ほそかわ・かずひこの BLOG

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ユダヤ81~“死の商人”バーナード・バルーク

2017-07-28 09:21:29 | ユダヤ的価値観
●世界大戦と核の時代の“死の商人”バーナード・バルーク

 第1次世界大戦・第2次世界大戦から核時代に及ぶまで、米国の政治・経済で重要な役割を果たしたユダヤ人に、バーナード・バルークがいる。バルークの名には、本稿で既に数度触れたが、ここでその人物について詳しく書く。
 バルーク家は、1700年代には、ロスチャイルド家、カーン家、シフ家とともに、ドイツ・フランクフルトのゲットーにいた。彼らはこのゲットーから出発し、経済的な富や政治的な権力を手にするようになっていった。そのうちバルーク家は、ラビを生み出す家系だった。
 バーナード・バルークは1870年、米国サウスキャロライナ州に生まれた。冷徹な投資で巨額の資産を作り、ウォール街の伝説の相場師となり、「ウォール街の無冠の帝王」と呼ばれた。また、軍需産業に進出し、「兵器産業の大立者」「戦争仕掛人」といわれた。ユダヤ人社会の大物であり、ユダヤ教正統派の政治団体である「アグダス・イスラエル」代表を務めた。経済力とユダヤ人社会をバックに、政界でも実力を発揮し、20世紀前半から半ばにかけて、アメリカのユダヤ人の中で最も深く国家権力の中枢に関わった。英国の改宗ユダヤ人首相になぞらえて「米国のディズレーリ」とも呼ばれた。
 バルークは、ロスチャイルドら巨大国際金融資本家が1916年にウッドロー・ウィルソンを大統領に擁立した際、選挙資金集めで大きな役割を担った。そして、ウィルソンの側近となって、エドワード・マンデル・ハウスとともに大統領に重要な影響を与えた。
 バルークは、アメリカが第1次大戦に参戦するように暗躍し、これに成功した。アメリカ政府が、1917年7月に戦時産業局(WIB: War Industries Board)を設立するとその長官となった。戦時産業局は、企業に対し大量生産技術の導入を促進し、製品の規格標準化、生産量や資源・原料の割り当てなどを指示した。バルークは、その地位を利用して、軍事予算から莫大な利益を得た。
 大戦前、バルークの資産は100万ドルだったが、大戦後、その資産は2億ドルにもなっていた。バルークは、ヴェルサイユ講和会議に参加し、賠償委員会の委員長を務めた。委員会の提案に基づき、講和会議はドイツに法外な賠償金の支払いを求めた。
 1921年にイギリスの円卓会議に連なる外交評議会(CFR)が設立された際には、バルークはその創設メンバーの一人となった。WASPが支配する当時のアメリカにおいて、彼以外にメンバーに加わったユダヤ人には、ポール・ウォーバーグ、ジェイコブ・シフ、ウォルター・リップマンらいた。ユダヤ系と考えられるハウスもメンバーだった。
 第1次大戦後、世界は戦後の復興と技術革新により、空前の好景気を迎えた。狂乱の投機熱は、世界恐慌の要因となった。1929年にニューヨーク発の世界恐慌が起こった際、バルークは、市場が暴落する前に売り抜けて財を築いたと噂された。バルークは、鉄道王エドワード・ハリマンの投機株を一手に引き受けていた。
 エドワード・ハリマンは、ロスチャイルド家の支援を受けて、ユニオン・パシフィック鉄道及びサザン・パシフィック鉄道の経営者として財を成した。1905年日露戦争後のポーツマス条約が締結されると来日して首相の桂太郎が会談し、南満州鉄道を日米で共同経営する覚書に合意した。しかし、講和会議から戻った外相の小村寿太郎が猛反発し、覚書は破棄された。ハリマンはこれに激怒し、これを機にアメリカが日本を将来の敵国と定め、大東亜戦争に至ったという見方がある。
 バルークは、エドワード・ハリマンの死後、息子のアヴェレルとも関係を続けた。アヴェレルは実業家としてだけでなく政界でも活躍した。イェール大学系の秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーであり、また、ロスチャイルド家とのつながりを父から継承していた。
 バルークは、ウィルソン擁立以降も歴代の大統領の誕生に関わり、彼らに助言を与える立場にあり続けた。大恐慌後、バルークは、共和党のハーバード・フーヴァーに代えて、民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルトを大統領にしようとした。FDRをニューヨーク州知事に擁立した主役はバルークだった。そして、彼はさらにFDRを大統領に押し上げた。
 ユダヤ人のバルークは、WASPの名門クラブには入れなかった。そこで、ユダヤ人経営者たちを誘って、秘密結社的なクラブを作った。ハウスが加入したほか、アヴェレル・ハリマン、FDRの叔父フレデリック・デラノも参加した。クラブは、ホワイトハウスから道を隔てた公園にあり、その所在地の名から「ラファイエット・パーク」と呼ばれた。
 「ラファイエット・パーク」は「第二のホワイトハウス」と呼ばれた。バルークとハウスは、ここでルーズベルトに数々の政策の実行を迫った。財務長官でユダヤ人のヘンリー・モーゲンソーも、「ラファイエット・パーク」でバルークやハウスと相談し、大統領にメモや書類を渡してアメリカの財政を動かした。彼らは、ロスチャイルド家の意向を受けていたと考えられる。

 次回に続く。

■追記
 本項を含む拙稿「ユダヤ的価値観の超克~新文明創造のために」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-4.htm


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