結局6時半過ぎにやっと起床。9時間くらい寝たのは、実に何年ぶりだろう。僕はだいたい6時間から7時間の間くらい寝てしまえば、睡眠は十分という感じなのだが(よっぽど深酒しない限り)、昼寝の習慣もほとんどないし、それで二十年くらいは安定して眠っている。若い頃にはやたらに眠かった記憶があるけれど、だからといって日曜などに昼過ぎまで寝ていると、なんだか一日がもったいない気がして、起きるのがたいそうつらく感じたとしても、せめて午前中には起きて活動をする習慣ができていた。あまりにも辛ければ昼寝したり、その日は少し早めに寝るくらいで、とりあえずはやり過ごすことができていた。ものすごい高熱でダウンでもしない限り、一日の睡眠時間が9時間なんてことは、ちょっと考えづらかった。
 それが9時間睡眠ができて、自分なりにそんなことができるんだな、と不思議な気分だったのだが、なんとその日の午後テレビを見ていて(日曜だったので)、またウトウトするのである。ええっと思って立ち上がってみるが、やはり眠いのである。睡眠十分ではあったのだろうが、まだ眠くなるのだ。そういえば最近はよく眠気を感じるのであったが、これは睡眠十分でも眠くなる現象なんだろうか。
 でもまあ改めてよく考えてみると、加齢による体力の衰えに過ぎないのだろうな、とも思う。結局疲れやすくて、その疲れが取れにくいのではないか。少しゆっくりするようなこととか、単純な作業のようなことをしていると、すぐに睡魔が忍び寄ってくるような年頃になってしまったのではないか。個人差もあるのだろうが、単に体力の衰えがそのような形となっているのかもしれない。それに睡眠十分と思っていたが、体力で押し切ってそのように信じ込んでいただけのことで、やはり平均的な8時間前後の睡眠時間が、改めて必要になっているのかもしれない。
 ということで、入眠時間を検討すべき時かもしれない。もう以前のように午前様で帰ってくるようなことはめっきり減ってはいるけれど、もう少し早い時間に切り上げるべきかもしれない。もう周りの人も、それほど頑張る人が多数派ではなくなっている。それはもう自分次第でも、それほど叱られないだろう。
 ということなんだが、さて、それを守れるかどうかは、酔っている自分に問い直さなければならない。そういう理屈を理解できる自分なのかどうか、あまり自信は無いのである。
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消えた娘を探せ(ネット&リアル)   Search/サーチ

2020-10-30 | 映画

Search/サーチ/アニーシュ・チャガンティ監督

 米国で暮らす韓国系のアメリカ人家族が、ネット上に家族の楽しい思い出などをつづっていく様子がまず描かれていく。小さい娘は好きなピアノを弾き、母親とは料理を作る。父親はそんな家族がいとおしく、電子記録を増やしていく感じだ。しかし異変が起き、母は癌に侵されていることを知る。一進一退あった後、とうとう帰らぬ人となる。父と娘は失意の中暮らすが、娘のマーゴットは学校の成績もいいらしく、いつも父とSNSで連絡を取り合う仲である。であるが、ある日忽然と姿を消す。必死にマーゴットを探す父親だが、最初はちょっとした嘘をついて友人とキャンプにでも行ったのかもしれない、という可能性にも思われたものが、残念ながらそうではなく、どんどん謎は深まり、娘のネット内の行動の中に、父親としてまったく知らない、何かに傷つき謎の顔を持つ娘の姿が明らかになっていくのだった。そうしてついに、娘が乗って出て行った車が、森の池の中に見つかるのだった……。
 ほとんど父親その他が操作するパソコンの場面で物語は進む。韓国系移民の家族は、米国社会になじみながらも、特に父はパソコンの技能には一定の力を持っているらしく、そのITリテラシーがあるがゆえに、娘のネット上の動向を様々なアイディアを駆使して浮き彫りにさせていく力がある。なるほど、基本的にはネットハッカーというのは、このような行動をとって、特定の個人であれば、身の回りのことが明らかにされていくことがあるんだな、ということがつぶさにわかる演出になっている。スリリングではあるが、なんとなく怖い感じが付きまとう。父親は一人娘を思うあまりに暴走気味で、若者が安易に性的な言葉づかいで娘に接しているだけで、激しく動揺し、疑いを持ってしまう。しかしネット上の相手が実際はどんなやつなのか、本当には分かりえない。基本的には電話番号を割り出し話を聞き、場合によっては場所を特定して会いに行ってしまう。トラブルにならないわけが無いのである。
 映画の作りとして、ほとんどそのようなネット上の映像を使いながら、なんとなくチープに作られながらも、よく考えられた構成になっており、どんでん返しもあって楽しめる。ちょっとしたヒントが画面の中で次々につながっていくことと、記憶の中の会話の言葉などで矛盾があぶりだされていき、そうして娘の動向が、アッという驚きとともに明かされていくのである。
 最初は画面の文字を追うばかりの映画かと思ったが、すぐに慣れて物語の中に迷い込めるだろう。父の動揺とともに、サスペンス世界を体験し、楽しんでください。ちょっとクレイジーかもしれないが、溜飲は下げられると思います。
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読み進むと意外なことが分かります   寄港地のない船

