カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

アメリカの今の夢   ワンダーボーイズ

2021-03-31 | 映画

ワンダーボーイズ/カーティス・ハンソン監督

 あちらの大学では現役の作家が大学の講義をやるらしく、そのクラスでそれぞれに書いてきた小説の講評を言い合っている。辛辣なものもあるし、温かいものもある。何のためにクラスに来ているのか、分かりにくい者もいるようだが。
 主人公はこの作家兼教授だが、過去に名作を書いているようだが、その後は何も発表していない。都会から編集者がやって来ることになっており、恐らくもう作品ができそうとかなんとかいって、胡麻化している。作家は大学の学長(女性)と不倫しており、その学長の夫が自分の上司だ。大学では文学的なお祭りのようなことをやる時期で、他の作家などを呼んで講演会やったり夜中までわいわいディスカッションしたりしている。そんな夜に喧噪から離れて外でマリファナをやっていると、小さな拳銃を持った自分のクラスのふしぎな教え子がいることに気づく。なんとなく気になって、家に一緒に忍びこんで、学長の夫のコレクションであるジョー・ディマジオのグローブとマリリン・モンローのジャケットを青年に見せるのだった。
 まあ、そこで事件が起こり,ちいさな逃避行が始まる。若い青年の話を聞いていると、作家志望らしく面白いが、恐らくそのほとんどは嘘なのだ。だが、そういう話を聞くにつれ、なんだか自分にもイマジネーションが刺激されるような感覚になっていく。間に麻薬を吸って酒を飲み、車を運転して、いろんな人に会う。物事はなかなか前に進んでいかず、しかし作品は書き足されていく。若い女性(教え子。元トム・クルーズの奥さんのケイティ・ホームズ。要するに古い映画なんだな)からは言い寄られ、でもそれなりに振り切って、自分が妊娠させてしまったらしい学長に、何とか自分の気持ちを伝えようとする。
 文学的作品が映画になっても、その文学的な空気感のためか、あまり成功することは無い。そうした残念な作品には違いないのだが、文学だけでなく、他の映画のオマージュなども取り入れている様子で、少し興味がわかないではない作品だった。少し昔の映画だから、当時の旬の俳優がそれなりに変な役どころを見事に演じていて、そこまでひどくはないからかもしれない。まあ、面白い映画では無いのかもしれないが、この不思議感に身を浸して、時間をつぶす覚悟があるのなら、悪くない映画だろう。不倫に同性愛、人種差別にドラッグ、もうごちゃごちゃである。でもまあ、それらがちゃんと問題提起されている訳ではなく、日常化しているということを言いたいのだろう。だから、アメリカなんだろう。そうして今に至る多様化文化、という話なのだろう。
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顕微鏡の中に僕らのガラスの命あり   珪藻美術館

2021-03-30 | 読書

珪藻美術館/奥修著(福音館)

 副題「ちいさな・ちいさな・ガラスの世界」。珪藻というのは海や川や水たまりなどにいる小さな微生物である。肉眼ではとても見えない大きさで、だから顕微鏡を使わないと確認できない。その特徴として、ガラス質の殻をもっていることがあって、乾かすと、そのガラスの殻が残って美しいというのがある。さらに著者はその特徴をいかして、顕微鏡をのぞきながら珪藻を並べて、いわゆるアートに仕立て上げるのである。何しろ小さいので、部屋を閉め切って空気の流れを遮断し、咳などしないように細心の注意を払いながら作業をして、珪藻を並べ直して見事な写真を撮る。様々な形をもっている珪藻がそのようにして並べられると、美しいだけでなく、なんとなくユーモラスである。
 このアートを作るためには、作業をする時にだけ注意を払えばいいのではない。部屋の中でホコリが舞わないようにしなければならないという。例えば部屋の中で靴下を履いただけで、数時間は作業できない。油を使って料理しても、フライパンから出る見えない煙が部屋に充満するという。痒い所をうっかり掻いてもいけない。はがれた皮膚の破片が数時間にわたって雪のようにふってくるのだという。また、あまりに細かい作業のために、甘いものを食べてもいけない。甘いものを食べると、指先が小さく震えることがあるのだという。ブドウ糖が栄養として血管をめぐるために、そうなってしまうのだろうか(それは謎である)。
 いわゆるそうやって作られた写真集でもある。珪藻の紹介の文章も面白いが、何よりその写真をじっと眺めて、珪藻のことを考える時間が楽しい。
珪藻は僕らが生きるために呼吸している酸素をたくさん作ることでも知られている。実は森林などの植物よりも、たくさんの酸素を生み出しているのは珪藻などの水中の微生物である。さらに珪藻を食べる生き物の命を支えている。そうしてそれらを食べる命があって、最終的には僕ら人間のような動物も生きられるという訳だ。地球の生物の生命の基盤をしっかりと支えている生き物が、珪藻だと言えるかもしれない。しかしそれは顕微鏡などの特殊なものを使用しない限り見ることもできない。そういうことを考えながら、手に取って欲しい本である。
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嫉妬は恋を盛り上げる   イノセント

