カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

じわじわして泣けること

2015-02-28 | 感涙記

 僕は無駄が多い割にせっかちなところがある。野球や相撲などのスポーツ観戦は大好きで、テレビでやっているとついつい熱中して観てしまう。見ているときに話しかけられても内容を理解できないことがある。そうやって熱中して見終わると、なんだかその時間が浪費されたような気分になる。熱中してしまうから、その時間がすっぽりと無くなるような、いわばいつの間にか時間が経過したように感じるのかもしれない。
 働き出した頃、夕方に相撲があると、配達の車から降りられなくなったりした。ただ、相撲なら勝負が早いので何とかなるが、日本シリーズのように昼間に野球の試合をやられると困ることになる。気になるんだから仕方がないが、仕事に支障をきたすわけにはいかない。相手もあることだから、自分のわがままは通るものでは無い。
 それで、いっそのこと見ないことにした。時々気持ちが揺れたが、一定期間我慢するとそれなりに慣れる。その上シーズンオフだってあるんだし、本場所だって二か月に一回だ。
 しかしながらそういうことになって新聞で試合を確認するだけになると、あんがい選手たちの名前を本当に音で知らないという事ある。四股名は読みにくいものが多いし、野球選手というのは、どういう訳か変わった名前も多いものだ。時々本当に時間があるときに、たまに何かの間違いでテレビをみると、そのように知らない音としての名前を聞いて、ちょっとさびしい気持ちになる。もうずいぶん僕は知らないことを増やしてしまったな、と思うのである。
 ところでしかし、駅伝やマラソンは録画してでもとにかく全部見る。早送りすることも無いではないが、これは流れを見ないことには面白くないからだ。野球や相撲は慣れがあって、試合結果だけでもなんとなく我慢できるようになったのに、マラソンはそういう訳にはいかない。苦しんで何度も駆け引きがあって、そうしてギリギリのところで勝負がつく。誰だって人より早く前に行こうとしているが、苦しいのでそれが出来ない。そういうことがわかるから、いや、そういうことは見ていないとわからないから、流れを見ないことには面白くない。
 僕は特に意識はしてなかったが、サドかマゾっ気というのがあるのかもしれないな、と思う。その苦しんでいる人達の姿を見て、時々涙を流す。ほとんど馬鹿みたいだけど、本当に泣ける。
 不思議なことにフラフラになって倒れそうな選手では、特に泣けない。お気の毒だとは思うけど、頑張ってくれとは思うけど、泣けるという事には少し違うようだ。
 本当に泣けるのは、苦しんで粘ったけれど結局は勝負に負けて、そうしてインタビューなどで、さばさば話しているような選手なんかだと特に涙腺が緩む。そういう言葉の中に実は悔しさがあるはずで、悔しがって無いように見えても、さらに泣けてしまう。こういうのは、どういう共感なんだろうね。僕にもよく分からんです。
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分からないことは幸福だ

2015-02-27 | 境界線

 ウルトラマンのデザインの元は弥勒観音菩薩とされている。さらに中性的で、あの恰好は人間でいうところの裸であるとも言われている。そのようなことは知らなかったし考えたことも無かったが、少なからぬ子供たちは、ウルトラマンが怪獣たちに苦しめられている場面で、何故か興奮してしまうという事があったらしい。いわゆる性の目覚めのようなものかもしれない。おそらく僕の場合はウルトラマン世代として少し若すぎたのかもしれない。
 確か吉行淳之介の小説だったと思うが、歯の治療を受けている女性の声を録音したものを、ポルノとして聞くような人がいるという話があった。それはなるほどとも思うが、同時になんだか悲しい話のようにも思えた。歯科医がそのような嗜好性を持っていたら実益を兼ねて幸福かもしれないが、それはおそらく誰にも明かせない秘密にはなるだろう。
 僕は男だから特にそう感じるのだろうけれど、男に生まれたという事の悲しみは、実はそういうことのようにも思う。本当には分かりえない趣味かもしれないが、しかしその悲しみは伝わるのである。分からない人もいるかもしれないが、それはたぶん幸福なことなのだろう。
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未来はバラ色ではない