2020-10-29 | 読書

寄港地のない船/ブライアン・オールディス著(竹書房文庫)

 おそらく巨大な宇宙ステーションのような移住船の中で、何世代にもわたって生活をしている人々がいる。船内は食料にもなるポニックという植物のジャングルのようなところになっており、蠅などが飛び回り、複数の部族が集落を作って、敵対しながら暮らしているようだ。主人公は狩人で、時折ポニックのジャングルに出て哺乳動物を狩る。部族は家畜も飼っており、肉の値段は下がる一方で暮らしは楽ではないようだ。そういう時に、一緒に暮らしていた女(妻なのだろうか)が何者かに狩りの時に奪われてしまう。部族にとって貴重な女性を失うことで罰を受ける傍ら、不満がたまりにたまっている。そういう中、その部族から抜け出して、伝説の船の船長に会いに行くという誘いを年長の司祭に誘われて、死道といわれる外部の世界へ旅立つのだった。
 なぜ長旅を続けている巨大宇宙船の中で、このような原始的な生活を人間がしているのか。また船内には巨人族や、船の前部に住んでいる他の部族との敵対状況や、何かその他にも自分たちとは違う種族がいるらしいこともある。ネズミも進化して、何か得体のしれない生活をしており人間にとって脅威である。そのような中にあって、船内の様々な場所から、過去の秘密が分かるものが時折見つかり、徐々に自分たちの過去や、自分たちそのものが明らかにされていく。書名にあるこの船は、なぜ寄港地が無いのかも明らかにされるのだった。
 文体は乱暴だし、人間とは言え、ずいぶんみんな感情的に振り回されるし、これは何か彼ら自体に謎がありそうなことは見て取れる。膨大な時間の経過で、人間(乗組員)にいったい何が起こったのだろうか。巨人族というのが、もともと支配していた人間なのだろうか。それでは我々はいったい何なのか。宇宙空間を航行中に、別の人類(宇宙人)との遭遇でもあったのだろうか。
 読みながら様々なことを考えるわけだが、それがSF小説を読む楽しみでもあると思う。それでも物語は、それなりに意外な結末を用意している。人物の置かれている立場で、その人物そのものが、がらりと印象を変えるような転換がある。確かに同じような科白を言っている人物が、まったく異なるキャラクターに変貌する印象を受けるのである。妙な小説もあったもんだな、と思った。これが50年以上も前に書かれた古典的名作たるゆえんだろう。
 まあ、ある人が、期待せずに読んでいて、面白かった(ような)ことを書いていたので手に取ったわけだが、前半は正直言ってそんなに面白くも感じていなかったが、ちょうど小説を読む時間と相性のいいタイミングもあって読み進んでいって、ああ、なるほど、これは意外だな、と思った。今の時代なら映画にもしやすいのではなかろうか(ヒットするかは分からないが)。
 まあしかし、このようなシステムの中で人間が生きていくのは、本当は難しいかもしれない。想像力を働かせての面白い設定だが、それはもっと大きなシステムで守られているからである。その秘密も含めて謎解きであろうが、その前の長い時間をまた考えてしまう。まあ古典なんだが、僕等よりはるか先輩たちの物語である。頑張って生き延びてください。
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これで復讐しない男はいない   白い花びら

2020-10-28 | 映画

白い花びら/アキ・カウリスマキ監督

 サイレント白黒映画。フィンランドの古典文学の原作があるらしい。おそらくだが、モチーフを借りてかなり形を変えて創作しているものとは思われるが。
 キャベツ農家の二人は、仲睦まじくしあわせに暮らしていたが、オープンカーの男がやってきて、女の方が誘惑される。内心都会の生活にあこがれがあったのか、農夫を裏切り一緒に出て行ってしまう。しかし女は都会で夜の仕事に、無理やり働かされることになるのだった。
 まあ、展開は要所要所字幕はあるものの、音楽の調べでなんとなくわかる。楽しいときは楽しく、不穏な時は不気味な感じの曲がかかる。現代の話だが、寓話なのだろうというのも分かる。幸せだった二人の生活は、実にもろく崩れ去るが、もちろんそれで終わる話では無い。日本人の僕の目から見ると、女優さんはそんなに美しいわけではないし、誘惑する男は年を取りすぎていて、煙草ばかりふかして、そんなに魅力的とも思えない。しかししあわせの絶頂にありながら、安易に誘われて出て行ってしまう。まったく理解不能だ。置いて行かれた男は苦しむが、これは復讐するに決まっているではないか。でもまあ、終わりはそういう考えで行くとちょっとだけ意外かもしれないが、愛というのはそういうもんだろう。
 たぶんコメディでもあるんだろうと思うが、笑えるわけではない。まったく面白くないかといえば、カウリスマキ映画としての不条理な感じはあるので、異国映画として面白みがないわけではない。でもまあ、好きな人ならどうぞ、という程度だろう。短い尺の作品だから、なんかのついででも観てしまえるかもしれないが……。
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系統樹思考を手にした無敵感に浸る   系統樹思考の世界

2020-10-27 | 読書

系統樹思考の世界/三中信宏著(講談社現代新書)

