カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

認知シャッフル、いいぞ

2023-08-31 | Science & nature

 お酒を飲んで寝れば何の問題も無いのだが、休肝日であるとか、酒量が足りないとか、そういう時には、寝つきが悪いと感じる。妙な時間に目が覚めてしまって、睡眠が足りなくなって、日中に睡魔に襲われることになる。あんまり寝てないな、というのは寝ない限り解消できない。つらい時間が長いのが、さらにつらくなる。
 仕事がそれなりに立て込んで忙しかったり、ちょっとした問題が長引いたり、人間関係で気になることがあったりすると、このような睡眠の乱れだったり、眠りに対する難しさのようなことが出てくるように感じる。睡眠導眠剤を処方してもらって、なんとか眠れる、という安心感のようなものに頼っている感じがある。これで眠れないのは、どうなのか、などと疑問に感じるような日は、やっぱり最初あんまり寝つきが良くないようにも思う。なんとか眠れてはいるものの、そういう感じはちょっとつらいものがある。
 そんな風に思っていたのだが、ネットで「認知シャッフル」睡眠法というのを知った。やり方は簡単で、「なつ」だとか「いぬ」だとか、簡単な単語をつかって、「なつ」であれば、最初の「な」から始まる単語をランダムに思い浮かべるというものだ。「納豆」「南蛮船」「納屋」「中島川」とかなんとか思いつくままにやっていく。そのうち出てこないな、と思ったら「つ」から始まる単語を思い浮かべていく。そういうのを繰り返していくと、いつの間に寝てしまっている、というものである。あまりにも簡単なので、かえって疑問に感じる向きもあろうかと思うが、これがなかなか優れもので、本当に簡単に眠れるようになってしまった。ほんとにキツネにつままれるような感覚である。
 最初のころは、いわゆる頭がさえているので、どんどん単語が浮かんでしまう。どんどん単語を思い浮かべようと頑張ってしまって、実際「あ」から順番に思い浮かべてしまったりしていた。しかしながらこれは、思いつくままにやればいい、というラフなもののようで、あんまり頑張らずに思いつかなくなったと思ったら、随時次の単語に乗り換えていいようだ。一つの単語が終わったら、また適当な単語に切り替える。なつ、いぬ、ときたら、ふね、みず、とか何とか、実に適当にやればいい。僕の場合もう寝てしまっているので記憶が定かでは無いが、二つくらいの単語の途中で、段々単語を思いつかないな、という感じに思っていたら寝落ちていた、というのではないかと思われる。
 理屈はいろいろ考えられるし、気になったらググってもらうといくらでも解説があると思うので調べてもらえばいい。なんとなく「マインドフルネス」にも似ている感じもある。あれも考えを途中でやめる方法なのであって、その後に新しい考えが楽に浮かぶような感覚がある。今までの頭の中のごちゃごちゃが整理される感覚かもしれない。「認知シャッフル」は逆に頭の中に新しい関連性の無いものが出てきて、関連のあるぐちゃぐちゃから思考が遠のいてしまうイメージかもしれない。もともと眠たかったので、そのまま寝てしまうのだろう。眠れる方法がある、というのが分かっただけで、かなり精神的にも楽です。お試しあれ。
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この人は女性好きというのは伝わる   紀子の食卓

2023-08-30 | 映画

紀子の食卓/園子温監督

 平凡な田舎の家庭に嫌気がさしていた紀子は、廃墟ドットコムというサイトで知り合った仲間と、ネットを通じて親しくなり、その後家出して合流する。そこではレンタル家族として、疑似家族を演じる連中と共に仕事をするようになる。そういう需要のある寂しげな人々が一定以上居るもののようだ。この物語は「自殺サークル」という映画の続編になっているらしく、女子高生が54人集団自殺する事件がこの最中に起こる、という設定になっている。若者の社会的な反抗というか、そういう社会へのアンチテーゼが、象徴的な集団自殺としてあらわされ、そうしてこのような疑似家族を皆が白々しく演じることで、本物よりも、もっと実際的で本質的な家族の在り方の欺瞞が描かれていくわけである(たぶん)。
 園子温監督は、いわゆるセクハラ事件などでもう仕事ができる状態ではないようだが、それ以前は非常に多作で、それなりのヒットを飛ばす仕事引受人という感じの人だった。そういう園監督が名実ともに業界で認められるようになった映画として、評価の高い作品である。出ている役者も、この作品での演技の評価が高い。そういう前触れはだいぶ前に聞いたような気もするが、実は忘れていた。見直して思い出したのである。僕自身も園監督作品はたくさん観ていると思うが、出来栄えにははっきり言って大きなばらつきがあると思う。何でも引き受けるので、そうなってしまうのではないか。今作品を観て思ったのは、確かに意欲作で監督の作家性の高い作品だとは思ったが、気持ちが悪いし、ちょっとたるみがあるというか、観ていてつらくなるところが多かった。実のところ今となってはそんなに面白い着想でもないし、実際退屈だった。家族が疑似だからどうだというのは、所詮演技である。危なっかしいというのは伝わるけれど、だからと言ってやっぱり作り物だし、最後の方は、どうにも訳が分からないのだった。
 ということで、今は福山雅治夫人の熱演と目の大きさに改めて見るべきところがあった、という感じの感想を持ったのであった。
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夏は楽しかったのに

