カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

飛行機に乗って死を思う

2014-09-09 | HORROR

 慣れもあるんだが、いまだに飛行機が怖くないわけではない。怖くないふりをしているだけである。まあ、僕は怖がりだからそれで普通だけど、冷静そうにしている周りの人だって、平静を装っているだけだとひそかに疑っている。もちろん平気な人もいるだろう。しかし必死で平気そうにしている人が必ずいると考える。そうすると逆に自分が落ち着いたりする。大丈夫だよ、僕だって一緒だ。そういう気分が、やっと自分を落ちつかせる。
 何度も怖い経験もしている。もちろんそれは個人的にである。ひょっとしてこのまま僕は死ぬのかもしれない。勝手な想像に苦しめられる。手に汗というが、本当に手のひらが汗でじっとりしてくる。そうして無言でじっと堪えている。危機が去ったように思って回りを見回すと、僕を見てほっとするような顔をする人がいる。たぶん大丈夫だといってくれているのではないか。僕のオーラが周りを苦しめたのなら申し訳なかったな、と思ったりする。しかし、この恐ろしさというのは、やはり簡単に克服できない。
 矛盾するようだが、飛行機から見える風景は好きである。雲だけでも美しい。もちろんそれだけで飽きるということはあるんだけれど、雲海だってわざわざ観光名所になっているところだってあるくらいだ。雲の上を飛んでいるという気分は、そんなに悪いものではない。これは安心しているから楽しめるもので、やはり不安なら違って見えるだろう。ゆれる原因というのは分かっているが、多少酷いと機体が持たないのではないか、などと考える。要するに状況に応じて勝手に想像してしまうからいけないのだろう。考えるな、と考えると、余計に考える方向に考えが及ぶ。じゃあどんどん考えてみようと思うとやはり考える。どちらも一緒なら考えるのは仕方がない。
 ところで、この怖がっている自分を考えるというのはそれなりに効果があるらしい。今自分は不安で怖がっている。あたかも他人のように自分の姿を考える。これが実は落ち着く近道なのだという。なるほど僕は強烈に怖がりだが、しかしその怖がっている自分を考えているうちにそれなりに落ち着くということはあるようだ。最後は死ぬんだろうけど、死ぬって言うのはテレビの画面がガーッとなるようなものじゃないかな、と思ったりする。せっかく落ちるんなら派手に爆発して、肉体もろとも滅んでしまいたい。そういう一瞬というのは、痛みがあるんだろうか。そう思うと、かえって落ち着くのだ。自分でも不思議だが、もう先が無いのなら考えても仕方がない。その先は考えようが無いから、やっと諦めるのかもしれない。いや、死にたくないから諦めきれない自分も居る。しかし諦めきれなくても自分は終わるわけだ。どのような遣り残したことがあろうとも、今更どうしようもない。自分でどうにも出来ないことは、残ったものが考えるより無い。
 今からやりたいことの多かった若い頃の方が、やはり死に対する恐怖が大きかった。いや、今でもやりたいことがないではないが、どのみちあと20年もしたら、僕は死んでしまうだろう。もう少し生きたりもう少し短い可能性もあるが、一族の死期と比較しても、そうそうハズレはしないだろう。20年という時間は経験があるので、長いようで居てそうでもなさそうだ。それが今突然に訪れるとして、まあ、たいした違いじゃないかもしれない。それでもやっぱり欲はあって、死にたいわけではない。そもそも死の準備なんてどんなことをしたらいいのか分からない。それじゃあ突然の死が、そんなに悪いわけではないだろう。
 しかしながら、それなりに生き延びて飛行機は滑走路に降り立ち、毎回何とか生還する。今後はどうだか知らないが、死を思うことは時には悪いことではないとも思う。まだまだ怖いということは、僕にも欲があるということなんだろう。それを喜ぶべきか悲しむべきか、それだけはまだよく分かっては居ない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする