カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ロックの時間の流れは未来とは限らない

2022-01-31 | 音楽

 何がきっかけだったのか今となっては思い出せないが、ロバート・クレイが聞きたくなった。持っているはずだが、探すのがめんどくさいな、と思ってアマゾンを開いてみる。中古だと安いけれど、これは海外版かな、時間がかかりそうだ。どうしようとか思いながらよく見てみると、購入履歴2回と書いてあるではないか。前にも探すのが面倒で買ってしまったに違いない。自分のことながらしょうがない奴だな、とは思うのだが、すると2枚あるので探せるのではないか、ともひらめいた。ふつうそれが先に思うことであるべきだが……。
 で、探してみた。CDというのは小さいので詰めて重ねて保管してしまう。だからいろいろとひっくり返してみなければならない。アルバムの雰囲気というか、だいたいの感じは記憶してるけど、いろいろひっくり返すと他のアルバムも当然目に入る。引っ越しの時に昔のアルバム(この場合は家族などの写真のことだが)を発見して見ハマってしまったように、あれこれこんなのがあるな、などと感慨にふけってしまったりして、なかなか進まない。ちょっと休憩して結局ユーチューブでスモーキング・ガンだけ聞いたりしていたら、ありました。ちゃんと持ってたよ(当たり前だ)。
 で、聞いているのだが、やっぱりいいですね。CDをひっくり返したついでにベックのアルバムとかニール・ヤングなんかも掘り出して聞いたりして、なぜかレッチリもトゥールもファンカデリックも一緒に聞いている。まったく一貫性が無い。でもまあ一気に昔に気分が遡る。僕はそんな時代があったのだ。
 録音しておいたラジオ番組を通勤の時に聞いていると、コステロとニール・ヤングの新譜だってさ。前の週グリーン・デイの昔の音源やキング・クリムゾンなんかも新譜が出てたって紹介してた気がする。今はいったいどんな時代なんだ。やっぱり結局ロックっていうのは演歌のような感じで昔の人が聞いている分野なんだろうな、って改めて思う(※)。新しいのはノバ・ツインズがいいと思うが、これもなんだか古臭い感じがするもんね。若い人には新しいのかもしれないけど、知らないだけのことだろう。まあ最近はそういう話ばかりで、ヒップポップなんかもメロディがついて昔っぽくなってるし、もう何が何だか分からない。世界は時間軸としては混沌としている。まるで量子力学だな。

※ 実際演歌は僕の子供のころくらいから始まった分野なので、そう古いものではないらしい。いわゆるロックより新しい、歴史の浅い分野なのだ。
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海は広いな大きいな   海獣の子供

2022-01-30 | 映画

海獣の子供/渡辺歩監督

 アニメーション。原作漫画もあるようだ。父が勤める水族館に遊びに行くと、巨大水槽の中を自由に泳いでいる少年がいた。驚いて眺めていると(普通誰だって驚く)、寄ってきて、そのまま友達のようになる。彼はジュゴンに育てられたとのことで(こういうのはオオカミに育てられた少女→これは都市伝説で、そういう事実は存在しない→などの亜流なのだろう)、半漁人的な特殊人間という設定である。また彼には兄もいて、物語は海と人間とにまたがる哲学的なスペクタクルに展開していくのだった。
 正直言ってよく分からない作品なのだが、絵のスケール感に面白みのようなものがあって、やはりアニメーションだからこそ味わえる物語なのかもしれない。まあ、それはそれとしてお話としては、つまらないんだけれど……。
 原作の漫画は知らないのだが、知らないなりになんとなくは知っている部分はあるような覚えがある。それというのも作家の紹介がテレビか何かであったのを見たようなのだ。画力の高い漫画家のようで、その描かれている世界観が観ているものに感動を与えるのだろう。アニメーションはその絵が動くわけで、さらにそういう世界観の完成されたものを描き出せるということだったのかもしれない。確かに海の中の描き方には素晴らしいものがあって良かった。ファンタジーだし、そういう感じを音楽のように楽しめばいいのであろう。ただし先に書いたように、妙に観念的になっていて、ストーリーがなんだったのか、実のところよく分からなかった。何を言いたいのかさっぱり分からないのだ。観終わっても宙ぶらりんな気持ちにさせられてしまって、なんだ、終わったのか、と思った。ひょっとすると何か教訓的な話だったのかもしれない。今となっては、もういいのだけれど……。
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へんだけど凄かったことが分かる   へんな日本美術史

2022-01-29 | 読書

へんな日本美術史/山口晃著(祥伝社)