 副題「すべてはツリーとともに」。系統樹という言葉や図式は見たことがあるだろう。見たらならば、すぐにその意味はおおよそ理解できるはずで、樹木の枝が分かれている様子さながら、物事の分類はできるということである。一般的に分かりやすい系統樹は、ご先祖をさかのぼるようなものかもしれない。歴史上の人物なら、そのルーツを詳細にたどることができるだろう。
 読後感は、なんか妙な本を読んでしまった、という素直なものだ。ちょっと驚いたといっていい。最近進化論の本をちょこちょこ読んでいて、三中のこの本を見つけた。新書なので軽い気持ちでクリックして読み始めたのだが、これがまたなんということか、どんどん奥行きが深くなるというか、ちゃんと分類して書かれてあるにもかかわらず、ちょっと舌を巻いたというか。確かに進化論のことをもだいぶ勉強になったが、哲学をはじめ科学ということや、理系や文系という枠ですらがガタガタと崩れていくような知的な快感がある。さらにそれらはほんの入り口のようなのだ。今まで考えていた分類や、進化や科学というものは何だったのだろう。しかしながら当然このような考え方は日頃からしてもいたわけで、知らなかったわけではない。しかし漠然と、分類方法の一つくらいにしか認識していなかった。しかし系統樹思考をもって考えてみると、まだまだ世界に終わりはない。いや、始まりさえ見えなくなって、その本質的なものすら分からなくなってしまう。知的興奮によって一気に世の中の深みや広さが爆発してしまったのだ。まさにこれはビッグバンで、それをあらわすのが系統樹なのかもしれない。
 正直にいって僕は、科学の方法と一度きりしかない偶然を含む歴史というものは、何か相いれないものがあると思っていた。しかしこの本を読んだのちは、歴史も科学であるという当然のことに目覚めた。歴史の瞬間や流れというものであっても、それは記述することによって、系統的につかむことによって、科学の方法として語ることができる。まさにそれが進化論であって、偶然の産物であっても我々は進化してきたのだ。そんな当たり前の事を目の当たりにして、そうして改めて考え直すことができた。そうしてこれは入口だ。なんと楽しいことを知ってしまったのだろうか。著者の博識の世界の一端を知っただけでも、読書の爆発的な広がりを予感させられるだけでなく、まだまだ読み進むべき道のようなものがあるというワクワク感にかられるのであった。
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じれったいダンボ   ダンボ

2020-10-26 | 映画

ダンボ/ティム・バートン監督

 オリジナルのダンボは太平洋戦争開戦のころに作られたらしいが(アニメ作品)、このリメイクは実写映画(ほとんどCGなんで、アニメのようなものだが)である。かなりの古典作品であるけれど、僕が子供のころにもテレビか何かで見た覚えがあるので、ディズニーとしては基本的に息の長い人気キャラクターなのかもしれない。しかし、今作品の監督はティム・バートンだから、素直な映画にはならないのではないか、と勝手に思って観ることにした。
 時代は第一次大戦後、いろいろと経営的に問題を抱えるサーカス一座の団長が、妊娠した象を買って興行の目玉にしようと目論んでいる。ところが生まれてきた小象は、やたらに耳が大きく醜い子(彼らの主張では)だった。醜いが為に執拗にいじめられ(客からも、団員からも)、母親象がダンボを守るために暴れてしまい飼育係の団員を殺してしまう。それで団長は母親を売り飛ばしてしまう。失意のダンボだったのだが、しかし、その大きな耳を使って羽ばたいて飛ぶことができることが分かり、その素晴らしい能力を発揮して瞬く間に大人気となり、興行的にも成功するようになる。それに目を付けたさらに大きな資本の大興行師が、ダンボを利用しようとサーカス団もろとも買い取って、ドリームランドという巨大遊園地に招いてさらに儲けようとするのだったが……。
 いろいろといいたいことのあるようなストーリーではあるが、まあ、ファンタジーとスリルのためだけの設定だということだろう。ダンボは人間の言葉を完璧に理解しているようだが、肝心のところは分かっていない様子もある。わざと危険な目にあわされ、さらに母親とも引き離されていじけているのに結局は空を飛んで成功する。出てくる子供たちの、特に女の子は大変に個性的で、実写なのにアニメ的な顔立ちである。これが一応キーにはなっているが、結末がこれでよかったのかは、僕にはまったくの疑問だらけだった。そもそもの話で考えると、このサーカス団の団長こそ糾弾されるべき対象で、諸悪の根源である。いい人ぶってるんじゃねえよ、とケチもつけたくなるストーリーだった。
 まあしかし、やはりこの監督はちょっと変わっているのも確かで、設定がおかしいのも、それはそれでいいのかもしれない。子供の悪との対峙の仕方においても、大人が分かってなくて理不尽に見えるというのも、ひょっとするとそれなりの真実がこのファンタジー観にあるのかもしれない。もう僕は子供ではないので、理解できないだけのことなんだろう。
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五十肩が治っていた

