カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

局の宣伝ではありませんが…

2014-09-26 | 時事

 自分の住んでいるまちの首長選挙を控えて、立候補予定者による公開討論会が行われた。僕が以前所属していた団体と、その頃から懇意にしている友人がこれとのかかわりが強かった関係で、個人的には結構なじみ深い取り組みなのである。そういうこともあるので少しひいき目のある感想かもしれないが、やはり結論から言うと、こういう感じで候補者どうしの話を聞く機会が絶対的に必要だということが、改めてよくわかった。願わくば選挙権のある人間には、あまねくこの機会が目にふれられることが望ましいことは言うまでもない。ローカルだがケーブルテレビでも繰り返し放映がある(ローカル局の意義は大きい)。行けなかった人は、必見といっていいと思う。もちろん内容にはまだまだ精査されるべき余地はあろうとは思うけれど、現時点では候補者選びや比較検討には、最良の判断材料になろう。
 少し前に選挙カー(街宣車)のことをブログに書いて揶揄したのだが、これは日本やアジア的な風物詩のようなものという側面はあるにせよ、やはりこれに同じように疑問を持つ人が一定数いることもよくわかった。別段欧米通ではないが、彼らの文化としてキャンペーン活動や判断材料に、この公開討論やディベートということがあるようだ。あちらでは基本的に選挙というものが徹底した戸別訪問合戦が中心ということはあるが、それ以外の最大の判断材料として、テレビなどによる公開討論が雌雄を決するということが一般的であるらしい。地方議員すべてがそうなのかまでは知らないが、特に首長選挙には、これの影響力が一番大きいとされているとも聞く。当然だと思うし、まさにそれこそが健全で公平とみるべきかもしれない。個別の講演会に足を運んで見比べるよりも、経済的かつ合理的である。もちろん本当に個別に詳しく内容を精査したり対話したりするためには、個人講演会などの方に分があることは間違いなかろうけれど。
 僕自身の個人的な希望する政策とは異なることが多いものであっても、それでも候補者本人が語る政策の内容を知ることは意義深いものがある。たとえば僕は中学生の給食には(それが小学生であっても)ずっと前から反対の立場だけれど、そういう候補者は存在しない。だからと言ってこの問題をもとに支持をしないということにはならない(もう僕には対象となる子供もいないし、手遅れだ)。実施することは既定路線だけれど、おそらく誰がやるかには少しばかり違いが出そうということもある。いや、その考え方自体を知ることの方に意味があるということかもしれない。問題の多い課題だが、世論受けしやすい題材だからこれを実施する自治体が多いのである。さらにそれで墓穴を掘っている自治体が多いのも間違いがないが、それでもこの考えを進める意味は何か。そういうことが政治家が政策を語る意味となろう。
 僕は政治家になりたい人の心持はちっとも理解ができないが、難しい問題に取り組んでみようという考え方には理解できるものがある。そういう人がいなければ、難しい問題はどうにも動かないだけのことだ。政治的空白のある問題は、すべて政治家が放置している(世論が怖いから)問題である。僕はそういうことの意味には、語る内容の説得であるとか世論の正確な反応であるとかの、政治家個人の生身の感覚から生まれているモノであろうと思っている。選ぶ人間が政治家のレベルを決めているということは、そういう意味だろう。だからこそ討論会というのは、選ぶ人間に必要なだけの機会ではなく、選ばれる人間のための機会でもあるわけだ。口下手な人が政治家になれないということにはなってしまうが、それは訓練していただくよりないだろう。
 繰り返すが、見逃した人は機会を見つけてみるべきことである。それは自分自身への責任問題でもあるだろう。
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