僕は無駄が多い割にせっかちなところがある。野球や相撲などのスポーツ観戦は大好きで、テレビでやっているとついつい熱中して観てしまう。見ているときに話しかけられても内容を理解できないことがある。そうやって熱中して見終わると、なんだかその時間が浪費されたような気分になる。熱中してしまうから、その時間がすっぽりと無くなるような、いわばいつの間にか時間が経過したように感じるのかもしれない。
働き出した頃、夕方に相撲があると、配達の車から降りられなくなったりした。ただ、相撲なら勝負が早いので何とかなるが、日本シリーズのように昼間に野球の試合をやられると困ることになる。気になるんだから仕方がないが、仕事に支障をきたすわけにはいかない。相手もあることだから、自分のわがままは通るものでは無い。
それで、いっそのこと見ないことにした。時々気持ちが揺れたが、一定期間我慢するとそれなりに慣れる。その上シーズンオフだってあるんだし、本場所だって二か月に一回だ。
しかしながらそういうことになって新聞で試合を確認するだけになると、あんがい選手たちの名前を本当に音で知らないという事ある。四股名は読みにくいものが多いし、野球選手というのは、どういう訳か変わった名前も多いものだ。時々本当に時間があるときに、たまに何かの間違いでテレビをみると、そのように知らない音としての名前を聞いて、ちょっとさびしい気持ちになる。もうずいぶん僕は知らないことを増やしてしまったな、と思うのである。
ところでしかし、駅伝やマラソンは録画してでもとにかく全部見る。早送りすることも無いではないが、これは流れを見ないことには面白くないからだ。野球や相撲は慣れがあって、試合結果だけでもなんとなく我慢できるようになったのに、マラソンはそういう訳にはいかない。苦しんで何度も駆け引きがあって、そうしてギリギリのところで勝負がつく。誰だって人より早く前に行こうとしているが、苦しいのでそれが出来ない。そういうことがわかるから、いや、そういうことは見ていないとわからないから、流れを見ないことには面白くない。
僕は特に意識はしてなかったが、サドかマゾっ気というのがあるのかもしれないな、と思う。その苦しんでいる人達の姿を見て、時々涙を流す。ほとんど馬鹿みたいだけど、本当に泣ける。
不思議なことにフラフラになって倒れそうな選手では、特に泣けない。お気の毒だとは思うけど、頑張ってくれとは思うけど、泣けるという事には少し違うようだ。
本当に泣けるのは、苦しんで粘ったけれど結局は勝負に負けて、そうしてインタビューなどで、さばさば話しているような選手なんかだと特に涙腺が緩む。そういう言葉の中に実は悔しさがあるはずで、悔しがって無いように見えても、さらに泣けてしまう。こういうのは、どういう共感なんだろうね。僕にもよく分からんです。