カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

歴史はやはり変え得ないものなのか

2014-09-24 | 境界線

 先日観た映画では「桜田門外の変」を題材にした物語だった。映画自体はフィクションだったが、その襲撃事件の模様が、それなりの解釈で再現されているというのも見所だった。
 当日は雪であるとか雪に時折雨の混じる天気であったとされる。もともと不穏なうわさもあったし、その朝には襲撃の予告というか注意の知らせもあったという。当然最大限注意すべきところであることは間違いなく、緊張を強いられていたことも間違いなかったろう。当日はいわゆる雛祭りで、在府の諸侯は皆登城することになっていた。控えることもできないではなかったかもしれないが、井伊直弼の立場上よっぽどでなければ、と考えたとも描かれてはいた。また警備において増強すべきかもということに、あえてそのままにしたとされる。
 問題はこの悪天候の中、皆雨合羽をした上に、刀にも袋をかけて雪から防護したなりをしていたようだ。襲撃に備えているにもかかわらず、天候を考慮して、身なりや武器も守る服装だったということだ。
 そういう時に直訴を装った者が行列の動きを封じた。この時に直弼は直訴を受けると言ったので、籠守の志村は直訴状を受け取りに行く。この時すぐに切り込まれ、あわてて刀を抜こうとするが、袋をかけたままなので刀を抜けない。そのまま隊列は乱され、さらに数名切られる。襲撃者の援軍が乱れ襲い掛かり、あっという間に大勢はばらばらになってしまう。先鋒に長槍を奪われたの見て、志村はその者を追う。やっと短刀を抜くことができ、追いつきやり合うが、その間に殿が討ち取られたとの叫びを聞き、あわてて戻るが時すでに遅かった。という描き方だった。
 映画なのでそれはそれでいい。
 実際には、というかそういうことを紐解いたものを読むと、直訴を装った者がいきなり切りかかり隊列が乱されたのはそうだったようだが、さらに合図の鉄砲が籠めがけて放たれたようだ。そういう中で切り込まれ、井伊直弼は籠の中ですでに鉄砲の弾で負傷していたという。居合もできたはずだが、この負傷で動けなかったとみられる。さらに籠を刀で刺され、籠から引きずり出されて首まで取られたという。しかし首を取った襲撃者の有村も負傷し、遁走する中歩行困難になり、近江三上藩の遠藤家の門前で自決した。そのために直弼の首は遠藤家が一時保管したが、いろいろあって井伊家に戻され、首を胴に縫い合わされたのち、負傷したとして取り繕ったという。もちろんしかし目撃者も多く、体面上の取り繕いであることは見え見えであったことだろう。さらに襲撃した者たちはその後自決したり切腹したり斬首されたりした。警護の者もすべて生き残りも切腹斬首され、後になって家名断絶となり、その処分は親族にまで及んだという。その後の経緯は皆知るところであろう。なお、襲撃者は後に靖国神社に合祀されている。
 井伊直弼側の彦根藩は、この時足軽や籠持ちも含めて60名。襲撃者たちは18名だったことからも、これは明らかな彦根側の警備のミスといっていい結果だろう。しかしながら実のところ、江戸市中で大名籠が襲われた前例というものは無かったようで、悪天候の雨合羽姿というのも、襲撃者側に味方した状況だったといえるだろう。また、襲撃者側は鉄砲も持っていたのだ。井伊直弼襲撃の社会的気運の高まりは承知しておきながら、実際のテロが起こりうると、本当には読み切れていなかった実情がうかがわれる。そのまま幕府が倒れるまでの流れを決定づける事件、またはその端緒となった事件とされるのは、ここで堰が切れたように時代が動いたせいである。奇しくも歴史は、襲撃側の与する思惑とは逆の流れになったわけだが、テロによって時代が変わったことは間違いがない。この事件を防げ得たかどうかは分からないが、様々な偶然が事件を成功させたことは間違いがなく、また、今となっては備えることの教訓としても、生きていない話かもしれない。
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