2023-08-29 | 雑記

 年を取ると夏の暑さはつらいばかり、という気がする。外はいい天気なのに、日差しの強さに気が滅入る。実際に外に出ると、苦しい。車に乗ると、拷問めいている。いちおうクーラーが効いてきて汗が引く前に、目的地に着いてしまう。そうして着いても、玄関までが、やけに遠いのである。
 人と話していると、暑いですね~、と当たり前の会話がいつまでも続く。皆そのつらさを共有したいのだ。何もかもやってられない。仕事も早く切り上げてやめてしまいたい。会議もほどほどで済ませようじゃないか。もう帰ってビール飲んでもいいんじゃないか。
 そういう訳で、クーラーの利いた場所での夜の時間を、ひたすら待つのみである。
 しかしながら、子供のころにはこんな暑い毎日でも、なんだか楽しかったかもしれないな、とは思うのである。あれはいったい何だったのだろう。暑いのに外に遊びに出ていた。暑さ自体は、やはり苦しくなかった訳ではない。暑いなあ、とだらけた気分になっていたこともあったとは思う。でも坂道を登ったり、川を下ったり、あちこちわき道にそれながら、外の世界を満喫していた。虫に刺されて、ぼりぼり掻いて、それでも藪をかき分け虫を探したりした。それを取って、いったい何をしてたんだろう。多くの虫や魚や鳥を取ったが、多くはただ殺してしまうだけだった。そういう殺生を重ねることが、子供としての使命だったのだろうか。
 スイカを食べたりキュウリを食べたりトマトも食べた。冷やしてあると最高だが、特に冷やして無くても食べた。水分を補給してたのだろうが、そんな意識は特になかった。水も飲んでいたし麦茶も飲んでいたしサイダーもプラッシーも飲んだ。そうしてビニールに入った氷アイスをよく食べた。駄菓子屋なんかでは30円とかだったっけ。すぐに50円になったり値上がりはしたが、いわゆるアイスクリームよりも安価で、しかも氷の方が長持ちして、いつまでも齧っていた。あれは確かに夏の至福だった。今もやりたいわけでは無いのだが……。
 結局体力があったのだろうな、ということなのであろう。単に筋力をさすものではなく、精神的な無知による体力。好奇心による体力。そういうものが、湧き出るようなイメージがある。いつまでも若いというのは、つまるところ、そういう事なのであろう。
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現実は、このように悲惨なのである   アイダよ、何処へ?

2023-08-28 | 映画

アイダよ、何処へ?/ヤスミラ・ジョバニッチ監督

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争時の緩衝地帯のまちに、国連が乗り込んできていた。一時避難場所になっていたところに、逃げ惑う人々が押し寄せてきた。アイダはそこで通訳をやっているのだが、保護される直前にキャンプに入れなかった夫と息子二人を何とかしようと奮闘する。そういう中にセルビア人武装勢力がやって来て、逃げている他民族男性を探し出そうと国連に脅しをかけてくるのだった。国連軍は一応の体裁は取っているものの、軍人の配備がおぼつかなく、中間の指令もセルビア人勢力の圧力を抑えることができない。とうとう難民キャンプ内にも、武装グループを侵入させる事態にまで陥ってしまうのだったが……。
 おそらく実話を再現したドラマなのだが、生きるか死ぬかの緊張感の中、武器を持たない群衆が、いかに武装集団の脅威から逃げられるのかというのは、ひとえに国連軍に頼らざるを得ない状況である。通訳のアイダは、家族の為とはいえ、ほとんど群衆の利益は無視して、肉親をどうするかだけで、いわばわがままを通そうとしているように見える。そのあたりは外国的な倫理感もあるのかもしれないが、それだけ切迫したものがあり、群衆から離れても殺されるし、見つけられても殺されるという立場がそうさせているのであろう。
 事実としてこの紛争は、血なまぐさい虐殺の事実が、後に明らかにされた大戦後最悪のヨーロッパ内紛争ともいわれている。国連軍が圧倒的な軍事力で空爆を繰り返したにもかかわらず、内戦紛争のセルビア人勢力は、あらゆる場所で虐殺を繰り返した。映画的には、それらの事実の告発を改めて行ったものであろう。現代の民族紛争であっても、このような原始的な暴力の応酬があからさまに展開されたというショックが、ヨーロッパに暗い影を落としたのである。そうしてそのわだかまりは、いまだに払拭された訳では無い。
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風評が楽しいのは、いじめっ子だと思っているからか