2015-02-26 | 雑記

 春というのは好むと好まざるにかかわらず人事の季節である。そうして、あんがいみんな人事というものに興味があるらしいと思う。否応なく関係するのでそうならざるを得ないという事もあるんだろうが、居酒屋のネタというのは考えてみると人事関係のものが結構あって、共通の話題として盛り上がるというのがある。そういう話題が嫌いであると公言する人であっても、実はそういいながら人事のことを結局は口にする。まったくウンザリするがそれが現実で、別の組織ならいざ知らず、かかわりがある人間を巻き込むのが人事というもので、ゆえに人々は人事から逃れられない。
 そういう話題で、会社などの出世話という事なら、そういうポストを狙って努力するというか、期待されてがんばるというのは普通のことだろう。諦める人にも事情はあるだろうけれど、仕事の上の組織というのは、つまるところそういうものである。ところが、仕事以外のポストの話になるとこれはかなり別で、できれば避けて逃げられるように人は努力する。町内会の役員からPTAや、要するに必ずしも収益につながらないけれど時間を取られるもの、もしくは名誉職のようなものなどはその代表だろう。人間というのは社会性をもって生きている生物だから、さらに複雑な社会形成の中で、この人事問題が、最も頭を悩ませることになるかもしれない。
 しかしながらそうであっても、このポストは誰かが受けざるを得ない。そこに一抹のドラマが生まれるという事もあるが、普通は押し切られたり、責任感だったりすることが多いのではないか。そのような葛藤を経て受けざるを得ない人は尊敬に値すると思うのだが、しかしその勇気ある人が、必ずしも称えられるとは限らないわけだ。
 先日もそういう話になって、ある偉いポストがやっとある方に決まったそうだ。しかしそうなったらそうなったで、これをどのように捉えるのかというのは人によって違う。
「あれは何でも食いつくドンポ(という魚がいるのです)だからな。結局やりたかったんだよ」結果報告の後の感想はといえば、こういうことだった。ふーん。
 僕はこれの背景を知っていて、数年これで揉めていて、誰も次を受けないというので難航している人事だったはずだ。でもいざ決まると、これである。こんなだから誰もやらないんじゃないかな、と僕は正直に思う。
 という事で、やっと肩の荷が下りたはずなんである。これは一種の慰労という事になるのだな、と認識して杯を重ねることになる。しかしここから話は一転。そういうことで、今度は別の人事で別の役を受けることになった。ついては現職の代表は重ねてやるつもりはない。それは自分の主義なので曲げられない。よって後はよろしく、と言うのである。後は知らんから勝手にやればいいんだそうだ。そんな辞め方では皆が困るんじゃないかという意見が他の人からあった。当然である。いやいや、だからその次は実は決まっていて、それはほかならぬ僕らしいではないか! 
 素直に僕は「聞いてないよ」と言ったのだけど(それは本当のことだけど)、そうしたらその場の雰囲気は一気に最悪になってしまった。いったいこの責任はどうしてくれるのか。それはほかならぬ僕に対する圧力のようだった。
 まったくすまないことである。僕は世代論は嫌いだが、このような先輩が少なからぬ今の組織の頭に座る時代である。僕に役割があるとも思えないが、そのような不条理の中に生きていることは間違いが無い。自分の不運を恨んで人を恨まないというのが大人なのであろうな。
 僕は暴れることもせず、その場を立ち去ることもせず、結局カラオケでジュリーを歌った。昭和は遠くになりにける、なのであった。
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猫と人間の悲劇を断ち切ろう

2015-02-25 | 感涙記

 最近は猫のことをFBにおいてシリーズで書いている。猫本を読んで驚いたところを再編集して、私見などちょっと入れたりする。身近にいる猫だが、あんがい知らないことも多くて、改めて身近な動物と言えども知らないものなんだな、と思う。
 ところで、短い言葉ではなかなか伝えにくいことがある。犬猫は人間に愛されて広くペットとして飼われている訳だが、多くの人が知っている通り、多くのペットたちは、公然と捨てられ、一部保護されるにしても、実にたくさんの命が捨てられ殺処分されている。推定ではざっと犬が10万弱、猫が20万以上といわれている。数十年前には100万頭以上殺処分されていたといわれ、その数は確かに減ってきているとはいえ、実に恐るべき数字である。家畜で人間が食べるために殺しているのではない。生まれてきたものを単に殺している事実を前に、何も考えない人が果たしているものなのだろうか。
 犬の場合も問題が無いではないが、特にポイントを絞って考えるべきなのは、やはり猫である。もっとはっきり言うと野良猫問題だ。犬は事実上人間社会では、もしくは都市社会では、野犬としては生存が許されていない。特に日本では野犬は徹底的に殺処分され、事実上絶滅した。
 ところが猫の場合は、少しあいまいな立場がある為、野良猫は相当数存在する。猫は特に人間に危害を加える恐れが少ないために、ある程度ではあるが、放置されるためだ。また猫は野良でもあいまいな立場で、半野生で生きていくものもそれなりに多いとはみられる。
 しかしである。実際の野良猫の生存率というのは、実は結構厳しいものがある。一定数は野生下では生き延びられず、均衡を保って、地域で生き延びているということだ。その数がどの程度が適当かは人間も決められないことだろうが、自然下という考えでは、極力介入せずに保護する考えが必要になるだろう。
 すべて前置きだが、しかし野良猫にも人間がやはり色濃く関与している実態があるわけだ。
 猫がかわいくて餌をやる行為については、単純に咎めることは確かに難しい。野良ながらになんだかなついて、寄って来れば餌をやるくらいに、目をとがらせるべきことでは無いかもしれない。人間にも事情があって、例えば一人暮らしのお年寄りが、庭に遊びに来る猫の姿だけを心のよりどころにしているというような人に、何かをいう事が果たしてできるかという事も考えないわけではない。
 ところが猫というのは、栄養状態が良くなれば、途端に繁殖能力が増すことがわかっている。普通、発情期は年に一度で、さらに生存率から考えて、そのうち3匹も生き残ることは稀といわれている。ところが人間から定期的に餌やりを受けて栄養状態が飼い猫並みに改善されると、発情期は年に2回、3回と増えるらしい。また生まれる個体も増える。生存率も上がり、さらに倍々で爆発的に増えることがある。最初はやせ細った野良猫が一匹遊びに来ていたものが、続々と仔猫を引き連れて現れるようになるはずだ。そうなると一気に近所から苦情が寄せられるようになり、結局は保健所が出動して捕獲・殺処分という流れになる。人間の介入による自然界の秩序というのは、実に簡単に崩れるものなのだ。
 さらに問題だと思われるのは、それでもそういう原因の意識を持つ人というのは、実に稀だという事だ。誰も悪くないのに、猫の死体だけは増えていく。それは本当に不毛なことでは無いか。
 もっともっと悲劇は続く。実際に殺処分にあたっている人間にも、感情があるという事だ。多くの獣医を含め動物関係に携わっている人間というのは、実は子供のころから動物が好きで、少しでも多くの動物にふれ、さらに少しでも多くの動物の命を守りたいという思いを抱いてこの世界に入ってくるのだ。しかし現実は主に動物の死刑執行人である。これほどの悲劇というのはそうそうあることでは無い。そのような人を救済することは、人間社会としても必要なことになるのではないか。
 野良で生きる猫たちの可愛さに、ほんの少しだけふれているという感覚が、実は裾では大変に大きな、そして解決の難しい問題とつながっている。大げさな話なのではない。それは、単純な想像力があるかないかの問題なのだ。そして人間には、自分で考える力があるはずなのだ。
 悲劇の連鎖を断ち切るのは、実は小さな行動一つだという事を、やはり啓蒙して知ってもらわなければならないのである。
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ノレない理由を考えてみたけれど…   アントキノイノチ