2021-03-29 | 映画

イノセント/ルキノ・ビスコンティ監督

 魅惑的な未亡人の力に抗することができない男が、まだ子供のない若妻に断って恋のままに旅立ってしまう。若妻は混乱し少し薬などを飲みすぎたところに、義弟の友人の謎めいた作家と恋に落ちたらしい。そうすると今度は、夫が若妻を惜しくなってしまい、またセックスをしに帰ってくる。ちょっとして若妻は妊娠しているらしいと知る。当然これは、自分の子ではないのだろう。男は二人の女の間を行ったり来たりして苦悩するのだった。
 まあ、貴族の恋の悩みを高貴に描いている作品なんだろうけど、基本的には馬鹿な色狂いである。わがままで魅惑的な未亡人は、男を手玉に取るようなこと自体を楽しむような女で、自分の思うようになる男だから、面白いから好きで付き合ってくれるのである。結婚がどうだとか、基本的にはそんなことは考えてはいないだろう。相手の家庭が困るとか、そういうこともご自分で何とかしたらいいじゃないか、という感じではないか。
 一方の若妻は、夫がこんなことになってしまって、かなりのショックを受けてしまう。お互いの家は裕福なようだから、戻っても生活に支障は無いのかもしれないが、さすがに裏切られたことによって、女としての自尊心そのものがおぼつかなくなってしまったのかもしれない。そういう苦悩の姿がまた官能的でもあり、すぐに男がついてしまった。そうすると夫は妻の官能に、再び目覚めるわけだ。関係のあっただろう男がシャワーを浴びている姿を見て、さらに燃えるものがある(ほとんどバカである。でもノーカットなので、映画的には見せ場である。妻の情事の相手のペニスをじっと見て、ライバル心を燃やしている)。そうして、妻と燃えるようなセックスをして、その後に妊娠を知らされるのである。見事な妻の復讐劇。というお話を楽しんでください。
 そのほかの楽しみとしては、まあ、ほとんどの調度品は本物だろうし、見事な貴族の生活が垣間見れます(ビスコンティは貴族の出身で、こういう世界を熟知している)。そうしていくら貴族だからって、下の関係性なんてものは、基本的には同じようなもんだよな、という感じなのか。いや、やっぱり高貴だと、なんだか違うよなあ、と思うのか。それはあなたの自由であります。
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とにかく書ける人よでてこーい   書きたい人のためのミステリ入門

2021-03-28 | 読書

書きたい人のためのミステリ入門/新井久幸著(新潮新書)

 著者はミステリ作品を主に担当してきたという編集者。仕事柄ものすごくたくさんの作品を読んできたということがあって、さらに新人賞などのために持ち込まれた作品も、それこそたくさん読み込んできたという事もあって、どのような作品が素晴らしいのかという事を熟知した人だといえるのだろう。また出版社の人だからこそ、どのような作品がプロとして売れるという事もわかるという事なのだろう。おそらくだが、そういう場面で作品指導も同時にこの本の内容のようにやっているという事なのではなかろうか。
 まあ、そういうことではあるんだが、基本的に自分が読んできた読書遍歴と、それによって感じてきたミステリ作品群のブックガイド的な内容になっている。そもそも作品をどういう風に書くというよりも、ミステリとして新しい作品を今後も読んでいきたいがために、そういうミステリ作家を目指して頑張ってほしいという応援歌のようなことかもしれない。そういう意味では、ミステリファンとして、もっと楽しみたいということだろう。
 結論として言うならば、これを読んだからと言ってミステリ作品を書けるようになるという本ではないようにも感じる。著者はミステリ作品を愛しているのかもしれないが、ミステリ作品を評価する目は持っていても、書ける人ではないようだ。どのように書けばいいということは言えても、やはり書く人というのは、また別の人なのだ。それに書く人というのは、どのように書いたらいいのかの前に、書きたくて書くタイプの人が圧倒的で、どのように書くかなどと悩んでいるような人は、もうすでに出遅れていて、たぶんその後も書かない。作家になっている人のインタビュー集のようなものを読んだことがあるけれど、ほとんどの人は書くことに苦しむことはあったとしても、それでも書かずにおられないというような意味のことを言っていたように思う。作家というのはそういうものらしく、たとえアイディアを絞ることにうんうんと唸っていたとしても、結局は書いてしまう。失敗したと思ったかもしれないが、やっぱり書いて推敲して、書き直して、また書くのである。方法としてはそれしかないのじゃないか。
 さらに読んでいて思ったのは、ミステリ愛好家というのは、驚くべきトリックが好きというのがあるようで、紹介されている評価の高いミステリの類いは、いわゆる僕らからするとバカミスといわれる、現実的にはとてもありえないトリックを競う作品が多いのだった。確かにそういう愛好家がいてもいいとは思うが、一般的に本を読む人々にとっては、そんなのはあんまり面白いわけではない。少なくとも僕はそうなのだ。まあ、仕方ないから読んでしまうことはあるけど、トリックが新しかろうとどうだろうと、展開が面白ければいいと思うんだけどな。どうなんでしょう。他の皆さんは。
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馬鹿な男ほど女には魅力かもしれない  テッド・バンディ