2023-08-27 | 時事

 10年にもわたって勝手に保留していたものにもかかわらず、やってもよかったという何でもないことを先送りし続けて、しかしそんなことをやっても他にもっと深刻なことがあって逃げられない状態になってしまって、そうであるにもかかわらず理解はされない一部のものがいる限り、結局は問題になる。というか、風評被害だとわかりきっているにもかかわらず、騒いで風評被害を広げているという事実がある。それに対しては莫大な金がかかるし、その負担は、結局は受益者が払うように先々ではなるという事にもなるし、その損害は、風評批判を起こした側は一切負担はしないのである。要するにそれはいじめであるだけのことで、被害が起こりえないことが分かっている事象に対して、被害を作り出す構図をあえて作り続けているだけのことなのである。それが風評批判というもので、いまだに議論が足りないから、もしくは十分ではないなどと言って逃げている訳で、じゃあこの10年は何だったのだろうか。
 そうであるから騒いでいいという構図に乗って、圧力をかける国はある。自分たちのやっている事よりもはるかに小さいことに対して、それは今は日本のほうが騒ぐだろうという事を見越したうえで、困るだろうという一点に絞って圧力をかけている。卑怯極まりない愚劣な行為だけれど、それを批判する側が同調するに違いないからやっている。いじめている外側だから何の問題もないことが分かっている。いじめられている側が、何らかのことをしない限り石を投げ続けても何も言われない。だから投げ続けているだけのことである。一言やめろ、というか、何やってんの? と反撃する人もいない。ちょっとはいるが声は小さいし、聞こえないふりさえしていれば、何にも悪くないので悪ふざけをし続けるだけである。その上に、悪ふざけをやめるために、かえってお金をもらえるかもしれない。結局そういう論理に近いものであろう。
 問題ではないものだから、せめて一面で報道をやめるだけでいいかもしれない。そもそも問題にする意味さえいじめのため以外にない。日本という国は、困る人にはいじめていいという事を卑劣に続けることを実践する、卑怯者国家である。そういう心根の貧しい人々の集団が日本国民のようである。そうでないというのなら、即刻やめるのが筋であるだけだ。しかし、そんなことは卑怯者にはできはしない。だから10年も先送りし、さらに伸ばしていじめのお祭りを続けようとする。これを愚かと言わずなんというのだろう。
 もちろん実際には何も起こらないのだが、小さい不関連な出来事が、それらしくあるようなことを子細に確認し続ける人々が群がって何かを見つけ出そうとするわけで、そういう期間が、またしばらく続く。貧しい人々が行きつく先というのは、つまりそういう先送りの行く末なのだろう。その船に乗っている自分のことを、呪うより外にやり場が無いのである。なんでこんな国に生まれてきたのだろう。親ガチャだって? その前に日本だろう。
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ヒトラーが目の前に立ちふさがったとしても   ヒトラーに盗られたうさぎ

2023-08-26 | 映画

ヒトラーに盗られたうさぎ/カロリーヌ・リンク監督

 ジュディス・カーという著名な絵本作家の、自伝的な小説の映画化らしい。その本はヨーロッパでは、たいへんに売れたものであるらしい。そうしてこの映画も。
 ユダヤ人である著名な批評家の家族は、ナチスの台頭で身の危険を避けるために、スイスへ逃げる。元はベルリンで豊かな暮らしをしていたが、一転して段々と困窮していく。子供たちもやっとスイスに慣れていくが、結局徐々に生活は苦しくなっていくことから、父は仕事を求めパリへ移住を決断する。パリでの都会生活は不思議な味のあるものだったが、しかしここでも安い仕事しか入らない。パリは物価も高いことから、さらに家族は困窮を極めていく。食べるものに困るようになり、特にとても肉などを食べることが叶わなくなり、育ち盛りの兄は不満を募らせる。妹のアンナは、絵をかきながら、さらに分からない言語と格闘しながら、子供なりに楽しい日々を送ろうとするのだったが……。
 ユダヤ人の亡命生活の困難を描いているが、同時に誇り高きユダヤ人という立場があり、助けてくれる人もありながら、それに素直に助けを求められないジレンマもある。家族を何とか養わなければならないのだが、ある意味エリートで批評家としての自負も高く、単純労働者として働くことは鼻からやるつもりもない。しかし結果的には、新たな才能を拾ってくれる国がある訳だが……。
 最終的には英国へ移り住むために、船に乗っているところで話は終わる。その後大人になってアンナは、童話作家になり成功することになるのだろう。ユダヤ人として亡命を余儀なくされ、もともとしあわせに暮らしていたベルリンには、戻ることが無かったという事か。最初は元の生活に、つまり家に帰ることを夢見て生活の困難を乗り切ろうとする幼い少女だったが、徐々にたくましくなり、どんな場所でも生き抜いてやるのだ、という決意をもってその後の人生を切り開いた、ということのようだ。その事の共感が、この物語を有名にしたのであろう。確かにそれは示唆的で、世の中には困難だらけなのだが、どのように生きるのかは自分次第だ、ということになるのであろう。ということで、皆さん頑張りましょう。
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宗教は子供を苦しめる   「神様」のいる家で育ちました

