切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

三嶋神社・・・皇室ゆかりの小神社   京都市東山区   2024.4.28 訪問

2024-05-10 23:26:55 | 撮影
 

『三嶋神社

 祭神として大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)、天津日高彦火瓊々杵尊(あまつひだかひこほのににぎのみこと)木之花咲耶姫命(このはなさくやひめ)を祀る。
 後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が皇子のないのを憂い、摂津三嶋神に祈願されたところ、霊夢に感じて後の高倉天皇をお産みになった。
後白河上皇は深く三嶋神を崇敬され、永暦元年(一一六〇年)、平重盛に命じてこの地に社殿を造営し、三嶋神を勧請したのが当社の起こりである。
 以来、皇室の尊崇厚く、安産加護を祈願された。
 今も子授けと安産の神として信仰され「鰻」の絵馬が多数奉納されている。
これは鰻が祭神の使者とされているためで、祈願中は鰻を禁食する慣わしが現在でも伝えられている。毎年秋には「うなぎ祭(鰻並びに生類放生会)」が行われ、あらゆる生物の出生、育成、放生を加護する神として崇敬されている。
  京都市   (駒札より)

『揺向石
承安四年(一一七四年)左馬頭 源義朝の子、牛若丸(源義経公)が当神社に参籠した折り夢の中に白髪の翁が現れ「汝志久しく可からず、早々に奥州に下る可し」との御神託があり、夢より覚めて再拝し翁の立ち所を見ると、石があった。
今社頭にある此の石である。
以来、「揺向石」と言われ、妊婦が当社に参拝をなし男子の授けを祈願し、此の石に手を触れ、お腹を撫でると牛若丸のような立派な男子が授かると古くより伝えられている。また江戸期の当神社境内図には、雌雄一対のご神木の間に、此の「揺向石」が祀られており、縁結び、夫婦和合などの結びの御神徳のがあると云われている。
   (説明板より)



 平安時代末期、後白河天皇は三嶋神を信仰し、平重盛に命じてこの地に摂津国にあった三嶋神を勧請した。そのいきさつから元来は、平家とのゆかりの深い神社であった。しかし 後に源義経(牛若丸)が三嶋神社に平家追討の祈願をしたという。御年社殿が消失しているがすぐに再建され現在に至っている。

 神社そのものは京都女子大学キャンパスの北側にある。極めて狭い敷地に社殿が建てられており、社務所もその横にへばりついたような形になっている。後白河天皇を筆頭に現在に至るまで皇室との縁も深く、現在においても時折天皇皇后等、皇室関係者が訪れることがある。本来ならばもう少し広い境内を有し、本殿もかなり大きなものであるような神社であるべきだろうが、大阪府枚方市、つまり当時の摂津国にあった三嶋神社を勧請したということで、当時としては後白河天皇にしても、これで十分であったのだろうと思ったのかもしれない。なお更に後白河天皇の妻である建春門院に皇子が生まれたということもあり、ますますこの神社の御神徳が上がったのだとされている。

  

 狭い境内の一角には近年、皇室関係者が訪問された時の写真が掲示されている。また一般庶民にとっても縁結びや夫婦円満の御神徳があるありがたい神社とされ、平日においても結構人が訪れている。私が撮影のためにこの場にいた間にも、何名かの女性が訪れ参拝をしていた。やはり子授けということも含め、そういった願いが叶うであろうことを期待しての参拝だったんだろうと思われる。

 
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