2021-03-27 | 映画

テッド・バンディ/ ジョー・バーリンジャー監督

  最初から飲み屋で女性を口説く、怪しいがハンサムな男性がいる。これがテッド・バンディで、後に明かされるが殺人鬼である。口説いた女性は細身のシングルマザーで、お話はこの女性との普通の純愛物語のように進んでいく。時々妙なことになってと言うか、そもそも変な男ではある。最初はスピード違反でつかまるテッドだったが、取り調べが進んでいくと余罪があるらしいことが分かっていくのである。そこで裁判になって、しかし彼はハンサムであるがゆえか、取り調べの内容が強姦のような問題で、被害者に心の傷があるせいか(かわいそうである)、証言がはっきりしなくなっていき、決定的な重い判決は出ない。そうやって仮釈放が許されるのか、実生活と二重生活のようなことになっていく。しかし彼はとても広範囲で移動するらしくて、ある日ユタで捕まる。 そこではそれなりに重い判決が出て、でも結局脱獄する。そしてまた捕まり、そこでもうまく脱獄する(アメリカの刑務所って、どうなってるんだ)。だが外に出ても罪を上塗りするだけのことで、結局捕まるわけだ。そのようにして重ねて起こした殺人事件が契機となり(何しろシャバに出るとすぐに人を殺してしまう)最終的な判決が決まるが、フロリダではその州の選挙の思惑などもあり、裁判が公開のもとで行われることになる。もともと自己顕示欲の強いテッドは、立ち振る舞いが注目され、いわゆるワイドショー的になっていって有名になる。そこのあたりがこの映画のクライマックスだが、同時に映画自体がドキュメンタリーのような再現になっていく。ほとんど漫画的とも見まごうような、劇場型のクライマックスとなってしまう。これがほんとうに現実に起こったことだったなんて、とても信じられない気持ちだ。
 物語の犯人はとても女性にモテる男らしい。法学の勉強をする、いわば学生で、実際はそんなに若くないはずだが、適度に若々しくて、苦学生っぽくあるのかもしれない。多くの女性は残虐に、さらにほとんど無差別的に殺されているが、時には普通にナンパのように、そして結局は好感を持って招き入れた末に殺されていたのかもしれない。ほとんど生前は殺人は否認していて、死刑判決が確定すると今度は一転し、死刑の執行の時間を遅らせるために自白を始めて、分かっているだけで30件。自白のために改めて見つかった死体もあるようで、余罪もまだまだあると考えられている。が、結局刑は執行された。
 映画としては、結婚を約束して、テッド自身が心の底から本当に好きだったかもしれないという女性が出てくる(しかし、後にわかったが、この映画自体がこの女性の手記をもとに描かれており、そういう部分は、この女性の自尊心かもしれない)。その女性の心の中では、テッドは犯人かもしれないが、出来れば信じてやりたい、という葛藤が映画の一つの流れとなっている。さらにその葛藤の中身も、映画的な大きなテーマだ。その上で、テッドは裁判の途中で一人の女性と結婚もしている。電気椅子で死んだ後娘が生まれていて、裁判の期間を考えると、公判中に妊娠したものと考えられるうえ(それは映画でも示唆されている。刑務所の中で情事が行われていたことになっている。本当なんだろうか?)女性はその後テッドの娘として認知しているらしい(現在は行方不明。まあ、当然だろう)。 
 デッドは裁判では自分の弁護も行った。法学を学んでいる学生という事もあるが、むしろ自己顕示欲がそうさせてしまう。そういうナルシスティックなところが、何しろ病的なのである。そういうこともあって多少は賢いところもあるというようなことも、判決の折などにも言われている。だが、この映画を見る限りで感じる僕の感想は、賢いというよりも、ただの馬鹿である。賢い人間がこんなことをするはずがないという偏見があるのかもしれないが、実際の犯行も含めて、危ない立場でありながら信号無視を繰り返し、結局は軽い罪で捕まってしまうくらい軽率なバカだ。今時つかいっぱしりのチンピラでもそんなことはしない。もう少し自分をコントロールできたなら、生き永らえる道も無くはなかったかのように見える幸運さを持ちながら、結局は自分自身の軽微なミスで自分を窮地に陥らせてしまう。これほどあからさまで馬鹿げた犯罪は誰もやらないから捜査が難航するのが当たり前で、被害者との関連や広範囲での犯行のせいで、なかなか難しい状態になったということは考えられるが、いずれにしろ破滅の道で、助からないのは分かりきっている。わかっていなかったのはおそらくテッド自身くらいのものだろう。要するにそれくらい限りなく馬鹿だっただけのことである。だからこそ女性から魅力的に映ったかもしれないということに対して、ポカーンと不思議だなあっと、女性の神秘を思うような映画かもしれない。何しろ僕のような男には、そのような女性心理はまったく理解ができない。でもまあそうなんだけど、面白い話でした。
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確かに寒そうな街である   薄氷の殺人

2021-03-26 | 映画

薄氷の殺人/ディアオ・イーナン監督

 石炭工場でバラバラの遺体が発見される。いくつかの断片の中から身元証明書が見つかり、被害者らしき人物は分かるが、遺体の入った石炭を運ぶトラックの運転手を参考人として連行しようとする際に、持っていた拳銃で数人の警察官は射殺され、さらにその参考人も警察から射殺されてしまい、事件は暗礁に乗り上げる。数年後、また同じようなバラバラ殺人が起こる。被害者は、当時の被害者の妻の関係者らしいことも分かる。当時事件を追っていた元警察官のジャンは、その妻ウーが勤めるクリーニング店に客として様子をうかがいに寄るのだったが、段々とそのウーの魅力に取りつかれていくようになるのだった。
 主演のリャオ・ファンという俳優さんが、近藤芳正とトヨエツを足して二で割ったような顔をしていて、ヤクザな感じなんだがちょっとユーモラスである。で、最近見た「帰れない二人」でも主演していて、国際的に知られた俳優さんなんだろうな、と思った。一方の未亡人のウー役のグイ・ルンメイは、日本の女優の波瑠に似ていて(ルンメイの方が年上なので、波瑠の方が似ているというべきか。ところで漢字表記は綸鎂なので、リンメイなんじゃないかとも思うのだが……)、確かに怪しく美しい。これでは殺人事件が起こるはずだよな、という変なリアリティを醸し出している。
 しかしながら、相変わらず最近の芸術的な映画の文法的な説明は下手で、何がどう展開されているのかは、極めてわかりにくい。場面場面の美しさのために、ストーリー展開は、とりあえず分からなくてもいいという方針を取っているのかもしれない。よく考えてみると、事件を追っていた元警官が性欲を満たしただけの映画のような感じだろうか(まったく違うけど)。
 しかしまあ、中国の国際的に評価の高いこれらの作品は、確かに映画を観たなあ、という充実感のようなものを備えていて、あちらの国では、犯罪がなんとなく身近そうな背景があるような感じが、また映画の質を支えているような感じかもしれない。米国の大都市の闇のようなものが、一時期は米国ノワール映画にはあったものだが、そういうものが、中国に乗り移ってしまったかのようだ。しかしながら美しいがゆえに、この女は薄幸にならざるを得ない感じがして、本当に切ない。これはやっぱり、彼女に惚れてしまう男が悪いということなんだろうか。
 まあ、また一連の関連作品を観たくなることは確かで、そういう意味では、やっぱり面白い映画なのだ。この難解さに付き合わされるのは悔しいが、でも面白いのだから仕方ないのである。
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車の話はちょいタブーである