2023-08-25 | 読書

「神様」のいる家で育ちました/菊池真理子著(文藝春秋)

 副題「~宗教2世な私たち~」。親が熱心な信者のために、その子として宗教を強制されて育った経験と、多くの場合その後宗教を捨てた経緯を漫画にしてある。この漫画はテレビで紹介されていたので知ったのだが、いわゆる安倍元首相殺人事件のために改めて注目を集めたものだと、あとがきで知った。読んでみて途中から、確かに逆恨みした犯人の「山上」自身の話ではないか、と思った。まさにそのような子供たちの話が、7話にわたって繰り広げられる。両親とも信者というケースもあるが、ほとんどは片親、特に母親が熱心な信者か、宗教に取り込まれたモンスターである。このお話のすべては、非常に偏った人たちの物語だが、そもそも信者の家庭に育つというのが、日本ではまれな場合が多いために、このような極端さになっている可能性もある。宗教の信者として育つのが当たり前の諸外国の事情と比較すると、日本はそもそもの特殊性があるのかもしれない。さらにカルト系の宗教も多いような感じもあって、どの宗教も同じようなものだとは考えられるとはいえ、やっていることがあまり一般的ではない。教義にこだわりすぎるあまり、排斥する力が強すぎるのである。だからこそ、のめり込んだ親の犠牲になる子供が、苦しんでいるのである。
 しかしながら親の強制力があり、保護されながら育つ子供たちが、これらの宗教から、そもそも逃れられるものではない。親のために一所懸命に宗教的な人間になろうと努力はするものの、思春期を過ぎ、それなりに親元を離れる体験をすると、すぐにそれらの疑問から離脱する道を選び取れるようになっていく。自分が納得がいく教義でない宗教は、当たり前だが、大人になれば信じられないのである。
 この企画が持ち上がって某メディアで連載がなされたものの、やはり当事者の宗教団体からクレームがあったようで、いったんはお蔵入りの危機に瀕する。それを別の出版社が拾って世に出たものであるという。そういう経緯さえも、今となってはいかにも、という感じだ。漫画のエピソードにも頻繁に出てくるが、「信仰は自由」という当然のことが、親の宗教に縛られる子供にとっては、そもそも自由では無かったのである。そのことを描いているだけのことに、自由を制限する暴力として、団体はこれらを糾弾する。彼らには自由が無いのである。そうしてこれまで批判がはばかられてきた訳で、今はその反動期なのかもしれない。
 時代に合った鏡としての作品といえて、内情を確認するにはいい題材である。恐ろしい話が多いが、基本的には逃げるか、ちゃんと対話するかである。いい結果になった場合もあるようで、それはその家庭次第なのかもしれないが……。
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裏切り者が多すぎる   死の接吻

2023-08-24 | 映画

死の接吻/ヘンリー・ハサウェイ監督

 ギャングが追っている男の、車椅子の母親を階段から落とすシーンが有名らしい。実際のシーンはそれなりに残虐だが、今の時代から見ると、既にそれほどでもない。今の時代は、なんと残酷に染まってしまったことだろう。
 金に困り宝石強盗をする男は、逃げるとき足を撃たれて殺されることを怖がりそのまま捕まる。仲間を売ると減刑されるとする誘いには乗らなかったが、結局逃げた仲間は残された妻に十分に金を渡さなかったと見えて、妻は貧困のため娘二人を残して自殺したことを知る。そうして初めて仲間を検察に売って、仮出所を果たすことになる。そうして娘二人と、以前その世話をしてくれた妻の友人と結婚して暮らすことにする。ところが昔の仲間を追って殺そうとするギャングの対決が避けられない事態になり、あえてギャングと関係を保ちながら自分はどうするのか、という問題に巻き込まれていくのだった。
 お話には、仲間同士の裏切りあいのある悪い人たちの物語という基調があるのだが、実はこれは実話をもとにしているらしく、最初に仲間側だと思われていた弁護士も、悪人であってギャングとつながっていたという話でもある。強盗をした男は悪人だが、しかし物語の性質上、これらの複雑な関係の下にギャングを捕まえるために奔走する人間となる。つまり正義側に着くということになるのか。しかしながらよく考えてみるとどっちもどっちで、もともとの妻が自殺したのはかわいそうだが、出所後すぐに結婚して娘を引き取るのもなんとなく不自然だし(しかしそれが実話ということだろうが)、自分を裏切った仲間は密告したために捕まった後に、自分はのうのうと娑婆に出て暮らせるのである。アメリカ社会は悪人や裏切り者にやさしい社会なのだろうか、と勘繰りたくもなるのである。
 まあしかし、これが古典的な娯楽作と言われるものであり、当時の社会の人は、これらの実話をもとにした複雑な裏切り劇を楽しんだのだろう。娯楽というのは世の流れとともに変わる。先に紹介した残酷さの度合いの衝撃度が、今とは異なっているように……。
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当然なら称賛も無い訳で……