2020-10-25 | 掲示板

 前に五十肩のことを書いたが、肩の方はほとんど快方に向かっている。ちょっと痛いところは無いではないが、生活に支障が出るほどではなくなった。以前は風呂で体(特に背中方面)を洗うのに一苦労したが、そういうことが無くなっただけで、ずいぶん生活にゆとりができたような感じだ。誰彼構わずお礼を言いたくなる。本当にありがとう。
 しかしまあ頚椎から神経種が飛び出て大きくなっている関係で、二の腕にはマヒが残っているので、完全に快適なのではない。一応しびれの薬は飲んでいて、これを飲まなければもっとひどく痛んでいるのかもしれない。いや、時々ひどく痛いような気もするので、かかっている先生にそのことは言ったのだけど、まあ、痛いだろうけど、それは効いているのです、と少し訳の分からない説明は受けた。要するに本当はもっと痛い筈だ、という意味だったのだろうか? もっとすごい薬はあるような含みはあったが、そこまでしなくてもいいと判断されているのだろう。まあ、僕も腫瘍のことに関して自分でどうこうすることもできないし、もうあんまり考えてみても仕方ないかな、という方針である。痛みで目が覚める、というようなことも無くなったし、やっぱり少しくらいは効いているのかもしれない。それで夜に酒を飲んだりして薬を飲み忘れることもあるが、それで痛みがひどくなるかといえばそんなことはよく分からない。そういう感じの痛みとの付き合いが、これからも続いていくのかもしれない。
 さて、五十肩だが、実は40代のころには一度かかっている。その時は違う方の腕だったか忘れたけれど、それは二年くらい痛かったのではなかったか。それでいつの間にか治りはしたのだが、ともかく今回のように、半年程度ではなかったから苦しんだ。もう何時まで痛いのだろうと呆れながら生活していたし、それになんだか今より忙しくて、痛くても病院に行くとか言うこともしなかったように思う。今回も病院に行ったが、しかし先生はしびれの方にしか関心を示さずに放置されたので、勝手に治ったのは同じようなものだけれど。
 実はものすごく痛いときはあんまり動かさない方がいいとは言うことだが、それを過ぎると逆に動かした方がいいと、ある看護師から教えてもらった。その方はそうやって自分で治した、といっておられた。動かし方の注意までは聞かなかったが、無理のない程度にストレッチしたり、範囲をすぼめて回したりした。そういうことをやっているときに新聞を読んでいたら、菅首相は毎朝(散歩と)腹筋を100回すると書いてあった。僕は首相になる気は無いのだけれど(なれもしないが)、なるほど菅さんでも毎日頑張ってるんだな、と思って、しかし腹筋は得意でないし、腕立て伏せでもやるかな、ということにした。やってみると5回でだいぶ苦しい。なんだか情けないが、まったくできないではないのだから、毎日とはいかないまでも、出来ることは気づいたらやってみようということになった。だんだんできるようになって、20回くらいはできるところまできた。回数を増やすだけが能じゃないという話も聞いたので、じっくりやることにすると、ものすごく負荷がかかって、20回でも相当きつい腕立て伏せができることが分かった。僕は血圧も高いので、これで死んでしまうこともあるかもしれないが、ともかく腕立て伏せができるようになるのは、楽しいかもしれない。回数を増やすより、まあ、続けてみようということになって、ついでにスクワットもやったりした。散歩の方は一日に40分から一時間程度は、延べ時間では以前から歩く。そうしてやった日にはメモを付けて、自分の達成感を確認する。
 それで、ハタと気づいたのだが、50肩はどうなったのだ? いや、いつの間にか治っているのではないか! 
 腕立て伏せが役立ったのかどうかは、本当には分からないのだが、なんだか気づかないうちに治ったのは良かった。今は腕立て伏せをしたからといって筋肉痛になることも無いから、本当は負荷をさらにかける必要があるのかもしれない。無理をすると続かないので、体と相談して、そこらあたりのことは考えていこう。とりあえず菅さん、ありがとうございました。スピード感をもっていろいろ頑張ってください。
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シュールで笑えて懐かしい   コントラクト・キラー

2020-10-24 | 映画

コントラクト・キラー/アキ・カウリスマキ監督

 会社の人員整理で解雇され、失望し自殺を図るがうまく死ねない。自分の性格から自殺は難しいと考えて、殺し屋を雇って自分を殺してもらうことにするのだったが……。
 そのままとれば重い内容だが、実際はシュールなコメディになっている。殺し屋を雇った後に殺されるのを待っているのだが、その内花売りの女性と知り合い、段々と死にたくなくなっていく。しかし殺しを依頼した組織のあった場所は取り壊されてしまい、どうやって殺しのキャンセルをしたらいいのか分からなくなってしまう。それではどうするかというと、殺されないように殺し屋から逃げなければならないわけだ。
 これがカウリスマキ映画なんだというリズム感がある。説明は最小限であるし、悲愴な心情などは分かりにくいのだが、でもまあ死のうと考えている事情は分かる。しかし簡単には死ねないわけで、でも死にたくなったのは本当である。そうしてやっぱり生きていこうと考えるというか、考えを翻意する理由も、それは恋でありながら、なんとなく軽い。このままでは死んでしまうのだけれど、それで悩み苦しむわけではないのだ。
 途中の主人公が立ち寄る店で、ジョー・ストラマーが歌っていたりする。監督自身もミュージシャンだから、親交があったのかもしれない。もっともジョー・ストラマーは別の映画出演などもやっている俳優という顔もあるので、そういうことでこれは俳優の演技なのかもしれない。
 このような、ちょっとシュールだけど、なんとなくスタイリッシュな雰囲気もあるコメディが流行ったのも、当時の時代性もあるように思われる。どのくらい商業的に成り立ったものかは知らないのだが、このような映画が一時期はそれなりにあったようにも思う。今もあるのかどうかまでも知らないのだが、やはりあまり流行らないのではないか。それなりに面白いのだけれど、こういうのがやっぱりいいな、という人は減っているんじゃないか。いや単に今の商業路線で、企画が通りにくいかもしれない。そんなことも思わせられる、なんとなく懐かしい雰囲気を持った映画である。
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どこか知らない不思議の国どうしの……   金の国水の国