2015-02-24 | 映画

アントキノイノチ/瀬々敬久監督

 映画的にははっきり言っていま一つだが、企画的によかったのだろうな、と思う。原作がさだまさしで、若手の俳優も売りになり、脇を固めた俳優陣も話題性がある。内容としても興味深い感じもするし、そのような中での演技合戦も丁寧に描かれている感じだ。もちろんそれらが上手く行く場合はあるとは思うが、要するにそれらが上手くいってないという事かもしれない。それらしい感じであるのに、実際にはそれらしくなく、つまりまったく上手くいっていない。どうしたのかな、と皆思いながら頭をかいてしまう。
 時間の使い方かな、とも思う。間、ということか。吃音のある人を知らない訳ではないが、そのこととのギャップが大きいのかもしれない。確かに慣れるまでぎこちなさを感じるのだけれど、それなりに慣れるというのがある。集団だとなかなかそのテンポがつかめないかもしれないが、しかしそれは慣れるたぐいのものだ。そういう共有の時間が映画的にむつかしい。そんな感じかもと思う。
 いじめ問題もそうかな、と思う。これだけの反撃が出来るなら、とも思う。分からないくせに言うな、と怒られるだろうか? でも、やはりそれらしくない。これは願望の話かな、とも思う。邪悪な理由もよく分からないし、傷ついた人間同士の分かり合える感じも分からない。いや、実際は想像力で分かるような所は分かる。映画としてそこまで行けてない感じが最後までする。苦しさの狂気がきれいすぎるのではないか。
 ところでしかし、それはやはり当然なのだとは思う。俳優さんたちは一般の人たちより美しい人が多い。それ自体が人の興味を呼んで、それが興行になる。だから夢のような話で十分いいのだけれど、映画のお話を追う場合、それが大変に邪魔になるという事がある。結局そのことを超えて何かが演じられなければならないのではないか。そういう思いが残ってしまって、やはり残念な思いがするのだった。
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自分というのは才能だけで生きているのではない   ジャージー・ボーイズ