2021-03-25 | 境界線

 どうも車のことは、固有名詞を出して語りにくいところがある。それというのも、やはり自動車関係の知り合いが、それなりにいるというのがある。良し悪しみたいな話になると、なんとなく差し障りがある、ような気がする。でもまぁ日常的に車には乗ってるわけで、クルマにまつわる良し悪しの話が、ないわけではない。僕の思い込みかもしれないので、実際のところ差し障りなんてないのかもしれないけど、一度そういうふうに考えてしまったりしてしまうと、やっぱり書きにくいのかもしれない。
 さらに車というのは好き好きというのが結構あって、その上になんだか興奮して語り出す人なんかもいる。そういうのにはちょっと付き合いきれないなぁという思いがあるし、実際付き合えるだけの能力もない。子供の頃は車のカタログと言うか雑誌と言うか、そういうのを眺めて、車種みたいなことを覚えていた。昆虫図鑑や動物図鑑を眺めているようなもので(これはいまだにやっているし)、男の子というのはそういうことするものである(ごめんなさい、たぶん女の子だってするんだろうけど、いつの間にかわきまえてしまって、しなくなるのかもしれない)。さらに僕らの世代にはスーパーカーというブームがあって、男の子たちにとって、そういう車種を覚えるというのは、普通に日常的な訓練といってよかった。今でいえばポケモンの種類を覚えることと、変わりない無いものと考えていいと思う(たぶん)。
 中には本当に強者がいて、ちょっと写真を見ただけで、これは何年式の何だ、とかいうようなことをいうのがいる。今の時代の様にネットがあるわけじゃないから、それは本当だったのかよくわかんなかったんだけど(たまに怪しいのもあったけど、まあ、いいか、という感じもなかったわけではない)、とにかくすごい感じはした。別に勝負をしていた訳じゃないけど、負けたなと言うか、かなわないなぁという感じだ。だからと言って、そいつが特別偉かったかというとそうでもなくて、そういうオタクっぽいやつが天下を取ったということは、聞いたことがない。あくまで裏路地の小さな狭い社会で尊敬を集めたかもしれないけど、たったそれだけのために必死に車の名前を覚えたりして、ちょっと悲しいような気がしないではない。
 そのうちやっぱりサッカーだとか何だとか、スポーツのできる子が偉くなって、それは他でもなく、そういう男の子の方が女の子にモテたからである。それは人間界の摂理であって、誰かを恨むような問題でもない。ただしかしそういったスポーツのできる子が将来的にも偉かったかと言うと、現在の僕らの廻りの姿を見ても、必ずしもそう言えることではない。その時代にモテたことはそいつにとって幸福だったかもしれないけど、その後の幸福を保証するものではなかったわけだ。ざまあみろ。
 そういえば車の話だった。車なんて乗れればそれでいいさ、という考えにも一定の同意はしている。車は走ってなんぼである。でもまあ特別いい車に乗りたいというわけじゃなくても(あんまりいい車に乗っているのも、かえって怪しいものだ)、それなりというのはある。それなりの車に乗っている方が、その人にも安心感がある。いきなりボロボロの車で現れると、こちらだって少し引いてしまう。少なくとも何か事情があるんではないかという風に思う。そうしてその事情を聞いたところで、僕にはどうにもしようがない(おそらく)。
 車はしかし、お金がかかる問題があって、すぐに見栄の対象にもなる。結局そういうことがあるから、最終的には車の話はしないのかなと思っている。
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その数字には愛がある   博士の愛した数式

2021-03-24 | 映画

博士の愛した数式/小泉堯史監督

 事故のために80分しか記憶が保てない著名な数学者の家に、家政婦として勤めることになった。短時間しか記憶が保持できないので、博士は毎日家政婦とは初対面と同じ会話をする。そのお話のきっかけはいつも数字のことで、女の靴のサイズであるとか誕生日であるとか、そういう数字から、その数字の持つ不思議さと数学の奥行きの深さを教わることになる。記憶の蓄積で関係が深まる筈は無いのだが、家政婦の方が数学的な融和を覚えてゆき、段々と博士とも打ち解けていく。夕食の準備をする女に息子がいることを知った博士は、自分のために働いたことで、息子の世話が遅くなってしまうことに耐えられない気持ちになってしまい、今後は家に連れてくるように命じる。そうして家政婦の息子とともに、数学者との交流がさらに深まっていくのだったが……。
 家政婦親子と障害を負った数学者との関係で、やさしく説かれる数学講座になっている。おそらく数学に苦手意識のあろう多くの人に向けて、このように数学が紹介されたなら、もっと本当に親しみをもって、数学の世界に入り込むことができるであろう、見本的な、実に見事な数学物語なのである。もちろん、数学の深い世界を知っている人というのは、博士のように数学の講義が上手な人ばかりではない。劇中でも、数学に没頭する時には気難しい博士の姿も描かれている。そういうものが更に一般人の数学への忌避にもつながっている訳で、結局愛する以前に敬遠されてきた、ということなのではないか。
 しかしながら、数学とは言えないまでも、数学者でなくとでも、人々はラッキーナンバーなど数字に愛着は持っているはずである。それは、その数字にまつわる歴史も絡んでいるはずで、例えば自分の誕生日だからという理由などで、その数字の並びなどに愛着のある人などもいるだろう。他ならぬ僕もそうで、デジタル時計の時間の数字が、自分の誕生日を示すなどの時に、偶然目が留まるなどすると、なんとなくうきうきしてしまう。そういう数字の中には、さらに奥深い数字を秘めたものもあって、それは数学的に絶対的な美しさをもっている場合がある。そういう意味を、数学を愛するもの以外は、まったくと言って無頓着に知らないだけのことなのだ。
 実を言うと過去に観たことがあったかな、とは思う。原作は読んだことが無いが、これも話題になった。主演の寺尾聡がいい人すぎる感じも無いではないが、特に数学に何の興味もない人にとっては、素晴らしい啓蒙になる作品ではないだろうか。
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勇気なんて欲しくない