2020-10-23 | 読書

金の国水の国/岩本ナオ著(小学館)

 架空の王国同士の物語のようだ。そのA国とB国は、戦争をやっていがみ合っている。それを傍から見て困った神様が条件を出す、A国には一番美しい娘をB国に嫁に出すこと。B国には一番賢い青年をA国に婿に出すこと。その条件に従ってA国は猫をB国に差し出し、B国は犬をA国に差し出すことにした。普通なら裏切りや挑発だから大騒ぎだが、差し出された先に選ばれた男女の家庭が、それぞれにそのことを秘密にし、ごまかすうちにうっかり国境の森で出会い、仲良くなっていく。それからお互いの国のことを段々と知るようになり、新しい付き合いが生まれていき、お話は意外な展開をみせていくようになるのだった。
 のんびりした感じの恋愛劇かな、という雰囲気だが、一応最後のあたりにはちょっとした緊張感の漂う活劇もある。そもそもいがみ合っているので、いつも他国に行くと、それなりに危ないのだが、そういう状況を、やんわりとしたディベートでかわしながら生きていく。理屈はともかく、皆がその場では納得し、そうしていい気分にもなる。まさに政治の雄弁会のようなところであっても、そういうものは活かされ、基本的には皆が納得するから解決の道が生まれていくように見える。特に主人公の二人は、もともとそういう思想に長けており、こういう逆境にも強かったというべきかもしれない。
 これは、一応少女漫画というジャンルになるのかどうかはっきり知らないのだが、お話の構成自体を考えると、いわゆるおとぎ話という括りだけでもない。その上、ヒロインの女性は、いわゆる太目で、少女漫画的に一番美人という存在ではない。美しくないとは言えないまでも、少なくともそれなりにコンプレックスを背負って、そういう面ではひねてさえいる。そういう展開が、恋の展開を控えめにさせてもいる。いつも一緒にいるわけではないし、それぞれに頑張ってさえいる。そうしてクライマックスには、この世界をいわば変えてしまうのである。何かモデルになるような話があるのかどうかも知らないけど、なんとなく読んだことなかったような独自感の味わえる作品なのではなかろうか。漫画なのに一巻で終わっちゃうし、なかなかいいですね。
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典型的な犯人像は疑わしいか   リチャード・ジュエル

2020-10-22 | 映画

リチャード・ジュエル/クイント・イーストウッド監督

 デブでなんとなくめんどくさい性格の警備員リチャードは、コンサート会場で酒を飲んで騒いでいる学生を注意するが、聞き入れてもらえない。仕方ないので警察に注意してもらうように呼ぶと、学生たちが立ち去った後に、怪しいリュックが置き去りにされていた。普通ならビールなど持ち込みの飲料物が入っているものだが、一応テロの可能性があるため専門家を呼ぶことにするが、これが本当に爆弾だった。慌てて周りの人間を避難させ誘導している際中に爆発、結局一人死亡複数のケガ人が出る惨事となってしまった。
 爆弾の第一発見者として、いわゆる適切に動いたことで、多くの犠牲を未然に防いだヒーローとして、リチャードは一躍時の人となる。今までうだつの上がらなかった拳銃おたくのような男が、注目され一挙に話題沸騰となる。リチャードの母親も、息子が誇らしくてたまらない。そういう時の人として絶頂期を迎えた一方で、捜査の方では犯人が誰なのかまったく手掛かりがつかめていなかった。そういう時に何とかスクープをものにしたい女性記者が、捜査の方向として第一発見者が、こういう場合は怪しいこともあるという発言を聞き出す。そうして一気に時の人であるリチャードは、最も疑わしい犯人の容疑がかけられることになるのだった。
 イーストウッド監督は、現実に起こった事件にかかわる一般のヒーローを取り上げての作品を、いくつか撮っている。いわゆるドキュメンタリー的に事実のみを追ったものでも無いし、映画的にスペクタクルな商業作品でもない。今作品でも、ちょっとしたフィクションを交えて、女性記者が自分の性的な魅力で捜査官から情報を引き出す逸話を入れている訳だが、これが「女性は体を使う」というステレオタイプ問題(さらに実在の記者は故人であった。事実は死人に口なしということで捻じ曲げられたという批判もあった)として米国では激しいバッシングの対象となった。それに伴う映画のボイコット運動も起こり、それがすべての原因ではなかろうが、興行的にも低迷した。
 一方で、一般人である主人公の男が、安易なヒーローでもなく完全な善人でもない様が描かれており、それがこの映画の一番のステレオタイプ的でない演出であるともいえる。観るものによっては、こういう男が罪をかぶっても仕方が無いのではないか、と勘違いしかねない。そうでありながら、イーストウッドは、あえてそのような演出に徹していると考えられる。これは現代のSNSが一般的に浸透している時代だからこそ、批評性に訴える社会への警告であるともいえる。人は一面性のみでは表せない複雑なものがあって、そうして社会は安易にそのことに無頓着になりがちなのである。
 やはりなんとなく地味だし、無茶苦茶に面白いという娯楽作ではない。しかしながらイーストウッドが、あえてこのような映画を残したいという意義については、しっかり伝わる内容なのではなかろうか。
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エディのプレイは永遠です