2015-02-23 | 映画

ジャージー・ボーイズ/クイント・イーストウッド監督

 アメリカという国のエンタティメントの懐の深さというのは、こういう映画をみると、改めてよく分かる。実話をもとにしているのだが、時代を席巻したような、それも見事な歌声のグループの再現をしているのに、現代の俳優がそれを演じて、しかしほとんど遜色が感じられない。いや、正直に言ってそりゃオリジナルはもっとすごいかもしれないがよく知らないし、むしろこれはほんとに凄いことになっているという現実の興奮がよく分かるのだ。それは昔のことだからという以上に、現代的にこの役者たちが素晴らしいからだ。実際にミュージカル作品を映画化しているという事で、その舞台俳優たちがそのまま映画の世界でも演じているという事なんだろうけれど、しかし実に映画的な文法で、しかしミュージカルの楽しさも十二分に発揮されている。さらに、本当に泣けるのである。
 人間ドラマは非常に滑稽で楽しいが、それでいて本当に深い人間的な悲しみでもある。夢を達成して売れに売れまくって、そうしてある意味で本当に世界をわが手にしていながら、様々なものは損なわれ、もしくは最初から張りぼてで、崩壊する。それだけならそれだけの話なのだが、しかしそれでも人は生きていく。人生の意味なんかはよく分からないが、成功しようがしまいが命のかぎり生きていくより仕方がない。栄光を手にした人間はしかし、その栄光の残り香だけで生きているわけではない。そういう人生経験そのものが、やはり生きていくそのものの姿なのだ。
 素晴らしい話なのだが、芸能の世界で生きる彼らは、実はものすごく狭い社会の人間関係を引きずってもいることがわかる。それはイタリア系という意味もあるのかもしれないけれど、まるでそれは日本のやくざの仁義の世界とさほど変わらない。考えようによっては友情物語と考える向きもあるかもしれないが、基本的には過去の自分に何かの恩義があって、その恩にアダで返されるようなことがあっても、現在の自分を鑑みて、やはり仁義として答えるものを大切にしているように見える。それはひょっとすると自分でも間違っているかもしれないと考えている。考えているけれど、選択としてその仁義に生きてしまうのだ。そのために誰が救われるのかは分からない。だれも救わないかもしれないし、そうしたとしても感謝さえされないかもしれない。しかし間違いなく自分の成り立ちとして、そうしてそのあとの自分たちの人生として、そのような間違いかもしれない選択をしなければならないのである。それは才能がある人間だからやれたという事では必ずしもない。いや、少なくともやれるだろうという環境にはあったかもしれないが、それでもそれなりに無理をして成し遂げなければならないものだ。本来は自分の側の仲間であっても、同意して協力するとは限らない選択を、あえて堅気である自分はやるのである。そういう不条理のようなものこそ人が生きていることの変なところで、同時に妙な面白さと言えるかもしれない。ストレートに楽しい映画でありながら、そのような不思議なところもちゃんとある。そうしてそのことに、僕ら人間は深い共感を覚えるのである。まさに、素晴らしきかな人生である。
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似たもの同士はいつまでも   白夜行

2015-02-22 | 読書

白夜行/東野圭吾著(集英社文庫)

 ガリレオの短編には少し失望したので、もう少しで読まないところだったが、たまたま手に取ってしまいそのまま読了。ほんとに同じ作家の作品だろうかというくらい出来が良い。というか、実際にはいろいろ不自然だが、もともと不自然な話だし、それでも構成や読ませる力として、大変に優れたエンタティメント作品だと思った。お話が気に入るとか気に入らないとか関係なしに、先を読まずにいられない感じで、確かにそれなりに長いのだけれど、面白く展開するので、それでいいのである。これにはまる人がいるのは当然だと思うし、これからも気になって手に取ってはまる人がいて当然である。先が気になって読むから謎解きが重要なのかというと、実はどういうことだったかは薄々わかっていながら読んでいる。途中のトリックやら性癖やら、異常なものがあるのだけれど、解釈はそれなりに自由でも良かろう。そういうところは厳密に推理小説の枠からそれなりに逸脱している。だからこそその分自由度が増えて、物語が活き活きしているという事になるのかもしれない。制約から自由になって、ドラマに力が出ている。人物が振り回されて感情が揺さぶられるのが、対照的に残酷に納得できる感じかもしれない。
 お話が成り立たないので実際にはどうでもいい話だが、このような純愛めいたものが成立するためには、やはりある程度はそれなりに純愛が無ければならないような気もしないではない。お互いにダークに徹しているので常人の理解を超えてこういうことが出来るのだという事でもいいのかもしれないけれど、基本的に強い絆でつながるためには、割り切れない何かがあっていいとも思う。むしろそれなしに強いところは、お互いが勝手にやっている、付かず離れずなら分かるのかもしれない。途中は一切描かれないので読む方が勝手に想像するより無いが、必ず逢瀬が時折あるはずなのである。その苦しみや屈折こそが、これほど強い絆であるはずという思いが強くなる。最終的には計算外のものすごい偶然の力で、もろくも二人の犯罪が暴かれることになるが、それがあまりに皮肉な偶然であるからこそ、残念ながらリアリティは無い。ここだけでも必然的に刑事の行動で暴くべきだったというのが、個人的な思いかもしれない。それだけ思い入れが強くなりすぎて読んでしまったかもしれず、やはりそれは作品の力強さゆえの気分なのだろう。ダークだけれど楽しい読書体験という事で、得した時間だった。ただ、やはり分厚い本なんで、文庫本とはいえ持ち運びには苦労した。破いて分割して読めばよかったかもしれない。しかしそれも安価で手に取られるような配慮なんだろうか。そういうところが出版社の、ちょっと不思議なところかもしれない。
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結構ギャグっぽいかっこよさ   アウトロー

2015-02-21 | 映画

アウトロー/クリストファー・マッカリー監督

 トム・クルーズのための映画。小さいのに頑張っている。とにかく老体に鞭打ってかっこつけているのだが、それがなんとなくギャグにもなっていていい感じだ。もともと演技が下手な人なんで、こういうわざとらしさがちょうど具合が良いという事も言える。そりゃ無いでしょう!というのも随所に見られて、最後まで楽しめた。
 しかしながら最初からの一連の謎解きはそれなりにスリリングだ。黒人刑事が鋭く謎を解くのかと思っていたら、さにあらず。被害者がかわいそうだなあ、と思っていたら次々と被害者たちの謎まで解けていく。計算されていた無差別人だと推理で解いていく様は痛快だ。後半になるにしたがってその様はミステリ感はどんどんしょぼくなって、あとはアクションの都合で設定されているようなことになっていくのは残念ではあるけれど、まあ、正義だけどなんとなくダークな感じも、悪くないと言えばそうである。アクション映画だからアクションが大切なんで、妙に気取り過ぎてない程度にスタイリッシュで、時折ちゃんとリアルなところがあるのも好感が持てた。悪役のダークな雰囲気も悪くなかった。
 武骨な男のドラマを楽しめばそれでいいというのはあるんだが、こういうアクションにつきものの美女の登場というのは案外少ない。弁護士役のヒロインもびっくりした顔は印象的だけど、それ以上の事ではない。適役の殺される女の子も可哀そうだったが、しかしやはりそんなに重要でもなかった感じだ。むしろ主人公は何で飯を食っているのかよく分からんし、なんでも知っている風にふるまっているけれど、要所要所で簡単なミスを犯しているように見えて危なっかしい。基本的には笑うべきところという事なんだろうけれど、やはり強いだけじゃなくて運も必要なんだな、とついつい考えてしまう。せめてもう少し怪我をして満身創痍で勝利するというくらいが、本来的な武骨なかっこよさではなかろうか。もしくはちょっとダークなヒーローという事もあるんだから、せめてもう少し不健康な生活を送っていても良さそうだった。まあ、シリーズ化される感じらしいから、これでも十分支持を集めていたという事なんだろう。次はもっと荒唐無稽に頑張ってほしいところである。
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黒人差別のみでなく、人間の本性だ   それでも夜は明ける

2015-02-20 | 映画

それでも夜は明ける/スティーブ・マックイーン監督

 アメリカの暗黒史ともいうべき時代の物語。実話をもとにしているという事もあって、実にリアルに残酷な映画だ。ほとんどマゾにしか楽しめない内容であるけれど、もちろん、マゾでない人に観てもらいたいという事だろう。その時代のアメリカ人の残酷さを描いているわけだが、しかし、これはアメリカ人が野蛮だから行われたという事ではない。むしろ近代的な時代になりつつあるからこそ、このようなことが行われたという事も言えて、その当時の日本を含め、階級があるような社会が普通であった情勢から脱皮するような時代だからこそ、アメリカのような地方で、このようなあからさまな差別がなされていたという事も言えるのではないかと思う。特に黒人というのは、ごく普通に見た目で人種が違う。もちろん黄色人種は無差別に虐殺されたのだろうけれど、黒人は白人社会と境界もありながら混ざっている存在であったかもしれない。もちろん多くのアフリカの黒人は、現地で狩られて連れてこられたということで、最初から人間以前の動物という見方であろう。しかしそういう人と既に北部などに白人と混ざって住んでいるこの映画の主人公のような人もいたわけで、見た目で区別がつかないのなら、アメリカ大陸で誘拐して奴隷売買をしてしまおうという事が起こったのかもしれない。主人公はそういうことを、騙されたとはいえ気を許して信用し、人生を狂わされてしまう。自分の力ではどうにもならない差別であるから、何もやりようがない絶望の毎日である。それでも慎重に逃げる努力をするが、ことごとく道は絶たれてしまう。最終的には、実際上の奇跡が起こるわけだが、そのことでも、命が救われたとはいえ、本当に救われたことになったのかは大いに疑問だ。
 一昔前に、どうして人を殺してはならないのか? という疑問に大人がどうこたえるのか、というような変な議論があった。そういうことについては、特に僕は重要な問題だとは考えていないが、しかし、時に人は人を殺していいのではないかと考えることがある。それは、これは映画であるけれど、このような状況下での白人たちは、拷問の上に殺されてしかるべきだという感情を持つからである。それが人間の憎悪というものなのだ。これだけのことをしながら、おそらく人生をまっとうした人々が大勢いたという事実に、激しい怒りを覚えるわけだ。しかし歴史は変えられない。変えられないどころか、いまだに西欧社会は日本のような黄色人種に対して、差別意識を捨てていない。代表的なのは捕鯨問題などもあるが、現在の法の元にも、堂々と差別をして憚らないのが人間というものなのだ。慎重に言葉に上がらない配慮をしながら狡猾に差別をしてしまうというのが人間の本性であって、そのような残忍さを、良識で覆すことは困難である。要は、ちゃんと自分で考えるより無いのである。
 監督さんは有名な俳優さんと同姓同名だが別人の黒人であるようだ(俳優は故人だから当然だ)。製作には出演もしているブラット・ビットだ。作品以前にそのような思想も見え隠れするのだけれど、そういうことも含めて、人間というものは恐ろしく罪深い。堪える映画だが、我慢して観るより無いだろう。
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コロンボは弱肉強食社会を描いている   死者の身代金・刑事コロンボ

2015-02-19 | コロンボ

死者の身代金・刑事コロンボ/レオ・ペン監督

 犯人の殺人の目的が徐々に明らかにされる訳だが、いわゆる強欲で、出世欲というか弁護士界の大御所を使ってのし上がるために計略結婚をし、いらなくなったので殺した、ということになるんだろう。さすがという気もするし、しかし既にもともとやり手という感じで、いらなくなって殺したりしなくてもいいんじゃないかと思えるのだった。何しろ年の差があって、それなりに夫は良い人だったようにも見えて、策略で結婚できたなら、それはそれで許してくれた、というか、普通に離婚も出来たのではなかろうか。何も悪いことをしたわけでもないだろうけど、慰謝料のようなものだって支払ったかもしれない。
 もちろんそれでは殺人は起こらない。殺人が起こってからの謎解きが問題なのだから、そんな意気地のないことを言っても仕方があるまい。誘拐事件にのこのこついてきて、地元の殺人事件容疑が上がるまでお預けを食らうコロンボの姿は滑稽で楽しくはあるのだが…。
 結局どのように殺したかというようなことは、すべてコロンボが推理で解いているということは、娘の行動などから推察される。証拠が無ければ逮捕できないというようなことなんだろうけれど、十分論理的に落とし込めるレベルだろう。しかしながらそうであっても、相手を貶めてギャフンと言わせなければ爽快感が無い。そういうミスをちゃんとやってくれるという計算が、ほかならぬそのような強欲さのある女ならではだからこそ、ということなんだろう。しかしながらそれなりに負けず嫌いなところも見せている女性が、負けを認めるように娘に譲歩するのかというのは、やはり疑問にも思う。彼女だって目障りな娘をギャフンと言わせたかったからに違いないからだ。それともその復讐は、後に取っておこうという魂胆だったということなんだろうか。
 コロンボのような推理ドラマが面白いのは、やはり犯人が悪いに越したことがない。人間というのは共同体を作る生き物なので、裏切り行為というのが許せない習性があるのだろうと思う。裏切り者に制裁を与えることは、だから感情的に娯楽なのである。できればそれも効果的にやってもらいたい。コロンボの相手を欺いてまで復讐を遂げるような捜査のやり方は、だからこそ支持を受けるものなのかもしれない。さらにこの狡さは賢さの証明でもある。西洋人というのは、あくまで弱肉強食の社会なのであった。
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神は細部に宿る   ピアノマニア

2015-02-18 | 映画

ピアノマニア/リリアン・フランク、ロベルト・シビス監督

 ピアノの調律師にスポットを当てたドキュメンタリー。ピアノに調律が必要なことは理解できたが、こんなにもすさまじい職業だとは知らなかった。すえつけてあるもののメンテナンスもかねて、調弦したらいいのだろうくらいのものかもしれない。馴染みは無いが大きな楽器だし、そもそもそんなに調弦の必要なものなのか。まあ、必要だからこんな人がいるんであって、さらにピアニストによって調弦を調整するなんてことが行われているなんて誰が知りうるだろうか。近くに寄りたいものでは無いが、このすさまじい変な世界が面白くないわけが無いのであった。
 普通の楽器は、調弦はたぶん演奏者本人がやるものだろう。ひょっとするとピアノだってそういう人は居るかもしれない。何せ音楽は音に気になる人が多い可能性がある。後半のピアニストの要求は、素人目には軌道を逸していて、本当にそんなことがわかって、なお、そんなに追求するほどの音の違いがあるのかはなはだ疑問に感じたが、分からない人間にとってはそんなもんだということに過ぎないのかもしれない。この調律師が居るからなんとかなるようなもので、いなかったらどうするのか。録音どころか演奏も出来なくなるのか。さらに不満なままやり過ごすしかないのか。それは分からないけれど、非常に迷惑な人には違いない。
 このような神経症のような世界の人々が、音楽家の真の姿なのだろうか。背景にはいい音楽を演奏したいというただ単純な欲求があるものとは思うのだが、そのための努力を惜しまないということなんだろうけれど、そういうことで本当に素晴らしい音楽が生まれるのかというのは、僕には少し信じられない。努力を惜しまないことは悪いことではないのだろうけれど、ここまでのこだわりというのは、軋轢や妥協を逆に生みかねない。そのことが仕合せな人々がいるというのも、ちょっとマゾッけが強すぎるという事かもしれない。マゾだから楽しいのだと言わればそれまでだが、もっと演奏に集中してもいいのではなかろうか。
 いや、しかしやはり音には違いがあるのだろう。楽器にも違いはある。好み以上に、何かしっくりするようなものがあるんだろう。そういうことが上手く行かないと、しこりがぬぐえず集中できないということか。弘法は実は筆を選んだという話がある。やはり、プロというのは、そういう細部までいきわたることを指すのかもしれない。
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ガリレオは悩まされているか   ガリレオの苦悩

2015-02-17 | 読書

ガリレオの苦悩/東野圭吾著(文春文庫)

