カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

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日本人が普通に生きることの困難。被差別国民の生き方を考える   鯨とイルカの文化政治学

2014-09-07 | 読書

鯨とイルカの文化政治学/三浦淳著(洋泉社)

 先に申し上げておくと、僕は一種の鯨ファンである。鯨の泳ぐ映像は大好きだし、そのようなドキュメンタリーをそれなりに好んでたくさん見てきた。イルカのショーも楽しく見るし、海のトリトンも楽しく見たクチである。鯨がシャチに襲われて死ぬのは痛ましく思われるし、海岸で集団自殺をしてしまう(実際は何かの勘違いというか、錯覚による感覚の狂いのようなものらしいが)のも衝撃をうける。そうしてそうでありながら九州という土地に生まれ育った環境もあろうが、鯨の肉も大好物だ。いまや高価なご馳走であるが、食べることに何の戸惑いも持っていない。
 要するに、特に鯨に対して、そんなに偏見の無い人間なんだろうと思う。文化としての鯨の歴史に敬意を覚えるし、あえて言うとそのような感覚を持っている文化圏に暮らしている誇らしささえ持っているかもしれない。命を大切にして文化的に食するという体験を人間として出来ているということに、自然観としての到達点さえ見出してしまう。
 この本を手にとった理由もそうだが、しかし事捕鯨問題に関しては、口惜しいというか、どうにも納得のいかない文化摩擦に、精神的に苦しめられているといっていい。西洋人の偏見の前に、あまりに敗戦国の日本の立場は苦しいものに見える。さらにいわゆる大雑把に国際社会というものへの信用さえ失いかけているともいえる。世界というのは、なんという未熟で暴力的な醜い現実を持っているのだろうか。人間が生きていく基本的な尊厳を傷つけてまで、遅れた文明に支配され迫害を受けている図式に、前近代的な悪意がいまだに世界を支配していることに唖然としている、ということである。ユダヤ人が虐殺された原因は、このような文明の無知にあっただろうことも想像が及ぶくらいだ。彼らは自分らと遠い共感の無さに対しては、実に攻撃的に無自覚なのだ。
 しかしそれが何故かと言うのは漠然としか分からなかった。単に知能が足りない所為だとも考えられるが、それは完全には外れては居ないだろうけれど、もう少し根深いものはありそうだ。実際には単純に偏見や差別意識であることは分かったが、そういう風に考えてしまう人間の癖のようなものは、日本人にも伝播して持っているということも理解できた。人間の持っている暴力性というものは、無自覚に恐ろしいものだったのだ。
 日本の商業捕鯨が認められない背景は、そのような西洋的な未熟さもさることながら、基本的にはいまだに根本にある人種差別であり、都市生活者の陥りやすい非論理とご都合主義に見出すことが出来るようだ。その論拠を丁寧に読み解くことによりあぶりだされる真実というのは、限りなく絶望的に醜いものだ。そうしてそのことに彼ら本人は微塵も自覚さえしていないばかりか、そのきっかけさえ掴むことが出来ないのである。
 反捕鯨を肯定することは、そのような危険思想を自分の中に内包している無自覚にありそうだ。少し考えさえすれば、そのようなおかしな考えはそれなりに疑問に持つ方が自然だと思われるが、疑問さえ浮ばない背景には、やはり根深い差別意識が文化的に根付いていることの証左といえるかもしれない。自分の都合以外は聴く耳さえ持たない文化と対峙して生きていかざるを得ない国際社会の中の日本ということを考える上で、もっと広く読まれるべきものだろう。
 また末尾の方で少し紹介されているが、若い日本人が反捕鯨国へ留学なり体験なりで行く機会はそれなりにあるものだと思う。しかしながらそういう場面では、否応無く日本人はこのような差別的な扱いを受ける危険があるということも考慮していくことが必要になっていくだろう。堂々と差別していいというシグナルとして鯨が存在しているわけではないが、極めて危ういバランスの上に、日本人が立たされていることになろうかとも危惧される。言葉の壁と偏見の前に、さらに卑屈になって帰ってくる若者はどのような日本人観を持つにいたるだろうか。そういう意味で鯨問題というのは、多くの日本人がそれなりに知識として備えておく必要のあるリテラリーになりうる問題のようにも思える。歴史や文化に無知である日本人は、生きていくのに大変に難しい立場にあることに、いまだに無自覚すぎるのではないだろうか。
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