カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

足が速いと困る

2018-12-31 | ことば

 落語で「お足(単に足でもよいが)」と言ったら銭(金)のことである。辞書を引くと、足があるかのように渡り歩くから、とある。落語は庶民的な娯楽だから、そういう解釈でいいのだろう。もちろん足が好んで一休みするところもあるのかもしれないが、どうやったら休んでもらえるのか、またどこで集会などなさるものなのか、よくは知らない。
 他には、足が出る、などともいう。お金が足りない、赤字である。それは以前から聞いたことはある。おそらく落語以外でも言ったものなのだろう。予算を言っていたのに超えてしまう店があるが、幹事さん泣かせである。客の要望の何を聞いているか、考えてほしいものである。いや、客の中(仲間に)に特別いう人がいて困るのかもしれないが。
 人間は二本足だから四本足の獣からすると不利なようにも思う。しかし足ばかりの動物は、残念ながら「お足」には興味を示さない。いや、二本足の種でも、人間以外はそうかもしれない。コインのような光るものを集めるカラスならいるかもしれないが。要するに流通されるためではないのだろう。
 子供や陸上選手などなら足が速くて結構だけれど、お足のほうが速すぎると、生活に困窮する。やはり計画性が大事なのであろう。
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第二のスタートが切れるかどうか   オーバー・フェンス

2018-12-30 | 映画

オーバー・フェンス/山下敦弘監督

 おそらく失業保険を受けている人向けの職業訓練校で勉強している社会人で、離婚して心に傷を負っている男と、夜はキャバクラで働いている、これも心に傷のある女との物語。女のほうの精神はそれなりに具体的に病んでいるようで、観ていて痛々しい。ふつうはこれは無理だろうという状態にあるが、妙なバランスがあって関係が深まるようだ。
 ほかにも病んでいる状態らしい人は出てくるので、そういう方面の映画なのかもしれない。了解がないと危ない人だらけという感じでもあるが、そういう緊張感の中にあって、痛痒い演出が冴えているということかもしれない。演技がすごいというか、ちょっと観ていてつらくなるような感じもある。ケンカしそうなピリピリした緊張感は良かったが、しかし男女の仲はどうなのかな、とも思った。ちょっと続けられないというか。
 職業訓練校のことを知っているわけではないが、何か囚人服を着た連中が、一定の管理下で指導官の抑圧のもとに我慢して作業をしている風景がそれなりに続く。いわゆる閉塞感がある中で、何か漠然と未来を歩もうという気持ちがないわけではない。無いわけではないが、それなりにあきらめてもいる。皆それなりに過去があって、いわゆるやり直しのためにここにいるからである。やり直し前と、やり直し後には、たぶんだけど少しばかり落差がある。悪いなりにこれからも、頑張りとおすことができるのか。そういう心情を表しているのだろうと思われる。
 人生のほとんどはすでに挫折して終わりのようなものである。しかし寿命はまだ来てないのである。本当に区切りのある第二の人生をスタートできるのか。そういう下層に落ちてしまった人間がどうやって生活するのかというテーマがあるのかもしれない。そこには精神を病んでしまった人々もいるのだろう。いわゆる福祉的な視線で映画が作られているわけではないのかもしれないが、そういう問題について考えてしまうような映画にもなっている。今の日本で厳密な階層問題は表しにくいものがあると思うが、こういう世界があるというのは、映画的に面白い視点なのではないか。いや、単純に面白い映画ではないけれど、苦悩を描くという意味では、きわめて現代的な映画である。
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来年からいい年になりますように

2018-12-29 | 時事

 年末になり日本のIWC脱退が伝えられた。国際協調の面からこれを批判するものもあるが、なぜ脱退せざるを得なくなったのか、ということはあまり詳しく報じられない。そういうメディアの姿勢はいつも通りなのだが、そうまでしてクジラを食べなければならないのか、という意見まであるわけで、ちょっと思考停止過ぎるとは感じる。別にクジラを食うことに執着して脱退したわけではなかろう(まあ、執着して何の問題もないけれど)。人間は理不尽な要求をのむことで関係が悪くなる。そのようないびつな歪みに対しては、やはり一定の距離があったほうがいい。まあ実際は選挙がらみで地元に配慮した政府の目論見が第一かもしれないが、そうであったとしても、日本が普通に国際世論の中で生きているという現実を示せたということは、それなりに慶事である。
 IWC内部での反捕鯨国の多くは、明確に人種差別と偏見のために捕鯨に反対しているだけである。クジラを守ろうという博愛精神が発端ではない。説明が足りないとか、いろいろといい方はあるのだろうが、理解できる知性のほうが足りないのだから、むつかしいわけである。これまでにも実に根気強く、日本などは捕鯨に対する理解を促してきたが、捕鯨と関係ない国を呼び込んで反捕鯨活動を展開され、ほとんどすべてを反故にされてきた。話し合いを拒絶する会議というものには、本来の組織の意味がなされておらず、脱退はかなり致し方ない追い込まれ方をした結果のようである。実際に捕鯨国の多くはこの会からはすでに脱退しているわけで、日本は忍耐だけでよく持った方である。また、対外援助を純粋にやっているにもかかわらず、捕鯨を守るための植民地主義と捉える国の批判を受けるなど、現状のままでも理不尽な状況は変わらないのである。
 クジラが増えすぎて、生態系のバランスが崩れているという背景もある。イワシやアジ、サンマなど数が激減していることと、クジラが増えすぎていることとの因果関係の深刻さが懸念されて久しいわけで、あまり手をこまねいていると手遅れになりかねない。また、現在は捕鯨をしていないが、深刻な食糧不足に悩むアフリカ諸国などに対しての人道支援においては、鯨資源が打開のカギを握るかもしれない。そのような問題から国際社会は、いつまでも目を背けたままでいいというのだろうか。戦後食糧難から何とか国民が生きながらえた日本という国もある。捕鯨文化というものは、そのような歴史あってのものだろう。
 もっとも商業捕鯨の再開といっても、大手の水産企業が参加の見通しが立っているわけではない。すでにクジラに対するダークなイメージもあり、商業ベースでの採算のバランスとしては微妙なのだろう。国際的に妨害するテロ組織(目的は資金集めだが)もある。そのような外的妨害こそが、クジラを守るべき大きな根拠でもあるわけだが、そこのあたりはまだまだ日本は、いまだに及び腰なわけだ(だから現状を招いたともいえる)。しかしながら無知や偏見のためだけに虐げられている国民がいる以上、これ以上明らかな過ちの加担を続けることの方が罪深い。正当なものは正当に主張し続けていくことこそ、国際社会の一員であるといえるだろう。
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迷ったときには原点に戻ろう   麒麟の翼~劇場版・新参者~

2018-12-28 | 映画

麒麟の翼~劇場版・新参者~/土井裕泰監督

 テレビシリーズでもあるのだろうか。そういったものは未見なので知らないが、なんとなくテレビっぽい演出である。先日の出張の帰りに一緒にいた人達が、できれば日本橋に行きたいという。どうもこのドラマが原因らしいと知り、観ることにした。確かに日本橋界隈のロケの多い作品で、観光のためには効果のある作品かもしれない。
 被害者の男が、腹を刺されながらこの日本橋の麒麟像の前までたどり着いて、そのまま死んでしまった。被害者のカバンを持った若い男が職務質問から逃げる途中でトラックにはねられて意識不明の重体である。当然第一の被疑者として有力である。事件そのものはそのようにして簡単に終わるように思われたが、被害者の過去の行動をたどっていくと、意外な事実が明るみに出てくるのであった。
 それにしてもわざわざ麒麟の像の前で死ぬようなことではない。たまたま近くにあったとしても、まずは救急車を呼ぶという行動をとるべきだろう。それだけ死ぬつもりだったという意味なのだろうが、刺されて当然なのは、もっと違う立場の人からなのではなかろうか。
 また、この刑事たちが偉そうなのも気になる。犯罪者たち(罪に問われるのか別にして)に対して、尊大な態度をとっていいという警察の立場とは何だろう。海外の警察ものではあまり感じない感覚なので、日本語の問題なのだろうか。誰に何を言う資格があるのかわからないが、踏み外した発言の多い作品だという印象が残った。脚本が悪いのだろう。
 構成は良く組み立てられているものの、やはりミステリのための人間ドラマではある。これだけ複数の人間の絡むミステリならば、もう少し別のほころびが出てくるようにも思う。因果応報のされ方が、いびつに表面化するとどうなるか。まあ、そんな感じなんだろうか。結局感情的なまとまりはあんまりよくなくて、そういうところが物語の余韻としては良くないように思われた。ミステリを楽しむ人向けの作品であろう。
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今年の重大出来事を考える