 これは少し前から積読していた。雑誌UPで連載されている「すずしろ日記」という1ページの漫画があるのだが、これは昨年末から購読するようになって楽しみに読んでいた。で本棚を眺めていて「あ」この人だった! という訳である。なんで気付かなかったのだろう。
 作者は現代では世界的に著名な画家らしいが(ググってみてください。ほんとにスケールが大きくて面白いですよ。実物を見てみたい!)、連載されている漫画の絵柄から、僕よりも当然はるか上の人だろうと勝手に決めつけていた。なんだか趣味も渋めだし、言ってることも失礼ながら爺臭い。ところがである。これはあんがい若さの裏返しだったのだろうと思われる。著書を見ると、その評論が尖っているのである。いや、それなりに気を使って面白くやんわりしているところはあるのだが、現役の画家として実直に作品に向き合っている真剣さがある。そうしてむしろ多くの人が犯しがちであろう現代人としての歴史的な視点の勘違いによる作品の見誤りやすさを、丁寧にずらして修正してくれるのである。いやこれがまた見事で、目から鱗がかなり落ちました。ほんとに日本の変な絵たちが、生き生きとよみがえるのでびっくりした、というのが本音である。
 へんな日本美術とはいえ、おそらく多くの人がすでに見たことがあるだろう有名な絵を中心に取り上げている。最初は鳥獣戯画だし、洛中洛外図もあるし、明治にまたいだ画家もいる。基本的には版画ではなく、筆で描かれたものを扱っているようだ。
 僕はアールヌーボーの話で日本画を見直したようなところがあるのだけど、多くの日本人も同じように、外国人から褒められないと自分の価値が分からないというのは結構あるように思う。しかしながら外国人にはむしろよく分からないというか、その当時の日本人が面白がってみたような絵画というものの方が、やはり日本人的に面白いものがあったのかもしれない。日本人が思う面白さだから、いくら良くても流行り廃りで消えた作家も多くいたかもしれない。また当時不遇でも見直されるとかいうのも、日本人好みかもしれないが、そのまま忘れ去られた人にも意味があるということも改めて教えられた。
 そういう遊びでいろいろと節操のない日本人の美意識というものが、当然絵画にも表れているということで、日本人論のようなことにもなっている。日本人である人の方が、この発見にびっくりさせられるに違いない。何しろそれほど僕らは既に西洋化されている。文字自体が美術である国の住人として、大いに反省させられたことであった。
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罪を背負ったものは、それを下せなくなる   ボーダーライン

2022-01-28 | 映画

ボーダーライン/ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督

 メキシコとの国境あたりで、麻薬取引に関する犯罪が頻発している。アジトに乗り込むと、凄惨な死体が山と見つかるような状況だ。警察の捜査側も、情報を探るために違法な拷問を繰り返している。そういう状況下では、致し方ないやり方ということなのかもしれない。そうして一人の女性捜査官は、国境における犯罪組織摘発のために、何やら軍とも連携して麻薬組織の奥深くまで探るプロジェクトに参加させられることになるのだったが……。
 最後の最後の復讐のシーンを見ていて、これは見覚えがある、とやっと思い出した。記録を紐解いてみると、18年に観ているよ。自分でもへえ、と思ってしまう。最後になるまでまったく気づかないというか、それなりにドキドキしながら観てしまった。まあ、面白く観たのだからいいのだろうけれど、なんとなく自分が悔しい気もする。記録を見る限りでは、前回はずいぶん辟易した気分にもなったそうだが、確かに復讐劇はひどすぎると思うし、西洋的な不寛容が現れていて、アジア人である僕には不快なだけである。馬鹿で愚かであるとも思う。しかしながら西洋人はそもそもそういう人々なんで、死んでも自覚なんてしないだろう。分からないものは仕方ないし、不幸が再生産されるのも、それもこれからの歴史の一コマなのだろう。
 ということで、ある意味ではそれなりに観念的で恐ろしい映画だけれど、続編がある。それもすでに観ていた。恐ろしい。
 ただし、映画を好きなそれなりの人々には、この映画はそうとうに評判がいい。それは何故なのかな、とも考えてしまう訳だ。一つは映画的によくできていて、予測不能だ。最初からショッキングだし、組織的な構図の中で、残酷物語が再生産されすぎており、一定の職業的な正義感というのも見て取れる。しかし、やはり何かものすごくはみ出してしまうのである。そうしてそれを、人間である個人が裁くことができるのか? それこそがこの映画一番のテーマだ。だからこそ、この踏み外した倫理観がドーンと大きく出ていることに、何やら割り切れないながら感銘を受けるわけである。考えさせられる映画は、いい映画である。そういう定義があるのならば、この映画はいい映画なのかもしれない。
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ボールペンで字を書く日常

2022-01-27 | 雑記

 ペンの話は何度かしている。文房具愛の強い人はあんがい多いと思うが、僕もその種の人かもしれない。偏愛とまでは行かないし、本当のマニアからすると申し訳程度であろうけれど、とにかくボールペンはたくさん持ってはいる。それでも定期的に買うし、つれあいにも買ってもらう。販売されているペンを集めているというような趣味は無いのだが、実用的に欲しくなる。そうして実際に使う。テーブルの上に数本いつも転がっているし、テーブルごとにも転がっているかもしれない。シャツはできるだけポケット付きのものを買ってもらうようにしているのは、胸のポケットにボールペンを入れておきたいからである。真夏にTシャツ姿になると、ズボンのポケットにペンを入れている。いつも持ち歩く手提げ鞄にもボールペンが入っている。いつもは胸ポケットのペンを使うので、誰かペンを忘れてきた人なんかがいると、喜んで貸している。別にケチではないが、特に差し上げるためではない。本当は自分が使う目的が第一なんだけど、貸出用に結果的になっているだけのことである。
 実際にどの場面でも使うのは、基本的にジェットストリームばかりである。これが性に合っているようで、ベーシックにはこれだけでいいと思う。時々サイン用にエナージェルも使う。書き出しの時にインクが滲むことがあるが、比較的サインの僕の名前が少しだけ映えるからである。あくまで個人的な感覚だろうけれど。以前は格好をつけてクロスのボールペンでサインしていたが、これは高級すぎていささか重たい。年に数回は使うかもしれないが、予備のインクも含めずっと引き出しの中である。
 気分でペンのにじみを作りたいときはフリクションボールを使う。文字が消えるのが気に食わないが、それが逆に売りらしい。僕は消しゴムが嫌いで、それで鉛筆を使わないのだが(字が薄いし)、わざわざ書いた文字を消すなんて心情がよく分からない。間違えた痕跡も後で見返せるのでいいのに……。消して書き直すのではなく、線を引いて書き足す方がずっと楽しいではないか。どうしてそれが分からないのだろう。もっともこれは試験用紙のようなものに正しい答えを書きたい衝動が残っている人用なのかもしれないけれど。
 インクも文字はそんなに好きではないが、持ち味ではボールサインも悪くない。しかしやっぱり字の引っかかり具合はよくないので、結局持ち歩かない。
 ものすごく安っぽくて文字も気に食わないのだけれど、ビックも時々使う。子供っぽくてちゃちだけど、フランス的ないい加減な気分になれる。ような気がする。日本ではこんな安っぽいの、作ろうと思っても作れないんじゃないだろうか。
 という具合の尽きない話になってしまう。でも今回ペンの話をしようと思ったのは、たまたま今使っているジェットストリームの濃紺の三色ペンのラバーの具合がちょっと古くなったので変えようと思っていたら、机の中にまったく同じ色の三色濃紺ペンが入っていて、いつの間にか入れ替わっていたのだ。ちょっと前に同じのがあるな、と思ってはいたんだけど、いつ取り換えたのかまったく記憶が無い。新しいと気付いたのは、まだシールが貼ってあったから。古いのは使っているうちにシールがペラペラしてきて、そうなると途中で剥がしてしまう。今机の中に入れ替えて入っている古いのは、だからシールが貼っていない。
 ただ単に、いつの間にそうなったのだろうと、自分なりに不思議なのだ。そうして以前に、どうしてこのペンの予備というか、同じものを買っておいたのだろうか。それはやっぱり僕の思惑通りのことだったのか。
 でもまあ、やっぱりラバーは新しいので安定を取り戻したし、使い勝手はとてもいい。詩や俳句でもこれで書きたいくらいだ。まあ、そんな趣味は無いんだけれど。
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馬鹿映画の傑作   ブックスマート

2022-01-26 | 映画

ブックスマート/オリビア・ワイルド監督

 副題に「卒業前夜のパーティ・デビュー」とある。日本でもあるのかどうか知らないが、アメリカの高校生は、卒業間際に大勢の友達を集めてホームパーティをやるらしい。もちろん酒やマリファナに浸ったりして、悪いことやり放題である。勉強一筋に頑張って有名大学への進学を決めているモリーは、そうやって努力した甲斐あって人生の勝ち組であると勝手に思っていたのだが、高校生活を遊びまくっているような同級生であっても、あんがい有名どころに進学を決めているという事実を知りショックを受け、同じ真面目仲間のエイミーとともに、派手なパーティーに参加することを決意する。そこで本当に羽目を外して、勉強ばかりだった暗い高校生活の鬱憤を晴らそうとするのだったが……。
 これまでの青春パーティ映画の定番と言えば、童貞オタク三人組とか、いわゆる青春エッチものが圧倒的に多かった。パーティで大人の階段を一気に駆け登ろう、という訳である。しかしながらこの映画は、勉強はできるが小太りで、そんなに性格はいいとも言えないさえない女と、その友人はレズビアンで内気で社交的とは言えない女子高生コンビである。二人は確かに親友であるが、他にちゃんとした友人ができないので傷をなめあっているような仲だともいえる。しかし年頃の女の子だから性には興味が無い訳ではないし、まじめだから勉強はしてきたが、やはり今時の女子高生であり、かなりハチャメチャなガールズトークを繰り広げる。いわゆる下品なのだが、卒業パーティそのものが、それにも増してきわめて下品極まりない世界なのであった。
 この映画の評価は非常に高く、その意味するところに興味があって観たわけだが、正直言ってかなり呆れたが、確かに面白いのだった。下品なトークの意味や内容はなんとなく分からないではないが、ところどころついていけない。たぶんアメリカの若者風俗と、日本の中年男性との感覚の乖離が激しすぎるのだ(当たり前だ)。翻訳も頑張ってやってるんだろうけど、本当にちゃんと訳してしまうと、もっと日本人には分かりにくいものになっているのではなかろうか。これらをガハハと言って笑いながら観る映画なのだろうけれど、今時のLGBTQの問題も扱っているようだし、他のマイノリティ差別配慮もなされている様子である。屈折した学園ヒエラルキーがあるはずだが、何かそういうことは健全に配慮されている印象を受ける。下品だけれど、意識高い系でもあるのだ。こういうのはちょっと今の日本ではまだまだ無理そうで、さすが多様社会のアメリカだな、とけっこう感心してしまう内容だ。校長先生だって問題があり、最大級に理解がある。そうして実際に大問題も起こしている様子なんだが、親たちだって最大限に寛大なのだ。これこそ恵まれた国におけるオール・リッチな若者の青春と言えるだろう。まあ、そういうことをまったく考えないで娯楽作を作ると、こうなるということかもしれないが。
 ということで、多少は頭がどうにかなるかもしれないが、馬鹿映画の傑作かもしれない。ただし恵まれた国の恵まれた環境の格差には目を閉じて、という前提付きなんだけど。
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ブースターありがたし

2022-01-25 | 掲示板

 三回目のワクチン接種を済ませた。二回目から8ヶ月以上経過したために、いわゆるブースター接種ということになったわけだ。ちょうどオミクロン株の感染拡大という時期でもあり、感染予防とか重症化予防という観点からも、ありがたいものである。病気としての脅威は下がっているとはいえ、いまだに感染者に対する偏見も強いし、感染者数だけを問題視する風潮は収まっていない。病気から守るためのワクチン接種のはずだが、事実上最大の目的は、風潮被害防止、であることは間違いなかろう。そんなことも言いにくい世の中にもなったとしたら、なおさらのことだし。
 前にも書いたが、僕は二回目接種でも熱を出して具合が悪くなった。だからといって接種しないという選択をする気はさらさらないので(そういうのは馬鹿げている)、今回もある程度は仕方ないな、という感じであった。頭が痛くなるのだけは嫌なので、一応薬は飲んでいた。その晩は何ともない感じだったが、朝方検温すると微熱がある。その後37.5℃前後が続くことになる。薬は継続して飲んでおり、頭痛は特になし。僕は体が弱いせいか、微熱でも普段はそうとうに具合が悪くなるタイプだが、食欲もあり、雑煮などでホカホカしたりして、体が動かない感じではない。あいにく外が雨だったということもあるので、出歩けなくて残念な感じさえした。
 そうやってだらだらとした一日を過ごし、夕食を食べて寝たわけだが、寝ていてすぐに目が覚めた。あ、これは熱があるな、とすぐにわかる感じだ。検温して暗闇で目を凝らしてメモリを見ると、38℃とあるように見える。うーん、弱ったな。確かに暑いのである。トイレに行って水を飲んで寝直す。すぐに目が覚める。38.4℃。布団の隙間を増やして涼しくして、また寝る。今度はなんとなく汗ばんできた。検温、38.6℃。まったく嫌な感じだよ。でもまあ寝られる感じはするので寝てみる。今度は結構汗をかいている。検温39.2℃。うわっ、まいったなこれは。体を起こしてみると、でもそこまで具合悪い気はしない。熱だけなら、乗り切れるぞ、と自分に言い聞かせる。でもまあ汗をかいているので、もうだいじょうぶではないか。着替えて、ウトウトして朝を迎え、検温37℃。やった。
 その後36.7℃となり、いつもの36.5℃にもなる。なんとなくすがすがしい気分だ。やっぱり平熱ってありがたいな。誰彼となく感謝したい気分だ。
 という顛末であったのだが、やっぱり書いてしまっての一番の懸念は、こういうのを読んで、かえって怖がる人がいるかも、ということかもしれない。今も左腕が腫れて痛いのは確かだが、まあ、そんなもんなんですよ、という感じなんだが、それが伝わるものなのかどうか。熱が出て大変だ、という話だったはずだけど、まあ、そんなもんだ、ということなのである。僕のような弱い人間でこんな感じだったけど、だからそれでよかったと言いたいわけで、それが分かってもらえるのだろうか。本当に感染すると、この安心感ではとても乗り切れませんよ、ということなんである。困りはするけど、何の心配もいらない。何故ならこれは副反応だから。思ったより熱が上がったな、という客観的な自分でいられるのである。そうして、僕以外の誰かも守れるかもしれないのだ。それってやっぱりうれしいことのように思える。具合悪くなって喜んでいるなんて、ちょっと変態めいているわけではあるのだけれど……。
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とにかくやりまくる二人   火口のふたり

2022-01-24 | 映画

火口のふたり/荒井晴彦監督

 親戚(いとこのなのかな?)の結婚式があるということで、プータローのケンちゃんは実家に帰る(と言っても誰も住んでいない)。すると結婚予定の直子がやってきて、新居のテレビなどの買い物に付き合わされる。実は二人は以前付き合っていたようで、一度だけ結婚前にやってもいいということになって交わる。そうするとケンちゃんは発情してしまって一度では収まりがつかなくなる。5日後に自衛隊の夫(候補)が戻って来るらしく、それまではやってもいいということになり、二人は何度も情事を重ねていくことになる。
 いろいろ事情はあるようだが、セックスにおいての相性のようなものがあるらしく、二人はそれに溺れている様子だ。はっきりとした回数までは知らないが、とにかく近づいては交わりぬくという感じになる。期間限定だが、その期間を惜しむように性交を繰り返していく。ポルノ映画ではないので、さほどのエッチさは感じられないが、ちゃんとヌードで交わっていて、熱演である。触れているとすぐに熱を帯びて、すぐに挿入に至る。事はそんなに長くなくてほどなく終わるが、しばらくすると繰り返している風である。それが毎日続いていくという感じだろうか。
 普通に考えて二人は愛し合っているわけだが、その関係が深いのかどうかはよく分からない。結婚相手ではないし、いとこなので血のつながりのようなものが無くなるわけではない。そういう親密さとともに、いい加減だけど離れられない宿命のようなものがあるようだ。確かに男には生活力はないようだし、そういう気力には欠けている。しかしながら性欲は旺盛だし、直子の肉体はこの上なく魅力的だ。直子も自衛隊で鍛えている結婚相手の凄まじいセックスよりも、なんだかいとこのセックスの方が感じるものがあるという。それって愛かもしれないし(もともと好きなんだし)、結婚という誠実なものではない、ある種の貴重な経験値のようなものなのではないか。
 最初は科白回しが説明的過ぎるし、ちょっと失敗しているような物語にも感じられたが、セックスばっかりの映画だけれど、なんとなくいいという作品である。特に直子役の瀧内公美の肢体が素晴らしい映画である。AV女優でもないのに、これほど脱ぎっぷりのいい女優さんって今時珍しいのではあるまいか。
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一人語り社会問題の解決法(とミステリ)「ミステリと言う勿れ(漫画)」