 ガリレオ・シリーズ第四弾らしい。その意味は僕には分からない。要するに人気シリーズ化している。物理学者がトリックの謎解きに係るので理系という事になっている様だが、特に理系っぽさを感じられないのはどういうことなんだろう。ま、それは毎回のことだからいいのだけれど、だからと言ってトリックは面白いのでそれでいい。トリックの整合性の為に物語が組まれているという事もあるんで、そういうあたりはやはり上手いものである。
 内海刑事という女性が物語に絡むところがミソらしい。女性ならでは、という事のようだが、それもそれらしいは分かるものの、こういう女性は少数派ではないかという気もしないではない。むしろ草薙のような刑事であるとか男というのが珍しいんじゃないかとも思う。居ない訳でもなかろうが、これで生きていけるような世界が警察なんだろうか。
 湯川准教授については、確かに魅力的な人物だが、この中では非常にバランスよくまっとうな人物でもあると思う。頭がいいという事に自信があるというのもよく分かるし、しかし、かなり推理小説を読んでいるはずだという事も考えさせられる。そうでなければ辻褄は合わないと思うが、一応そういうことを隠しているようにさえ見える。それが推理小説の難しいところで、さらに短編であるから端折るところも多くなる。いくつも読んで輪郭の整うという事はあるにせよ、ある種の必然として、犯人探しの面白さの動機なくして本当にトリックを解くことは出来ないのではあるまいか。事実必要に応じて人物の背景をしっかり把握しようとしているわけで、物語としても弱い動機のまま犯行を描くことはしない。当たり前と言えば当たり前だが、その部分こそトリックの正当性も含んでいる訳だ。
 それにしても犯人が見事に捕えられなければ面白くないのだが、それだけではない物語もある。このような人物たちが様々な人間ドラマを演じなければ面白くない訳で、実はそういう物語の組み方が出来ていることが何よりこの作家の人気を支えているという事ではないか。やや類型的すぎるという思いもあるのだが、特殊すぎて複雑な人格ばかりだと、やはり物語にはのめりこみ難くなるのだろう。ガリレオ湯川の苦悩は、だからもっと複雑なはずじゃないかという気がどうしてもしてしまうが、それはこの小説の目的にはかなわないことという事だろう。まあ、肩ひじ張らずに読めるのだからそれでいいので、結局読んでしまっている人の出る幕など無いのである。
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愛犬家で犬派でない僕

2015-02-16 | 散歩

 僕は普通に犬好きである。子供の頃に犬にかまれたことがあっても、特に嫌いになったことは無い。考えてみると大人になってからも数度咬まれているし、それなりにけがしたこともあるんだけど、それはそれでいい体験とは言い難いが、だからそれがなんだ、と思う。咬んだのは犬だから犬の所為だけど、咬まれる状況を考えると自業自得でもあったかもしれない。もちろん飼い主が近くにいない時には、むやみに犬にも近づかないことにはしているが…。
 問題は咬む問題では無くて、犬好きというと犬派なんですね、という事を言われることがある。いや、猫嫌いではないのだけど、唐突に言われる。飼うなら犬だけれど、だから犬派なのか? とも思う。猫の場合世話がめんどくさいと思うから飼わないだけのことで、別に嫌いという事でもない。猫は面倒だし時々怖い顔をするので特に飼わなくてもいいだけの事であって、それが僕が犬を飼っているという問題と特に絡んでいるわけではない。厳密に言って何の関係も無い。猫を飼わなければ殺すと脅されなくても、しかるべき時には飼う可能性だってある。だから嫌いという訳じゃないんだってば!
 実際に猫派の人と犬派の人で違いがあるなんてことはあるはずがない。おそらくそれが結論であり僕の感じる背景だ。犬派だからケチという事の証明はできないし、猫派だから寛大だという事もあり得ないだろう。傾向としてそういうものだという言い回しは聞くが、それは単なる勘違いによる推計という事に過ぎない。そんなことは考えなくても当然のことだし、統計以前の事だろう。しかし人によっては、犬派と猫派がいると考えている人が大勢いるような気がする。そうして犬を飼っている僕は犬派に分類される。それを不本意と言っているだけのことで、何が悪いんだろう。
 でもまあ、犬も猫もかわいいのだけど、飼い主たちはこの動物たちを飼っている人間を分類したがる理由があるのかもしれない。場合によっては猫を飼っている人同士が仲良くなる場合もあるだろうし、それなりに共感を持つ場合もあるんだろう。犬の可愛さと猫の可愛さはある程度は違うものがあるようだし、つまるところ好みの問題として、細分化されうる問題と捉えられるのかもしれない。しかしながらそれは、おそらくお互いにそれなりの分母を持つ多数派だという意識化あっての問題なのではあるまいか。もちろん金魚を飼っていたりカメを飼っているなんてこともそれなりの分母があろうが、しかしながら犬と猫の分母とはそれなりの開きがあるだろう。
 要するに多数派どうしの意識の違いと、それなりに気にかかり具合があるということか。僕は小さい犬を飼っているので、猫が近づくと愛犬に危険が及ばないようにとは思う。猫は犬にとって大変に危険だし、狂暴すぎる。しかしだからと言って僕にとって危険な訳でもないし、庭に糞をしていく奴を除いて、特に敵ではない。そうして散歩中に出会う猫の多くは、僕と適当な距離がある限り、たいていは微笑ましい存在である。彼ら(彼女)は勝手に生きてくれればいいし、まあ、元気にやってくれたらいいのである。
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過去は過去で良くて今は今でいい   フォーエバー神児くん