2018-12-27 | なんでもランキング

 今年を振り返っての十大(もしくは重大)ニュースという特集があっている。観ていると、人によってずいぶん印象の違うものだなと思うわけだ。例えば今年は冬のオリンピックがあったりサッカーのワールドカップがあったわけで、スポーツといえばこの二つだろうと思うのだが、大谷選手の活躍を一番に挙げる票もたくさんある。それも悪くはないが、メジャーで彼が新人賞を取ったなんて、なんだか悲しい話題という気もするけどね。だって彼の実績は、日本人にとっては新人のものではないから。いいかげんにルールは改正して、日本のプロ野球でキャリアのある選手は、新人賞の対象から外すべきだ。今回も、大谷選手や日本のプロ野球界に失礼だと思う。
 オリンピックの印象で言っても、なんといっても一番は女子パシュートの快挙だと思うが、フィギアの羽生選手の連覇がかっさらってしまった。でも僕としての収穫は、羽生選手ってなんとなく変だよな、と発言したら、多くの人が、それはみんなそう思っていながら、彼のことを好きなんだ、ということだった。僕は安心しました。それに羽生選手は、中国の人も好きなんだよね。アジア的にいい印象の人なのかもしれない。
 全体的に一番の印象は、なんといっても災害の多い年だった。大雨で多くの人が犠牲になり心が痛んだ。日本で、台風以外で、まだこんな災害が起こりうるんだというのは、本当に驚きだった。それに災害発生中は、危なくてとても助けに行けない状況である。一晩明けると、世界が変わってしまっている。本当に恐ろしいことだ。そういう雨が何度も何度も降って、これはどうなることかと心配した。来年も心配は残るのだろうか。それにしても今年の漢字で「災」が選ばれたのは、なんとなくがっかりした。今年の世相を一文字で表すって言いうのは、あんまりよくない取り組みだと思う。世界はそんなに単純ではありえないし、単純ではよくないと思う。だからどうするのかということを真剣に考えるべきだ。
 後半で日産のゴーンさん逮捕のニュースが印象を奪っているが、これは日本の検察の妙な慣習が国際世論で批判を受けている(でもはっきり言って、この問題はずいぶん古くから言われ続けていることだ。外圧でなく何とかすべきだ)。そうなると日本の報道のほうがビビってしまって、ややゴーンさんに及び腰のようなことになりかけている。相変わらず日本人って情けないというニュースになりそうな気配だ。保釈後ゴーンさんの逆襲が始まるわけだが、そんなことは始まる前から当たり前のことなんだから、報道のほうも検察からのリークばっかりじゃなくて、独自に態度を明らかにさせて頑張ってもらいたい。
 アメフトの監督をはじめとするスポーツ界の指導者も、だいぶたたかれた年だった。日大というブランドまで地に落ちてしまった。それだけの事件だというとらえ方もできるけれど、やはり世の中は神経質である。強い指導を欲しながら、強いチームを持ち上げながら、強い体制ができると内部崩壊する。まるで日本の縮図だが、それは他人事のように騒ぐムラ社会が作っているわけだ。それでもダメだという個人が生きられる社会を、押し付けでなく作る必要があって、それは日大の問題だけではないだろう。でもまあ、ボクシングの話になると一気にお笑いになるので、やはりこれは、日本には相当変なものが残っているということにはなるんだろう。内部で浄化できないのなら、やっぱり叩くしかないのだろうか。どこかでおびえた生活をしている指導者がいるはずで、これでも生きながらえる環境にあるのならば、それこそが日本の病理である。そういえば佐藤卓問題もあったな。才能があってもおごるべからずである。
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面白くないギャグとグロい裸の世界   ありがとう、トニ・エルドマン