2021-03-23 | ことば

 甲子園での高校野球が始まった。昼間は仕事だし、残念ながら多くの試合は見ることが許されない。録画して見るようなものでも無かろうし。しかし今回は直接野球の話では無い。少し気になったのは、高校生のインタビューなのである。
 高校野球が始まる前から、期待の表れなのか、壮行会のような場が設定されているらしく、期待の選手や主将などにマイクが向けられる。そうすると彼らが、みんなに勇気を与えられるプレーをしたい、というような発言を頻繁にするのである。 何かの流行りなのかもしれないけども、これがちょっと聞き苦しい。何を血迷ってるんだろうか。別に野球を観たからといって、こちらは勇気を与えられたくない。率直に言ってそういう気分になるのだ。もちろんちょっと前からこういうことを言う人たちが出てきたことは知っているが、何かの冗談だと思っていた。ちょっとかっこ悪い感じがしないのだろうか。でもどういうわけかこういう事を言う人というのは、特にスポーツやってる人たちで増えているように感じられる。誰が言い出したのかわからないが、誰かが言い出して、それがいわゆる好感を持って捉えられ、それでこんな戯言を言う人たちが増えたんだろう。バカの再生産である。高校生もある程度そういうことには敏感になって、その通り真似をしているのかな、という感じがする。
 確かにスポーツを見ていて元気になるというのは、少しは分からないではないところはある。頑張って運動している姿というのは、時には人を感動させる力はある。そうであるから、それは個人的に感動したりなどの成果として、観た側が、元気になったと言うのであれば、少しは分かるということだ。一方でこれをやる側が言うと、なんだかおこがましいのである。せっかくの成果を台無しにするようなことを言わないで欲しい。純粋な気持ちでスポーツを見て楽しもうという気分が、廃れる感じがする。元気をもらおうという疚しい気持ちで、スポーツを見たくないのである。そういう風に構えないでいて、しかしいつの間にか引き込まれて、面白かったな、と思いたいのである。
 最初から勇気のようなものを期待している人が増えるというのは、はっきり言って不健全だと思う。そもそもスポーツが健全であるというふうに思っていないが、ますます不健全になればいいとも思わない。そうではあるが、少しくらいは夢をみたい、という期待もあるんで、そこらあたりは頑張ってもらいたいところである。少なくともやはりなんとか勝とうとして頑張ってるからこそ、応援のしがいがあるわけであって、勝ち負けにこだわらないような連中がスポーツをやると、面白いわけがない。やる前から闘志をむき出しにして欲しいというのが、本音ではなかろうか。
 そうして精神の代理戦争のようなことをしているのが、スポーツ観戦というものである。特に野球というのは、ピッチャーさえ変えたら毎日連戦で試合を行うことができるために、興行としてお金を稼ぐことに有利だからこそ開発された競技である。高校野球はそこのところを地域間代理戦争にしているわけで、特に日本の場合は、特別に国家的に別枠で放映しているわけだ。せめて球児たちは、空々しいことを言うのは大人に任せて、白球を追うべきなのではなかろうか(まあ、言わされているのかもしれないですけどね)。
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数は力なり   人口で語る世界史

2021-03-22 | 読書

人口で語る世界史/ポール・モーランド著(文芸春秋)