2023-08-23 | net & 社会

 イクメン君と言われるような人もちらほら見るようになった。もちろん職場環境もあるようで、そのような人がいない職場もあるという。そもそも働き方として無理という事か。ところでイクメン君にそれとなく聞いてみると、素直に「怒られるから」という返答が返ってきた。なるほど、そうなのか。そういうことかもしれないですね、確かに。
 妙に納得はしたものの、内容としては基本的に分業制で、曜日を決めて保育園に迎えに行くとか、そういう時は彼が先に帰るので、夕飯を作る、ということのようだ。簡単なものは作るが、お惣菜を買う場合もあるという。夕飯の用意ができればいいというかんじなのか。お子さんの風呂入れはだいたい役目で、そのあと寝かしつけるなどは奥さんの方が多い(ということは、することもあるということか)という。最初は出来なかったらしいが、二人目の時に育休を数週間とって、その時にだいぶ覚えたのだそうだ。これも奥さんと話し合ってのことのようだ。奥さんも働いているので、一人では限界が来たのだということだろう。それにしても聞いているだけで偉いものだな、と素直に感じるが、それでもまだ不十分なのは分かっているので、奥さんの不満は無くなっていないはずだそうだ。
 若い人というのは、やはり実にえらいな、と思いながら、そういうイクメン君の話を聞いたのだが、ある時雑誌の記事で、イクメン君がちょっとした家事をするだけでもてはやされ、一般的な妻が圧倒的な家事の負担をしていても、おおかたの人は無視をしている、というのを読んだ。なるほど、確かにそうだな。僕は素直にイクメン君スゴイと感じたが、そういう感覚は、頑張っている女性を少なからず傷つけることでもあるかもしれない。なかなかに難しいが、こういう感覚が残っている中での、過渡期としてのイクメンもてはやしは、やはり少数者としての無理解の上での称賛に過ぎないのかもしれない。イクメンも、もっとすごいイクメン、例えばキャラ弁などの特殊な方向に行ってこそのものが正解なのだろう。
 そんなことがあってSNSを眺めていると、僕は世代が違うので多くは無いけれど、検索するとやはりイクメン自慢は出てくるようだ。料理は結構あって、これは得意不得意もありそうだけど、お弁当作りなんてものも結構ある。お弁当を作ったことが無いことと、毎日ということを考えると、やっぱりすごい人もいるものである。でもまあ、イクメン自慢のものの多くに、奥さんの影が薄い感じもなんとなくあって、これはモチベーションでやっている可能性はあるものの、そういう意見も是非聞いてみたい気もした。相方が面白くない、と思っている可能性もあるし、うまくノセている可能性もある。いや、そういう見方はうがったものなのだろうか。
 子育ては女性だけが担うのが当たり前でないというのは、倫理的には当然のことだけれど、その理屈で分かっている当たり前は、現実にはかなりというか程遠い理想であり続けている。打破するその為には、当たり前のイクメンを育てていくよりないとも思う。しかしイクメン称賛は、ある意味では今の時点で問題も含んでいるかもしれない。それは必ずしも育児を当然としている今の女性の負担を(とくに精神的なもの)、軽くするものではないかもしれないからだ。それは冷めた視線でもダメそうで、しかし頑張れ応援も必要ではあるのである。ジレンマに陥ると何もできない。さらにもう自分は孫にしか可能性を見出せない(いないけど)。期待もされていないかもしれない。ペットの面倒を見るくらいしか、模範的なことはできないのかもしれない。
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強い思いからは逃れることができない   別れる決心