2018-12-26 | 映画

ありがとう、トニ・エルドマン/マーレン・アーデ監督

 最初から風変わりな、というか不穏な空気の流れる展開である。奇をてらったということはわかるが、そのユーモアのセンスがなんともわかりにくい。本人は面白く思っているのかもしれないが、そんな感じははたしてほかの人に伝わるものなのか。
 買っていた犬が死んでしまい、その悲しみのためもあり娘の顔も見たくなったということだろう。娘の転勤先のポーランド・ブカレストに行く。娘は大手企業のバリバリのキャリアウーマンで、突然父が現れても仕事が忙しい。そのまま自分のビジネスの現場に連れまわすことになるが、そこでも父親は頓珍漢なギャグを連発して、どうにも顰蹙を買っているのかどうか…。ともかく娘には煙たがられて帰るようになるはずだったが、なんと変装して再度娘の生活に中に何度も闖入して騒動を起こすのだった。
 長くて退屈な笑えないコメディで、とにかくこの父親がイラつくことばかりやるので、一緒に見ていたつれあいは呆れてみるのをやめてしまった。娘である立場の人としては無理もないことである。
 おそらくこれらの表現は暗喩になっており、ドイツとEUの関係を揶揄しているのだろうことはなんとなくわかる。いや、そういう風に観ないことには、なんともつらい。しかしながら皆簡単に服を脱いでしまうし、何故か素人臭い歌まで聞かされる(演奏はなかなかだけど)。今時どっきりカメラでもこんな演出はしないだろう。
 こんな映画しか撮れないからEUは、もしくはドイツはつまらない国なのか、と疑ってしまいたくなる。とにかくひどい出来栄えの映画で、そうして賞を総なめしてしまった。皆、気取っているのである。だからダメなんだろうと思うけれど、まあ、そういう国なんだろうから仕方がない。僕らは先に歩きましょう。
 要するにファンタジーで、ショッキングなポルノを交えて世間を皮肉ってしまえば芸術なのである。まあ、その表現は面白くないわけではないが、だからと言ってそれが優れているわけではない。身内では楽しいというのは分かるが、見せられるほうはうんざりである。そういう気まずいものをあえて作っているのは分かるのだけど、時間がもったいないことには変わりない。まあ、変な映画を見たという人生経験にはなるんだろうけれど。
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そういえば最初はセルボだったな

2018-12-25 | 掲示板

 車の免許を取ってからすぐに自動車には乗っている。すでに30年以上だ。日本にいなかった時期もあるけど、大体車は所有していた。妻の車も入れて数えると歴代16台ほどある。通勤などほぼ僕が使用した車は9台。中古車が多いというのはあるが、3年もすると買い替えているのかもしれない。
 一番最初に買った車は、セルボという軽自動車だった。確か3万とか5万とかいうような値段で譲ってもらった。何しろ学生である。厳密にいうと高校生の終わりくらいから。乗れたらなんでもいいと思って買ったが、すぐにそのパワーのなさに失望して数か月で買い替えた。その頃はバイクも持っていて、350CCのバイクと比較した軽自動車の、そのあまりの頼りなさに耐えられなかったのである。まあ、若いのである。何しろその頃の軽自動車は、550CCだったと思う。単車との重量の差から考えて、無理のあることだったのかもしれない。
 まあそうなんだけど、この数か月間の車体験はそれなりに貴重である。もちろん学校には内緒だったけど、いくら田舎でも車に乗っている同級生(ほんの数か月ではあるが)なんて少数派で、友人には重宝がられた(当然である)。
 とにかく車に乗るというだけで、ものすごく楽しいのである。4人乗ると坂道を登らないのには閉口したけど、それもまたスリルがあるのだった。いつ壊れるかわからないような気もしたものだ。ものすごい白煙を吐き出しながら一所懸命登るセルボが、いとおしくもあった。いつもアクセルは底まで踏み込んで走っていたが、たいしてスピードは出なかった。スタイルはその当時にしてはなかなかかっこよかったのだけど(2ドアだったし)、すでに古臭い感じはあった。大村湾一周したり雲仙に行ったり福岡に行ったり(その頃は高速には金がかかるので乗らなかった。まあ当時は、佐賀大和までいかなくては高速に乗って福岡には行けなかったし)、とにかく忙しかった。バイトの時間も増やしてガソリン代を稼いで、そうしてひたすら運転するという感じだった。もう普通車に乗り替えたいという思いもあったから、バイトも頑張ったのかもしれない。楽しいが満足できない。そういう思いで運転を始めた、十代の終わりのころだった。
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今の思いが永遠である   ある天文学者の恋文