2020-10-21 | 音楽

 エディ(ヴァン・ヘイレン)が亡くなったことは残念ではあるが、ああ、そうだったのか、とは思った。年齢も65ということで、まだ早いとはいえるものの、偏見もあるのか、ロックスターはあんまり長生きしない印象もあって、いわゆる普通である。亡くなってしまったことは残念と思うものの、やはりそれなりに距離感があるのかもしれない。また、近年のというか、比較的近年はそこまで興味がなかったかもしれない。
 でもまあ当然ながら中学生だったか(小学生だったかもしれない)、キンクスのカバー曲である「ユー・リアリー・ガット・ミー」を聞いた時には、かなりびっくりした。なんじゃこりゃ、って感じだった。もうそのショックで、ライトハンド奏法というらしいと聞きつけて、けっこうまねした。もちろんなんとなくそれらしくはできるものの、実際の曲の中でやるのは大変だったし、中途半端にやると、かえってカッコ悪いのだった。でも当然これが上手い奴もいるもんで、そういうのを見ると負けたと思って嫉妬して、もうやらなくなった。
 でも当時はとにかくヒット曲が多くて、またカバー曲である「プリティー・ウーマン」の時も、かなり多く人がコピーする対象になった。いや、正直言って他の曲は難しすぎて、一応古典的な曲で一部がエディっぽかったらよかったのだ。
 当時はカセットテープには階級的なものがあって、ちょっと高価なクローム・テープを買ってきて録音して聞いた。アルバムはファーストくらいしか持ってなかったが、他も欲しいが小遣いが足りない。それでせめて贅沢してクローム・テープで聞くような好きさ加減だったのだ。あんまりアメリカっぽいのは本当は好きじゃない部分もあったのだが、何しろエディの演奏が凄い。キロキロキロキロ、ギュイーン、ボーン、ガーンンとか。ブブブブブルブルブルウーーウーンとか鳴ってて、いったいどうなっているか混乱した。でもとにかくカッコイイのだった。
 そうして一般的な層には「ジャンプ」で大ブレークする。僕等ロック好きやギター少年に限らず認知度が上がって、凄いことになった。学校の運動会なんかでもバックにかかるようになっていた。とにかく大ヒットだ。
 でも正直に言って、僕らギター少年の多くは、これでエディがギターを弾く場面が少し減って、失望したのだった。確かに印象的だし、それなりに簡単だし、正直言っていい曲だとは思うが、エディはギターを弾きまくらなければならない。それもなんだかいとも簡単に超絶的なアクロバット奏法をやるからいいのだ。はっきり言ってこれほどうまくて速い人はプロでもそんなにいない。絶対いないわけではないが、ものすごく速く弾いていても、ちゃんとこれはエディだな、と分かるし凄いからいいのだ。初めてラジオから流れてくる曲でも、おお、来たなって感じなのだ。
 でもジャンプの入っているアルバムでは、「ホット・フォー・ティーチャー」っていう偉大な曲が入っていた。これはまた、ギター少年たちは熱狂した。もうほんとに凄い。ちょっとジャンルは違うけど、後にアメリカから出てくるグランジなんかにも絶対影響があるんじゃないかと僕は思うのだが、勝手な勘違いかもしれない。でも、ドラムもギターもものすごく速くてかっこいい。エアギターやって口真似で弾いている音を出しても、実際の音にはぜんぜん追いつかない感じがする。やっぱりギター弾かなくちゃって思うけど、いったいどうなってるんだか分からないのだ。歌詞はただのバカっぽいものだが、そういうのも含めてアメリカ人って凄いな、って思ってしまう。こんなにバカで凄いことは、ちょっと普通の人ではできない。そもそも普通ではありえないわけだが……。
 ということで、やっぱり残念だよね。ああいうスタイルはいつのまにか流行らなくなったけど、あの時代だからこそ、ものすごく輝いていたのは間違いない。それにしても、絶対にそれなりに練習してたはずだよな。あんまり努力の人って感じはしないけど、そういうのが透けて見えないからこそ、その凄さが際立っていたのかもしれない。ともかくエディが亡くなったことで、またヴァン・ヘイレンの曲が売れまくっているらしい。関係者や家族にとっては、少なからぬ置きみやげになっていることだろう。合掌。
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落ち込んだ時には回復できるはず   いとこのビニー