 人口で語る世界史とは、書名の通り人口という切り口で、近年・近代の200年ばかりの時代ということを読み解くことができるのではないかという内容。確かに人口というのは、比較的確実な未来を予測することに使われる指数である。それを過去の出来事の本質に至るまで読み解く材料したことが、歴史的な面白さともいえる。
 人が多いということは、その国の力でもありうる。食料の問題を解決し、経済を発展させることに成功すると、同時に軍事の力もつけることができる。それが覇権国家としての帝国を生み出した一番の原因かもしれない。ということは、まず第一にこの本ではブリテンという呼称が使われているが、何しろ英国なのだろう。英国はどんどん自国の人口を増やし、米国や豪州、NZ、南アフリカなどへ移民を送り込んだ。送り込んだ先でも人を増やし、事実上アングロサクソン帝国を世界に席巻させていったのだ。そういうブリテンの歴史というのは、人口を伸ばしていく過程で経済や軍事の力をつけていった歴史なのだともいえよう。
 また、それに追いつきたい、追い付こうとすがるドイツやロシアというな勢力ももちろんあったわけだが、そういう力の源泉もまた、人口で語ることが可能だそうだ。そのまま人口の力による伸びが後押しして勢力争いができた、という見方もできたかもしれないからだ。
 そうしたこととは少し毛色が違う勢力として、他ならぬ日本という国もある。しかしこれも事実上凄まじく人口を伸ばしていた点では、間違いではない。そうして日露戦争で白人社会であるロシアを打ち破り、世界に大きなショックを起こしてしまう。東アジアの人口というのは非常に多かったが、日本の繁栄というのは覇権を狙う世界情勢を大いに動揺させたことは間違いなかった。結局東アジアを統制することはできなかったが、敗戦後も人口を伸ばし経済も伸びていった。そうしてそのまま伸びるかにみえた先に急激な出生率の低下を見て、さらに急激な高齢社会になり、一気に停滞してしまった。もっともこれは、多かれ少なかれ教育の行き届いた女性が多くなると出生率は下がるわけで、高齢化の伸びで人口減が遅れはしたものの、結局移民もあまり受け入れてこなかった日本の当然の姿と言えるのだ。さらにこの超停滞国家のゆくえは、世界の停滞国家の注目の的なのかもしれない。
 ただし、人口さえ多ければいいのかというと、決してそればかりともいえない。その見本ともいえるのは中国である。もちろんその人口の多さによって、今後の影響力は甚大ではあるが、同時にすでに高齢化も進んでいる。猛烈な圧力で衰退が迫ってくるわけで、巨大ゆえの苦しみはどのようなことになるか、まったく見通せない。さらにインドから覇権を奪われるようなことにもなるかもしれず、遅く起きた中国のゆくえはどうなるのだろう。
 さて次にくるのは、なんといっても中東や南アジアなどの若くて人口の伸びの見込まれる地区である。ただし中東などの国は若すぎて、常に好戦的という面もあって、伸び悩んでもいる。その上に、まだまだ女性の地位が低いという問題も抱えていて、教育等が平等に行き届かない問題などを抱えている。女性の地位が上がらなければ当然出生率というのも下がっていかない。情勢が不安定で死亡率が高くても、英国より人口が増えていっている事実はあるが、そのことを上手く活かせていないのかもしれない。ただし、先端技術や軍事などというのは、現代は簡単に移動が可能だ。そのようなものは容易に国境を越え、行き渡っていく。結局は力をつけていくことには間違いなく、自国で開発できないというデメリットがあったとしても、人口的に覇権を伸ばすということは可能になっていくらしい。
 また今現在の勢いで行くと、イスラム教徒の方がキリスト教徒人口を追い抜くということはほぼ確実視されていて、その後の世界ということはどうなるのか、というのはまだわからない。
 さて最後に残るのはアフリカなのであるが、人口が爆発的に伸びていっている国が、残念ながら出生率の高さがありながら、国内情勢の不安定さの中にあって貧困にあえいでいる。それでも着実に死亡率は低くなっており、将来はアフリカが制するという事は、ほぼ間違いなさそうに見える。
 特にナイジェリアは注目されていて、出生率も高く死亡率もなんとか押さえられているらしい。そこで人口はどんどん伸びていく。今後のアフリカの主たる指導権を握っていく可能性も十分にあるという。そうした中、台頭するたの南アフリカの国々と共に、アフリカの時代がやって来るのかもしれない。
 この本を読んでいて別のことを考えていたのは、先に社会的に成熟して行って出生率が下がり、また高齢化率も高まっている北欧諸国の事であった。高齢社会になるスピードは日本が早いが、しかし北欧はずいぶん昔から高齢化社会へ移行し続けていて、いわば衰退のお手本であったはずだ。確かに移民を受け入れるなど日本とは違う面もありはするが、実際はどうなのだろう。小さい国が多くて、日本のように大きな国には参考にはならないのだろうか。まあ、大きな会社が国家を牛耳っているミニ組合国家みたいなところが多いというし、やっぱり日本とは違うのかもしれない。
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まさに痛みから生まれる創作   ペイン・アンド・グローリー

2021-03-21 | 映画

ペイン・アンド・グローリー/ペドロ・アルモドバル監督

 数々の作品を世に残し、すでに名声も得ている映画監督だったが、実は若い頃から様々な体の不調に悩まされ続けており、さらに少し年も取り、映画を撮ることから離れてしまっていた。そういう中で30年前の作品がリバイバル公演される運びとなり、その映画に主演していた俳優と宣伝のために会うことになる。実は30年前にこの映画がきっかけで仲たがいしており、久しぶりとはいえ感じが悪い。わだかまりが完全に消えた様子ではないが、一緒にヘロインを吸ってなんとなく和解できる。その後ヘロインでハイになって寝ている間に自分の書いた作品を俳優に読まれ、ぜひ舞台劇として使わせてほしいと頼まれる。自分の個人的なことが描かれている作品で戸惑いがあり、やんわりと断りたかったのだが……。
 ヘロインでトリップしている間に昔の記憶に飛ぶ。それは母との幼いころの思い出であったり、何か後悔めいた体験であったりする。現実において体の不調とヘロインに頼る不安定な生活の中、ドタバタと流れる時間にあって、過去の記憶が自分の作品とシンクロしながら進んでいくのかもしれない。
 いろんな過去が明かされていく後、監督の性的な目覚めや愛の物語が明らかにされていく。そうして母との果たせなかった約束への後悔の念である。
 物語はさまざまな場面の断片がつぎはぎ状態に語られるために、最初はなんだかつかみづらい話にはなっている。しかし、何か興味が途切れるわけではなく、最後の方にはそれなりに驚きの真実めいた転換も見られる。今や純愛というのは、こういう形式でなければ成り立たなくなっている。まさにそういう感じの映画であって、それにフィクションはあろうけれど、恐らくこれは事実の物語が土台になっているはずなのである。映画であるはずだが、そういうリアリティがひしひしと伝わってくるようだ。それを観ている側も分かっているから、体験としては受け入れがたい人がいたとしても、大いに共感できる物語になっているのではなかろうか。ヘロインがなんだかは分からないまでも、本当に凄いものを見てしまったな、という感じだ。すでにもう名作殿堂入りだろう。
 映像というのは、絵画的なセンスで成り立っていることもよく分かる。着ている服のセンスから、家具や飾られている絵画や街並みに至るまで、それは映画でもありアートである。生活の貧しさや豊かさに関わらず、その情景はいつでも絵画的なのだ。しかし鼻にかけることは微塵も見られない。そういうところも一流と言える作品だろう。
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レイナードスキナードって、嫌いな先生の名前をもじったんだって