2018-12-24 | 映画

ある天文学者の恋文/ジョゼッペ・トルナトーレ監督

 大学教授と女学生が付き合っている。かなり親密だが、不倫らしい。遠距離で、メールやラインなどを頻繁にやり取りしている。ちょっと不真面目なくらい。教授の代行で他の先生が講義を受け持つ授業に出ると、この教授が亡くなったと聞かされる。それでもメールや手紙は届いてくる。すぐに何か仕掛けがあるとは分かるが、どうして教授はこんなことをやっているのだろう。もしや物理の考え方の一つとして、別の教授がいるとでもいうのだろうか。
 教授の自宅のあるエディンバラや、教授との思い出のイタリアの島などを旅するが、その都度教授からのメッセージが届けられ、メールも送られてくる。亡くなっているにもかかわらず、彼女の行動を予想して、または巧みに誘導して、そのような仕掛けを施しているらしいのだ。ところが彼女の秘密である部分に言及され、このゲームを終わらせる方法を彼女は怒りのあまり選択してしまうことになる。彼女のために書かれた手紙やCDはまだまだあるらしいことは突き止めてあるが、何かのプログラムのせいで、これらが彼女に届く道は永遠に閉ざされてしまったかに思えたのだが…。
 女子大生と老教授(何しろ自分の娘を同じ年の女と付き合っている)というバランスが危ういわけだが、確かに激しい恋に二人は落ちている。教授は著名な天文学者で、さらに大変な資産家のようだ。家族にも不倫関係はバレているようで、のちに娘の苦悩の話も少し出てくる。秘密の恋だとはいえ、公然の秘密だったということだろう。これで周囲に知られないというのもどうかしているけれど。
 相手のことを思うあまり、未来にわたって彼女の行動を予測しつくしている。天文学者が、まるで星の軌道を計算して読めるように、恋の行方も、緻密に計算して手を打とうとしている。しかしあまりに時間が過ぎてしまうと、少しばかりほころびが出てしまうとこがある。最初彼女はその不完全さにイライラする(時間の風化のようなことを感じたのか、間の悪さをおもったのか)が、実はその順番の狂いが、人間らしい博士の愛情を感じさせらえることにもつながったりする。素晴らしい演出である。
 人への強い思いは、瞬間的に永遠である。それは間違ったことではない。しかし人は生きていて、やがて死ぬ。瞬間としての永遠は嘘ではないにせよ、物理的な人間という生物の永遠は失われてしまう。そのようなはかない恋や愛というものは何だろうか。ファンタジーかもしれないが、そういう思いを抱くからこそ人は生きているのであり、今が生きられるのである。いかにもイタリア人らしい監督の人間賛歌の物語ではないか。
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真似をされたらくすぐったい

2018-12-23 | ことば

 映画を見ていると言葉遣いが違う。ああ、舞台が北海道なんだな、と大体すぐには分かる。ふつうは風景が先だが、その程度の言葉遣いで場所は特定できる。また、北海道のアクセントは、いわゆる標準語との違いとしては、ほとんどほんの少しである。
 似たような場所に、沖縄がある。沖縄だって厳密にいえば方言のきついところはあるが、だいたいのアクセントの強弱の仕方の程度で、沖縄だとわかる。意味も大体通じやすい。
 僕は長崎県人だから、東北の言葉というのが一番むつかしく感じる。アクセントであちらのほうだとはわかる。しかし、相手がまじめに方言を使われると、ちょっとわからないところが出てくる。カンでわかる場合もあるが、流れ次第だろう。
 テレビや映画だと、語尾のアクセントだけ東北っぽくというのがあるのだろうと思う。なぜなら大体意味が分かるから。わからないように話されては、物語が理解されない。そういう意味では、やはり本当の方言ではないのかもしれない。
 ドラマの中で九州弁を聞く場合がある。こちらとしてはネイティブだから、わかるはずだが違和感が残る。要するに全国に通じる方言だから、こちらのものとは違うのだろうと思う。確かに長崎弁だとわかるのだけど、変だなあ、という感じ。地元がこちらの役所広司のアクセントは、さすがにうまいものだけれど、彼の演技と同様に、大げさでかつ、わかりやすい単語を交えながら発していることが理解できる。役者さんは上手いものだ。
 ところがこちらの出身でない俳優さんのもので、形だけ九州弁というのがはっきりわかる人もいる。身についていないものだから、語尾のアクセントが妙にわざとらしい。聞いていて何かくすぐったいような、妙な気分になったりする。
 東京の言葉がダイレクトに標準語なのではないが、そういう感じの語感は、東京の人にはないのだろうか。もともとネイティブでない人の集まりが東京だという話もあるし、気にしてないようにも見えはする。しかしながら妙に江戸っ子ぶったアクセントの俳優はいるもので、あれはあれで田舎臭い。言葉というのは妙なものである。
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人形は本当にあなた次第か?   フィギュアなあなた