2020-10-20 | 映画

いとこのビニー/ジョナサン・リン監督

 西の大学へ転校するために車で大陸を横断している学生の二人が、途中ガソリン・スタンド兼コンビニで買い物をする。買い物かごが無いのか、たくさん買ったためにうっかり自分のポケットに缶詰めを入れていたことを忘れて、知らずに万引きしてしまった形になる。車を走らせていると後ろからパトカーがやってきて停められる。純粋な学生の二人だったので、万引きがバレたと思い素直に自分たちがやったと答えると、実は殺人事件の容疑で捕まっていたために死刑に値する自白をしてしまったことを知る。困った主犯の学生は母に電話して相談するが、母親はそれでは従弟が弁護士であるからそちらに送らせるという。で、やってきたいとこのビニーは、6週間前に司法試験に受かったばかりのなにもかも未経験のイタリア男だった。
 最初からハチャメチャなのだが、この弁護士ビニーは派手でセクシーなフィアンセと一緒やってきていて、南部の田舎町で浮きまくっているうえに、当然なじめないし、ひどい目にばかり合う。裁判官とは険悪になり何度も侮辱罪で裁判所にぶち込まれながら、弁護をしなくてはならない。しかし経験がないので、どうやって裁判を進めていいのかさえ知らない。もともと分が悪いうえに、さらに窮地に追い込まれていくが、しかしこの南部の田舎において何もかも気に食わないし、何とかしたいという情熱だけは芽生えていくのだった。
 そういうことで、後半にかけてどんどん展開が面白くなっていく。このような不条理な事件がそのまま終わっていい筈が無いことは、観ている僕らにはすべてお見通しなのだが、それらを解決するには、この頼りない弁護士では奇跡が起こらない限り無理である。しかし、奇跡的なことをするにせよ、なんとこの男は、実際には自分の実力を発揮して逆転して見せるのである。これが爽快でなくてなんというのだろう。
 もちろんこの映画は当時大ヒットして、特にセクシーなフィアンセ役のマリサ・トメイは、助演女優賞を取りブレイクする(その後いい作品にはめぐり合わなかったようだが)。
 そういうわけで、実は以前観たことがあったのだが、なんとなくまた観たくなったのだ。後半はほとんど知っていたが、しかしやっぱり面白かった。不良っぽい未熟な弁護士だが、しかし、変なりにそれなりにまともで可哀そうなのだ。まったくアウェーな戦いの中、唯一といえる味方のフィアンセにまで失いかける。でも、やっぱりいい話なのである。気分が落ち込んだら、こんな映画を観るといいのではないだろうか。
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血では貢献できないが……

2020-10-19 | HORROR

 そういえば先日所属する奉仕団体で献血を行った。僕はそのお手伝いに馳せ参じた。これは前にも書いたことかもしれないが、僕は血が苦手である。ブライアン・デ・パルマは好きな監督だが、キャリーは見返したくない。スタンリー・キューブリックは好きな監督だがシャイニングはあまり見返したくない。そういえば二つともキング作品だな。まあそれはいいとして、だからかもしれないがホラー映画もだいたいにおいて苦手である。まあ、映画だけの話では無くて、そのために実生活でもけっこう気持ちが悪くなって困っている。場は平気だし、内臓系は好んで食べるけど……。それは何でだろう?
 献血の意義もよく分かるし、気持ちとしては賛同しているが、こればっかりは致し方ない。実際に三十代のころに献血をする事業の担当副会長をしていて、立場上やらなければならない窮地に立たされて、バスの中で検査のためにちょっと血を抜かれたときにめまいがして吐き気を催し、そのまま意識まで遠のいて、長い間介抱されて迷惑をかけた。その時にバスに乗っていた看護婦さんからは、あなたのような人は、今後二度と献血にはかかわるべきではない、と叱られた。単に恐怖心でそうなってしまうのだろうと思われる。
 先日もまた血液検査のために血を抜かれたが、僕は血管が表面に出にくい体の構造をしており、またしても採血に一度失敗された。かなり具合が悪くなり、次は何とか成功してもらったものの、やはりちょっと立ち上がるのに苦労した。まあ、いつものことなんだけれど、採血の前にはマインド・フルネスや自己実況中継(メタ視力獲得)など様々な精神安定に努めているが、どれも効果がない。
 ということで、献血をするわけではないのだが、お手伝いはできる。受付のところは人がたくさんおられたので、他にも仕事があるはずとウロウロして、お子さん連れの方がコロナの影響で、子供を連れての献血ができないという相談があって、お子さんの見守り係となり、そのまま採血バス周辺で誘導案内などをしておりました。ほんとはちょっと仕事の用事があったのだけど、なんとなく後ろめたかった為なのか、時間延長して最後まで、片付けまでやりましたとも。ということで、臆病でも頑張った言い訳でありました。
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なんかこう気持ち悪いです   ボーダー 二つの世界