2022-01-23 | net & 社会

 ドラマの方は知らないが、話題になっているついでに漫画の方も話題になっているらしいと聞いて、検索したらそのまま無料で3巻まで観られる(期間限定、皆急げ)というので、読んでみた。なにを? って「ミステリと言う勿れ」。勿れは「なかれ」と読む。表題はよく分からないが、おそらく少女漫画(とはいえ大人の女性が読んでも少女漫画なんだろうか? また、僕のような後期中年男性が読んでも分野は変わるものでは無いにせよ、読んだ印象ではそういう分野に限らない、とは感じられるほど、男性的な感じもした(というか中性?)。が、後にそのあたりは語ります)なんだろうけれど、絵のタッチはそういうことかもね、という以外、万人に抵抗の少ない漫画ではないだろうか。というか、最初からいきなり警察が訪ねてきて、犯人に疑われる展開から目を離せなくなるだろう。面白いのである。
 主人公の整(ととのう)君という大学生らしいキャラクターが、とにかく面白いことになっている。見た目が天然パーマのアフロだが、それは特に漫画なので気にならない。実写ドラマだと気になるところだろうけれど。漫画的に美形なので、主人公だという差別化はすぐに理解できる。問題は彼の語りで、いわゆる事件の推理というより、少ない情報から捜査している警察内部事情や人間関係や言葉のアヤから生まれるその背景などのことを、感想めいた言葉で語りだすのである。そういう内容については大学生の男性が語っているというよりも、トランスジェンダーの女性側の意見であるものが多いけれど、今の時代性とこれからの普遍性を考えても、実に的を射ていることになっていて、水戸黄門の紋所みたいな威力を発揮する正論で相手を打ち負かしてしまう。もちろん推理展開もあって、よく考えてみると伝統的なシャーロック・ホームズなのだが、なるほど、伏線も含めて、よく考えられたミステリ作品なのだった。これなら確かにウケるでしょう。いや、お見事見事面白いです。
 まあしかし最初の一話が面白すぎる所為と、まだ主人公が謎だったので可能性として嘘をついているヒヤヒヤ感もあった訳で、まだ整君の過去の問題への興味があるにせよ、僕がこれから読むのかは不透明だ。実は連載されているらしい「月間フラワーズ」を思わず定期購読しそうになったのは事実なのだが、なんとか思案中に自分をリセットすることには成功している。まだまだ同時に読んでいる本も気になっているところであり、僕には時間が限られているのだ。
 しかしながらこの漫画の面白さとともに大きな魅力なのは、やはりジェンダー論であろう。整君の語られる理屈で世の中が変わってくれると、何より救われるのは多くの女性たちである。実に当たり前のことを言っているだけだが、漫画なのでその時は周りの人間が整君のお話を聞いてくれる。そうしてその言葉に、目を見開かれる思いのする漫画の中の人物たちを見て、読者の心も救われるところがある。自分もこんなことを言ってやりたい。そういう偏見の多い人々に活を入れてやりたい。そういう救いの言葉の数々なのである。
 ということで、僕らは実際に歪んで間違いだらけの社会の中で生きている。そういう足元まで揺らしかねない、啓蒙漫画であるのかもしれない。やっぱり定期購読すべきなのかもしれません。
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狭い社会とみてはいけない神   羊の木

