いわゆる「A級戦犯」の合祀の経緯について補足し、合祀の問題について私見を述べたい。
昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられた。当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。決定は全会一致だった。
当時の国会が東京裁判で刑死した者を「法務死者」と見なしたことは、法的に正しい。敗戦後、昭和27年4月28日に独立を回復するまで、わが国は連合国と戦争状態にあった。戦闘は停止したが、国際法上にいう戦争は継続していた。
東京裁判は戦争状態において行なわれた軍事裁判である。それゆえ、この裁判で処刑された者は、戦争状態において、連合国によって生命を奪われた者である。彼らの死を、戦争による公務死としたことは、主権独立国家として正当な決定である。「A級戦犯」も「B・C級」もこの点では変わらない。
刑死した東条英機は戦場で戦死したのではないが、戦争状態における公務死者である。松岡洋右や白鳥敏夫は、武官ではなく文官だが、公務死に軍人か否かは関係ない。戦争では看護婦や電話交換手なども多数亡くなった。その死も、戦争による公務死である。
白鳥は獄死、松岡は判決前に病死した。病死であっても、「A級戦犯容疑者」として拘留されている期間に病死したのだから、これも戦争による公務死とみなされる。
それゆえ、厚生省の提出した名簿に、元「A級戦犯」が含まれていたこと、また東条や松岡・白鳥らが含まれていたことは、国会決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものであって、妥当なのである。
「戦犯」として処刑された者のうち、B・C級だった者は靖国神社に合祀してよいが、A級だった者はだめとする法的な根拠はない。また、元「A級戦犯」のうち刑死者は合祀してよいが病死者は除くという法的根拠もない。これは、東条・松岡・白鳥らの行いへの評価とは、全く別の問題である。
私自身は、日独伊三国同盟に絶対反対、日米開戦に絶対反対という見解である。三国同盟を推進し、開戦を決めて戦争に突入した当時の指導者を厳しく批判している。万死に値すると思う。しかし、彼らの行為への批判と、彼らの合祀の問題は、厳密に別の事柄である。(註)
ここを区別できていない人が多い。それは、無意識に東京裁判史観に呪縛されているからだと思う。
次に、筑波宮司が、元「A級戦犯」である公務死亡者の合祀を先延ばしにしていたことは、どう考えるべきだろうか。
厚生省が名簿を提出し、靖国神社の総代会が合祀する方針を決めた。総代会は「合祀の時期は宮司に任せる」とし、時期については宮司の裁量に任されたわけだ。国家機関の提出した名簿を踏まえて、総代会が機関決定したことを、一個人である宮司が、いつまでも実行しないのは、組織として問題があるだろう。
厚生省の名簿提出から約12年、総代会の合祀決定から約7年、筑波宮司は合祀を実行しないまま死去した。この期間、靖国神社をめぐって重要な出来事があった。国家護持をめぐるものである。
昭和27年4月28日にわが国が独立を回復した後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。
この運動は昭和40年代には一段と活発になった。昭和45年(1970)には、わずか数ヶ月で2000万人もの国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。
しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。その後、昭和50年8月の三木首相の私人参拝の表明によって憲法問題が生じた。
筑波宮司の在任中は、国家護持運動の高揚、国会での法案審議と廃案、首相の参拝の公私問題の生起という時期だった。筑波宮司は、「B・C級よりA級は後だ」「自分の在任中は合祀しない」という考えを子息に語っていたと伝えられる。
しかし、厚生省の提出名簿は、国会の決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものである。昭和28年の国会決議は、国民の総意の表れだった。そのことをよく理解すれば、合祀の実行は、個人の心情や政治的・社会的配慮で先延ばしされるべきことではない。粛々と実行すべきであったと私は思う。
靖国神社を国家護持とするかどうかは、政治の問題であり、祭神の合祀は宗教の問題である。宗教上のことは、自律的な判断をすべきものである。それゆえ、私は、筑波宮司が事を先延ばししたことが、問題をややこしくすることになったのではないかと思う。
松平宮司は、就任するとすぐ昭和53年秋に元「A級戦犯」の合祀を実行した。役職上、当然の行為であろう。翌年4月に合祀されたことが報道された。国民の間にいろいろな意見はあったが、大きな問題にはならなかった。大平首相・鈴木首相は参拝を続けた。
大きな問題になったのは、三木以来生じた憲法上の問題を解決しようとした中曽根首相が、昭和60年に公式参拝をしたことに対し、中国政府が抗議したことによる。中国は、合祀報道からこの時まで、約6年間何も言っていなかった。
中曽根は、中国の抗議に態度を翻し、公式参拝をやめた。一国の最高指導者が、外国の内政干渉に屈したのである。首相が公式参拝をしないという状態となるや、天皇のご親拝は、ますます遠のいた。靖国ご親拝に関する憲法問題が、真に決定的な原因となった時期は、この時だと思う。
富田メモの政治利用は、このことを覆い隠すものともなる。
中曽根が首相として公式参拝を継続していれば、憲法上の問題は一応の解決に至り、天皇のご親拝はやがて再開されただろう。外国の内政干渉を許さなければ、すべての「戦争による公務死者」の合祀は国民に定着していっただろうと私は思う。それは、死者に鞭打つことをしない日本人の心情にかなっているからである。
国家における慰霊という厳粛な行為に、これ以上、外国による内政干渉を許してはならない。外国の内政干渉に、天皇のご発言だとするメモを悪用させてはならない。
註
・日独伊三国同盟・日米開戦に絶対反対については、以下の拙稿05-15をご参照のこと。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind06.htm