2018-12-22 | 映画

フィギュアなあなた/石井隆監督

 リストラされてやけ酒飲んで、やくざに絡まれて逃げ込だ廃墟ビルの一室に、人身大フィギュア人形が置いてあった。等身大の女性にほとんど変わることのない精巧な作りに驚かされるわけだが、人形とはいえいたずらのようなことに熱中していく。そうしているうちに追っ手のやくざに見つかり、ほかのやばい連中とも合流があり、血なまぐさい展開へと突入していくのだった。
 まあ、ストーリーはどうでもいいという感じのポルノ作品には違いないが、何か間合いがやたらと長く、演出としてはどうなんだろうという感じである。しれなりのドラマはあるはずで、意外なところもあるのだが、うまく活かされていない。そうではあるが、主演の柄本佑と佐々木心音は熱演である。ポルノとしての濡れ場ばかりがやたらにある作品ながら、どういうわけだかそんなにエロっぽくない。ぎこちないことを延々とやっているし、なんとなく現実感がないというか、みんな服を脱いでいる割に、裸に何かリアリティがないというか。
 それと正直にいって、主人公は情けないうえに動きががやたらにのろく、何をするにもちゃんとしていない。もう少し落ち着いてことを考えるくらいのことをしなければ、結局何も進まない感じがする。待っている間にシラケていくので、映画としてはかなり失敗してしまったのではなかろうか。頑張ってるんだけどなあ、という感じで同情してはしまったが。
 しかしながらフィギュアの女の子も結局は従順なわけで、未熟な男はそういう女を求めているということなのかな。ある程度は女のほうがそういうことに柔軟に生きていることが多いだろうにせよ、これでは最後まで溝なんか埋まらないはずだよな、ということも考えてしまいました。男女の恋愛の深みなんて全くない話だから、そんなことを考えても仕方ないんだけどね。
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クリスマス・ソングを聞く

2018-12-21 | 音楽

 今回も村上レディオ、よかったですね。クリスマス・ソング特集でありました。毎回変わった曲がかかるので知らない曲が多いのだが、ワムがかかったのにはびっくりした。村上さんも三河ナンバーのトヨタ・プリウスみたいにガチな定番と言っていた。バカにしているが、まあ、そういう感じだから仕方ないか。
 ところでこの時期に買い物に行くと、あたりまえだがどこに行ってもクリスマス・ソングがかかっている。楽し気な気分を盛り上げるものだろうけれど、ひねくれものの僕にしてみると、いささか食傷気味になる。クリスマスだからって、何が何でも楽しそうにしなければならないんだろうか、などと思ったりする。まあだいぶ大人にはなったから、楽しいんならそれで別に構いはしないとも、少しくらいは思えるようになったものの、やっぱり全体に浮かれすぎているんじゃないだろうか。僕の母もクリスチャンだから、そりゃあもうクリスマスといえば子供のころから最大のイベントだったけれど、大人になり自分の子供と祝うようになるまでは、だいぶ中抜けしてクリスマスはお休みしていた時間が長くなった。そうしてまた子供がいなくなってみると、まあ、特に盛大にやることなんてないよな、という感じだろうか。まあ、楽しい人は構いませんけどね。やっぱりクリスマスは宗教的なお祭りで、日本はその辺は、素直に変だと思う。
 さて、村上さんの番組でもそうだったけれど、この時期になると何故かビーチボーイズなんてものを聞きたくなるものである。ハッピーだけどちょっとだけくらい雰囲気というのが、何より合っているのではないか。
 本当はクリスマス・ソングにかこつけた反戦歌だけど、ジョン・レノンもいいかもしれない。もっとも彼は12月に亡くなったので、この時期になると自然にほかの曲も流れる。だから全体的な雰囲気として、クリスマス・ソングのようなことになっているのかもしれない。
 もう一つお勧めするとすれば、なんといってもエイミー・マンである。彼女もちょっとひねたところがあって、必ずしもハッピーなクリスマス・ソングではないけれど、やっぱりしっくりくるところがあるように思う。熱唱というわけでもなく、しかししっかり歌われている感じが、クリスマスにはお勧めであります。なんとなく物悲しい時期だしね、クリスマスは反面的に…。
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未来は幼稚な人間ばかり   レディプレイヤー1