2022-01-22 | 映画

羊の木/吉田大八監督

 原作作品があるらしい。漫画かな。魚深市というところは過疎の街らしく、少しでも住人を増やす政策として、本来保証人のない受刑者は出所できないルールだったが、法改正を受けて、10年という定住の約束をした人を受け入れる政策を実施することにしたのだった。それぞれ様々な事情を抱える受刑者が、過疎の不思議なまち魚深になじんでいけるのだろうか……。担当職員の友人を交えた苦悩の生活が始まることになるのだった。
 人殺しにも色々いて、酒癖が悪かったために嫌な上司を殺したりとか、やくざの抗争で別の親分を殺したとか、もともと暴れ者で暴行の末殺したとか、酒癖の悪かった夫から暴力を受け続け耐えかねて殺したとか、好きな相手からセックスのプレーとして首を絞めてやっていたら本当に死んだとか、もともと相手に絡まれてもみ合ってたら打ちどころが悪くて死んだ(何人か?)とかいうようなことのようだ。
 殺した経験があるからいつまでも人を殺すものではないとは思うが、一応人なんか殺したことのない人間にとっては、なんとなく付き合いにくい人々なのかもしれない。しかしまあ演出もあるから、それぞれかなり変な感じの人々にはなっていて、皆一様にかなり怪しい雰囲気を持っている。それらの空気が周りを乱してしまうのは、よく分かるという感じである。なんとかやりくりしていくものの、だんだんと不穏さが増してゆき、このまちの古くからの神事の在る祭りごとがあり、これにも何かこの町のそもそもの不穏な事情にもなっていることが、示唆されているのだった。
 ところで主人公の役場職員はアマチュアバンドをやっており、出戻り風の昔から好きだった同級生を誘ってバンド練習をようにやることになった。そこに一人のもみ合い殺し男が絡んできて、恋の嫉妬問題に発展する。そこで全体のほころびが大きくなっていくのだった。
 不穏な空気と何かいつ暴発するかわからない妙な緊張感が続く場面がある。もう、どうなるんだよ、と思うが、なんとなくのギリギリ感がいいのかもしれない。後半一気にお話は動くが、動いてすでに取り返しがつかないところまで突き抜けてしまうので、どう終結するつもりがあるのか不安になった。そうしたらもっと神々しいことになって、あっけにとられてしまった。これで本当にいいのかな。
 しかしながら中途半端に済んでいない問題もあるわけで、そういうのは漫画で読んだ方がいいのだろうか。個人的には受刑者が出所したからと言って、反応しすぎる方が怖いという気もするし、やはり一定の難しさもあるんだろうな、とも思った。日本ってホントに閉鎖的な社会なのかもしれません。
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夫の多い人生   大豆田とわ子と三人の元夫/

2022-01-21 | ドラマ

大豆田とわ子と三人の元夫/
 ここで紹介するのが適当かどうかはともかく、映画でもないし、連続ドラマなんてほとんど見ないので、個人身辺雑記的なここで紹介することにする。
 大豆田とわ子は三度の離婚歴があり、その都度名字を変えたので過去に会ったことのある時期において呼ばれ方が変わって面倒である。彼女はある設計事務所で働いているが、社長に抜擢される。女性である上に、下からのつつき上げもきつく、利益を上げづらく経営もきつい(会社のオーナーは任せっぱなし)。普段は娘と二人暮らしだが、ひょんなきっかけで、過去に離婚した元夫たちと最初に離婚した夫の店でよく顔を合わせるような関係に戻ってしまう。元夫たちは問題を抱えながらも、まだとわ子との思いを断ち切れていないようでもある。そうしてそれぞれの別の女性問題を図らずも抱えながら、複数人の関係も複雑化していくのだった。もちろんとわ子自身ととわ子の親友のカゴメやら娘の唄であるとか、会社関係者などの事情がスパゲティ状に絡み合ってお話は展開していく。
 僕は連続ドラマにはほとんど食指が動かないのだが、なんとなくうわさを聞いて観る気になった。むっちゃお洒落なトレンディ・ドラマのような感じではないらしいし、しかし観ていて面白いという。なんだろうそれは。それで見ていて思ったのは、確かに会話の妙があって、お互いのその場の関係性で交わされている言葉のアヤの世界観が、その進行を支えている。途中からいろいろと状況が変化するが、詳しい説明は特にない。交わされる会話で内容を補填しながら眺める。時にはダイナミックな恋の駆け引きになりそうにもなるが、あっという間に幕引きが行われたりする。会話の今こそが命で、その時に流れている感情の揺さぶりを楽しむお話なのである。
 強烈に恋を欲している時代は過ぎてしまったかもしれないが、だからと言ってもう二度と恋なんてしないと思っているわけではない。それにもしかすると、また結婚だって絶対しないなんてことも無いかもしれない。何もかもは終わりには近づいている世代かもしれないが、何もかもが終わってしまった訳ではないのだ。むしろそれなりの自由もあって(元夫は三人もいるにせよ)主導権だって持っている。この人はずっとモテてもいたかもしれないが、いわゆる今こそモテ期なのだ。それが楽しくないなんてことないじゃないか。
 という訳で、楽しめました。松たか子って、なんだかんだ言っても強いんだね。素晴らしかったです。
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望まない望みだけが救いの道   望み