2021-03-20 | 音楽

 僕の子供の頃には、雑誌の「暮しの手帖」が居間などに何冊か転がっていて、まあ、目の前にあるんだからパラパラとめくって読んだものだ。それで、この雑誌の後ろの方に、黒田恭一という人がレコード評のようなことをしている欄があって、音楽の紹介がしてあるのだった。クラシック音楽が中心だったので、最初はあまり興味はなかったんだけど、よく見てみるとロックだとかジャズだとか、まあそう言うような異分野のモノも時には紹介してあるのだった。クラシックのアルバムの紹介の折に、紹介されてあるアルバムをレコード店に探しに行ったことがあるのだが、一度としてそのアルバムが店頭に置かれてあることは無かった。要するに田舎のレコード店には、クラシックのレコードを置くスペースを割けなかったらしい。そういうことはあったにせよ、雑誌に書いている人の権威と言うか、威光と言うか、めちゃくちゃ偉い人というような印象ではないにも関わらず、なんだか信用してもいいような気分になっていた。それにここで紹介されているロックな人というのは、実は一人もしらないバンドや人達だった。僕が学校から帰って聞くラジオでは、1回も聞いたことない人達ばかりなのだ。
 そうではあるんだけど、その時は小さい写真で紹介されているジャケットがよかったと思ったのか、レーナードスキナードの紹介に目がいっていた。妙なバンド名だけど、その妙な感じがまたロックっぽい。そして解説の中では、アメリカを代表するハードロックバンドのようなかんじで紹介がしてあった。アメリカのハードロックバンドってやっぱりラジオで聞くはずなんだけど、全く知らない。書いてある内容でも、アメリカの偉大なっていう感じの紹介である。そんな偉大なのに日本では紹介されない。それって一体どういうことなんだろう(当時は知らなかったのだが、事故のせいで絶頂期にもかかわらず巷間からは消えてしまっていたらしいのだ)。
 それで地元にあるレコード店でレコードを探す。田舎なので大した品揃えではない。で、その時にもレーナードスキナードは売ってなかった。もっとも僕が探せなかっただけかもしれないけど。 結局僕はフーとかキンクスのレコードを物色して時間をつぶした。
 時間は一気に流れる。ある店で飲んでいると、古臭いが聞いたことあるような音がしている。マスターにこれ何だっけ? と聞くと、他ならぬレーナードスキナードだった。なんとなく聞いたことあるよ、と思った。一体どこで聞いたんだろう。しかしあれほど探してなかったレコードの人たちだが、店のマスターの話だと、やっぱり流行ったもんね、ってことだった。マスターは僕より10以上上だろうか。やっぱり世代の差だったのかな。でも正直なところ、こんな感じだったら血気盛んな10代の頃なら好きにならなかったかもしれない。なんだかカントリーロックって感じだし。
 でもまあ、今は大人になった。この田舎臭い音というのは、今じゃぜんぜん悪くない。というわけで懐かしくて、改めてレーナードスキナードを聞いているって訳である。Free bird 、イイっすね、やっぱり。ふにゃふみゃしてて、どんどん盛り上がっていく。最高なんである。
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沈みゆく街と二人   帰れない二人

2021-03-19 | 映画

帰れない二人/ ジャ・ジャンクー監督

 麻雀店を経営しながら街の顔役でもある、ヤクザの男とその恋人がいる。二人は羽振りもよく、仲間たちとの信頼も厚い様子だ。そういう中だったか、後ろ盾をしていた実業家が亡くなると、何となく雲行きも怪しくなってくる。若手のチンピラから襲われたりする。ある日、大勢のチンピラから襲撃され殺されそうになる。結局女は男を助けるため、持っている拳銃を発砲してその場を逃れる。しかし拳銃の所持は重罪で、女は自分がその拳銃を拾ったと嘘の供述をし、そのまま服役する。男の方は先に出所していたにもかかわらず、面会にも来なかった。女は5年後出所し男を捜すが、男は既に別の女を作って、なんだか堅気になってるようだった。
 何年もの時間の経過を、中国の地方都市の時代背景とともに描いている。急速に発展する中国の中にあって、ヤクザな男女が時代に翻弄されながら、不思議な関係を持ちながら生きていく。
 芸術作品の多くがそうであるように、何が何だかよく分からない説明のなさなのだが、雰囲気としてはいい映画である。面白いかどうかは別にして。何しろどうして社交ダンスなのか、とか、なんでここでお金を取られるのかとか、必然性がどこにあるのかよく分からない所が多い。そのままお話は進んでいくわけだが、結局その謎めいたところを良しとするかどうか、そこのあたりにこの作品を評価できるかどうかがわかれそうである。僕としては素直に訳が分からず、戸惑ってしまった。ということで高い評価の映画のようだが、そんなことは勘違いのようなもので、はっきり愚作だろう。愚作なりにいい感じの映画、ということだろうか。
 ところで僕は若い頃に、この映画の舞台となった地方を旅したことがある。まだダムに沈む前の川を観光船で下った。その観光船は新婚旅行の団体が乗っていて、僕のような一人旅の人は、ものすごく居心地が悪かった。あちこちでべたべたしてるカップルの間から、沈みゆく街の風景を眺めた。今となっては、いい思い出だったのだろうか。
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歩きスマホは危険です、が