2015-02-15 | 読書

フォーエバー神児くん(全3巻)/えだまつかつゆき著(集英社)

 同級生の友人が好きだと言っていた漫画(FB経由)。当時の雑誌に連載されていたのだろうけれど、僕はまったく知らない。まあ、境遇が違うのだから当然かもしれないが、同世代でも接しているメディアというのはあんがい違うものらしい。
 漫画の内容はいわゆるスポ根ものなんだが、それにSFで味付けしてあって、人助けでもあるという感じ。これを好きだという友人の人柄が偲ばれる(って亡くなってないけど)。
 この漫画自体は既に古いものだけれど、田淵は西武、張本はロッテ、さらに江夏に至っては日本ハムのユニフォームを着ている。古いながらもそれなりに実は中途半端に新しい時代のプロ野球の時代だ。このころから僕はほとんど興味を失ってしまうのだが、いわゆる子供時代の終わりという感じなのかもしれない。まあ、このころだから面白いという人もいて結構だけど、やっぱりチームに居るべき人がいた時代の方がプロ野球は楽しかったな。けどまあ、中日で星野が現役で投げていたりする場面もあるんだから、まだまだいい時代ではあるんだけれど…。何故か藤田平も出ていて、作者の思い入れも感じられる。いろいろ空想しながら野球を楽しんでいたのかもしれない。
 お話は連載漫画の割に3巻で完結しており、さらに終わってみると題名通りの作品になっているところが、なんとなくなるほどと思ってしまった。荒唐無稽な話なんだが、この一時期の思いだけで終わるからいいという事かもしれない。集中力が大切だという事も学べるし、なかなか有益である。この子の将来がどうなったかは知らないけれど、別に平凡な大人になったとしても、伝説がなくてもそれでいいと思う。それはすくなかぬ僕らの姿かもしれないし、まったくそれでいいのである。
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ゆるくつらさを描く   ツレがうつになりまして

2015-02-14 | 映画

ツレがうつになりまして/佐々部清監督

 題名通りのお話。ただしツレというのは夫の事。夫が鬱病になり、会社勤めが出来なくなり、妻はイラストや漫画を描いており、失業保険もあるが、それで生活を支える必要が出てくる。それなりに大変なんだが、そこのところはそこまで悲壮という事では無く、それなりにマイペースというか、大変さもありながらではあっても、ゆるく頑張っているという感じの物語である。多少類型的なところがあったり、逆に少し変わったところが笑どころだったり、やはりかなり特殊だったりしすぎるところもあるが、実際にその漫画が話題になったり、このように映画になったりしたことで、結果的に何とかなったという話なんではなかろうか。病気は大変だと思ったが、そういう意味ではしたたかで良かったのではないか。あくまで結果論だから、そうならなかったら大変だったろうけれど、そのおかげもまだ恩恵も無い時からこの話はあるのだから、やはりこのようなゆるい感じの戦いの日々が、それなりに支持を集めた結果であると言えるだろう。
 そういう話なんだが、実は映画としての見どころは、主人公のこの夫婦の演技合戦という感じもする。宮崎あおいと堺雅人の演技合戦という感じなのだ。それも二人の演技は結構対照的で、宮崎はゆるい自然体で堺は大げさな上手さな訳で、しかしそのコントラストは狙い通りなのかもしれない。普通なら壮絶になる話が、ほのぼのといい話のような感じになって、おそらくなのだが、たぶん漫画的な目的も果たせているのではなかろうか。
 映画はそれでいいのだが、しかし、いわゆる鬱病となると、このようにすっぱり仕事を辞めたという事の前段階でそれなりにもめることが一般的だろう。それではこのようなお話は成り立たないような気もしないではないが、しかし一般的な認識でいうと、普通はそうだろう。そういう修羅場のようなことで関係性がそれなりにいろいろあった後に、やっぱり仕事はやめようかという事になりそうな気がする。特にこの映画の描かれ方としては、旦那の鬱になる原因の多くは、性格的なものというより、会社の所為であるように思われる。その後会社は倒産というか無くなったらしいからどうしようもないというか免責されたような感じも無いではないけれど、クレーマーと会社とのはざまにおいて、一人の人間が犠牲になって、家族が苦労したことは、社会的にどうなるのだ? という疑問がどうしても付きまとう感じなのだった。もちろん社会的ドラマではないから仕方ないのだけれど…。
 まあしかし、実際のところこの病気は大変である。そうしてそういう関心のある人もそれなりに多かったのではあるまいか。僕としてもちょっとそういうことはあったのだが、しかし、そういう関心にこたえている物語ではなさそうだった。もちろんそういう批判をしたいわけではないから、それはそれでいいにしても、だからというか、実は人を選ぶ映画なのかもしれない。
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