2022-01-20 | 映画

望み/堤幸彦監督

 原作小説があるらしい。僕は未読。思春期の高校生の息子は、サッカー部だったが怪我をしてやめている。親子とのコミュニケーションもなんとなくうまくいかなくなっていく中、顔に痣を作ったり、ナイフを買ったり不穏な動きが見える。そういう中外泊したまま帰ってこなくなってしまった。心配する中、息子の仲間が殺される事件が同時に起こる。息子が関わっていることは間違いなさそうで、マスコミがこれをかぎつけ、連日報道陣が家を取り囲むようになってしまうのだった。
 行方が分からなくなっているのは3人いるようで、息子の友人を殺した犯人側なのか、それとも息子も一緒に殺されている可能性もある。逃走しているのなら生きているのだが、同時に犯人と考えられる。そうでなければ殺されているので帰れない訳だ。究極の選択というか、待っている側は、どう「望む」べきか? という物語のようだ。
 家族は両親と後は下の娘がいる。それぞれの立場で考え方が違うようになる。その望み方をそれぞれに描いているわけだが、最終的には父親が特に立場上窮地に立たされる。親としては息子を基本的に信じているのだが、怪しい出来事をつぶさない限りは、自分が納得がいかない。家出前の息子には、不利な証拠のようなものがある。父の仕事は建築設計をやっているが、関係者の中には、被害者の肉親がいる。連日の報道もあり、息子はすっかり犯人扱いされている。逃走者がなかなか捕まらず、時間の経過とともに父の仕事も干されていき、ますます窮地に立たされる。娘の受験のナイーブな時期でもあり、家族ともども経済的にも精神的にも、どんどん追い込まれていくのだった。
 残酷な物語だが、同時にこれは日本社会の村としての在り方でもある。要するに、じぶんたちに何の落ち度もないにもかかわらず(息子の犯罪の幇助をしたわけでもない)、村八分にされて、攻撃を受けるのである。その先は必ず破滅するよりないが、ただ一つだけそうならないのは、他でもなく息子が被害者として死ぬことなのだ。親として、そんなことを「望める」訳が無いのである。
 このようなテーマの物語は、すでにいくつか他に作品がある。それぞれ多少視点が違ったりするが、今作品は、加害者であるからこそ社会的な被害者である人間を、ストレートに描いている。これは殺人事件だからこそ、分かりやすい大きな問題だが、スケールを変えてみると、さまざまな出来事にも応用可能だろう。そうやって人間は、人をいじめていくのである。子供のいじめも似たような構造を持っているはずで、こういう問題は必ずしも特殊なひとごとではないはずである。そう思わずに見ている人は、単なる鈍感なだけだろう。
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刺身パックのまま問題

2022-01-19 | net & 社会

 夕食で刺身をパックのまま出したら夫の機嫌が悪くなって、どうしたの? と問うと「結婚した意味がない」とまで言われた妻が、さすがに頭にきて「私の配慮がわるかったのでしょうか?」と事の顛末とともにネットに愚痴ったら大炎上した、というのをテレビで見た。ちょっとネタっぽいところもあるけど、これは炎上するというより最初から勝負がつきすぎている。
 しかしながら別段僕に余裕があるわけではない。つれあいがパックのまま出さないことを知っているからそういう状況にはなりえないとは思われるだけのことで、自分がそのような境遇になりえないから考えなくてもいいという問題にはならない。この一応当たり前均衡の上に乗っかっているだけの状態が、安泰である保証はない。
 ところがであるが、僕はパックのまま刺身が出てきたとしても、おそらく不機嫌になったりはしない。そういうところがむしろよく分からないところかもしれない。パックのまま出てくるのと、例えば弁当屋の容器であるとか、コンビニなどご飯なんかもあるわけで、もうすでに文化としてそういう器のまま食べるというのに抵抗を感じない。家庭の食事なので別の器に盛るなどするのも調理のうちだというのも分からないではないと思うが、例えばそれが別に紙皿であっても問題ないだろうし、何がそこまで引っかかる要素なのか、ということの方がかなり疑問だ。
 パックのまま刺身が出てきたと言っても、ご飯はお椀によそうってもらったのだったら、どうなのか。みそ汁などはあったのだろうか。もしかしてコップ無しの缶ビールと一緒だったか。実は他に小鉢などはあったのか。パックの刺身を無造作に放るようにして出されたのではないか。などなど、実際の状況によっても怒りへの着火状態は違うものがあるのではないか。
 いや面倒なので元に戻ろう。たとえ上記の上な複数の問題が絡んでも、怒りを覚えるとは思えないが(それは僕が寛容だという意味ではない。むしろ僕は不寛容だが、そこには反応しないタイプであるということに過ぎない)、これは本当にジェンダー問題のようなことなのだろうか。そのようにしてパックの刺身が出たとしても、そもそもそれを買うのが妻であるという当然の前提から始めないで、どうして途中でそうなったのだろうか。そこまでは妻としてやるが、やり方には文句を言うなボケっ問題なのではないか。それくらいの手抜きの許容を広めたい運動なのではないのか。だとすると、それすらそれでいいのかどうかもあるのではないか。
 残業などで妻の方が遅くなって、夫の方が先に帰っていて、テーブルにはパックのままの刺身が置いてあったとする。それもなんだかな、というような状況ならどうだったのだろうか。そういう時くらい皿に盛るべきではないか、夫よ。という話だと、少しバランスがいいかもしれない。それでも、そこまでも求めなくても準備してくれるだけいいじゃん、なのか。いいや、お互い様だからそこまでするんじゃー、というような議論になると、この国の議論バランスはそれなりに整うような気もする。
 はい、僕はその思考実験の蚊帳の外だから言えるということなのかもしれませんね。すいません。
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頑張って書かなければ始まらない   小説の神様 君としか書けない物語