昭和28年8月から国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(遺族援護法)および「恩給法」の改正が重ねられた。当時の国会は、「戦犯」とされた人々を国内法上での犯罪者とはみなさないことにした。「戦犯」とされた人々の遺族も一般戦没者の遺族と同様に扱うように法規を改正した。決定は全会一致だった。
当時の国会が東京裁判で刑死した者を「法務死者」と見なしたことは、法的に正しい。敗戦後、昭和27年4月28日に独立を回復するまで、わが国は連合国と戦争状態にあった。戦闘は停止したが、国際法上にいう戦争は継続していた。
東京裁判は戦争状態において行なわれた軍事裁判である。それゆえ、この裁判で処刑された者は、戦争状態において、連合国によって生命を奪われた者である。彼らの死を、戦争による公務死としたことは、主権独立国家として正当な決定である。「A級戦犯」も「B・C級」もこの点では変わらない。
刑死した東条英機は戦場で戦死したのではないが、戦争状態における公務死者である。松岡洋右や白鳥敏夫は、武官ではなく文官だが、公務死に軍人か否かは関係ない。戦争では看護婦や電話交換手なども多数亡くなった。その死も、戦争による公務死である。
白鳥は獄死、松岡は判決前に病死した。病死であっても、「A級戦犯容疑者」として拘留されている期間に病死したのだから、これも戦争による公務死とみなされる。
それゆえ、厚生省の提出した名簿に、元「A級戦犯」が含まれていたこと、また東条や松岡・白鳥らが含まれていたことは、国会決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものであって、妥当なのである。
「戦犯」として処刑された者のうち、B・C級だった者は靖国神社に合祀してよいが、A級だった者はだめとする法的な根拠はない。また、元「A級戦犯」のうち刑死者は合祀してよいが病死者は除くという法的根拠もない。これは、東条・松岡・白鳥らの行いへの評価とは、全く別の問題である。
私自身は、日独伊三国同盟に絶対反対、日米開戦に絶対反対という見解である。三国同盟を推進し、開戦を決めて戦争に突入した当時の指導者を厳しく批判している。万死に値すると思う。しかし、彼らの行為への批判と、彼らの合祀の問題は、厳密に別の事柄である。(註)
ここを区別できていない人が多い。それは、無意識に東京裁判史観に呪縛されているからだと思う。
次に、筑波宮司が、元「A級戦犯」である公務死亡者の合祀を先延ばしにしていたことは、どう考えるべきだろうか。
厚生省が名簿を提出し、靖国神社の総代会が合祀する方針を決めた。総代会は「合祀の時期は宮司に任せる」とし、時期については宮司の裁量に任されたわけだ。国家機関の提出した名簿を踏まえて、総代会が機関決定したことを、一個人である宮司が、いつまでも実行しないのは、組織として問題があるだろう。
厚生省の名簿提出から約12年、総代会の合祀決定から約7年、筑波宮司は合祀を実行しないまま死去した。この期間、靖国神社をめぐって重要な出来事があった。国家護持をめぐるものである。
昭和27年4月28日にわが国が独立を回復した後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。
この運動は昭和40年代には一段と活発になった。昭和45年(1970)には、わずか数ヶ月で2000万人もの国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。
しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。その後、昭和50年8月の三木首相の私人参拝の表明によって憲法問題が生じた。
筑波宮司の在任中は、国家護持運動の高揚、国会での法案審議と廃案、首相の参拝の公私問題の生起という時期だった。筑波宮司は、「B・C級よりA級は後だ」「自分の在任中は合祀しない」という考えを子息に語っていたと伝えられる。
しかし、厚生省の提出名簿は、国会の決議に基づく「戦争による公務死亡者」の基準によるものである。昭和28年の国会決議は、国民の総意の表れだった。そのことをよく理解すれば、合祀の実行は、個人の心情や政治的・社会的配慮で先延ばしされるべきことではない。粛々と実行すべきであったと私は思う。
靖国神社を国家護持とするかどうかは、政治の問題であり、祭神の合祀は宗教の問題である。宗教上のことは、自律的な判断をすべきものである。それゆえ、私は、筑波宮司が事を先延ばししたことが、問題をややこしくすることになったのではないかと思う。
松平宮司は、就任するとすぐ昭和53年秋に元「A級戦犯」の合祀を実行した。役職上、当然の行為であろう。翌年4月に合祀されたことが報道された。国民の間にいろいろな意見はあったが、大きな問題にはならなかった。大平首相・鈴木首相は参拝を続けた。
大きな問題になったのは、三木以来生じた憲法上の問題を解決しようとした中曽根首相が、昭和60年に公式参拝をしたことに対し、中国政府が抗議したことによる。中国は、合祀報道からこの時まで、約6年間何も言っていなかった。
中曽根は、中国の抗議に態度を翻し、公式参拝をやめた。一国の最高指導者が、外国の内政干渉に屈したのである。首相が公式参拝をしないという状態となるや、天皇のご親拝は、ますます遠のいた。靖国ご親拝に関する憲法問題が、真に決定的な原因となった時期は、この時だと思う。
富田メモの政治利用は、このことを覆い隠すものともなる。
中曽根が首相として公式参拝を継続していれば、憲法上の問題は一応の解決に至り、天皇のご親拝はやがて再開されただろう。外国の内政干渉を許さなければ、すべての「戦争による公務死者」の合祀は国民に定着していっただろうと私は思う。それは、死者に鞭打つことをしない日本人の心情にかなっているからである。
国家における慰霊という厳粛な行為に、これ以上、外国による内政干渉を許してはならない。外国の内政干渉に、天皇のご発言だとするメモを悪用させてはならない。
註
・日独伊三国同盟・日米開戦に絶対反対については、以下の拙稿05-15をご参照のこと。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind06.htm