2018-12-20 | 映画

レディプレイヤー1/スティーブン・スピルバーグ監督

 バーチャルリアリティのゲームの世界で、その制作者が死んだ折、三つの鍵を見つけたものに自分の総資産と、このゲーム世界を譲り渡す、ということになった。激しい争奪戦になるわけだが、リアルとバーチャルの世界にわたって様々な思惑が行き交い、主人公の青年が恋愛を交えながら鍵を見つけ出す冒険物語。
 まあ、ありきたりといえばそんな感じのストーリーに、ほとんどアニメ作品といっていいバーチャルリアリティ世界が売り物の映画なのだろうと思われる。監督がスピルバーグなので、お話の展開が確かに古臭い。いわゆる80年代的な映像が懐かしいとも言えて、そういうところもマニアックなつくりなのかもしれない。今の時代からすると幼い感じもするが、それが昔の感覚ということなんだろう。
 目まぐるしくお話は展開する割に、なんとなく退屈してしまうのは、そのようなちょっとした古臭さにあると思う。僕らの青春時代というのは、そういうものなのだ。しかしながらもう僕は大人になってしまったので、退屈してしまうわけだ。なんというか、本当のリアルはそこにはなくて、建前の物言いばかりだからかもしれない。西洋人は素直じゃないなあ、と思うし、子供を馬鹿にしているんじゃないかと心配になったりする。やっぱり今はそういうところには厳しく映画を撮っている作品が数多くあるわけで、むつかしくなっているんじゃないかと思うわけだ。ところが案外この作品は評価されてヒットしたらしく、要するに現代のアメリカ人が、まだそういうところにいるということなのかもしれない。日本ではダメなんじゃないかな。
 しかしながらこのようなゲーム世界を形作っている考え方は、すでに日本が何年も前にやっていただろうことにも思えるし、やはり共通要素はあるのかもしれない。仲間を大切にする考え方も共通のものだ。黒人やアジア人の使い方はアメリカ的だが、押しなべて世界は幼稚になっているという感じだ。まあ近代から見る未来というのは、人間性においては後退する世界なのかもしれないですけどね。
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銭湯の思い出(その2)

2018-12-19 | 感涙記

 中学生の時に、寝台列車に乗って大阪に居た兄のところに遊びに行ったことがある。寒い思い出があるので正月休みだったのかどうか。とにかく一週間ばかり泊まりに行った。
 その時はいろいろあったのだけど、最初に驚いたのは、兄の住んでいるアパートが共同トイレに風呂なしだったことだ。そうして隣との壁が薄いので、会話が丸漏れだった。お隣の夫婦らしき住人は、夜寝る頃になるとケンカをし出す。兄が壁を蹴るとしばらくはおとなしくなる。その間に寝てしまうと気にならないが、寝られないと結構いつまでもケンカをしていた。
 兄が仕事から帰ってくると、まず銭湯に行こうという事になる。歩いて10分くらいのところに小さな銭湯があった。労働者風のおじさんたちが入れ代わり立ち代わり入っていく。なかなかの盛況という風で、ちょっと怖い感じだった。
 ここでまた驚いたことに、シャンプー代が別だったことだ。兄はちゃんとシャンプーと石鹸を持ってきていて、それで歩く時にカタカタと音がしていた。まるで流行歌の神田川だが、そういう事だったのか、と驚いたわけだ。それにしても大阪というところはセコイものだな、と思ったし、シャンプー代を払わなくても、一人300円近い値段だったように思う。当然兄が料金を払うのだが、なんとなく散財させているような気分になって、申し訳なかった。ふだんはそんなにゆっくり風呂などつからないが、もったいないので出来るだけゆっくりしようとも思った。しかし怖いおじさんや兄さんたちがザブザブ入ってくるので、気分的には怯えていた。風呂の中ではあまり会話をする人は無くて、黙々と風呂を使っているという感じだった。脱衣場には刺青お断りと書いてあったのに、刺青をしているお兄さんもいた。恐ろしい世界だなあ、と思った。
 脱衣場も狭いもので、着替えるとすぐにでなければならないという雰囲気だった。コーヒー牛乳は売っていたと思うが、そういうのをごくごくする気分にはなれなかった。兄が着替え終わっていることに気づいて、ちょっと慌てて服を着て外に出る。外に出るとずいぶんホッとしたものだ。
 駅の側のハンバーガーでも食おうかといわれてさらに歩いて、確かドムドムという店でハンバーガーを食べた。その間ずっと銭湯でのことを話していたように思う。たぶん兄もそんな銭湯を見せたかったのではなかったかと思う。怖い体験だったけれど、その怖い体験を話すのがものすごく盛り上がるのだった。
 翌日も行くことになるのだが、怖くて行きたくないような、また怖いもの見たさの楽しさがあるような、不思議な毎日の銭湯体験だった。おそらく今はもう無いだろうあの銭湯だけど、やっぱりもう一度行ってみたいものである。
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まあこれもガッキーだから仕方ない   フレフレ少女

2018-12-18 | 映画

フレフレ少女/渡辺謙作監督

 新垣結衣主演。もう10年ほど前の映画。文学少女だった帰宅部の女の子が、野球部の練習こぼれ球が頭に当たり、それで突然に恋に落ちる。ところがこの野球少年はもともとたいへんなスターで、1年ながらスカウトから注目されるモテモテの投手だった。遠くから応援したところでライバルは多く、下駄箱にラブレターを忍ばせようとしても山のように他の子の手紙が詰まっている。マネージャーは飽和状態で募集無し、野球部の隣で練習しているソフトボール部に入部しようにもキャッチボール一つできない。チアリーディングは自らの大会で上位入賞のために励んでおり、他のクラブの応援が目的では無い。そういう中、天の声が聞こえる。それはたった一人であきらめず応援団を維持しようと奮闘している人間の声だった。
 そういう事で応援団に入ることにするが、何しろ団員が居ないので勧誘から始める。文学的センスで培った口説き文句で、何とかさらに3人確保して、最低限の応援編成を組んで試合に臨むが、ロクな応援が出来ずに野球部からは顰蹙をくらい、その所為なのか、応援していた憧れの大島投手はライバル校へ転校してしまう(そんなことがあっていいのか!)。もうすでに何の目的も失ってしまったのだが、謎のおじさんがやってきて応援団の合宿を企画して皆を謎の寺へと連れ出すのだった。
 まあ、何というか、スポ根ものギャグ漫画であればそれでいいのかもしれない。応援団っていったいなんだという哲学的な話もあるが、基本的には青春である。他人が頑張ることを応援するためには自分が頑張らなければならない。そういう変な思い込みが、あのような変な応援スタイルになってしまったのだろう。
 ストーリーはギャグとしては面白くはあるが、いったい本当にこれで良いのかは大いに疑問の残るところだ。実際に甲子園なんてどうでもいいので、それはそれでいいという事なんだろう。さすがにガッキーが応援団というのはまったく様になっていなくて、可愛いという点ではいいけれど、ちょっとつらいかもしれない。むしろガッキーとバランスの取れる役者が少ない感じで、ホレられるにしろホレるにしろ、もうちょっとどうにかならなかったのだろうか。
 それにしても応援団の会議などを見ていると、一体どこの国の風景だろうか?とは思う。あんな連中に応援される部活というのは、応援拒否を行っても仕方ないのではないか。とはいえ、本当に応援団なんてものがちゃんと存在する学校なんてものは、案外少ないだろうとは思うのだけど。
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銭湯の思い出(その1)

2018-12-17 | 感涙記

 子供のころにはあったが、今は無くなってしまったものに銭湯がある。厳密に言って田舎のまちでは、子供のころにも既にほとんど廃れていたものだった。何しろ風呂なしのアパートのようなものが、そもそも田舎には少ない。家に風呂がある人が、わざわざ銭湯にはいかないだろう。また、別府のように温泉が湧くようなところなら、共同浴場的に銭湯に行く場合があるかもしれないが、温泉で無い銭湯にわざわざ行くような人は、そうそういないのではないか。ある程度の人口を擁するまちには銭湯が残る余地もあるかもしれないが、田舎ではちょっと難しそうである。
 という訳で、銭湯というのは、どうしても子供頃の思い出である。家に風呂が無かった訳では無いから、何かの事情があって親と一緒に銭湯に行った覚えがあるという事だ。
 僕の小さい頃には借家暮らしだったことはあるらしいが、物心ついたときにはたぶん自宅は持ち家だった。ただし、何度も改築した覚えがある。僕のきょうだいは6人いるので、そういうライフスタイルの変化に伴い、改築をしたのではないかと思われる。また、ガスで沸かすタイプの風呂だったのだが、時々これが壊れた。記憶があいまいだけれど、空焚きをしてしまって壊れたこともあったように思う。火事にならなくて幸いだったけれど、そういうときには仕方ないので銭湯に行くという事になった。僕は風呂嫌いのところがあったのだが、この銭湯に行くというのが、とても楽しかったという覚えがある。家族みんなでそれぞれに手ぬぐいというかタオルを持って、どやどやと父の車に乗って銭湯に行く。何かとても興奮するようなイベントだったのである。
 田舎の銭湯なので、そんなに広い風呂では無かったが、当然家の風呂より広い。声も響いて面白いし、風呂で泳ぐという事もした。というか、ほとんど銭湯では泳いでいた記憶しかない。泳ぐと言っても顔をつけてバシャバシャする程度だけど。怒られた記憶は不思議になくて、当時の大人たちは寛大だったのではないか。むしろ僕らが入っていくと、泳いでみろと言われたような気もする。バシャバシャと温かい温水ピールで泳いではしゃいで、本当にあっという間の楽しいひと時だった。
 ごくたまにだけど知り合いの子が居たりもした。学校で会話をするような子では無かったのに、翌日から話をしたりするようになった。それから親友になるということは無かったが、なんとなく仲間になったというか、風呂の縁で友達になったのだった。
 風呂が壊れて父はめんどくさいというようなことを言っていたようだが、僕ら子供にとっては大変に良いことだった。ずっと壊れたままでも良かったのにな、と思っていた。
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