2020-10-18 | 映画

ボーダー 二つの世界/アリ・アッバシ監督

 違法なものを持ち込んでいることを、不思議な嗅覚でかぎ取る特殊能力があるらしい税関職員のティーナだったが、ある日何か異様な感じをかぎ取った男は、何も違法なものを所持していなかった。しかしながら何かの幼虫などを飼っており、ちょっと異常な感じには間違いないのだったが……。
 特殊メイクをしていて、見た目で異形の人たちであることは分かる。しかしなぜそのようなことになっているのかは、順を追ってみていかないと解けない。段々と明かされていく謎を追っていくと、何か禁断の異形の世界が、そこには見て取れるのだった。
 妙な映画なのである。特殊な能力があって、自宅に同居している男の飼っている犬には激しく吠えかられるのに、野生動物は親しげに近寄ってくる。特殊能力は、彼女がそもそも持っている出自に関して、大きな秘密がありそうなのだ。ティーナ自身もそのことは知らないようで、老人ホームに入っている父に過去のことを聞くのだが、少し的が外れたようなことしか教えてはくれない。そういう中で、謎の男のことはずっと気になっており、ついには自宅の離れに住んでもらうことにする。謎の男との関係によって、自分の仕事とも絡んで、生活は変化していくのである。
 虐げられた少数であるとか、被差別の問題が暗示されている物語なのかもしれない。または性差別なども。そういう描写が様々にあって、それで映画として年齢指定があるのだろう。いわゆるエロなのではない(そういう目的の人がいてもおかしくは無いが、気持ち悪いのでどうなのか)。当初劇場版は、ある場面でモザイクがかかっていたという。DVD版にはそれが無くて、観たらわかるが、そうでなければ映画として、表現がちょっとどうなのか、という気もする。見たいからそうすべきというか、物語の意味として重要である。そういうこともあって、人によっては生理的に受け入れがたいものがあるのかもしれない。しかしそういうことに向き合うために、あえてグロテスクに性に踏み込んだ作品になっているとも考えられる。
 注目を集めた上に批評家の評価が高い映画であるのは、そのようなテーマに、かなり直接的に向き合っているためなのである。それでいいのかはともかく、その嫌悪を感じているだろう観客に向かって、挑みかかってくる映画なのだ。それなりに考えさせられるが、まあ、気持ちは悪いかもしれない。
 そういうわけで、本当にいい映画なのかは分からないけれど、それでいいと開き直っているような映画である。変なもん観ちまったなあ、という感慨とともに楽しんでください。
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少年マサアキの思い出とともに   サイボーグ009「地下帝国”ヨミ”編」

2020-10-17 | 読書

サイボーグ009「地下帝国”ヨミ”編」/石ノ森章太郎著(講談社)

 おそらく小学生以来の読み返しだった。この作品が作られた時期は、僕の生まれる前からの連載のようだから、僕が小学生時代に読んでいた時でも、すでに古典的なものだったかもしれない。ところが連載は、その後も断片的に続いてはいて、僕の住んでいる地域では放映が無かったが、アニメでも人気があったようだ。僕の友人にこれをコツコツ揃えていこうとしている奴がいて、それを読ませてもらった。その頃はお小遣いで、漫画コミックを買う余力は無かった。漫画雑誌は床屋とかお好み焼き屋とか、友人の年長の兄妹が読んだ後のものを読んでいた。また、共働きの家庭の子供は、比較的に漫画本を買い与えられている傾向があって、そういう友人の家に行って、漫画を読みふけるということもやっていたように思う。まだファミコンなんてものも無かったし、僕らのような古典的な昔の子供であっても、外で駆けずり回って遊ぶというのは、限定的なものだったかもしれない。
 さて、この「ヨミ篇」というのは、009シリーズの初期の完結編ともいわれており、さらに有名な美しいラストシーンでも知られている作品である。読み返すべきはこれだ、と思って買ってしまった。
 いろいろあるが、地下世界に入り込んで、ブラック・ゴースト団と、地底人を交えて、複雑な戦いをする00ナンバーサイボーグたちの活躍を描いている。石ノ森作品だから、ものすごく絵が上手い上に、独特の丸みがありながらメカニックの仕掛けがふんだんにちりばめられている。設定においても根拠となる出典(ちょっと怪しいけど)なども明示されており、冒険活劇に一定のリアリティも与えている。でもまあ、基本的に荒唐無稽な活劇なんで、暴れ方は凄まじい。どんでん返しも頻繁に起こり、いかに連載を盛り上げて作られていたか、改めてよく分かる。ちょっと騒々しいきらいはあるが、子供たちは飽きることなく、むさぼり読んだのだ。
 今読んでみると、地下世界なのに途中からいつも明るかったり、最初から地上でやっても良かったと思われるものもあったりする。不思議な生物はいるものの、これらは地下で生活せずとも容易に地上の地球人を征服もできただろう。もちろん、このような戦いがあったからこそ、我々は平和な生活を続けられたのかもしれないが……。
 僕は友人からこの漫画を借りて読み、繰り返し模写した記憶がある。もちろん似ても似つかない絵を描いていたにすぎないが、似たようなストーリーでオリジナル漫画を描いたりもした。ほとんど完結することも無かったけれど、いろんな部分を寄せ集めて、自分だけが楽しんで読む作品をコツコツ描き溜めていた。母だけがそういうのを見つけて喜んでいたが、まあ子供のやることなんで、単に僕が喜ぶようにそのような反応をしたのだろう。段々と漫画家になりたくなって、父に頼んで石ノ森章太郎の漫画家入門と、手塚治虫の漫画の描き方の本を買ってもらって勉強したのだけれど、そうやってそれなりに本格的なまねごとまでやってたにもかかわらず、後にやっぱり飽きて描かなくなってしまった。改めて読んでいて、そういう日々を思い出した。あれはやっぱり、楽しかった少年時代である。
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