2021-03-18 | 散歩

 多分雑誌をパラパラと読んでいての話だと思うんだが、東大のようないわゆる一流の大学の学生さんというのは、歩きスマホをする割合が少ないらしい。それというのもそうではない大学の学生というのは、大抵キャンパス内で歩きスマホをしているらしい。だからそういう大学に慣れている先生なんかが、改めて一流系の大学に行くと、学生が歩きスマホをしていないということに驚愕するらしい。
 マナーの問題なのかどうかわからないけど、街中の歩きスマホというのは、田舎ではそんなに多くはない。そもそも人はあんまり歩いていないので、それが正確な情報なのか僕には自信がないのだけれど。
 実を言うと、案外歩きスマホはしている。何しろ田舎道で車なんて通らないし、いや少しは通るけど、まずぶつかる気配がないので、何か気になったことがあると、歩きながら調べ物をしている。歩いていると、風景を見たいとかいうこともあるけど、他にやることがないから、一種の瞑想状態のようなことになって、雑念がたくさん出てくる。そういうの中に、あれは何だっけというようなことがある。それをスマホの音声で検索する。いつもそうしているわけではないが、そんなふうにして、歩きながら辞書代わりにしているスマホは重宝である。昔聞いたあの曲は何だっけ、みたいな、歌詞の一部だけとか、それがうろ覚えの英語の歌詞であっても、ちゃんと検索してくれる。本当にすごい。もっとも全然わからないものもないではないが、それは 僕の記憶の方が悪いだけのことだ。もしくは何かの勘違いという可能性もある。そういう勘違いのものまで正解として導き出せるはずはない。 
 ところで大学生の歩きスマホの件だが、要するにスマホに頼り切っている生活をしている人間というのは、三流だということだろう。 そして言いたいことは確かに分かるんだが、もしもっとはっきりとそういうものを規定したいのであれば、もう少し統計としてしっかりしたものをとるべきだと思う。せっかく明確な違いらしいものを見つけたのであれば、それをちゃんと調査するだけで、それなりの研究成果である。そして因果関係として何かを明示できるんであれば、それはある意味で大発見ではないか。でもまあ、知らないで言うことはそういうことを言いたい人と同じではあるが、そういう発見はおそらくできないだろう。いい大学は歩きスマホをしていると危険である可能性だってあるし、何か時間的に急ぎの用がある学生が特に多いだけの事情かもしれない。スマホに頼りきっていることと、歩きスマホの関連性自体も、しっかりした統計がとられていると言えるのだろうか。 そもそも二宮金次郎は歩きながら本を読んだ。僕らの子供のころは、それをえらいこととして大人から教わった。現代の歩きスマホが、それとどんな違いがあるのだろうか。
 もっとはっきりした予想を立てるとしたら、このようにスマホと一体化したような、仮に歩きスマホを自在にするような人が増えるようであれば、または歩きスマホをもっと自由にできるようにな形になるに違いなくて、そうした人たちの中から、もっと次世代を作るような優秀な人が出てくるだろう。もちろんそうしない人にも可能性はあるが、勝利するのは歩きスマホの方だろう。まあそんな予想が当たったとしても、何の報酬もありはしないが。
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むらさきや黄色の人たち   むらさきのスカートの女

2021-03-17 | 読書

むらさきのスカートの女/今村夏子著(朝日新聞社)

 むらさきのスカートを履いた今は無職らしい女は、近所の商店街や、公園などでは、ちょっとした有名人であるようだ。というか、そのむらさきのスカートの女を観察している黄色のカーディガンの女が、そういっている。この物語は黄色のカーディガンの女が、むらさきのスカートの女を観察して、それを克明に語ることで成り立っている。そうして商店街の人込みをスルスルと人にぶつかることなく歩くことができるが、何かとぼけていて謎の多いむらさきのスカートの女のことを観察する黄色いカーディガンの女の話で、その後妙だけれど、何とか生活を成り立たせていくむらさきのスカートの女のその後の生活が、段々と明らかにされていくのだった。
 単行本なんだけど短い話で、短編よりは長いが長編とは言えないくらいの長さである。そういえばこの著者の作品で、先に読んだ「あひる」も短かった。しかし何というのだろう。妙な可笑しさや異常さが淡々と語られる観察の中にあって、かなり引き込まれて読んでしまう。そうして最後の展開に、それなりにあっと言わされる。ミステリ作品ではないが、してやられるのである。ちょっとだけど驚いてしまって、呆れもするけれど、感心する。そういう作品なのである。
 こういう作品は、映像化もできるんだろうけれど、そういう映像で映える派手な演出には向かないような気もする。いや、大きな事件が起きてそれですさまじい動揺を受けるはずだが、それでもやっぱり、小説として仕組まれているミステリの枠での驚きに比べると、ちょっと難しいものがある。読みだす最初の頃は、むらさきのスカートの女の得体のしれない異常性のようなものの興味で引っ張られていくのだが、しかし、段々とむらさきのスカートの女だけが異常ではないことに気づかされる。というか、段々とむらさきのスカートの女は、あんがい人間的にはまともで女性としても魅力的なのだ。そういう転換のされ方については、最初から気づいている人もいるかもしれないが、いや、気づいていない方が、読んでいて楽しい筈である。そのようにリードしていく文章に乗っていることが、読書の体験として楽しいわけだ。最近の日本の、特に女流の作家たちの作品というのは、その女性なりの個性が際立っていて、そういうところに驚かされていくことが多い。そんな風に感じたり、物事をとらえたりすることがあるのか、と思うのである。しかし、まったく共感のない話なのではない。それは自分も持っているはずの感覚で、そういえば、そんな感じのことを、自分の中にも見出すことができたりする。そうしてそのことで、何か心がかき乱されて、混乱して、あっと言わされる。なるほど、読んでいて楽しいだけでなく、文学というものなのかもしれないな、ということになるのである。それに賞が付いてくる。僕はこれまで文学賞の選考委員会のような人々の評価を疑っていたのだが(面白くない作品を選ぶ才能はあるようだが)、こういうのを読むと、あんがい、まっとうな場合もあるのかもしれないな、と改めて思わされたことである。
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