2023-08-22 | 映画

別れる決心/パク・チャヌク監督

 なんだこれは? という作品ではある。崖から転落した男の妻は中国人で、韓国語が多少不自由なところがあるのだが、言葉の使い方が、何か不自然に引っかかるものがある。そうして夫の死に対しても、小さな笑いが見られ、奇妙である。張り込みを始め容疑者として調査するが、アリバイもしっかりしており、一時は立証を断念するのだったが……。
 カメラアングルが意外なところから意外な方向に錯綜して、混乱させられる。いや、それはそれで説明的なのだが、死者の眼球の中から外を見るなど、ありえないものが見られるのである。気持ち悪さで、何かとても動揺させられるのだが、これが観進めていくうちに、なんとなく快感のようなものへ変わっていく。まさにパク・チャヌク監督作品へ、傾倒していく自分がいる。何か凄いものを観ている。そういうわくわくする思いと、やはりよく分からなくて混乱してしまう自分自身の洞察力の無さに、困惑しながら観続けている。これは観ている通りに、話が進んでいないかもしれない。何か隠されていて、そうして暗示もあり、それが狙いでもあるのだろう。
 物語は、もう一つの殺人へと進んでいく。またしても夫が死んだ中国人のあの女なのである。そうしてこの夫を殺した犯人が捕まる。きわめて疑わしい妻は、またしても容疑者では無かったのだろうか……。
 正直に言って、僕自身はよく分からないことだらけだったのだが、それも含めて、やはり面白さに引き込まれてしまった。何か変でありながら、それがどうしてなのか、わかる気もする。それは禁断の愛の所為であって、それにまつわる殺人の所為である。一定の謎解きの内容は明かされる。しかしこれは、本当に誰かが罰せられることなのだろうか。踏み外しているはずなのに、その外れた軌道が異常すぎて、もう元には戻ることができない。それは分かっているが、その先にはいったい何が待っているというのだろうか。
 もちろんこれは、映画自体が仕掛けている罠のようなものである。主人公も観客も、同じような罠にはめられてしまう。こういう終わり方でいいはずはない。しかしもう元に戻りようが無いのである。
 いやはや、これはもう妙なものを観た方が悪いのである。こういう監督さんがいる限り、僕らは映画から離れることができない。それも含めて宿命だったのだろうか。
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すぐに買い替えを考えてはならない

2023-08-21 | 掲示板

 テレビのリモコンの調子がおかしくなった。正確にはレコーダーのリモコンであった。チャンネルは変えられはするが、何か動作が遅い。録画したものを選択するのに、画面が早く動かない。また新たに録画する番組を検索するのにスクロールが途中で止まったりする。何の不具合かよく分からないので、電源スイッチを長押ししてみたり(再起動のつもりで)元栓のコンセントを切って30秒くらい放置してみたりする。それでも動きの鈍さは改善されなくて、何か故障でもしたのかと考えた。
 ネットでリモコンを検索してみると、同じ機種のものは4000円ほどする。正規のものではなくて、ひょっとすると汎用性のありそうなものでも、やはり3000円はする。送料は別だし、そんなに値段は違わないかもしれない。
 ネットでそういう不具合のことを検索すると、やはり再起動だとか、これまで僕がやったようなことが書いてある。やっぱり買い替え時期なのだろうか。
 さらに検索すると、個人のブログで、あんがい電池ではないか、というのを見つけた。「電池?」と思ったが、僕が探しても単4が家のどこにあるのか、よく知らない。つれあいに聞いて、やっと2本探し出す。そうして取り替えたら、すらすら動くではないか。どうして電池だと思いつかなかったのだろう。最初に疑うべきは、電池だったはずではないか。危うくリモコンを二つにするところだった。4000円も使って。
 そうしてふとテレビのリモコンでネットフリックスを観ようとしたら、こちらも電源が不足と出た。やはり同じ時期くらいに替え時なのだろう。これはつれあいがちょうど買い物で買って来てくれて、事なきを得た。調子が悪いときは、電池を疑え。携帯やパソコンみたいにバッテリーの残量がわかるといいのにな。

 朝起きて腕時計をはめると、時計のカレンダーが2000年の一月になっている。どうしてリセットされたのだろうか。まあこれも古くなってきたからな。
 そう思っていたら,翌日もさらに翌日も……。まあ、時計を合わせることくらいは、僕にもできる。なんとなく朝の習慣のように思えて、毎日やっていたのだが、とうとう日中ふと時間を見ると、そのたびにリセットされるようになった。腕時計の電池の残量は少なくなると表示されるようになっているのだが、リセットされると残量表示は特に出てはいない。とうとう寿命かとも思ったが、いやまて、これもコインを出して開けてみて、電池交換をやってみた。なんて事は無い、それで翌朝はリセットされずに動くようになった。これまでは電池が切れそうになって、リセットされていたのだろう。まったく新しく買わなくてよかった。まあ、これはプレゼントでもらったものだし、まだ使えてさらに良かったのであった。調子が悪くなれば、まず疑うべきは、やはり電池なのであった。
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イタリア人の感情は激しい   シチリアーノ 裏切りの美学