2022-01-18 | 映画

小説の神様 君としか書けない物語/久保成昭監督

 原作は相沢沙呼の小説。高校生なのにプロの作家である男女の二人がいる。しかしながら男の方は、すでにまったく売れなくなっていて、さらに筆が進まず苦悩している。彼には病気の妹がいて、その資金を作家の収入で賄おうともしている。父親も売れない作家だったらしく、しかし父は書き続けられる作家だった。自分はそれさえできないことに嫌気がさしている。もう一人の女性作家は超売れっ子で、何冊もベストセラーを生み出している様子だ。二人は同じ高校の生徒で、ある編集者の計らいで合作で作品を仕上げることになるのだったが……。
 書けなくなっている男子生徒のネガティブな思考に、終始イライラして罵倒する(時に手も出す)人気作家の女生徒との掛け合いが一つの流れになっている。作品のアイディアとプロットを女の方が伝えて、男の文章で完成を目指す。そうすることで着実に二人の作品がいい具合に出来上がっていこうとしている。実は女生徒作家にも問題があって……。
 まあ、青春物語で、この二人が軸なのだが、文化クラブ活動の文芸部の男の親友の部長と、その文芸部に入りたての部員のぶりっ子女生徒も絡んで群像劇めいた作りにはなっている。順番にそれぞれの事情が語られていくのだが、基本的にはネガティブでさらに自信も無いような事情や理由がある。しかしながらものすごい才能がある二人の現役作家がいるわけで(そうでなければデビューして出版できるわけがない)、この二人が過去の謎の事情を抱えながら創作をしていくわけである。
 作家を描いた映画はそれなりにあるが、仕事が書くことなので、今なら延々とパソコンに向かうことになって、内容的にはつまらなくなってしまいがちである。だからこそ書いている背景の方が、話の主体にならざるを得ない。書かなければ物語はつむげないが、その書くための苦悩は作家なら誰でもあることだろう。さらに作品が売れなければ生活できないが、多くの作家は専業で食えるものではないだろう。書き続けられるのは食えるからでもあり、小説は作品かもしれないが、あくまで商品だ。世の中に受け入れられなければ、作家は作家ではいられ続けないのである。
 そういうことであるから、人気作家の女生徒の方は、今後とも作家でいられる可能背が高く、人気のあんまりない男の方は悩んでしまうのは当たり前だ。もちろんラブコメなので、そこのところは楽しく描かれているということなんだろう。父親が売れてなかったという設定だが、生活できていたのだから、そこそこは売れていたのだろうけど。まあ、そういうリアリティを大切にする作品でもないのだろう。
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無垢な吸血鬼と対峙する   ヒルは木から落ちてこない。

2022-01-17 | 読書

ヒルは木から落ちてこない。/樋口大良+子どもヤマビル研究会著(山と渓谷社)

 副題なのだろうか「ぼくらのヤマビル研究記」ともある。三重県四日市の少年自然の家に集まった小中学生が、ママビルを研究対象にして活動した10年間のレポートのような形になっている(もちろん、今も続いている)。ヤマビルとはあの吸血動物のことである。題材の面白さもあるが、しかしいわゆる嫌われ者である。集まった子供たちは柔軟性もあって、ヤマビル研究に没頭していくが、子供をこのような研究会に出している家族でさえ、ちゃんとした理解をしてもらえない。そういうところが面白くもあり、しかし事の本質を難しくしている。ヤマビルは、暖かく湿った環境であれば、近づくだけでかなりの確率で出会うことができる動物のようだ。いわば研究材料としては身近に存在するものの、その実態は、実のところよく分かっていなかった。様々な事情があって、誤解も多い。表題の「木から落ちてこない」という事実を、綿密な研究で明らかにしたにもかかわらず、大人たち、とくに高齢者などは頭から信じようとさえしない。そればかりか、もう少しちゃんと観察して間違いを正すべきだ、と説教する輩まで現れる。実際に木から落ちてきたのを見たことがある、などという幻想を口にしてはばからない人だっている。そういう偏見や思い込みに対しても、丁寧に反論しながら、研究の成果を発表していく。多くの人は感心してくれはするものの、これだけ本格的で世界的な大発見にもかかわらず、やはり子供の研究だということもあってだろうか、なかなか世の中の見方というのは、厳しいものがあるのだな、ということも分かった。まあ、そういうところが読んでいて面白い訳だが。
 著者は元教師であるらしく、そのような子供たちの研究を見守りサポートしていく。どのようなやり方で研究を進め、ヤマビルの実態をつかんでいくか、ということを、まさに子供たちとともに格闘しながら眺め、まとめていく。あくまで子供たちの自主性を重んじながら、時にはその好奇心や根気強さなどに感心しながら、長い時間をかけて、本当に本格的な研究を積み重ねていく。おそらくだが、こうした研究というのは、専門の学術的なやり方ともそん色が無いフィールドワークの在り方なのだと思う。そういうことも実によく分かって、だんだんと子供だからという感心の目から、その研究そのものへの敬意へと気持ちが変わっていくのである。自然を理解し人間を理解するあくなき人間の好奇心という偉大な足跡を、このような形で追うことの喜びを発見できるのである。
 ヤマビルの実験のために犠牲になるカエルや鶏にはなんだか気の毒なところもあるけれど、そういうことも含めて失礼ながら面白い。もちろん彼ら自身も多くの血を吸われることをあまり厭わずに、素晴らしい。確かにあまり気持ちいいものではない気分というのはあるのかもしれないが、ヤマビルの可愛らしさの一面も理解できるのではないか。まあ、人間の狭量さというのは、そう簡単に打ち解けるものではないのかもしれないけれど、最初はそんな気分の人も、ヤマビルを含め自然の奥深さというものの一環くらいは理解してくれることだろう。
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