カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ものまねこそ尊い学びの姿勢だ

2014-09-16 | culture

 日本人には発想力が無く、物まねが上手いだけだ、というのはずいぶん昔からある西洋人の偏見ではある。もとにある差別意識と、後から日本の工業製品にしてやられた経験がそのような認識を固めているのだろうとは考えられる。だいぶ言われなくなっていると勘違いしている人もいるかもしれないが、これはいまだに言われ続けている現実のようだ。ドイツのBMW社の人間などは、平気でそのような差別発言をして日本車を牽制している。彼らに言わせると、日本車というのは彼らの作ったものを上手にコピーしたものに過ぎないらしい。
 まあ、それは偏見だからそれでいいのだけど(事実じゃ無いわけだし、間違っている考えのしっぺ返しは自分が被ることになるだろう)、しかしこれはまねることに対する考え方の偏見がそもそもある所為だという感じもある。個人の自由に対する偏見もあわせて、まねるということにある種の窮屈さを感じているらしいことも考えられる。それは現代の日本人であっても同じことで、オリジナリティに対する古きよき考え方への理解が薄れているのではなかろうか。
 そもそも日本を始め東洋的な学びの姿勢には、師匠や先生を手本にして真似るという基本形がある。徹底的に言うとおりにして、そうして盗むように技を真似て、まったく同じようなものが出来るように努力をする。そうして極限まで似せた後に、師匠とは違った同じようなものが出来上がると、そこに個性を見出すことが出来るわけだ。そもそも人間が違うのだから同じもにはなりえない。ひょっとすると、そうして試行錯誤して究極まで真似られたものだからこそ、そのオリジナルを土台として、さらに優れた段階に到達する場合も出てくるのではあるまいか。そうして生まれたものの強さこそが、本当の個性というべきものではないのだろうか。
 最初から好き勝手に誰もがオンリーワンでは(それは目指してない人には楽な生き方だろうけれど)、人々を惹きつけるようなオリジナリティのあるものは生まれないのではないか。
 実はそういうことは、文化の東西を問わず一流の人達は皆分かっていることではあるようだ。かのダヴィンチでさえ、(オリジナルにこだわるせいで)人の良いものをまねる事を躊躇するな、と言っていたようだ。出来ない人ほど我流で通そうとして、変なことを言うのではなかろうか。もしくはひょっとすると、そのようにして他の追従を排除してしまおうという思惑があるのだろうか。それはそれで賢いのか愚かなのか良くわからん問題である。少なくとも自分でいいと思うのならば、やはり物まねといわれようとなんといわれようと、とことんまずはまねてみるということなんであろう。
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