2023-08-20 | 映画

シチリアーノ 裏切りの美学/マルコ・ベロッキオ監督

 1980年当時のシチリアは、世界の麻薬の取引の中心地であったとされる。そういう中でマフィアの激しい抗争があり、一方の組織の大物ブシェッタは危険を感知し家族とともにブラジルに身を隠した。ところがイタリア内では激しい抗争の末に死者が続出し、仲間の多くは殺されてしまう。ブシェッタは偽名で優雅な暮らしをしていたのだが、ブラジルの警察に捕まり、激しい拷問を受けたうえで強制送還されてしまう。途中自殺未遂などをするが助かり、ブシェッタは過去の麻薬に関わる人間の告発をする決意を固めるのだった。
 ほとんどは法廷劇であるが、これが何だか変わっているのである。イタリアの法廷がこういう感じなのだろうが、受刑者がそのまま檻のある柵の向こうから法廷に参加している。そうしていちいち野次をくわえて怒られるのである。そうして証言者同士が証言で戦いあったりもする。それも暴言を交えながら。ちょっと信じられない光景でありながら、こういう裁判なら、それなりに面白いのは確かである。
 ブシェッタは麻薬取引についてはかつては中心人物だったようで、それらの事情に精通している。おそらく司法取引をしていて、証言後は米国で隠遁生活をすることになる。収入が無いので奥さんの働きで暮らすことになるが、その地でもおびえて生活している様子だ。イタリアのマフィアは、命を取る復讐をする伝統があるのだろう。まあ、どこのヤクザもそうかもしれないが、特に復讐のためなら自分が死んででも相手を殺す美学のようなものがあるのかもしれない。それを守れなかったブシェッタには、裏切るなりの道理を持ちながら、行動していたという話なのかもしれない。
 よく分からない面はあるが、ある意味では復讐劇だし、イタリアのマフィアというのが、捕まりながらも自由にしながら、さまざまな場面で活躍している様子も分かる。いまだにそうなのかは知りようが無いが、なるほどアメリカ映画でもイタリア系は恐ろしかったし、こういう伝統は、あんがい続いているのかもしれない。
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みんなための公園の消失

2023-08-19 | net & 社会

 公園が使えないのだという。どういうことかというと、禁止事項が多すぎるためだ。広い公園で遊歩道も整備されている。そこで子供がスケボーを持っていくと、知らない人が駆けてきて「駄目だ駄目だ」と叱られる。人もまばらだし危険では無いが、禁止ならある程度は仕方がない。ところがこのまちにある公園のすべてで、スケボーはそもそも禁止であるそうだ。スケボーするなら自宅の駐車場などでやるしかないのだろうか。基本的にはスケボーをしてもいいところへ、親に車に乗せてもらって隣町など遠くまで行くほか無いという。
 禁止になったのは近所から苦情があるからだという。町内会長さんのような人がコメントしていたが、スケボーの音は、関係ない人にとってはうるさくて仕方ないのだそうだ。公園を利用する他の人の危険の為ですらなかったのか……。
 近頃の行政の設置している公園の多くは、ボール投げなども禁止しているところが多いらしい。小さい子供と柔らかいボールを投げ合っていると叱られるという。これも危険というより、何かあると困るということか。
 他にもベンチで長く座るのが禁止だとか、妙なものも多い。不審な人を警戒しているのかもしれない。ホームレスにも来てほしくない、ということか。
 住宅街の近くにある公園は、事実上閑散としている。利用している人が稀なのは、禁止事項が多くて子供が遊べないからである。遊具は危険なので使用禁止のテープが張り巡らされている。動くものを子供が利用して、怪我をすることがあるためだという。ある程度は、とも思わないでは無いが、そもそもブランコなども、利用の仕方を少しでも守らないのなら、基本禁止なのだ。年齢制限もあるので、大人は最初からNGである。
 そもそも公園が多く作られるようになったのは、高度成長期に子供が道路で遊んで事故に巻き込まれるケースが多く、なんとかならないか、というところからスタートしたとされる。道路でしか遊ぶ場所が無いのだから、せめて公園を作ろうということだったのだ。そうして子供が遊ぶようになると、そこでも怪我をするので禁止が増えていった。公園で遊ぶ子供さえもいなくなってしまったのだ。
 ただし、地域住人が公園を大切に扱い、禁止事項のほとんど無いところも存在する。地域住民は公園でバーベキューをして、地域行事をして、清掃を行う。ここを使う人には、特に禁止事項が無い。それは自分たちが利用するための場所だからだ。
 自分のための公園が無い。それは自分たちの公園ですらない、ということなのだろう。行政の管理する公園は、だから一般の人のためのものではないらしいのであった。
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恋はすれ違うからこそ……   アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド

2023-08-18 | 映画

アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド/マリア・シュラーダー監督

 その人をしあわせにするためだけに作られた(プログラムされた)アンドロイドの体験をすることになった女性研究者だったが、実はそういう実験に参加させられているだけで、本当に乗り気じゃない。アンドロイドに対しても偏見が多くあって、まったく信用してもいない。さらに一般的な女性の望む男性像に失望もしていて、このボブというなかなかいい感じのアンドロイドに対して、嫌悪さえ抱いていたかもしれない。しかし共に過ごす時間が増えるにしたがって、リアルな人間関係も相まって、いろいろと考えることになっていくのだった。
 この女性にあったアンドロイドの男のボブは、ちょっと風変わりなところが無いでは無いが、献身的でユーモアがあり忍耐強いいい男なのである。あえてアンドロイドだと人に伝えない限り、まずアンドロイドであることさえ分からない。思考の単純さのようなものがあって、あえてそういう感じでアンドロイドらしさを演出しているけれど、おそらく世界のコンピュータとも連動しており、知能としてもはるかに人間を凌駕している。事実研究者の女性が3年にも渡ってチームを組んで取り組んでいる論文が、既に他国の研究者によって発表されたばかりだ、という情報を瞬時に教えてくれるのである。その為に女性は激しく動揺するが、そういう中でボブは八つ当たりを受けながらも、静かに耐え忍んで、しかし小さな抵抗はする。
 相手は確かにアンドロイドである。しかしこれは、やはり恋愛なのである。相手のことをわかろうと努力はするものの、どうしてもすれ違うものがある。時にはそれが大きな喧嘩にもなる。そうしたすれ違いを埋めるものは何なのか。それはお互いに過ごした過去の時間のその記憶と、そのことを今どう考えるのか、ということなのかもしれない。
 考えてみるとそれなりに恐ろしさも感じるのだけれど、今や純愛なんて、相手がアンドロイドだからこそできるような時代に、人によってはなるのかもしれない。そうしておそらく人間としては、その方がずっと充実した幸福な時間が、増えるはずなのである。コメディだが、そういうあたりまで考えさせてくれる良作であろう。
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もう日本人は欲しくもない

2023-08-17 | 境界線

 僕らの業界は人手不足で長年苦しんでいる。要因は複雑でいろいろあるわけだが、国との関係もあり、抜本的な打開策はおそらく数十年望めそうにはない。はっきり言って不可能な中で苦しんでいる訳で、どうしたらいいのかという明確な解は僕らの側にはなくて、そのうえでの話で頑張っているというのである。むなしい。
 という事で、もうふつうに求人してもらちがあかん、ということなんである。実はウチは何とかなってはいるが、よそではもっと深刻なんである。
 それで、外国人人材を採用している事業所が増えているのである。この問題の根本にある日本政府の外国人(主にアジアであるが)に対する差別的な対応については、一旦置いておいて話を進めなければならないわけだが、実際にはかなりの競争の中にあってなんとかそれでも日本に来てくれる人材が、まだまだ外国にはあるようで、かなりのハードルをクリアしながらも日本に来てもいいという方々を、何とか取り込んで事業継承のためにやりくりをしようというところが増えてきている、という事なのであった。
 そうして一息ついでいる中にあって、一番の問題である言葉の壁をやりくりしながらでも働いてもらっている事業所が増えてくる中にあって、当初の心配とは別の問題が出てきている、という話なのである。これもいろいろ端折らなければならないことを了解してもらったうえでの話なのだが、人事担当者の本音として、まだ足りない募集をするうえで、本当に次に求める欲しい人材という事になると、できれば外国人のほうが望ましい、というのである。
 日本人が来てくれないから、最初は仕方なく模索する中で外国人というフロンティアに手を伸ばした業界であったけれど、ふたを開けてみると、そちらの方がそもそも魅力的な戦力であったことが判明した、という事なのである。働いてくれる人というのは、できれば優秀な人のほうがいい。平たく言えばそういうことで、そういう本音としての人材は、すでに外国人のほうが魅力的なのである。
 まあ、結論を言ってしまうとそういう事で、ではどうしたらいいのでしょうか。
 世のなかはAIについてもいろいろ議論かまびすしいところもあるんだけど、経営陣は、人間よりAIの方に期待していることは間違いなかろうと思う。簡単な比較はできないにしろ、いろいろ言う前に、日本人の価値というのはそもそも下がっているのである。その中でどうするのか、という事なのであって、考えるべき人々は、いったい誰なんでしょうね。という話なのでした。困っているところに勝機があるので、とりあえずそんなところでお願いします。
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